土岐の鷹④

雲心

   四


 翡翠(ひすい)にかがやく(いわお)には、浦河のもとでくすぶった浜砂が吹きつけていた。
一年前の二月、根来寺の杉ノ坊と名乗る僧侶が恭順(きょうじゅん)したことから、織田の軍勢は紀伊・雑賀の陣の終止符を打つべく発った。
(さか)しらな坊主どもを屈服させろ」
すみやかに諸将へ下知した信長は、同年二月二十二日、行軍先の志立で自軍を二手に分けた。
主な行軍路は内陸と沿岸部に沿うものだった。
土地勘のある杉ノ坊ら根来衆(ねごろしゅう)雑賀三緘衆(さいがみからみしゅう)が雄ノ山峠の案内役を買って出た山手の部隊は、佐久間信盛、羽柴秀吉、荒木村重、別所長治、別所重宗、堀秀政ら野戦に秀でた部隊が、第一陣にひしめいていた。
対する浜手では、滝川一益と丹羽長秀を双頭とした中野城攻めとして、明智光秀と長岡藤孝の二部隊は、筒井順慶と大和勢を先手に参陣していた。
 後者の部隊は、転地に追われたせいだろう。
淡輪(たんのわ)(丹和)まで進軍したときには、難所といわれた岩灘(いわなだ)を前に、絶句した者は少なくなかった。
「ここからさきは物見櫓(ものみやぐら)の樹海だ」
一寸先は闇と心得よ。
告げた筒井順慶の卓見から、淡輪に陣拠(じんきょ)を据えた明智の主力部隊は、岬町孝子に南軍する。
そこから孝子峠、平井峠、木ノ本峠を越えつつ、攻撃目標に定めた中野城の北の二城──長尾城と木ノ本城からやってきた敵部隊を各個邀撃(かっこようげき)する、三方展開が決まったのだ。
明智光秀と長岡藤孝は、「散陣において両翼には最要の将を配す」とした軍師の常道を()れるかたちで滝川・丹羽ら二将の意に従い、彼ら二翼を補佐する中央部隊として、人馬に障る行軍は控えていた。
理由は後方にいた織田信長の四子の派遣部隊を含む第二陣の前衛を仰せつかったことにある。
ようするに明智の軍勢は、信長の直轄部隊の先遣を司る部隊だった。
滝川一益と丹羽長秀らにつづく道すがら、神出鬼没とされた雑賀の砲兵に対し、かつてないほど神経を尖らせていたのは、不慮の狙撃に対する危惧心だ。
すでに東の根来寺から寄せる山手の部隊では、堀秀政の軍勢が、そうした伏兵の弾雨に遭っていた。
名だたる将を討たれて潰走したとの報が錯綜(さくそう)するより先、軍令順守と警戒強化を下知した判断は、浮足立った自勢を踏みとどまらせるためだった。
紫陽(しよう)が傾けば、山汐(やましお)をまとった零陵の風は、我先と樹林を駆け抜けていく。
幾千の波濤(はとう)が岸壁を削るすがたは(うしな)われ、代わりにやってきた河水に耳を奪われたまま、おとずれた星雲の(またた)く闇を、どう生き抜いたのか。
無塵のざわめきに同化しては、地を這う人声に槍穂(やりほ)を返していく。
野人のごとき群影は、健剛な山郷(さと)への深入りを無事、果たさんとする。
そう。
鋤鍬(すきくわ)や竹槍で突撃してくる民を(ほふ)るなか、積まれていた薪木(まきぎ)の隙間からこちらを射抜く、気高い瞳の存在に気づかぬまま──。
丹波亀山城と北部の馬路をつなぐ小砦で、根来の郷の鎮圧を浮かべた斎藤利三は、自身の腕が震えていることに気づいた。
馬廻衆のひとりが痩馬(やせうま)から引きずり下ろし、首を掻こうとしたところを自身が一喝、人物を織田に投降させた。
報告で武譚(ぶたん)として伝えたそれは真実ではない。
あのときあらわれた蒼き武人は、場にいたすべての味方を黄泉(よみ)に送っていた。
いや、押送(おうそう)するはずだったこころは、ただひとり、急所を避けていたこちらを見下ろすと、突然あぐらを組み、磊落(らいらく)に掃討した中太刀を己の首に運んでいた。
(介錯もない土着の争いに、氏族の誇りを失わぬ者がいる)
無意識のあまり、斉藤利三は素手でその太刀腹を掴んでいた。
男の瞳に怒りや悲壮はみられなかった。
ただ、純粋な何かがある。
説示(せつじ)すら浮かばぬ幻光をみつめていると、男は諦観(ていかん)に目覚めたのか、まとっていた錬気を解いた。
「この戦でわれらはしばらく動けない。あなた方、織田の勝ちだ」
男は薄衣で血を拭った中太刀を払い(ざや)に戻したのち、処遇をこちらに委ねた。
鞘を走る白波は、奉納の証だろうか。
注連縄(しめなわ)紙垂(しで)が落とされた鳥居の残骸を映すなか、斉藤利三は重厚な粘りをみせた鍛刃(たんじん)にしばし見入った。
「御身を預かる者として、これはお手元から離れぬよう尽力する」
織田に迎え入れるためには、いかなる助力も惜しまない。他意を捨てた宣誓をもって、男に投降をうながした。
「怪力無双の内蔵助さまが陣所の文机(ふづくえ)で思案とは、悩める信賞必罰でもありましたか」
太刀拵(たちごしら)えを新調した刀の刃紋に目を移すあいだ、寝所の入り口で燃えていた篝火(かがりび)が騒ぎ出す。
手燭に貰い火した草の女、与次郎の仕業だった。
()れ者が。このような夜更けの目通りは控えるものだ」
「これは意外な。内蔵助さまは昼夜を問わず卒兵に耳を傾ける、寛大な御方と存じていましたが」
日夜の従軍のみならず、交代で斉藤利三の身辺警護につき、寝所の警戒も怠らない馬廻衆(うままわりしゅう)に対し、与次郎は臆することなく返している。
斉藤利三は、猛者共に囲まれようと怯まないすがたに笑みをもらすと、開口一番、
「その者は我に吉事をもたらす」
寝所の御簾(みす)から出した向こう(ずね)を「鬱陶しい」とばかりに振りまわし、馬廻の者を遠ざけた。
「寝所にしては、いささか不用心でございますね」
こちらの人払いに気を良くしたのだろうか。
火の粉が弾けた手燭の中身を、そっくり陣灯に放ったところで、与次郎は本分を全うした。
「仰せの品は、氷上黒井の天守に隠されたという、蒔絵(まきえ)聖餅箱(せいへいばこ)に納められていたことが分かりました」
「やはりそうか」
数日前の見立てを穿(うが)つ詳報から、斉藤利三は充足を深めた。
かつて山城の国郷に分け入った第一次丹波侵攻では、惟任光秀の先遣として、内藤如安の守っていた桑田郡の八木城を攻囲した。
阿波三好の家臣でもあった切支丹武将の城は、丹波平定の要衝とみなされて以後、東に築城予定だった丹波亀山の地侍と合従連衡(がっしょうれんこう)し、西面の八木城と北面の宇津城を睨んだまま、さらに西の舟井郡、北の何鹿郡(いかるがぐん)、北西の天田郡と、順調な行軍を描いていた。
その甲斐はあったのだろう。
丹波の半国を平らげた織田勢は、騎虎(きこ)の勢いそのまま、未消化だった山城を残すかたちで、最西部の氷上郡に君臨する猪ノ口山の城、氷上黒井を視野とした。
ところが氷上黒井を守る豪族、赤井氏の投降を促すあいだ、以西の但馬国にある竹田城の増援要請が重なってしまい、氷上の黒井・国領の二城攻めは、温存していた主力部隊を欠く殲滅戦となってしまった。
「山岳に富んだ氷上黒井の第一次征伐では、私は用兵に長けた萩野直正の抗戦にあたっていた。最前線の辛苦とはいえ、揺れ動く味方の軍笠を鼓舞しつづけることは、己の怯懦(きょうだ)を払いのけるためでもあった」
斉藤利三は過去の受難を与次郎に(ほの)めかす。
「山下の曲輪(くるわ)を攻撃したわれらに対し、氷上黒井の城方は、助命を請う体で駐屯していた明智勢に使者を出している」
「城の明け渡しは為されるはずだった。その矢先に起きたのが、波多野秀治の謀反でしたか」
「そうだ」
噛み締めた斉藤利三の(びん)に、(つい)えた手燭の残煙が絡む。
天正四年(一五七六)五月十五日、丹波国中南の多紀郡八上の城代(城番)として、織田に与していた波多野秀治は謀反を起こした。
明智勢の中衛を担っていただけに、味方となった丹波国人らの瓦解は早く、その時点で織田軍の戦果は一敗地に塗れた。
その悪計を描いた波多野秀治は、破竹に進撃する明知の威勢から、いったんは恭順姿勢をみせたとはいえ、内心は備後国、鞆の浦に身を寄せた足利義昭を崇敬(すうけい)していた。
(丹波の平定寸前で、このような裏切りに遭うとは……)
総崩れとなった丹波勢を前に、明智の一隊を仕切る斉藤利三は馬鞍(ばくら)を叩き、陥落寸前の城を捨てた。
惟任光秀の本軍から追手を引き剥がすため、奮戦した最後は物乞い同然の落人(おちうど)となっている。以南の摂津国最西、播磨国平定の戦略拠点とされた三田城に駐留する羽柴勢に救出されたときの恥辱は、とても口上にはあらわせない。
「よもや仇敵(きゅうてき)の城に探しものがあるとは」
斉藤利三はほくそ笑むと、篝火(かがりび)が投影された幔幕(まんまく)を目で追った。
「与次郎よ。蒔絵の聖餅箱に納められているという話だが、どこで手に入れた」
「氷上黒井の城を置く猪ノ口山より北西。千丈寺砦の夜番兵を捕らえて吐かせました」
「なるほど。しかし聖餅箱は伴天連(ばてれん)どもの持ち物だ。この丹波で切支丹(きりしたん)に改宗した国人といえば、落城した八木で没した内藤如安しかおらん」
「丹波は朝廷にちかいため、御仏の教えは強いもの。明智の軍でも、切支丹を声高に叫ぶのは、立場を確立した御方しかおりません」
「迫害をおそれるあまり、切支丹は他宗とうわさを共有しない。人林(じんりん)に紛れているとなると、絞り切れんな」
斉藤利三は繊弱(せんじゃく)な灯に割砕した薪木をくべた与次郎をながめたのち、
「氷上黒井の天守に忍路(おしろ)はみられなかった。北方から攻めたわれらの目を盗んで運ぶ場合、三段曲輪をおりた南の興禅寺を抜けるしかない。それも途中にある水の手曲輪は、味方となった丹波勢が目を光らせていた」
「……落ちのびようとした領民はどうされました」
やや黙考した与次郎が声を落とした。
「城内に逃げ込んだ氷上の百姓どもか」
「はい」
「織田の家中軍法に(なら)い、身体を(あらた)めた上での沙汰(さた)を出している。飢えた雑兵どもの鎮撫(ちんぶ)とはいえ、女と童は苦痛だったはずだ」
「……どなたが担当されましたか」
「無論、織田方についた荒木藤内や小畠永明ら丹波国人だ。明智勢で報告を受けたのは、私と秀満どのだったか」
「ふふ。やはりあの男が関わっていましたか」
何かを察した与次郎は、「ほんの座興とやらですが」と含みを添えたまま、するすると巻物の束紐(たばひも)を解いた。
開いた拍子に紙が舞うも、彼女の鉄針が音もなく忍び寄る。
逃げ水のように動いたそれは、鉄の杭芯(くいしん)によって(はりつけ)られた地面で、吹き上げた炎のゆらめきとともに消えた。
一瞬の出来事だったせいだろう。
斉藤利三は「おお」と驚声を発した(いか)めしい顔を近づけ、睫毛(まつげ)をしばたかせた。
「いまのはわれら根来の郷につたわる、秘伝の焔硝(えんしょう)(火薬)です」
「秘伝の焔硝だと」
「はい」
与次郎は栓を抜いた竹筒から出したばかりの丸薬を手のひらで転がす。
「雑賀と近縁の根来では、火縄のほかに焙烙(ほうろく)(発破向けの火薬玉)もあります。以前はこのように練り込まれた丸薬を火矢と併用していました。しかし大陸の薬書や南蛮商人が渡来してからというもの、砲術は焙烙火矢(ほうろくびや)が不用となるほど進歩しています」
「では、今し方みたものは」
「あれは鉄砲に使う焔硝のひとつで、織田式のものをわれらが精製し直したもの。披露したいのはこちらの方です」
喝声(かっせい)を発した与次郎は地面に置いた秘薬に鉄針を突き入れた。
すでに発破を至近でみせられていた斉藤利三は、また炸裂を受けては、と飛び退()いた。
もっとも屏風(びょうぶ)の虎眼をつらぬく妙刺(みょうし)から槍ぶすまに遂げた与次郎の鋭突を浴びた秘薬は、破裂なしに原形を保っている。
「奇怪なものだ。我が膝も笑っている」
斉藤利三は塵芥(じんかい)のひろがった秘薬に吐いた。
もっとも与次郎はといえば、険呑(けんのん)に手放した鉄針をみつめている。
ほどなく安堵で顔を近づけた斎藤利三を彼女が制した瞬間、秘薬は()()に弾けた。
「これが我らのつくりだした新たな焔硝です」
呆気にとられたこちらに対し、与次郎は二対の袱紗(ふくさ)を示した。
「火熱や衝撃を加えて発破するのは以前と変わりません。しかしすぐには火が起こらぬところが、この粉の良いところです」
「……自在に発破を行えるということか」
「ある程度なら可能でしょうが、まず荒天では扱えません。瓢箪(ひょうたん)や竹筒、皮袋に入れさえすれば、鉱脈の採掘はもちろん、城外暗渠(じょうがいあんきょ)の破壊工作にも利用できます。ただし──」
手慰(てなぐさ)みとばかりに二指で挟んだ包みを差し出した与次郎は、黒井城の天守に隠された蒔絵の聖餅箱について明かしはじめる。
氷上黒井の城内では、人知れず赤井派と萩野派による刃傷沙汰(じんしょうざた)が起きていた。
かつて織田信長が嫡子に殺された斎藤道三の(とむら)い合戦として美濃の稲葉山に侵攻した際、敵方の竹中重治が寡兵(かへい)をもって城を制し、血気にはやる主君を(いさ)めたことがあったが、黒井の城でも似た係争が起きていた。
なにぶん殿中沙汰ということで、祐筆記録には残されなかった。
それでも勇将として(ほま)れ高かった萩野直正が、功も少なく肩身の狭かった赤井幸家に妬まれ、食事に毒を盛られたのは、紛れもない事実らしい。
「使用されたのは羅鳥耽兜(たんなとりかぶと)です」
与次郎が蠱惑(こわく)にすり寄ってくる。
「丹波から摂津にかけた牙峰(がほう)では、それとなく自生している毒草です。枯れた母根の烏頭と側根の附子とでは、毒の量がおおきく異なりますから、微量の服薬なら強心作用が得られます」
「多めに服せば致死は免れぬというわけだな」
斉藤利三は自膝に指をのばした与次郎を冷ややかに眺める。
「水を張った鍋に放り込まれた(かわず)は、火にかけられても大人しく茹でられるときく。長期にわたって投与されたか」
「いえ」
「ならばお前のような者の仕業だな」
下腹でうごめく与次郎に、斉藤利三はわずかながらも身をよじると、
「侍医でなくとも薬効をうながすことは可能だ。あの健勝な萩野悪右衛門が、城の命運がかかった時期に病臥(びょうが)するなど、こちらを惑わす奸計に違いないと疑っていたが、まさか事実とは思わなかった」
「悲運があろうと戦は消えません」
愛撫をつづけていた与次郎のうごきがとまる。
「甲斐の信玄公がそうであったように、内外が収束するまでは、国主の死は伏せるものです。気づく者と気づかぬ者とで明暗を分けるのは、不確かなものでしかない」
「いまのお前のようにか」
(みなぎ)った斉藤利三が妖しくひるがえった腕をとる。
与次郎はそれに抗わず、帯を外していく。
「萩野直正が毒を盛られたとき、赤井幸家は腹痛をともなう程度の服毒を指示していました」
「…………」
「黒井の城内では、丹波国人のさまざまな意向が飛び交っていましたから、総意がまとまらないまま、上意下達がなされたのでしょう。下知された者は、殺害目的と勘違いしたのか、致死の毒量を煎じてしまい、たまたまそれを目撃した家中の者が不審を報じ、謀(はかり)は露見しました」
「……その時点で悪右衛門は死んだのか」
「いえ、強烈な苦味から含んだ毒茶を吐き捨てた萩野直正は、かろうじて一命はとりとめました。もっとも同席していた若衆の一人、それに真偽をはかろうとした下士数名は、帰らぬ者となっています」
「祐筆記録に残されていないなら、死没した将兵のように、猪ノ口山に埋葬されたか」
「そのように見受けられます」
なすがままに飽きたのか、与次郎はこちらの腋下(わきした)に腕を絡ませてくる。
「戦後処理の過程では、運ばれてきた敵将の首や耳鼻を検分して回り、したためられた首目録に目を通す下人がいるのはご存知でしょう」
「ああ」
「その者の伝えたはなしでは、黒井の城には女衆が五十人ほどいて、赤井の系譜にまつわる者を除くすべてが、織田軍の攻囲がはじまる直前、城内から消えていたとありました」
乳房をこちらに押し当てた与次郎の指摘が正しければ、そうした者らを不憫(ふびん)に感じた明智秀満は、密かに路銀(ろぎん)を与えていたことになる。
第二次征伐となった多紀八上・氷上黒井の分断工作を決する戦評定では、敵方の丹波衆の一部がこちらに寝返りを申し出ていた。
織田への恭順は、抱えていた所領と持ち城を接収された上での立場安堵が定石だ。
つまるところ、戦利として確認された人馬・武具をはじめとする品々を揮毫(きごう)した目録は、すでに安土の織田信長のもとに送られている。
それへの不審がないところをみると、明智秀満は目録とともに運ばれる金品のなかから(くだん)の聖餅箱を持ち出し、黒井の城から落ちのびた誰かに託したのかもしれない。
「内蔵助さまは、まんまと出し抜かれたのですよ」
やや放念したこちらに不満を持ったのだろうか。
「馬廻の者を通じ、検分には『細心をもってあたれ』と命じていたが、こちらの兵が目を離した隙に抜き取られたか」
むくりと起きた斉藤利三は、転がった火箸を握りしめると、引き続き蒔絵の聖餅箱を探索するよう命じた。
もっともそれは明日で構わない。
「苦痛が好きだったな」
そう告げるでもなく、斎藤利三は掴みとった与次郎を押し倒すと、そのまま火箸(ひばし)を突き立てる。


闇に溶けた女を見なくなってから、五日は経っただろうか。
奥山の駐屯砦にはない、数日ぶりの湿ったぬくもりを肌で感じては、脈打つ精をぶちまける。
一過のそれが済んだときには、与次郎は普段と変わらぬ訴えを残していた。
「内蔵助さま」
仰向けの小顔は、匂いたつ肢体(からだ)をひろげたまま凝視していた。
「引き受ける以上は朗報を届けます。その代わり、私との約束をお忘れなきよう」
こちらの臀部(でんぶ)をなぞるように、開いた足のかかとでしな(・・)をつくった与次郎を抱き寄せると、斉藤利三は吐息を重ねた。
「成功の暁には、所領の一部を譲ってやる」
 あのときみせたのは本心ではない。
(誰が草の女風情にやるものかよ)
体よく利用したら闇に(かえ)してやる。
所詮は暗者なのだ──北面に座した宇津城の向城として、兵一千を残すことを廻番兵に伝えるや、亀山北の駐屯砦を発った斉藤利三は、手勢とともに籾井の城をめざす。
すでに法光寺山と高城山との分断に成功していた多紀八上の攻城をすすめる籾井の支砦には、西北の氷上黒井を遠見した惟任光秀が戻る報せが届いている。
要衝だらけの街道であるがゆえだろう。
心なしか、味方部隊とすれ違う機会は多い。
とはいえそれは不思議なもので、部隊が同道で交錯すれば、かならず立場が上の部隊を下の部隊は停止して見送る条理があった。
事実、目に映る丹波の国人たちがそうであるように、明智の諸将のあいだでも、それは往々に見受けられる。
「(御牧)景重どの」
「(伊勢)貞興どの」
儀礼的な元幕臣たちですら、互いを同等の士分として扱うことは常態化している。
八上東の籾井から、宮川、山桐と、八田の嶺山を南周するように亀山の城と往還する斉藤勢などは、いち早くその空気に馴染んでいる。
ただ、一人だけ当該しない者がいる。
籾井北東の八木城を発った、長岡藤孝だ。
「前方に細川九曜の御旗がみえます」
八田のふもとを北進して並川の惣村までたどり着いたとき、下士からそれが届けられた。
「あれとはどうも反りが合わん」
自軍に先立って平野を駆ける藤孝の軍勢が近づいてきたのを受け、斉藤利三は舌打ちそのまま、自軍を山沿いに動かした。
が、そうした機微(きび)は、口に出さずとも伝わるものらしい。
「誰かとおもえば内蔵助どのではないか」
道草を食んでいた将をからかう体で、じいっとこちらを見据えたかとおもうと、藤孝は後方部隊に指示を与えている。
(どうもあの男のはらわたは腐っているらしい)
斉藤利三もその変化に気づかないわけではない。
みれば、街道中央を進んでいた藤孝の後方部隊は、こちらの進路を断つかたちで山裾(やますそ)に折れている。
このまま直進すれば、自軍は衝突する。
だが、あの男を慇懃(いんぎん)に見送りたくない。
不敵なまでに白羅紗の陣羽織をひるがえす馬上の藤孝を両眼で射貫くかたわら、斎藤利三は戦囃子(いくさばやし)の号令を発した。
より縦列をととのえた鋒矢(ほうし)の陣を構えるや、藤孝の軍勢後方めがけて突撃した。
驚いた藤孝は、すぐさま行軍停止を下知していた。
その呆然とした人馬の群れをあざ笑うように、一糸乱れぬ斎藤勢は、豪槍と化して部隊をつらぬく。
「どうだ」
言わんばかりの形相で、斎藤利三はたなびく旗指物に沈黙した藤孝に視線を向けた。接触は微塵もない。するとその馬上で高々と鉄扇が掲げられてまもなく、停止していたはずの長岡勢は、こちらの兵を避けるように行軍をはじめた。
忌々(いまいま)しい老狐め)
まさかこちらの突進に正面から応じるとは思わない。
斎藤利三の動揺が伝播した卒下は、わずかながらもたたらを踏んでいる。
藤孝にはそれが実力の表れと受けとられたのだろう。
「その程度であれば、われらには及ばぬ」
一切の集中が試されるなか、馬術と統率力をみせつけるように鞍上でふるわれた老将の鉄扇は優位を誇っている。
対する斎藤勢はといえば、かろうじて行軍速度は維持したにしろ、隊列に支障をきたし始めている。
「なんの、これしきのことで尻尾を巻く斎藤ではない」
迎春まもなくの寒地ながら、「心頭滅却すれば火もまた涼し」とばかりに己を鼓舞し、矢羽の紋を刻んだ淡茶の紗地、風へと金糸を縫い重ねた唐花の袴を合わせた、夏用の陣羽織をまとうことで旗下兵卒の手本としていた。
真冬に真夏の出で立ちで威を示す。
存外にして効果はあったと感じる斉藤利三にしてみれば、老将の挑発に乗った以上、冷や水の一杯くらいは浴びせたい。
いくら藤孝に嘲弄(ちょうろう)されようと、斎藤利三は性懲りもなく直進の(げき)を飛ばした。
それは珍奇の闘争心を剥き出した、ふしぎな人馬一体だった。
「へんなお侍さんたちだね」
沿道の平身低頭をやめた童の口を慌てておおう百姓の無礼など、もはや相手にするだけの余裕もない。
両軍入り乱れての熾烈(しれつ)な行進はしばらくつづき、ほどなく一兵卒の接触もない幕引きがなされた。
「顎を下げるなッッ」
「だらしない奴め。槍を張った前進も出来んのかッッ」
藤孝の軍勢が消えてなお、斉藤利三の苛立ちは収まらない。
こめかみの汗を拭いつつ、ほっと胸をなでおろした自兵の大喝後には、霏々(ひひ)とした砂礫(されき)の下る竪堀右手、侍溜(さむらいだまり)をひろげた馬出(うまだし)の城垣を南下する。
丘陵越しの山路を抜け、八田の嶺山西を平野に沿ってすすむこと数里。
篠山道の連山に浮かぶ籾井の城を映した一行は、鋭気を養う体で、そちらに馬首をめぐらせる。
福住の白尾山が迫るなか、堀切を仰いだ斉藤利三は、いくらか頭を冷やした。
それもそのはず、この付近は丹波国内でも有数の合戦地だった。肌身で学んだ恐怖だけに、京のみやこから篠山に繋がる「丹波口」の玄関であることを再認せずにはいられなかった。
平安より「京の七口」として、丹波口は旅人に愛されてきた。
古くは丹波国の桑田、船井、多紀、氷上ら四郡を経て但馬国に入る「山陰道」とよばれていたのだ。
ところが亀岡、園部、三和、福知山、夜久野を経た街道が付近で整備されはじめると、丹波口は二つになり、混同されることがおおくなった。
そこで新たに設けた街道のほうを「山陰道」とし、旧街道であった丹波口は篠山方面を抜けることから、「篠山道」として区別されるようになったのだ。
一年ほど前には、支城の安口を含めた籾井の城主、若干二十五の籾井越中守教業こと籾井綱利が、本明谷川の決戦で織田軍に敗走していた。
のちに安口の城から落ちのびた綱利の父、綱重が孫の孝高を藤堂高虎の家臣とさせることになるのだが、それはまだ先のこと。
松永征伐の大和から丹波に転戦してきた斉藤利三にとって、南の桂山から四国にわたった仁木勢と因縁の丹波国人が築いた天嶮曲輪が焼失し、精彩を欠いた味方の軍勢によって復興を果たした城砦は、感慨すら浮かばなかった。
(泥だらけの綿毛に等しい)
鳴らした鼻梁(びりょう)を閉じてまもなく、土塁を越えて入城した籾井には、栗柄砦から陣を移した筒井勢が着陣していた。
「奇遇だな」
城入りの叶わなかった人馬の野営準備を下知するさなか、愛想のいい丸顔がさっそく廊から顔をみせた。
他の誰でもない。
大和国で松永弾正久秀・久通父子の征伐時、織田の軍門に下った筒井順慶だった。
「これは筒井どの。わざわざ丹波に出征とは、健勝ですな」
非礼があってはと、こちらが(えり)を正そうものなら、格式めいた応接は要らんとばかりに手で払う。
「惟任日向守どのの危篤とあっては、のうのうと居城でふんぞり返っているわけにもいかん。それより貴殿まで摂津有馬の三田城攻めに駆り出されるとは、よほど荒木重堅の籠城は怖いらしい」
剃髪(ていはつ)した頭をつるりと撫でまわすかたわら、羽柴支援を命じた丹羽長秀の軍令を皮肉るすがたは、敬虔(けいけん)な僧侶と呼び難い。
御姿(おすがた)がないようだが、惟任光秀さまはすでにここを発たれたのか」
「籾井に留まるよう献言したとはいえ、すこぶる快方でな。秀吉どのに会うと残したまま、一足先に南の脛摺峠(すねずり)を越えていったわ」
「ならばわれらの役目は、仰せにあった武庫川の架橋と、西南から攻め立てる羽柴の陣支援か」
斉藤利三は以南の摂津入り後の展開を描いた。
 播磨三木攻めから一時的に丹波へと駆けつけた秀吉が発起人となり、氷上黒井の第二次征伐の要諦たる多紀八上との分断工作に部隊を傾注した明智軍は、摂津有岡の荒木村重の離反を収拾すべく、兵の南進を繰り返した織田の別遣隊を補佐していた。
「この状況でさらに部隊を割かねばならんとは、いよいよ厄年じゃ」
ぼやいた秀吉などは、すでに播磨で裏切った別所長治のまもる三木城攻めから以東の摂津入りを果たしてまもなく、多勢で寄せても落ちなかった荒木村重の有岡城攻めから外されていた。
代わりに丹羽長秀から命じられたのは、有岡孤立の一環として、西部沿岸の兵庫津から海運を通じた支援を鮮明とする毛利勢の戦場介入を阻止すべく、近隣の花隈城主、荒木元清とはるか北西にある有馬三田で籠城した荒木重堅の征伐である。
(惟任光秀さまは、それへの支援について、羽柴の軍師、小寺孝隆の叔父にあたる休夢斎こと小寺高友を通じた交換を終えていた)
斎藤利三は経緯(いきさつ)を知っている。
結果的に、有馬三田城を包囲した羽柴秀吉の栄えある〝補給部隊〟として、佐久間信盛や筒井順慶ともども、斎藤勢は遣わされたのだ。
翌早朝、斎藤利三は籾井の城を発った。
東の船坂城から運ばれた大荷駄に加え、城内の土蔵に納められていた兵糧の一部を小荷駄とした輜重(しちょう)を引き継ぐと、筒井順慶と駒を並べて南へ。
越えたばかりの峠路から、一気に摂津の国を西進した。
辺りには赤松と大樫が群生していた。
以北の丹波多紀とつながる峰が延びているせいかもしれない。
葉を落とした山景は見晴らしがよく、日没前には三味線草や杉菜のひろがる武庫川東畔に辿り着いた。
「蛙を狙った蛇が、年明けにはうようよ出てきます」
蛇の好物といわれた赤い実のなる草むらで、野陣をみつめる朧月(おぼろづき)が白けたころには、雑兵のすすめにあった浅瀬を渡河路とした。
川底に打ち込まれた杭を橋脚に見立てたのは、筒井勢の職人衆だった。
彼らの用意した橋桁(はしげた)は、組み立てるだけでいい。
あっさりと架橋を済ませると、そのまま
武庫川を越え、そびえ立つ三田の城から北西の小砦で部隊をととのえた。
「この砦は攻撃拠点にすぎねえ。むこうの付城に移ったほうが、ぐっすり寝られるぜ」
小砦で攻城に向かう部隊を補佐していた羽柴勢の蜂須賀正勝は、戦況次第で敵味方の持ち物となる「捨て曲輪」を仄めかすと、半里ほどさきの陣城を示唆した。
隣国からの派兵を得て膨れあがった荒木討伐の軍勢は、すでに二万を超えていた。
蜂須賀の任された小砦を含め、織田軍が設置した荒木重堅のこもる有馬三田の包囲陣もまた、尋常な規模ではなかった。
「有馬郡でも有数の三田城は、北側に武庫川が、はるか南には長尾川がながれている」
小砦からさらに西進するあいだ、おもむろに放たれた筒井順慶のつぶやきに、斉藤利三は無言で頷き返した。
羽柴秀吉の三田攻略補佐を仰せつかった惟任光秀が、あえて逃亡路を残すかたちで武庫川のながれる北側の東付近に向砦を設けなかったのは、敵城の西方と長尾川流域の南方とに、計二城ずつ陣城普請を命じていたためと言いたいのだろう。
蜂須賀のいた小砦にしても、あくまで監視が目的と気づいている。
むしろ気掛かりなのは、有馬三田城を囲んだ付城の位置である。
さきで蜂須賀に示された「西方の二城」については、尾根を二重の石垣とするように南東と西に虎口を置いた釜屋の城と、やや三田の城寄りの古墳跡を利用するかたちで、掘ったばかりの土砂を脇に盛土した掻き揚げ土塁・簡素な竹櫓を、着工からわずか数日で完成させた五良谷城と理解していた。
一方、攻城の最要拠点とみなした南方の二城──三田城陥落の嚆矢(こうし)として北向きに築かれた向城の有馬横山城と、そこからさらに南の長尾川を越えた丘陵で鉾楯の双曲輪を築いた宅原城については、三田に籠城した荒木重堅の戦場工作にさらされていたせいか、造成は進んでいなかった。
(あれは城ではない……)
三田に籠城する荒木重堅を「かれこれ五日は引きこもっております」と蜂須賀正勝が評していたことから、被害の少ない西方の輜重は筒井順慶らに任せ、敵の襲撃を浴びる有馬横山をめざすあいだ、遠目にそれがみえてくる。
畝状(うねじょう)に母衣武者たちを払う外法と、複雑に波打った丘頂式馬踏の木柵を支える、拙い犬走と武者走り。
相模北条の堀障子よろしく、縦横にめぐらせた土橋の区画から、堀底の移動と断崖を両立させた片薬研堀を飛び越える木橋が設けられた以外は、地味な竪堀と馬出のみで張り囲っただけの、きわめて原始的な要害。
そこらの石をかき集めて泥土に加えたのかもしれない。
指圧で穴が開きそうな練塀(ねりべい)が支える曲輪群は、まぎれもない有馬横山の城だった。
「三田周囲の四城は、普請に長けた惟任日向守どのの縄張によるものだそうな」
別れ際に発した筒井順慶のぼやきなど、的を射るどころか世迷言に思えてならない。
攻囲した有馬三田城がなかなか落ちない理由を悟った斉藤利三は、肩を落としたまま、ぬかるんだ低陵を避け進んだ。
修繕の行われていた竪堀をかき分け、砦の門前に駐屯していた羽柴の雑兵に取次をもとめた。
が、ほどなく出迎えた足軽兵から受けたのは、城入りしたはずの惟任光秀と秀吉の不在だった。
「もうすぐ陽が落ちます。中にお入りください」
告げた足軽組頭はといえば、軍支給の胴丸ではなく、百年以上前に用いられた小札甲(こざねよろい)の格好ときている。
(これは妙なところに来てしまった)
いよいよ不安を感じた斉藤利三は、自軍に砦外待機と警戒を命じると、馬廻衆を率いて砦奥の社殿に移る。
檜木張(ひのきば)りの板間には、藺草(いぐさ)のほつれた畳が転がり、夜具は置かれていなかった。
「雑魚寝するしかありませんな」
畳はおそらく戦利品だろうし、かろうじて用意された茣蓙(ござ)は、たった三枚しかない。
斉藤利三は嘆息した。
もっとも、兵らの手前、次の瞬間には、
「疲れていては明日の行軍に障る。これはお前たちで分けろ」
偉丈夫たる自負を崩してはならんと己に課してまもなく、近臣に茣蓙を与え、夜膳を食らって床に就いた。
 臥所の隙間からは、薪木の弾ける音と(ふくろう)の声が響いていた。
冬枯れしたしじまの夜とあって、さすがに物音は少なく、風に運ばれた青草の匂いさえない。
斎藤利三は陣灯の誘いに身を任せた。
その仮睡(かすい)が消えかけたとき、(よい)を切り裂く轟音が届いた。
「さては三田からの夜討ちか」
半睡していた馬廻の者が一斉に立ち上がったかとおもうと、武器をとってこちらの四方を固めた。
下座で寝ていた者の一部は、すでに社殿の外に出、状況把握に努めている。
とはいえこちらに戻ってきた表情には、ふしぎな戸惑いが宿っていた。
「内蔵助さま、曲輪の外で陣鼓がはげしく打たれております」
「冬雷のごとき物々しさよ。荒木重堅の手勢はどれほどだ」
「それが、どうもそのような気配は……」
錯乱状態に置かれた馬廻衆に斉藤利三は「退()けっ」と道を譲らせた。
慌てて追従した近臣の制止を振り払って部屋を出、夜天にかがやく陣内を見渡した。
「これは……」
斎藤利三は眼前の光景に絶句した。
有馬三田城を包む、湿地帯ならではの難しさと夜襲の頻度から、城と呼ぶにはあまりに脆弱(ぜいじゃく)な砦しか築けなかったと感じていた。
その有馬横山が、今まさに城へと生まれ変わるための造成をはじめていた。
そもそも遠望の利く泥沼のどこに潜んでいたのか。
大量に降って湧いた人夫は、間断なく動いている。
(おびただ)しい群寡(ぐんか)に合わさった羽柴の駐屯兵などは、率先して整地した削土に杭を打ち込んでいる。
「サルめ……輜重(しちょう)で来たわれらを人垣(ひとがき)として使ったか」
龕灯(がんとう)を頼りに、搬入された材木を順体に組み立てては、城外に設けた新砦とつなげるかたちで木柵を外している。
目の当たりとした斉藤利三が呟いた瞬間、板輿(いたごし)から(はや)し立てていた人物の視線を浴びる。
「おうおう、内蔵助どののおかげでたすかったわ」
囃子(はや)の衆徒に鼓舞を任せた秀吉は、こちらにやって来るなり、南方の長尾川を越えた宅原の城普請を優先したこと。また有馬横山の城は、加勢が来るまで三田との攻防拠点と位置付けていたことを明かす。
「三田北西の釜屋と五良谷については、十兵衛どのが普請を引き受けている。南の二城はわしの方でつくらせたが、長尾川の向こうで竣工した宅原城とくらべれば、この有馬横山は三田の足元じゃろう。宅原を済ませてから砦に等しい有馬横山の増強といくところが、荒木重堅は引きこもったわりに執拗でな。散々夜襲に悩まされたあげく、造成の目途が立たなかったところに貴殿の増援とは、日ごろの行いが()いせいじゃ」
祝着至極(しゅうちゃくしごく)と存じます」
あらかじめ到着を計算に入れていなければ、夜間の造成などは行えない。
蜂須賀勢の駐屯していた三田城北西の小砦に入る以前から、こちらの動きを把握していたのだと斉藤利三は察し、
「しかしこのような夜更けに陣鼓とは、少々やりすぎでは」
「城砦普請は勢いじゃ。荒れ狂う播磨灘のように、迅速に終わらせねばならん」
ほれ、と視線で促した秀吉は、普請頭とみられる足軽兵の隣にいた人物をこちらに示す。
あっ、と斉藤利三はそちらに駆け寄ることを強いられる。
なんせ待っていたのは、後続を待つことなく籾井の城を発った主君。惟任光秀を演じた十兵衛である。
「ご無事でしたか」
斉藤利三は平伏がてら、筒井勢と籾井の城からやってきた輜重任務の完遂を報じた。
「そうか。筒井どのは西に行かれたか」
「は。大荷駄の輜重頭として兵糧をこちらに運ぶあいだ、ぬかるみに馬の(ひづめ)をとられてばかりでしたので、この有馬横山には私が参りました」
「秀吉どのから聞いている。大義だった」
十兵衛は目配せしたのち、こちらを慰労した。
「勿体ない御言葉にございます。それにしても、このような仕儀は、われらには及びも尽きませぬ。羽柴どのは、どうやってこの大量の木材と人夫をこちらに」
水主(かこ)を買収したそうだ」
十兵衛は南の長尾川を示唆した。
一夜城だ──。
ふと脳裏に閃いたのは、永禄五年(一五六二)の美濃国侵攻で築かれた墨俣の砦だった。
かつて「不休の知恵袋」とよばれた丹羽長秀の助言から、秀吉は在野でくすぶっていた蜂須賀正勝ら在民の力を借りている。
同年六月中旬には河川を利用した木材搬入を行わせ、瞬く間に稲葉山攻城の先鞭となる墨俣の陣城を築いていた。
もっともそれは、城でもなければ一夜で築かれたものでもなかった。
美濃勢と織田軍との戦は代々続いたものであり、そうした形勢のさなかに秀吉は鬱蒼とした山腹に兵を伏し、織田の主軍がうまく美濃勢の注意を引きつけているあいだ、樹林に差し込む淡光のもと、黙々と小さな砦を造成していた。
平時において、城砦の普請は整地後に石を積み、主郭となる曲輪を中心に築くのが習わしだった。
一方、戦地では敵の妨害工作が入るため、満足に築く余裕はない。
だから低純化した砦普請こそ、城の前身として大いに利用でき、また勝利に貢献するものと将兵の間では定着していた。
そうした無数ある工程のなかで、もっとも重要視されたのが、主郭を支える土台の石垣づくりだ。
平地に築かれた城であれば、盛土で整えたところに幾分、角を削平した石を積み上げ、石垣を造成する「打ち込み(はぎ)」とよばれた手法も行えた。
ところが攻められにくいといった理由で諸将に好まれた山城となると、どうしても地形利用や資材確保を考慮しなくてはならず、工事進捗の観点から、適度に整地した場所に付近でとれた石を載せていく手法、「野面積(のづらづ)み(乱積み)」が工期短縮に効果的とみられたせいだろう。
おおくの山城で行われた通り、墨俣の砦を造成した秀吉は、味方につけた地侍の蜂須賀正勝らを通じ、敵の遠視を阻害する遮蔽林を残すかたわら、せっせと石を積ませては隙間を埋めるための間詰石を流しこみ、採土で被覆していた。
ちなみに木柱群については、垂直に石垣の隙間から根を張るよう、野面積みの段階でととのえていたため、第一工程である整地と基礎部分の造成工事に関しては、この時点でほぼ完了といっていい。
十兵衛と会話を重ねるなか、斎藤利三は期せずして話題に上ったその逸話の記憶を紐解いていく。
あれは、そう。穏やかだった長良川が数日ぶりの豪雨に見舞われ、岸辺に駐屯していた織田勢と、自身の属する美濃勢すべてに牙を剥いたときだった。
「この機を逃してはならん」
渡河が不可能となった水神の怒りを天恵とみなした藤吉郎秀吉は、雨で停戦した両軍を尻目に伐採木を組み上げ、墨俣の砦造成を終えた。
ところが完成した砦を基とする侵攻策を献言した丹羽長秀に対し、総大将の織田信長は不満を持ったという。
「遠すぎる」
雨で増水したとはいえ、長良川を緩衝帯とした交戦がつづいている以上、濁流にのまれない治水を勘考した岸辺の建立がのぞましいとの判断からなのか。
織田信長が山腹に築いたばかりの砦は「防衛拠点」として利用するよう命じたことで、方面処理を任された丹羽長秀は潔く従い、気落ちそのまま、戻った新造砦で秀吉に直接詫びていた。
秀吉が才気煥発とみられたのは、この事後である。
「それでは砦を築いた蜂須賀たちの労は報われん。織田さまにはこう伝えてくだされ。豪雨でお味方が長良川に守られているのは明後日の夜まででしょうから、それまでにサルめが必ず岸辺に砦をつくります、と」
聞かされた丹羽長秀は卒倒しそうになったらしい。
肝心の資材はすでに新造砦で使い果たしてしまったし、長良川の岸辺は盛土のような整備をしていない。
この状況で信長に報じれば、まず秀吉の首は保証できない。
密かに期待を寄せた人物であっただけに、丹羽長秀は彼の短命を惜しんで信長の指示に従うことを勧めた。
ところが秀吉は頑なに固辞し、ついには丹羽長秀も信長へ書状を送らざるを得なくなった。
(あの男はどうするつもりなのか)
現場入りした丹羽長秀が静観するなか、どうにか信長の許可が下りたことを「さすが織田さまじゃ」と笑納した秀吉は、蜂須賀正勝らに指示を与え、黙々と新造砦を囲む被覆雑木を切り倒した。
失敗すれば、磔刑(たっけい)か斬首に処されるのだ。
いやそれどころか万に一つの成功でも感状や褒美を賜る保証はない。
書簡のやりとりを差し引いた、残り一日足らずの命となり得る時間を樹林の伐採に使うすがたは、長く見ていられないほど痛々しかった。
が、そうした丹羽長秀の心配をよそに、秀吉はのんきな面持ちで蜂須賀勢に伐採作業を預けると、単身で新造砦の本陣にやってきた。
「五郎左どの。兵をお借りしてもよろしいか」
「構わんよ。砦を隠していた樹々は、明日までに切り終えるはず。それを急がせるのだな」
「いや、伐採で残った切り株すべてを引き抜かせるのじゃ」
「引き抜かせる?」
呆然とした丹羽長秀の前で、秀吉は丹羽兵に指示を出した。
半日が過ぎたころには、切り株と被覆雑木の撤去は、あらかた完了していた。
「さて、ここからが正念場じゃ」
いうなり秀吉は、丹羽勢とともに新造砦の虎口をまもっていた木柵をすべて引き抜かせると、掻揚土塁の盛土を空堀へ戻し、街道整備のごとく段差を消しはじめた。
勾配に変えたさきでは、すでに襤褸衣(ほろい)茣蓙(ござ)が用意されていた。
それが佳境に差し掛かったときには、新造砦の主郭を支えていた大黒柱の切断をはじめる人夫のすがたがあった。
「秀吉どの。ここには荒縄がありませんぞっ」
彼の意図にようやく気づいた丹羽長秀は、主郭を仰ぐ秀吉にむかって叫んだ。
建造物をまるごと移動させる曳屋(ひきや)の手法で、新造砦の主郭部分を山腹から長良川の岸辺に運ぶつもりなのだ。
そのためには主郭の寝殿を荒縄で縛り巻き、大勢で引っ張らねばならないが、いくらか勾配のある地点では、力場の都合から人夫は少なくて済む。
「荒縄なら水主(かこ)を買収したわ」
秀吉の返事が届いてまもなく、それらしいものが蜂須賀勢によって新造砦の脇に山積する。
こうなれば、と諸手を上げた丹羽長秀も参加した荒縄の巻きつけは終わり、山下を被覆していた雑木・切り株の撤去終了と同時、その場に集まった者を総動員した引力によって、新造砦は山を下りはじめた。
「休まず引くのだッ」
小規模にとどめていた主郭の寝殿は、三方に伸ばした荒縄によって、一直線に坂を下った。
斜面に乗った時点で崩れるかにみえたものの、頑強に組まれていた底部のおかげだろう。
蜂須賀勢の引いた主郭の寝殿は、見事に秀吉の鼓舞に応えていた。
しかしながら、勾配で増したはずの勢いは、満足に平野を進むだけの力を有していなかった。
「頼む、粘ってくれ……」
さきに下山して待っていた丹羽長秀は、息の上がった蜂須賀勢に加勢するよう、自兵を差し向けた。
短いながらも急坂を下る衝撃は凄まじい。
その過密による圧死を免れるためとはいえ、少ない手勢で牽引した蜂須賀勢の疲弊は明らかなもの。
一人、また一人と荒縄からはなれていくのを顧みず、血ですべった荒縄を気力で握り直しては、なんとか彼らの意気をつないでいく。
その丹羽勢から脱落者が出始めると、みるみるうちに主郭の寝殿は勢いを失った。
「ここまでか……」
あとすこし、あとすこしで岸辺に辿り着くというのに──なりふり構わず加勢した丹羽長秀の願いも空しく、主郭の寝殿は動きを止めた。
 目印として立てた織田木瓜(おだもっこう)の御旗は、前方でたなびいていた。
雨足こそ途絶えたとはいえ、じき夜雨となるのは天が証明している。
さすがの丹羽長秀も諦めたそのとき、遠くで秀吉の声がした。
「五郎左どのぉ、五郎左どのぉッ」
はたと振り向くと長良川上流から船団がこちらに向かっていた。
先頭の舳先(へさき)(かい)を漕ぐ水主のうしろにいた秀吉の右手が上がるや、後続の舟から岸辺に向かって荒縄が投じられた。
「急いであの縄を雑木に括りつけるのだッ」
停泊するには荒縄を桟橋(さんばし)の杭に掛けなくてはならないが、合戦で舟入は破壊されている。
ハッとしつつ、丹羽長秀は投擲(とうてき)された縄束を拾いに行くと、兵らを巻き込むかたちで川縁(かわべり)の樹々に括りつけていく。
それがひと段落したころには、船団の曳航を加えた総力から、なんとか新造砦の移転を果たした。
「増水した長良川に美濃勢はあらわれぬとは申せ、曳屋に舟を使うとは、命知らずにも程がありますぞ」
「百姓として餓死するところを織田さまに拾われたわしに退路はない。それに五郎左どのにはつたえたはずじゃ。水主を買収した(・・・・・・・)、とな」
豪胆にわらった秀吉に、丹羽長秀は目を丸くするしかなかった。
やがてその砦が防衛力を備えた「墨俣の支城」としてあつかわれたのは、周知の通りである。
しかしながら、当時は美濃国側に属していた斉藤利三にとって、うわさを耳にした稲葉良通と語らう中でも、実物を目にするまでは半信半疑だった。
仏閣の移転招致で曳屋を拝見したことはあったにしろ、砦の主郭をまるごと運ぶなど、聞いたためしはなかった。
それだけに軽薄な面持ちで仰いだのは、固定概念による(あざけ)りが手伝っていたかもしれない。
「これをあのサルが……」
大海を知らぬ蛙のごとき通念を砕かれた斉藤利三の驚きは、途方もなく大きかった。
一夜で出現したようにみせた主郭運搬の手際もさることながら、何より目を見張ったのは、運用に欠かせない地選の常識を覆したことだった。
対岸に駐屯する部隊は直線的に進む傾向が強く、一気呵成に攻められないよう、味方砦の虎口(入り口)は向かって構えないのが常識とされる中、秀吉はあえてそれを用いていない。
それどころか長良川周辺の起伏はもちろん、船団を用いた曳屋を行うことすら想定していない状況であるにもかかわらず、上屋移動を阻害する雑木撤去を指示し、水主の買収交渉を並行した閃きは、侍のなかでも稀有なものだった。
(この国は織田の手に渡った──)
久しくみなかった戦慄が這い上がってくる。
斉藤利三は、怖気を払うように部材を吟味する秀吉の横顔と、傍らでその慧莉(けいり)を宿した十兵衛をとらえる。
「先に休め」との仰せで戻った社殿は、地鳴りと似たはげしい足音で揺れていたものの、籠城策に出た三田を刺激しないよう、適度な距離を保つ行軍の疲れから、誰よりも深い眠りに落ちた。
うっすらと夕霧につつまれた砦は生きていた。
ゆらめく追憶の()は、三田城の奥で昇る(あけぼの)に照らされた馬返しの柵として、平坦に踏みしだかれた土塁の陣屋として生まれ変わるのを、ふわりと映していた。
日を追うごとに城砦設備は増していく。
そんな有馬横山の情景から目覚めた斉藤利三が、のろのろと社殿の下地窓に近づくと、大量の部材に代わる曲輪の萌芽が、しなやかに有馬三田城を仰いでいる。
「羽柴さまぁッ」
どこかで火急の報せが響いている。
目を飛ばした方角には、畝作夫(うねさくふ)の望める曲輪で下半を鍛えていた騎馬武者の脇を過ぎ、戸板の余りでこしらえた的に射かける兵の|弓弦《ゆづる」を戻した足軽兵が、息を切らして秀吉の寝殿に飛び込んでいる。
ただならぬ気配だ。
斉藤利三がそちらに移ったところ、読了を疑うはやさで書状をくしゃくしゃに丸め、兵らが止めるのも聞かず、汚泥に放り込む秀吉のすがたがある。
「長谷川秀一のやつ……有馬三田が片付くまでは自重せよとつたえたのに、血気にはやりおったわ」
「いかがなされました」
「内蔵助どのか」
一声でこちらに気づいたのか、取り巻く馬廻衆は左右に身を寄せる。
秀吉は開かれた中道を素措(すそ)で抜け、
「丹波亀山に戻った十兵衛どのから急報が届いてな。長谷川どのが八上の攻城で突出し、手勢二千を失った」
「惟任光秀さまが一足先に亀山城へ……いや、それよりも長谷川秀一どのが手勢を失ったとは……」
「救いがたい御仁じゃ」
斎藤利三は困惑した。
それでも苛立たしげに発した秀吉の表情から、同調を献じた。
「長谷川秀一どのは、波多野勢のこもる八上城の攻囲直前、西隣の法光寺城の制圧を待たずに南の奥谷城を攻め、潜ませた伏兵を潰走させております。兵二千をさらに失ったとなれば、織田さまの判断で急転直下にはじまった八上と黒井の分断工作は、あらぬ遅滞を招きかねませぬ」
「丹波では『攻城を控える』と申していたが、あの者は若く実戦経験に乏しい。さきの書状によると、長谷川どのは手勢を率いて高城山のふもとに張りつき、波多野ら城兵の猛攻から、数十騎で帰ってきたとあった。長陣覚悟の攻囲に焦れたのかもしれん」
「馬鹿な。丹波平定の要策を無下にするとは……」
馬に跨った斉藤利三は有馬横山を出た。
城外部隊を率いた東進で、武庫川、猪名川と渡ったのち、古池田の城外にひろがる五月山のふもとを北上した。
やがて能勢郡に入ったところで手綱を引くと、野営した翌日には馬を北東へ。
そのままぶつかった脛摺峠には進まず、東辺の長沢氏がまもる杉原城をにらんだまま、尾根の一角を辿るかたちで丹波の国入りを果たした翌日には、目的の丹波亀山に到着した。
南の矢田口から町屋に入った一行は、道なりに直進して大手口をめざした。
亀山は四方を水に囲まれた環濠(かんごう)の城だった。
登城するには南の大手口を含めた四門を越えなくてはならず、搦め手から入ったとしても、抜けたさきで侍屋敷が待ち受けていた。
凱旋の装いそのままに大手門を抜けたところ、勤番の兵が近づいてきた。
どうやら(うまや)の者らしい。
斉藤利三は彼らに愛馬を預けるかたわら、近臣のみを従えて北進した詰所の大門前で、三間(さんけん)はあろうかという長槍を掲げた兵に声を掛けた。
「明智日向守が与力、斎藤内蔵助利三だ。火急の報せゆえ、惟任光秀さまに取次いでほしい」
惟任光秀の御目通(おめどお)りを仰いでほどなく、
「いまは天守におられます」という快諾がやってくる。
詰所の大門通過をゆるされてまもなく、水路に浮かぶ面長の南二之曲輪を抜けた。
右手には懸橋(かけはし)の伸びた喰違虎口(くいちがいここう)の小門が控えていた。
さきの大門がそうであるように、丹波亀山城内では、そこかしこで同じ防衛構造がみられた。
人が門を通過する場合、直進して門をくぐるだけの平虎口(一文字)とくらべると、喰違虎口は石垣を張り出した隅角に設けられることが多いため、直角に進路を変えられてしまう。
必然的に横矢掛け(曲がり角)は増え、(やぐら)との併用がなされようものなら、見通し悪化と城内からの狙撃で、攻めるのは困難になる。
それは懸橋を過ぎた斉藤利三が監視の目にさらされたことと無関係ではなかった。
左手には丁寧に塗り固められた土塀が前方に伸びている。
歩いてすぐに気づかされるのは、射手に最適な覗き穴の狭間(さま)が、壁一面にびっしりと開けられていることだ。
「さすがに堅牢ですな」
「ここは天守のお膝元。平時より盤石の(やすき)と心掛けております」
気を張ったこちらの賛辞すら、詰所から案内役として先導する小姓は平然とながしている。
湾曲にたどる歩容は、城の一部であるかのようだ。
奥の右手には、侍屋敷もあれば、(かざし)とよばれる遮蔽板の備えられた擁壁(ようへき)もあるし、なにより左折した向こう側では、こちらを窺う東小天守が尊大に構えている。
裏切りを警戒する時代ならではの古風な、というよりは風通しの良すぎる建前と厳戒な本音とを使い分ける、織田の家風に染まったせいなのか。
いつになく城内は息苦しかった。
もっとも、そう推し量れるほど斉藤利三が城砦設備に長じたのは、この城の普請に尽力した丹波国人、小畠永明との邂逅(かいこう)からである。
増水川(ぞうずがわ)の南におかれた丘陵を土台としただけに、洪水対策は欠かせませんよ」
城郭を築く前には、かならず護岸工事で近隣河川の氾濫を抑えるための盛土(土手)は不可欠である。
それが小畠永明の口癖だった。
この丹波亀山に限っていえば、平定を視野とした治国の側面から、城南に町屋を形成していた。とはいえ、ひとたび北の増水川が氾濫を起こせば、小規模の城下は呑まれてしまう。
そうした被害を最小限に食い止めるための緩和策として打ち出されたのが、主郭北の水濠に中州を設けることだった。
それが第一の緩衝帯となり、補完処理として万一の流入河水を排出すべく、無数の狭間を開けることにつながったのだ。
「いかに土石で(うずたか)く押し上げようと、丹波亀山は人為の城ゆえ、天水には敵わん」
思えばあのころの惟任光秀は、愚直なまでに小畠永明の進言を容れていた気がする。
転戦から思うように丹波の国入りを果たせずにいた。
それでも丹波平定の要地と定めた亀山の城郭普請については、心配だったに違いない。
治世・治水の観点から、明智軍の丹波国人衆となった小畠永明との書状を介したやりとりは、すべからく更新されていた。
どの国でもそうだが、城を建てるとなると、大変な労を要するものだ。
とりわけ織田家では、信長の承認を得なければ動けない。
「地選」で用地を選定することも、「地取」でおおまかな造成規模を決定することも、具体設計を煮詰めた「縄張」を経る着工も、何もかもがゆるされない。
惟任光秀の相次ぐ申請から、ようやくその許可を得るに至った丹波亀山城の普請役に、完遂以外の選択肢はない。
栄えある責を任された小畠永明は、例のごとく、石垣や曲輪の造成後、主郭や御門といった上屋づくりの「作事」を委託した番匠らに厳しかった。
その意味では、時に惟任光秀の意向を突っ撥ね、高度な指図の修正案を示したうえで上申していたのは、重圧が関係していたのかもしれない。
西向きとなるはずだった主郭は南を向き、張り出した東二之曲輪は過去の水害記録にあわせた独立を講じられ、城下の町家がすっぽりと収まるよう、東西南北の(けん)までもが調整されていく。
それが済んだころには、主郭北の水濠に設けられた中州で、観賞と防波を兼備した松林の植樹がはじめられていたと、行軍で立ち寄った斉藤利三は記憶している。
完璧な施工管理で、完璧な建立を。
そんな小畠永明の仕事にも失敗はあったようだ。
「そのまま建てるとなると、天守が持たねえか」
現場を下見した番匠頭から、三層構造の主郭は高さゆえに揺れやすいという、新たな難題が持ち上がったのだ。
くしくも渡櫓(わたりやぐら)や土塀とつながる小天守の一部を擁壁としたことは、主郭の上屋造成の延期につながっていた。
「無理なく築くにはどうすればいい」
「そうですなあ。がっちり組まれるよう、 屋骨の柱は数をととのえてあるし、築地に重ねる芯板や荒漆喰なんかも、下手に抜こうもんなら河風の湿気でやられちまう。いっそ、土台を低くするってのはどうですかね」
「石垣を下げればいいのか」
「ただ下げるんじゃありません。この主郭は丘陵に山土を盛っただけなので、地盤はえらく柔らかい。北にながれる増水川から天守を守るには、足元をきっちり固めなくちゃならないから、石垣の底部を土中に押し込んで、岩盤補強に使うのがいいとおもいます」
「妙案だ」
手を打った小畠永明は、さっそく主郭の土台となる石垣の底部を礎石の一部に置き換えて埋設させた。
そして天守と小天守を除く城内すべての土塀に狭間を。足元には排水用の石座間(いしざま)を開口することで、湿気や水攻め対策ほか、城壁に打ち寄せた増水川の波力を低減させる仕掛けとしていた。
侍屋敷を含めたおびただしい数の〝目〟は、それらが実際に機能しているかを見定める指針だった。
同時に城内外の人々の生活保全に最適な連絡網だった。
小合戦で矢傷を負った小畠永明の手管を浮かべたまま、東小天守の御門を過ぎた斉藤利三は、屋根井戸で用水を汲み上げる若衆と会釈を交わすように石段を過ぎた。
右折れに土塀をつたい、石造りの(しゃちほこ)が躍る天守を臨んだ。
その時点で詰所から従っていた案内役の小姓は、黒金門を抜けてまもなくあらわれた別の小姓に引き継がれた。
斎藤利三は、往来の絶えない座敷に後ろ髪を引かれるかたちで、三界の描かれた(ふすま)の屏風絵を横目とし、相似の奥段を上りはじめた。
天守閣を入れても三層しかないせいか、高層にともなう傾斜は緩やかだった。
北側の格子窓からは、水の手曲輪のつるべ落としと、中洲の松影がよくみえた。
「火急の報せと聞いた」
床框(ゆかかまち)で浮いた板間の座敷下方、階段ちかくに控えたこちらの後頭に、御簾越(みすご)しの声が響いた。
間を結ぶ小姓の促しから、(かお)を上げることなく近づいた斉藤利三は、菱紋の素襖直垂(すおうひたたれ)をまとっていた十兵衛に、摂津三田の城攻めを続ける羽柴勢の詳事を述べるかたわら、有馬横山城で秀吉から聞かされた書状について訊ねた。
「氷上黒井の切り離しで多紀八上を孤立させた籾井・船坂の二城については、詮議するまでもありませぬ。長谷川秀一どのは、分断工作の前後だけで、手勢四千を失った。即刻、高城山の攻囲陣から外すべきと存じます」
「それについては秀吉どのに伺いを立てている」
「惟任光秀さま。お言葉を返すようですが、摂津三田に赴く際、立ち寄った籾井の城で輜重準備をしていた筒井順慶どのは、何も知らぬようすでした。私を含めた明智の与力衆が委細を知らず、増援としてやってきた羽柴どのが詳報を抱えているなど、兵の不信を招くだけではありませぬか」
「そのことか」
十兵衛は視線で小姓を下がらせると御簾から出てきた。
その直垂に飛びつこうと立ち上がった斉藤利三は、あっさりと腕を捻られ、背後をとられた。
「十兵衛よ。私に黙ってサルに書状を送るとは、丹波の地侍もあてにはならぬようだな」
「内蔵助どの。ここは殿中ゆえ、かような振る舞いは慎んでいただきたい」
「振る舞いか」
背後をとられたまま斉藤利三はせせら笑う。
次の瞬間には後頭部を十兵衛に向けている。
どうにか(かわ)そうとしたのだろう。
片腕をつかんでいた力の緩みを感じた斉藤利三は、僅かに傾けた頭を起こすと同時、馬脚のごとき蹴り上げをみせる。
悍馬(かんば)のようですな」
「戦の組打(くみうち)では、このようにはいかん」
距離をとった十兵衛に、斉藤利三は豪胆に崩してみせる。
将意を向けられた十兵衛もまた、奇妙な相好(そうごう)(たた)えている。
やがてどちらともなく床に根を張った。
「分断工作に水を差した長谷川秀一どのの勝手をゆるしたのは、内蔵助どのと一緒にいた筒井どののうごきを知るためです」
「狙いは筒井順慶か」
わざわざ摂津三田の城攻めを仰せつかった羽柴秀吉に書状を送ったのは、籾井の城を発つ輜重の分隊として、自身とともに選ばれた筒井順慶の耳に入ることを想定していたと斉藤利三は受けとめた。
「しかしあのサルは、有馬横山の城で書状を泥に放りこんだ。長谷川の一件だけが目的であれば、ああする必要はない。ほかに何をつたえたのだ」
「言えません」
「ほう。惟任光秀となったことで、別の毒(・・・)がまわりはじめたか」
「そちらは内蔵助どののせいではありません」
十兵衛は土牢の中で没した惟任光秀を引き合いとした。
淡白この上ない表情には、向春を待つ光が連子窓から差し込んでいた。師走であることを忘れさせる黄陽は、切々と塵をながしている。
「まあよい。サルは摂津の荒木重堅討伐で、しばらく三田を離れられぬ。播磨からやってきたサルの弟、小一郎秀長は客将も同然。大和から丹波入りした筒井順慶にしても、五良谷と釜屋の二城に物資を届けたあとは、我らの主導する黒井攻めの後援だ」
唾棄とともに斉藤利三は立ち上がった。
が、思い出したように城下でみた東二之曲輪について当て擦った。
「この丹波亀山の修築も、予定から大分、遠ざかっている」
連郭と半円郭を融合した総濠構えの東──搦手(からめて)や京口につながる東二之曲輪が、北部の津田勢に何度も襲撃され、設備回復の工期が大幅に超過した事実を(つつ)いたものである。
「番匠らは命を惜しんで逃げ出す者が多く、工費は増しています」
十兵衛が苦杯をなめた現実を返そうと、あえて蔑視を飛ばす。
(この男はどこまで本気なのか)
こちらの寡黙をゆるした今の十兵衛に、有馬横山の城で目を見張った将威はない。
いや、元を正せば羽柴の陣小姓にすぎない身分なのだ。城砦普請の知見に乏しいことは分かっている。
それでも丹波亀山の現状については、拙いながらも理解しているにちがいない。
あえて試問した斉藤利三の興味は、ある一点に絞られている。
(丹波の国を侵すには、莫大な金が要る)
城砦ひとつを陥落させるにも、協力した地侍の褒賞はもちろん、要となる駐屯砦を築かなくてはならない。
そうしたさなかにあって、身辺保証を上乗せした職工らの工賃に加え、妨害対策の拠出を余儀なくされた丹波亀山城の修築は、際どい工面から中止と再開の連続を引き起こしている。
「このまま放置すれば、一年だけ免じていた領民への地子銭や棟別銭といった賦課(ふか)(町税)を前倒し、山下でおこなう枡取(ますと)り(市場の徴税)も厚斂(こうれん)となる」
それでは織田信長の「楽市・楽座」に反するとの判断から、かつて惟任光秀は、徳川家康が拠国三河で施行した所務分けを命じている。
所務分けは惣領地域で推奨された土地・家臣の分配法のひとつで、代表者である惣領が親族を庶流として要地に配し、領地拡大を図っていた手法だ。
とはいえ大規模な城砦普請では、融通の利いた分業が見込める。
そこに主眼を置いた惟任光秀は、同意を得た丹波国人から順々に配置転換を促すと、発生した差額や仲介手数料を不足した工費に充てたのだ。
ただ、そこには落とし穴もあった。
味方となった丹波の地侍は、朝廷を後ろ楯とした大勢力の支配に不満があったからこそ、侵攻してきた織田軍に協力しただけだった。
「城づくりに貢献するわれらに費用まで負担しろとは、あまりの仕打ちではないか」
丹波侵攻にかかる軍費は織田家が支払うとみていただけに、丹波国人たちの反応は冷ややかだった。
いち早く織田への恭順を示した川藤継氏や並河易家といった与力衆の国人すら、そうしたやり方には難色を示していた。
彼らの心をつなぎとめるには、惟任光秀が直接丹波入りし、武威を発動させるしか手立てはなかった。
その集積が、(よろい)の縛を秘めた、丹波亀山の城である。
「西二之曲輪に長谷川秀一どのがおります」
背にそれを浴びた斉藤利三は、「次に会うときは内蔵助と呼び捨てろ」と、以前の主従を放下して主郭をはなれた。
丹波亀山をはなれる前に会っておくのもいいか──来た道を辿る前進そのまま、左手に折れることなく西小天守の御門に入った。
慣例に則した南の大手門から登城する機会は多く、西側についての造詣は深くはなかった。
それでも敷居を広幅とした西小天守の御門は、織田の抵抗勢力だった国分寺の山門を接収した代物と見知っていた。
のちの世で別の場所に移されるとはいえ、主郭をまもる小天守の東西御門は、伏犠の定めた先天図を昇華した文王、周溓渓、孔子らによって確立した後天図の陰陽をあらわしている。
(いぬい)たる天は、うららかな(かん)の水嶺を映し、(うしとら)の峰めがけ、(しん)の雷を落とした。
(たつみ)の木はそれを受けとめ、()の炎が包み込むと、灼けたかたまりは(こん)の地に寄り添っていく。
天の父と地の母のあいだに生まれた人は、彼らをつなぐ子として、()祝詞(のりと)をとなえつづけた。
易学における「天地人の三才」は、渡来した日ノ本では(みことのり)として扱われる一方、各地に建立された仏閣の吉兆をうらなう礎法でもある。
そうした神文は、時代を経てなお、影響を与えているのだろうか。
明智家では、拝謁による登城で抜けた東小天守の御門は震門(雷門)とよばれ、広幅とした門内に寝殿とつながる掛込天井の階段を配した西小天守の御門は、兌門(沢門)と称されている。
斉藤利三は見返りにそれを仰ぐ。
御門前に敵の殺到が想定される有事の方策として、あらかじめ背後からの斉射もしくは突撃が可能な東西二十六間・南北十六間の侍屋敷が、通路を隔てて設けられていることに気を取られすぎたのか。
抜けたばかりの御門右手でぶつかりそうになった女は、乱れた(すそ)を直し、こちらに頭を垂れた。
「ご無礼をおゆるし下さい」
あどけない仕草からすると若衆の親類かもしれない。
城下の町屋や城内の下女にはみられなかった乳香が、落とした葛籠(つづら)を抱えた細いうなじに広がっている。
西小天守の御門と向き合う侍屋敷に消えた若背を見送ったのち、斉藤利三は西二之曲輪に到達した。
 檜皮葺(ひわだぶ)きの板間では、高位の士とみられる侍が座禅を組んでいて、円輪にならぶ柱間(はしらま)の向こうでは、寺社殿の内陣とよく似た観音開きの厨子(ずし)が控えていた。
「長谷川秀一どのはおられるか」
開口一番、斉藤利三は障子の交光が注ぐ毘沙門天に祈りをささげていた者らに(はか)った。
青瓢箪(あおびょうたん)なら、ここにはおらんぞ」
祈祷(きとう)をさえぎられたことへの苛立ちを一手に引き受けたのは、老境の足軽とみられる人物だった。
(しわ)とえくぼを繋げるさまは、どこかで見た顔である。
「保内どのか」
こちらの問いかけに老境の足軽は破顔した。やはり間違いない。
年嵩(としかさ)でいえば二倍は生きたはずだが、とてもそうはみえない男の生まれと育ちは、近江国蒲生(おうみのくにがもう)
近江滋賀の坂本築城を契機に明智の兵となった、保内彦介である。 
「久しいのう」とわらう彼を知ったのは、保内という名が伊勢山越商人(四本商人)の一傑として有名だったからだ。
蒲生郡の保内・石塔、神崎郡の小幡、愛智郡の沓掛といった商人のなかでも、保内商人は別格だった。
近江国湖東の市町津湊(しちょうつみなと)における商業権をはじめ、琵琶湖を中心とした鈴鹿山脈の越路、八風海道、千草海道における商業権を有していた。
圧倒的地位を背景とした寡占状態の維持を目的に定めた商法──三カ条からなる山越衆の掟書を発給した大永七年(一五二七)ほどではないにしろ、保内商人はのちに安土最大の商組合「八幡商人」の中核を担う力を秘めていた。
しかしながら、織田家の膝元で行われる商取引は、煩雑(はんざつ)な領内の公事(くじ)、いわゆる庶民に課せられる労務として、半民半公の軍事協力をもとめられるのが常だ。
そうした保内商人の嫡男として生まれた老足軽の彦介は、数年前に他地域の商品を買い占めた腕を買われ、経済封鎖による敵地侵攻や交渉を進めろと織田の奉行衆から打診された際、(がん)と断っていた。
「商いとは自由に行われるべきもの。侍の道理を通すということは、われら近江商人の魂を売り渡すと同義にございます」
その話が織田信長の耳に届くころには、彦介は西川屋の暖簾(のれん)を下げて遁走(とんそう)していた。
明智家に流れ着いたのは、うわさを聞きつけた明智軍の名代(幹部)が、算術と商口の広さを惜しみ、ひそかに彼を登用したためだった。
 ちなみに彦介から言わせると、その召し抱えも珍奇なものであったらしい。
なんせ、
「元亀元年(一五七〇)五月、近江からの伊勢路で千草を越えた織田信長は、甲津畑を通った際、六角承禎の命令で潜んでいた杉谷円通寺の僧に、旗指物を銃弾で貫かれた」という行軍記録が、
「岐阜城に帰還中、千草越えの織田信長を杉谷善住坊なる鉄砲の名手が狙撃したものの、二発の弾丸を受けたにもかかわらず、信長はかすり傷で済んだ」などと、
正史を脚色した大衆娯楽の三国志演義のごとく、大名の家譜が神格化した英雄譚(えいゆうたん)に置き換えられるような時代である。
実績を多分に盛り上げた彦介の逸話を真に受けただけではない。
信長に後ろ砂を掛けた忌むべき屋号「西川」を、流転から織田家の明智勢に拾われた皮肉で「保内」とあらためた。
そんな彦介を詮索する者は、おおくの氏族が門閥(もんばつ)の家紋を欲した織田中枢はおろか、登用前に出自を(あらた)めるはずの明智家にもいなかったのだ。
「おぬしも元気そうで何よりだ。八木の攻城で内藤如安を追い払ったときと変わらぬ勇壮は、津田城攻めで意気地(いくじ)のなくなったこいつらの良き手本となろう」
以前と変わらぬ体で保内彦介は放笑した。
「それより青瓢箪(あおびょうたん)の長谷川秀一を探しておったな。あれならここで祈りをささげていたぞ」
「どちらに向かわれた」
「さあな。手前勝手に八上に寄せ、ろくな功も上げられずに織田さまの兵を敗死させた青瓢箪のことだ。毘沙門さまにゆるしを請うたあとは、寝所で女の慰めを受けているかもしれん」
 あしざまな保内彦介の言葉に一同が大笑する。
「この亀山に昵懇(じっこん)の者でもいるのか」
「いるもなにも、天守に出入りする下女(しもおんな)の大半がそうじゃ。文武はからっきしだが、人相(かお)と口説きの数だけは一流じゃからな」
 保内彦介がおどけたようすでその真似事(まねごと)をすると、一同の笑いの(うず)はさらに大きくなる。
(天守には登上したばかりだが……)
出入りの激しい一層を顧みた斉藤利三は、思い立って西二之曲輪を後にした。
すると小走りで追ってきた若衆が行方をつたえた。
「長谷川秀一どのは、近ごろおこん(・・・)という者に懸想(けそう)しております」
 事情をきいた斉藤利三は、詳しく知る者がいるという侍屋敷に向かった。
油を売っていた炊事番をみつけ、保内彦介にぶつけた質問を繰り返してまもなく、示唆のあった西小天守の御門とはす向かいの侍屋敷に足を向けるも、思わぬ視線にさらされた。
たびたび通過するすがたに不審を感じたのだろう。
徐々に目つきの険しくなっていた西小天守の御門を見張る番兵から咎められ、釈明がてら、開かずの木戸奥にいた童女に諸用をつたえた。
「多紀八上の件で、内々の儀がある。長谷川秀一どのを呼んでほしい」
 発した斎藤利三に、下女とみられる童女は驚きを浮かべた。
慇懃(いんぎん)に承った際、「先ほどは失礼いたしました」と謝意をあらわさなければ、保内彦介と会う直前でぶつかった女と気づかなかった。
「ここでお待ちください」
挨拶代(あいさつが)わりの遠慮を()って通された座敷は、網代(あじろ)の天井と格子窓で統一されただけの、きわめて凡華(はんが)なものだった。
袖壁(そでかべ)で仕切られた板間の向こう側は、広縁の上がり(かまち)沓脱石(くつぬぎいし)の置かれた中庭がのぞいていた。
唯一とはいえ、縦横無尽にめぐらせた竹水車は、狭さゆえに池を設けることの叶わなかった葛藤(かっとう)の折り合いかもしれない。
(そういえば惟任光秀は、「真竹」と名づけた駿馬を織田さまに献じていたか)
車輪の健生(けんせい)を臨んでいたところ、にわかに屋敷のそとが騒がしくなった。
目を動かすと、さきの童女が芍薬(しゃくやく)をのせた盆を抱えていた。
「これを持ってあちらへ」
従った斉藤利三は、手渡された白菊の芍薬を片手、用意された草鞋(わらじ)で降りた中庭の竹水車に近づいていく。
三枚つぎの士口と継手で組まれた竹水車の両端には、()()いた野板の(つつみ)が設けられている。
あたかもそれは溜め池のようで、両天秤(りょうてんびん)の泉から水をながそうと、勾配ある竹路は水理を知らされないまま、上へ上へと滑車を連動させては、大きな木椀を過ぎていた。
これは分水嶺(ぶんすいれい)ではないか。
察した斉藤利三が木造りの泉に掛かる花筒に芍薬を差し入れたそのとき、深土の実の出現をつたえる高声(たかね)に背打たれた。
「はよう実を拾わねば、流されてしまいますぞ」
まくしたてた長谷川秀一はすでに肩衣(かたぎぬ)を外していた。
「このように」と竹水車のそばにあった奇妙な穴あき柄杓(ひしゃく)で深土の実をせっせと拾いはじめるようすは、案内の童女にも勝る童心である。
一週間ほど前には諸侯の前で羽柴秀吉に啖呵(たんか)を切っていた。
それが八上南部の奥谷城襲撃の失敗につながり、真摯(しんし)に反省したかとおもえば、今度は自分本位の八上攻城で辛酸をなめている。
苦労は買ってでもしろと世事にあるが、避けるべき火中に自ら飛び込むのは愚者でしかない。
(そもそも客人を前に悪ふざけがすぎるのではないか)
(いきどお)りを感じたものの、織田家中における立場差から、斉藤利三は長谷川秀一の誘いにのった。
魚篭(びく)の風情を(かも)した奇妙な穴あき柄杓を竹水路に沈めては、ひたすら深土の実の流入を防いだ。
そうこうするあいだにも、ゆらゆらと流れる実は柄杓の隙間を()っていた。
捉えどころのない小塊(かたまり)は、難儀(なんぎ)といえるほどだった。
すべては拾えない。
ついと焦視(あせり)をよこせば、どうやらこちらの取りこぼしを狙っているらしい。
やや離れた位置にありながら、長谷川秀一はおぼつかない動きで穴あき柄杓をあやつり、手笊(てざる)よろしく、()を短く持ち直しては雄叫(おたけ)びを、それでもなお逃れた実を逃すまいと、強引に素手で掴みとっている。
が、もともと粘りのある者ではない。
感情が限界に達したとみられた長谷川秀一は、ほどなく穴あき柄杓に溜まった深土の実を、そっくり流水に戻しはじめる。
「さすがは明智にこの人ありと(うた)われた、内蔵助どのよな」
控えていた童女に片付けを命じるや、成り行き任せで実を()きとめたこちらを褒めちぎった。
(たわむ)れとは申せ、かような武をみせつけるとは感服(かんぷく)した。して、いかがであったかな」
「いかがとは」
斉藤利三がきき返すと、長谷川秀一は竹水車を示してきた。そしてまた、沈考(ちんこう)したようすで、
「いかがであったかな」
発した瞳はさらなる光を帯びていた。
放っておけば妙な(はなし)に飛び火しかねない雰囲気から、斉藤利三は小癪(こしゃく)とばかりに「八上の城を模したものとお見受けした」と答えた。
おそらくは正鵠(せいこく)を射ている。
左右の堰をみても、波多野勢が籠城(ろうじょう)する高城山の中腹にある水の手曲輪だ。
さも自信ありげに斉藤利三は示したが、当人に応じる雰囲気は見られなかった。
「これは丹波にある城の水の手曲輪よ」
曖昧(あいまい)ながら、強い否定を(にじ)ませた長谷川秀一は、
「ところで貴殿の申された多紀八上城といえば、駐屯する波多野秀治の練兵は、非常を養うべく、丹波でも指折りの鍛務(たんむ)を課されるときいた。内蔵助どのも存じていよう」
「無論にございます」
「それが織田軍の攻囲によって、身動きはとれなくなった。籠城するしかない波多野は、士気の高揚と兵站線(へいたんせん)の確保として、野に散らばった地侍の蜂起(ほうき)(たの)み、高城山の一帯封鎖を試みた織田に抵抗する兵を差し向けている。それはどこであろう」
高城山(たかしろやま)東麓(とうろく)……弓月砦と、安明寺砦でしょうか」
思わぬ切り口で返された斉藤利三は、腕に残っていた(しずく)を払う。
「その通りよ。しかし弓月砦と安明寺砦といえば、味方の布陣していた堂山砦から、そう離れていない。氷上黒井の分断に(おもむ)いていた貴殿は、兵站線に欠かせぬ中衛(ちゅうえい)として、よく存じているはず」
「はい」
長谷川秀一のいう弓月砦・安明寺砦や堂山砦を含め、長城が巻きついた高城山の八上城、その西山の法光寺城はすべて篠山道の南側にある。
はるか東の井上城から、西に向かって伸びた篠山道北の城砦すべてを明智軍が制圧したのは、八上城の攻囲形成と同時に、丹波北西の氷上黒井攻めで連携する丹波衆を城代に据え、確固たる前線を維持するためにほかならない。
旗色(はたいろ)の思わしくない自軍に味方する国人が、めっきり減ったせいであろうな。明智の抑えた北面の般若寺城にはいっさい出兵せず、西隣にある法光寺山の城への派兵を控えてまで、強靭(きょうじん)に東砦の一角を死守している。理由は南の奥谷城でわたくしの伏兵が発見した、八上の長城に直結する抜け穴かもしれん」
「八上と直結する抜け穴ですとっッ」
そのような事実は、明智の陣内はおろか、新たに抱えた与次郎ら根来衆からも報じられていない。
「にわかには信じられませんが、そのような秘路があるのですか」
「昨日昼、八上から落ちのびた女から聞かされた。貴殿はその娘、おこんから芍薬を受け取ったはずである」
「芍薬……」
斉藤利三は竹水車の花筒に生けた芍薬をみる。懸命に水流から深土の実をかき集める童女が、話にあったおこんと察する。
「落ちのびた女は明智秀満どのに預けてある」
長谷川秀一が(りん)と吐く。
「あの娘も同伴させるつもりであったが、女と血のつながりがないせいか、みょうになつかれてな。やむなく身を置いたこの亀山で、下女としてそばに置いている」
「そのような事情の者でしたか」
出会った瞬間から敵意を向けていたのはそのためだったと気づいた斎藤利三は、気配を残す中庭に視線を送る。
「八上の城とつながる抜け穴が東のふもとにあるなら、すぐにでも兵を差し向けられます。惟任光秀さまには進言されましたか」
「何も話しておらぬ」
「では私がお伝えに参ります」
斎藤利三が大事を抱えて向かいはじめるも、長谷川秀一は「(あせ)らずともよい」とこちらを制する。
「女が落ちのびた抜け穴とは、八上の石塁(せきるい)にある水の手曲輪よ」
「水の手曲輪というと、高城山のふもとや中腹にある、池垣でございますか」
「そのとおりよ」
長谷川秀一は違棚(ちがいだな)から拾った文箱(ふばこ)をこちらに差し出す。
一礼して開けた中には、(すずり)や筆のほか、長城と化した八上の石塁を余さず網羅した縄張図が入っている。
「そこに描かれた水の手曲輪は三つ。主郭に近い石堤の池と、城ケ滝とつながる中腹の池垣、そして北麓(ほくろく)籠山砦(ろうざんとりで)と向き合う高砦の裏池となる」
「これでございますね」
津々と覗き込んだ高城山の俯瞰図(ふかんず)には、大堀切に遮断された天守もとの池と、五加木の生垣で囲まれた中腹の血洗池(ちあらいいけ)、それに北麓の裏池が記されている。
「東麓の弓月砦と安明寺砦は、波多野秀治らが住む天守の東護りとして築かれた要害でした。着陣の折には、ふもとの裏池と中腹の池垣しか確認できませんでしたが、女が落ちのびたということは、天守の膝元にある石堤の池ちかくにも抜け穴があるということでしょう」
「うむ」
「ならばこちらにとっての|忍路『おしろ》となる。仮に隧道(ずいどう)(トンネル)が八上の水の手曲輪すべてとつながっている場合、氷上黒井の城外にある国領城に導かれた汲み井戸のように、灌漑水路(かんがいすいろ)や沢から引いたものではなく、溜め池もしくは地下水脈を通じた水垣の破壊工作が期待できます」
「溜め池付近ときいた」
「でしたら直結する隧道は、より安全なものでしょう。出口のひとつが味方砦にある以上、ひそかに開渠(かいきょ)して奇襲するもよし。辿った水源に毒を()き、兵を損ずることなく城内を制してもよいかと」
「そこがわからぬのよ」
尚父(しょうほ)のように童女へ目配せした長谷川秀一は、こちらへの迎意を損なうことなく項垂(うなだ)れる。
「安土から到着して間もないわたくしの伏兵が南の奥谷襲撃でそれを把握したにもかかわらず、長陣していた明智勢や丹波衆のあいだでは、報告すら上がっていない。貴殿もそうではないか」
「それは……恥ずかしながら、(おっしゃ)る通りです」
「なに、悲観なされるな」
長谷川秀一は童女の運んできた小鉢(こばち)と湯呑み茶碗をこちらに勧める。
栗の殻に焼き味噌と米を詰めた柚餅子(ゆべし)は香ばしく、冷涼とした丹波霧に育まれた篠山茶は、会話に傾倒していた口元の面映(おもは)ゆさを満たしていく。
「貴殿を責めているわけではなく、むしろ吉事(きちじ)と心得ている」
夢中で(はし)を動かすようすに満足したのだろう。
長谷川秀一は放りざま、
「貴殿がここに来たのは、その証左(しょうさ)といえよう」
「……私に何をお望みですか」
「察しのいい御仁(ごじん)よ」
ことりと箸を置いた斉藤利三に、長谷川秀一は顔を近づけてくる。
「実は隧道について秘匿した者が長岡の陣所にいるらしい。貴殿には、明智の与力衆として、友軍の長岡藤孝・忠興ら父子の陣中を見舞うかたわら、探りを入れてもらいたい」
障子を閉めた長谷川秀一は、文箱(ふばこ)を取りだした違棚(ちがいだな)に手を伸ばすと、拾った母衣巻(ほろま)きをこちらの手元に置いた。
解かれた衣の中身は、中折れした一矢だった。
矢羽根は(わし)から()いだものらしい。
根元の本矧(ほんはぎ)には、うっすらと焼印が押されていたものの、(うるし)贅沢(ぜいたく)に塗布されたせいかもしれない。
手で触れたかすかな(くぼ)みだけでは、はっきりと読みとることはできなかった。
「同じものがもう二矢あった。どちらも長門三ツ星(ながとみつぼし)、毛利の家紋よ」
告げられた斉藤利三は、拝領したばかりの母衣巻きを(ふところ)にしまい、長谷川秀一と別れた。
毛利家と通じた裏切り者を厳科に処す忠心を試された。
同時にそれは、因縁の長岡藤孝に明智の筆頭与力としての任辱(にんじょく)を与える、またとない報復機会でもある。
(長谷川秀一の策に乗じれば、申し付けられた黒井と国領のみならず、八上の軍功も転がり込んでくる)
平静を装っていた斉藤利三に、ふつふつと(みなぎ)るものがある。
飼葉(かいば)と水をたらふく入れて落ち着いた馬腹を小突き、丹波亀山北の惣村に戻るさなか、砦番として残した鉄砲足軽をすぐさま呼びつける。
(はや)ることはない。
分かっていても、勇んだこころはひと足早く馬廻の兵へ。彼らとすり替えた鉄砲集団が目指す場所、長岡勢の駐屯する堂山砦を描いている。

土岐の鷹④

土岐の鷹④

武官

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-12-28

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