文盲と剽窃
おれは盗みを働き続けた。それがそのままおれの生き甲斐だった。最初に盗んでいたのは言葉だった。盗む度におれの精神は苦痛に蝕まれていった。それは心地良い自傷だった。ただ、それは今思えば相対化された快楽に過ぎなかった。相対化された幸福は不幸になり、相対化された不幸は幸福になった。幸福が閉鎖でなければならないなら、不幸はどうあるべきだろうか?無論、おれにとっては不幸も閉鎖であるべきだった。誰にも自分の傷を見られたくなかった。それは羞恥ではなく、ある種の傲慢だった。それは不本意な感情で、非常に厄介だった。両価感情に翻弄されている時、ある一つの対象を熱烈に信仰している時、そして自分で抉りつけた傷が痛む時しか、おれは自分の生を感じることができなかった。ただ、すべては事を始める前から判っていた。言葉には、限界があるのだと。それから今度は情景を盗み始めた。それは見方によっては言葉を盗むより本質的だった。他人の言葉から連想されるものを盗んでいった。その頃にはもう言葉は信仰対象ではなかった。言葉から新たな言葉を連想するのではなく、言葉では言い表せない心象風景を蓄えていった。それが次の生き甲斐になった。それには限界がなかった。ただ、皮肉なことに限界がないということがまたおれを苦しめた。それは快楽にはならなかった。言葉や情景を剽窃する度に、言葉や情景はおれの理性を剽窃していたのだと知った。最初から何も盗まなければよかった。ただ、それ以外におれは生きる方法を知らなかった。もう何も見たくない。考えたくない。すべてが褪せていく道の途中で、文盲時代に焦がれ続けながら、おれは無様に燃え尽きていく自分を想像していた。
文盲と剽窃