土岐の鷹③

雲心

   三


茶臼山城から小勢を連れて消えた背に、長岡藤孝は晩秋の労銀を重ねずにはいられなかった。
「十兵衛どの。傷を抱えたままでは不足もあろう」
白布に覆われた刀創の(うみ)を嗅ぎつけたのだろうか。
衝立(ついたて)の向こうでは、秀吉が御簾(みす)の隙間から紛れ込んだ羽虫を素手で払っている。
近くで巻き上がった旋風(つむじ)の砂入り白湯(さゆ)にも嫌な顔をせず、ぐいぐいと一気に飲み干すや、道中の慰みとするはずの品々を、そっくり十兵衛に与えていた。
無慾(むよく)とみるべきか。
あるいは戦に無用の長物を預けたかったのか。
漠然と藤孝が外で待っているうちに、陣中見舞いは無事、終わったらしい。
峰腹の色づいた茶臼山城の二段曲輪を坂下りた虎口を抜けたときには、秀吉は駐屯部隊の将として見送ったこちらを仰ぎ、思いがけない言葉を残していた。
「いまの十兵衛どのは、殻を破ったばかりの(ひな)じゃ」
黒井の城からわずか半里と、交戦頻度を重視した部隊編成では、交戦に長けた将と攪乱(かくらん)を得意とする将との合一が望ましい。
そんな茶臼山の駐屯盆地において、藤孝は鎮痛の相居そのまま、従者らの差配を承認していた惟任光秀が、秀吉の陣小姓を担っていた十兵衛と気づいた。
「斎藤利三どのは、どうやら十兵衛どのの与力衆であることに不満らしい。藤孝どのは、明智でも数少ない十兵衛どのの昵懇(じっこん)。寝首を掻かれぬよう、油断なく振る舞うといい」
「そうしよう。しかし、本当に内蔵助どのが、あの御方を……」
「でなければ十兵衛どのの左眼は失われておらぬ」
目を開いた藤孝に、秀吉は呵々(かか)とわらう。
丹波と山陰でつながる播磨三木城攻めには戻らず、離反した荒木勢のまもる以南の三田攻城に注力することを告げると、そのまま馬鞍に飛び乗っていた。
彼が赴く三田城とは、はるか東の有岡で籠城をつづける荒木村重の臣下、荒木重堅が新城主の任を貫く、摂津国西北の有馬郡に座した山城だ。
「われらの攻める丹波西方では、但馬と播磨ら北南二国を任された藤吉郎どのに、砦普請の材木確保を助成してもらっている。ここはひとつ、わたしに普請を任せていただきたい」
秀吉との連環を惜しまなかったあの惟任光秀が、病がちとなった身を起こしてまで向かったのは、藤孝もみていた。
丹波から越境してまもなくぶつかった武庫川を渡るさなか、三田城を攻囲するための付城普請という大役を買って出た瞬間から、運命は決していたのかもしれない。
藤孝には、そのさきの出来事はみえていた。
無論、本当にみえていたわけではない。
馬首をならべて行軍する機会にめぐまれていたせいか、離れていようと、互いの状態は手にとるようにわかっていた。
(あの黒井の城さえなければ……)
茶臼山城をはなれた羽柴秀吉の憤りを内包したまま、舞い戻った丹波国で斎藤利三の手配した足軽部隊の虜となる前から、惟任光秀の体調は芳しくなかった。
摂津有馬の三田城を攻囲する秀吉への支援として、自ら志願した四城の造成時には、交戦中の味方部隊を見捨て、三田で籠城をはじめた荒木重堅と根競べをするように、下降線を辿っていた。
「わたしが陣没したときは、迷わず藤吉郎どのを頼れ。即座に漕ぎ着けられるよう計っている」
その言葉を最後に消えた惟任光秀の意向があらわれたのは、黒井の向城として築かれた茶臼山の当城を人物両面で支えるようになった、羽柴軍の協力姿勢だった。
ただしそれは、但馬・播磨・摂津の三国を神速に駆けるなか、丹波の火急にまで対応することでもある。
どうみても尋常ではない。
戦利をこちらに分配してまで丹波攻めを支える秀吉の意はどこにある──藤孝は僧侶の錫杖(しゃくじょう)をほうふつとした社殿に戻ると、無人の屋敷で鎧櫃(よろいびつ)と二振りの刀をみつけてまもなく外に出る。
守衛の動線確保から、一部を解体させて新造した飛び曲輪(飛び地の区画)の土蔵を通り過ぎる。
遠見を展開する(やぐら)の向こうでは、雲切れをめざす冬鴉(ふゆがらす)の一団があった。
幾多の城攻めに遭い、いつしか夜霧を渡していた楼門(ろうもん)をこちらに奪われた黒井の城景と向き合うかたわら、懐に忍ばせた龍笛(りゅうてき)を吹いた。
沈んだ稜雲を戻そうと、山彦はしずかにこだました。
それが途絶えたのは、隣に幽影を感じたときである。
「戦陣に赴いた藤吉郎どのの祈念ですか」
すでに白布をとっていた十兵衛は、焼き鏝(やきごて)で傷をふさいだ左眼を気にすることなくつぶやいた。
「休まなくていいのか」
「将兵らが各地で奮戦している以上、わたしだけ滋養に甘んじるわけにはいきません」
「殊勝な心掛けだ」
藤孝はおもむろに木塊を出してみせると、頭上にそれを掲げた。
「何を」
十兵衛の問いかけに、藤孝は無言で指を自唇にあてた。
荒涼とした山風にさらわれた枯葉は、氷空でとぐろを巻きはじめ、そのまま社殿に張りついていく。
古竹の高櫓(たかやぐら)が俄かに軋み、しずかな陽の范華(はんか)をあらわした刹那、掲げた龍笛が鳴動する。
「これは……もしや、あの郷の唄では」
「戦地では、母衣武者(ほろむしゃ)荒魂(あらみたま)しか見出せん。遠くはなれていようと、こころはその和魂(にぎみたま)を宿しておかねば、狂ってしまう」
「戦に、狂う」
「わしだけではない。みながそうなる」
藤孝は凍風を浴びた木塊を懐にしまった。
「それにしてもよく似ている。あの根来の風来坊が、一夜で織田の重臣とは、途方もない出世だ」
張りのある声でささやいた藤孝に、十兵衛は瞳を剥き上げた。
(怒りから来たものではない)
藤孝にはそれがわかる。
根来の同郷人以外で十兵衛の「惟任日向守降誕」を知る、数少ない人物の|無聊(ぶりょう》な慰みに対する会釈であると。
「妙な心地だ」
名状しがたい抑揚を藤孝は表した。
こちらがそうであるように、惟任光秀となった十兵衛も「完全に馴染むには時間を要します」と告げるあたり、「惟任光秀」としての自覚が確固となるには、主従の一致もつきまとう。
(これを奇縁と言わずして何と言おう)
藤孝は面映ゆさを隠すように取り繕った。
栄華をきわめた旧幕府の十三代将軍、故足利義輝の主馬頭のひとりとして、実娘の小侍従が愛妾となったことから、申次衆としての立場を大きくした。
そんな名門出の進士作守晴舎ほどではないにしろ、代々幕臣として仕えた由緒ある細川家当主としての器量は、なかなかのものである。
人選にうるさいあの織田信長を以って、
「取次の素養は得難いものだ」
他家に比して繁忙な織田家では、「上方の諸般に通じた近習なればこそ、適宜に処せる」との人評を得ている。
それが長岡に姓をあらためる前の自身、細川藤孝だった。
一方、惟任光秀は真逆の人生を歩んでいた。
土岐一族の端家に生まれ、「御屋形(おやかた)さま」と慕われた美濃国主、土岐頼芸が斎藤道三に排斥されてまもなく、あらたな国主に君臨した斎藤道三のもと、才気を買われた囲いの鳥として、明智城で育てられた。
やがて義父の斎藤道三が嫡子の義龍に滅ぼされると、道三方に与したとして、美濃国にいられなくなった。
美濃侵攻をはじめた尾張織田との戦火を逃れるべく、城をはなれて北上している。
落ちのびた越前国で朝倉家の下士となり、美濃にいたころ世話となった勘解由左衛門範煕の娘、土岐郡妻木の城を本拠としていた妻木家の煕子(ひろこ)と糟糠の日々を送りはじめるも、浪人出の光秀が重用されることはなかった。
「清和源氏につらなる土岐池田の者だと? 下人の分際で吠えおるわ」
他国から「美濃の(まむし)」と畏怖された斎藤道三の教えを享受した光秀は、某流派において、一定の武技を修めたあかしとして授けられる印可目録・免許皆伝といった私文書「兵法相伝誓書」を持つほどの麒麟児だった。
加えて四書五経の読破、さらには城砦普請の工程を記した祐筆記録の習熟と、越前朝倉家の隅役には「諸事に充てられる稀有な人物」とみられていた。
にもかかわらず、朝倉従属後のお呼びがなかったのは、当時の立場的な低さもさることながら、兵の扱いが国主によってまちまちであったことが起因である。
「私が侍大将となる」
 合戦を指揮する者は、総大将として本陣または本拠の城に鎮座する国主の名のもとに軍令を発するものだ。
「近臣として仕える者は馬廻衆として、取次や砦普請を担う者は奉行衆として、それぞれ役を申し付ける。それ以外の者は足軽となるが、元服前の者に限り、槍働きの武官を希望するなら若党として、文官ならば小姓として扱おう」
「なお、惣村から徴募した百姓については、夫と夫丸に分け、城砦普請(土木事業)に従事する者、荷駄(荷物)を運ばせる者と、はっきり区別するので注意せよ」
右言はほんの一例だが、全国に無数ある分国法の掟書を礎とした軍政臣事は、おおよそ侍・下人・百姓の三種で構成されている。
光秀の属した越前朝倉家も例外ではなく、とりわけ統率力に長けた馬廻の直参衆は、俗派な軍門位階に縛られていたせいだろう。
朝倉の食客として腰を据えたばかりの光秀などは、父祖代よりつづく朝倉陪臣としての矜持を抱えた彼らからすると、(しらみ)に等しい存在でしかない。
「なかなか目端の利きそうな百姓(・・)ではないか」
「いや、あれは美濃出身の下人(・・)だそうだ」
「ほう。ではあれが土岐の出涸らし(・・・・)という、明智某(あけちなにがし)か」
国盗りにまつわる浪人勢が日銭をもとめ歩く今勢では、出自を偽ってでも召し抱えられたいと考える輩は後を絶たない。
それだけに、「また有名な家柄を持ち出した賤民(せんみん)の仕官が叶ったか」と、いわれのない侮蔑を浴びた光秀は、一乗谷の辺境に追いやられていた。
足利十三代将軍、義輝が御所を襲撃した三好勢に殺され、仏門に入っていた弟、覚慶が越前国の朝倉義景に庇護をもとめる変事が起きたのは、そうした登用のうわさすら消尽したときである。
越前入りから長崎称念寺ちかくに転住し、やがて一乗谷の上城戸にある東大味の侍屋敷で念願の部屋を与えられた。
越前朝倉に奉公してから、すでに十余年の歳月を過ごしていた明智光秀が、還俗で「覚慶」から「義昭」と名をあらため、虎視眈々と復権に燃えた足利義昭とつながったのは、もはや天啓である。
「かつては『兵部太輔』として公方さまに仕え、のちに弟君である義昭さまの御供衆として師事したわしが、うわさを聞きつけて直参足軽衆に推挙したのは、ようやく一乗谷の雪が解けた永禄十年(一五六七)の春。やがて上洛間近と目された尾張織田の国主、織田上総介信長さまとの橋渡しに奔走したのは、野望を伏したまま隠遁していたわれらはもちろん、十兵衛どのにも得難い転機だった」
藤孝は涙を湛えたまま、人知れず没した惟任光秀の面影を宿す十兵衛と向き合った。
焼失した近江西教寺の再興を命じた惟任光秀への祝辞として、軍務の書状とは別に追而書(おってがき)(追伸)を送付した羽柴秀吉の陣小姓が、いまではこうして新生の惟任光秀として立っている。
藤孝にはそれが嬉しくもあり、また寂しくもあった。
「藤孝どの。一日千秋の面持ちでそのお言葉とは、悲しいことでもありましたか」
「馬鹿を申すな。早逝(そうせい)した雑兵の後を追わぬよう、兜の緒が緩んだ貴殿への忠告だ」
袖口で目をこすった藤孝は、
「向こう見ずといえば、そのような臣がこの近くにいる」
「……それは八上山麓でわたしの救出に成功した内蔵助のことですね」
「論功行賞で失敗した斉藤利三ではない。忠興のことよ」
藤孝は、嫡子の忠興が無断で長谷川秀一の甘言に乗じ、持久の構えをみせる八上城主、波多野秀治を投降させようと、手勢を率いて南麓の奥谷攻城に発った先手組に志願したことを告げた。
「あれには長岡の嫡男という自覚はないらしい。三好の内紛に際し、すわ好機と足利義昭さまを他国に逃がすべく一色藤長と血路を開いた、わしのような苦吟も味わっていない」
「多紀八上と氷上黒井の分断意として、いっせいに多紀連山に侵攻したのは、秀吉どのの下知に依拠しています」
「はたしてそうだろうか。上洛した織田さまと義昭さまとの間接を『煩わしいから』と小姓任せにし、織田さまの献上された金銀箔の品々にうっとりしていたときなどは、猿ぐつわをして井戸に吊るしてやろうかと思ったが」
「それは穏やかではない」
羽柴秀吉の陣小姓として、幾度も長岡家との取次をしていた十兵衛は、職工が髄を凝らした珠品のみならず、伴天連が海を渡って持ちこんだ珍品が、足利将軍家の土蔵に収められていたことを知っている。
そして収蔵品を羨々(せんせん)とみつめていた、面長の人相も。
藤孝にしてみれば、そうした愚かな忠興の言動は、幕臣の摂理に近いものだ。
「旧恩の臣将ほど依怙地(いこじ)なものはない。織田から毛利にこころを寄せた義昭さまは、かつてそのようにわれらを卑下された」
告白したこの瞬間がそうであるように、元幕臣としての矜持を残す藤孝は、新兵にひとしい息子、忠興があらぬ葛藤で心を乱し、臣下の前で絶叫するすがたなど、武家にあるまじき行為として容認しない。
尊卑老稚(そんぴろうち)の仇情を糧に、氏族の遺訓を背負い、死屍累々(ししるいるい)の戦場を練り歩いて武名を轟かせる。
争うことでしか一族郎党を肥やせない。
いにしえより継承した魂の根源にあるのは、武家に生まれてきたがゆえの宿業だ。
忠興のような若い世代──妻子や異母兄弟らと憩う純朴な青年たちを、藤孝らは戦場で〝一個の鬼〟として扱わねばならない。
たとえ愚かな消耗戦であろうと、ときには乱戦を前に、決死の陣采で突撃を敢行しては、肉斬骨断と敵の首級(しるし)をあげていく。
生涯忘れはしない藤孝の武人の片鱗がちらつきはじめたことに感化されたのだろうか。
小姓の手を借りず、すばやく軍装となった十兵衛は、公明正大に付された忠興の戦功を俎上(そじょう)とすることで、不要な摩擦を避けている。
「十兵衛どのは、これからどうされる」
完膚なきまでにせん滅させられた敵勢には「激浪の陣」と称され、空前絶後の疲弊を強いられた味方勢には「不咬(ふこう)楚毒(そどく)」として、腫れ物同然に扱われる。
心を捨てた「鬼」とよばれることを「冥利(みょうり)」とわらい飛ばす、戦場の兜巾に宿った二光。
爛々(らんらん)とした眼を向けた藤孝は、幾分朗らかに返していく。
「このまま羽柴どのの世話に甘んじては、味方の士気に障る。とくに斉藤利三は、十兵衛どのが不在であることをいいことに、『主を救出した勲功をサルめに横取りされた』と、そのへんで捕まえた雑兵に喚き散らす有りさまだ」
「わたしとて秀吉どのの助成に甘えるつもりはありません。ただ、丹波攻めの本拠とした亀山城に戻るには、懸念があります」
「失った左眼の醜態をさらすことか」
短く|首肯『しゅこう》した十兵衛は、右手をとんと自喉に添えた。神妙な話しぶりではなかったせいか、それだけで藤孝は理解する。
「どうやら熱が残っているようだな。まあ、低音の下知(・・・・・)であろうと、寡黙(かもく)な主命には変わらん」
以前の惟任光秀と比べても低すぎる声帯だけに、諸般の命令は明智秀満のよこした小姓が取次を担うので心配することはない。
破顔してまもなく、藤孝は秀吉に委任した八上と黒井の同時攻囲に向けた陣触れを余すことなく伝えた。
いまの十兵衛にとってそれは、主君を裏切って斎藤利三の配下におさまった同郷の根来衆の監視のみならず、常時において総大将たる自覚が必要な身辺憂慮を払底(ふってい)する、またとない勧めだった。
それでなくとも彼はいま、斎藤利三の謀議によって生じた、雲上の「惟任日向守光秀」の立場で揺れている。
格別の辞儀をあらわしたかつての主君、羽柴秀吉に対する戸惑いを残したすがたに、藤孝は整然と発した。
「忠興を頼む」
卒爾(そつじ)において抜かりのない豪将の衣を捨てるや、父体となって世代間の隔たりによる疎通の難しさを吐露した。
「承知しました」
十兵衛は真摯な笑みを湛えたまま、小姓をよびつけた。
丹波亀山城からやってきた明智秀満の元旗持(もとはたもち)、佐々川箕六が面前に(まか)り出た。
精悍(せいかん)な表情は、申しつけられた儀を携え、しずかに下がっていった。そのすがたをみているうちに、瞳の存在を感じとった。
「戦況次第では、わたしも兵を投じることになるでしょう」
「分かっている」
長谷川秀一の献策に忠興が乗ったのは、八上と黒井の同時攻囲であぶれた長岡勢の威信を示すためではなく、針の穴を突くような一番槍の武功を狙ってのものである。
明智の軍令を無視した勝気な功名心まみれの忠興を黙認するどころか、加勢を匂わせた眼前の十兵衛に同調したとはいえ、ここで素直に「息子のことで迷惑をかける」と恩を着せたままでは、細川九曜は一兵卒からの立身出世は果たせなかった。
ならば、と藤孝が提案したのは、遅々とした砦普請の目途がつき次第、すみやかに本来の持ち場に戻るとの告示だった。
「ではそのように」
多紀八上の波多野秀治が煽動する、氷上黒井の城外に散った一揆勢鎮圧に際し、よしなに計れるよう、明智軍の全権を預けた羽柴秀吉との連携を恃まなかった十兵衛は、こちらに合手礼をみせた。
「十兵衛どの。むかしの癖が出ているぞ」
藤孝が歯をみせてわらうと、とっさに改めた十兵衛を諭す。
功徳(よいこと)は己に(まわ)るものだ。相当な(ついえ)となるが、完成後に丹波の民心が味方につくと思えば安い」
かつてない規模で山一帯を封鎖する黒井・八上の分断工作が済んだあとは、駐屯部隊の兵糧確保と心身鍛錬を兼ね、交代で荒らされた領民らの稲田を耕す屯田(とんでん)を推進するのが望ましい。
進言がてら、藤孝は丹波亀山城に向かう決意をした十兵衛の供支度をはじめた。
はるか東の須知(すち)では、織田の抑えを妨げようと、波多野秀治の部隊が要道に張った部隊を襲撃していた。
もっとも被害の大半は、攻城と物資を供給する経路に置かれた小砦だった。
なかでも攻囲の要となる付城・向城・支城に等しい砦は、要衝から遠ざけられた地点に集中していたせいだろう。
敵の夜襲部隊は、めぼしい織田の駐屯砦をみつけては、
「交代の時間だ」と声をかけ、
「それでは朝まで頼む」と応じた織田兵に扮したまま、
あらたな廻番として派遣されたことを示す謀書(偽の書状)を信じて眠りについたところを襲っていた。
「目的は糧米の確保ではなく、乱取りで得た物資でしょう」
十兵衛の桔梗旗を東方に導くよう、粛然と駒をすすめた藤孝は、前後に控えた馬廻の者から、行軍路の安全確保で放った物見の報を重ねた。
かの戦地では、「食糧確保」と称し、稲田は根ごと引き抜かれ、村集落の家屋は焼き払われていた。
被害に遭った惣村は、それだけでも深刻な事態と受けとめていた。
しかし本当に恐ろしいのは、苅田の前後で行われるの濫妨取(らんぼうど)り(乱取り)と、誰もが知っている。

禁制(軍規の宣誓)

一. 軍勢甲乙人濫妨狼藉事(織田軍に属したすべての兵士が行う乱暴狼藉について)、
二. 陣取放火事(勝手な布陣や焼き払いについて)、
三. 相懸矢銭兵糧米事(軍資に充てる徴税や食料の接収について)、

右条々、堅令停止訖、若於違犯之輩者、速可処厳科者他、仍下知如件(右において、固く自軍を戒めるとともに、違反者が出た場合は、すみやかに厳科に処すことをここに誓う)

 天正六年二月
          明智日向守(花押)

丹波国平定に際し、惟任光秀は右記のような誓書を寺社や村集落などに出している。
禁制とは、文字通り禁止する制約をあらわしたもので、自軍の兵が危害を加えないことを約した念書である。
とりわけ第一項の濫妨(乱暴)狼藉については、明智の軍のみならず、すべての部隊において、完全に律することは困難だった。
「おい聞いたか。今度は入追で戦だってよ」
「うはは。竹田で荒稼ぎしたってのに、近場でこうもつづくとは、いよいよ俺も商人に鞍替えか」
戦で生計を立てていた雑兵たちのあいだでは、敵味方の勝敗などお構いなしとばかりの火事場泥棒、もとい戦場泥棒を夢中でおこなう者が頻出していた。
そもそも「侍」として敬称されたのは、一握りの者にすぎなかった。
兵のおおくが「死肉をむさぼる群蝿」として揶揄されたのは、良心の呵責(かしゃく)を捨てた卑俗な乱行が関係している。
御家にかかわらず、雑部隊の兵たちは、生活の糧である稲田を焼かれ、やむなく雑兵となった元百姓を除けば、出稼ぎ目当ての従軍者だった。
なかでも敵地をよく知る者などは、野盗や海賊出身者と組むことで、敵領内に侵攻したときには、必ず上役の目を盗んで敵兵の遺骸から武具を剥ぎ、|茅葺『かやぶ》いた民家に押し入っては敵領民を生きたまま捕らえ、その足で戦地周辺の行商に売り飛ばしていた。
そうした彼らの乱取りは、合戦を追うごとに卑劣さを増していた。
女と童に被害が集中していたのは、どこの戦であろうと大差はなかった。とはいえ南蛮交易の開闢(かいびゃく)から久しく、西欧の宣教師すら諸国を闊歩(かっぽ)する時代である。
「お前たちの取り分だ」
体裁こそあれ、戦利品として収奪した金品のほとんどは上位の侍が優先的にとっていくため、雀の涙にひとしい分配にうんざりした雑兵の一部で横行する戦災特需の窃盗および人身売買は、やがて国内の商人より高値で買い付けをおこなう、奴隷文化の名残をまとった伴天連ほか、大陸からやってきた明人との交渉が主流となっている。
なぜそれが(よぎ)るのか。
多紀連山を避けようと、八上の城山を見張る籾井城には向かわず、船坂城の御門がみえる造成中の小砦を臨んだ矢先、耳に届いたからなのか。
「やめれ、やめてけれぇッ」
幹太い樹根の重なりあう尾根道のふもとからたすけをもとめる声が上ってきた瞬間、藤孝は行軍停止と物見の下山を命じた。
その場で陣容を整えつつ、偵察から戻った兵の報告を耳にすると、馬上にいた者すべての抜刀をつたえてまもなく、旗指物を掲げていた槍兵馬を先頭に林間突破の陣鼓を打った。
「砦の外にいる者を狙えッ」
「一騎も逃すなッッ」
 藤孝の下知に呼応したのか、峠からやや外れたわずかな原野に空堀と木柵を置いた総土構えの小砦が(とき)の声を上げると同時、群がっていた母衣武者たちが一斉にこちらを向いた。
鋭利な竹槍を脇抱え、遮二無二突っ込んでくる母衣武者たちを前に、藤孝は戦軍配を差し向ける。
数的優位と馬脚を生かした怒涛の猛攻は、存分に采を振るう機会を失したまま、小砦の(やぐら)を中心に張りついていた敵勢とみられる敵勢を一蹴した。
「お、お侍さま、ありがとうごぜえます」
細川九曜の御旗で明智の軍と知ったのだろう。
小砦をまもる木柵の隙間越しに、必死の形相で抵抗していた百姓たちのひとりが小走りにやってきて、鉄太と名乗った額を地面に落とした。
「負傷した者はないか」
「伊織んとこのせがれがやられたくれえで、あとはもう」
「そうか」
馬から降りた藤孝は、獣避けの猪垣(ししがき)を越えて村内に侵入した敵勢がすべて討ち取られたことを検分すると、攻防で死没した伊織という男の次男坊、五郎を悼む墓を、陽の当たる砦近くの山裾につくらせた。
「鉄太よ。この砦はお前たちが設けたのか」
手向けの花を添えて黙祷した藤孝は、鉄太と名乗る領民とおぼしき男にきいた。すると鉄太は俯いた。
「それは……全部、あいつらがこさえて……」
震えるように砦のそばで山積みとされた、母衣武者たちの遺骸が示された。
「彼らがこの砦を」
つぶやいた藤孝のすぐちかくでは、号泣し続ける女が、すがりつくように抱いた母衣武者の墓穴を掘っていた。
ひとりだけではない。
砦にいた者すべてが喧々とした顔つきをなくし、哀憐に屠られた母衣武者たちを埋葬していた。
「誰よりも土が好きだったあいつらが、戦で変わっちまった……」
鉄太の嘆きを前に、無言となった藤孝は、弔いを終えた兵らを連れて小砦をはなれた。
耳には残響がまとわりついていた。
氏族の戦に巻き込まれ、乱取りで家畜同然にあつかわれることに怒りをおぼえた彼ら百姓の抵抗は、これまで何度も目にしてきた。
細々と暮らしていた生活圏を壊され、妻子を見知らぬ男どもに(なぶ)られたうえ、手足を(かせ)でつながれたまま、ばらばらに異国の地へと運ばれる。
身を寄せ合うように郷里で戦没したほうが、まだ幸せではないか──生き地獄に囚われた同郷人を何度もみてきた彼らにしてみれば、自衛手段として、領内を統治する国主の城へ、近隣の山へと、着のみ着のまま、家族と避難するのは常だった。
しかし、そうした急場しのぎの逃亡すら叶わない土地がある。
崖や海を背にした面崖砦(めんがいとりで)を構えては、空堀と木柵で囲まれたわずかな聖域を、身命を賭して守らねばならない。
救援にかけつけた、さきの惣村のように。
「藤孝さま。あの村は辺鄙(へんぴ)な場所に置かれているため、また賊に襲われるやもしれませぬ」
「言うな」
いまの自軍に守衛の兵馬を割く余裕はない。
近臣の訴えを退けた藤孝は、騎乗していた汗馬の手綱に力を込める。
(この閻行(えんぎょう)は、いつまで続くのか)
冥府につかまれたこころをかたむけた八木城では、人馬に休息を与えてまもなく、迎えの兵が伝えた歓待を辞した。
もっとも、百姓の砦救出戦から一夜を明かそうとした寝所では、眠りにつくことは叶わなかった。
案内の道すがら、八木から東南の小林、大井、並川の村集落を越えたさきで堅牢に構える丹波侵攻の本拠、亀山入りした十兵衛が、籾井の城の要請を受けたためなのか。
急遽、以南の摂津三田攻めに加勢することになった筒井順慶の輜重を援ける部隊編成として、藤孝は分隊を迫られた。
「お前は殿軍の指揮下に加われ。他の者は、それぞれ大荷駄の御守を申し付ける」
屈強な部隊を選り与えたのち、残る小勢で予定通り亀山の城に向かった十兵衛に早馬を出したときには、所用からもどった兵の懇願があった。
「饗応の準備が出来たとのことですが、いかがいたしましょう。もはや我々の力では、忠興さまの求めを制することはかないません」
(らち)が明かんな。わしが出向いて話そう」
饗宴(きょうえん)の主役として、どうしても招待したいという八木城代の申し出を断り切れなくなった足軽に休息を言い渡すと、供を断った藤孝は独り、寝殿を後にした。
波打つ段郭で侵入者を惑わす北西の防曲輪から、本陣曲輪の主郭をめざした。
かつての城主、切支丹に改宗した内藤如安の意匠がのせられた山十字の破風は外され、装いあらたな黒条の木破風が、ひっそりと松明(たいまつ)に浮かんでいた。
仰ぎみた方形(ほうぎょう)の小天守に登ると、ほどなく通された板間奥、小屋段とよばれた二畳ほどの段框(だんかまち)から南の金之間曲輪を眺める人物は、清容とこちらにほころんだ。
「ようやくお出でになられましたか」
父子とはいえ、駐留しただけの藤孝は、あくまで客分である。
門当戸対の振る舞いで控えていた小姓に申しつけた忠興は、渡りごと増築した照月之間(しょうげつのま)とよばれた小楼を示唆するや、
「今宵はみごとな望月(もちづき)です」
(あで)やかな陣羽織を返し、悠然とこちらを導いた。
照月之間とは、いわゆる月見をするための一室だった。
いつ敵勢の奇襲に遭ってもおかしくはない戦地の山城に、あえてそのような場を設けたのは、均衡のとれた長陣の怠惰(たいだ)を和らげようとしてのものだ。
四季折々の月虹のもと、招き入れた盲僧に雅楽を奏でさせ、夜番兵に癒しを与えていた己の実子──忠興の対面に座したところで、藤孝は夜膳に箸をつけず琵琶(びわ)()をきいた。
「明日には丹波亀山に発つゆえ、(うたげ)は不要とつたえたはずだ」
「そう邪険となさらずともよいではありませんか。惟任日向守さまは、南西の籾井で一夜を明かされるとのこと。たまには父子水入らずの月見も悪くありません」
忠興は詫びるどころか嫡子として当然であると豪語した。
率直に腹が立った。
が、こうして面と向かったとたん、私憤は散っていく。
(子とは厄介なものだ)
仁義なき戦とは無縁の温厚な気質がそうさせるのか。はたまた戦陣にはない享楽のはたらきによるものか。
ぼんやりと夜半の満月を眺めていたところ、那須与一を奏でた盲僧の琵琶が佳境に差し掛かるのをみとった忠興は、酒肴(しゅこう)をふるまう小姓に夜膳を下げさせた。
「父上は、いつごろ軍勢催促を出されましたか」
「丹波国人宛の召集令状か」
「はい。惟任日向守さまが逗留なされた籾井の城もそうですが、この八木城でも召集をかけた丹波衆のいくつかは、応じただけで馳せ参じておりません」
「着到状を提出していないのは、平林、渋谷、荒木ら三人であろう」
藤孝は無粋に放り、こくりと頷いた忠興の小話に対しても、平然と釘を刺した。
八上城周辺では、籠城策にでた波多野秀治の指示を受けた雑兵が、備蓄していた兵糧の不足を補うべく、夜な夜な城を抜け出しては、織田軍の砦と惣村を襲っていた。
が、それにも増してひどかったのは、織田の友軍となった丹波の国人衆だった。
「織田の軍勢催促など、所詮は口約束にすぎん」
眼前の忠興につたえた先日の着到状を含め、藤孝の部隊は「戦場にあるものすべてを蹂躙することが既得権益」ととらえる義勇軍の丹波衆に理解をもとめては、何度も裏切られていた。
乱取りの益品を織田の雑兵に奪われていたことに気づいた一部の者は、戦勝にこだわる織田信長の軍令が届かない場所と割り切り、恣意(しい)に走っている。
「この合戦が終わろうと、しばらくすれば別の国での殺し合いを命じられるにちがいないさ」
「うまい口実を餌としただけの軍勢督促など、誰が相手にするものかよ」
転戦の不満を持ちながら、各々は立場ゆえの行軍をつづけている。
その数少ない捌け口として、自分より下の立場の者、つまりは丹波衆を使役した戦利のやりとりは、戦場ちかくで物資を売りさばく商人との交渉を経るにつれ、敵味方を問わない稼ぎ(・・)を助長させている。
それを可能とさせたのは、傭兵部隊として織田に従軍し、先々で待つ死への恐怖が取り除かれた、幽鬼(ゆうき)の精神にほかならない。
「どれだけ武功をたてようが、いずれは僻遠(へきえん)で野垂れ死ぬ。ならば赴くままに戦陣を謳歌(おうか)してやる」
自暴自棄とはまるで異なる開き直りが思考の中枢を占めた丹波の地侍は、以前であれば抵抗のあった残虐行為を公然と行うようになっている。
「もとより丹波は京のみやこに近い国。平定は国人衆の結束次第ということですな」
忠興のつぶやきに藤孝は顔をしかめる。
戦の狂信に誰よりも染まったのは、かつて奪われる側にいた、百姓出の雑兵だ。
彼らを悪鬼羅刹に変えたのは、ほかでもない藤孝のような織田の旗振り役であり、丹波国人の枢軸である。
過酷な惨状をくぐり抜けてきた明智の総大将、惟任光秀の与力衆となった己の立場でさえ、軍令がはたしてどれほど兵らに順守されているのか。
いまの藤孝にそれを確かめる術はない。
(救出したあの鉄太たちも、いずれは討ち取った母衣武者どものようになってしまうのだろうか)
円窓に浮かぶ月輪をあおいでいた藤孝は、ぼやきをもらしていたことを忠興に指摘されるまで気づかない。
もっとも、年の瀬らしく反芻(はんすう)を口にした源がどこから来たものかは察している。
「那須与一の放った一矢は、見事さゆえに敵味方を忘却させた。われらもまた、典雅な争いで優劣を決することはできないものでしょうか」
忠興の申し出を受けた藤孝はおどろいてみせる。
「それが出来ればおもしろい世になろう」
穏やかにわらったものの、こちらの内心が冷えていたことに無関心の忠興には、微かな嘆息を禁じ得ない。
藤孝のような古人には、忠興のような新人の持ち出す見識は、斬新すぎて戸惑うことは何度もあった。
しかしそれは、古色蒼然とした国事の、脈々と受け継がれた朝廷と諸国の摂理を知らない者が放つ、無知への違和も混じっている。
さきで忠興の匂わせた国盗りなどは、山河に棲息する動物のように、係争の一幕にすぎない。
刃傷沙汰とは無縁の幕府ですら、内々では陰険な争いに執着している。
「封建的な内政を司ることが至上であり、清廉(せいれん)であるとの考えは、もはや世間知らずの戯言(されごと)でしかない」
そう足利家の奉公で学んだ藤孝の世代には、他領を侵す侍のおこないは、あくまで統治手段のひとつと認識されている。
一方、忠興のような戦時に生まれた世代では、闘争を身近なものとしてとらえた受容者と、調和を乱してまで私争に等しい合戦をつづけるのは殺戮だとみなす平和論者とが衝突する傾向は強い。
「おなじ日ノ本の民が、血を流して戦うことに意義はあるのか」
「こちらにその意思がなくとも、相手が攻め滅ぼしに来たならば、武器を取るしかないだろう」
いつどこで命を奪われても不思議はない。
未曽有(みぞう)の乱世にありながら、「領国の安寧(あんねい)を保証する」という侍の職分を論考のみで理解し、直面する護国の在り方について異議を唱える忠興には、民の捻出した銭貨や年貢によって侍が生かされている現実すらみえていない。
(明朗に月見の詩をそらんじたこいつは、生まれる時代を間違えたのではないか)
「足利義昭さまについて、見聞を広めているか」
藤孝がそれとない話題を振ってみても、
「織田軍の紀伊・雑賀侵攻で、一昨年の二月に備後国・鞆の浦に下向した鞆公方さまでございますか」
忠興は史実を述べるかのように応じるのみである。
「実権こそ失いましたが、奢侈な貢馬や献金ばかりを受領していた繁栄があったからでしょう。朝廷は鞆の浦で御所を構えた足利義昭公の御旗のもと、最大派閥を誇る毛利勢にこころを寄せております」
「よく存じている」
「五郎左どのが他国の情勢を届けてくれますから。このような山河にありながら、さまざまな情勢に触れることができます」
「ふむ。それでは丹羽長秀どのの情報が誤っていれば、今の見解はなくなるな」
「なくなるとは聞き捨てなりません。第一、五郎左どのは、でたらめをいうような御方ではありません」
「無論だ。いまのは仮話にすぎん」
キョトンとした忠興に「想定してみろ」と告げた藤孝は、あおられた夜風に袖衣を下げると、そのまま小姓に外すようもとめた。
こちらの投げかけに沈思した忠興は、ほどなく「考えたこともありませんでした」と告げ、屈託なく詫びた。
忠興のつたえた丹羽長秀の話では、鞆幕府と不即不離の朝廷は、関東管領を自負する上杉家と同盟を結んだ織田信長を推す公卿、西国の将軍として奉じられた足利義昭の慕情を内包する帝の旧臣で二分していた。
しかし情勢などは、いつも同じであるとは限らない。
そして届けられた風説もまた、丹羽五郎左衛門長秀(・・・・・・・・・)という人物を介した以上、恣意が反映される可能性は否めない。
「われらは近況に恵まれぬ転戦が少なくない。隊を預かる将として、織田さまの朱印状を除くすべてには、細心の注意を払わねばならん」
わしとて戦場でお味方の離反に遭うのは困る。
冗談交じりに脅してやると、存外素直なものだ。
いつもこうであれば──忠興を見据えたまま、藤孝は足利の礎、尊氏公が上京を果たさんとした折に立ち寄った毛利の要港、鞆の浦に腰を据えた足利義昭の御内書(征夷大将軍の発給文書)の恩恵について言及する。
「朝廷はすでに海運で栄えた四国や九州の諸大名の贈品蒐集(ぞうひんしゅうしゅう)を可能とするまでに復位している」
「西国では、帝の遷移(せんい)を操っていた三好の権勢が色褪せてきたことが影響しています」
「ほう」
躊躇(ちゅうちょ)なく答えた忠興に、藤孝はわずかな感嘆をみせたまま、詩吟のように対話を重ねる嫡子に付き合っていく。
「利害一致の住み分けを終えた国人から高価な献品を受けとっていた公家はもちろん、彼らと義昭さまとを仲介する申次衆に任官された飯川信堅などは、貪婪(どんらん)な眼で(まいない)を容れつづけ、いまでは義昭さまを差し置くように特選(・・)を享受している」
「代々付き従ってきた足利将軍家を見限った父上の目には、栄枯盛衰を経てなお夢枕にすがる鞆幕府の慣習が、もはや俗世を逸したものと映るのですか」
「そうだ。贈られた品よりも、贈る側の素性を推し量っては、自らの権威をさらに高めるための(はかり)に転化する──幕府再興と諸般にわたる最高権威をほしいままとした義昭さまにしてみれば、本来は隷属者であるはずの織田さまが朝廷に優遇され、飄々(ひょうひょう)と勅旨を汎用されることは、認めたくない現実だ」
「しかし京のみやこでは、織田さまに御所から追い出された際、当時二歳の子息を助命と引き換えに奪われております」
「『大樹若君』だな」
「はい」
「人質とはいえ、今川家で育てられた三河どの(徳川家康)のように、織田さまは傅役以外の指南役をつけておられる。いずれは幼帝として、擁立なさるはずだ。毛利に根を張り、権威の営収をばらまくように鞆幕府を打ち立てた義昭さまは、実子が利用されることを恐れている」
藤孝は言葉を切った。
田楽狭間で武名を轟かせ、上洛した京のみやこで越前朝倉に身を寄せた足利義昭を庇護すべく御所を建立したのも束の間、やがては袂を分かつように朝廷へと身を寄せた、織田上総介信長。
順風満帆な尾張織田との決別で京都宇治槙島城から追い出され、紀州有田の宮崎浦、日高由良の興国寺を経たのちには、寝食を提供した湯河直春の支城・泊城で、名草郡の雑賀衆・湯河一派・三ケ寺(高野山、根来寺、粉河寺)・熊野三山をはじめとする奥三郡(有田、日高、牟婁)の紀州惣国一揆を扇動したものの、あっさり織田軍に鎮圧され、逃げるように西国毛利の備後国・鞆の浦へと下向を繰り返した、足利義昭。
一世を風靡(ふうび)した両雄の熾烈な争いは、かつて日ノ本を壟断(ろうだん)した南北朝の様相を呈している。
「新たな時代を切り拓く者と、古き名残を惜しむ者──ひょっとしたら、わしらの敵は、権力の興亡がもたらす秩序の揺籃(ようらん)かもしれん」
藤孝は運ばれた白湯を一気に飲み干すと、忠興と礼を交わして寝所に向かった。
時代の寵児に敏感な正親町天皇・関白の一条内基の陰で、足利義昭と関係を深める皇太子の誠仁親王らと、彼をたぶらかすように太政大臣の地位に座りつづける近衛前久の総眼は、織田信長の懐刀となりうる器量を備えた「明智十兵衛光秀」をとらえていた。
ほどなく惟任を拝官した光秀が、比叡山焼き討ち後の寺院の処遇について、織田信長に具申したのは、そうした旧穏派の酌意を秘しつつ、先帝をないがしろとするような為政の在り方を見つめなおすきっかけになればとの義心からだった。
それが「武人の義」と知らぬ一部の者には、「偉大な尾張の将」に異を唱えられる列将と曲解されている。
「無為の迎合は、遂げるべき本懐を見誤る」
そういって藤孝が正した忠興も、「いつもの説教ですか」と反駁心(はんばくしん)をみせたきり、席を外している。
(織田はこの先、どうなる)
寝所の面前で後背を浮かべていた藤孝のもとには、立ち去った足軽に従う、あどけない顔立ちの小姓が控えている。
「名は何という」
手燭の灯を座敷隅の燭台に移した幼小姓に藤孝がたずねると、よく通る声が返ってくる。
「天翔丸と申します」
発した幼小姓は、真綿の入れられた布団で大の字になったこちらの傍にやってくる。
もっとも「(とぎ)はいらん」と告げたためだろう。
残念そうに隅に置いたばかりの手燭を脇へ、
「では、今宵の(しとね)は遠慮いたします」
そのままこちらに低頭している。
艶美な表情は、ゆっくりと畳から離れていく。
気を利かせたのだろうか。
眠りにつこうとした藤孝は、去り際に放たれた寝物語の興味から、消えた小姓の幼貌に潜む、忠興のかつてを浮かべる。
「うわさでは、このくにの(かわず)たちは、まもなく水瓶(みずがめ)に放り込まれるそうです」

土岐の鷹③

土岐の鷹③

文官

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-12-28

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