土岐の鷹⑤

   五


「明智の与力衆が逝去(せいきょ)した」
 そう耳にした者は、はたして何を浮かべるだろう。
佐々川箕六(ささかわみろく)が丹波亀山の城をはなれたのは、余部城の訃報(ふほう)を受けてのものだった。
斎藤利三がやってきた年の瀬に、明智秀満の主命で惟任光秀の御目通りを果たした箕六は、越権行為と承知のうえで希求し、 その場で彼の小姓となった。
摂津有馬の三田城を攻囲した秀吉の軍師──小寺孝隆(黒田官兵衛)の叔父にあたる小寺高友との戦線確認はもとより、摂津有岡の城外で敵部隊と切り結ぶ丹波衆の召喚、近江安土城に座した織田信長の謹賀など、年末年始の書状作成を小姓頭のもとで次々と片付けていたとき、
「八上の長城を西から支えていた法光寺城の制圧見通しが立ちました」という、
堂山砦発の吉報によろこんだのも束の間、亀山西方の余部の城から届いた便りは、瞬く間に丹波の国中にひろがった。
「弟の小畠左馬進永明が、八上北部の砦に駐屯中、波多野の扇動した地侍の襲撃を受けて陣没しました」
やや書札礼(しょさつれい)から外れた早文(はやぶみ)の差出人は、小畠永明と年の離れた実兄、小畠助太夫常好だった。
小畠家は丹波宍人(たんばししうど)の土豪として知られていた。
百年以上前に出羽国から丹波国に移って以後、北野社松梅院の雑掌(雑務をこなす下級僧侶)として、寺院の保有地である丹波船井荘宍人村に赴任し、統治の一翼を担っていた。
織田軍が丹波に入領した直後には、小畠の一族郎党を束ねる小畠常好・小畠永明ら兄弟が、恭順と引き換えに地行宛行(ちぎょうあてじょう)(侵攻さきの領地の優先取得権など)について、惟任光秀を介した織田信長との約定を締結していた。
その後は兄の小畠常好が船井の本貫地を継承し、そのまま本領の守護に就いている。
一方、弟の小畠永明は、織田と結んだ役儀の履行(りこう)から、丹波入りした明智軍の先遣隊として、前線に立ちつづけた。
過去には波多野秀治の裏切りで撤退した氷上の第一次黒井征伐の派兵ほか、丹波亀山城の普請奉行として活躍している。
昨年九月に本格始動した現在の第二次黒井征伐においても、織田軍に与した丹波国人の筆頭として、多紀八上の長城を囲繞(いにょう)している。
織田の威信をかけた分断工作は奏功していた。
丹波中南で覇を唱えていた波多野秀治も、いまでは高城山の天守から織田に不満のある地侍や惣村に武装蜂起を訴えるのみと、風前の灯火だった。
しかしながら、退路を失う重囲によって、飢餓に苦しみ、思い切った行動に出たのかもしれない。
敵勢の夜襲を受けた小畠永明の死は、ようやく兆しのみえた丹波平定に影を落としていた。
「このようなときに惟任日向守さまの使者とは、陣没した弟、左馬進もあの世で浮かばれましょう」
箕六が山砦の威容をそなえた余部城に到着すると、はるか西方の八上重囲を指揮する小畠常好が出迎えた。
襲撃の折には、小畠永明が首級(しるし)を奪われてまもなく、砦は焼き払われた。
遺骸すら回収できなかったとはいえ、動揺の走った丹波勢が織田の旗下を去ることへの不安から、丹波亀山城の支城である余部では、迅速に悼まれていた。
「八上城のほうは、付近の般若寺城から救援に駆けつけた波々伯部蔵介どのに陣貝(じんがい)を託されたと伺いました。小畠勢をまとめる常好どのには、ちかく惟任日向守さまから出陣の下知が出されるはずです」
箕六が勧告すると、小畠常好は当惑した。
もっとも、惟任光秀の発給した二月六日付の案文では、
「越前討死、忠節無比類候、然而、伊勢千代丸幼少之条、十三歳迄、森村左衛門尉名代申付、云々」と序文で示されたように、
小畠越前守永明の織田に対する忠誠心を鑑みた沙汰として、小畠永明の嫡子である伊勢千代丸を家督の継承者と認め、元服間近の数え十三となるまでは、森村左衛門尉を後見人とし、小畠一族を盛り立てるよう計ったことが、家中に安心を与えたのかもしれない。
ほどなく常好は、陣没した永明に代わる大将として、小畠の陣を仕切っていた。
「波多野秀治はわれらにお任せください」
明智の姓を賜った幼い伊勢千代丸の後見を誓う森村左衛門尉と肩を並べたまま、弟の弔い合戦を望んだ小畠常好の覚悟をみたのは、八上の長城を西護する法光寺山の山城が籠絡(ろうらく)されたときである。
丹波亀山城と余部城を往来したのち、箕六は多紀八上の東に飛んだ。
小姓でありながら、足に覚えのある伝令顔負けの馬脚を示したことが、書状を作成する祐筆役(ゆうひつやく)から、それらを運ぶ伝馬役に配された理由かもしれない。
堂山砦の薬研堀(やげんぼり)を越えた翌日には、つづら折りに重なった陣屋の最奥へ。
小殿から漏れ出す声聞(しょうもん)に耳を澄ませたまま近づき、張付壁のさきで瞑想(めいそう)していた兵らの邪魔をしないよう、うらぶれた(いおり)に滑り込むのは造作もなかった。
荒漆喰(あらしっくい)の空間には、明智秀満と長岡忠興が座っていた。
饗応(きょうおう)」と聞けば必ず用意していただけに、みただけで居城から運ばせたものと判る。
こじんまりとした将棋盤を挟み、剣呑(けんのん)と駒を降らせていた二氏に箕六は拓手礼(たくしゅれい)を。
済ませたあとは、客人だった長岡忠興に倣うかたちで、ここからやや西の弓月砦と安明寺砦で見聞した小畠常好の敗走を伝えた。
「ほれみたことか。激戦をくぐりぬけた荒木藤内どのや川勝継氏どのならいざ知らず、ひな壇から降りたばかりのかがみ餅には荷が重かったのだ」
麒麟(きりん)成駒(なりごま)を足した獅子吼(ししく)をあっさり撃たれたことで、早々と勝負を投げた長岡忠興は、返答に苦慮した明智秀満と目を合わせたまま、敗者らしからぬ喜悦をみせた。
「この分では奪ったばかりの法光寺城や南の奥谷城も危ういな。長谷川秀一の意を借りるのは(しゃく)だが、戦勘(いくさかん)のない小畠常好に貴重な兵馬は預けられん。やはり徴募したての新兵を(つか)わすか」
「忠興どの。ここは神聖な場所だから、戦のことは控えなされ」
「馬鹿め。雑木をかきあつめ、それらしい格好に組み上げただけの荒屋(あばらや)に神が宿るか」
「荒屋ではない。いつ陣を払うか分からぬ戦場では、畳を敷く余裕がないだけだ」
悪罵(あくば)した長岡忠興に(あらが)う明智秀満は、お抱えの番匠(ばんしょう)につくらせた庭を示す。
茶室に見立てて建立されたという草庵の露地(ろじ)には、玉砂利のような砂礫(されき)が撒かれている。
それも石切り場ではなく、近くの山河から集めさせたのだろう。
ほのかに白光した丸石の粒は、巨岩を包む砂紋(さもん)を描いている。
泰平奢侈(たいへいしゃし)に遠い戦中なればこそ、兵らの充足は欠かせん」
(おごそ)かに告げた明智秀満が、近江滋賀の坂本を発つ以前から、波多野秀治・秀尚ら八上の長城と、戦略拠点である周囲の味方城砦とを勘案(かんあん)していたと箕六は知っている。
勝敗にかかわらず、厄介な城攻めは長期に及ぶ。
そう判断した惟任光秀の意見に従う明智秀満は、山賊上がりや食い詰め僧徒など、直参の部隊中枢を離れた雑部隊の多くが、戦場工作の腕を買われて雇われた羽柴の軍勢同様、素性の怪しげな者ばかりという部隊状況に眉をひそめていた。
「わしならもっといい待遇で召し抱えてやる。だから次の戦で寝返らないか」
なんせ日銭(ひぜに)のような俸給(ほうきゅう)のつながりでしかない。
うまい口入(くちい)れがころりと舞い込んだら最後、容赦なく昨日の味方を攻撃する者があらわれる。
そもそも設立まもなくの部隊は、贈与の多寡(たか)が縁の切れ目といわれるように、敵味方の引き抜き工作の的だった。
御家の存続と忠節をそれなりに重んじる氏族と比べれば、はるかに狙いやすい。
それが有事の職能を備えた者ならなおさら、登用熱は激しくなる。
箕六からみても、明智の直参衆は以前から主君の惟任光秀に「人望はない」と見切っていた。
「盗賊稼業で(つちか)った彼らの工作活動は、土岐(とき)の文武に勝り劣らぬ」
(ないがし)ろとするよりは、率先して登用すべきだ」
人材難だった御家の中枢を知る者ほど、異口同音に職能者らの力を認めていた。明智軍につなぎとめるための環境整備こそ、軍政の劈頭(へきとう)とみていたのだ。
ところが眼前の明智秀満は、そうした感覚に乏しい。
「身寄りのない無神論者の彼らに茶湯の精神を教えたことは、いいきっかけと思っている。かつての私のように、揺れ動く心身の鎮撫(ちんぶ)、さらには正道の帰依(きえ)によって、血の結束を生み出す滑油(かつゆ)となった」
 手招かれた箕六の脇で、明智秀満は父親にはみせない野相(やそう)をさらけ出した長岡忠興を(さと)している。
「この箕六も、かつては領内を荒らしまわる山賊の一味だった。寺院から引きとった折に、『人の道を外れたわたしの世界では、欲深い者がすべてを手に入れます』と告白したが、それはわれらも同じこと。武辺を誇り、土地の守護者として(ろく)を食んでいる」
「かの大陸では、気ままに簒奪(さんだつ)する遊民と植生に明け暮れる土民のあいだで係争は絶えないと聞くぞ。そうした内紛を治めるべく現れたのが国を統べる者、氏族だろう」
「そのとおりだ。やみくもに奪うのではなく、護国の対価として、銭や俵米(たわらまい)を徴収するようになった。この日ノ本も、いにしえの封建よりそうしてきた。織田さまは嚇々(かくかく)とそれを正すおつもりだ」
「俺の元服の折に言われた『天道』か」
「ああ」
忠興の玩弄(がんろう)していた香車ごと駒を集めた明智秀満は、納めた木箱をこちらに渡し、庭石に目を向ける。
端麗(たんれい)の視座は、怪異の渦潮(うずしお)をつくりだした巨岩を留めている。
連嘴(れんこう)穿(うが)ってみせよ──明智秀満の示唆から、箕六は水切りの要領で砂紋に棋駒を放ちはじめる。
それが二十五指を数えたときには、巨岩のまわりを二羽の白鶴が躍っている。
「学びたてにしては良い筋だ」
何度か拝見していた長岡忠興が、腕を上げた箕六の投芸を前に、「残りをよこせ」と求めてきた。
唯々(いい)と差し出した直後、棋駒を握りしめたその背は、夫婦鶴(めおとづる)を舞わせた巨岩奥、小ぶりな平石を軽妙に叩く(つくばい)に投射している。
次の瞬間、カコン、と古竹は鳳凰(ほうおう)の駒をのみほした。
「おう。景気がいいわ」
己の脾腹(ひふく)でこぶしを弾ませた忠興は、
「その()は見よう見まねで伴天連(ばてれん)(わざ)を盗んだな」
明知秀満の小姓として、砲術を学んでいたかつての面影を見知ったように、得意満面の歯をみせた。
このとき箕六は知る由もなかった。
「ご明察の通りでございます」と忠興に敬服しているあいだ、明智秀満が忌々(いまいま)しく二人のようすを眺めていたことを。
(箕六はなぜ忠興などに……)
歯噛みした明智秀満の脳裏には、さきのやりとりで述べられた「天道」があった。
天道とは神道における六天のひとつ。そして切支丹(きりしたん)の教えにある絶対神、デウスの導きをあらわしたものだ。
惟任光秀の尊崇(そんすう)する結跏趺坐(けっかふざ)の不動明王を奉じた明智秀満にとって、御仏は天地の化身であり、伴天連の(たてまつ)るデウスもまた、その解釈のひとつにすぎなかった。
日ノ本の承伝を紐解き、陰と陽、すなわち太陽と月のめぐりによって、大地は育まれてきたとの見解に着地していたためである。
一方、伴天連の教えでは、全ての(あかつき)としてあつかったデウスは陽の存在として、大地はそれを享受した月の存在と見立てていた。
世に棲息する眷属(けんぞく)や物質的な概念としてあらわした元素など、地域における認識の差こそあれ、源はひとつのはずだ──明智秀満の釈念(しゃくねん)とは裏腹に、伴天連のもたらす豊穣(ほうじょう)な見識は、いまの箕六を心酔させたように、時には領民の敬服(けいふく)を集めるための〝詭弁(きべん)〟として、あるいは領主の庇護(ひご)を得るための〝高説〟として、自在に使われたりもする。
めずらしいものへの好奇は人の(さが)だ。
同時に新たな価値観へと傾斜するあまり、育んできたはずの理知を捨てさる者は少なくない。
とりわけ為政者たる織田信長の庇護から、領内に切支丹の教会が建立され、改宗した功臣らの計らいで織田家の中核に政的影響を与えはじめると、明智を含めた家中の賛否は大きく割れている。
「彼らの顕示(けんじ)するものは、この国にはない卓見(たっけん)ばかり。織田さまが一目置かれるのは、堕落(だらく)した寺僧どもの自悟(じご)をうながす清貧(せいひん)な比宗として、うってつけであるからよ」
「いや、切支丹の受洗に消極なところをみると、いまだ政情の定まらぬ天下の一統に欠かせぬとのご判断からではないか」
「貴殿らの目は節穴(ふしあな)じゃな。ろくな理解もないまま、新たなものだけを()れ続ければ、勝っていた技巧のみならず、担い手までもがすがたを消しはじめる。(ふる)きを温めてこそ、新しきはよく知れるというもの。織田さまは統治の模範たる教えとして、彼らのもつ煩瑣(はんさ)の知恵を昇華しているのじゃ」
思うままの見立てをする者がいたかと思えば、狡知(こうち)に足を(すく)う者が私見を(かぶ)せていく。
まさしく侶人の数だけ論陣は張られていた。
さんざん話水を掛け合った末には、原点を逸した極化も見受けられた。
明智秀満は、多岐にわたる改革論壇の煩悶(はんもん)から、多人に愛された伴天連の良見識のみを抽出し、自兵に学ばせるといった手法を専らとしていた。
そうやって右顧左眄(うこさべん)を乗り越えたからこそ、箕六の無邪気な反応は、腹立たしく感じたのかもしれない。
「標的の目測には、戦場や里山での望遠が生かされる」
長岡忠興が発したこの瞬間でも、日ノ本で磨いた先人の(おしえ)を箕六は知らない。
盗賊や海賊への抵抗手段として、鉄砲を身近に置いた伴天連たちが、数々の死線をくぐり抜けるうちに染みついた〝射程距離の感覚〟と重なっていることにも気づかず、諸手を挙げて忠興のみせた投術を称えている。
「肌身でおぼえた知見は永遠の師です」
銃の射程から生じた目測は、あくまで〝実践〟を説明するための〝教義〟にほかならない。
翻訳者を介した宣教師の言葉を明智秀満が伝えたところで、彼らの説くアダム・イブが日ノ本の伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)と気づかない箕六には、自分より研ぎ澄まされた忠興の〝鋭敏な感覚〟こそ、至上と映っている。
人・場所・条件を変えただけで、やっていることは変わらないという、ごくごく当たり前の共通項を見出すことはおろか、末広がりの向上性を探究するには、箕六はあまりに若すぎたのかもしれない。
賑やかとなった草庵では、忠興への称賛を箕六が表すほど、明智秀満の不満は高まっていた。
もっとも、そうした視線の威があることだけは、慇懃(いんぎん)に草庵をはなれた箕六も感じとっていた。
「『何事にも慣例をもって処す』といわれた明智秀満さまは、惟任日向守さまとよく似ている」
とにかく話が長い。
そして百姓も即答するような裁定ですら、小言のように口やかましく指南しては、御家のうわさに帰結する。
有難さと(いと)わしさの同居した明智秀満を、身辺世話の箕六ら小姓は、いつしか「扈従止(こじゅうと)めさま」と呼ぶようになっていた。
その扈従止めさまから、
「敵砦から救出された十兵衛さまは、手負いで意識が朦朧(もうろう)としているらしい。自負心がつよく、他を信用せぬあの御方は、『小姓の数は凡愚(ぼんぐ)をさらけ出すもの』として、ほとんど召し抱えることはなかったが、今後は司政にも障りはあろう。仲のよい羽柴筑前守どのの勧めであれば、斜に構えていた姿勢を改めるかもしれん。それに傍観していれば、明智の全軍は、着到まもなくの羽柴筑前守どのから唯々諾々(いいだくだく)と使われる。お前は『丹波平定を仰せつかった明智の権威を失墜させぬように』との意を添え、なんとか説得してあの御方の小姓となれ」
品行方正な心掛けにそぐわぬ長話のなかで、「小姓として惟任日向守さまに師事しろ」という厳命を受けたときなどは、内心、
「ようやくこの扈従止めさまから解放されるのか」と叫び、
公儀の陰で不謹慎な小躍りに酔い痴れたものだ。
「折をみて見聞したものを伝えよ」という言い含みなど、晴れて(いとま)頂戴(ちょうだい)した箕六を縛るには不十分である。
ところがその(えつ)は、すげなく悔悟(かいご)に変わる。
明智秀満の差配を受け、大和の筒井順慶が駐屯する栗柄砦(くりからとりで)で滋養を終えた惟任光秀の小姓となるべく、丹波亀山城で御前(ごぜん)に出たときだった。

違う────

明智秀満の意を伝え、成り行き任せに新小姓の承認を得ようとした瞬間、箕六は総毛立った。
居丈高(いたけだか)に誇っていた権威はどこにもない。
それどころか、巻かれた白布の隙間からのぞく眼差しには、傷ついた自躯(からだ)を忘れた慈色が満ちていた。
「ありがたい申し出だ」
虜囚(りょしゅう)の経験から、人倫を取り戻したのだろうか──明智秀満の小姓として、幾度も折衝を仲介していた箕六には、眼前でほころぶ人物が、あの惟任光秀と同一人物とは思えなかった。
あれほど断っていた小姓召し抱えを二つ返事で容認した真底はつかめず、消え入りたいほどの畏怖心(いふしん)に駆られた。
「この瀟洒(しょうしゃ)な山門を亀山に運べ」
かつて抵抗する国分寺を焼き払った際、戦火を免れていた山門を奪い、本尊の毘沙門像を移送していた。
「丹波は峻崖(しゅんがい)ばかりと、行軍には最善を払わねばならぬようだ。山本の城兵に詳しい者がいれば、すぐに案内させろ」
侵攻には先導者が必要と分かった途端、落としたばかりの城砦から領民を駆り出すよう仕向け、徴募の過程で己の信奉する不動明王の居待ち像があると聞き及ぶや、即座の接収を促していた。
相手が誰であろうと、「天下の御為(おため)」と称しては、傲慢(ごうまん)に地を侵す。
「織田家の繁栄は、われら土岐の盛行(せいぎょう)である」
そう公言してはばからず、明智に与した国人には、簒奪(さんだつ)を正当化するための後ろ楯として、織田信長の意向を歪曲化(わいきょくか)し、虫の良すぎる釈意(しゃくい)を涼やかに発していた。
あの惟任日向守光秀には、人を人と思わぬところがあった。
そして不条理といえようか。
そのような性質(たち)の者に限って、非情と合理を愛した織田信長の正室、濃御前の推挙という、絶大な庇護を有していた。
直参家老や与力勢が遠慮がちに具申するのを何度もみていた箕六からすると、織田における惟任光秀の存在は、後難の百害に勝る官賊以外の何物でもない。
(ころころと主旨すら替えていくあの軽薄な卑小さは、いったいどこで失ったのか)
箕六は余部の城に舞い戻る。
帰途の自問で|疎『おろそ》かとなっていた喉の渇きを癒やし、東方に浮かぶ丹波亀山の道すがら、(ふところ)に忍ばせた書状を授けた明智秀満の示唆を鑑みる。
「小畠常好どのは、羽柴の兵を合わせ、八上の長城を一気に制すると息巻いたが、わざわざ高城山の一帯封鎖を穴開けるなど、腹を空かせた雀に米を撒くようなものだ。織田さまの直状や『自重せよ』と固く言いつけた惟任日向守さまの厳命を無視するあたり、長谷川秀一どのと接触した内蔵助が関わっているかもしれん」
その答えは浅黄衣の裏地に縫いとじた密書に入っているかもしれない。
中身を拝見したい欲求を抱えたまま、箕六は西の穴太口から丹波亀山へ。
すぐさま城入りしてもよかったが、猜疑(さいぎ)の虫が騒ぎ立てるせいか、背中がむずがゆくてならない。
こころの()()を整えるべく、また数少ない慰労機会とすべく、町屋で馴染みのきもの屋をみつけると、迷わず暖簾(のれん)をくぐる。
「きょうは何をお求めでしょう」
もはや常連と判断しているのか、番頭はさっそく定番の贈答向け肩衣(かたぎぬ)ほか、西陣織(にしじんおり)(はかま)などを披露している。
残る敵城は、桑田郡の宇津、多紀郡の八上、氷上郡の黒井に天田郡の横山と、丹波平定の道程がついたためだろう。
丹波亀山の城下では、小谷から移ったこの店のように、行商が許可を得て住居を構えることが増えている。
「新しい小袖が欲しいのです。それに脚絆(きゃはん)がボロボロなので、そちらも新調してもらえますか」
「かしこまりました」
番頭は慣れたようすで帳簿の万覚(よろずおぼえ)を番台から取りだすと、箕六の身体にあわせた編み笠・手甲・脚絆といった旅装を(すす)めてくる。
商談のさなか、やや値の張った反物(たんもの)を示す商いぶりは相変わらずだ。
そして流行りものは外せないらしい。
もはや風物詩というべき豪奢(ごうしゃ)打掛(うちかけ)・小袖の重ね着を値切りだした瞬間、なんとか売ろうという気迫に箕六は苦笑する。
それが下人の正装であることは、きもの屋なら誰でも知っている。
ひとかどの将は公儀に直垂(ひたたれ)を着ることが義務付けられていた。ところが箕六のような下人扱いの小姓となると、まず着用はゆるされない。
にもかかわらず、公儀で小袖に派手な打掛を羽織るのが流行しているのは、国主の大身が関係している。
当主が頭角をあらわすにつれ、模範とされた近臣の馬廻衆以下、傍で主君を支える小姓や旗持までもが、「貧相な姿形(なり)では、天下に武を示した御家の威信を傷つけてしまう」との認識を共有している。
「では丹波木綿(たんばもめん)でおねがいします」
本音は(いき)とされた阿波藍(あわあい)が欲しかったが、さすがにそれは新参の伝馬役にとって、高根の花である。
いつか着てみせる。
名残惜しい瞳を外してまもなく、箕六は丹波亀山城の主郭にある納戸(なんど)で新たな小袖に袖を通す。
やがて東二之曲輪の広縁な侍屋敷に赴き、鍛錬をみていた主君の前で片膝をつく。
「堂山砦に書状を届けてまいりました」
旅装とした胴服の裏地に縫いつけていた返書を献じたところ、惟任光秀の令和な表情が引き結ばれる。
「八上の長城を西護していた法光寺城につづき、南麓の奥谷城も、ようやく出撃の目途がついたか」
箕六は前線の言づてを述べるあいだ、密書が多岐八上の攻城に関するものと知り、落胆した。
そもそも多紀八上の山城が一年以上も籠城できたのは、水面下で行われた兵糧の運び入れによるものだった。
籠城当初、八上城主の波多野秀治は、南の摂津国から丹波入りした味方の在将を介し、八上南麓の曽地村にある寺々に協力を要請していた。
曽地村は波多野の直轄令に従順だったせいか、住んでいた僧侶は物資の搬入を前向きに受けたらしい。
その結果、波多野勢は織田軍の監視をすり抜けるかたちで、摂津国から母子(もうし)の山路を越え、曽地村を経由するかたちでの食糧搬入という、南北の動線を確保していた。
遅まきながら気づいた明智軍はといえば、急ごしらえの部隊で八上南麓の奥谷城を陥落後、曽地村の寺一切を焼き払ったうえで、八上の長城と直結する景勝地のさらなる封鎖に踏み切っていた。
それを察してのものだろう。
「抵抗していた土民は落ち着いたか」
惟任光秀は健勝を発してまもなく、八上東麓の弓月砦・安明寺砦の襲撃準備ほか、高城山の完全重囲の首尾について言及した。
「西山の法光寺城からは、さきの返書に三カ月の攻城に耐えられるだけの兵糧を備蓄したとあった。北麓の味方砦が受けていた夜襲については、内蔵助の部隊が駐屯して以後、鳴り止んでいる。南麓にある奥谷城の陣整は、八上の完全封鎖を意味するものだ」
「はい」
「東麓を西睨する堂山砦はどうだった」
「弓月砦・安明寺砦の奇襲部隊を配し、後顧の憂いはないようすでした」
高城山の東麓と距離をとった孤丘の立地がそうさせるのか。
土蔵には常に二カ月分の糧米を抱え、諾われた武具は刹々と磨かれていたと箕六は告げた。
「それだけあれば攻囲は維持できる。波多野らの命運は皐月(さつき)あたりか」
「えっ」
「どうした」
「いえ。あと三月(みつき)もすれば、あの八上の城は落ちるのかと思いまして」
 丹波国人と合力した明智軍は、カ年に及ぶ地侍の抵抗から、いまだ丹波平定を成していない。
そもそも氷上黒井と多紀八上との分断工作に着目し、蟻一匹も通さぬ布陣を進めたのは、昨年の十一月である。
「では賭けよう」
疑心があらわれてしまったのだろうか。
幾許(いくばく)の怒気を込めた惟任光秀に、あっと飛び退(すさ)った箕六は平伏した。
もっとも主君のほうは、そうした関心はなかったらしい。
誠心誠意、非礼を詫びたこちらに対する言辞には、信賞必罰とかけはなれた笑意がにじんでいた。
「いつでも時宜(しお)はある」
驚いたこちらの反応を楽しむ惟任光秀が諄々(じゅんじゅん)と説いたところでは、戦のながれは〝気〟にあるという。
戦では先んじた武が第一功とされるが、戦局まで左右するかというと、必ずしもそうではない。
枯渇する人馬。
消耗著しい武器弾薬。
はては国人同士の摩擦と、ありとあらゆるものが渦巻く戦場において、型というべき方策はない。
他に畏怖されるほどの腕力と権謀で千軍万馬をあやつる勇将すら、全幅の信を置く側近の離反や敵勢の背水陣に気を飲まれ、あっさり命を落とすことがある。
だから将兵のおおくは常日頃から鍛錬に勤しみ、万事に即応できる心構えをとっている。
しかしそれも、時には人知を超えた理で一難一助を被る。
惟任光秀は、そうした戦場に充満する〝気〟の力が、すべてに勝ると考えているようだった。
「戦雲と呼ばれている」
箕六は柔和にひそんだ気魄(きはく)を浴びたまま、惟任光秀に追従した。
おびただしい数の木板を常時は開墾用具として扱い、危険が迫れば起立式の(たた)と変える屯田制の編隊は、油断に勝る慎重の表れだった。
方円に配された戦旗を脇目とするなか、箕六は空堀にかかる木橋をみつけた。
お忍びによる亀山出立時、北に位置する馬路の陣営は目にしていたが、改めて訪れると野陣そのものだった。
当然ながら、案内を買って出た足軽のはからいに沿う路は入り組んでいた。それでも上屋の置かれた曲輪は幾分、なだらかである。
やがて一行は、複雑な段郭にそびえた大岩に腰掛け、母屋で使用していた座卓に頬杖をつきながら詩吟に(ふけ)る元主君の畏友(いゆう)──気づかぬうちに堂山砦から移っていた長岡忠興を映した。
「じゅ、十兵衛さまではありませんかッっ」
じき水稲がはじまる砦外には、黒田の(おもむき)が備わっている。
漆土の中に悪いものをみたのかもしれない。
晴耕雨読の独唱を放り出した忠興は、こちらへの敬服がてら、勧めにあった足軽のたむろする修練場に同道した。
「構えぇーぃッ」
声に続く炸裂音を響かせていたのは、一糸乱れぬ斉射(せいしゃ)を仕切る、鉄砲頭の集団だった。
耳をふさいで近づいた箕六も、海外から種子島に持ち込まれた薩摩筒の機構を継承する鉄砲の利査(りさ)は聞き及んでいた。
いずれも砲術に秀でた惟任光秀の命とはいえ、明智の軍勢は織田軍でも有数の砲兵を抱えている。
背景には、京のみやこ周辺に鉄の鉱脈が点在していたこと。また鍛造(たんぞう)する職人衆が自領に多いことが影響していた。
眼前の長岡忠興はまさに典型だが、阿波の国から移り住んだ細川家の分流にあたる長岡藤孝・忠興ら父子は、上方の地で揉まれてきたとの自負がつよい。
伴天連のもたらした火縄銃と砲術という、伝来まもなくの奇品に浮かれた世情であろうと、感懐を抱くようすはみられなかった。
振り返れば、それは彼らにとって自然な反応だったかもしれない。
というのは、当時、上洛した織田信長の庇護を受けた足利義昭のまわりでは、間断なく豪華な贈品が各地から運び込まれており、鉄砲の調達と部隊編成は、その都合でしかなかったからだ。
一方、尋常ではない砲火をととのえた織田軍の評価は真逆だった。
「これからはますます黒金(くろがね)の時代となる」
古来より、黒金こと鉄は鋳物師によって精製され、武器以外でも農具や料理道具といった、平時の生活に欠かせないものをつくるための原料とされている。
ところが「火縄銃」という文明の利器が日ノ本にやってきてからというもの、刀槍弓を凌駕する遠隔兵器に魅了された国主のあいだでは、鉄砲の量産化が喫緊(きっきん)とみなされた。
もっともその評判はというと、決していいものばかりではない。
なんせ伝来当初の「薩摩筒」は、「派手な音がしたら標的が倒れる」といった程度の認識物でしかなかった。
こんな話がある。
「今川の兵が、おかしな筒を持っておったぞ」
駿河と遠江を拠国とする今川義元が、従属させた三河の徳川勢を引き連れ、尾張国東部、北尾村付近に兵を差し向けたときのことだ。
撃退戦で百あまりの兵を失った織田家の総大将、織田信秀は立ち寄った那古野(なごや)の城に住まわせた、のちの織田上総介信長──嫡子の吉法師を呼びつけると、傅役(もりやく)の四家老である林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介らの前で、今川勢の使用した鉄砲について話しはじめた。
このとき織田信秀の伝えたものは、今川方の兵らが持っていた長い筒から衝音が轟いたかとおもうと、味方の雑兵らが数名、倒れていたとの見分だった。
のちにそれは「火縄銃の砲火」と認識されたが、幼年の織田信長にしてみれば、大弓や投石といった、原始にちかい狙撃の概念を覆すほどの衝撃であったことは想像に易い。
その漠然と抱いていた「面白い武器」を、期せずして「使える兵器」に評価を改めたのは、義父の斎藤道三を放逐して家督を継いだ斎藤義龍の死没から稲葉山城主となった、斎藤龍興率いる美濃国を平定してまもなくである。
稲葉良通(稲葉一鉄)
氏家直元(氏家卜全)
安藤守就
野盗出身の蜂須賀正勝を中心とした工作部隊によって墨俣砦を築き、大軍を擁した美濃国奪取の折には、「西美濃三人衆」とよばれた三将を内応させた羽柴秀吉が、砲術に秀でた紀伊・雑賀の侵攻直前、多数の砲兵を抱えていた彼らの助言を受けている。
「紀州とは、名もない寺に鉄砲が置かれる国です。まずは部隊をととのえるのが先決かと」
「よかろう」
秀吉の介添えもあり、信長は美濃衆の史眼を容れた自軍の砲兵部隊が、より高度な運用を行えるよう、鉄砲のさらなる調達および術式の刷新を図っていた。
 その結晶が、眼前で繰り広げられる修練である。
「ここでは兵たちに射撃を学ばせております」
腰からぶら下げた焔硝(えんしょう)の擬似袋は、そこらの石を詰め込んでいるのか。
みるからに重そうな出で立ちで屈伸をしたかとおもうと、足軽砲兵らはこちらの前に並んでいる。
「励めよ」
二言なく発した惟任光秀は、数発の弾込め発射と筒掃除を繰り返す足軽砲兵の中から、指南役を探し当てたらしい。
思わぬ慰労を見守った鉄砲頭もまた、長岡陣中の案内役とされた名誉に、深く感じ入ったようすだった。
しかしながら、細かな検分を部下に委任したこころは、滅多にない人物の視察に舞い上がってしまったのか。
「か、可児(かに)どの……あとを、頼まれてくれっ」
鉄砲頭は隙をみて明智軍内でもっとも鉄砲の機構に詳しかった美濃の国人、可児才蔵に旗振り役を託していた。
そこでいったん断るのが氏族の奥ゆかしい辞儀とはいえ、「うほん」と咳払いをしつつ、鉄砲頭から引き継いだ応対に気炎を吐くのは、半ば天職のように思えてならない。
一行の先導役として、修練場の訓練を説明しはじめた可児才蔵の弁舌は、ことさら滑らかだった。
「あれは時間のかかる弾込めを略式化した早合(黒色火薬と鉛玉をまとめて包んだ袱紗(ふくさ)を使用する)のように、射撃体勢に入った鉄砲の硝煙反応消失と雨天時の遂行を可能とした『隠笠』にございます」
一同の視線をあつめた鉄砲の火縄を覆う蓋が砲兵の手で着脱された。
機敏な動作で折りたたむすがたに、ほう、と惟任光秀の感嘆が漏れたことで、さらに案内役の熱が入ってしまったのか。
「あれなるは、弓箭(きゅうせん)の二本撃ちを模した『連筒』にございます」
手入れ途中の砲身が複数ある鉄砲を箕六に持たせたかとおもえば、おもむろにそれを取り上げ、
「これは試作段階のため、分解後には砲身内部の細工で暴発を促し、敵軍の名射手の命を奪う、すり替え武器の『影筒』として使おうかと思案しております」
本来なら秘匿するはずの暗器まで紹介していた。
「鉄砲は織田の国づくりの柱です」
完璧に案内役をつとめた可児才蔵に触発されたのか、長岡忠興までもが主従合一の補足を投げている。
とはいえ軍事転用の鋳鉄が増してからというもの、かつては鉄鉱石に砂鉄を加えて行っていた「たたら製鉄」が、いまでは砂鉄を溶融するだけと、鉄資源は枯渇の一途をたどっているらしい。
(絶対量が少ないのだ)
正確な数量は把握していない。
箕六の立場では、余計な単視は(はばか)られる。それでも会話を重ねる惟任光秀や長岡忠興たちの危惧を見守るあいだ、問題はそれだけに止まらないと察せられた。
彼らの口辺にのぼった「岩見」「出雲」「伯耆」「安芸」「備中」「美作」「播磨」といった西国は、日ノ本でも有数の採鉄場が盛炎をとどろかせていた。
その事実は、詳細について触れていなかった箕六に限らず、織田軍の誰もが知っていた。
「織田はいずれ軍装で負けるかもしれないということか」
錺金具(かざりかなぐ)のない、武骨な一丁を手にした惟任光秀が忠興に一声した。
「一気呵成に侵攻してきた反動でしょう。消耗著しい装備の新調は、もはや限界を超えております」
「戦は人と軍資の両輪で動いている。この丹波平定も、長引くほど困難は増していく」
「その通りでございます。しかしそれは、勝幡・那古野・古渡・末盛と、国情に合わせた居城移転をおこなう父君、信秀さまの方針を踏襲し、那古野・清須・小牧・岐阜と、本拠を変え続けた織田さまが六角領の近江に進出したことで、いくらかの猶予が生まれております」
「猶予とは」
惟任光秀が(いぶか)ると、忠興はちかくの屋根井戸にあった木桶を拾ってみせた。
水を汲もうという気配はみられなかった。
それも空の木桶を手に、砲兵へと視線をおくっている──勘考した箕六には思い至らなかったが、円熟の知慧(ちけい)を備えた可児才蔵だけは、彼の意図が掴めたらしい。
「他国に座を明け渡したとはいえ、近江はかつて鉄鉱石の一大産地です」
ほどなく低姿に出された可児才蔵の示唆から、惟任光秀らほどではないにしろ、箕六は腑に落ちた。
山稜と琵琶湖という豊富な水資源があり、金・銀・石灰も採石が可能な近江国には、堺町や播磨野里の鋳物師と並び称される国友の鉄砲鍛冶ほか、穴太(あのう)の石工、甲斐から移り住んだ採掘専門の金堀衆などが在地している。
織田信長が近江国蒲生の安土の城普請とは別に、近江商人のもとめる町屋造成と安土山下町中掟書(分国法)の発布を急がせたのは、そうした日ノ本随一の職人衆を掌握するためでもあったのだ。
腕のいい職人に加え、黒金も手に入る。
おまけに原料を輸入する商人らの関心を東方に奪われては、豊富な資源を誇る西国の諸侯も、地政的優位で行っていた海運の減便ほか、硝石・鉛といった、鉄砲向けの交易品を抑制する経済封鎖は難しくなる。
「撃ち方止めぇーいッ」
理解とともに、全員の表情が明るくなったせいかもしれない。
にこりと頷いた可児才蔵は、接遇すべき惟任光秀への礼を欠いた豪声を発し、いそいそと射撃場の中央へ。
銃を抱いて固まった指南役を置き捨てると、砲兵たちの標的とされた木板の裏側に一行を招いた。
「ここに立てかけた三対の胴丸を撃ち抜くには、僅かに浮いた木板の隙間から弾を撃ち込まねばなりません」
最奥で兵らが学んでいたのは曲射だった。
やや興味があったとはいえ、可児歳三の言説には、確かな実践が示されていた。
「地面に石畳を敷いたのは、発射した弾を跳ねさせるためです」と明示しているあたり、攻城戦を想定したものだろう。
瑕疵判断(かしはんだん)を下すまでもなく、外せば敵の矢弾となること。そしてこの修練を終えたときには、遮蔽物越しであろうと、一射必滅に敵射手を討ちとる技量が備わっていると可児才蔵は断じた。
「すべてはそこにおられる忠興さまの勧めです」
愚直に主君の長岡忠興を持ち上げた可児才蔵が立ち去ると、鉄砲頭によって射撃は再開された。
その彼もまた、焔硝の調合や砲身の手入れを行う兵舎について説明し終えると、あらかじめ空けておいた陣所に一行を案内したところで下がっていた。
「噂は耳にしていたが、こうして直に拝見すると、やはり長岡の陣営は調練が行き届いている」
後学としてのものなのか。
座っていた床几(しょうぎ)からすこし離れた場所では、斎藤家の紋が入った足軽砲兵が、さきとは別の鉄砲頭の鞭撻(べんたつ)を受けていた。
斎藤家と長岡家といえば、明智きっての不仲で有名だ。
珍しいこともあるものだと注視していたところ、箕六の腰にまとわりつくものがあった。
「くせ者め。どこから入ってきた」
「あっ、粗相をするな」
面長の頬を真っ赤に染めたかとおもうと、忠興は当惑した箕六の腰帯(こしおび)をつかみとった手を引き剥がす。
突き飛ばされた先でむっとした総髪は、長岡藤孝の次男坊、長岡昌興だった。
箕六がこの男を知ったのは、本年の謹賀の登城。
惟任光秀が新春の祝いで信長の居城安土を訪れた際、随伴していた長岡藤孝共々、織田信長に昨年の姻戚(いんせき)をつたえたときである。
「長岡藤孝の長子、長岡与一郎忠興がようやく元服しました。わたしの三女、お珠は数え十六と、(めと)るには相応しき齢。二人の婚儀をお許しいただけたことは、生涯忘れません」
 年明けということも手伝い、織田信長は上機嫌で応じた。
 このときすでに惟任光秀の長女は明智左馬助秀満(光春)の。次女は明智治右衛門光忠の正室だった。
 信長はそれを持ち出すかたちで、自身の甥である津田七兵衛信澄に四女を嫁がせるよう求めた。
津田信澄といえば、かつて尾張の家督争いで信長が謀殺した兄弟のひとり、織田信成の嫡子である。
三女と四女は二つ年の離れた者だけに、近い年嵩(としかさ)の長岡忠興の弟、長岡昌興と結ばせるつもりだった惟任光秀は、内心悩んだ。
しかし上意を断れば御家は潰されてしまう。
恐怖から一転、感涙を流して信長の仕儀を快諾した。
箕六が憶えていたのはその程度だが、厳命は明智と長岡にとって不満だったのかもしれない。
とりわけ耳とした目の前の昌興は怒り狂ったという。
当時の彼を述べるなら、昨年八月に天王寺砦の城番だった松永弾正久秀・久通ら父子の謀叛の折、ひとかどの戦功をあげたときの諸評が妥当といえようか。
天王寺砦を捨て、大和国の信貴城(しぎじょう)に立て籠もった松永勢の一派として、同国片岡の城代となった森秀光・海老名勝正ら二将の守りは固い。
そうした軍勢を相手取るべく、長岡の軍勢は惟任光秀・筒井順慶・山城の国人衆とともに、十月初旬から攻め入った。
数え十三の初陣(ういじん)ながら、長岡昌興が見事な槍働きをみせたのはこのときだ。
なんせ兄の忠興が刀槍を苦手としていたのに対し、彼は諸氏を鼓舞するほどの巧者だった。
合戦開始から十日後には、焼死した首魁(しゅかい)の松永弾正久秀に死に花を添えるべく、森・海老名の両名を討死に追い込んでいる。兄共々、昌興が織田信長の感状を賜ったのは、明智軍の誇りだ。
が、いかんせんまだ十四と、根は(わらべ)といえようか。
「さ、箕六どのに謝るのだ」
惟任光秀の赦免(しゃめん)を受け、申し訳なさそうに謝る忠興に促されようと、昌興はかぶりを振っている。
「兄上は心配性だな。十兵衛さまの従者なら、これしきのことで怒らぬ」
信長が毎年催すようになった相撲の抱え力士よろしく、呼び捨てにした箕六の胸を借りる始末ときている。
(細川九曜の荒男とは、この男か。それならひとつ、驚かせてやろう)
年が近いせいかもしれない。
妙な親近を抱くかたわら、箕六は無表情で昌興と向き合った。
大柄な上に、えらの張った風貌(ふうぼう)(わき)を締めるすがたは、負ける気は微塵(みじん)もないとばかりにこちらを威嚇(いかく)していた。
もっとも、それこそ小柄な箕六のもとめていた形にほかならない。
「くそっ、ふざけた真似をする」
開始直後の突進を受け流され、猪武者(いのむしゃ)よろしく、地面に突っ伏した昌興は泥まみれの肩を怒らせた。
「もう一番だッ」
声高に叫ぼうと、若くして伝馬役を任された豪脚は伊達ではない。
ふたたび顔を合わせるや、今度は立ち上がりの猫だましで(きょ)を突き、回り込んだ蹴りで膝を屈折させたときには、同じ結果が待っている。
三番勝負で相手をさせられた箕六は、昌興に最後の一本をとらせるかたちで取り組みを終えた。
(はな)を持たせたつもりだったが、なけなしの一勝を得たことで、俄然(がぜん)やる気が湧いたようだ。
予想した「最後の一番だッ」という直訴が(とどろ)いた直後、箕六はへとへとに疲れ果てた演技をみせた。
「体力はないのか。仕方ない、いつもの下人で()さを晴らそう」
放った彼と目を合わせたのが運の尽きである。
気の弱そうな砲兵に興味を移した昌興は、ひひっと卑俗(ひぞく)な笑いを立てたまま、渡櫓(わたりやぐら)をのぼりはじめる。
まもなく悲鳴が聞こえ、いくらかの静謐(せいひつ)が戻ったときには、忠興は惟任光秀に謝意をあらわしていた。
「弟が無礼を働きました。あとできつく(しか)っておきますゆえ、どうか父には」
「気にするな。私もあのような時分には、百姓と野山を駆けずりまわっていた」
藤孝への口止めと聞き、居城に残した嫡子を浮かべたのだろうか。
一瞬だけ空をあおいだ惟任光秀は、
「それより長岡の陣所では、ちかごろ領民が徴募(ちょうぼ)されていると聞いた。ここでもそうした雑兵を(つの)っているのか」
(たず)ねた戦備の有無を引見(いんけん)の潮としていた。
修練場から戻る斎藤家の砲隊を脇目、不在だった長岡藤孝への手土産として持参した軍資と引き換えに、鷹狩(たかがり)でとれた獣干肉の返礼を受けた。
主君の手前、それらの取次(とりつぎ)すべてを箕六は代行した。
荒縄でひと括りとした干肉の|芳醇『ほうじゅん》な香りにつばを飲むこと数度。
まもなく入った別の陣所では、小話に夢中の惟任光秀と長岡忠興のすがたがあったため、居待(いま)ちがてら、巣穴に(はね)を運ぶ(あり)たちを映した。
(あのような時分には、百姓と野山を駆けずり回っていた──)
近江滋賀(おうみしが)の居城、坂本から滅多に出ないばかりか、織田信長の直状を受けた丹波平定でも、最東部に据えた丹波亀山城を往還(おうかん)するのみだった。
労務の大半は臣下任せとし、病弱な肺をさすったまま、烈々と恨みがましい主命を発する。
そうしたすがたを見掛けていた箕六にとって、陽の下を疾駆する惟任光秀の追憶は、幻想に等しい。
酷似(こくじ)の明智秀満の小姓だったせいだろうか。
必要とわかっていても、明智の閨閥(けいばつ)や軍門位階には興味がなく、理解を深める気はさらさらなかった。
(そのこころがいまは揺れている)
箕六は主君と忠興のすがたに、かつて耳としたつながりを重ねる。
越前国で苦衷(くちゅう)にあえぐなか、下向とともに還俗した足利義昭・近臣の細川藤孝らに会う前の(えにし)を。


時は十年前にさかのぼる。
永禄十一年(一五六八)八月、越前一乗谷に滞在していた足利義昭・細川藤孝ら旧幕派と織田信長との仲介に奔走(ほんそう)する以前から、明智十兵衛光秀は宿啊(しゅくあ)の国元をはなれ、浪人として諸国を行脚(あんぎゃ)していた。
目的は見聞を広めるためだった。
越前国主、朝倉義景の冷遇で煩悶(はんもん)した末、この地に将来(さき)はないと見越し、美濃時代に修めた普請技術(ふしんぎじゅつ)(建築技術)や武芸諸般を除く卓見(たっけん)を学ぼうとしていた。
やがて目をつけたのは医道だった。
当時は足利大学や五山のような僧門の修行を除き、学舎は存在しなかった。
明国から伝わった「|本草綱目『ほんぞうこうもく》」を基とした薬書「大和本草(やまとほんぞう)」のような学問書が寺子屋で定着した後世と比べても、今世は医師を自称する者や杜撰(ずさん)な製薬が跋扈(ばっこ)していた。民間療法的な知見があれば、誰でも施術が行える時代だった。
光秀はそうした者の一人になろうと考えた。
もっとも、背負子(しょいこ)竹籠一杯(たけかごいっぱい)に薬草をあつめようと、販売することはなかった。
(朝倉家の下士として、醜聞(しゅうぶん)は控えねばならん)
純粋にお金を得るだけなら、交易品の本草書をもとに、自生する薬草を(せん)じて売れば事足りた。
ところが越前では、「非凡」と評された武芸・城砦普請の技法が諸氏に広まらないばかりか、元手となりうる俸禄(ほうろく)は生活で消えている。
そもそも代々つたわる石臼(いしうす)薬研(やげん)を愛品とし、各勢力の部隊に帯同する侍医ならいざ知らず、貧窮(ひんきゅう)この上ない客分の下士が、夜な夜なすりこぎ棒で怪しげな薬を煎じる有様は、傍目(はため)にどう映るのか。
それが(うわさ)となったときの妻子を案じるあまり、光秀は薬草を含めた自生種を、譲渡同然の物々交換で売っていた。
細々と糧を得る日々は、一本ずつ歯牙を抜かれる気分だった。
奇縁があったのは、交渉ごとでしばらく家を空けるようになってから、五年目に差し掛かろうかという厳冬(げんとう)だ。
土岐(とき)の明智十兵衛光秀どのとお見受けした」
堆雪(たいせつ)した越前では身動きがとれず、雪下に埋もれた僅かな野木をとっていた光秀に、好々爺然(こうこうやぜん)と声を掛けたのは、白井入道浄三こと白井胤治(しらいたねはる)を自称する旅僧だった。
「ふるくは清和源氏の支流、土岐光衡を祖とする桔梗の一族が、越前の片田舎にひっそり居を構えていると聞き及んだ。何度か足労(そくろう)してみたが、どうにも留守がちでな。それが国をはなれようとした山野で会うとは、おかしなものだ」
「何度も住み家に足を運んで……では、煕子(ひろこ)が言っていた油売りとは、そなたのことか」
光秀が察すると、男は艶福(えんぷく)(うなず)いた。
「このような枯野(かれの)で雪を掘り起こすとは、持薬につかう樹根を探しているのか」
「食物となりそうなものを探している。数こそ取れぬが、薬草もあれば、冬眠中の獣も手に入る」
「浜で漁をすればいい」
「島海のことは詳しくない。あれは幼きころより船出を繰り返し、空と潮を覚えていなければ、小魚も満足に獲れん」
「ほう。ならば貴殿は何を得手(えて)とする」
投げられた光秀は、鼻梁(びりょう)を膨らませて押し黙った。
越前を統べる朝倉義景の直参衆として、己の侍道(さむらいどう)を全うしたい。
それが叶わない現状に焦燥(しょうそう)をおぼえていた、無言の叫びを聞いたのだろうか。
白井胤治はしずかに告げた。
「貴殿には、美濃で学んだ戦技と職技が宿っている。それを生かすには、あらたな〝目〟が必要だ」
「あらたな目だと」
「うむ」
白井胤治は、光秀が斎藤道三の卒下で覚えた砲術の知見を挙げた。
「いまは少ないが、いずれどの軍も砲隊を多く抱えるはず。そのときに準備をしているようでは、御家の存続はままならん。あらたな目とは、まさにそのことよ」
「……時機の到来は、兵をあつめ、自らの手で起こせというのか」
「起こすだけではない。すべてを(しの)ぐ巨岩として、戦場に降誕(こうたん)するのだ」
魁偉(かいい)容貌(ようぼう)となった白井胤治に、光秀は(うつむ)いた。
ただしそれは、一瞬のことである。
「わたしの学んだ火術(火薬の扱い)や砲術は、美濃一国の狭義でしかない。まだ見ぬ世で生かすなら、いまの越前を離れ、さまざまな国の(わざ)を覚えなくてはならない」
「まさしく」
微笑した白井胤治は、手ごろな石を見出すと、氷の張った池に向かって投擲(とうてき)する。
小池に走る(もや)は消え、飛沫(しぶき)をあげた水面に亀裂が入る。
光秀が覗き込むと、懐中に忍ばせた糸が一本、光っている。
「大海がなくとも水は地をすすむ。井中(いちゅう)(かわず)であれば、戦機に出たところで無残に散るしかあるまい。しかし大海の道を信じる蛙であれば、さきは開ける」
泰然自若(たいぜんじじゃく)の風体は、あたかも文王となる西伯が訪ねた太公望をほうふつとさせる。
「そなたのことは聞き及んでいる」
光秀は渇いた眼光を向ける。
「越後の上杉謙信は、居城春日山から三国峠を経た上野の沼田城を戦略拠点とし、関東平野に攻め込んだ。二年前の常陸では、小田城の小田氏治と古河城の古河公方・足利義氏が蹂躙(じゅうりん)され、下総(しもうさ)では小金城の高城胤辰と本佐倉城の千葉胤富が猛攻にさらされている。白井どののいた臼井城(うすいじょう)の原胤貞は、上杉勢に呼応した上総(かずさ)の久留里城主、里見義堯に背後を突かれていたはずだ」
「あの合戦を知っているのか」
「一万五千で大挙して寄せた軍神の兵を、二千足らずの城兵で退けたのはそなたであろう。出家してからは白井入道浄三、いや、すこし前には果心居士と名乗っていたか」
「ふふ。越前の片田舎でわしを知るなど、隠棲(いんせい)には惜しい|明晰『めいせき》だ」
光秀の指摘を受けた白井胤治は、雨氷に縛られた樹枝の残雪を、指先でつぶしてみせる。
臼井の城は、印旛沼(いんばぬま)天嶮(てんけん)とした山城だった。
永久二年(一一一四)、千葉氏の臼井常康が館を建立し、後裔の臼井興胤が改修したのがはじまりといわれる懸泥(かけどろ)の城で、面崖主郭(めんがいしゅかく)(いただき)とした帯状曲輪の山下には、市川道・布佐道・佐倉道・千葉道といった、主要な街道がならんでいる。
二年前に起きた上杉襲来時には、城主の原胤貞が救援要請を出していた。
それにもかかわらず、本佐倉城を重視した千葉・北条ら二氏の堅守から、松田孫太郎ら一五〇騎の助成しか得られなかった。
援兵を含む手勢は二千に届かない。
一万五千余の上杉勢を相手取るのは、もはや万死に値する。
事実、臼井の城は昼夜を問わず攻めたてられ、城を幾重(いくえ)も囲んでいた(ほり)が一重になるほどの危機に直面している。
「もはや落城は避けられん」
原胤貞の嘆きを救ったのは、(はた)に控えていた白井胤治だった。
「わたしにこの城の命運を託されよ」
(わら)にもすがりたい一心から、原胤貞はすぐに全軍の指揮権を譲った。
亡国の軍師となりうる状況を前に、白井胤治は毅然(きぜん)と諸将の前に立つと、こう発した。
「こたびの戦で上杉は止まるところをしらぬが、恐れることはない。敵陣にみえる軍気は、いずれも殺気と囚老(いんろう)に包まれ、ほどなく暗転する。われらの陣中には、破軍の王相が満ちている。向こうが敗れ去るのは必定だ」
死中に活を見出した言葉は、悲壮感の漂う臼井の城を鼓舞した。
まもなく出された献策(けんさく)に逆らう者はいなかった。
「その役目、この私が身命(いのち)と引き換えに果たしましょう」
攻城の戦果によるものなのか。
上杉勢は、部隊のあちこちで遅滞が発生していたにもかかわらず、無理に前線を押し上げていた。
そうした軍情を察した白井胤治の狙いは、大手門を抜けたさきの曲輪に敵を引き入れ、集中砲火で食い止めている隙に敵本陣を奇襲するという、窮鼠(きゅうそ)の一手である。
討死覚悟(うちじかくご)の突撃部隊に誰もが逡巡(しゅんじゅん)するなか、名乗りを上げたのは助成にやってきた松田孫太郎だった。
臼井の城は、この時点で奇妙な感覚に包まれた。
絶望的な状況であろうと、気丈にふるまう白井胤治の勇采(ゆうさい)がある。
加えて己の魂を上杉本陣にささげる覚悟を決めた松田孫太郎の覇気は、兵の士気を高めている。
そして運命の日、臼井の城は存亡をかけた全軍突撃を敢行した。
開いた大手門からなだれ込む敵勢を前に、原大蔵丞と高城胤辰ら先鋒は、怯むことなく応戦していった。
「あ、悪鬼羅刹の者どもめ……」
降伏間近と油断していた上杉の先遣隊は、決死の形相で向かい来る城兵の威容から、安易な攻め入りを忌避(きひ)した。
そこへ臼井の城方は次鋒となる平山某・酒井某を連蛇(れんじゃ)に向かわせ、城外まで上杉勢を後退させた。
「ここである」
白井胤治の采配に、虎視眈々と敵陣を切り裂く爪を研いでいた松田孫太郎、佐久間某率いる小隊の動きは速かった。
城の搦手(からめて)を開けるやいなや、一気に城外へなだれ込んだ。
一分(いちぶ)に満たなかった戦機は、いまや優勢そのもの。
平山・酒井ら勇士が次々と城外戦を繰り広げていくのをよそに、馬出(うまだし)を駆け下りた松田の部隊は、ひたすら前進して上杉の本営を脅かす。
ここでみせた深紅の甲冑をまとう松田孫太郎の奮戦は、尋常ならぬものがある。
上杉勢が()み名として呼んだ「臼井(うすい)の赤鬼」に相応しく、巨馬で敵中枢に突撃すると、群がる敵兵を大刀で()ぎ払っている。
やがて刃こぼれした無銘(むめい)業物(わざもの)が使い物にならなくなったと知るや、馬上に飛びついた雑兵の首をへし折り、奪った槍を振り回している。
合戦は、臼井の城方(しろがた)の勝利に終わった。
その後の晴雨を挟む小競り合いで、もとめる戦果を上げられなかった上杉勢は、とうとう臼井の城をあきらめた。
決死にありながら、息絶える寸前まで勝敗を投げなかった。
逸話を想起した光秀は、鬼謀(きぼう)の軍配者を改めて見据えた。
「比類のない叡智(えいち)から、数多(あまた)の将が手元に置くことを恐れた。その白井胤治は、わたしに北条の(いぬ)となることを望むか」
瞳で射抜いたまま、光秀は返事を待った。
雪駄(せった)笠蓑(かさみの)の収益が芳しくなかったときには、妻の煕子(ひろこ)が朝倉家の歌会で費用を捻出したときのように、密かに髪を売って生活の足しにしていたと知り、激しく胸が痛んだ。
己の不甲斐なさに文句のひとつも言わず、言われもしない内助で家計を支えていた。
そうと気づいたところで、何一つ女らしいものを買ってやることもできない。
切々とした負の連鎖を断ち切るべく、光秀が詰め寄ったところ、白井胤治は(つぐ)んでいた口を開いた。
「北条に未来はない」
「未来はない?」
「いずれそうなる。それでも老い先短いわしには、(つい)棲家(すみか)となった。聞いてなお、貴殿に骨を(うず)める覚悟はあるか」
あまりの唐突に光秀は返辞(こたえ)を失った。
氏族には涙を呑んで死地に赴かねばならないとの(おし)えがある。
後難を顧みず、ひたすら邁進(まいしん)する。
そこではあらゆる凶刃を振るうことがゆるされている。
しかし侍の武の本道は、いにしえから破邪顕正(はじゃけんせい)としてのもの。
主君に忠義を示すため。
祖国を護るため。
そしてなにより、目の前の愛する現実を守るため──妻と幼い嫡子たち。美濃時代からの数少ない知己(ちき)である妻木家の下人たち。生まれて初めて越前入りし、道往く者を漫然とながめていたときから慕ってくれた、一乗谷の下士。家族同然となった商人。領民たち。
彼らとのつながりを捨ててまでそうすることが、はたしていまの自身の務めなのか。
「貴殿はまだ若い。生涯をささげるに値する国とは、研鑽(けんさん)した策理ではなく、摂理で悟るもの。しかと見定めることじゃ」
寒梅を仰いだ光秀に、白井胤治は北条家の客将として、土豪の岡見氏ともども、上杉勢の佐竹・多賀谷ら両氏と対立していた江戸崎城主、土岐治英を紹介してくる。
竜ケ崎城の改築にかかわる約定から、城主に任じられた土岐胤倫が、常陸国鹿島郡の烟田城(かまたじょう)に鉄砲を売り渡したことが(つまび)らかとされる。
「関東管領の武威を示した上杉に、相模北条では武田と手を組もうとする者が出始めているが、()えた甲斐の虎など、越後の龍と大差はない」
「…………」
「幸い北条には、韮山(にらやま)という黒金(くろがね)の宝庫がある。貴殿は砲技を磨きつづけろ。そしてどの地にあろうと、つくる者とあつかう者、それらをつなぐ者がいることを忘れるな」
白井胤治は木杖を拾うと、編み笠を直した僧衣を翻す。


あれから紆余曲折(うよきょくせつ)を経た明智十兵衛光秀は、長岡藤孝と仕えた織田家で将器を覚醒している。
「海を渡る(おとこ)たちは、天水の理だけではなく、海上から覗くことのできない暗礁(あんしょう)の地の理を習得していた。わたしにそのことを教えてくれたのは、織田家で航海術を教えてくれた九鬼嘉隆(くきよしたか)どのだ」
嬉しそうに忠興と談笑する惟任光秀は、この先、あらたな〝目〟を手にしていくのだろうか。
箕六は馬路からの退陣を促したのち、忠興のはなれた隙に、携帯していた瓢箪(ひょうたん)を惟任光秀に割譲(かつじょう)する。
「上杉征伐」の名目を掲げた同盟者として、織田と休戦協定をむすぶ以前から、北条方の土岐治英と惟任光秀の橋渡しを担う、烟田城主の書状である。
「これを惟任日向守どのへ」
瓢箪(ひょうたん)竹筒(たけづつ)は、城砦や山河を疾駆する天馬役にとって、水を携帯するための旅具であり、密書を運ぶ手段のひとつである。
拝謁(はいえつ)を差配した安土の八幡商人(はちまんしょうにん)から受けとった瓢箪の芯柱を外すと、内側に刻まれた烟田氏の家紋、細川九曜と似た九曜巴(くようどもえ)に惟任光秀の興は注がれる。
ところが献上した密書を拝見する刹那(せつな)、惟任光秀は中身を開くことなく固辞した。
「処分しろ」
そう言われたところで、箕六にとっては手に余る代物でしかない。
「これは土岐治英どのの意を含む書状にございます。目を通さずに焼かれたのでは、わたしの立場はありません」
「北条の将だったな」
「はい。昵懇(じっこん)烟田(かまた)どのの手の者、神吉某(かんきなにがし)なる兵が、安土に住まう八幡商人を通じ、坂本城に届けさせたと伺いました」
「存じている。だから焼き捨ててかまわんと申したのだ」
惟任光秀の頑強な姿勢に箕六は困り果てた。
処分するのは(はばか)られるし、かといってそのままというわけにはいかない。
いずれ心境の変化はあるとの予見から、いましばらくの保持を決したところで、別の小姓に発見されたが最後、密書の存在は露呈(ろてい)する。
「この陣所でみたことを思い出せ」
考えを巡らせた箕六に、惟任光秀は(まなじり)を向けている。
発とうとした長岡の陣所──忠興や可児才蔵の歓待で馬場(ばんば)を過ぎ、砲兵たちの鍛錬をみせられた。
そこで急にあらわれた忠興の弟、昌興と相撲をとらされてまもなく、ちかくの幔幕内(まんまくない)に入った惟任光秀らに追従(ついしょう)した。
そこまで遡流(そりゅう)したとき、箕六の瞳孔(どうこう)はおおきく開いた。
「斎藤家の一団がおりました」
陣幕内の床几(しょうぎ)に腰をおろしたときには、主君の急訪で緊張の色を隠せず、冷や汗をぬぐうように修練場の案内を可児才蔵に任せた長岡家の鉄砲頭の近くで、斎藤家の鉄砲隊とみられる集団が指南を受けていた。
いかに盟輩(めいはい)とはいえ、明智の与力衆に名を連ねた斎藤利三・長岡藤孝らの確執は、家中では有名だった。
「砲火の鍛錬(たんれん)を共有するなど、明日にも大地の虫が騒ぎ出すのではないか。そう感じたはずだ」
惟任光秀は、地震を引き起こす土龍の眷属(けんぞく)を引き合いに、斎藤家の部隊事情について明かした。
「内蔵助の旗下では、多数の砲兵は置かれていない。それも部隊中枢は現在、丹波西北の氷上郡に駐屯し、黒井の城を抑えている。ただでさえ貴重な砲隊の組頭(くみがしら)を、他家の、それも丹波最東の宇津攻城で付城とした周山と、丹波亀山城とを結ぶ北南線の要衝、馬路の長岡陣内に調練で送り込むなど、理解しかねる派遣だ」
「はい」
「もしや八上の重囲に内蔵助が手を出そうとしているとの報せに関係しているのではないか。そう考えたとき、藤吉郎どのに言われたことを思い出した」
惟任光秀は、近臣に視界を遮る壁となるよう示唆すると、母衣(ほろ)で巻いた塊をこちらにみせた。
「これは悠遠から丹波入りした秀吉どのの弟、羽柴秀長どのが入領した折、内蔵助の陣所にあったものだ」
茶褐色の飛沫がとんだ母衣巻きが解かれると、漆塗りの折れ矢が出てきた。
(うるし)を武器に塗布するのは、苦無(くない)影矢(かげや)など、暗闘で光が吸い込むのを嫌う忍兵の常套手段(じょうとうしゅだん)である。
「このような短弓に合わせたものは、わが軍にはありません。丹波の地侍は戦場工作に秀でた者が多く、戦地のやりとりは忍文字(しのびもじ)に起こすのが習わしのようですが、(まれ)に物品で伝達を済ませるとも聞きました。中折れの矢は、『割合(かつごう)して一致す』とした、いにしえの陰書(密書)になぞらえた暗示であると、お味方の丹波衆からうかがっております」
箕六が審美したそれを返したところ、惟任光秀は中折れた矢羽の根元をこちらに示す。
「この矢については仔細(しさい)(たまわ)っている。内蔵助の伝馬役となった根来衆の草の女、与次郎が陣中見舞いに献呈(けんてい)したものだ」
「与次郎というと、斎藤家に出入りしはじめた、妙齢(みょうれい)の女ですか」
「そうだ」
丹念に漆を重ねた矢矧(やはぎ)の下で、僅かに浮き上がる焼き印をかるく撫でたまま、惟任光秀は折れた黒矢を手のひらに納める。
「しかしお前も憶えているだろう。昨年十二月、内蔵助は亀山城内で長谷川秀一どのと会っている。そのときにこの黒矢と同じものが内蔵助の手に渡っていて、漆の下には長門三ツ星が隠されていた」
「毛利の家紋が……」
箕六は蒼白した。
もしそれが本当なら、羽柴秀吉の交戦する毛利輝元の部隊と通じた者が、明智の家中に潜んでいることになる。
丹波で織田に抵抗する国人たちの離間工作だろうか。
「百姓どもは草のなびきよ」
かつて織田信長はそう評していた。
形勢次第で織田から反織田に転じることもあれば、そこから再び寝返ったりもする。
そんな領民たちは、時宜(じぎ)にかなう者に従うのが常だ。
この丹波という狭い領域においても、根を張った百姓・地侍の武装蜂起でいまの趨勢(すうせい)を手にした明智軍を見定めている。
たった一枚の偽書であろうと、ひとたび信用崩壊が起きたら最後、味方についた国人たちは、(せき)を切って離れていく。
箕六は惟任光秀を仰いだ。
丹波平定を盤石とするには、八上城の重囲に部隊を割いた斎藤利三を、いますぐ更迭(こうてつ)すべきではないか。
歯の根が合わなくなった請願をぶつけると、惟任光秀はこちらに本意を明かした。
「内蔵助が八上の重囲に分隊するよう、この矢を長谷川秀一どのに渡したのはわたしだ」
「惟任日向守さまの……それは……、どういうことでございますか」
「筒井どのに不審がある」
告白に驚いた箕六の前で、惟任光秀は京都所司代の村井貞勝より賜った廻状の存在を挙げた。
記憶の限りでは、明智秀満の小姓時代、京都へ飛んだ折に接遇した村井貞勝は、寺社の冠木門の修繕で余った木曾材を利用し、文箱をふたつ、つくらせていた。
惟任光秀によると、うち片方は居城の近江坂本に安置され、筒井順慶に不穏な動きがみられることを筆写した廻状と、中折れの黒矢が納められていたという。
「大和の松永父子。播磨三木の別所。そして摂津有岡の荒木村重が反旗を翻したことで、織田さまは諸将への猜疑(さいぎ)を強めた。長谷川秀一どのが安土城からこの丹波に派遣されたのは、不安視した者を人定(じんてい)するため。そうと知ったわたしは、陣没前の小畠永明どのに(はか)り、丹波国内の織田勢をつぶさに調べた」
「では、内偵(ないてい)をすすめた結果、筒井どのが浮かんだのですね」
小畠永明の陣没直前、書状の件で何度も亀山と余部の城を往還させたのは、それが理由であったかもしれない。
気づいた箕六は、
「筒井順慶どのは栗柄砦(くりからとりで)で惟任日向守さまの滋養を見守っておられました。羽柴筑前守どのの介添えとはいえ、明智秀満どのの要請で大和から着到した先は、戦功のない砦番。不満はあったはずです」
「しかし私の身近にいれば、過分に人と情報は舞い込んでくる。筒井どのが快諾したのは、そうすることで知り得なかった事実を傍受(ぼうじゅ)し、(おの)が利潤とするためのものであったかもしれない。宇喜多直家を知っているか」
「はい」
一昨年の九月に起きた天神山城の合戦で、浦上宗景に対する下克上を果たして備前国を得た、狡猾な智将である。
違背した主君の支配領である備前国はもちろん、近隣の備中・美作の一部まで併呑したものの、播磨国に逃れた浦上宗景の旧臣勢力は衰えず、領内で頻出した地侍の反乱と百姓一揆に悩まされている。
「ふた月ほど前、旧臣勢力の蜂起で幸島を奪われた宇喜多直家の家臣団には、羽柴の軍師、竹中重治どのと内通した者がいる。敵情を利すのは上策だ。しかし竹中どのには悪しき噂もある」
「うわさとは」
「話すよりは実際にみた方が早い」
惟任光秀は割譲(かつじょう)した瓢箪(ひょうたん)を手にした。
板材の残余でつくられた瓢箪内部には、二本の芯柱(しんばしら)が通っていた。
合わせ鏡のように削られた左右対称の部材をみても、それぞれ芯柱を通す穴が設けられているため、内部を走る二本の芯柱は、瓢箪に見立てた部材をつなぎ合わせると同時、外見上はそうとわからないよう、張り出した箇所は研磨し、(にかわ)の接合部位は木粉で埋められている。
継手に組まれた芯柱を脇置いた惟任光秀は、精巧に生み出された瓢箪内部の家紋、九曜巴を示した。
「凝らしてみろ」
命じられた箕六は視線を合わせた。
ながれるような木目を荒々しく削った烟田氏の家紋には、潤沢な漆が被せられていた。
率直にいえば、鋭利な断面の彫刻に、腕の悪い塗師(ぬし)が漆を重ねたものでしかない。
事実、漆が必要以上に塗布されているのは、所々のひび割れを消すためと察せられる。
箕六が真摯に述べたところ、惟任光秀は無言でこちらの手首をとった。
「指先に感じたものを言え」
惟任光秀につかまれた右手人差し指が、刻まれた九曜巴の紋の表面を滑りはじめた。
しずかに動きつづけるあいだ、幾度となくおぼえた感覚を箕六は告げた。
(みぞ)と段差があるのか、指が何度も跳ねました」
「見事だ」
箕六の言葉に惟任光秀は笑みを浮かべた。
「この瓢箪に限らず、材木を彫刻した場合、漆は陶磁器の釉薬(ゆうやく)さながらに塗布される。その際、表面は平らとされ、細かな溝をすべて消し去るのが塗師の技だが、お前がいま感じた通り、妙な段差と亀裂が走っている。目にも明らかなほど肉厚な塗布(とふ)は、おおかた不慣れな者が内部に隠された書状を湿気から守るため、乱雑に行ったのだろう。ともすると、紋様の表面で、これほど鋭利な溝が生まれるのは不自然だ」
「それはつまり……別の者が、後から細工をほどこした可能性があるということですか」
「かもしれんが、もっと分かり易い者がいる。これを削った本人だ」
凄然(せいぜん)と惟任光秀は言い切った。
「この瓢箪には何度か使用された形跡が残っている。芯柱の継手や仕口には内部剥離がみられるし、外面は風雨にさらされたまま旅装と擦れた傷が見受けられる。しかし何度開けようと、これだけ分厚い漆を重ねた刻印が崩れるのは滅多にない。あったとしても、厚膜に細かな傷跡が走る程度だ」
あっと箕六は思った。
刻まれた九曜巴には、鋭利なひび割れが見受けられた。
さきで開けた衝撃の可能性は捨てきれないが、溝の断面に無数の尖った傷があるあたり、惟任光秀の指摘した「不慣れな者の痕跡」という見立ては、的を射ている気がした。
「これが密書を届ける〝箱〟だとすれば、これを開けた者で鋭利に家紋を修正する者はいない。いるとしたら、痕跡を消そうと考えた者。あるいは継続使用で生じた破損を直そうとした者が疑われるが、奇妙な偶然というものはある」
惟任光秀は瓢箪から目を離すと、母衣巻きの折れた黒矢を箕六の前に置いた。
「村井貞勝どのがこれを届けてくれた真意については測りかねるが、少なくとも好意は感じていた。その中折れの黒矢とよく似た漆塗りの瓢箪が、明智の居城坂本でお前の手に渡った。それも相手は三河勢と停戦合意を結んだ北条家の忠臣だ」
「…………」
「ひょっとしたら明智の紐帯(ちゅうたい)を緩める謀書ではないか。そう睨んだからこそ、わたしはすみやかな焼却を命じた」
放るやいなや、惟任光秀は引き抜いた脇差で黒矢の根元を削りはじめた。
にわかに重鈍な漆は落とされ、膜下に秘されていた家紋がすがたをあらわした。
「これで証明された」
中折れた黒矢に刻まれた印は、毛利家の長門三ツ星ではない。
多紀八上の城主、波多野秀治の掲げる出轡(でくつわ)の紋である。
惟任光秀の威にさらされた箕六は平伏した。
無自覚だったとはいえ、主君に偽書を提出してしまった。
連座の恐怖から、虚心坦懐の謝念を吐いた。
もっとも、そうする前に箕六は喉をつかまれている。
「ここでは騒ぎが大きくなる。(ただ)すのは亀山に戻ってからだ」
「手討ちに……なさらぬのですか」
「委細なく討てば、この陣所でお前を知己(とも)と感じた昌興どのが、明智に牙を剥く」
惟任光秀は近臣に箕六の移送を命じてまもなく、瞬断に馬路の陣を払った。
あまりの性急さから忠興・昌興ら兄弟の見送りは間に合わず、かろうじて追い縋った番兵が路傍で平伏していた。
一行は東の京口から丹波亀山城に舞い戻ると、東二之曲輪に置かれた切妻屋根(きりつまやね)塀重門(へいじゅうもん)を抜けていく。
さきには通門と番所が一体化した御堂が建っている。
柿葺(こけらぶ)きの建物裏手には(きざはし)の段々が設けられていて、右手の棟門奥(むねもんおく)にみえる懸橋(かけはし)を越えれば、敷居を跨がずに天守北の中州(なかす)に上陸できる。
「行くぞ」
惟任光秀の意図する場所は、棟門から左手の御堂に沿って折れすすんだところにあるらしい。
相横矢(あいよこや)で玄関とつながる堂宇(どうう)の奥段を上ったところで、箕六は練塀(ねりべい)に囲まれた土蔵に押し込まれた。
「お前の届ける書状に韜晦跡(とうかいあと)がみられたのは、小姓から伝馬役に抜擢したときからだ」
近臣が荒縄で箕六を緊縛し終えると、惟任光秀が言い放った。
()えて伝えなかったが、あの瓢箪はかつて藤孝どのが懇意(こんい)の丹波国人との交換に用いていたもの。でたらめな塗漆(としつ)は、刻まれていた九曜巴が細川九曜の印に手を加えたことを隠すためだ」
「…………」
「村井貞勝どのから譲り受けた中折れの黒矢については、すでに馬路の陣所でつたえた通りだ。長谷川秀一どのの読みが正しければ、波多野勢に内応した者は、筒井順慶どのの朋輩(めいはい)。それも近江坂本の地にいる」
普請道具に満ちた土蔵のなか、箕六は冷暗を吸い込んだ。
明智の本拠、近江滋賀の坂本城内でも選りすぐりの猛者と(うた)われた近臣は、こちらに呻吟(しんぎん)をみせていた。
いつからだろう。
明智秀満の秘命から、惟任光秀の新小姓として、ほどなく伝馬役としての立場を得たときには、彼らの妬心(としん)を感じていた。
それでも明智軍の侍大将たる惟任光秀が、傷痍(しょうい)で戦線を離脱した衝撃から、傍役(そばやく)として支えはじめたこちらを認めていた。
「内容は……存じておりません」
箕六は声を絞りだした。
「織田さまに献上した秘蔵刀の返礼として、明智秀満どのが拝領した幼鷹の授受に伴い、坂本城を訪れた松井有閑どのを出迎えたところ、初顔の八幡商人を紹介されました。馬路の陣所で提出した瓢箪は、そのときに『土岐治英どのの意向が示された、烟田氏の密書である』と伺ったものです」
忸怩(じくじ)をまとう兵視にさらされたまま、箕六は惟任光秀を仰いだ。
「商人の名は」
「その鳳来屋の主、須藤彦四郎右衛門という商人は、安土のどこで紙漉(かみすき)(和紙職人)や表具師(ひょうぐし)(襖や障子張りの職人)の商いをしている」
丁々発止の詮索が一巡したころには、惟任光秀は温和を取り戻している。
そうした淡い期待が砕かれようと、箕六は狷介(けんかい)な主君の俎上(そじょう)で沙汰を待った。
「お前はわたしの小姓でありながら、伝馬役となったあとも、旧恩の明智秀満どのや長岡忠興どのに逐次(ちくじ)、明智全軍の動きを報じている。さきで堂山砦に向かわせたときも同じだ」
「はい」
箕六が抗うことなく応じるや、惟任光秀の(まばた)きがとまる。
「内蔵助の動静を克明(こくめい)に伝えていたのだろう。あの者は、『新生の惟任光秀』としてわたしを担ぎ上げたことで、明智の与力衆を越える権を欲している」
「新生の惟任日向守さまとして……するとあなたは」
「羽柴筑前守どのの陣小姓をしていた、根来衆の十兵衛だ」
いわれた瞬間、眼前の主君に対する箕六のわだかまりは消えた。
同時に耳目の届かない土蔵に運ばれた意図を理解する。
場の将兵すべてが、主君の手足というべき腹心だった。
「美濃の系譜につらなる傍流が、世嗣をめぐって争うのはよくあること。軍内で肩を並べていれば、なおさらかもしれん」
そこでわたしは長谷川秀一どのにひと芝居打ってもらい、内蔵助の鬱屈を八上の攻城に仕向けることにした。
おおきく息を継いだ惟任光秀に、箕六は純粋に(たず)ねた。
「長谷川どのを介し、亀山城内で中折れの黒矢を内蔵助どのに示されたのは、筒井順慶どのとの連環(れんかん)(あらた)めるためですか」
「お前を含めてな。しかし摂津有馬の三田城を攻囲した羽柴の補給支援を仰せつかったとき、安土城から遣わされた長谷川秀一どのは、わたしにこう言われた」
惟任光秀の|裂帛『れっぱく》が近間となる。
「氷上黒井と多紀八上を分断した二城の攻囲は、傷病に悩んでいた味方の将兵にとって、部隊損失を出さずにすむ用兵術だ。そして停滞を(いと)う織田さまと相容れない方策でもある。長谷川どのは、非情に成果をもとめるあの御方を満足させるため、明智は見得を切らねばならんと言われた」
「見得、ですか」
「ああ。それも大言壮語とならぬ大見得だ」
惟任光秀は、威迫そのまま、腰に()いた地藏行平(じぞうゆきひら)を抜いた。
雲の散った乱れ刃が正眼に落ちついた刹那(せつな)、それは箕六の前で消えた。
一陣の刃風を浴びた身体は、後ろ手に縛られた硬直を忘れたかのように、ぼうっと反射をみせる。

斬られた────

理解した恐怖は早鐘(はやがね)を打っている。
だが、目の前に緋血(ひけつ)はない。
動悸(どうき)の狂った自躯を(いさ)める瞳には、ただひとつ、虚空を裂いた迅刀(じんとう)が残っている。
伝馬役(てんまやく)佐々川箕六(ささかわみろく)懊悩(おうのう)は断ち切った。これからは因習に惑わされず、わたしのもとで任を全うしろ」
(みね)を下げ、逆風(さかかぜ)に空を()かせた惟任光秀は、しずかに納刀している。
場にいた将兵が動き出し、清冽(せいれつ)にこちらと肩を並べたかとおもうと、一斉に低頭している。
愚かにも謀書を献じた失態を(ゆる)された。
それどころか、こちらを信用して素性を打ち明けている。
一切を包んだ主君を前に、箕六は積厚流光の誓いをもって平伏した。

土岐の鷹⑤

土岐の鷹⑤

補佐役

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-28

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著作権法内での利用のみを許可します。

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