新約マザーグース

福田

新約マザーグース
  1. 1 迷い猫
  2. 1.5 変身
  3. 2 思い出
  4. 3 開花
  5. 3.5 少女
  6. 4 呪い
  7. 5 末裔
  8. 5.5 正体
  9. 閑話 お花見に行こう

子どもたちよ、詩を歌え
愛を夢を希望を知れ
それが呪いへ至ると知らずに

1 迷い猫

男は黒猫を飼っていた。黒々とした艶やかな毛並みを持った尾の長い猫だった。その黒猫は、元々、男と交際していた女が飼っていた猫だった。しかし、うだつのあがらない男に嫌気がさした女は、猫と男を捨てた。
男は売れない小説家で、確かにうだつがあがらなかった。男は、パソコンのキーボードを叩いては消しを繰り返す間に、黒猫の世話をし、万年床の畳を腐らせる時以外は、狭い四畳半を抜け出して、数々のアルバイトに勤しむ日々を過ごしていた。その間、黒猫は、玄関の扉に空いた猫用の出入口から勝手に外に出て、半分野良猫のような生活をしていた。そうだったから、黒猫は男が呼ぶ名前の他にたくさんの名前を持っていた。だが、男が帰ってくる頃合になると必ず家に戻ってきて、男が玄関を開けると、素知らぬ顔で布団に鎮座し、毛繕いをしているのであった。
そんな黒猫を可愛がりながら、男はようやく生きていた。黒猫がいなければ、彼は、女に捨てられたあの日に自死をはかっていただろう。
それほどまでに大事な黒猫が姿を消したのは、暑い夏の命が終わりかけてきた頃だった。
進まない小説を放り出して、男は猫を捜した。近所にチラシを配り、黒猫の世話をしていたという近所の人たちと一緒に猫を捜した。慣れないSNSを使って情報も拡散した。しかし、三日も経つと、協力の手はなくなっていった。SNSの反応数も100すらいかずに滞った。
元々野良猫同然にしていたバチだ。
今更、飼い主面するな。
三ヶ月たってついたコメントは、この二つのみだった。
しかし、それが自分なのだろうと男は思った。大事にしたいと思うくせに素振りだけして満足し、蓋を開ければ、何も無い。女にも猫にも捨てられた、自分という男を表す全て。
男の心の中で、ひっそりと黒猫が死んだ頃、秋もまた死に、冬は聖夜の期待に膨らんでいた。
男は本屋のアルバイトを終えて、夕暮れに染まる街を歩いていた。これから一時帰宅し、夜から始まる居酒屋のアルバイトの準備をするところであった。クリスマスソングの浮かれたリズムから逃げるようにイヤホンを耳に詰める。聴きすぎた音楽は心を揺さぶることもなく、雑踏と同じ、環境音と化していた。だからこそ、入っているはずのない猫の鳴き声が鼓膜を震わせた時、男は、ぎょっとして足を止めたのだった。
イヤホンを外した男は、猫を見た。
足元にぴったりとくっついて、自分を見上げる黄色い目。黒々とした艶やかな毛並みを持った長い尾の黒猫。
「あっ」
男が声をあげると、黒猫は、男から離れて走り出した。
「まっ、待って!」
男は黒猫を追いかけた。イヤホンのコードが足に引っかかって切れてしまっても構わないで、猫の行く先を目に焼き付けながら走った。
間違いない間違いない。自分の黒猫だ。彼女が置いていった黒猫だ。死んだと思ったのに生きていたんだ。
安心して涙する男を置いて、黒猫は路地裏の細い道をしなやかに通り過ぎていく。男は背負ったリュックをひっかけながら、時折、足をもつれさせながら、ようよう猫を追いかけて、行き止まりに佇む建物にたどり着いた。
三角屋根の小屋には、何かが飾られたショーウインドウと『鵞鳥の巣』と書かれている看板が掲げられている。どのように見てもそれは店であった。
路地の先にある店。商売には向いていない立地にあるそれは、男に不気味さを感じさせた。だが、建物の中に捜し続けた黒猫がいると思えば、引き返すという選択肢を選ぶわけにもいかなかった。
ショーウインドウの中では、赤いベロア素材のカーテンが金色の紐でまとめられて、スノードームやぬいぐるみが飾られている。その奥に目をやっても、そういった雑貨が並べられている様子である。だが、黒猫の姿は見当たらなかった。
男は木製の扉を開けた。甘い匂いが男の鼻腔をくすぐる。天井のシャンデリアは薄暗く、全て本物のろうそくに頼っているようである。壁にかけられたカラフルなガラスの飾りが、ろうそくの頼りない明かりを反射して輝いている。入ってすぐ、向かい合わせの皮のソファの間にローテーブルが置かれている。その周りを囲むように棚が置かれ、北欧を思わせるものやアジアンテイストのもの、童話・童謡をモチーフにしたもの等、様々な雑貨や本があり、全てに黄ばんだ値段シールやタグがくっついている。
「こ、こんにちわ」
男は見当たらない店員に存在を示しつつ、黒猫を捜した。しかし、棚の下に入りこんでしまったのか、どこを覗きこんでも、黒猫は見当たらない。
「ほら、帰ろう。どこにいるんだ?」
ヒソヒソと声を沈めて黒猫に語りかける。
「何をお探しで?」
突然、話しかけられて、男の心臓は飛び跳ねた。垂れ下がっていたモビールに思いっきり頭を打ちつけながらも、慌てながら、声の主の方へ体を向ける。
いつの間にそこへいたのか、男は分からなかったが、とにかく、声の主は皮のソファに深く座って、男を眺めていた。
「ねっ猫を、あの、迷いこんでしまったみたいで」
男は焦りながら、ソファに座るタータンチェック柄の三つ揃えのスーツを着た青年に事情を話す。店長の割には随分若いように見える青年は、組んだ足の膝を両手で抱え、首を傾げる。手の甲に敷きつめられたタトゥーをみて、男は生唾を飲んだ。
「猫かぁ、猫は白猫?」
青年がジャケットを広げると、そこから白猫が飛び出した。
「それともグレーかな?」
すると、今度はグレーの猫が這い出してくる。
「三毛猫、サビ猫、靴下、キジトラ、サバトラ、茶トラそれともキジ白、サバ白、茶白かな? はたまた、バイカラーにヒョウ柄、ポインテッド、ハチワレ。さあ、君の猫はどの子?」
青年が歌うように柄を口にすると、ジャケットからその柄の猫が次々と飛び出してきて、あっという間に床を埋めつくした。猫が増えれば増えるほど、にゃあにゃあと合唱が始まる。ありえない、夢のような出来事が一気に展開され、訳がわからない男。だから、唯一、分かる現実にしがみつくように男は答えた。
「お、俺の猫は黒猫です! 真っ黒で黄色い目でしっぽが長い男の子っ」
唐突に静寂が弾けた。男が目を開けると、床を埋めつくしていた猫たちは消えていた。
「あ、え?」
間抜けな声をあげる男に、青年は、懐から黒猫の小さな置物を取り出して、男に差し出した。木製で軽いそれは男の手の中で転がる。
「君の猫だよ」
「えっでも」
黒猫が入っていくのを確かに見たんだ。
男は、そう続けるのをやめた。手の中の猫は黒くて目には黄色いビーズが入っていて長い尾をぴったりと背中につけている。削られた木目は滑らかで、黒猫の艶々した毛並みを、男に思い出させた。
「………俺は飼い主失格だった」
男は呟いた。
「彼から聞いた?」
「まさか。猫ですよ」
男は青年に目を向けて初めて、彼がタバコを吸っていることに気がついた。
「彼は君を認めていた。だから君の帰りを待っていたんじゃないかな」
「どうしてそれを知ってるんです」
「顔に書いてある」
煙を吐いて、青年は笑った。
「猫を縛りつけようなんてそもそも烏滸がましい。短い間でも、後悔が残っても、君は猫に認められたことを誇るべきだ」
男は言葉を詰まらせた。
他所にたくさんの家を持っていた黒猫。貧乏な男よりも良くしてくれる人はたくさんいたに違いない。それなのに、毎日男の家に帰り、男の帰宅を待っていた。猫だからこそ、それ以上の愛情表現は必要ないのかもしれない。そう思うと心に建てられた猫の墓前に花が咲いたような気がした。
「僕は猫が好きでね。猫に選ばれた者も歓迎する。またおいで」
立ち上がった青年は、男の肩に手を置いた。
肩に衝撃がはしって、男は我に返った。
「おい、突っ立ってんなよ」
目の前には街並みが広がっていて、雑踏のざわめきに包まれていた。
「あ………ごめんなさい」
男が謝ると、ぶつかってきた通行人は舌打ちをして去っていった。
周りを見ると、男が猫の鳴き声を聞いて立ち止まったその場所に男は立っていた。ちぎってしまったはずのイヤホンを耳にあてると、しっかり音楽が聴こえてくる。まるで狐につままれた気分である。いや、もしかしたら狐ではなく黒猫だったのかもしれない。男は手に握っていた黒猫の置物を見つめて、そう思った。

あれから一年が経とうとしていた。
世界中に感染症のウイルスが蔓延し、男が住む国も波に襲われていた。生活に感染対策が混ざりこみ、変わっていくことを強要される。しかしながら、未だに貧困で孤独な男である。実家から仕送りされたマスクを使っては洗ってを繰り返し、臭い四畳半の窓を開け、定期的にアルコールを撒き散らす。そんないくつかのルーティンが組みこまれただけで、うだつのあがらない日常にはそう変化がなかった。
取り上げるとするなら、長く勤めていた本屋が潰れてしまったことだ。生活の足しにもならない給料だったが、経営していた老夫婦が男の夢を応援してくれていたこともあり、男にとっては、実家のような安心感の中で働ける素晴らしい職場だった。
男は精神面に痛手を負いながらも、次のアルバイトを探すことにしたが、そのような時勢であるから、応募先も少なくなっている次第である。
仕方なく、かけ持ち先の居酒屋のアルバイトに勤しむことに決めたが、集客が悪く、感染対策に金がとられていくばかりだった。このままいけば、人件費削減として、リストラかシフトが減らされる未来がやって来るだろう。その空気が職場に悪い緊張感をもたらしていた。
大学生たちの陰口を聞きながら、男はスマートフォンのメール画面をみてため息をついた。出版会社の賞に応募した小説が落選したという結果メールである。
「自信あったんだけどなぁ」
と呟きながら、男はタバコをくわえた。
「小説ダメだったんですか?」
男に話しかけてきたのは、同じ時期にアルバイトを始めた大学生の女だ。彼女はこの職場で唯一、男の夢を応援している存在だった。
「まあね。そろそろ諦めるかな」
非喫煙者の彼女である。男はくわえたタバコを、携帯灰皿の中に捨てた。
「次に期待です。間宮先輩が諦めたら、私も諦めなきゃいけなくなります」
男は――間宮は、彼女からミュージシャンを目指していると聞いていた。スマートフォンで録音した歌も、動画投稿サイトに投稿している歌も聴かせてもらっている。特に投稿サイトでは数え切れない数の応援コメントがついていて、このまま人気が続けば、直に世に出るだろうというのが、間宮の、彼女に対する印象だった。同じ〝売れていない〟でも、自分とは天と地ほどの差がある、と。
「こんなおじさんと共倒れはよくないなあ」
苦笑する間宮に、彼女は微笑みかけた。
「だからですよ。一緒にがんばりましょ!」
「間宮さーん」
と陰口を叩いていた大学生の片割れの男が入ってきた。
「間宮さん、黒猫捜してるって言ってましたよね?」
「うん。でももう一年経つから」
「もしかしてこれじゃないっすか?」
テーブルに放り出されたスマートフォンで動画が再生された。どこかの公園を歩いていくカメラ。ベンチの下を覗くと黒猫を見つける。黄色い目で尾の長い黒猫。
「あっ黒猫、かわいい」
彼女が反応する。
動画はしばらく黒猫と戯れていたが、突然、カメラマンの手が猫の首を鷲掴みにした。猫が鳴き叫ぶのを無視して、顔を足で踏みつけると、動き回る耳の根元をハサミで――――。
「ちょっと何なの!」
彼女が怒鳴り、スマートフォンを弾き飛ばした。
「間宮先輩にこんなの見せて、頭おかしい!!」
「いやだからこの子じゃないのって確認」
「最低! ありえない!」
「だから俺はテキトーに飼うとこうなるって注意喚起してるだけだって!」
若者二人が言い争う中、間宮は床に落ちた大学生のスマートフォンを拾い、動画を始めから再生する。
どう見ても、その黒猫は見慣れたあの黒猫。
死んでしまったと思っていた黒猫だった。
間宮は絶句した。
あの日、あの奇妙な雑貨屋で、間宮は青年に諭された。誰に何と言われようと、猫に飼い主と認められた日々さえあれば十分で、それ以上を望んで、黒猫を縛りつけることは烏滸がましいことだと。それなのに、黒猫が、こんな惨い最期を迎えたと知ってしまったら。
「間宮さん」
振り返った間宮が見たのは、いやらしく顔を歪ませた大学生だった。
その後、勃発した間宮と大学生の殴り合いは、若さゆえか大学生の勝利で終わり、事態の責任は歳上の間宮が取る事になった。即日クビである。
外へ出ると予報にない雨が降っていて、間宮は上着のフードを目深に被り、家路についた。職を失った帰り道は、ひどく足取りが重い。途中、間宮は、コンビニに寄って貯金を確認し、おにぎりとカップスープ、絆創膏にビニール傘を買った。
一体何を間違えただろう。
小説家になろうとしたから?
きちんと就職しなかったから?
女に振られたことを引き摺ったから?
黒猫を飼いきれなかったから?
何もかもが間違いに思えた。同時にどうでもよくなった。
間宮は、誰もいないバス停のベンチに腰かける。息の熱さと外の寒さで湿ったマスクを取り、はあ、と息を吐くと、白い煙が出た。
まだ夕方の頃合だったが、冬と雨のせいで辺りはすでに暗く、車通りも人通りもない。しんしんと冷たさだけが染みていく有様は、真夜中のようである。
「これからどうしよう」
ズキズキと脈打って痛む傷を抱えて、間宮は俯いた。どうしようと言いながら考えもまとまらず、歩道に吸いこまれていく雨の滴を眺めていると、そこに先の尖った革靴が入ってきた。間宮は顔を上げた。
「やあ、前途多難だね」
いつか見た青年だった。彼は傘を肩にかけて、間宮を見下ろしている。
「………何があったか知ってるんです?」
「顔に書いてある」
「困ったな。プライバシーがダダ漏れだ」
傘を閉じた青年は、間宮の隣に座る。コートのポケットからタバコを一本取り出して、先を擦ると火がついた。それを見ながら、間宮もタバコを咥えたが、口の中の傷が痛んだから火をつけるのは止めた。青年のタバコの煙と、間宮の白い息が立ち上っては消えていく。
「これからどうする?」
青年の問いかけに、間宮は自嘲気味に笑った。
「内臓でも売るかな」
「じゃあ一緒に働こう」
「あの雑貨屋で?」
「なかなか儲かるんだよ」
「ふーん」
「信じてないね」
間宮は黙った。かつて黒猫を探しに行ったあの雑貨屋。路地裏を歩いて歩いてその行き止まりに建つ店が、どうやって客を招き、儲かるほど稼ぐことが出来るのか。
「仕方ない。本当は料金をとるけど君は特別だよ」
青年はタバコを吐き捨てると、煙を両手に吹きかける。靄が晴れた時、そこには抱えるほど大きな本があった。煌めく宝石が散りばめられた装飾の表紙を開くと、分厚い紙が格子状に切り取られ、そこに小瓶が入っている。小瓶の中には紫がかった黒い液体が揺らめいている。
「誰を呪う?」
「え、呪う?」
青年は微笑んで、間宮を見つめた。
「呪いたい相手を浮かべながら、この中から好きな瓶を選んでご覧」
雑貨屋の話から物騒な方向に飛んだと思いつつ、間宮は言われたままに格子の中の瓶を眺めた。瓶についたラベルにはタイトルが記されている。
『ロンドン橋』『駒鳥の葬列』『ハンプティダンプティ』――――。
物書きの端くれである間宮は、それらのタイトルが、マザーグースに収録されている童謡のものであることに気がついた。
伝承されている童謡の総称。だが、解釈の仕様によっては残酷にとれることから、ミステリーやホラー作品の題材にもされる。呪いの小瓶につけるタイトルとしては違和感のないものである。
間宮は、呪いたい相手を浮かべながら『猫とバイオリン』の小瓶を指さした。
青年はそれを枠から取り出し、満足気に鼻を鳴らした。
「これでそいつを呪ってこよう。一週間後にはメディアが騒ぐさ」
「はあ」
なかなかピンと来ない間宮を置いて、青年は勢いをつけてベンチから立ち上がる。
「そうしたら君は僕の物。ね、約束だよ」
振り向いた青年の妖艶な笑みに、間宮は心臓を強く打たれた。その時、車が通り、二人はヘッドライトの眩い光に包まれた。たった一瞬の出来事である。気がつけば、青年は姿を消していた。
その一週間後。散々、痛めつけられた傷が癒えた頃合に、間宮はニュースを聞く。
動画投稿サイトで猫の虐待動画を投稿していた無職の男が、自宅マンションのベランダから飛び降りて死んだ、と。
あいつだ、と間宮は、青年を思い浮かべた。
もしかしたら偶然かもしれない。しかし、物書きである弊害か、はたまた才能か、間宮は想像力豊かだった。
事実かどうかは関係ない。ただ青年についてインスピレーションが降りてきた。だから本を書きたい。
間宮は、四畳半を飛び出して、街へ向かった。黒猫が現れた場所に着くと、立ち止まって、周りを見渡す。
ここまで来たのは良いものの、間宮は雑貨屋までの道のりを覚えていなかった。黒猫を追いかけるのに必死だったからである。だが今は、青年に再会するのに必死だ。
どうか現れてくれ、黒猫。
祈るような気持ちで、猫の黒い影を探す。雑踏や走行音に紛れて、間宮は微かに猫の鳴き声を聞き取った。猫の鳴き声を辿って、路地に入っていく。
猫の鳴き声は、建物の間をピンボールのように跳ねながら、間宮を案内する。見えない音が確かに見える。そんな不思議な感覚を味わいながら、間宮は、声に誘導されるがまま、雑貨屋へたどり着いた。
『鵞鳥の巣』と記された木製の看板。初対面時の間宮は不気さを覚えたが、今の間宮は嬉しさで包まれている。扉を開ける。甘い匂いは、青年からもしていた匂いだった。相変わらず、薄暗く、人気のない店である。扉から真っ直ぐ行くと、レジが置かれたカウンターがあり、その奥に廊下が伸びている。その廊下の突き当たりにある扉は閉められている。
「こ、こんにちは」
間宮は、姿が見えない青年に、存在を示した。
「俺です。間宮、って名乗ってないっけ。まあいいや。あの、バス停でした話のこと、聞きたくて来たんだ。会えないかな」
バタン!
背後で大きな音がして、間宮は飛び上がりながら、振り返った。誰もいない。ただ扉が閉まりきった音のようだ。何だとがっかりしつつ、カウンターに向き直った間宮の鼻を、青年がつついた。
「気に入ってくれたみたいだね」
至近距離でウインクを飛ばされ、間宮はたじろいだ。
「そ、そりゃもう」
「お茶でもいかが?」
青年が視線で誘導した先には、ローテーブル。優雅なティーセットとお茶請けのお菓子が置いてある。その香ばしい香りは、節約で食費を切り詰めている間宮には堪らないものだった。
「いただきます」
ティーカップに注がれた紅茶を飲み、クッキーを一口。体の芯を凍らせていた冷えを解し、気持ちまで満たされていくようである。
「美味しそうに食べるね」
向かいのソファに腰掛ける青年は、クッキーを頬張る間宮を、緩やかな微笑みをたたえて眺めている。
「最近、食べてなくて」
もごもごしながらそう間宮は答える。
「可哀想に。でも、僕と働くからもう大丈夫」
「そうだ。その話!」
勢いづいた拍子で、クッキーの欠片が喉の奥にくっついた間宮は、盛大にむせた。
「落ち着いて。あまり興奮しない方がいい」
青年はそんな間宮を笑いながら、タバコに火をつけた。
紅茶を飲み干し、ようやく落ち着いた間宮は、青年を見た。
「あの虐待男。本当にあんたがやったの? 呪い殺した?」
「ジャックだよ、そのまま呼んでいい。よろしくね間宮サン。まじないは僕の仕事の一つ。もう一つはこの雑貨屋」
「ジャック………はは、まさしくって感じ。あんたは一体、何者?」
ジャックと名乗った青年は、ふっと煙を吹き出しながら笑い、小首を傾げた。耳に下げた大きなガラス製のピアスが揺れる。
「そこから先は、君の返事を聞かないと教えられない」
間宮は頷いた。
「もちろん、一緒に働く。だってタダでやってくれたし。それよりも、俺はジャックの話を本に書きたいんだよ」
ジャックは良い顔をしない。落ちてきた前髪を撫でつけて、黄色い瞳の中に間宮を閉じこめる。
「それよりなんて悲しいな。契約者は嫉妬深いから二の次にされることを何より嫌う」
「契約者?」
「僕の母は悪魔と契約し、力を得た。彼女の言葉は偉大で、かけた呪いは絶対だ」
瞬間。間宮は体を大きく揺らつかせ、ソファに倒れこんだ。先刻まで興奮冷めやらぬ様子で話をしていたにも関わらず、イビキをかいて眠っている。
「あまり興奮しない方がいい………忠告したよ。聞かなかったのは君」
ジャックは吸っていたタバコを手のひらで握りつぶす。拳を開くと、煙で出来た蝶がヒラヒラと舞い上がり、眠りこける間宮の喉に止まった。
「君は僕のもの。ね、約束したでしょ?」

1.5 変身

黒猫が夜の街を行く。
『ハンプティダンプティ』のラベルが貼られた小瓶を口に咥えて。
黒猫が長い尾をくゆらせながらついていくのは、恰幅の良い中年の男である。酒を飲み、上機嫌な男は、感染対策も無視して、マスクを外し、そこら辺の歩道に痰を撒き散らしながら、帰路についている。その途中、男はタクシーを拾った。
黒猫は、タクシーのテールランプが遠くに消えるまで、行き先をじっと見つめると、踵を返して、建物の陰に消えた。
男が千鳥足で自宅マンションの前についた時、彼の携帯電話が鳴った。男は革の鞄を足元に起き、ジャケットのポケットや懐を確認する。
その隙に、黒猫が走り寄り、鞄を閉めるチャックの僅かな隙間に滑りこんだ。
男はジャケットに携帯電話がないから、鞄を開けて、中を確認する。すると、見知らぬ小瓶を見つけ、男は手に取る。
「なんだ〜これ」
酔いによる判断力の低下が、危機感の欠如を招く。ろくに確認もせずに、男は小瓶のコルク栓を抜く。ポンっと軽い音と共に、瓶の底でたゆたっていた黒い液体が瞬く間に気化し、男の鼻孔そして口内、目の粘膜に吸収されていく。
「ぎゃああああああッ」
男は絶叫をあげる。周囲のコンクリートにそれが響くが、助けに出てくる者はいない。痛い痛いともがく男。恰幅の良い体が急速に膨らんでいき――――辺りに、爆発した肉片が散乱した。
開けられた鞄からネズミが顔を出す。くんくんと辺りの匂いを嗅いで、地面に転げ落ち、そそくさと血溜まりから離れる間に、ネズミは黒猫に姿を変えた。そのまま歩み寄った先にはジャックが立っている。
「よくやったね、間宮サン」
彼は黒猫を抱き上げると、喉元にある蝶ネクタイの形をした白い毛に顔を押し付けた。黒猫はべしべしとジャックの頭を叩き、抵抗する。
「吸うな、この野郎!」
と言う間宮の声は、にゃあにゃあと猫語になってしまっていた。

事の始まりは数日前に遡る。

目を覚ました間宮は、自分がソファの上で寝転がっていることに気がついた。一体何があったのか。まるで覚えていないし、体に違和感がある。
俺の手はこんなに動かしにくかったか?
俺の耳はこんなに上にあったか?
このソファは俺よりも大きかったか?
とりあえず、うん、と伸びをするためについた自分の両手を見た間宮は、絶叫した。
丸々としていて、黒い毛に覆われている手。視界の端の影に振り返ると、ゆらゆら揺れる黒い尾もある。尻をソファに降ろして、両手で頬を触る。肉球にあたるふわふわした感覚。時折、硬くて長い毛に触ると、口の周りがビリビリする。
間宮は半狂乱でソファを飛び降りた。その格好が自然と四つん這いになるものだから、それで更に発狂して、大きな棚の壁の中を闇雲に走り回り、タンスの下に身を隠す。
「どうしよう。なんだよこれ。何があったんだよ」
頭の中では自分の声がするのに、口から出て鼓膜を揺らすのは、にゃあにゃあ、と情けない猫の鳴き声である。
「間宮サ〜ン」
その時、革靴を鳴らす、ジャックの声が聞こえた。
猫の本能か、彼の気配を感じただけで、間宮の全身は総毛立った。
「助けてー誰かー!」
叫んだところで無意味だが、不安に駆られた間宮は、タンスの下で大きな声を出す。タンスの足下の隙間から、ジャックの革靴がみえた時、間宮の口から出たのは、猫特有の威嚇音である。
「大丈夫。一回、出ておいで」
ジャックが優しく声をかけるが、間宮は毛を逆立てる。
「出て行けるか! あんたがやったんだろ、黒猫の呪いだ」
「そんな呪いはないけど、僕がやったのは正解だよ」
「ふざけんな!」
「ね、人間に戻れるようにするから。もっと詳しい話もするよ」
「ここで聞く! 隠し事しないで全部話せ!」
はあ、と、ジャックはため息をついた。それから、タンスを背にして、床に座り、タバコを咥える。
「ま、そう言っても、君を猫にしたのは面白そうだったからなんだけどさ」
「殺すぞ!」
「まあまあ。出て来たら人間に戻すって」
「答えろ! あんたは何者なんだ!」
「僕は人間だよ。魔女の末裔ってだけ」
「ま、末裔?」
「魔女は悪魔と契約し力を得た女のこと。その子どもたちのことを末裔って呼ぶ」
ジャックが吐き出す煙は、円を描いて消える。
「自然界の摂理として、子どもは両親の素質をひくだろう? 末裔も同じ。魔女である母親の力を継ぐ」
「だからあんたは人間だけど、他人を勝手に猫に変えたり、呪い殺せるってことか」
間宮は、頭の中のネタ帳にそれを書き加えた。警戒するのは猫の本能だが、本を書くためのネタ集めは間宮の習性だった。怒りや不安より興味が勝ったのである。
「え、じゃあ、あの呪いは、あんたの母親が作ったの? ラベルには意味があるよな?」
間宮の質問に、ジャックは楽しげに笑った。
「それはお客さんが帰ったら答えてあげよう」
と、立ち上がって、間宮に見せつけるように二回、踵を鳴らす。
「大人しくしていてね」
「おい、ちょっと」
間宮はタンスから顔を覗かせたが、外から近付く知らない気配に、また顔を引っ込ませた。すぐに扉が勢いよく開けられる音がする。
「こんばんは。お待ちしてましたよ」
「ちっ、相変わらず陰気くせぇなここは」
間宮は、足音と振動を怖がりながらも、タンスの縁ギリギリに鼻を置いて、室内の様子を窺う。
ローテーブルを挟んだ二人。レジカウンター側にジャック。扉側に、顔に傷を負った妙齢の男が座っている。
間宮は男から感じる殺気に、ヒゲが痺れるのを感じた。
あれはカタギじゃないだろう。
そう思いながら、間宮は更に息を潜める。
「今回はどちらの方で?」
ジャックは慣れた様子で尋ねる。男がタバコを咥えると、彼はすぐさま指先についた火を差し出す。その火を使って、男はタバコを吸い、一気に煙を吐き出す。
「俺の上だ」
「おや。下剋上です?」
「ちっ。そんな偉いやつじゃない。どこにでもいる窓際だ。ただ、機能しない椅子があるのは勿体ないから俺が座るのさ」
「それはそれは」
ジャックは両肩を竦めて見せる。
男はソファの足元に置いたアタッシュケースを、乱暴にテーブルに置いた。
「金は足りるな?」
ジャックはアタッシュケースを開き、中身を確認すると、微笑む。
「十分です。今回もこっちで選びますね」
「あぁ、頼んだぜ」
男はぶっきらぼうにそう言って、立ち上がった。あっという間の商談であった。扉が閉められて、間宮はタンスから這い出した。そのまま、ジャックが座るソファに飛び乗る。
「やあ、出て来たね」
「これ、金か?」
間宮が手でテーブルの上のアタッシュケースを指すと、ジャックはその蓋を開けた。ズラーっと並べられた最高金額の札束たちに、間宮は思わず身を乗り出した。
「ほら、これが100万だよ」
ジャックはその中から一束を取り出し、間宮の頭をぽんぽん叩く。猫なのに札束で殴られていることに、間宮は妙な興奮を覚えた。
「か、稼げるってこういうこと………」
「そう。呪いは消耗品でね。また溜めるのに十年以上かかる。非常に手間暇かかるから、これは相応の料金」
「そんな高級品を、俺のために無料にしてくれたのはどうして?」
間宮はジャックを見上げた。ジャックは目を細めて、間宮の狭い額を指の背で撫でる。
「気に入ったんだ、君のこと」
人間の時に頭を撫でられている感覚とは違う、体が温まるようなそれは、間宮をうっとりさせた。ジャックはうっとりした間宮を膝の上にのせて、猫にそうするように甘やかす。
「ここで働かせてほしいってくる人は結構いるんだよ。だけどだいたい気に入らない。僕がね。そういう人は思い出を換金してやるんだ」
「思い出?」
尾の付け根にあるツボを叩かれながら、間宮は聞き返す。
「ここにある雑貨はみんな思い出が詰まってる。思いが形になったものって言った方が正しいかな。僕はそれを換金して売ってる。内臓よりも金になるよ」
「俺のはいくらになる?」
「君のは安いさ。まあ高くても勧めない。思い出も売った内臓と同じになるからね」
「それを気に入らない人間に?」
含みをもたせた間宮の言葉に、ジャックは、くつくつと肩を震わせた。
「でも、あんたが儲かってるのはよく分かったよ」
間宮はするりとジャックの膝から降りて、ローテーブルに乗ると、札束の匂いを嗅いだ。本物の猫ならば絶対に感じない胸の高鳴りを感じ、やはりえも言われない快感に囚われる。新しい性癖が開拓された気分である。
「ね、呪いを選ばせてあげる」
ジャックは言いながら、アタッシュケースをどかして、そこに小瓶が並んだ本を置いた。
「いや今回はちゃんとした仕事だろ?」
「間宮サン、センスあるから」
おだてに弱いのが間宮という男である。くむくむと座り直した間宮に、ジャックは依頼主から渡された相手の写真を見せる。
「この人は誰?」
「僕も知らないけど、呪いが導いてくれる」
ふん、と鼻を鳴らして、間宮は小瓶たちの匂いを嗅ぎ、適当な一つを選んだ。それを取り出し、ジャックは言った。
「選んだね」
「え?」
「選んだ以上、この仕事は君が終わらせてきてね」
「なんだそりゃ!」
驚きで威嚇する間宮。
ジャックは何処吹く風で、足を組む。
「採用試験だよ」
「でっでも、出来ない、そんな、呪うなんて!」
間宮は毛を逆立てて、怖気付く。そんな彼に、ジャックは手のひらを見せた。
「出来たらこれをあげる」
そこには、黒く輝くリング状のピアス。
「これをつければ、君は自由なタイミングで人間に戻れるようになる。だけど、これをあげるには、採用試験を受けてもらわないとね」
「あんたがかけた呪いなんだから、あんたが、今ここで解いてくれよ。こんなことしなくたって、俺はここで働く!」
「僕はね、友達を動物にする癖があるんだ」
「クセが強い!」
「どのみち、君の運命は僕の手の中。だったら、僕の言うことを聞いた方がいいんじゃない?」
「………ひ、卑怯者」
絞り出すように、間宮は鳴いた。
ジャックは勝ち誇ったように微笑みながら、その手のひらを握り、組んだ足の膝で頬杖をついた。ピアスが揺れて、喉を挟む首筋の薔薇のタトゥーを照らす。

「だって僕は魔女の末裔だから」

ジャックは懐中時計の蓋を閉じた。それをズボンのポケットにしまいながら、隣に座る間宮を見る。
「すっかり遅くなっちゃったね。何処かに食べに行こうか」
間宮は、猫背で丸まった背中を思いっきり伸ばした。慣れた場所に戻った耳の片方には、採用試験合格の証拠である黒いリングピアスがついている。
「人の肉片みた後に食えない」
「それは残念」
二人は同時にタバコに火をつけて、息を吐いた。
特に間宮が肺を汚すのは数日ぶりである。しばらく無言で余韻に浸り、満足したところで、間宮は言った。
「飯はいらない。俺へのご褒美は、報酬と、答えてない質問に答える。これだけでいい」
ん、と、間宮は録音アプリを作動させたスマートフォンを、ジャックに向ける。未だに彼に対する間宮の創作意欲は潰えていなかった。
ジャックは、タバコを指で挟んで頷く。
「いいよ。何だっけ?」
「あの呪いを作ったのは?」
「僕の母だよ」
「それは誰だって」
「もう君、分かってるでしょう」
「あんたの口から聞きたい。憶測で物は書けないから」
「真面目〜」
ジャックは間宮を茶化したが、彼から睨まれて、つまらなそうに唇を尖らせた。ぷっと吐いた煙は、ガチョウの姿をとり、飛び去って消える。
「エリザベス・グース。それが僕の母の名前」
間宮は驚かない。
末裔は母の力を受け継ぐ。
マザーグースのラベルを貼った呪いの小瓶。
この二つを繋げれば、ある程度、予測できることであった。
「母は魔女狩りから逃げのびた唯一の魔女だった。結局、つまらない死に方をしたけど、彼女は偉大だったよ」
ジャックの吐く煙が、影絵を作り、アニメーションのように動く。団欒を楽しむ親子。そこにピストルを持った男が押し入ってきて、母親を撃ち、子どもも――――。
「母は言霊に殊更、強い力を持っていた。それは悪魔とか関係なく、才能だったんだろう。世界中を自分の詩と呪いで満たすのが母の夢だった」
自分の詩。それはマザーグースの名を冠した、伝承される歌たち。
「呪いは溜まるって言ってたな。あの小瓶に。どういう仕組みだ?」
「母は言霊に呪いをこめた。魂に寄生する呪い。母の詩を知った子どもが大人になる間、後に受けた、または生んだ呪いが小瓶に溜まる」
「マザーグースもそれで人を?」
「母は溜まっていく呪いを摂取して、魔女として生きていた。僕は末裔で、呪いを糧にしないから持て余してね。だから商売を始めた」
間宮は、ぞっとした。自分ならば出来ない発想だと思ったからである。
「息子としてそれでいいのか」
「知名度が上がってるのは確かだよ。僕のおかげとは言わないけど」
「………あっそ」
間宮は録音アプリを切った。最後の煙を吐き出し、短くなったタバコの吸い殻を、携帯灰皿に入れる。
「もういいの?」
「今日は疲れた」
「そうだね。明日は依頼がないからゆっくりするといい。何かあったらそれで呼ぶ」
ジャックは、自分の耳を指した。それは間宮の片耳につけたピアスを示している。
「分かった」
頷きながら、間宮はジャンパーを着た。リュックに、分厚い封筒に入った報酬を入れ、しっかりチャックを閉める。それを背負って、間宮は出入口の扉に手をかけた。
「おやすみなさい」
ジャックは片手をヒラヒラさせている。そこだけ見れば、ニコニコして愛想の良い青年である。
「………おやすみ」
マスクの中でそう返して、間宮は扉を開けた。
そこには自分の汚い四畳半があった。一瞬、理解が追いつかず、もう一度、扉を開けると、見慣れた汚い廊下がある。
「なるほど」
間宮は呟いた。四畳半に戻り、リュックを置くと、万年床に倒れこむ。シミやカビのついた天井を見て、こんなに安心する日がくるとは、としみじみ思う。頭に腕を置くと、服に染みついたタバコ臭に混ざって獣臭と血なまぐさい臭いが、間宮の鼻腔を刺激した。
「銭湯行こう」
外では寒さが静かに積もっている。
しんしん、と。
しんしん、と。
聖夜の輝きは、もうすぐそこである。

2 思い出

録音アプリを再生しながら、間宮はキーボードを叩く。パソコンの画面に次々文字を浮かべ、既に四時間が経とうとしていた。
「きゅーけー」
間宮は窓を開けて、タバコを咥える。喫煙中は手持ち無沙汰だから、除菌スプレーを周りに噴射して、暇を潰す。それが終わり、今度はテレビをつけた。ぱっと写った画面に、間宮は覚えのある顔を見る。
昨日、爆発させたあの男だった。
アナウンサーは、男が、反社会的勢力の組員であることを読み上げ、数々の犯罪歴を挙げた。
それを聞き、間宮は、自分は案外、良い事をしたのでは、と思った。
昨日した人殺し。不可抗力だったし他人の呪いで、自分が手を下したわけではない。とはいえ、もちろん、人殺しは犯罪。悪いことである。だが、その相手が犯罪者となれば話は変わる。読み上げられた犯罪歴の分だけ、彼が死んだことで心安らかになった人もいるだろう。
「呪いは悪いものじゃないのかも………」
そう呟いてすぐ、間宮は心臓がざわめくのを感じた。
吸い殻を灰皿の中で潰し、息を潜めて、周囲の環境音に耳を澄ませる。
車の走行音。
高齢主婦たちの井戸端会議。
鳥のさえずり。
羽ばたき。
嫌な予感が最大に達したところで、間宮は、ひゅ、と風を切る音を聞いた。
次の瞬間。
窓ガラスが盛大に割れ、破片が四畳半にぶちまけられる。
窓から違法侵入を果たしてきたのは、顔を全て覆う鳥型のマスクをつけた二人組であった。ペストマスクに似た形のマスクだったが、色が白だし、その特徴である嘴の部分が短い。そして、二人を見比べると、嘴の形や目の位置、縫い目が描く模様が違う。
その内の一人、梟のようなマスクをした人物が土足のまま、四畳半に降り立つ。スニーカーの底で万年床を踏みつけて、じっと部屋の気配を探る。呼吸音を響かせる仮面の奥にある目には、間宮の姿はない。
「グースのファミリアは変身術が使えるらしい。扉を見張れ。埃一つ逃がすな」
くぐもった声音から、それが男だと間宮は推測する。
「了解です」
雀か何か小さな鳥のマスクをしたもう一人は女だ。
間宮は咄嗟に変えたネズミの姿で、謎の来訪者である二人の正体を窺いつつ、静かに扉を目指す。物音をたてれば見つかってしまう。彼らに見つかったらどうなるか、間宮は知らないが、大変な目に遭うことくらいは想像できる。それほどまでに、二人組から、特に四畳半に降り立った彼からは凄まじい殺気を感じる。
ジャックめ、教えとけよ、クソ野郎。
心の中で恨み言を言いながら、扉へ近づき、はっと重大な事に気がつく。それは猫用の扉である。
扉は、虫やその他が部屋に入ってこないように、猫が頑張って押さなければ出られない仕組みになっている。
まずい、と間宮は考える。きっとこの扉は、ネズミの力では開けられないだろう。しかし、こんな所でまごついていては、早々に見つかってしまう。現に焦る間宮の横で、梟マスクが、床に盛られた服の山を蹴りあげている。その反動で、頂きを飾っていたリュックから、入れたままにしていた分厚い封筒が転がり出る。
梟マスクがそれを見つけ、中身を確認すると、窓枠で待機している雀マスクが声をかける。
「何ですか?」
「金だ。報酬だろう」
「そんな………お金目当てで人を呪ったって言うんですか?」
二人は話に夢中である。間宮はその隙をついて、こっそり猫に変わり、扉を押した。しかし、彼は当たり前だが人間である。猫用の扉など押し慣れていない。
ガタッ。
確かに、音が部屋に響いた。
男が間宮に向かって銃を撃つ。間宮は反射的に、大きく飛び退いて、二人を威嚇した。
もう扉は使えない。覚悟を決めるしかない。
間宮は毛を逆立て、体を大きくすると、大型犬に姿を変え、二人に突進した。かすめる弾丸に皮膚を削りつつ、雀の方を押し倒した勢いで、割れた窓に飛びこむ。ちぎれた毛を黒い羽に変えて、カラスになった間宮は、晴れた空に翼を広げた。

「ジャック・グース!」
扉を蹴り破らんばかりの勢いで乗りこんで来た間宮を、ジャックはタバコの煙で出迎える。
「やあ、元気そうだ」
いつものようにソファに深く座るジャックに、間宮はズカズカ近づいて、自分の頬についただいぶ深い傷を指さした。
「節穴め! 俺に隠し事するなって言ったよな?!」
「あぁ、駒鳥の話はしなかった? ごめんね」
「ごめんねじゃケガは治らねーんだよ!」
怒りのままに掴みかかってきた間宮の手に、ジャックは、躊躇わずにタバコを押しつけた。熱い! と悲鳴をあげる間宮を見ながら、よれたシャツを直す。
「僕のスーツ高いんだから。二度目は許さないよ」
今日の彼はグレーの布地の襟や裾にレザーがあてがわれたスーツを着て、シックな装いである。
「彼らは正義の味方だよ。僕らを悪役にするならね」
ぷかぷかと喫煙を再開したジャックの向かいで、間宮は『駒鳥』襲撃のせいで出来た体中の傷に絆創膏を貼りながら、相槌を打つ。
「呪いを許さない側か」
「昔から変わらない。理想に生きてるくだらない連中」
間宮は、ジャックが、強い言葉で存在を否定するのを初めて見た。いつもどこかに浮かべている笑みを消すほど、彼が憎んでいる存在は察しがつく。
「ヤツらは魔女狩り?」
そう、と頷きながら、ジャックは煙を吐く。
「駒鳥は18歳以下の子どもしかなれない。大人は呪いを知るからね。それまでは、適正のある孤児を引き取って籠の中で育てる。それを大人がやってるんだ。笑っちゃうよね」
間宮は、四畳半の襲撃者を思い浮かべる。ペストマスクをした男女。特に男の方は、子どもから出ているとは思えない殺気を放っていた。
魔女の、末裔の敵――――ジャックの敵だ。
「………その子どもたちは、殺すのか?」
恐る恐る尋ねる間宮に、ジャックは、にやりと笑った。
「他の末裔たちは知らないけど、僕は殺さない。駒鳥たちは呪いの良い餌になるからね」
ジャックが足を組むと、ソファが軋んだ。彼の色素の薄い黄色の瞳が細められると瞳孔が目立ち、さながら猫が悪巧みをしているようである。
「彼らはマザーグースを知らない。知ったとしても大人たちに記憶操作される。だから駒鳥には、僕が直接、呪いを与える。希望に溢れた駒鳥だ。絶望を知れば、芳醇な呪いを返してくれるだろう」
心底楽しそうに話すジャックに、間宮は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「やっぱり、あんた悪いやつだよ」
と、引きつった笑みを見せる間宮に、ジャックは微笑んで、首を傾げた。
「ありがとう」
彼が吸い殻を手で握ると、指の間から漏れた煙が小鳥の形になって飛び去っていく。
「駒鳥は間宮サンには対処出来ないから、見かけたら僕に連絡して、君は逃げていいよ」
「分かった。でももうあの家には帰れないな………」
滅茶苦茶に荒らされた四畳半。大家に怒られる未来は明白だった。
重いため息を吐く間宮に、ジャックは軽い調子で提案する。
「ここに住めば?」
「え?」
「そうだ。そうしよう。ね!」
一人で勝手に話を進めて、ジャックは楽しそうにした。
「僕は君ともっと仲良くなりたいんだ」
何故、そこまで自分に拘るのか。
間宮はジャックに対して口から出かかる疑問を飲みこむ。
客観的に見て、もし、自分が出会って間もない他人に拘るとするならば何かしらの打算があるからだ。だが、主観に立ち戻ると、自分といることで何かしらの企てが成功する要素は何も無い。ならばどうして?
自問自答の合間に声がする。心の中にいる幼稚な自分自身の叫び。この人ならば、という期待。早計すぎると思っても。何度も失敗していると分かっていても、止まないのである。
不安と期待。どちらも拮抗しているなら、誰もが光に溢れた方を取るだろう。
口に出さないことで、満たされた気持ちになれる。間宮は、そういう心地の良い停滞に微睡んでいたい性分であった。
「間宮サンのこと教えてほしいな」
「え?」
共同生活に必要な家具類を購入して、二人は、雑貨屋の奥にある居住スペース、梯子を登った屋根裏の、ジャックの寝室にいる。屋根裏にしては広い間取りをした寝室を、カーテンをかけて半分に仕切ってしまおうというのが二人の作戦だった。今は、組み立て式ベッドを組み立てる間宮と、それを見ながら、自分のベッドに座ってタバコをふかしているジャックの図式になっている。
「僕ばかり間宮サンにいろいろ話してる」
不服を表情にだすジャックに、間宮は部品のネジを締める手を止めて、頭を搔く。
「そうだけど………話すことない。あんたと違って俺は凡人も凡人だし」
「じゃあ僕が話したことを間宮サンも話してよ」
「話聞いて?」
「間宮サンの名前は? フルネーム」
間宮の言葉を、ジャックは悉く無視する。間宮はため息をついて、彼の暇つぶしに付き合うことにした。
「サク。朔日の朔で」
「良い名前だね」
良い名前。呟いて、間宮は鼻で笑う。
「家族は? 今まで何してたの?」
「今までは小説家になりたくていろいろ。フリーター」
「なんで小説家になりたいと思ったの?」
「小さい頃から好きでたくさん読んでたんだ。読んでる間は余計なこと考えないで済むし、何より力を貰えるから。俺はそういう小説を書きたいんだ」
そう語る間宮は、生き生きとした笑みを浮かべている。夢だけが、彼の生きる理由だとでも言うように。
「そのくせに僕の取材?」
ジャックはいじめっ子のような悪戯な目を、間宮に向ける。間宮は、鼻を鳴らして、ネジを締める手を動かす。
「今はあんたの話を書きたいってだけ。俺が有名作家になる踏み台だ」
「だったら立派な作家になってくれないとね」
ジャックはベッドでも長い足を組んで、煙を吸う。
「そうなれば家族も喜んでくれる」
間宮は、ため息をついた。
家族の話題。彼が最も苦手としているものである。
間宮はジャックを窺うが、また上手く話を反らせそうにもない。仕方なく、間宮は口を開けた。
「………俺が8歳の時、母が死んだ。その後は父親のとこ。すぐに再婚相手が病んで、俺は中学から全寮制の学校に行った。在学中も卒業しても今も、あいつらには会ってない」
一息で話して、間宮はまたジャックを見た。ぷかぷかとタバコをふかしている様子は、自分から踏みこんできたくせに興味がないようである。
話しがいのない、と思う反面、安心している間宮であった。大袈裟に憐れまれたり、もっと踏みこまれたりされることは慣れている。だからこそ、間宮は、ジャックにはそうして欲しくなかった。それは、非凡なジャックにそんな平凡な態度は似つかわしくない、という勝手な妄想からである。
間宮が期待したジャックの次の言葉は。
「変なの」
だった。
「何?」
思わず聞き返す間宮。
「そこまで恨んでいて、相手からも恨まれているなら、殺してしまえばいいのに」
ジャックは、なんでもないと言う風に呟く。
それは間宮が期待した解答ではなかった。妄想たくましいくせにワガママな男である。
間宮は、呆れながら、頭を振った。
「どうして俺が、あいつのために損しなきゃならない? どんな理由があっても人殺しは刑務所行きだ。そしたら終わり。人生が地獄に一変だ」
その時、ジャックはケラケラと笑い始めた。確かにふざけたような口調で間宮は話したが、腹を抱えて笑う要素はどこにもないということは、間宮本人が一番、理解している。
「何笑ってる」
馬鹿にされたと思い、むっとして訊く間宮に、ジャックは笑いすぎて出た涙を拭いながら言った。
「いや、言い訳お疲れ様と思って」
「ケンカ売ってる?」
まさか、と、ジャックは大袈裟に両手を挙げる。
「僕が気に入った君は、そんなことを言わないのにって思ったのさ」
間宮は、ギョッとした。それは、今しがた、自分がジャックに思ったことであったからだ。しかし、二人でお互いに同じことを考えていたとは思いにくかった。まさか、心を読んだのか、と、驚きすぎて言葉を失う間宮に、ジャックは目を細めて笑ってみせる。悪巧みする猫の笑み。
「いつか君の口から本音を聞くのを楽しみにしてるよ」
屋根裏に、ジャックの革靴が、床を叩く音が響く。
近付いてきた彼を見上げた間宮は、刺青が刻まれた指先が右耳のピアスに触れた時、びくっと体を強ばらせた。瞬間。ボンッとベタな爆発音と共に白い煙に包まれ――――その中からジャックは黒猫を抱き上げた。
「なんで猫にするんだよ!」
と、にゃーにゃー抗議する間宮を抱いたまま、ジャックは寝室から一階に繋がる梯子を降りる。
「お客さんが来た。出迎えてあげて」
そう言って、ジャックは間宮を床に下ろす。
「客?」
間宮は廊下を真っ直ぐ歩き、レジカウンターに飛び乗った。その時、ごちゃごちゃした雑貨屋の中で、扉の前に立っていた女と目が合う。二人が驚いて反応したタイミングは同時だった。背中と尻尾の毛を逆立てる間宮の後ろで、ジャックが悠々とタバコに火をつけた。
「いらっしゃい。こんにちわ。ここは鵞鳥の巣だよ」
「あ、こ、こんにちわ………」
女が黒いレースのマスクの中で口篭ると、長い黒髪の中で鮮やかな水色が揺れる。
「あの、ネットで見てきました。その………思い出を買い取ってくれるって」
おどおどした様子で、彼女は自身のスマートフォンを二人に見せる。そこにはSNSの画面が開かれており、雑貨屋『鵞鳥の巣』を宣伝している文が記されている。
間宮が記憶している限り、ジャックが、スマートフォンやパソコンといった文明の利器を使用している姿を見たことが無かった。
内心、意外に思いながら、間宮はジャックを振り返る。
ジャックは煙を吐いて、彼女に、長い人差し指を立ててみせた。
「買い取りは一度だけ。買い取ったそれはなくなり、買い戻すことは出来ない。またそれを売ったことでお客様に不利益が生じても、こちらは一切責任を負わない」
女は頷く。すると、ジャックは指を立てた手を広げ、皮のソファを示した。
「そちらにどうぞ」
女は促されるまま、短いスカートを整えながらソファに座る。
間宮はカウンターから下りて、今度はローテーブルに飛び乗ると、彼女に鼻を近づけて匂いをかいだ。なぜだかそうしなければいけない、という強迫めいた義務感に駆られたのである。
彼女からは、果物と花を煮詰めたような甘ったるく強い匂いがした。
首を素早く引っこめて、鼻の辺りを入念に毛繕いする黒猫を、彼女は自分を抱くようにして腕を組み、距離をとりながら見つめている。
「猫は嫌い?」
「別に………」
ジャックの質問に、彼女は素っ気なく返す。返しながら、ずっと黒猫を見つめている。そんな彼女の真っ白な顔を、ジャックは眺める。
正確には、彼女の脳内にある記憶たちを。
彼女が忌み嫌い、手放しにきた思い出を。
「そう。君は両親の思い出を売りたいんだね」
言い当てられた彼女は、ぎょっとジャックへ目を移す。
「えっなんで」
「内緒」
息を吐くように、ジャックは笑い、ローテーブルを指先で叩く。
「腕を出して」
女は、ラベンダー色のトレーナーに包まれた腕を出す。袖からは、指の第二関節から先と派手な色に染まった長い爪が見えている。
ジャックは彼女の手を取る。隠れた小さな手を暴き、その手のひらを天井に向けさせて、まだ幼さの残るその上に、指を這わせる。ぴたりと互いの手のひらが重なり合い、ジャックの黄色い瞳が彼女を映して微笑めば、彼女は髪から出た白い耳を赤くする。
柔らかな手つきで焦らすように、ジャックは彼女の腕を露わにさせていく。
腕に沿って流れている血管の青い筋を断ち切るような、たくさんの傷痕。治りかけているものもあれば、腫れているものもある。それらは肘の内側まで隙間なく続いている。
ジャックはタバコを深く吸いこみ、吸い殻を灰皿に捨てる。
そうして、ゆっくり、ゆっくり、息を吐いていく。
煙が、ゆっくり、ゆっくり、部屋に満ちていく。

『私の母が私を殺した。
私の父は私を食べる。
私の兄弟姉妹たちはテーブルの下にいて大理石に埋めた。
私の骨を』

呪文のような詩が、煙の中に浮かんでいく。
手を取り合った二人の間で、煙が渦を巻き始め、その中心に出来た影が蠢き、徐々に形を変え、影を纏う。
ジャックが最後の一息を吐ききった時、部屋に充満して、先が見えないほどだった煙が一瞬で消え失せた。
テーブルの上には、トゥーンアニメで有名な猫とネズミのキャラクターが描かれた玩具のピアノが置いてある。
女はそれを見つめて、ぼんやりとしている。理解が追いついていないというよりは、心がそこにないようである。
パチンッ。
ジャックが指を鳴らす。
彼女は、はっと意識を取り戻して、袖をまくった腕を引っこめた。そんな彼女に、ジャックは微笑みかける。
「素敵な思い出をありがとう。お代はこれで足りるね」
と、彼はジャケットの懐から封筒を差し出し、彼女は飛びつくように受け取った。不躾に封筒の中身を確認し、ぱあっと目を輝かせる。
「あっありがとうございます!」
「いいえ。お大事に」
そそくさと彼女が出て行っても、雑貨屋の中には強い香水の香りが残っている。
儀式中、棚の下に隠れていた間宮が、のそのそ這い出てきて、テーブルの上に乗る。
「ネットってあんた得意そうじゃないのに」
ピアノをまじまじと観察しながら、間宮は鳴く。
ジャックは、また新しいタバコに火をつけた。
「この家にはまじないがかけてあるんだ。僕を必要としている人間を呼びこむまじない。あの子を呼びこむ為にまじないが発動した結果、あの子がよく見ているSNSの中で番宣として表れたんだろう」
「なるほど。便利なもんだな」
鼻歌を歌いながら、ジャックは、紙のタグにペンを走らせる。記されたのは『家族の思い出¥8000』――――。
「このペン、便利なんだ。見た人の母国語に変換してくれるんだよ」
間宮があまりにも見つめるからか、ジャックはペンの説明をした。だが、間宮が聞きたかったことは、それではなかった。
「なあ、ジャック」
と、呼びかける。ジャックはペンに蓋をして、間宮に目をやる。
「あの子は要らないから、これを売ったんだろ。それって死にたくなるくらいつまらなくて持っていたくないからだ。そんなもん、どこに需要があるんだ?」
ふふん、と、ジャックは鼻を鳴らす。
「ゴミだって欲しい人には宝物なんだよ」
「要らない思い出も? もしかしたら見るに堪えないかもしれないのに?」
「確かに、持ち主の感情が入っていれば見ない方がいいやつもある。だけど、思いは物になる。見えるのは映像だけ。映画のようさ」
「映画」
「共感したい。同情したい。日常に刺激がほしい、エトセトラ。他人の人生の一端を買い取りたい人間なんてそんなもんしか求めてない。この思い出は、誰かの同情か優越感の為に買い取られる」
間宮はピアノを見る。
金のために。
誰かのくだらないプライドのために。
踏みつけられる思い出が、哀れに思えた。
「家族か」
ジャックの細い指がピアノの鍵盤を叩いた。ぺーん、と間抜けな音が鳴る。
「僕の家族は母だけだった。父は知らない。まあ母は魔女だから、もしかしたら僕の父親はいないのかもしれない」
軽い音で『きらきら星』が演奏されるのを、間宮は眺めた。ジャックの全ての指には黒い指輪のようなタトゥーが不規則にされていて、手の甲にはペイズリー柄と曼荼羅を足した複雑な円が施されている。
まるで魔法陣のようだと思いながら、間宮は尻尾を揺らす。
「いい母親だった?」
「魔女としては偉大だった。人間は出来てなかったけど。だからあの人との思い出なんかないさ。売るほどの量はね」
「俺もだよ」
言いながら、間宮は思う。
「俺も母親との思い出がない。だから売れない」
誰かに踏みつけられる思い出すら持っていない自分の方が可哀想だ、と。
だが、そんな間宮に、ジャックは黄色い目を細めてみせる。
「あれ? 僕と同じだね」
間宮は返事をせず、テーブルを尻尾で叩いた。
ジャックはクスクスと笑うと、ソファにふんぞり返って、タバコをふかす。
「母親って不思議だよね。腹の中で人間を作れるからなのかな。魔女でも化け物でもないのに言葉に力を持っている。その言葉に、子どもは雁字搦めにされてしまうんだ」
間宮もテーブルからソファに飛び移って、ジャックを見上げる。
「あんたも?」
吐いた煙が形を成す。
いつかジャックが間宮に見せた回想。家に押し入る強盗。撃たれる母親と子ども。母親は手を伸ばして、倒れた子どもの手を握る。
「母は死に際に、もう死んでいる僕に言った。死んではダメよって。おかげで僕は不死身」
さらりととんでもない情報であった。
「本当に?」
と、思わず疑う間宮に、ジャックは意地悪な笑みを見せた。
「じゃあ殺してみる?」
凄い勢いで頭を振る間宮。
ジャックは一人で大笑いしながら足を組み、頬杖をつく。
「ね、サク」
少し首を傾けると、撫でつけた前髪が数本落ちて顔にかかる。
黄色い瞳に黒い髪。
「愛って呪いなのかもしれないね」
間宮は、死んだ黒猫を思い出していた。
黄色い目に黒い毛並みで長い尻尾を持った猫。彼女が置いていった黒猫。捨ててしまっても良かったのに、野良猫同然にしてまでも飼い続けていた。
その理由を。

3 開花

黒猫。黒猫。
初めて黒い猫がいるって知ったのは、あのぬいぐるみ。
父親が贈ってきた誕生日プレゼント。
小二のガキに贈るには女々しいプレゼント。
俺のだったけど、母ちゃんも喜んでたっけな。
貰った黒猫のぬいぐるみは、滅多に帰ってこないあいつの分身になっていった。
バイトして、同僚、上司、いろんな客と出会って、夫婦なんかお互いを嫌いあって当たり前だって知ったけど、母ちゃんはずっとあいつのことが好きだった。母ちゃんの頭の中にはあいつしかなかった。
あいつのプレゼントのせいで嫌がらせされたって、母ちゃんはあのマンションの部屋を手放さなかった。
母ちゃんは分かっていたはずなんだ。
あのプレゼントに小型カメラがついてるのを見つけたのは母ちゃんだったし、あいつのマネージャーを引っぱたいて、あいつの思惑を全部吐かせたのも母ちゃんだったんだから。
分かっていた。
あいつに愛されてないこと。
イメージアップのために利用されていたこと。
分かっていたけど、母ちゃんはあいつのことを愛していて、信じていたから、逃げなかった。
あいつに、そうなるように仕向けられていた。
あのマンションの広い部屋は鳥籠だった。
母ちゃんはあいつから、愛という餌を与えられて生きていた。それが嘘だと知って、その嘘の愛さえ与えられなくなって。
だから、母ちゃんは死んだ。
飛び降りたのは自由を求めてだったのかもしれない。
風切り羽を切られた鳥は飛べないのに。
それは俺だって同じのはずなのに。
「どうかお父さんを憎まないで」
そう遺して、死んでいった。
………確かに愛は呪いなのかもしれない。そんな綺麗事めいた遺言が、あいつへの殺意を封じこめてしまったのだから。
母ちゃんが死んで、俺はあいつに引き取られた。
あいつはいつものようにカメラの前で嘘泣きをして、ファンに妻を殺された可哀想な夫と、離婚した妻の子どもを引き取る立派な父親を演じた。それを馬鹿みたいにみんな信じた。あいつの再婚相手も。俺だけが、あいつの正体を知っていた。だけど、俺は嘘つき扱いされた。まるで、汚い世界の真相を知る孤独なヒーロー。そうなっても、俺は、繕い直した黒猫のぬいぐるみを捨てられなかった。いつまでもいつまでも持っていた。
だけど、そう。俺は結局、あのぬいぐるみを捨てた。
忘れもしない。
泣いている赤ちゃんをあやして忙しそうだったから、代わりに夕飯を作ろうと思った。
そう真実を言っても、あいつとその再婚相手は訳の分からない理屈を並べて、俺が赤ちゃんを叩くからだとか虐待だとかでっちあげを始めた。
あの時の俺は、宇宙人を相手にしている気分だった。
二人は、俺が赤ちゃんに触ってすらいないのを知っているはずなのに。むしろ、母親である再婚相手の方が赤ちゃんを叩いていたし、それをあいつが止めることもあったのに。
だけど、俺は黙っているしかなかった。
まだ小学生のガキが、保護者に逆らって生きていけるはずがないから。
「俺たち家族を憎むのは分かる。でも俺たちの幸せの邪魔をするな」
あいつからそう言われたあの日。
俺は黒猫のぬいぐるみを捨てた。
黒猫。黒猫。黄色い目に黒い毛並みに長い尻尾。
嗚呼、そうだ。あの黒猫はぬいぐるみに似ていた。
去っていった彼女の黒猫。
帰ってこないあいつのぬいぐるみ。
置いておけば帰ってくると、馬鹿みたいに願って、信じて、愛して、待っていた。
そういうことか。
俺はあんたにそっくりだ。
呪う相手が分かっているのに呪えない。
夢を語る言葉に縛られて、身動きがとれない。
なあ、母ちゃん。あいつを呪う言葉を言って。あいつの中にある、俺たちへの愛なんかに期待しない言葉を。
そうすれば、俺は、母ちゃんとの思い出を売れるほど大量に持てた。大嫌いなあいつへの呪いを、あんたの言葉で縛らずにすんだ。あんたのことも、憎まずにすんだのに。

間宮はノートパソコンを閉じた。固まった首と肩を回し、骨を鳴らすと、スマートフォンの画面で時間を確認する。
「もう二時間か」
独り言を言いながら、周囲を見渡す。カフェショップの客入りは今朝と変わりなく疎らである。しかし、この店は禁煙であった。そして、間宮はコーヒーよりもタバコで一服したい気分であった。仕方ない、と、彼は脇に置いたリュックに手を伸ばした。広げていた私物をリュックに詰め、ジャンパーとマフラーを装備して、外に出る。
街道に出た途端、どこかからか漏れた大音量のクリスマスソングとプレゼントの宣伝が響いていた。それで間宮は、今日がクリスマスであることを思い出した。しかし、寂しいかな。独り者の彼には関係がないのである。
「さみぃ」
クリスマスソングから離れるように、間宮は表通りに背を向けて歩きだす。
時間は午後のおやつの頃合。
通り過ぎる人もなく、間宮は、マスクを顎まで下げて、タバコをくわえ、火をつけた。
そんなアウトローを気取った午後の裏通りに、突然、やかましい声が響く。
「あれあれあれあれ?」
と、わざとらしく間宮の前に回りこんで来たのは、分厚い黒縁メガネをかけ、デジタルカメラを首から下げた男である。
「あれ、朔くんじゃない?」
馴れ馴れしく名前で呼ばれるほど、男と間宮は知り合いだった。しかし、間宮は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、舌打ちをする。
間宮が幼い頃から知り合いのこの男。特ダネをすっぱ抜くことで有名な週刊誌の、記者である。世間には『完璧超人』『名俳優』で通っている間宮の父の素顔をすっぱ抜くために、息子の彼に集っているのであった。
間宮から、あからさまな拒絶反応を見せられても、男がヘラヘラしているのは、週刊誌の記者が持ち合わせる、鋼の精神力がなせる技だ。
「いやー久しぶり。元気だった?」
許可もないのに隣を歩く男に、間宮は目もくれずに、鼻から煙を吹く。
「喫煙中です」
「いやいや、僕もねタバコやめられないんだわぁ。一服いい?」
「ダメです」
「いいじゃない、ね? お互いお父さんに苦労するね」
「あんたは苦労しにいってんだろ!」
思わずツッコミを入れる間宮に、男は降参のポーズをとり、相手を諌める。
「まあまあ」
男は笑みを崩さずに、ショルダーバッグを開ける。そこから電子タバコを取り出しながら、ボイスレコーダーの電源を入れたのを、間宮は見逃さない。
「ねえねえ聞いたよ〜。居酒屋、クビになったんだって? なんでなんで? なんかあったの?」
「店に聞いてください」
「それが教えてくんなかったのよ〜」
「じゃあ俺が話す権利ないです」
「そんなこと言わずにさ〜。俺と朔くんの仲じゃないの。ね?」
「一般人なんで」
「一般人だけど二世じゃない。ええ? 世間は気になっちゃうのよ。ほら、例の大騒ぎもあってさ。それ以来、何の音沙汰もないし」
「じゃあ元気ってだけ書いたらいいでしょ」
「そんなの誰が読みたいのよ〜。ついでにお父さんの何かとかさ、ないわけないじゃん。ねえ、教えてよ〜」
「連絡とってないので分からないです」
「なんで連絡とってないの? もしかして仲違いしちゃってる? そこのとこ詳しく!」
ずいずいと質問を投げてくる、名も覚えていない記者。
耐えきれなくなった間宮は、足を止めて、男に文句を言おうと口を開く。
「すいません」
そう言ったのは、間宮、ではなかった。
「あ?」
記者の男が表情を変えて、振り向く。間宮もつられて見ると、そこには、白い髪の毛先を黒く染めた、奇抜な風体の少女が立っていた。赤いリボンで結んだ長いツインテールを、通る風になびかせて、少女は言う。
「この人、困ってますよ。止めた方がいいんじゃないですか?」
マスク越しでもハッキリと聞こえる声で咎められた男は、メガネのレンズの奥にある目を吊り上げた。
「あのさ、おじさんたち今忙しいの。見てわかんないのかな。これだからヒーロー気取る若者は困っちゃうよ」
男は早口で捲し立てながら、少女に手を伸ばす。そうして、少女の肩に触れた手が、彼女を突き飛ばした時である。
「ね、グェッ」
言葉を最後まで言い切った直後、男は、鶏の断末魔のような声をあげた。一気に顔色を赤黒くし、足をバタバタさせながら、喉のあたりを掻きむしる。
間宮は、男の首が、何かに絞められて、黒く変色していくのを、呆然と見つめるしかなかった。超常現象だ、と手放しに驚くには、彼は、呪いを知りすぎていた。
「人を困らせたらバチが当たります。これ、常識ですから。覚えておきましょうね」
少女が微笑むと、パッと手形が消え、男は、その場に崩れ落ちる。
「あ、あんた」
「では待ち合わせなので。失礼します」
間宮が正体を訊く前に、彼女は、軽く一礼すると、小さなキャリーバッグの走行音を響かせて、来た道を戻って行った。
「何者なんだ………」
少女の背に、もう届かない言葉を呟く。同時に、むせすぎて嘔吐いていた男の口のダムが決壊して、間宮は絶叫したのだった。

「クリスマスなのに………」
間宮は肩を落としながら、風呂場で、汚れたスニーカーを洗う。既に汚れは落ちきっているが、感染症のウイルスが紛れている恐れがあるため、念入りに、タワシを靴に擦りつけている。
「プレゼントだ。よかったね」
ジャックは寝室に繋がる梯子に腰かけ、風呂場から聞こえるタワシの音をアテに、煙を嗜んでいた。
「ゲロがプレゼントってどこの異世界だよ!」
間宮の怒りは、風呂場の中で反響して、ジャックに届く。
「そう怒るなよ。僕は君を元気づけてるだけじゃないか」
「下手くそ」
唾を吐くように言葉を吐いて、間宮がタワシを動かすと、梯子に座るジャックは、眉間に皺を寄せる。
「だけどその女の子。気になるね」
ジャックの言葉に、間宮は、出会った謎の少女を思い返す。
派手な髪色の個性的な彼女と、悪態をついた男の首を絞めあげた、姿の見えない何か。
特徴しかないものの、それが一体、何を示すのか。ジャックならば知っているかもしれないと思い、仔細を報告した間宮だったが、どうやら彼も知らない様子である。
間宮は、期待外れにそっとため息をこぼし、言った。
「気にはなるけど俺を助けてくれたし、駒鳥じゃないのは確かだろ」
駒鳥、と、自分で出した単語に、間宮は話を切り替える。
「そういやぁ、あれ以来、音沙汰もないな」
ジャックは、唇の隙間から細く煙を吐く。
「当たり前さ。駒鳥の天敵は僕だ」
「え? 逆じゃないの?」
「僕の呪いが厄介なのを大人たちは知ってる。だから駒鳥たちにも言いつけてあるんだろう」
「じゃあ、なんで俺を襲った?」
「僕を独りにさせる気だったんじゃない?」
「なんだよそりゃあ」
風呂場で、肩を竦める間宮が見えているように、ジャックも同じ仕草をする。
「魔女は孤独を恐れる」
はあ?と間宮は、風呂場の扉から顔をのぞかせる。
そんな彼を、ジャックは鼻で笑うと立ち上がった。
「さあさ。靴洗いはそれくらいにして。もうすぐお客さんが来るんだ」
「思い出の方の?」
「依頼」
革靴を鳴らしながら、店の方へ消えていくジャック。
間宮は、ピカピカになったスニーカーに満足して、鼻歌を歌いながら、後片付けを終えると、猫に変身する。そのまま小走りで、店のレジカウンターに飛び乗れば、気分は看板猫である。濡れた手を舐め、ヒゲを舐め、毛並みを整えていると、チリンチリンと来客を告げるベルが鳴る。
「いらっしゃい。こんにちは。ここは鵞鳥の巣だよ」
と、ジャックが出迎えた依頼主は、若い女性の三人組だった。
先頭切って入ってきた女は、ヒョウ柄の派手なワンピースに身を包み、いかにも、といった風である。対照的に、後ろの二人は、怯えた様子で手を取り合っており、二人で揃いではない、どこかの学校の制服を着ている。
「呪いを売ってくれるって聞いたんだけど」
派手な女――仮にA――が、開口一番、強い口調で、ジャックに言う。
「まずは詳しいお話を」
彼に促されると、Aは後ろのBとCに目配せした。女学生組は、おどおどしたまま進みでると、ソファの端に寄り添って座った。その隣に、Aがドカッと座る。
客人たちが座ったのを見届けてから、ジャックも、彼女たちの向かいのソファに腰を落ち着けた。
「それでご依頼は?」
Aは舌打ちをきめてから話し始める。
「ウチのカレシがエンコーしてたの。こいつらはその相手」
と、顎でしゃくられた女学生たちは、更に萎縮する。
「なんかカレシ金払ってなかったみたいで。しかも、初めてじゃないみたいで。だから、三人で痛い目みせてやろうって話になったの。そしたら、ここで呪いを売ってるって」
言い終わって、Aは一人で手を叩いて笑う。
「だけど呪いなんて嘘でしょ? ありえないし。それっぽい嫌がらせやるだけで大金貰えるなんてうらやまし〜い。ねぇ〜?」
Aは目を細めながら、学生たちに目をやる。含まれすぎて漏れている嫌味に、Bがキッと睨み返すと、Aは笑顔を消して、ドスを効かせた。
「あ? 何?」
「いえ………」
「あっ灰皿あるじゃん」
学生がいるにも関わらず、Aは、小さなハンドバッグからタバコを取り出し、火をつける。
人間たちの足元でコソコソしていた間宮は思った。
女って怖い。
間宮は、ローテーブルの下からジャックを見上げた。
彼は、いつものように組んだ足の膝で頬杖をついて、三人組の様子を見つめていたかと思うと、唐突に、口を開いた。
「なるほど。いい度胸だ」
「はあ?」
あまりの突然さに、Aが顔をしかめる。
「僕を試すなら、相応の対価を払ってもらうよ」
「え、何、何言ってんの、キモ」
狼狽えるAの隣で、Bが勢いよく立ち上がった。彼女は、Aに体を向け、ジャックを指さす。
「この人は本物ですっ、いっ、今から、そ、それを証明してもらうんです!」
Bの声は震えている。Cが固唾を飲んで、見守る中、Aが手を叩いて笑い始めた。かと思いきや、ハンドバッグをテーブルに打ちつけて、Bを睨みつける。
「ウチに嫌がらせするために、騙してここに連れてきたってわけ?」
どうやら、Aは、話の流れから、ジャックと彼女たちが結託していると思ったようである。ひとり、いや、一匹、答えを知っている間宮は、首の代わりに尻尾を振った。
「こ、この人は本物でっ」
と、同じ言葉を繰り返しかけたBの襟を、Aは掴みあげる。
不良同士のケンカでしか見た事のない迫力に、間宮は体を縮ませた。
「そんな風に馬鹿だからタダでヤられたんだろ。ショウのせいにしてんじゃねーよ!」
Aが拳を振り上げる。
ビンタじゃないのか、と、驚きながらも焦る間宮。
「ジャック!」
思わず、ジャックの足にしがみついた彼が見たのは、歯の縁を舌で撫で、口角を歪ませているジャックだった。
「あッ」
Cの声で、間宮は我に返る。振り返ると、硬直したBだけが立っていて、Aの姿はどこにもない。
間宮はテーブルの上に飛び乗った。
テーブルには、火がついたままの細いタバコと、一輪の赤い花が転がっている。
ぼふんっと音をたてて、ソファに座ったBも、間宮と同じものを見て、呆然としていた。
「それで?」
ジャックの声に、女子高生二人は、はっと息を呑む。
「対価は?」
小首を傾げる彼に、二人は顔を見合わせて、Bが、おそるおそる質問する。
「た、対価………って、お金、ですか?」
「お金で僕の尊厳が回復すると?」
ジャックは、大きなため息をついて、垂れてきた前髪をかきあげた。
「あのね、この仕事は信頼が大事なんだ。お客さんは僕のことを信じ、僕はお客さんの呪いを信じる。今、君たちは僕を信じただろう。だけど、僕は、君たちの呪いが信じられない。信用のない呪いは、必ず君たちに返る」
ジャックの真剣な眼差しが、女子高生たちを貫いた。
「呪いを確かなものにする為に、君たちは何を捧げられる?」
彼の質問に、Bは顔を俯かせた。Cは、そんな友人の横顔とテーブルに転がった花を見比べていたが、ややあって口を開ける。
「私たちは、私たちらしく生きられる未来のために体を売りました。だけど、この女と男は、楽をして稼ぐために自分を売ったり他人を騙してたりしてるくせに、私たちを馬鹿にした………」
Cは言葉を止めて、Bを見た。二人の視線が交錯する。
「………あいつらが死ぬなら、私は何でも捧げられます」
そう言うと、彼女は身を乗り出して、花とライターを手に取り、躊躇うことなく、花びらに火をつけた。
「あっ」
Bが口を手で抑える。
燃えていく花から、沸騰したヤカンが出すような、けたたましい悲鳴が鳴り響く。
それは、命が燃える音。
「だから、呪いを、あの男を殺す呪いを、お願いします」
間宮は身震いした。
人間の憎悪の熱量に。
そんな黒い熱を受けて、嬉しそうな笑みを浮かべるジャックに。
自分は何という存在に、気に入られてしまったのだろうか、と。

3.5 少女

間宮が、街に再出発したのは、真夜中の時分だった。クリスマスだというのに、時勢の影響で、街の喧騒は引いていて、早々に電気を消された電飾たちが、店先や壁や街路樹のあちこちで、静かに眠りについている。
そんな静まり返った街の中を、黒猫の間宮は『口先だけの男』のラベルがついた小瓶を咥え、ヒゲが導くままに歩いていく。
間宮が、初めて人に呪いを運び、殺される場面を見た日から、三週間が経つ。言い換えれば、呪いの配達は三週間ぶりで、二回目である。
少し不安に思いながら、間宮は、ヒゲの導きを受け入れて、シャッター街の道に差しかかった。

「うわあああああああああああぁぁぁ」

まさしく、静寂を裂く悲鳴であった。同時に、猫のヒゲの痺れが強くなる。それは、悲鳴をあげた男が、呪いの配達先であることを示していた。一方で、間宮は、体中の毛が総毛立つほどの命の危機も感じ取っていた。
このまま導きに従えば死ぬ。だが、従わなかったら………。
間宮は生唾を飲みこむ。
今までの人生が、彼に教えたことは、誰にも期待されない恐怖であった。
母と自分を蔑ろにした父。
そんな男と知っていながら、父しか見ていなかった母。
選考されない自作の小説。
黒猫を残して去っていった彼女。
もう死んでしまった黒猫。
自分をマウントの対象にしてくる他人たち。
誰も自分を期待しない。
誰かの期待を夢見ることもできない。
『これからどうしよう』
そう悩んだ時に、隣に座ってくれたジャックを、間宮は忘れていない。
『気に入ったんだ、君のこと』
そう、言葉をくれたジャックを、裏切るわけにはいかなかった。
彼にも期待されなくなれば、もう、間宮を待つのは死だけだ。
間宮は勇気を振り絞って、シャッター街道を駆けた。
断続的に響く悲鳴が近くに聞こえはじめ、目先の路地裏から男が飛び出してくる。咄嗟に急ブレーキをかけた、その一瞬、猫の高性能な鼻が、肉と血の塊が腐ったような臭いを感じとった。
その直後。
路地裏から男を追って、巨大な化け物が姿を現す。
犬のような顔に、見たこともない長い腕。その先に、巨人のように大きな手がついている。開いた口からは唸り声と真っ赤な血のような涎を垂らし、それが落ちたコンクリートからは、肉が激しく焼かれる時のような音がしている。
強烈な腐臭に混ざった殺意と憎悪。圧倒的な命の危機に、間宮の体は硬直してしまった。
逸らせない視線を受けて、間宮に気がついた化け物が、彼へ近づく。
「ウキョクちゃん?」
不意に、路地裏から呼ばれた名前に、化け物が首を向けた。その隙をついて、間宮は、着火したての火のような勢いで、来た道を駆け戻った。
あんな化け物、俺の手には負えない。早くジャックに伝えないと!
と、安堵した間宮だったが、その体が急激に重くなる。何か、強い力で後ろに引っ張られているようであった。しかし、後ろを振り向く余裕はない。間宮は、負けじと地面を掴み、抵抗を試みる。
ベリベリッ。
と、耳障りな音がしたのはすぐのことである。見ると、黒猫の可愛らしい前足が剥がれ、見慣れた人間の手が顕になっている。ヒゲの感覚も、頭上に耳が生えている感覚も、まだあるというのに。
「どっどういうことだ?!」
混乱しているそばから、ベリベリと猫の皮が剥がされていく。一瞬の内に、化けの皮を剥がされた間宮は、四つ這いのまま、ただただ戸惑うことしか出来ない。
「なに、なんで………えっ!」
突如、その体が浮き、間宮は、店のシャッターに叩きつけられた。
「うっ、うう」
衝撃と痛みに瞑っていた目を開けると、視界の画面いっぱいに、化け物の口内が写る。
数え切れない牙と、真っ赤な唾液、そして、人間一人を丸呑みに出来そうな大きさに広がった、咽頭の奥の暗闇――――。

「止まって!」

鶴の一声で、化け物は口を閉じ、ヴェールと長い毛に覆われた顔を持ち上げる。その胸の下から、垂れた毛をくぐって出てきた少女に、間宮は目を見開いた。
「あ、あんた………!」
白い髪の毛先を黒く染めた長いツインテール。個性的な見た目の彼女は、昼間、記者から間宮を救い、謎を残していったあの少女であった。
少女も間宮を覚えていたようで、彼を見て、満面の笑みを浮かべる。
「わあっ、すっごい偶然ですねぇ!」
と言いながら、シャッターに背を預けて座る間宮を、ジロジロと眺めると、ぽんっと手を打った。
「なるほど。昼間からおかしいなあとは思っていたんですけど、今、謎が解けました」
少女は、地面にスカートの裾を広げて、間宮の前に座る。街灯の明かりを反射して、ワインレッドのアイシャドウがキラキラと輝く。
「あなたの魔力、あなたのものではありませんね? このピアスに秘密があるのかな」
無遠慮に伸ばしてきた少女の手を振り払い、間宮は叫んだ。
「あんた、あんた何、何者なんだ?!」
その拍子に、間宮のトレーナーの袖から小瓶が滑り落ちた。
「これは?」
少女に拾い上げられたそれを見て、間宮は、ようやく本来の目的を思い出す。
「あ、あの男は?!」
突然、焦りだした目の前の男に、少女は困惑した表情をしながら、指をさした。
「あちらですよ」
見ると、反対側のシャッターに、ファンタジーゲームによく出てくるような巨大な斧に縫われて、暴れている男がいた。
小瓶を奪い、男の方へ走り寄る間宮の後を、少女は追う。
「お前、お前、助けてくれよ、なあ! 何でもするからさあ!」
助けを請いながら、嬉しそうな目を向けてくる男。だが、間宮には、彼を助けるという選択肢はない。
「何をするんです?」
「離れて!」
と、間宮に言われ、少女は言われたように、二、三歩、後ろに歩いた。
間宮はそれを確認し、男の近くに膝をつく。顎に下げたマスクを正しくつけて、軽く深呼吸をひとつ。そして、小瓶の蓋を開けた。中身の黒い液体が、じわじわと煙になって、外に出てくる。
「なんだよこれ、うっ、げほっごほっ」
男が、煙状の呪いを吸いこんだのを目視してから、間宮も急いで離れる。
文句を言いながら、咳きこんでいた男は、すぐに苦しみの呻き声をあげはじめる。
「むっ胸が痛い、くるしぃ、たすけ、て、げえっ」
どちゃっと濡れた重い音と共に吐き出されたのは、大量の血液と、肉の塊のようになった、男の心臓である。心臓を吐き出したら、人間は絶命する。それは、男も例外ではなく、絶命した彼は、顔にある穴という穴から黒い煙を噴き出す。その死体は徐々に塵になり、あっという間に消え失せていった。
騒いでいた男がいなくなり、シャッター街に、少女の声がよく響く。
「なるほど。これは強い呪いですね。でも、それだけじゃない」
衝撃映像といっても過言ではない光景を見たにも関わらず、少女は、明るい口調を崩さない。彼女は、シャッターに刺さっている意味を失った、巨大な斧を引っこ抜く。間宮が瞬きをした間に、その斧は、少女の手から消えている。
「呪いから、あなたからも感じる魔力を感じました。ということは、あなたのご主人様の力ですね」
歌うように言いながら、少女は、端に赤い糸が編みこまれたマスクを外す。
「お聞きします。あなたのご主人様はどなたですか?」
微笑む口元から八重歯を覗かせる彼女だが、細めた瞳の奥に笑顔はない。しかも傍には、異形の化け物が控えている。
僅かに間宮は怯んだ。
だが、ここで少女の言いなりになり、それがジャックにバレたら、絶対に良い顔をしてくれないことは明白であった。ただでさえ、仕事を放棄して、化け物から逃げてしまっている。
間宮は、マスクの中でこっそり乾いた唇を舐めてから、マスクを外した。
「まず、あんたが名乗ってくれないと。あと、どうして、俺の………雇用主を知りたがってるのかもな」
「あぁ。これはうっかりでしたね。失礼しました」
少女は軽く頭を下げ、今度は、しっかりと瞳の奥も笑顔にして名乗る。
「茉白ちゃんは、斑目茉白と申します。この子はウキョクちゃん。茉白ちゃんの親友です」
「茉白ちゃん」
一人称のインパクトの強さに、間宮は思わず復唱する。
「茉白ちゃんは強い魔女様のようになりたくて、家出して、上京してきました。この街は人も多いし、末裔の魔女様がたくさんいると聞いたので。茉白ちゃんは、強い魔女様の弟子になるまで、帰らないと決めたのです!」
改めて強い決意を抱いた茉白は、ぐんっと間宮に近づいて、上目遣いで、彼を見つめた。
「だからお願いします。あなたのご主人様のお名前を、茉白ちゃんにお聞かせください!」
キラキラの瞳で見つめられて、ドキドキしたのを、間宮は、頭を搔いて誤魔化した。
「わ、悪いけど、あいつは魔女じゃないよ。男だし。母親は魔女だって言ってたけど」
「では、その方のお母様は?」
熱意におされて、間宮は、つい答える。
「マザーグース」
「グースって、あの?!」
キラキラの瞳が、一際、輝き、茉白は間宮に飛びつく。
「あなた、お名前は?!」
「間宮、朔です」
「間宮さん!」
と、力強く両手を握られれば、間宮は耳を赤くする。
「茉白ちゃんは、絶対、絶対、グース様にお会いしたいのです! どうか、会わせて頂けませんかっ?」
熱い熱い視線である。だが、間宮は勿体ぶって、首を傾げてみせる。
「いや〜、今日はどうだろう。なんか忙しそうだったし」
間宮は、店を出ていく前の様子を回想する。
女子高生の覚醒を、一見、楽しげに見ていたと思われたジャックだったが、彼女たちが退店した途端、タバコを吸い出した彼の表情は、驚くほどに無表情であった。
「余計な奴らまで招いてしまうなんて。どうやら、まじないが弱まってるみたいだ」
と、ジャックは、無表情の理由を語った。だが、間宮は、彼が口にしない別の理由も察していた。
呪いの依頼を聞き届け、金を儲けているジャックである。自らの実力に、絶対の自信と意識を持っているのは間違いがない。それを――まじないが弱まったせいで、招いてしまった部外者に――貶められたのだ。プライドを傷つけられた彼の怒りは、女子高生たちへの態度に現れていた。
そんな彼を刺激せず、依頼にかこつけて、外に出てきたというのに………。
間宮は生唾を飲みこみ、引きつった笑みを作った。
「今日はもう遅いから、明日に出直した方がいいんじゃないかな?」
「でも、茉白ちゃん、今日、上京してきたばかりで、行くところがないんです」
「え」
引きつったまま、停止した間宮を、ウキョクちゃんが覗きこむ。
終わった。
そう思ったら、間宮は、茉白たちを連れて、店の前まで来ていた。
「かわいいお店ですねぇ」
と、呑気な茉白は、鼻歌を歌いながら、そわそわとしている。ちなみに、ウキョクちゃんは、彼女の影の中に身を潜めている。
一方で、間宮は扉に向かって、ブツブツ呟いている。
「絶対、怒られる。だって、不機嫌だったし。でも、女の子ひとり置いていけないだろ………」
「間宮さん、大丈夫ですか?」
後ろから心配する声に、間宮は真っ白な顔を向けた。
「だっ、大丈夫、大丈夫」
それは最早、茉白に対する答えではなく、自分に言い聞かせるための言葉になっていた。そう。こんなところで足踏みしても無意味なのだ。間宮は、意を決して、扉を開ける。
「たっ、ただいま〜帰りました〜ぁ」
ベルに被せるように、大きな声を出しながら入っていった間宮は、レジカウンターに腰を預けて待っていたジャックと、バッチリ目が合った。
ジャックは、その目をゆるりと細めながら、喫煙していたタバコをへし折る。
「やあ、サク。女の子を連れてお帰りなんて、随分、良いご身分じゃないか」
「いや、これはえっと、なんというか、話せば長くて」
間宮は、わたわた、という擬音を体から飛び出させながら、弁明を始めようとする。そんなことをしても、記憶を見るジャックには無意味である。現に、もう、間宮の記憶を読み取ったジャックは、ため息をついている。
「………ごめんなさい」
言い訳をやめて、謝罪する間宮。
「もういいから」
その肩に手を置いて、ジャックは彼に耳打ちをした。
「彼女をお招きしてあげて」
「え?」
振り返ると、扉の手前で尻ごみしている茉白がいる。
「何してんの?」
「ごめんなさい。初めての場所は招かれないと、ウキョクちゃん、入れないんです」
招かれないと建物内に入れない、というのは、吸血鬼の弱点だったと間宮は記憶しているが、ウキョクちゃんを従える彼女がそう言うならそうなのだろう。
「じゃあ、えっと………どうぞ?」
「失礼します」
招かれた、ベルトの多いレザーブーツが、一歩を踏み出す。重い足音を従えて、茉白は、ジャックと対面した。
「お初にお目にかかります、グース様っ」
「初めまして、斑目サン」
「名前、呼んでもらっちゃった!」
普通の人間なら、教えていない名前を呼ばれて驚くところを、茉白は喜んでいる。
「よかったらそこにどうぞ」
「ありがとうございますっ」
茉白は、ファンのアイドルに出会ったようなテンションの高さではしゃぎながらソファに座り、向かいに座ったジャックのことを、じっと見つめる。
間宮は、自分がおじゃま虫な空気を感じ、そっとレジカウンターの中に回った。
「あそこにいる人からだいたい見たんだけど」
と、ジャックは前置きして、続ける。
「君、どうやら魔女に憧れがあるみたいだね。どうして?」
茉白は、うっとりと頬を赤くして、答える。
「茉白ちゃんは、親みたいな私利私欲に塗れた呪術師より、強くて高潔な魔女様のようになりたいのです」
「呪術師?」
「茉白ちゃんは呪術師の末裔なんです」
「なるほど。道理で異形を連れてるわけだ」
「ですので、呪いには、小さい頃から馴染みがあります。今回の家出をするにも、SNSで依頼を募集して、小銭を集めました」
「それで、あの男に繋がった、と」
「地元の活動でお金が貯まったので、上京がてらと考えていたのですが………油断しました。お恥ずかしいです」
茉白は、ヘラヘラしながら、ツインテールの先を弄ぶ。男に襲われかけたことを、怖かった、ではなく、恥ずかしい、と表現した彼女の肝の強さに、間宮は、ゾッとしながら、納得もした。
もし、ジャックが彼女だったなら、同じことを言うだろう。
「タバコ吸っても?」
「はい」
ジャックはタバコに火をつけ、足を組む。
先程から、茉白の記憶を読み取ろうと試みている彼だが、何も見えてこない。
呪術師という存在は、日本にも居を構える際に勉強しているが、実際に対面するのは、今日が初めてのことであった。
だが、記憶が読めないとしても、ジャックは焦らない。会話の駆け引きだけでも、百戦錬磨だからだ。まず大事な基本は、相手に、心の揺れを悟られないようにすること。
ジャックは、組んだ膝の上で頬杖をついた。
「魔女になりたいなら、悪魔と契約した方がいいんじゃないかな」
魔女の末裔からの意見に、茉白は頭を振る。
「茉白ちゃんは、魔女様のようになりたいのであって、魔女様にはなりたくないのです」
「それはまた難しいね」
「ウキョクちゃんを裏切ることは出来ません」
「だったら、君を弟子にしても意味がない」
「意味はあります」
ジャックのペースに振り落とされる素振りもなく、茉白は、にこりと微笑む。
「グース様。近年、呪いの集まりが悪くて、お困りではありませんか?」
茉白は微笑んだまま、自身の並べた膝の上に両肘を置いて、可愛らしい頬杖をつく。
「茉白ちゃんは、ウキョクちゃんのために呪いを集めていますので、弟子にして頂ければ、今より効率よく、呪いを集められます。それに」
ちら、と、茉白は、レジカウンターで縮こまる間宮に目をやり、続ける。
「茉白ちゃんは、人殺しだって出来ますよ?」
引き合いに出され、間宮は思わず息をとめた。
ジャックが弟子を取れば、自分の、ファミリアという居場所はなくなる。
そんな簡単なロジックに気づかず、茉白を連れてきた、浅はかな自分を後悔した。
しかし、茉白の言葉を、ジャックは鼻で笑い飛ばした。
「彼は弟子じゃないから、元からそんなことに期待していない」
「なら、余計に、手を汚せる駒が必要ではないですか?」
ここぞと、自分をアピールする茉白。ジャックは、彼女の真意を、未だ読めていない。面倒だ、と、話を切りあげる選択もあるが、ジャックのプライドは、一日に二度も傷つけられることを許さない。
「斑目サン」
ジャックはソファに座り直し、テーブルの上に両手を置く。
「僕と同じように手を置いて」
「? こうですか?」
と、控えめに、端に置かれた茉白の手を、ジャックは握って、引き寄せる。憧れの人に手を握られ、興奮したのか、茉白の白い腕に血管が浮かんだ。彼女の手をくるりと返し、天井に向けた手のひらに、ジャックは自分の手を乗せる。
間宮は、その儀式に見覚えがあった。記憶を物に変換する儀式だ。だが、どうして、ジャックがその儀式をしようとしているのか。彼の、絶対的な記憶読みが、茉白に通じない現状を知らない間宮には、分からない。
「僕は嘘つきが大嫌いでね。だから、自分の目で見るようにしている」
ふぅーっと、ジャックの唇の隙間から、長く長く、煙が吐かれた。すると、その煙の先から火花があがり、ついた炎は、猛烈な勢いで、煙を辿って、ジャックに返っていった。
「ジャック!」
ジュワッ。
と、ジャックの手のひらで、炎が燻る。彼は咄嗟に顔の前に手を出して、炎を受け止めたのだった。だが、タバコを握り消す時とは違い、前準備をしていなかった手のひらは、鋭い痛みを伴う火傷を負っている。
「それって」
何事もなかったかのように、茉白は、笑顔で続ける。
「グース様が嘘つきだから、ですよね? 他人にしていることは自分にされたくないのが、人間ですから」
ね、と、小首を傾げ、ジャックを見据える瞳の奥は、真っ暗な闇である。
ジャックは、息を吐くように短く笑い、火傷した手のひらを握りしめる。
「………君、面白いね」
「ありがとうございます」
その時、間宮は、ジャックが舌打ちした姿を、初めて目撃した。
「悪いけど、弟子は取らない」
ぶっきらぼうにそう言って、タバコを吸い直すジャックに、茉白は食い下がる。
「え〜、そこをなんとかなりませんかあ?」
「こんなことされて、信用できると思う?」
間宮も、ジャックの言い分に頷く。根明ではない間宮にとって、茉白の鋼メンタルは、理解できなかった。
「それはウキョクちゃんがやったんです。ウキョクちゃんは、茉白ちゃんを護ってくれてるから」
「今夜は泊まらせてあげるから、諦めて」
ジャックはソファから立ち上がり、ジャケットの皺を伸ばす。
「ちぇ。ありがとうございま〜す」
茉白は、不満を露わにして唇を尖らせながらも、頭を下げた。
そんな彼女を無視して、ジャックは、間宮に指示を出す。
「君のベッド、彼女に貸して」
間宮は、彼を刺激しないよう、ぶんぶんと頷いてみせた。ジャックの革靴の音が奥に消え、リビングの扉が閉められたのを目視で確認してから、レジカウンターを出て、茉白の隣に座る。
「ねぇ、茉白ちゃん」
「何ですか」
ジャックの時と打って変わって、茉白は、スマートフォンをいじって、随分、雑な態度である。
「呪術師の末裔って本当に?」
「そうです」
「さっきの嘘つきっていうのは?」
食い気味で、茉白に質問する間宮。創作魂が燃えた、というより、ジャックの標準装備である薄ら笑いを突き崩した彼女に、興味が湧いたのだった。
質問の答えを待つ間宮に、茉白は、いじっていたスマートフォンをテーブルに置き、彼を見た。
「間宮さんはそう思いませんか?」
間宮は、心臓が強く跳ねたのを感じる。
ジャックが俺に嘘をついている?
「いや、それはない」
と、否定しつつ、間宮の目は泳いでいる。その頼りなさに、茉白は、更に質問を重ねる。
「間宮さんって、どうしてグース様のファミリアになったんです?」
「どうしてって………成り行き?」
茉白は、大きなため息をついた。
「ほんっと、なんでこんな人をファミリアにして、茉白ちゃんを弟子にしてくれないんだろう」
その言葉に、間宮は気が付く。
俺、ジャックのことを何も知らないじゃないか。だというのに、今まで、一度もそのことに気が付かなかったのは何故だろう。

夜通し悩み切った黒猫の間宮が、ジャックのベッドの端っこで、丸まって寝息をたてている朝。
洗面所から、茉白の鼻歌が聞こえている。茉白が、メイクを終え、長い髪を梳きながら、ツインテールに赤いリボンを飾り、鏡の前で可愛さを確認していると、鏡の中の洗面所の入り口に、ジャックが立った。
「おはようございます、グース様」
と、茉白は、くるりと振り向く。ふわりと浮いたギャザーの多いスカートの裾をつまんで、恭しくお辞儀をし、にこりと微笑む。だが、ジャックは仏頂面である。彼は寝起きのままで、シルクのパジャマを着て、いつも上げている前髪が落ち、顔にかかっている。
「身支度終わったら、早く出てって」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよぅ」
ぷー、と、唇を尖らせる茉白を無視して、ジャックは歯を磨きはじめる。茉白は、仕方なく場所を譲り、洗面所の入り口から顔を覗かせる。
「グース様、前髪おろしてると可愛らしいですね」
無言。
「グース様、シルクのパジャマがお似合いですね」
無言。
「あの、一個だけ質問いいですか?」
「出てってくれない?」
「間宮さんですけど」
ジャックが重くため息をついたのを聞きながら、彼女は構わず続ける。
「あの方の呪いは確かに魅力的ですね。常人が持てる量を遥かに超えてるのに平気そうだし、魔力を操る側としてはぜひ利用したい。それはよく分かります。ですけど………」
茉白は、梯子の上に、ちらりと目をやる。
まだ、丸まって眠っているであろう黒猫。
前の晩、自分の質問に、呆気なく、飼い主への信用を揺らした瞳。
「間宮さん、自分の立場を分かっていないみたいです。そんな人を利用するのは、却って、ハイリスクなんじゃないですか? 失敗したら、どうなるか分かりませんよ?」
顔を洗っていたジャックは、濡れた手で前髪をかきあげながら、鏡越しに茉白を見た。
「みにくいアヒルの子を知ってる?」
「はい。アヒルじゃなくて白鳥だったって話ですよね。それが何ですか?」
「さあね」
と、彼はタオルに顔を埋める。
答えてくれたことにわくわくしていた茉白は、あからさまに不服そうな表情になり、抗議する。
「えーっ、そこまで言ったのにお預けは酷いです!」
「いいから出てけ」
「………ちぇ、分かりました。でもっ、茉白ちゃんは諦めませんからねっ」
そう、ジャックに捨て台詞を残して、茉白は、奥のリビングに置いたキャリーバッグを持つ。
「お世話になりました!」
ジャックからの返事はないが、彼女は店の扉を開けた。
一歩。
踏み出すと、茉白は、路地裏の入り口に立っている。
左右を見渡せば、出勤や登校中の人々が忙しなく歩いている。それは、彼女の記憶の中の故郷では全く見かけない光景で、茉白は、武者震いに鳥肌がたった。
きっと、これから、楽しいことが起きる!
そんな予感が、茉白の影を、文字通り、ざわざわと揺らす。影に潜むウキョクちゃんが反応しているためであった。
茉白は、ウキョクちゃんを落ち着かせるように、ブーツの踵を鳴らす。
「ウキョクちゃん。マスターのところに早く帰ろうか」
鼻歌を歌いながら、茉白は歩き出す。
軽やかに揺れる、白と黒のツインテールが、陽の光に輝いている。

4 呪い

クリスマスが終わると、街は、急に、日本に帰る。正月ムードを盛り上げるために鳴る、笛や太鼓の音色は、先日まで流れていたお洒落な洋楽や邦楽と聞き比べると、些か、滑稽であった。
それに被せるように、繰り返し繰り返し、流れているのは、外出自粛と店の営業時間を短縮するよう知らせるアナウンスである。
駅前の喫煙所から出てきた間宮は、駅ビルの大型液晶に映る、要請内容を一瞥し、手元のスマートフォンに目を落とした。コミュニケーションアプリの画面では、今夜の『話し合い』に関する会話がなされている。
相手は、間宮の父で俳優でもある、四ツ谷透のマネージャー、田所である。その職業病のせいか、彼は世話焼きで、母を亡くした間宮とは『話し合い』と称して、定期的に食事会を開くのだった。尤も、間宮にとって、その『話し合い』は憂鬱な時間以外の何物でもなかったが。
「わっ!」
「うわあっ!」
突然、背中を叩かれ、スマートフォンを投げ出す間宮。それを空中でキャッチしたのは、三日ぶりに会う茉白だった。
「あははっ、茉白ちゃん、ナイスキャッチ〜」
と、笑いながら、茉白は間宮にスマホを差し出す。それをひったくるように奪い、間宮は声を上げる。
「あんた、距離感バグってんの? 俺たち会うの二回目よ?!」
「そうでした?」
「ええ?」
「数え切れないほどお会いしていた気がするんですけど……夢ですかね? 分からなくなっちゃいました。てへ」
と、舌をだしておどける彼女に、間宮は頭を抱えた。
「メルヘンすぎてついていけないよ……」
「話は変わりますが、こんなところで何してるんですか?」
茉白は、ツインテールの毛先をいじりながら、首を傾げる。
「人と待ち合わせ」
「へえ〜、間宮さん、待ち合わせする知り合いいらっしゃるんですね」
「終いには殴るぞ」
「そんなことしたら婦女暴行で現行犯逮捕ですよ?」
「いや、急に現実的だな!」
はあ、と、ため息を吐き。
「そういう茉白ちゃんは?」
と、間宮も訊ねる。
「茉白ちゃんは出勤です」
「こんな時間に?」
もう、街中の明かりも華やかになってくる時分である。そんな遅い時間に出勤するなんて――――。
「ま、まさか体を売ってる……」
「違いますよっ!」
茉白の、ツッコミには適さない威力のキックが、間宮の尻にクリーンヒットする。
「痛ぁッ」
間宮は、悲鳴をあげて、もんどりうったが、倒れる寸前で踏みとどまる。尻を撫でながら、恨みがましく、茉白を睨むが、彼女は何処吹く風である。
「今夜は飲み会ですか?」
「……飲み会じゃないけど、飲みたくなるかもって感じ」
「でしたら、これをどうぞ」
抱えたテディベアの頭についたチャックを開けて、茉白が出したのは、赤色の名刺である。
「茉白ちゃん、ここで働いていますので、これを出せばお友達割引になります」
「あ、ありがとう」
間宮は、受け取ったそれに目を落とす。
それは名刺状のチラシで『キャバレー』の文字の下に『バウンシング・ベティ』と、店名の、洒落たロゴが描かれている。
「キャバレー?」
「はい」
と、微笑む茉白は、今日も、和服とワンピースを合わせたような個性的な服装をして、テディベアのカバンを抱いている。間宮が思う成人には、絶対に出来ない格好である。
「どう見ても未成年だよね?」
「書いてありますよ」
茉白は、紙の端を指さす。よく目を凝らすと、小さな文字で注意書きがされていた。
「ここ、キャバレー風居酒屋なんです。元もキャバレーだったところなので、オシャレだしショーもやるし、映えるって若者に人気なんですよ」
「ふーん」
齢二十六の間宮だが、若者の流行には乗り切れていない。
名刺をひっくり返すと、営業時間と地図が記されている。
「あと、ここだけの話なんですけど……耳、いいですか?」
「え、う、うん……」
茉白は周りを見て、何かを確認すると、間宮の耳に口を寄せ、言った。
「ここの制服、めっちゃエロいんです」
「なっ!」
急な単語に驚いて、体を仰け反らせる間宮に、茉白はケラケラと笑った。
「何ですか、その反応〜。子どもみたい!」
「おっ、大人をからかうんじゃありません!」
「冗談ですよぅ。時短営業してないので、飲み足りなかったら、ぜひ、いらしてくださいねって話です」
クスクス、と、笑いの余韻を残しつつ、茉白は、間宮に手を振った。
「では、また後で〜」
ツインテールを揺らす、軽やかな背中を見送りつつ、間宮はため息をつく。
「全く……」
その時、手の中で、スマホが通知に震えた。

「ごめんね。時間もらっちゃって」
「いえ……」
向かいに座り、困ったように笑う田所に、間宮は首を振って、来たばかりのビールに口をつける。冷えた生ビールは喉越しよく滑り落ちるが、間宮の気分は昂らない。
「最近、調子はどう? うまくやってる?」
「ぼちぼちです」
「そっか……」
田所も居心地悪そうにして、烏龍茶を飲み、ジョッキを見つめる。
居酒屋の店内を駆け回る従業員の掛け声が、異常に大きく響くようだった。
二人の『話し合い』は、毎回、そのような気まずい雰囲気が流れていた。しかし、それでも、田所は、間宮を誘ってこの会を開催する。内容はいつも同じ。要約すれば、父親と仲を深めろ、である。だから間宮は、いつも憂鬱になってしまうのだが、余計なお世話だとしても、生まれた時から世話になっている田所の気持ちを無下にする訳にも行かず、毎回、断れないでいた。そして今回は、自分の齢を気にして、大人な対応をすることを決め、疲れた顔をして烏龍茶を啜る彼に、話題を提示する。
「田所さんは忙しそうですね」
「あはは。おかげさまでというか、ありがたい限りというか。あっ、嫌味じゃないよ」
「いえ、嫌味言われても大丈夫です。田所さんには本当に迷惑かけてるし」
「そんなそんな。僕はこれが仕事だからね。あっ、今は仕事じゃないよ。僕は、お酒は、朔くんと飲むって決めてるんだ」
「決めなくても」
「朔くんと話したいんだよ。だって話し合いだから」
と、笑っても、濃い隈とやつれた頬の影のせいで明るくみえず、むしろ、骸骨のようである。
そこまでなっても、田所が、四ツ谷透の世話を焼くのは、マネージャーという仕事だからだ。だが、その四ツ谷と離婚し、姓を間宮に戻した母子の面倒までみるのは何故か。
四ツ谷の元妻だった母親が死んだ後も、自分が成人した後も、関わりを持とうとしてくるのは何故か。
「分かんないです。田所さんにはもう関係ないのに」
ビールの炭酸が上っていく。
「……罪滅ぼし、いや……僕なんかが君たちに罪悪感を感じるなんて、偉そうだよね」
「罪悪感?」
間宮は顔を上げる。
田所は俯いて、ため息をつく。
「僕が四ツ谷を説得できたら、あんなことにはならなかった」
あんなこと。間宮は心の中で呟く。
田所は、幼かった間宮と共に、母親の自殺現場を目撃した人物だ。
それを、彼は、自分のせいだと言っている。違う。全くもって違う。田所はマネージャーに過ぎない。むしろ、マネージャーなのに、俳優の私生活の管理までして、仕事熱心というほかない。悪いのは彼ではない。悪いのは――――。
「もし」
間宮は、腸が煮えくり返るような衝動を覚えた。
「母が死んでいなかったら、俺はあいつを殺してる」
拳を握って、紛らわせたつもりが、どうやら足りなかったらしい。田所は、怯えた目で、朔の顔を見る。
「……朔くん?」
それに気がつき、間宮は、無理やり笑顔をつくった。
「な〜んてね。あはは」
と、笑いながら、ビールを流しこむ。
田所は、ホッとした様子で、そんな彼を見つめる。
「朔くんは聞きたくないかもしれないけど、四ツ谷は変わってきてるよ。最近は、僕と子どもの話をするくらいさ」
子ども。間宮が父親への信頼をなくした日に、まだ生まれたばかりだった、女の子。
ニュースで誕生を祝われた、愛貴という名前の女の子。
間宮は、その名前の由来が、父親が気に入っているキャバ嬢の源氏名からきていることを――聞きもしないのに――付き纏ってくる記者から聞いている。
自分の、朔、という名前も、父親と幼なじみの咲ちゃんからきているということすら、彼は知っている。
しかし、四ツ谷の心情の変化を嬉しそうに話している田所を見る限り、マネージャーに、その不道徳な情報はいっていないようである。
「そうですか」
間宮は、引き攣りすぎて痛い頬を擦りながら、頷く。
「きっと、許せる日がくるよ。お母さんもそれを望んでた。覚えてるでしょ?」
「はあ……」
間宮は、曖昧に返事をする。田所は美談にしているが、間宮にとって、それは呪いになっている。
「朔くんも、そうなれる」
と、何も知らない田所は笑う。
「だといいですけど」
間宮は、肩を竦めた。
「ところで、仕事の方はどう?」
「まあまあです。給料がいいところに転職したので、小説を書く時間も出来たし」
「小説か。デビューは出来そう?」
「いやいや。夢のまた夢って感じです。でも、今、書いてるやつは自信作になる予定です」
「朔くんは偉いよ。最近は、コネでデビューしてる作家も少なくないのに」
うんうん、と、満足そうに頷く田所から、間宮は目を逸らす。
間宮が成人した辺りから、コネよりも卑劣な売名行為の話は、いくつも持ちかけられていた。所謂、暴露本の出版である。しかし、間宮は、絶対に首を縦に振らなかった。田所が思うように、父親の仕事を慮って、ではない。わざわざ父親との碌でもない記憶を振り返って、文字に起こしたくなかったし、自らの経歴に傷をつけたくもなかった。
間宮は、輝かしい作家になりたいのである。
孤独に悩んでいる誰かを、勇気づける物語を書く作家に。
孤独に耐え忍んでいた間宮を、物語で救ってくれた作家のように。
「君がデビューしたら、四ツ谷も誇らしく思うよ。もちろん、お母さんもね」
「はい」
間宮は、深々と頭を下げた。田所に、どのような表情を見せたらいいか、分からなかったからである。
二人が居酒屋の前で別れたのは、二時間後のことだった。
大荷物を持って、駐車場に向かう田所を見送りつつ、間宮は、マスクの中で呟く。
「結局、ヨリ戻せって話だったな……」
出入口の脇にある屋外用のスタンド灰皿の横に立ち、一服する。心の中がモヤモヤして、いくら煙を吐いても吐いても、口から出ていかない。一本のタバコを、あっという間に吸いきって、灰皿に捨てる。
「帰るのもなぁ」
間宮は、ジャックに対するわだかまりも解決していなかった。
確かに、ジャックの元で働き出して、まだ一ヶ月。その日に会ったばかりの茉白にかき乱されるほどの、弱い関係性であっても仕方がない。
だからこそ、分からない。
ジャックが嘘をついてまで、自分を傍に置く意味は?
そもそも、何故、自分だった?
何故、嘘をつく必要がある?
ジャックに訊くことは可能だ。だが、嘘をついていると疑っている相手に、プライドの高い彼が、本当のことを答えるのか。また、答えがきても、間宮には、それが本当なのか判断がつかない。
まさしく、八方塞がり。
間宮は、深呼吸をした。冬の空気が肺を冷やし、肺から出た息は、冬の空気を温め、白く濁る。

「間宮先輩?」

不意に、聞き覚えのある声に呼ばれ、間宮は、そちらに目をやった。目の前に立っていたのは、共に居酒屋のアルバイトをしていた、ミュージシャン志望の大学生――――。
「春ちゃん!」
間宮に名前を呼ばれた彼女は、マスクを外して、笑顔を見せた。
「お久しぶりです、お元気でした?」
「まあまあって感じ。それ、ギター?」
と、間宮は、春が背負うギターケースを指さす。
「そうです。さっきまで弾いてたんです」
「へえ。ストリートミュージシャンだ」
「ネットをやってない層にも知ってもらえたらって思って。でも、このご時世だから集まり悪くて。今日はもう終わりにしました」
「相変わらず向上心が高い。俺も見習わなきゃな」
「先輩の小説は?」
「今、自信作書いてるんだ。終わったら、どっかの賞に応募しようかと思ってる」
「へえ! いいじゃないですか! お互いに頑張りましょうね」
「そうだね、頑張ろう」
ふふ、と、春は照れたように微笑む。
間宮が最後に見た日と比べ、彼女は髪を短くし、ゆるいパーマをかけている。色は鮮やかな亜麻色だが、白と黒の茉白に見慣れた後だと派手には見えず、むしろ、少年的な無邪気さと明るさを持つ春にピッタリだとさえ、間宮は思った。
ドキドキする心臓を抑えるように、間宮は、マスクをつけ直して、言った。
「あー、引き止めちゃったね。ごめん」
「いえ! 今から帰るとこだったし、先輩とお話できて嬉しかったです」
「そう言ってくれると、俺も嬉しいよ」
気恥ずかしい間に、二人の目が合う。
「「あの」」
更に、声が重なってしまい、二人は同じように照れた。
「あ、どうぞ。レディーファースト、なんて」
間宮が促すと、春は、すいません、と、はにかんで続ける。
「先輩、この後はお暇ですか? もしよかったら、飲みに行きたいなって」
「本当に?」
それは、間宮も言いたかった誘い文句だった。
「はい。私、徒歩圏内に住んでるんで、終電もないし、家には私しかいないので」
田所の時と違って、間宮の心が踊るのは、彼女には秘密を知られていないからだ。触れられると、痛い秘密。
「あ、じゃあ……」
間宮は、ジャンパーのポケットから、赤い名刺を取り出して、春に見せた。
「ここ、付き合ってくれる?」

「ここだよね?」
「地下みたいですね」
名刺の裏に書かれた地図を頼りにやってきた二人は、飲み屋街の一角にぽっかりと開く、地下への階段を見下ろしている。階段の出入口の脇には、安っぽい看板だが、確かに『バウンシング・ベティ』と店名のロゴが光っていた。
「勇気いる〜」
と、笑う春に頷きながら、間宮は、先に階段を降りていった。突き当たりの扉を押し開けながら、中を覗く。
「こんばんは〜」
「お待ちしておりました、お客様っ」
一面、真っ赤な壁を彩る電飾に囲まれた受付で待っていたのは、驚くことに、茉白だった。
「「あっ」」
間宮と茉白の声が揃う。
「やっぱり来てくれましたね、間宮さんっ」
「ま、茉白ちゃん」
はしゃぎながら、カウンターから出てきた茉白に、間宮は、勘弁して、と心の中で呟く。
間宮の後ろにいる春は、きょとんとして、二人を見ていた。
茉白は、気まずそうな間宮と、わざわざ目を合わせると、露出の多い制服に身を包んだ体を、大袈裟に抱きしめてみせる。
「ああっ! 今、茉白ちゃんを舐めまわすように見ましたね!? ハレンチ〜!」
「ばか、ばか! ちゃんと、ちゃんと接客しろ!」
「あははっ、やだな、冗談ですよぅ」
クスクスと笑いながらも、茉白は、言われた通りに接客を始めた。店にある時間別のコースの説明と、前払い制を伝え、間宮から代金を貰うと、レジで精算し、お釣りを渡す。普段の底知れない明るさからは想像もつかない、普通よりもよく出来た接客ぶりである。
「それでは、素敵な夜をお過ごしください」
と、彼女は、部屋の左側にある扉の横に立ち、扉を開ける。
たちまち、二人の目の前に、煌びやかな店内が広がった。
赤と黒を貴重としたホールを、金色の電飾が照らしている。正面には紫のカーテンを降ろした舞台があり、伸びた花道の両脇には、仕切られたソファ席が並んでいる。扉の横には、洒落たバーカウンターがあり、バーテンダーが、カクテルを作っている姿が見える。時短営業をしていないからか、客入りもあり、スーツ姿のサラリーマンが多い。そんな客たちの喧騒の中を、スタッフたちが忙しく駆け回っている。
思わず、呆然とする二人に、男性スタッフが声をかける。
「お待ちしておりました、お客様。どうぞこちらへ」
と、ソファ席に案内されれば、赤いベロア生地の上等なソファに、二人は緊張しながら座る。
「すごくて、なんだか、アトラクションみたいですね」
春は、用意された温かいおしぼりで手を拭きながら、忙しなく店内を見渡す。間宮もそうしながら、ソファに何度か座り直す。
「落ち着かないな。おじさん、浮いてない?」
「大丈夫ですよ」
ぽん、と、さりげなく間宮の肩に触って、春は笑顔である。
「さっきの子はお知り合いですか?」
「まあね。顔見知り程度なんだけど、距離が近くて、困っちゃうよ」
「先輩には意外なタイプの子ですよね」
「確かに。あんな子は今まで避けてたかも」
「どうして知り合いに?」
「あー……成り行き?」
「成り行きで女の子と知り合いませんよ」
「そうかなあ」
「ふふ、先輩、面白いですね」
そんな会話をしていると、二人の席に、黒服のスタッフが近寄り、声をかける。
「こんばんは、ご新規さんのカップルさん」
赤髪に金色のメッシュが入ったポニーテールが目立つ彼女は、他の女性スタッフとは違い、パンツスタイルの黒服に身を包んでいる。
彼女は、床に膝をつき、二人より目線を下にすると、胸に手をかざし、頭を下げる。
「ワタシ、ここのマスターのトレイシーです。どうぞよろしくお願いします」
「お世話になります」
春も礼儀正しく挨拶を返す。すると、マスターを名乗った彼女は、にやりと口角を吊り上げて、間宮の隣に、ドカっと座ると、つけていた蝶ネクタイを外し始めた。
店員にあるまじき態度に、二人が固まっていると、彼女はヘラヘラしながら手をヒラヒラさせる。
「あ〜あ、いいよ。楽にして。敬語って苦しくて嫌になる。タメ口の方が距離も縮まっていい感じ。そう思わねえ?」
トレイシーの言葉に、固まっていた春は、ぷっと吹き出した。
「確かに。敬語は、マナーもあるし、人によって使い方も変わるから、ちょっとめんどくさいかも」
まさかのノるタイプ。
驚く間宮を挟んで、トレイシーは、春に向かって、身を乗り出す。
「だろ〜? 話のわかる子は好きだぜ。この後は暇?」
「えっ、あ、あはは」
困って笑う春。すると、トレイシーは、黙っている間宮の肩を叩く。
「おいおい、カノジョが困ってるのに、なんとも言わないのか? お前は!」
「えっ」
「か、カレシじゃないです、この人は先輩です!」
と、春が真っ赤な顔をして、否定すると、トレイシーはテーブルに肘をついて、ニヤニヤと二人を見比べる。
「ふーん? でも、二人で飲みに来てるってことは脈アリなんじゃねえの?」
言い終わったそばから、トレイシーは開けっぴろげにしていた足の片膝を打つ。
「よし、お前達にぴったりなメニュー、思いついた」
「この会話で?」
と、春が驚き、二人に見られながら、トレイシーは立ち上がり、片眉を器用に吊り上げて、得意顔をして見せた。
「天才だから、オレって」
この店では、マスターが客に合わせて、酒と料理を作る、コース形式になっている。客の注文は、おかわりのみしか通らない。つまり、客が楽しめるかどうかは、マスターの腕にかかっている。そんな極上のプレッシャーを、トレイシーは楽しんでいるようである。
「この天才が提供する酒と料理は一級品だぜ? 期待して待ってな」
「ありがとう」
春が言うと、彼女はウインクを飛ばして、手を振った。
「ばーい」
ヒールを鳴らしながら、颯爽と去っていく彼女を見送り、間宮は、春に耳打ちする。
「キャラ濃すぎない?」
「面白いとこですね」
春は間宮を見る。彼女の顔は、電飾に反射した壁の色に染まっている。
赤。赤。赤。
少し前に飲んだ酒が、頭を眩ませるようで、間宮は、春から視線を外した。
酔いのまわる耳の奥で、黒猫が鳴いている。
「先輩は、仕事辞めてどうしてたんですか?」
酒と料理が運ばれてきて、二人は晩酌を楽しんでいた。煌びやかな照明に包まれて、酒を飲む手も、軽食をつまむ手も止まらない。
ほろ酔い気分にたゆたいながら、間宮は春の質問に答える。
「運良く拾われてね、今は結構もらってる」
「えっ、いいなあ。どこです?」
「教えなーい」
「えー、なんでー?」
笑い合う二人を邪魔する存在は何も無い。しかし、話はどうしても、二人の共通認識である、居酒屋のアルバイトの方に向かって着地する。
「あの事件の後、大変だったんです。先輩が一番、仕事出来てて、みんな頼ってたから、お客さん少ないのにゴタゴタしちゃって」
春は、テーブルに肘をついて、カクテルグラスの縁をなぞりながら言った。
「あ、そう」
と、興味のない振りをしながら、自分の存在価値を確かめて、満更でもない間宮である。
「あの、嶋って人、覚えてます?」
「覚えてるよ」
間宮は頷いた。嶋という陰口が大好きな大学生は、間宮に、黒猫の動画をみせてきた男である。
「あいつ、あの後すぐにクビになったんですよ」
「そうなんだ」
自身がクビになった経緯を思い出し、内心、殴られ損に怒る間宮の横で、春は、声を抑える。
「……先輩には、ちょっと言いづらいんですけど」
と、前置いてから、彼女は続ける。
「嶋が、猫の動画、見せてきたじゃないですか。あれ、お兄さんが撮ったやつだったんです。あいつのお兄さん、虐待動画をネットにアップして、再生数稼ぎしてて。で、そのお兄さんが自殺で死んじゃったんです。ニュースにもなったんですけど」
「そう……あいつが」
ジャックが呪い殺した相手。そして、間宮がジャックに惹かれた理由。
「そしたら、嶋、次の日から病んじゃったのかな。訳わかんないこと言い始めて」
「訳わかんないこと?」
「男がどうの、黒猫の呪いがどうのって。私は、自業自得だって思ったから相手にしなかったですけど」
「黒猫の、呪い……」
何故だか、間宮の脳裏に、足に擦り寄ってきた黒猫が過ぎる。
ジャックがいる店に案内した黒猫。
店に入った途端、姿を消した黒猫。
ジャックから渡された木彫りの黒猫。
そして――――虐待され、死んでしまった黒猫。
「嶋のクビは、病気療養のための退職ってことになってるみたいです。ぶっちゃけ、みんな、クスリとか葉っぱを疑ってましたよ。ほら、あいつ、性格悪くて、嫌われてたでしょ?」
春の話は、間宮の耳から耳へ抜けていっていた。そんな彼の様子に気がついた春は、間宮の顔を覗きこむ。
「先輩?」
春の声に、間宮の頭の中に展開した想像が、奥に収束する。切り替わった映像に映った彼女の顔を見て、間宮は笑って誤魔化した。
「あぁ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「そうですね。こんなつまらない話はやめましょう」
うーん、と、春は大きく伸びをする。その拍子に、二人の膝があたり、間宮は、さり気なく自分の足を避ける。
「私、ずっと、飲みにきたかったんです」
その避けた膝に、春は、またもや自身の膝を寄せる。
「ここに?」
潤んだ瞳が近くにある。だが、間宮は、目を逸らす。
「違います」
それでも攻めてこようとする春に、耐えきれなくなった間宮は、ソファを立った。
「ち、ちょっとトイレ」
そそくさとボックス席を離れて、バーカウンターを過ぎ、男子トイレに入る。トイレの中は、白いタイルの中にワンポイントの黒が入っているだけで派手ではなかった。とりあえず、間宮は、時間稼ぎを含めて、用を足す間、先刻、頭の奥に畳んだ考え事を展開する。
―『男がどうの、黒猫の呪いがどうのって。私は、自業自得だって思ったから相手にしなかったですけど』
春が言う、嶋の言葉の意味を推測するのなら、ジャックが呪いを届けた時、嶋もそこにいて、兄が呪い殺される瞬間を目撃した、ということだろう。だから、男が、と、彼は言った。ならば、黒猫の呪いとは何なのか。
殺した黒猫の呪いが、ジャックを呼んだという意味か。
それとも――――黒猫が、ジャックになって呪ってきたのか。
ありえない話ではない。
実際、間宮は、ジャックに呪われて、動物に変身できる。この呪いはそもそもジャックの物なのだから、持ち主である彼が変身できないはずもない。
いや、だから何だというのか。
ジャックが変身した黒猫と、死んだ黒猫は別物だ。だというのに、脳裏を過ぎった黒猫の姿が離れない。
店に入って、いなくなった黒猫と入れ替わるように現れたジャック……。
「まさか」
「何がですか?」
「うぎゃあっ!」
男子トイレの前で、間宮は素っ頓狂な悲鳴をあげた。
「こっ、殺す気かあ!?」
と、モップを持った茉白に迫れば、彼女は、ぺろっと舌を出して、おどけたように言う。
「ごめんなさい、気配殺すの慣れてるので」
「そんなのに慣れるな!」
「あの人、カノジョさんですか?」
間宮の心臓が暴れているにも関わらず、茉白の興味は、既に違う方向へ向いている。
「ち、ちがうよ。元バイト先の後輩」
と、間宮が赤い顔を熱くして答えるのを、茉白は涼しい顔をして見る。
「なるほど。元後輩さん。じゃあ、狙ってるってことですね」
「だから、違うって!」
「そうですか? まあ、そうならいいです」
「いいって、何がいいんだよ」
否定したくせに、気になってしまう間宮である。食いついてきた彼に、茉白は両肩を竦めた。
「グース様が嫉妬してしまわれるから」
「は、あ、え?」
何だか聞いてはいけない気がした間宮は、話を変える。
「てか、ここ、ちゃんとした飲み屋じゃん」
「だからそうだって言ったじゃないですか」
「マスターも濃いけど良い人そうだし。ジャックの弟子になるのは諦めたってこと? ていうか、諦めた方が堅実だよ」
悪気もなく、ケラケラと笑う間宮の一方で。
「間宮さん」
見たこともないほどの無表情になった茉白が、彼と目を合わせる。
思わず、笑顔と呼吸をひっこめた間宮に、彼女は、無機質な表情のまま、続ける。
「人間の言動には意味があります。それは、動物やロボットのように、反射でも単純でもないのです。だから、考えて生きないといけませんよ。あなたは特に」
そっと間宮の肩に手を置いて。
「魔女様を相手にしてるんですから」
と、耳打ちを残した後、茉白は、にこりと微笑んだ。
「では、茉白ちゃんは定時なので。失礼します」
モップを持って、スタッフルームに消えた茉白の残像を、間宮はしばらく見つめていた。
考えなければいけない、片付けるべき疑問。それは山ほどある。だが、間宮という男は、先に進むことを躊躇い、曖昧なままの微睡みに浮かんでいたい性分なのである。
「お待たせ」
席に帰ってきた間宮を、春は笑顔で迎える。
「遅かったですよ、もう」
「ごめん、ごめん」
と言ったところに、トレイシーがやって来る。
「おふたりさん、食後酒は如何です?」
彼女が片手に持ったトレーには、鮮やかなピンク色で、さくらんぼが浮いたカクテルに満たされたグラスが二つ。
「わあ、かわいい」
喜ぶ春に、トレイシーは指を鳴らして、ウインクする。
「君の方がかわいいよ」
宝塚歌劇団の男役ばりの彼女の色気に、春は耳まで赤くする。
「な?」
と、定位置と言わんばかりに隣に座った彼女に確認された間宮は、曖昧に頷いた。
「はあ」
「はあ、じゃなくて言えって言ってんだよ!」
「ぐえっ」
首にキメられたチョークスリーパーに蛙のような呻き声をあげる間宮。ギブアップ、と、腕を叩けば、トレイシーは楽しげに笑い、ソファにふんぞり返って、足を組み、言った。
「ま、一番かわいいのは、どうしても決まってるけどな」
「へえ、誰のこと? 彼氏さんとか?」
ノリの良い春が尋ねる。
トレイシーは頭を振り、答える。
「オレの妹」
示し合わせたようなタイミングで、ホールの照明が落ち、ステージが明るく照らし出される。
「オレの女神、プリシラさ」
紫色の幕が開く。
ライトに、シルバーのスパンコールドレスが輝く。
スローテンポのバラード調の伴奏が奏でられる中、センターに立つ歌手、プリシラが、スタンドマイクに触れる。
彼女の、真っ赤で艶のある唇から溢れ出した歌声は、テレビによく映る歌手たちのそれとは比べ物にならない。歌手志望で、たくさんのアーティストの歌声を聴いている春が、うっとりと聴き惚れているほどである。
一曲を歌い終えたプリシラが礼をすると、会場のあちこちから賞賛の声が飛び交い、拍手に包まれる。その中を、彼女は、客たちに手を振りながら花道を歩き、間宮たちの前で足を止めた。
ヘアアレンジをした金髪。垂れ目の中の青い瞳に、潤った唇の横にあるホクロ。
プリシラは、六十年代の海外女優を思わせる美貌の持ち主だった。
そんな彼女と目が合った気がして、一瞬、ドキリとした間宮だったが、迎えに行ったトレイシーに抱きついてステージから降ろしてもらったプリシラを見て、自分の勘違いをすぐに悟った。
「パピー、お仕事サボっちゃダメよ」
「キティのことが気になっちゃったんだ」
「仕方のないパピー!」
トレイシーは妹を抱えたままソファに座り、プリシラは姉の膝の上に座っている。鼻先が触れ合う距離で、二人は会話をする。
「今夜も最高にきれいだぜ」
「今日も昨日も明日も、私はいつだってきれいなのよ」
「さすが、オレのキティ!」
本当に姉妹なのか疑わしい距離感である。
先刻までノリが良かった春も、引き気味で二人を見つめており、ずっとノリきれていない間宮は、ドン引きを隠すこともしない。
二人の視線に、やっと気がついたプリシラは、春と間宮を見比べながら、指先を繰り返し折り曲げて、挨拶のハンドサインをする。
「あら、かわいいおふたりさん。今夜が初めてね」
それから、ふふっと肩を竦め、手で微笑んだ口元を隠す。
「一度きたお客様はみんな、お友達よ。知らない人がみてると思うと緊張しちゃうの」
「ま、客はキティと話して緊張してるけどな」
「あら、どうしてかしら?」
「そりゃあ、お前が世界一かわいくて美しいからだよ」
再び、キャッキャウフフとイチャつきはじめる二人。
「仲がよろしいようで」
間宮は、呆れながら、ぼそりと呟いた。
そんな間宮と違って、春は、カクテルを飲みながら、二人を眺めて言った。
「それにしても、二人ってそっくり。もしかして双子?」
「そうよ。よく分かったわね」
「やっぱり! 目の色も一緒」
「オレたちの宝物さ」
美形の双子は嬉しそうに、互いに頬を寄せた。
垂れた目。瞳の青色。左右非対称のホクロの位置。
並ぶと確かに、二人の顔は、鏡で反転した同一人物のようであった。
「あなたとは、またお話したいわ。約束してくれるかしら?」
気を良くしたのか、プリシラは、春に握手を求める。ドレスと揃いの、シルバーのスパンコールで飾られたハーフグローブに隠れた華奢な手を、春は握った。
「もちろん!」
「じゃあ、また、お会いしましょ」
プリシラは、ふふ、と、微笑んで、間宮にも流し目を送る。
「ね、坊やも」
坊や、という言葉の香り。
プリシラの首に巻かれたチョーカーの、その下が気になりながら、間宮は頷いた。

間宮と春が地上にでた時、暗闇を湛えた空には小さな月が浮かんでいた。自粛ムードの影響で、街中は閑散としているが、それでも、星屑は雲の布団に隠れて、顔も見せようとしない。曇る宵の合間に降り注ぐ冷たい月光が、冬の空気を更に冷やしている。
「久々に飲んだ〜」
「また飲みに行きましょ!」
酔いに包まれた二人は、寒さをものともせずに、住宅街を歩いている。春を家へ送り届ける最中である。
「にしても、俺みたいなおじさんといて、春ちゃんは平気なの?」
冗談混じりに、自分を卑下する間宮に、春は頭を振る。
「平気ですよ。もうずっといたいくらい」
と、春から赤く染まる頬を向けられても、間宮は、彼女を見ずに、はぐらかす。
「またまたぁ」
「何でですか〜」
ケラケラと笑った春は、ふと、真面目な表情になり、足元に目線を落とす。
「もう私、後輩じゃないですよ」
間宮は、猫の鳴き声を聞く。
捨てられる。
置いていかれる。
積もり積もった愛への不信感が、彼に警告する。
だから。
「じゃあ、友達だね」
と、牽制することが。
「ねえ、連絡先、交換しませんか?」
と、寂しげにされた春の提案にのることだけが、間宮が、彼女に返せる精一杯の誠意であった。
「じゃあ、今日は水飲んで寝るんだよ」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあね」
アパートの前で、間宮は春に背を向ける。
「先輩!」
その背を引き止め、振り返った彼に、春は、もじもじと両手を擦りながら言う。
「あ……お、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
不甲斐ないよなぁ。
間宮は、自分自身に思う。
そういう、踏み出せない優柔不断さが、付き合っていた彼女を怒らせ、黒猫と共に捨てられてしまったのだ。そう分かっているのに、やはり、踏み出すことが出来ない。
不甲斐ない。
間宮は、周囲に人がいないことを確認し、マスクを外すと、タバコをくわえ、火をつける。
肺を確実に汚していく毒を実感する度、間宮は、綺麗ではない自分を確かめ、安心感に包まれる。
綺麗ではない人間だから、無理に真っ直ぐ生きなくていい。
正直に生きなくてもいいのだ、と。
それは、他人にも自分にも。

「見〜つけた!」

突然、響いた声に、間宮は周囲を見渡す。そして、背後に、白い鳥型の覆面マスクをした二人組をみとめた時、ぞっと冷や汗が噴き出した。
間宮は、地面に吐いたタバコを踏み潰しながら、駒鳥たちを観察する。
「グースのファミリア、間宮朔」
梟面が言う。だが、その声音は、先日、間宮を襲撃した少年のものではない。性別不明な梟面の隣で、屈伸運動をしている駒鳥も、鳩のような面をつけている。
「こんな真夜中に一人で歩いて。不用心? それとも、自信があるのかな!」
屈伸しながら鳩面が言った。
次の瞬間。
彼女がいた場所のアスファルトが、跳躍の力に耐えきれずに抉れる。
それを間宮が理解した時、鋭い蹴りが、横っ面に叩き込まれていた。無抵抗のまま、吹っ飛んだ勢いで、電柱に背骨を打つ。
痛いどころの騒ぎではない、呼吸も出来ない激痛に身悶える間宮を無理やり起こして、鳩面は顔を近づける。
「お前さあ、自分の立場、分かってないよね」
咳をして答えられない間宮に、彼女はレンズの奥の目を、苛立たしげに歪ませた。
「お前、もう、魔女に片足突っこんでんだよ?」
息も絶え絶えに、間宮は、おもむろに、自分の襟首を掴む手を掴む。
「……なこと」
「あ?」
「そんなこと、知ってる」
間宮の考えとピアスの魔力がリンクする。しかし、間宮は変身できなかった。代わりに、視界がぐるぐるとまわり、脳が内側から破裂するような痛みに襲われる。
「っ!」
悲鳴にならない息を吐き、ぐったりと手を離した間宮に、鳩面は頭突きを食らわせる。
「うっ」
「お前、逃げようとしたな」
乱暴に手を離せば、座りこんだ間宮に向かって、足を持ち上げる。
「姑息なことしてんじゃねーよ!」
左胸に重い蹴り。
間宮は苦しさのあまり、胸を押さえて倒れる。
死んでしまう、いや、死んだ方がいっそ楽だ。
そんな彼に、容赦なく追撃しようとする鳩面を、梟面が制する。
「マリア、その辺にしろ」
「だって、こいつムカつく!」
「私たちの任務は、ファミリアの捕獲だ。殺したら管理人に叱られる」
「でも、一発くらいなら問題ないでしょ!」
梟面の言うことを聞かず、うずくまる間宮に、足をあげる鳩面。
「マリア!」
と、再び、梟面が彼女の名前を呼んだのは、同じ理由ではなかった。
どこかからか現れた蝶の群れが、次から次に鳩面の体に止まる。
「なっ何これ!」
予想外のことに戸惑いを隠せない鳩面。思わず、止まった蝶たちを振り払おうとしたその時、蝶たちの羽が光り輝き、爆発した。
「ぎゃあぁぁっ」
黒煙が彼女を包む。有機物が焦げる独特な異臭に、間宮は鼻を覆って、縮こまった。
「マリ」
あ、と、梟面の声が消える。その喉を掴みあげる腕には、マンダラにペイズリー柄が絡み合うタトゥーが敷きつめられている。

「つ〜かまえた」

と、おどけた調子で、ジャックは黄色い瞳を輝かせる。
「サクばかり狙ってさ、僕を嫉妬させる気?」
「っ、は、離せ、っ!」
宿敵の手を掴み、抵抗する梟面だったが、呆気なく、その顔を守っていたマスクを引き剥がされる。マスクの中から長い髪が落ち、風に震える水面のように揺れる。
「やあ、女の子だったんだ」
キッとジャックを睨む少女。ジャックはその頬を、空いた片手の指先で撫でたかと思うと、彼女の首を両手で締め上げた。苦しみに、口や目を開き悶絶する彼女に、ジャックは息を吹きかける。
真っ黒な煙を纏ったそれは、呪いが気化した姿そのものである。しかし、それは小瓶に詰められた誰かの呪いではなく、ジャックの体内から出た呪い。
魔女狩りを恨み、願いを叶えようとする強い気持ちが呪いに転じたものである。
「君の呪いに期待してるよ」
呪いは少女の体内に吸収される。
ジャックが手を離し、地面に倒れた彼女は、間もなく痙攣をはじめる。
「うぐっ、うわあああああぁ、ぁ、ぁ」
喉を焼くような相方の絶叫に、鳩面が、黒煙の中から飛び出す。
「ジュリア!」
半焼したマスクから覗く焼けた片目を吊り上げ、猛烈な瞬発力で、一気に、ジャックとの距離を詰める。
「お前ぇぇぇっ!」
渾身の力で振り下ろされたかかと落としを、ジャックは、いとも簡単に避ける。
「ちょっと落ち着いて」
カンッ、と革靴の踵が鳴る。すると、鳩面が着地した部分のアスファルトが破られ、地中から、薔薇の花を伴った茨が、彼女を縛り付けた。
「こんなのっ、くそっ、くそ!」
茨を肌に食いこませ、火傷から血を流す少女の前に、ジャックは立つ。
「お前なんて死んじまえ」
唾を吐くように、呪詛を吐かれるが、彼は、両肩を竦め、いつものように軽薄な笑みを浮かべた。
「僕もそう思ってるよ。だけど、そんな君に、僕は頼み事があるんだ」
「聞くかよ」
「そう。なら、彼女には一生、僕の為に呪いを捧げてもらおうかな」
と、痙攣し続ける相方へ体を向けたジャックの背に、少女は必死の形相を浮かべ、引き止める。
「やめろ!」
「自分ばかり頼みを聞いてもらおうなんて、それは我儘すぎやしないかい?」
黄色い瞳が、少女を見透かす。
少女は、もがくのをやめて、膝をついた。
「わかった、聞く、聞くからジュリアをもう傷つけないで……」
「よろしい。なに、頼みは簡単なことさ」
ジャックも少女の前で膝をつく。人差し指で彼女の顎を掬いあげ、光が消えた片目を見つめる。
「管理人さんに、隠れんぼはもう終わりだと伝えるんだ。まだ継続するつもりなら、こちらから探しに行くとね」
少女は、ゆっくりと頷いた。正義と引き換えに、茨の蔦から解放され、少女は、倒れる相方に駆け寄る。
相方は、ジャックの呪いを受け、苦しみの表情のまま痙攣し続けている。忘れ去った忌むべき記憶を掘り起こされ、呪いに至る種を撒かれているのだ。
それは、少女にはどうしようもない状態であった。
「お前、いつか殺すからな」
相方を抱えた少女と、その恨み言は、空間に現れた白い靄と共に消え去った。
騒ぎが、冷えたアスファルトに染みていく。
ジャックは、ふー、と細く息を吐くと、マスクをつけ、コートを正してから、うずくまる間宮の元へ向かった。
「大丈夫?」
起き上がるのを手伝ってもらいながら、間宮は、痛みに呻く合間に、ジャックに尋ねる。
「うっ、な、何でここが?」
「僕は何でも分かる。ほら、立って。帰るよ」
「待った、ちょっと、気持ち悪い……」
急な運動と激痛が、アルコールを全身に届けたようだった。
間宮は、ぶつかった電柱に手を置いて、口から滝を零した。
「あーぁ。大丈夫じゃないじゃん」
「ごべん」
と、間宮は、吐いた影響で鼻水まで垂らしながら謝る。しかし、冷静なジャックは、特に共感を示すでもなく、間宮からスマホを拝借し、近くのコンビニを検索する。
「近くにコンビニあるみたい。とりあえず、水飲んだ方がいいでしょ。ちょっと歩くよ」
「はい……」
そういうわけで、二人は住宅街を抜け、ナビ通りにコンビニを見つける。
ジャックは酔っ払いを手前のバス停のベンチに座らせると、今度は、間宮の財布を勝手に拝借し、ペットボトルの水を買ってきた。
「はい」
「ありがと」
ジャックから蓋の開いたペットボトルを受け取り、冷えた水を胃に流しこむ。何かの拍子で切った口の中の傷に滲みるが、頭と体に籠った熱が下がり、気分が落ち着いていく。
間宮は、ため息をつき、鼻水をすする。
隣に座ったジャックは、足を組んで、タバコに火をつける。
痛む傷。バス停のベンチ。タバコを吸うジャックと吸えない自分。
「……そういえば、二回目に会ったのもバス停だったな」
「うん」
「怪我してるのも一緒」
「確かに。面白い」
「一回目は二年前だった」
「そんなに経つんだ。あっという間だったね」
「あんたみたいな人間離れしたやつと肩を並べて座ってるって、二年前の俺が知ったら驚くだろうな」
「一ヶ月前の君は?」
「……あんたのことを書きたいとは思ったけど、やっぱり、こうなることは想像もしてなかった」
「でも不思議だね、君は僕といる」
楽しげに笑いながら煙を吐いて、ジャックは間宮を見る。
黄色い瞳に黒い瞳孔。緩くかきあげた黒髪から垂れた毛が数本、目にかかっている。
「なあ、ジャック」
彼を呼んで、間宮は目を伏せた。
「……あんたを見てると黒猫を思い出す。あの、死んだ黒猫」
万年床の上で毛繕いをする黒猫。
餌をねだる黄色い瞳。
たふたふと畳を叩く黒い尻尾。
いつも帰りを待っていた猫。
耳を切られてもなお、威嚇をやめなかった勇敢な、猫。
「あの時、店まで案内してくれたのは黒猫だった。だけど黒猫は何処かに消えて、代わりにあんたが現れて、あんたはいつしか、俺の隣にいる――――ジャック」
黒猫が頭の中を駆け回り、消えない妄想に囚われる。
「あんたが……いや、あんたは、あの黒猫なの?」
間宮の問いに、ジャックは、要領を得ないと言いたげに、形の良い眉をひそめる。
「僕が黒猫だったとしても、もう、君の前では黒猫にならない。違うとしても、黒猫は戻らない。知ったところで無意味だろう」
「そうだけど、だけど、知りたいんだ。どうして、俺を捨てないで帰ってきていたか。どうして、こんな俺を、また傍に置きたいと思ったのか」
間宮は言った。
自分が、荒唐無稽な質問をしているということは、もちろん承知している。だが、どうしても、間宮はジャックに答えてほしかった。知りたいのは、答えの中の嘘ではない。ジャックが自分に嘘を向けているかどうかだった。
「僕が黒猫だったら?」
間宮は頷く。
ジャックは思案顔になり、タバコをふかす。
ぷかぷか、ぷかぷか。
煙を何度か浮かばせて、彼は答えた。
「気に入ってるからかな、君のこと」
どうして貴重な呪いを使ってくれたのかと問うて、返ってきた答えと同じ。だが、使い回しの言葉だからこそ、そこには嘘も下心もないように、間宮は感じた。彼にとって、それだけで、十分すぎる答えであった。
瞬きをした間宮の目から涙が落ちる。それを見て、ジャックはギョッと身を引いた。
「泣いてるの?」
「ごめん」
グスグスと鼻を啜りながら、間宮は、溢れて止まらない涙を、手のひらや甲で拭う。
「もうさぁ、俺、こんなのやめたいよ。誰かを疑うのも誰かに気を遣うのも、やめたい。誰かのせいとか、呪いだの愛だの考えないで、気ままに生きたい」
涙と共に心が零れる。
「サク」
濡れる間宮の頬に、ジャックの手のひらが触れる。
「苦しかったね。いつまでもいつまでも愛に縛られ、呪いに燃やされ続けて」
彼の手の冷たさが、声が、心地よく、間宮は目を閉じた。
「許さなくていい。呪ってしまえばいい。君に、人間の理想を押しつけるやつらを、みんなみんな、呪ってやれ。彼らは無責任だ。君に愛を与えて、雁字搦めにする。君にとって、愛は呪いなのに」
閉じた瞼から、それでも絶え間なく流れる間宮の苦しみを、ジャックは親指で拭う。
「愛の鎖から解き放たれたら、きっと、君は楽になれる。その手伝いを、僕はしたいんだよ」
ジャックが、そっと抱き寄せれば、間宮は、彼の肩に顔を埋め、体を預ける。
「大丈夫。君はずっと僕の物だよ、サク」
呪いのようなその言葉が、彼の甘い匂いに融けて、間宮は、夢の中へ誘われていった。

5 末裔

間宮が覚醒すると、目の前には、こちらに体を向けて、眠っているジャックがいる。周りは白く明るくぼやけて眩しい。その中でハッキリと見えるジャックの姿を、間宮は、じーっと眺める。
下ろされた前髪が顔にかかって、普段より幼く見える彼。パジャマの襟から覗く、首にある赤い薔薇のタトゥー。左側の鎖骨の下には、左胸に刻まれているであろう柄の端が見える。
見つめられても起きないジャックに、間宮はそっと手を伸ばす。黒い毛に覆われた猫の前足、その肉球で、彼の薄い唇に触る。それでも、ジャックが目を覚ます気配はない。
疲れているのだろうか。そうだとしたら、疲れさせてしまったのは自分だろう、と、間宮は反省する。
意味不明な質問で試す真似をしてしまった上に泣き、そのまま眠りについてしまったのだ。
自らの行動を省みて、間宮は、体中の血の気が引いていくのを感じる。
起きたジャックは怒り出すかもしれない。怒りはしなくても、間違いなく、嫌味を言うだろう。寝ている間に何か買ってきた方がいいだろうか。ジャックが好きな物ってなんだろう……。
「苺のタルトがいいな」
突然、答えが返ってきて、間宮の尻尾はタヌキのようにボンボンになった。
「お、起きてたの?」
「口に出てたよ、もう。うるさくて起きちゃった」
大きな欠伸と伸びをして、前髪をかきあげる様は、どちらが猫か分からない。
「ごめん……なんかいろいろ」
首を縮めて謝る間宮に、ジャックは肘枕をしながら、空いた片手で、黒猫の額をくすぐる。
「僕は苺タルトが好きだよ」
と、黄色い目を細められれば。
「あ、買ってきます、はい……」
言われるがまま、なされるがまま。
間宮は目を細めて、ぐるぐると喉を鳴らした。

「それで茉白ちゃんに連絡してきたんですね」
「背に腹はかえられん」
間宮と茉白は、ケーキ専門店の店内にいる。店内は、自粛期間中だというのに、若い女性客で混みあっている。
それもそのはず、この店は、かわいいデザインのケーキを多く揃えており、今、SNSで若年の女性層を中心に大人気なのだ。と、茉白から、つい先程聞いた間宮である。
ジャックの好物が苺タルトだと知ったはいいものの、ケーキのような洒落たデザートをあまり摂取しない間宮は、急遽、そういったものに詳しそうな茉白に助けを求め、現在いるケーキ専門店を紹介された。しかし、女性人気の高い店に、男一人で乗りこむ勇気を、彼は持ち合わせていなかった。
「不審者に見られるなら、年の差カップルに見られた方がまだマシだ」
会計を済ませ、店員がテキパキとケーキを箱詰めする姿を見つめる間宮。一方、茉白は、可愛らしい店内をスマホのカメラで撮影し、その何倍も自撮りに勤しんでいる。
「今どき、ケーキ好き男子なんて普通ですよ?」
言いながら、彼女は、自撮り写真の加工に夢中である。
「ケーキ買ってやったんだからいいだろ。しかも三つも!」
ジャックのおかげで貯金に潤いがある間宮だが、いかんせん貧乏性である。予想以上の出費を、つい不安に思い、口調が荒くなる彼に、茉白はスマホから顔を上げないまま、僅かに肩を竦めた。
「お店の双子さんにお土産です。住みこみで働かせてもらってるので」
「……意外と礼儀正しいよね、茉白ちゃん」
「意外とってなんですか!」
スマホをいじりながらにも関わらず、茉白の鋭いパンチが間宮の腰にヒットした。
「うっ!」
と、彼が体を丸めたと同時に、箱詰めが終わり、店員から差し出された箱は、茉白が笑顔で受け取った。
「さささ、早く帰って、ケーキ食べましょ〜!」
店から出て、ウキウキしながら言う茉白に、間宮は顔をしかめる。
「うちで食べるの?」
「当たり前じゃないですか」
「当たり前じゃないでしょ」
「何でですか?」
「双子にお土産なんだから、持ち帰って三人で食べなよ」
彼の最もな言い分に、茉白はツインテールの黒い毛先をいじりながら、もじもじした。
「今日は定休日で、お二人はデートなんです。帰りは明日かもしれないし……」
「デート」
間宮は、昨晩の双子を思い出す。
互いを褒め合い、プリシラを膝にのせて喜ぶトレイシー。姉妹の割に、些か距離が近いように思われた。だから、確かに、二人の邪魔をするのは避けたいという茉白の気持ちは、間宮にもよく分かる。
「でも、ジャックが嫌な顔する」
「いくらグース様でも、茉白ちゃんの来訪に喜ばないはずないですよ」
「すげー自信だな!」
間宮のツッコミが決まった。
「茉白ちゃん」
ふと、後ろからゆったりした女性の声がかけられる。
二人が振り返ると、そこには、ドレスのような赤いロングコートに黒の毛皮のショールを両肘にかけ、まるで海外セレブのようなファッションをした、プリシラがいた。
「プリシラさん!」
驚く茉白に、プリシラは、かけていたボストンサングラスを外して微笑む。
「こんなところで会うなんて奇遇ね」
彼女は笑いながら、間宮の方へ碧眼の流し目を向ける。
「昨日ぶりね、坊や」
蠱惑的に、手の指先だけを折り曲げて挨拶のジェスチャーをするプリシラの首には、今日もチョーカーがついている。
「は、はい、どうも……」
何故、男という生き物は、隠れた部分を見たくなるのか――――。
間宮はドキドキしながら、軽く会釈を返した。
プリシラは人差し指を曲げ、顎の先に置き、間宮と茉白を交互に見比べる。
「茉白ちゃんの名刺を持ってきたみたいだから、知り合いだとは思っていたけど……あまり火遊びはダメよ?」
勘違いも甚だしいプリシラの発言に、茉白が、漫画のように「ぷーっ」と吹き出し、手を振った。
「やだ、プリシラさん、違いますよぅ。茉白ちゃん、年上は三つまでって決めてます!」
茉白の言葉に、間宮はマスクの中で唇をとがらせる。
「おじさんで悪かったな」
「おじさんだなんて言ってません〜。そうやって卑下してると、だんだんその通りになっちゃいますよ?」
ケラケラと明るく笑う茉白を、睨む間宮。
そんな二人を見て、プリシラは、楽しげに目を細めた。
「ふふ、仲良しさんなのね」
その時。
「キティー!」
と、走ってくる者がある。赤色に金のメッシュが目立つ髪。覚えしかない髪色だが、プリシラに抱きついたのは、ポニーテールが似合う彼女ではなく、ソフトモヒカンと刈り上げが似合う、マスクをしていても美形と分かる男だった。
「どっか行ったって心配したぞ!」
「ごめんね、パピー。二人を見つけたから、つい離れちゃった」
「ほんとだ。マシュに昨日の色男じゃねーの」
間宮は、知らない彼にそう声をかけられ、怪訝そうに顔を顰めた。そんな間宮に、彼は、プリシラと揃いのサングラスを外して笑う。
「なんだよ色男! 昨日会っただろ、トレイシーだよ」
「え、マスター……? は、え?」
間宮の頭の中は大混乱である。
確かに、目の前の彼は、赤い髪に金メッシュ。プリシラと同じ垂れ目の中に青い瞳があり、互いを呼び合う愛称も同じである。だが、そう、間宮が知っているトレイシーは、女、なのである。
混乱が妙な空気を生む。
それを打ち消すように、茉白が声を上げた。
「そうだ! お二人にケーキ買ったんです。よかったらこの後、どうですか?」
「買ったのは俺」
「「ケーキ!」」
プリシラと彼の声が重なる。
「素晴らしいな!」
「素晴らしいわ!」
二人は笑顔を見合わせ、同じタイミングで肩を竦めた。
「じゃあ、店開けて待っとくぜ。バイクに四人は違反だからな!」
「サーカスみたいになっちゃうものね」
話が決まれば早いらしい。二人は互いに腕を組んで、歩いて行ってしまった。
二人の背中と、二人の、あまりにも常人ではないオーラに二度見する通行人たちの様子を、間宮は呆然と見つめるしかない。まだ頭の中は大混乱である。
「じゃあ、茉白ちゃんたちは歩いていきますか」
「いや、ちょっと待って?」
何でもないように歩き出す茉白を、間宮は引き止める。
「何ですか?」
「マスターって女の人じゃなかった?」
間宮の問いに、茉白は、大きな目を一瞬、斜め上にやり、にこりと笑った。
「サプライズです」
「なにが?!」
「ささ、行きましょ〜」
「なにがサプライズなの!」
結局、茉白から答えが聞けないまま、間宮は、昨晩のように地下への階段を下り、ホールへの扉をくぐる。
店休日のため、ホールの照明は落とされていて、二人がいるバーカウンターだけが明るい。
カウンターの中で、おやつタイムの準備をしていた彼が、入ってきた茉白たちに気がつき、軽く手を上げた。
「よー、思ったより早かったな。走ったのか?」
「ケーキは無事です!」
と、茉白がケーキの入った箱を差し出せば、彼は、にやりと口角を吊り上げながら、それを受け取る。
「そりゃよかった」
「何のケーキを買ったの?」
待ちきれないプリシラが箱を開ける。
中に鎮座していたケーキたちがライトに照らされ、キラキラと輝き、三人は歓声をあげた。
「茉白ちゃんはショートケーキです」
「お前、生クリーム大好きだもんな。キティは?」
「私は、このガトーショコラにしようかしら」
「セクシーなキティにはぴったりだな!」
「じゃあ、トレイシーさんはチーズケーキですね」
「無邪気なパピーにはぴったりね!」
わいわい、わいわい。
三人はケーキに夢中である。
店に来れば謎が解けると思い、茉白についてきた間宮は、ついに我慢の限界を迎えた。

「ちょっと待ったー!」

騒ぎが一瞬にして静まる。
三人の視線を浴びながら、間宮のシャウトは止まらない。
「サプライズって何なの、茉白ちゃん! てか、マスターは女の人でしたよね?! 何でみんな俺になんも教えてくんないんだよ!!」
叫び終わり、間宮の息切れが響く中、吹き出したのはトレイシーを名乗る彼だった。
「何事かと思ったらそんなことかよ」
「性別が一日で変わるのはそんなことじゃない!」
「まあまあまあまあ」
カウンターから出てきて、間宮の前に立った彼は、面倒そうに頭を掻いた。
「あー、つまり……こうだったらいいんだろ?」
その流れで髪を掴み引っ張ると、ズルズルと髪が伸びていき――――気がつけば、身長も体格も変化して、彼は彼女になっている。
唖然とし、固まる間宮に、トレイシーは長い髪を払いながら、ふん、と鼻を鳴らす。
「魔女は性別に囚われない。常識だぜ?」
「ま、魔女……?」
「だから言ったじゃないですかぁ、考えて生きなきゃいけませんよって」
カウンターに肘をついた茉白も、得意げな表情をして、間宮を見ている。
「だ、だったら余計に、茉白ちゃんはジャックの弟子を諦めたんじゃないのか!? だからこの二人に世話になってるんだろ?」
「おふたりには魔女様のいろはを教えて貰ってるんです。グース様を理解するためにも」
「いろは?」
「あいつは言葉足らずの隠したがりだから、教えるのには向いてない」
「心当たりがあるでしょ?」
そう畳かけられてしまったら、間宮は黙りこむしかなかった。
ジャックについて何も知らない状況は、依然として変わりがない。それは、間宮が踏み出せない性分だからだが、ジャックが、自分のことについて、あまりに語らなすぎるからでもあった。
「ほら、今日は特別だ。オレたち、現役魔女の双子が教えてやるよ。座りな」
トレイシーは男に戻り、間宮をカウンターチェアに座らせる。隣のプリシラにじっと見つめられ、間宮は、ついドギマギした。
「グースさんはあなたにどこまで教えたかしら?」
「ど、どこまでって……」
ジャックから教えられたことは少なく、すぐに思い出せる。
「母親がマザーグースで、死に際に呪いをかけられて不死身ってことくらいしか知らないです」
「えっそうなんですか!?」
驚きで大きな声を出した茉白は、あっと口を隠すと、照れを誤魔化すように座っている椅子ごと、くるくる回った。
そんな茉白を横目に、間宮は双子を見遣る。
「マザーグースってどんな魔女だったんですか? ジャックが駒鳥に……魔女狩りに狙われてる理由も、そこにあるんですよね?」
カウンターの中にいるトレイシーが、チーズケーキを口に運んだフォークで小皿を鳴らした。
「エリザベスの話をするなら、魔女の成り立ちから話さないといけないな」
「絵本で見ていきましょ」
と、プリシラが、どこかからか大判の絵本を取り出し、カウンターに置く。
絵本には、幼児向け絵本にありがちな、色の濃い可愛らしい絵が描かれ、丸みを帯びたフォントで『ろくにんのまじょ』とタイトルがある。
「え、絵本?」
困惑する間宮に、プリシラは真面目な表情で頷く。
「えぇ。分かりやすいでしょ?」
「何か文句あんのか?」
トレイシーに凄まれてしまえば、間宮に『聞かない』という選択肢はないのである。

むかしむかし、あるところに、六人の娘たちがおりました。
娘たちは、母親が勧めるままに、ある一匹の悪魔と契約し、六人全員が魔女になりました。
五人の姉たちが、人間と交わり子どもを産むなか、末の妹のメリーだけは違いました。
メリーは魔女の純血を守るため、契約をした悪魔と交わり子どもを産んだのです。
子どもは、魔女と悪魔の血を継いで、魔女でもないのに、それはそれは強い魔力を持っていました。
メリーは子どもに言いました。
『お前の子ども、そのまた子ども、ずっとずっと伝えていくんだ。私たちは人間どもと交わらない。魔女の純血を保ち、それを誇りにして生きていくように、と』
メリーの言いつけ通り、彼女の子ども、そのまた子ども、そのまた子どもと、魔女の純血は受け継がれていきました。
そうして、エリザベスが生まれました。
メリーの血筋の末裔として。
エリザベスは傲慢で嘘つき、おまけに、薮をつついて蛇を起こすのが好きでした。
だから、エリザベスは悪魔と契約し、魔女になりました。
魔女の純血と悪魔の力を持った彼女は最強でした。
そして、彼女は非道でもありました。
子どもたちに歌を与え、愛に夢に希望に満ちた心に呪いの種を撒いても、何にも思いません。
そんなエリザベスが、人間の男と交わり、息子を生んだのかはどうしてか。
それは誰にも分かりません。
魔女になった時のように、薮で眠る蛇を起こしたかったのかもしれません。
それとも、愛に目覚めたのでしょうか?
なんて、これ以上は口に出すのを止めましょう。
この話は「これでおしまい」

プリシラが表紙を閉じると。
「ブラボー!」
と、それはもう盛大な拍手をおくるトレイシー。
「ありがとう」
プリシラは片割れの彼にウインクをした後、間宮へ体を向けた。
「グースさんが狙われるのは簡単よ。あの人は、末裔の中でも最も濃い純血をひいているの。私たちも血でいえば、あの人よりずっと弱いわ」
茉白とプリシラが食べ終わった小皿を片付け、紅茶が注がれたティーカップを、カウンターに座る三人に配りながら、トレイシーも口を開く。
「まあ、末裔っていってもいろいろいるが……魔術が使える末裔は、この国にもたくさんいる。魔女もな。そいつらが全員、束になってかかっても、あいつには敵わない」
抜かりなく砂糖の入った瓶も置いて、トレイシーは楽しげに笑った。
「厄介なやつに好かれちまったな、間宮、だっけ?」
間宮は頷く。
その時、はーい、と手を挙げたのは茉白だった。
「その人間の旦那さんってどんな方なんですか?」
茉白の質問に、双子は同時に頭を振る。
「噂も聞かなかったわ」
「リジーの姿もしばらく見なくなったしな」
エリザベス・グースの配偶者。言い換えれば、ジャックの父親である。
ジャックは、父親の存在を無いものとしていた。そして、彼が浮かばせた在りし日の情景には、母と子の二人だけ。
「マザーグースは強盗に殺されたって、ジャックは言ってた……」
思わず、間宮は、ジャックが見せてくれた記憶を零す。
「それは変ですね。だって最強の魔女なんですよ? 人間に殺されるなんて矛盾してます」
茉白が腑に落ちない表情を浮かべる横で、双子もまた同じように眉をひそめている。
「強盗?」
「噂と違うわ」
「噂?」
聞き返す間宮に、トレイシーは肩を竦めた。
「リジーは魔女狩りにやられて、分霊箱を盗られたって聞いた」
また聞いた事のない単語に、今度は間宮が頭を搔く。
「分霊箱って?」
「はいはい! 茉白ちゃん、説明できます!」
元気に手を挙げ、茉白は続ける。
「分霊箱は、魔女様が分けた魂を入れておく物です。箱といいつつ、大事な物や生き物であれば何でもいいみたいです。自身が倒されても、分霊箱があればまた復活できる、という代物なのです!」
双子から拍手をされ、茉白は得意気になるが、一から分かっていない間宮は、更に追撃する。
「じゃあ、その盗られた分霊箱って何なんですか?」
「ダメです、間宮さん! 分霊箱は誰にも教えちゃいけないんですから」
「まあ、親愛の証に教えることもあるけれどね」
ティーカップについたワインレッドの口紅を拭い、その指で唇に触れながら、プリシラは間宮を見る。
「人間も、互いの愛を死に誓うでしょ?」
何か胸が熱くなり、紅茶へ目を落とす間宮。
そんな彼を知らず、茉白が呑気な声を出す。
「あ〜、それってすごくロマンチックですねぇ。茉白ちゃんもそういう人ほしい〜」
「焦らなくても、運命の人は誰にだっているわ」
ガールズトークに花が咲く二人を置き、間宮はトレイシーに質問の続きをする。
「分霊箱を盗られたらどうなるんですか?」
「さあな。何も分からないままさ」
トレイシーはセットした髪を気にしながら、続ける。
「お前のご主人様は最近になって現れたんだ。ていっても、もちろん百年は経ってるけどな。あいつが口を割らない限り、何がどうなったかは永遠に謎だ」
謎。そう、結局、謎だ。知ろうとしても、手をすり抜けて、隙間をかいくぐっていく。柔らかくしなやかに、温かさだけを残して、遠くへ行く。まるで猫のように。
黙りこんでしまった間宮の顔を、トレイシーが覗きこむ。
「おい、色男! そんな糞がつまったみてーなカオするなよ。あいつに嘘でもつかれてたか?」
「……子どもの記憶なんて曖昧なものですから」
「そう納得してるのに、目が死んでるぜ」
睨むように見上げられても、トレイシーは楽しげである。手を叩き、カウンターに肘をつけば、空気がガラリと変わるようだ。
「頭使ったな! そうだ、マスター特製のカクテルをご馳走してやるよ」
「まあ、それはいいわね!」
盛り上がるプリシラに対して、間宮は拒否の姿勢をとる。
「いや、まだ昼間だから大丈夫です」
「堅いこと言わないで」
「そうそう。お前はずっと敬語だし、堅苦しいんだよ。酒飲んでリラックスするべきだぜ」
「リラックスしないと大事な物も見落としてしまうわよ」
「良いこと言う! さすがキティだ!」
他所から入る隙をみせない掛け合いをしながら、トレイシーは、あっという間にカクテルを作ると、間宮の前にグラスを置く。
「ほらよ」
透明なグラスには、血のように真っ赤なカクテルが注がれ、ライトを反射して輝いている。
「パピーの特製カクテルは、飲むと頭がスッキリするの。今のあなたにオススメよ」
「でも」
「捨てるのはもったいない! お前に作ったんだからお前が飲んでくれよ、間宮」
双子から同じ目を向けられ、間宮は、改めて、目の前の真っ赤なカクテルに向き直る。
鼻腔をくすぐる、花の蜜のような、爽やかで甘い香り。
菓子の種類には詳しくない間宮だが、甘い物はそれなりに好きである。
「じゃあ……いただきます」
遠慮気味にグラスを手に取り、匂いを味わいながら、そっと口をつけた。
「んっ?!」
間宮が妙な声を出したのは、カクテルの味のせいではなく、唇に当てられた指のせいだった。
「やあ、サク。手の平にキスなんて随分、熱烈じゃないか」
と、彼から取り上げたグラスを、ジャックはカウンターに力強く置く。
「ジャック!」
間宮は、唇に残った感覚を、ぺっぺっと吐き出す。
その傍で、トレイシーが大仰に両腕を広げてみせた。
「おいおいおいおい、グースじゃないか、ええ? 我が兄弟!」
「やっと来てくれたのね、私たちずっと待ってたのよ!」
双子から歓迎の目を向けられながら、ジャックは、顔をしかめて鼻をつまんだ。
「臭すぎていたたまれないね。おいでサク、帰るよ」
「まあ、グースさん、こんなところに!」
間宮の腕を引っ張るジャックに、プリシラは、間宮が買った、苺タルトの入った箱を差し出す。
「苺タルトがあるけれど、食べていかなくてもいいの?」
それを無言で睨みつけたジャックは、静かに、間宮の隣に座り、カウンターに肘をつく。
「……で、何の話?」
「チョロいな?!」
あまりの変わり身の早さに、間宮はつい突っこんだ。
ジャックが聞く体勢に入り、双子は満足気に目配せをし合う。そして、トレイシーは、ジャックの前に一枚の写真を置いた。写真には、顔面を包帯で巻き、サングラスをかけている男、と思わしき人物が写っている。
「お前に、こいつを消してもらいたい」
苺タルトをフォークで切り、一切れを頬張りながら、ジャックは首を傾げる。
「誰?」
「知らない」
「だから、ブギーマン、と、みんな呼んでるわ」
「こいつは協会に入ってる末裔のくせに縄張りを荒らして人間を食いまくってる。おまけに死なないときたもんだ。うー、やる気が出てきたよな、グース!」
トレイシーは早口で捲したてるが、彼のペースに飲まれるようなジャックではない。
「やる気が出てきたなら自分でやればいい。だいたい、この国の末裔の管理は君たちに任されてるだろ。それこそ協会からさ」
「まあ、意地が悪いのね、グースさん!」
プリシラは、黒い毛皮のストールを肩にかけ直しながら、つん、と鼻を上に向ける。
「任されてるからこそ、私たちは一瞬でも仕事から目を離すわけにいかないのよ。この国の末裔が一体、何万人いると思って?」
二人の間にいる間宮は、身を縮めて、冷めた紅茶をすする。
「あなたは協会にいないから、あなたの行動は、私たちには預かり知らぬことよ。だから、あなたが、たまたま、協会にいる問題児を倒してくれたら、これほどいいことはないわ」
「もちろん金は払う。言い値だぜ。あと断る要素は?」
ジャックは何も言わずに、タルトを口に運んだフォークを咥えて、間宮を見た。
「サク、何にも分かんないってカオしてるね」
「そりゃ何にも分かんないから」
「茉白ちゃんもでーす」
正直な人間たちに、クスクスと肩を揺らして、彼はフォークを皿に置く。
「魔女の血筋、魔法が使える末裔は、魔女協会に管理されるんだよ。僕は純血を打ち止めた本人だから、入れてくれないんだけどね」
その後を、トレイシーが引き取る。
「住む場所、働く場所、行動、パートナー……。末裔は全部、協会に管理されてる。人間の呪いを食うからな。ばかすか好き勝手にやった結果が魔女狩りだ」
「なるほど。協会は魔女狩りブームの対策ってことか」
「なんだ、お前、話が分かるやつだな!」
犬にやるような力加減で、頭を撫でてくるトレイシーの手を制しながら、間宮は続ける。
「で、あんたら双子は、協会の魔女で、この国の末裔たちの管理人ってわけね」
ふふん、と、双子が揃って鼻を鳴らす。
「すごい双子なのよ、私たちは」
「すごい双子だぜ、オレたちは」
見事に決まったセリフの後、はいはい! と、茉白が手を挙げる。
「茉白ちゃんも質問です!」
どうぞ、と、プリシラに促されると、茉白は、わざとらしく咳払いを一つする。
「どうしてブギーマンは正体不明なんですか? 協会で管理されてるんですよね?」
「そうなんだが、何故だか奴のデータだけ見当たらなくてな」
「じゃあ、どうしてブギーマンは不死身なんです?」
「そこが分かればこっちも動けるんだけどなあ」
トレイシーは曖昧である。
「死ねない理由があるのかもしれないわ」
そう呟いたプリシラは、目を伏せた。
長いブロンドのまつ毛が震える。
「魔女の死は、生きたいという気力に左右されるの。だから、魔女狩りでは多くの魔女が死んだわ。あんな酷い拷問を受けて、誰が生きていたいと思うかしら」
当時の仲間たちを思い、ハンカチで目頭を押さえるプリシラの手を、茉白が握って、なだめる。
重い空気が落ちたところで、ジャックのタルト好きは止まらず、皿に残ったタルトの欠片までも食べきって、彼は言った。
「仕方ない。その依頼、特別に十で受けよう」
「げっ、十も取んのかよ?!」
目を向くトレイシーに、ジャックは唇を舐めながら、肩を竦める。
「言い値なんだろ?」
「嫌な奴」
トレイシーから舌打ちをされても、ジャックは微笑みを返す。
「ありがとう。前払いだよ」
「おら!」
ヤケクソとばかりに、トレイシーがカウンターに置いたのは札束、ではなく、透明なパケに入った、服のボタンである。白いボタンは、赤黒く乾いた血痕に汚れている。
「金、準備してくるから、その間に視てろ」
そう残して、トレイシーはスタッフルームに引っこむ。
「何ですか?」
パケの中身を見ようと身を乗り出した茉白に、プリシラが説明する。
「ブギーマンに殺された人間が持っていたの。その人の服にボタンはなかったから、おそらく、彼の物」
ジャックに流し目を寄こして、プリシラは、小首を傾げる。
「彼の巣まで辿れないかしら? グースさん」
「物の記憶を視るのは疲れるから嫌なんだけど」
言いながらジャックは、パケからボタンを出し、手のひらに乗せる。親指で血の跡をなぞりながら、見つめること数秒、首の薔薇のタトゥーが、ぞわぞわと動き出し、棘を纏った蔦が目尻まで進行する。
それを初めて見た間宮は、ギョッと身を引く。
かつて、魔法陣のようだと思ったジャックのタトゥー。その第一印象は、あながち間違っていなかったようである。
「視えたか?」
スタッフルームから戻ってきたトレイシーが尋ねる。
「僕にそんな野暮な質問しないでくれる?」
ジャックは目を閉じながら言った。
タトゥーは元あった首に戻っている。
次に目を開けると、彼は、いつも通りの軽薄な笑みをはりつけて、分厚い封筒に入った報酬を確認する。
それをジャケットの中にしまいながら、ジャックは間宮を見た。
「一緒に来る?」
「もちろん」
間宮は即答した。
末裔同士の戦い。隠す余裕のないその場にいれば、まだ隠されている何かを知れるような気がしたのだ。
間宮のそんな考えを見透かしてか、ジャックは黄色い瞳を細め、彼の肩に手を置く。
「おいで」
さっさと席を立ち、歩き出すジャックの背を、間宮は急いで追いかけた。

5.5 正体


「なあ、ジャック、その、こんなこと聞くのはあれだけど……」
道中、間宮はマスクの中で口ごもった。
「マザーグースは、その……死んでしまったんだよな?」
「そうだよ。母は死んだ」
ジャックは歩きタバコをしながら、コートのポケットに片手を突っこんでいる。
「それをどうしてみんなに言わないんだ?」
「必要がない」
軽く上を向いて、ふっと煙を吐けば、耳たぶに下がった琥珀のピアスが揺れる。
「そうだけど、的外れな憶測をごちゃごちゃされるのは鬱陶しくない?」
「君はそうなんだね」
君は、という含みは、間宮の心臓を冷やす。
そう。鬱陶しいと思っているのは俺。俳優の父に騙されている世間にも、父の暴力的な一面を息子に見たい週刊誌の記者にも、親子は仲良くあるべきと諭してくる父のマネージャーの田所にすら、苛立っている。
「的外れな憶測? 結構だよ。他人の心が自分の存在に支配される。それこそが、母の望んでいた世界だ」
ジャックは、住宅街の十字路の中央に立ち、両腕を広げる。そうすると、まるで彼が、全ての時間を止めたかのように、周囲から、人間の気配も生き物の気配も消え失せる。
「呪いを集めるために、か……」
静寂に張り詰めた空気は、間宮の呟きにすら震える。
「あんたはマザーの分霊箱が何か知ってる?」
「……さあね」
ザリ、と、吐き捨てたタバコが、革靴に踏まれる。

「よおおおおやく来たかああああグースぅぅぅぅ」

突如、しわがれた大声が空気を破る。
ジャックと間宮の前に、足を引きずりながら歩いてきたのは、顔面を包帯で巻き、その上からサングラスをかけた人物――――トレイシーが見せた、ブギーマンの写真、そのままの男だった。ただし、写真と違って、彼が巻いている包帯や着ている白シャツには、おびただしい量の血液が付着し、動く度に、乾いたそれがパラパラと落ちる。
「お、おまえぇぇを、殺して、た、たま、魂を食えば俺は、あはは、俺は救われるんだぁぁあぁぁはははは」
喉の奥から笑いながら、ブギーマンは、生気の無い骨のような手で、顔の包帯を剥ぐ。
そこには。
何も無い。
生き物ならばあるはずの、頭部と呼ばれる部位そのものがない。
「かっ、顔が、うわっ」
恐怖と驚きに歪んだ間宮の顔に、ジャックは着ていたジャケットを投げつけた。
「持ってて」
彼は、黒いシャツの袖を捲る。
手の甲から腕に向かって、ペイズリー柄のタトゥーが伸び、蝶のモチーフが点在していく。
「ほらほらぁぁ、お、俺の顔はなんだったぁああ? おまえならわかるだろぉ、わ、わか、わかるんだろおおっ、魂をくえば、くえばあああああぁぁぁ、グースぅぅぅぅ」
虚空から響くようなうめき声を絞り出しながら、ブギーマンは剥いだ包帯を引きちぎる。
彼から溢れる濃い殺気と死の気配は、茉白の使い魔であるウキョクちゃんのそれとは種類が違う。
彼女が、ジワジワと侵食するカビだとすれば。
ブギーマンは、永遠に沈んでいく底無し沼だ。
間宮は、総毛立つ全身を縮こませ、建物の陰に避難した。
十字路の中央で、ブギーマンとジャックが対峙する。
「君、誰に許しを得て、この僕に殺気を向けてるのかな」
ジャックが指の関節を鳴らすと、タトゥーの蝶が浮き上がり、実体を得て、彼の周りを飛ぶ。
「お仕置だ」
琥珀のピアスが揺れると同時に。
「教えろぉぉおおおおおおあああああぁぁぁ!!」
ブギーマンが叫びながら、ジャックに向かって跳躍する。その出鼻を挫くように、ジャックはブギーマンに目がけて指の先でボタンを弾く。煙が出るほどの勢いで放たれたボタンの弾丸は、標的の胸に勢いよく当たり、貫通する。
跳躍した分の高さから落下したブギーマンは、叫びながら転がり回る。
「何なんだぁぁ、俺はぁあぁああぁ! 何なんだよぉぉぉぉ、俺はああああああああぁ!」
「知らないよ」
彼が、人差し指の先を折り曲げれば、周りを飛ぶ蝶たちがブギーマンに群がり、瞬時に爆発する。
弾けたアスファルトの欠片から身を守るため、間宮はジャックのジャケットを頭から被った。
いやもう、想像を超えすぎ。
そう思いながら、ジャケットから顔を覗かせる。
薄れた爆煙の中に倒れているブギーマン。周囲に体の肉片が飛び散らかっている。
「し、死んだ……?」
と、間宮が呟くやいなや、ブギーマンの残った全身がびくっと痙攣し、散らかった肉片が、濡れた音をたてて全身に集合する。くっつきあった肉片は、うねりながら隙間を埋めていき、あっという間に無傷になったブギーマンが、ゆらゆらと立ち上がった。
「やあ、本当に死なないんだ」
しかし、ジャックは薄ら笑みを絶やさない。再び、蝶を集結させ、爆破攻撃を仕掛ける。
体のあちこちで爆発が起き、血と肉片を撒き散らしながら、ブギーマンは叫ぶ。
「死ねない死ねないいぃぃぃ、何故、なぜなんだぁぁ、俺は何なんだああああああああぁぁぁ!」
彼の叫びを聞き、間宮の頭の中に散らばったパズルのピースが動き始める。
「死ねない、理由?」
ブギーマンとは、そもそも正体不明の怪人のことを指す。彼もまた、顔を失い、分からぬ己の正体を問う。そのくせ、ジャックの魂を食えば自分が救われるという絶対の自信を持っている。ジャックの魂の価値を、知っている。人間の記憶を、そのようなチグハグな状態に出来る力を持っているのは――――。
考えこむ間宮の元に、飛ばされてきたジャックが着地した。
「困ったな。どうやったら死ぬんだろう。魔力からして、僕みたいなタイプの不死身ではないと思うんだけど」
アスファルトに膝をつきながら、顔についた血を拭い、遠くで叫んでいるブギーマンを見つめるジャックに、間宮は、恐る恐る声をかける。
「ジャック、あの、これは完全な予想で、もしかしたら、あんたは知ってるかもしれないんだけど……」
間宮の頭の中で作り上げられたパズルのピースが、言葉によって、繋ぎ合わされていく。
「あいつはあんたに記憶を売ったんじゃないか? だから、自分のことはスッポリ忘れてるのに、あんたのことだけ覚えてるんじゃないのか?」
間宮は、ジャックの横顔を窺う。
彼は、ふ、と笑い、間宮にウインクした。
「なるほど。さすがサクだ、回転が早いね」
「わ、忘れてたの?」
「完全に」
間宮には、ジャックの危機予測が、そんなにもポンコツな物だと思えなかった。
ジャックは分かっていたはずだった。
分かっていて、自らの危険には及ばないと判断したか、分かっていて、その危機的状況すら楽しもうとしていたか――――。
間宮の視線の先で、ジャックは立ち上がると、大きく背伸びをした。
「じゃあ、ちょっと探してくるから、ここ、お願いするね」
「え、お願いって、え?」
突然の頼みに困惑する間宮。ちら、と、見たブギーマンは、視力が弱いらしく、どこだどこだ、と、ジャックを探し回っている。しかし、その殺気は、人間が相手にできるものではない。
「それは……それは意地悪にも程があるって、もういない!!」
間宮のシャウトが響いた。彼は、慌てて息を呑み、ブギーマンの方へ顔を向ける。
バチ、と、無い顔と視線がぶつかった。
ブギーマンの地鳴りのような咆哮を背に、間宮は涙を流しながら、必死に逃げた。
「ジャック、マジで、この、呪ってやる、呪ってやるからなーっ!」
ジャックのジャケットを後ろに投げ捨て、間宮は、犬に変身する。人間より走るスピードが速くなり、ブギーマンとの距離に余裕が出てくる。だが、このまま逃げ回り続けることは不可能だと、間宮は知っている。何故なら、長年の喫煙により、彼の肺が常人より弱っているからである。
「俺が酸欠で死ぬか、ジャックが来て助かるかの二択……!」
呟き、後方の敵を確認する。
いない。
「?!」
思わず、振り返りながらブレーキをかける間宮。
その時、犬の敏感な嗅覚が、頭上から、濃い血の臭いを嗅ぎとる。
「うがァァァッ!」
ブギーマンの強烈なパンチでアスファルトが割れる。
粉々になり、吹っ飛ばされた欠片のひとつが、雀になり、回避した間宮の体に直撃した。
「ぐぇっ」
ぱっと羽が散る。
衝撃で、人間に戻った間宮は、強かに頭を打ち、ゴロゴロと道路を転がった。
薄暮の空がグラグラと歪み、新鮮な血の臭いが、口と鼻に満ちる。
そして、頭に流れる警告音。
起きろ! 起きろ! 早くしないと殺される!
「うっ、が、がんばれ、俺ぇ」
間宮は、痛みに痺れる全身を叱咤し、体勢を変えて起き上がるが、ブギーマンは、おぼつかない足取りからは想定できない、驚異的な脚力で、間宮との距離を詰める。
「あははははははは、あーっはははははは!」
透明な狂笑が、間宮を飲みこむ。
間宮に放たれたブギーマンの必殺パンチは、斧の柄に吸収され、トルコブルーの銅を震わせた。
衝撃波が風になり、白黒の長いツインテールと、裾にレースが縫いこまれたスカートを、ふわりと持ち上げる。
「ま、茉白ちゃん!」
安心して、尻もちをついた間宮を見下ろし、茉白は、肩にかかったツインテールを払った。
「仕方ないから守ってあげますよ、間宮さん」
アスファルトに刺さった斧を抜きざまに振り回し、流れるようにブギーマンを牽制しながら、彼女は続ける。
「十五分で五千円です」
「ぼったくりバー並じゃねーか!」
「ぼったくりじゃないですよ。そもそも命はプライスレスですから値段なんてつけられません」
身長よりも遥かに大きな斧を肩に担ぎ、茉白は、革靴の踵を鳴らす。
「ね、ウキョクちゃん」
二回のノックは、彼女を呼び出す合図だ。
井戸から這い出でるように、茉白の影から姿を現したウキョクちゃんは、気合いの一声か、恐竜が出すような、大迫力の咆哮をあげた。
それは、ブギーマンを脅かすには十分過ぎたようである。
「うぎゃぁぁぁぁああああ死ねぇぇぇえええっ」
と、飛びかかってきた彼を、ウキョクちゃんの巨大な手が鷲掴み、アスファルトに何度も何度も叩きつけると、弾けた包帯と血が辺りに撒き散らされる。
ねじまがった関節がぐにゃんぐにゃんと重力に従う様は、さながらゴム人形である。
それを見て、茉白はケタケタと笑いながら、スマホをかざして、動画撮影を始める。
「これネットにあげたらバズりますかね〜?」
「大炎上だよ」
「冗談ですよぅ。真面目さんですね、間宮さんったら」
引き気味な間宮に、茉白は唇を尖らせた。
一方で、ウキョクちゃんは、叩きつけていたブギーマンを、暮れかかる空の中に放り投げる。その間に、ウキョクちゃんの坂のような背中を駆け登っていく茉白。彼女はウキョクちゃんの頭を踏み台に、空中へ踊り出る。そして、落ちてきたブギーマンを斧で真っ二つにした。
「わあ、気持ち悪〜い!」
ウキョクちゃんの額の上に座って、茉白は笑っている。
アスファルトを赤く濡らしながら、ひとつに戻っていく体を見て。
ブギーマンは体を戻しながら這いずり、茉白たちから逃げる。
「なんで、なんでだよ、ちくしょう、なんで」
ブツブツ呟きながら理由を探し回る彼の前に、つま先の尖った革靴が現れる。
「ほら、君の記憶だよ」
ジャックがブギーマンに差し出したのは、古いインスタントカメラだった。
それをひったくるように奪い、ブギーマンは、失った頭の中に、取り戻した記憶を見る。
「そう、そうだ……俺は、俺は家族を殺して、だから……だから俺は」
彼はぶるぶると両手を震わせ、嗚咽をあげる。しかし、透明な顔を涙が濡らすことはない。
家族を殺し、強さを求めた男の末路であった。
ブギーマンの震える背中に、ジャックは言う。
「重ねた罪は、僕が許してあげる」
言葉が黒い蝶になり、哀れな男の背に止まる。すると、ブギーマンの体が消え失せ、身にまとっていた包帯や服が地面に広がる。その衝撃で、羽ばたきをはじめた蝶は、夜の迫る空の彼方へ消えていった。男の魂と共に。
それを見送った間宮は、唐突に我に返ると、ジャックへ駆け寄り、怒りの声をあげた。
「ジャック、てめー殺す気か!」
「死ななかったんだからいいじゃない」
「結果論だろそれは!」
牙を剥く間宮に、ジャックは肩を竦めながら、タバコに火をつけた。反省の色は皆無である。
そんな二人の前に、ウキョクちゃんの額から、茉白が降り立つ。
「グース様、おかえりなさいませ」
と、ワンピースのスカートの裾を持ち上げて、恭しく挨拶をしてみせると、ジャックに向かって質問をする。
「何故、あの方を許してあげたんですか?」
「僕にも責任があるからね」
煙を吐きながら、彼は茉白に、目を細める。
「僕は神様じゃないから、君のことは許してあげないよ」
一瞬、茉白の大きな瞳が見開かれる。が、すぐに、彼女は、いつもの笑みを取り戻す。
「……なるほど。さすがグース様です」
にこにこ、と、彼女は、自分の髪の毛先を弄ぶ。
「茉白ちゃんを弟子にしてくれないのも、そこが理由ですか?」
「いや? でも、今回、双子といる君を見て、尚更、したくなくなった。あの二人の息がかかっている君は信用ならない」
「ってことは、今日、茉白ちゃんがいなければワンチャンあったってことですか?」
「小指の爪ほどだけどね」
「あ〜あ、残念です」
ぷん、と怒った時の擬音を口にしながら、茉白はツインテールを払った。
「分かりました。弟子入りは諦めます」
「えっ諦めちゃうの?」
「何ですか急に。間宮さんも望んでたくせに〜」
「いや……」
間宮は口篭る。
ジャックが頼れない時、頼ろうしていたのに。
とは、言えなかった。
彼はそういう男である。
「弟子にならなくても一緒にいることは出来ますから」
茉白はそう言って、微笑む。
赤いアイシャドウのラメが、不気味に輝いている。

「という感じで……。茉白ちゃんのことは、おそらく、他の駒鳥から読んだと思われます」
茉白は、事の顛末を双子に報告しながら、デッキブラシでフロアの床を擦る。
「ちぇ、記憶読み、厄介だなぁ」
と、舌打ちをするトレイシーは、汚れたモップをバケツにつけた後、雑に水を切る。
「ブギーマンも失敗してしまったわ。茉白ちゃんは、これからどうするつもり?」
細いタバコを加えたプリシラは、雑巾で壁を拭きながら、茉白を振り返る。
質問された彼女は、ブラシの柄にもたれながら、にやりと唇を歪ませる。
「幸いにも、グース様の近くに気の抜けた方がいますので、そこをつきます」
「頼んだぜ、マシュ。今のとこ、リーチかけてるのはお前しかいないんだからな」
水を含んだモップが、びしゃりと音をたてる。
トレイシーが歩いた跡はぬらぬらと光り輝き、その上を、茉白がデッキブラシで擦る。
「あれを協会に渡せば、茉白ちゃんを魔女様の仲間にしてくださるんですよね?」
「ババアどもは口うるせーが、約束は守るぜ。マシュもそうだろ?」
彼女の返事を待たずに、トレイシーは、モップを苛立たしげに動かしながら、話題を変える。
「ったくあいつもテキトー抜かすよな。協会が逃げてるみたいな言い方して」
「かわいそうな坊や。私が慰めてあげたい」
と、騙されている人間を想って、両肩を竦めるプリシラ。
「キティ」
「冗談よ、パピー」
諌めるトレイシーに、プリシラは、真っ赤な唇の隙間から煙を吹いてみせた。
「それにしても汚しましたねぇ!」
茉白は、改めて、店の汚れたフロアを見渡した。
赤と黒の派手な装いを埋め尽くす、どす黒い血液たち。壁や床の所々には、吹き飛ばされた誰かの細かな肉片がへばりついている。地下にあるために換気もできない室内は、濃い鉄と死の臭いに満たされている。
「口約束なんてするもんじゃねーな。分かったか、マシュ」
トレイシーは嫌な表情で、ブーツの底についた血の塊を指先で摘み、ゴミ袋に投げ入れる。
「茉白ちゃんは他の末裔さんと関わりがないので大丈夫ですけど……おふたりが、協会のババ様たちに叱られちゃうんじゃないですか?」
はあ、と、ため息をついたのはプリシラであった。
「グースさんを無かったことにするのを決めたのは、おばあ様方よ。今回は失敗しちゃったけど、私たちはおばあ様方の言うことにちゃんと従ってるわ。それを責めるなんてことがあったら人でなしよ!」
珍しく語気を荒げた彼女は、足元においたバケツに、吸殻を投げ捨てる。
バケツの中には、数え切れない量の吸殻が浮かんでいて、雑巾を洗うよりも灰皿として機能しているようである。
「そうだ! オレたちはちゃんと従ってる。文句も言わずにな。それなのに何も分からねー雑魚どもが、グチグチグチグチ……」
「嫌になっちゃうわ」
じゃぶんっ、と、放り込まれたモップにバケツの水が揺れる。
「あームカつく。なあ、これ終わったらステーキ食いに行こうぜ!」
「それってとってもクール。大賛成だわ!」
「わあい、ステーキなんていつぶりだろ!」
三人は、ステーキの話で大いに盛り上がる。
地獄のような血なまぐささに包まれて。

閑話 お花見に行こう

正月もだいぶ過ぎた頃合であった。冬が過ぎ、春の到来を肌で感じられるようになってきたある日の話――――。
「え、何でいるの?」
朝、リビングに入った、間宮の第一声である。
「サプライズで〜す」
サプライズと言いながら、茉白は、てってれ〜、と、ドッキリの種明かしに使われる効果音を口にした。
間宮はあまりにも渋い表情をしている。
茉白は、ひとつ咳払いをし、ソファに座り直した。
「っていうのは冗談で、ウキョクちゃんの鼻で辿り着きました」
「なんだよそりゃ」
納得いかない間宮である。
ジャックに認められていない茉白に、こうも簡単に出入りされては、自分の優位性がない。
「そう言われましても〜」
ごめんねっ、と、茉白はテディベア型のバッグの手を動かして、なりきって見せた。
そんな二人に、くだらないと言いたげな視線を向けながら、ジャックは、タバコの煙を吹く。
「サク。朝ごはん食べるならそこだよ」
「あ、ありがとう」
今日の食事担当はジャックであった。間宮はソファに座る茉白を威嚇しながら、リビング奥のキッチンへ向かう。ガス台に置いてあるフライパンに残されたスクランブルエッグとウインナーを皿に移し、キッチンテーブルにあるトースターに食パンを差しこむ。
「ジャックはこれでいいのかよ」
その椅子に座って、タバコをふかしているジャックに、間宮は、抗議の意をこめて尋ねた。
「悪さしなければ構わないよ」
そう言って、ジャックは灰を灰皿に落とした。
期待した答えが返ってこず、間宮は、むすっとしながら、彼の向かいに座った。
パンが焼ける間、間宮は、茉白の方へ体を向け、彼女の様子を観察する。
茉白はソファに座って、テレビに釘付けである。
テディベアを抱いて、フリルの多いドレスのようなワンピース――――いわゆるゴスロリのような格好をした、ツインテールの少女。
そんな彼女は、テレビニュースの『お花見特番』を見て、ぽつりと呟く。
「おはなみ」
茉白の瞳が、ぱあっと興味に彩られた。
「おはなみって何ですか?」
無邪気に投げられた質問に、間宮は目を剥く。
「うそ、知らないの?」
「知らないです」
茉白が頭を振ったのと同じタイミングで、トースターからトーストになった食パンが飛び出す。そのパンにバターを塗りながら、間宮は答える。
「お花見って桜を見ながら飲み食いするっていう行事、みたいなやつだよ」
「お祭りですか?」
「まあ当たらずも遠からずというか、うーん、難しいな……」
「桜を見るお祭りって楽しそうですね! いいなあ、茉白ちゃんもやりたいです、お花見」
わくわく。
そんなオノマトペを体から出してるような様子の茉白を背に、間宮はジャックを見た。
目を合わせれば、間宮の考えは、ジャックに読まれる。
「本当にお人好しだよね」
ジャックは呆れたように肩を竦め、吸殻を灰皿に捨てた。

「茉白ちゃん、枝は折っちゃダメだよ!」
「分かってますぅ」
桜が並ぶ河川敷。一様にマスクをつけて、人々は花見を楽しんでいる。
「こんなにお花見日和なのに見るだけなんてもったいないな」
そう間宮が見上げる空は、雲一つない快晴である。気温も、まるで初夏のように高い。
茉白は、羽織っていたモコモコのコートを、なぜだか間宮に押しつけて、スマホで写真撮影に勤しんでいる。
「桜ってどうしてピンクなんですかね?」
「考えたこともなかった」
何気ない茉白の質問に、間宮が首を捻ると、ジャックは鼻で笑った。
「人間の血を吸ってるからさ」
「本当ですか!」
「それは都市伝説だろ?」
「なんだあ、残念です」
ポテポテと歩きながら、再び茉白は写真撮影を始める。
先行く彼女の姿を見ながら、間宮は、ジャックに問いかけた。
「ジャックは桜みたことあるの?」
ややあって。
「あるよ」
ジャックは頷く。
「日本で?」
「いや。僕の故郷で見た」
故郷。
マザーグースを母に持つジャックである。
間宮は、遠い異国の地を思い浮かべた。
レンガの小路を彩る鮮やかな桜。その間を、洒落たスーツを着こなすジャックが歩く様は、こんな川辺りよりも、ずっと情緒的だったに違いない。
「それは綺麗だったんだろうな。ちなみに誰と?」
ジャックは、形の良い眉を僅かに顰める。
「……随分、質問が多い」
「ごめん。気になってさ」
間宮は、肩を竦めた。
今日のジャックは、やけに口数が少ないようだった。
「間宮さ〜ん」
茉白が、間宮に手を振りながら、道を戻ってきた。
「さっき、かわいいの飲んでる人、見つけたんです。あっちで売ってるって聞いたんで行きましょう!」
「すげーコミュ力だな!」
茉白が、見ず知らずの人から聞いてきた店は、道路を挟んだ場所にあった。そのカウンター式の小さな店では、虹色の層になったサイダーが売られていた。
「美味し〜い」
桜を前に、虹色のサイダーを飲んで、茉白は満面の笑みを浮かべた。
「これがお花見なんですね。来てよかったです」
「きっと来年はもっと楽しいお花見になるよ」
彼女と同じサイダーを飲みながら、間宮も笑う。
「来年も桜は咲きますか?」
「来年も再来年も桜は咲くよ」
「地球が終わらない限りね」
ジャックがタバコを咥えて言った。
「そんな縁起でもないし、ありえないこと言うなよ」
間宮は嫌な表情をして、彼の口からタバコを取る。
「地球が終わるって死ぬってことですよねー? 地獄に桜はあるでしょうか」
「地球は終わらないから!」
もう、と、息巻いて、間宮は、二人の前に立ちはだかる。
「来年も再来年も、桜が咲き続ける限り、お花見をするんだよ、俺たちは!」
「茉白ちゃんもです?」
「そうだよ! 来年は双子も呼ぼう! な、ジャック」
間宮から視線を送られれば、ジャックは、彼が本心でそう言っているのを見抜き、息を吐くように笑った。
「まぁ……嫌いではないよ、そういう君もね」

柔らかい草が風で揺れる。それは、薄いピンク色の小さな花たちを咲かせた木も例外ではない。
小川というには、か弱い水のせせらぎを聞きながら、少年は、風に揺れる桜を眺めていた。
「アーサー」
名前を呼ばれ、少年は振り返る。
柔らかい草を踏みしめてやって来た少女は、腕を組んで、小首を傾げる。短く揃えた黒髪がさらりと垂れた。
「また見てる。この時期はよくここに来てるよね」
アーサーは、再び、桜へ目を向ける。
「知らないんだ」
じっと花を見つめる緑色の瞳は、まどろみを見ている。
「知らないし興味もない。なのに、懐かしく感じる」
「……例の夢?」
アーサーは、少女の質問には答えずに、癖毛の髪を掻き回した。
「用事は?」
「もうすぐ夕方のお祈り」
「すぐ行く」
「今行くんだよ」
少女がアーサーの手を取る。
道に戻った先には、真っ白な教会が建っている。それ以外の建物はない。舗装された道も、周囲を囲む壁も、何もかもが白く、今は赤い夕日の色に染められている。
「俺はどうしてグース討伐隊に選ばれない?」
アーサーが低く唸ると、少女は困ったように眉を下げながら笑う。
「グース討伐も大事だけど、まずはザラの保護が優先だからだよ。あの子は何をするか分からないんだから」
「逃げたんだから関係ない。あっち側にいたら殺せばいいだけだ」
「一応、仲間だったんだよ? そんなこと言わない」
アーサーは舌打ちをする。だが、少女の手を振り払おうとはしない。
「イライラする……」
「焦らない。あなたは英雄なんだから」
英雄(アーサー)をつけたのはお前だ」
「そう。そして、わたしは勝利(ヴィクトリア)
ヴィクトリアは、アーサーに振り向く。
「二人でいれば無敵だよ」
教会の鐘が鳴る。
どこまでも、どこまでも、白い壁に囲まれた、教会だけがあるその場所で、選ばれた子どもたちは生活をし、穢れた魔女の末裔たちと戦うための訓練をする。
勇ましい子どもたちは、こう呼ばれる。
ギフテッド、あるいは、魔女狩り、と。
閉ざされた白い世界は、こう呼ばれる。
庭園、あるいは、鳥籠、と。

新約マザーグース

新約マザーグース

売れない小説家の間宮は、黒猫を追って、とある雑貨屋にたどり着く。そこにいたのはジャックと名乗る不思議な青年。彼は母であるマザーグースが生み出した呪いを商売にしていた。そんなジャックと関わりを持ってしまったがために、魔女の末裔たちと魔女狩りの戦いに巻きこまれてしまう間宮。それが己の中の強い呪いを起こしてしまうことも知らずに。

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  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-12-23

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