アルカンシエル(1)
ふと空を見上げると、虹がでていた。
何かを見ることなしに空を見ることも、何を考えるわけでもなくぼんやりと虹を眺めることも、とても久しぶりのような気がした。
「大人になると、世界が小さくなる」
昔、誰かが言っていたが、まったくその通りだ。
空も見なければ、地面を見ることもなくなってしまった。
子どもだった頃にくらべて、今では蟻の行列を見ることが少なくなったが、蟻が少なくなったわけでも、何が変わったわけでもない。下に目を向けることがなくなっただけだった。
僕もそうだ。
上を見なければ、下も見ず、道は目の前に広がるものだけだと思い込んで、ひたすらにその道を進んできた。気が付けば、周りには誰もいなくて、みんなそれぞれ自分の道を見つけて進んでいっていた。
どこで間違ってしまったのかは分からない。今まで進んできた道に何の意味があったのかも分からない。
「疲れたな」
歩きづくめの足がそう言わせたのか、僕の心のうちを代弁してくれたのか、ついそんな言葉が口から出た。
もう一度、空を見上げると、はるか上につむがれた虹はただただ美しかった。美しいという言葉が何だかとても陳腐に思えた。
そして自分が虹に沿って歩いていたことに気付き、けっきょく進む方向が決まっている道でしか歩いていない自分を思うと、より一層苦々しい気分になった。
もうかれこれ二時間近くは歩き続けている。行くあてもなく、知らない電車を乗り継ぎ、知らない駅で降り、知らない場所を歩いた。田舎感丸出しの駅の雰囲気が自分の育った町に似ていて、つい降りてしまったが、歩くにつれて建物の数がみるみる減っていき、今では雑木林のようなところに迷い込んでしまっていた。
日頃まともに運動をしていなかったせいで、ゆっくり歩いているというのに息は切れ、足の関節が悲鳴をあげ、額にはみっともないくらい脂汗がういている。
先ほどまで降っていた雨をしのいでくれていたレインコートはかさばって邪魔になり、雨水をすいこんだ地面はぬかるんで歩きづらい。
それでも悪い気分ではなかった。
心の底には苦々しい何かが沈殿しているが、歩けば歩くほど清々しさに似た感情がにじみ出てくるのだ。その清々しさの原因がひどく安易なものだと分かっていても、僕はそれでよかった。
いや、あとになって考えると、よかったと思いたかっただけなのかもしれない。
早朝に出発したはずが、そろそろ空腹の限界をむかえたころ、先ほどよりも薄くなった虹のさきに小屋を見つけた。
外から見ても大分年期の入ったものだったが、そろそろ体を休めたかったのもあり、中に誰もいないのを埃っぽい窓から確認した僕は、迷わずドアに手をかけた。
鍵はかかっていなく、ドアが木製特有の不快な音をたてながらひらく。
新鮮な空気がはいり、まいあがった埃やちりが、雨がふったあとの太陽にてらされ、一瞬それがひどく神聖なもののように見えた。
小屋の中はかびくさく、ブルーシートや工具やらでひどく散らかっていた。よく見ると、それらも床同様に埃をかぶっており、この小屋はどうやら最近使われていないらしかった。
さしづめ、この辺りの木々を伐採などしていた作業員たちの物置小屋というところだろうか。
さらに休憩所も兼ねていたらしく、ブルーシートの下には仮眠に使っていたであろう簡素なベッドもあった。また有難いことに手洗い場のとなりにはガスコンロもあった。
それを見ると、思い出したように腹がなり、僕は重かったリュックを下し、中からインスタントのラーメンと小さな鍋を取り出した。何かあったときにと鍋も持ってきたが、まさかこんなに早く役に立つとは思わなかった。
しかし使用されていない小屋に、まだガスや水道が通っているのだろうか。
そんな僕の心配をよそに、水道もコンロも使えることができ、思ったよりも簡単に昼食にありつくことができた。
出来たてのラーメンの湯気が鬱陶しく僕の顔にぶつかり、その後にあのインスタント食品独特の、食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。
僕は手をあわせることもせず、すぐにはしを手にとり、むさぼるように食べた。
そして途中で気が付く。
何も変わっていないじゃないか。
散らかった工具が無造作に置かれた洋服に変わり、今までなかったはずのテレビは電源がついて、あてもなく喋りつづけていた。
見覚えのある風景だ。
それは今日出てきたはずの僕の部屋だった。
ラーメンの器は、先ほどリュックから取り出したプラスチックの容器ではなく、馴染みのある、少しひびの入った食器になっていた。
一口すする。
歩きづくめの疲労感が香辛料となり、美味しいとつい言葉が漏れてしまうようなものではない。
一週間の内に何回も食べ、もう飽き飽きした味気ないものだった。
僕の服もいつの間にか、くたびれたスーツに変わっていた。よれよれになるまで着られ、たった一回も褒められることのなかったワイシャツはへそを曲げたのか、えりを少しよじらせていた。
「これからは、自分のシャツは自分で洗って」
吐き捨てるような言葉が僕の後頭部にぶつかる。
ここで聞くはずのない声だ。そしてここで聞きたくない声だった。
はっとして振り返ると、そこには誰もいなく、ブルーシートをかぶったベッドがあるだけだった。
立ち上がって、辺りを見渡す。その反動で座っていた椅子が音をたてて床に転がった。
するとまるでその音を合図にしたようにすべてが元に戻った。何の変哲もない、少し埃っぽい小屋だ。
「けっきょくただ逃げてきただけってことか」
自然と手に力が入る。
「いや」
手から力がすっと抜けた。
「逃げることもできてないか」
ラーメンの湯気は先ほどよりも細くなっていた。
昼食をすませ、休憩がてらブルーシートが置かれたままのベッドに腰かけると、朝が早かったせいか、歩きづめで疲れていたせいか、はたまた腹がふくれたせいか、急に眠気がおそいかかってきた。
埃っぽいシーツを少し気にしながらも、体を横にすると、そこから起き上がる気力はすぐになくなった。仮眠用のベッドのため、寝心地はお世辞にもいいとは言えなかったが、自分の家のベッドで眠りにつこうとしていた時よりは数段、気持ちは楽だ。
そして知らない間に、現実から夢へと世界が入れかわっていた。
アルカンシエル(1)