第一話 子育て・ラーメン・日本刀
──西暦二◯二五年十二月五日 東京都足立区青井駅付近 都営住宅 二◯四号室
『敵か味方か』
『恐怖! カタナの悪魔』
『町に現れた悪魔をズバリと斬り倒していくのは』
『青いトランクスを着たカタナの悪魔だ』
『女性を守ったという証言もあるが 公安は取材に対し沈黙を貫いている』
短い電子音のメロディがキッチンに響く。
「あっツ」
コイケはシャツの袖を伸ばして手の半分を隠した。それを鍋つかみの代わりにして、レンジから白い大皿を取り出す。熱はそれでも伝わってくるが、さっさと机へ置いてしまえば問題ないだろう。
小走りでリビングに向かい、半ば投げ出すようにして大皿を彼らの前に置く。
がしゃん。
「俺が2枚で、ソラも2枚。メメは1枚ね」
片手サイズの丸いピザを数える。昨晩スーパーで売れ残っていたものだ。玩具みたいに小さくて、上っ面なケチャップの上に申し訳程度のチーズがかかっている。安っぽい匂いが湯気となって漂う。ピザというより、パンと云ったほうがしっくり来る。
メメが床から顔を上げた。クレヨンでコピー用紙になにか描いていたようだ。折り目をつけて視えなくしてから、四つん這いのまま机に来る。小さな体躯に合わせて紺色の髪が揺れる。鼻まで垂れた前髪が鬱陶しそうであった。
──朝からかよ。
という言葉を飲み込んで、ソラはフローリングから腰を上げた。ようやく体温で床が温まってきたところだったが、仕方ない。食事の用意をさせたのだから、せめてジュースくらいは注がなければ。
ガシガシと、すっかり色の抜け落ちた白髪を掻く。
「飲む人」
「あ、お願い」とコイケ。
「……」無言で右手を上げるメメ。
ソラは3人分のオレンジジュースを用意して、慎重に2往復してそれらを運んだ。メメのグラスに波々と注いでしまったからだ。
また自分が彼女を甘やかしていることに気が付き、軽く反省する。
「いただきます」
「いただきます」
「……きます」
メメが皿に手を伸ばす。ピザもどきはまだ熱かったようで、爪の部分に器用に乗せ、ちまちまと大切に食べている。
コイケとソラは3口ほどで食べきってしまった。喉に残ったパンくずを、オレンジジュースで流し込む。
リビングは静かだった。斜めに差し込んだ朝日が眩しい。カーテンがないので直射である。一ヶ月ほど前にメメが燃やしてしまったが、まだ買えていない。
白い反射光のなか、TBSのニュースがテレビに映っている。
『──続いては、今年のクリスマスにおすすめのイルミネーションのご紹介──』
「メメ」
コイケの視線が、先程クレヨンの餌食となっていたコピー用紙に移る。
「それ、何か描いたの」
「……」
メメはコイケを見ただけで、何も応えずに咀嚼している。
「見ていいか?」
ソラの問いかけには、ゆっくりと頷いた。
コピー用紙には、何重にもなった荒々しい赤い円と、その中央に人らしき茶色いシルエットが描いてあった。
「これは……」
言葉を探すソラ。
「……何だァ?」
「腸!」
メメがテレビを見たまま叫ぶ。
「腸! 腸!」
「ふ~ん。真ん中のは?」
「ちかぢかのひと」
「え?」
「ちかぢかのひと、です」
「……」困ったようにソラとコイケが顔を見合わせる。
するとメメが振り返って、
「……綺麗でしたか?」
と首を捻った。重たい前髪がするりと耳へ流れる。
「あぁ、そりゃァ綺麗よ」
ソラが口元で笑う。そしてコイケを肘で小突く。
「あ、うん、良いと思う!」
慌てて感想を述べるコイケ。
「どこが、ですか」
沈黙。
「……えっとね……」
「そうだなァ……い、色、色合いとか、センスあンじゃねぇか」
咄嗟に口をついたソラの言葉に、
「ふん!」
メメは満足気に鼻から息を漏らした。そして瑠璃色の瞳を愛らしく細めていた。
──固定電話のベルが鳴った。
「俺が」
とコイケが立ち上がり、受話器を取る。
「……はい」
「もしもし」
「あ、クロダ?」
「……コイケ、ニュース見たか」
「刀の悪魔ね」
「そう。なら話が早いわ」
「仕事?」
「いや違う。最後通告」
「え」
「メメを公安に戻せ」
「……」
「いや、分かってる。だから刀の心臓を持ってこい、だとさ。期限は5日。5日後にはもう、2課が動くと思っていい」
「…………ありがとう」
「ホントだよ」
そしてコイケは受話器を置いた。
*
──西暦二◯二五年十二月四日 東京都新宿区 新宿二丁目ビル一階
「クソつまんなかったな」
「あぁ、クソつまんなかった」
カウンター席に並んで座る2人が頷き合う。
「ノゾム、途中で寝てたよね」
「え、寝てないよ……。寝てない寝てない」
「いや寝てたのを俺が起こしたから」
「うそ、俺、レオンに起こされた?」
「起こした起こした」
「お待たせいたしました~」
背後から忍び寄った店員が、2つのどんぶりをテーブルに置く。
「えー、こちら豚骨醤油の油少なめ……で、こちらは豚骨醤油の大盛りですね」
「はーい、ありがとうございます」
ナカハラが箸立てから割り箸を2つ取る。
「はい」
「あ、どうも」
そして2人は、上着にスープがかからないように気をつけながら、こってりとしたラーメンを啜り始めた。
「──それでさ、レオン」
「うん」
「次はアレだって。あのー……刀の悪魔の心臓! を、届ければいいんだって、確か」
「えぇー……。面倒くさそう」
「いやいやでも一千万よ」
「あー……ならいいのか」
「替え玉は?」
「いや大丈夫ありがとう」
「すいませーん。替え玉1つと、炙りチャーシューと、ライスのおかわりお願いします」
「ここ美味いね」
「美味い」
「うわ倍盛りでも良かったな……」
「そういえばレオン……。あ、全然関係ない話していい?」
「え、何で。全然いいけど」
「この前の夜中さ、部屋に蝿が飛んでたのね」
「はい」
「それ手で潰したらさ……俺泣いちゃって」
「ふふっ……はい。それで?」
「いやまぁ、それで終わりなんだけど」
「悲しくなったの?」
「いや……なんだろうね、こう、色々命とか考えたら、悲しくなっちゃって」
「ノゾムのね、俺ずっと思ってるけど、ノゾムのそういう、感受性っていうの? マジで武器だと思うからさ、小説でも書いてよ」
「死んだ命はどこに行く、みたいな? あ、ライス僕です」
「死んだら人はどうなる?」
「えレオンはどう思う」
「死んだら? えぇ……」
「ちょっとスープ頂戴」
「死んだら……、……普通に、消えてなくなるんじゃないの。分かんない死んでないし」
*
──西暦二◯二五年十二月六日 東京都世田谷区 小田急経堂駅付近 六号車
──座れた。
下りの電車はこれから混むだろう。このタイミングで座れるかどうかが肝心なのだ。
仕事鞄を膝に乗せ、座席のクッションに体重を沈めると、凝り固まった腰の疲れが溶け出していくようだった。
「……」
周囲に人がいなければ大きなため息でもつくのに──とテツヤはぼんやり思う。多くの人間は、自宅を唯一の休息の場所だと述べる。テツヤに云わせれば、それは違う。この時代、自宅にはパソコンがある。パソコンがあるということは、仕事があるということだ。
結局、本当の意味で仕事から離れられる場所なんて──風呂か、トイレか、小田急だ。
スマホは弄らない。両眼は既にブルーライトに大分やられている。要らぬ酷使をする必要もない。かといって本を読む気力もない。
仮眠を取ろう。
すがるような仮眠を──。
遠くで、悲鳴の合唱。
車両が大きく揺れて、バランスを崩す。
テツヤの意識は急速に引き戻された。
蛍光灯が明滅を繰り返している。乗客は動揺してあちらこちらを見ている。
『ただいま電車内で悪魔が発生した為』
『緊急停車いたします』
『両側のドアが開くので』
『乗客は速やかに外へ避難してください』
「夢くらい見させて欲しいよな……」
この騒乱のなかじゃ独り言もばれないだろうと、テツヤは大きく肩を落とした。
やがてアナウンス通りドアが開き、堰を切ったように乗客は線路へと降りていった。窓から覗くと、全員が小走りで経堂駅の方へと向かっている。
ネズミのようだ。
あっという間に、車両にはテツヤだけが取り残された。
もちろん──逃げるわけにはいかない。
「俺が目的ですよね」
果てしなく続く穴のような──連なった車両の直線的な闇。
闇の向こうへ、テツヤは声を投げる。
と。
チカリ。……一筋の光が走った。
「あ」
次の瞬間には、テツヤの右肩に包丁が生えていた。
骨の隙間を正確に狙ったその投擲は、血を吹き出すことすら許さない。
「……公安か」
スーツが汚れなくて良かった、とテツヤは安堵する。一人暮らしの洗濯は重労働だ。
影のなか、ダークスーツの男が音もなく現れる。
両手には包丁。指の隙間全てに挟んでいる。すなわち、計8本の包丁が準備されていた。
「──お前か──」
男は這うような低い声を出した。
「刀の味方をしている、イカれた民間人は」
「……あの、民間人だと思うなら」
テツヤは肩をすくめて、媚びるような笑いを浮かべてみせる。
「……見逃してくれませんかね……」
「無理だ。刀の野郎との交渉に使う。大人しくしていればそれ以上刺さない」
テツヤは、じんわりと体温が上がっている事に気がついた。「……」気持ちが悪い。血は出ずとも、しっかりとダメージが入っているようだ。
右腕が上がらない。
心なしか視界も狭窄している。
「分かりました」
左手を、そっと、上げた。何の武器も持っていないことを示すために、手のひらを突き出す。
「……降参します」
「あぁ」
男は頷いて、右手を振った。
更にもう一本、テツヤに包丁が突き立てられた。
「……な……ッ」
今度は左肩であった。
……それ以上刺さないって云ったのに……。
テツヤは苛ついたが、そんな怒りを気にする余裕もなく痛覚が襲い来る。
もう両腕とも上がらない。
身体が熱い。
そういや、さっき……。
さっき……、洗濯しなくていいから良かったとか思ったけど、よくよく考えたらスーツ切られてんな。もう着れねぇじゃねぇか。
「はぁ、全く」
今は人がいない。
「もっと早くしてよ」
だから溜息もし放題。
「──何?」
公安の男は、テツヤの台詞に怪訝な表情を浮かべる。
顔にシワを寄せ、目をしかめるようにした、
その顔は、ずるり、と滑って、
床へと落ちた。
べちゃり、ごつん、と音がする。
脳を失っても尚、男の身体は直立していた。
「ごめん、また遅くなった」
首なし死体の背後から、一人の大男が姿を現す。
彼の──額と、右手と、左手からは、分厚い刀が伸びている。剥き出しの黒い歯茎に並ぶ無数の歯。返り血で染まったベージュのダウンコート。
誰がどう見ても刀の悪魔であった。
「いると思ったよ」テツヤがニヤつく。「コイツのバディは?」
「片付けた。それで遅くなったわ」
云って、刀の悪魔は座席へと腰を降ろした。手の刀によってクッションに切れ目が走る。
そして、どろりと顔が溶けていき、その素顔が晒される。
「やっぱり、しばらく一緒に行動しようか、Pさん」
「あぁ……ね」
貧血を起こして、Pの頭ががっくりと揺れる。頭頂部に生えたちょんまげがフラフラと自信の存在を主張していた。
テツヤが仕事鞄を蹴って、Pの方へやる。
「なかに午後ティーが入ってる」
「血ィ頂戴よ」
「え……嫌です、けど」
Pが鞄よりペットボトルを取り出す。それはレモンティー味だった。彼はキャップを回すのも億劫そうにしてから、その黄色い液体を浴びるように飲んだ。
「これからは、」
テツヤが向かいの席に座る。だらん、と両腕が脱力している。
「海外の精鋭たちとか、国内のビックネーム──睡眠塔、玉音放送局、埼京線、なんかが来るかもね。奴らは一切顔が割れてない。警戒しよう」
「……そうだね」
Pが頷くと同時に、仕事鞄からヴァイブレーションの音が鳴った。
「テツヤ電話」
「無理だよ」
「はぁ……。よいしょ、っと」
Pは身体を起こすと、仕事鞄を持ってテツヤの横に座った。そしてスマホを取り出すと通話に切り替え、彼の耳へと押し当てる。
「はい」
応答するテツヤ。
スマホの奥から聞こえる言語を、Pは理解することができない。きっと訊いても教えてくれないのだろうな、と彼は勝手に諦めていた。
やがて会話は終わり、テツヤは「もう大丈夫ありがとう」と呟いた。
「タバコとってくれない」
Pは無言で鞄を漁ってケースと青い百円ライターを取り出した。
一本だけ抜き取り、咥えさせる。銘柄は分からない。
テツヤが顔を屈めた。Pは手を伸ばし、ライターの火を手で守りつつ、点火してやる。
「………────ふぅ」
燻らせた煙が割れた蛍光灯へと滲む。
六号車は静寂。夜景の光が窓から届いて、埃の体系を照らしている。
辛い、喉が乾いた、とテツヤは思った。午後ティーあげるんじゃなかった。
「今の、仕事?」
Pはライターを仕舞いつつ、軽く云ってみる。
「いや……」
テツヤが首を振る。
そしてアメスピの挟まった口角を、ゆっくりと上げた。
「先手を打った」
つづく
第一話 子育て・ラーメン・日本刀
感想くれ