観察
一
その結果を記すことにより、観察を終えられるのだと考える。そのため、以下に観察結果及びそれを踏まえた推測や疑問などを文にまとめた。その内容から、私が得られるものは非常に少なかったが、言葉を紡いで繋がった理路をなぞる指に刺さる棘がある。意識のツボに当たるようなその感触を逃さないよう、彫り進めた力加減の証を形にし、また新たに目に映るものを見て、考え、思うところをつらつらと綴っていきたい。
アスタリスクが付いた文章は、そういう意味の区切りとなる。流行りの断捨離に倣い、書き捨てる。
その過程においては、自身が踏まえる分別を幾度も吟味した。
一つの基準を鉈のように振るい、陰を生む枝葉を切り落とす怖さをしっかりと識りたい。こう記す程に容易ではないこの淡いの振る舞いは、枝葉の間から差し込む陽光を地面に落とし、風に揺れる不思議な動きと心地良さを感じる木漏れ日に通じていると信じる。
自然の中に生きる人が何をどう振る舞おうと、自然は自然、人は人である。
交わらないが、共演できる。
個々の存在の大切さである。
*
規則正しい生活を送る人物の主たる目的は、時間を効率良く使うことにあると推測できる。
そのため、時間を効率良く使うことより、優先すべき事項が生じた場合、普段と違う行動を取ることは当然にあるだろう。時間を効率よく使うことも、生活に関わる選択の一つに過ぎないからである。
したがって、規則正しい生活を送る人物が普段と違う行動を取ったからといって、「自分たちが行っている自殺に追い込むための実質的殺人行為によって、普段通りの行動を取ることが出来なくなった」と断じることは、正しいとはいえない。
規則正しい生活を送る人物の行動を外部から把握できるその時間に合わせて、おおよそ一時間前から自分たちが信じている間接的殺人方法を実行したからといって、その事実をかかる人物が正しく認識し、そこに込められた殺意の表現を十全に理解して、「自分たちなら」と想像し、その人物が味わっていると期待するところの苦しみにより、今にも死にそうになっているから普段通りの行動を取ることが出来ない、と判断し、ケタケタと壊れた笑いを浮かべる。それは殺人を実行している自分たちの薄暗い願望の反映であり、各人の脳内で浮かべた妄想の域を出ない。当然にあり得る結果である。
風が吹けば桶屋が儲かるどころでない、その因果関係の見出し方からは、殺人未遂を犯していると自覚し、行動している人物の都合の良い『現実』が窺える。
殺意の表現を用いる方法への信頼は、結局、各人が抱くかかる方法への恐怖心の裏返しであり、どうにも出来ないなら、それに積極的に参加し、コントロールできる側に回ることによる自衛の選択でもあるのだろう。
しかし、その方法に積極的に参加したところで、その殺害方法の舵を握ることができる者は現れないと判断できるのは、その方法が観念的な存在に過ぎない『団体』性に依存しながら、かかる『団体』を規律する規範が何ら確立されていないために参加者個々人の足並みが揃わない可能性を排除できない。そのために、積極的参加者は他の参加者が概ね取っている行動パターンを把握し、それを真似することでしか、目的とする殺人への参加を実行できない。したがって、各参加者は、『団体』が行なっている殺害方法を真似するという受動的立場に必ず立たされることを理由とする。積極的参加者の誰もが仮定的主体として殺人の責任を負わせた『団体』に飛び込み、その渦に巻き込まれることでしか、その『殺人』を行えない。
ピンとこない、という積極的参加者の意見を想定して記すと、「舵を取る」ということは、積極的に参加している仮想の『団体』として殺人を一切行わないという消極的選択をも皆で自由に行えるということである、といえば十分に理解されるだろうか。
他の積極的参加者が行っている殺意の表現を前に疼いてしまい、「殺せなかったアイツに対して負っている」と思い込み、自分勝手に腹を立てている今までの『負け分』を取り戻せる良い機会と即断し、自身の殺意の表現を実行してしまう。または、参加しないという選択により、他の参加者から目を付けられるかもしれない恐怖心にその背中を蹴られ、取り敢えずでも殺意の表現を行なう。これらの参加者は、各参加者が行なっている『殺人』の有り様を知っている。だから恐怖心を覚え、それに突き動かされて前記した選択及び行動を取らざるを得ない。
止めたいときにいつでも止められるという決定は、このようにして選択されない。相手に行っているはずの殺意の表現がもたらす『団体』内部への効果である。
巻き込まれている、という感覚は、しかし積極的参加者の内心では適当に誤魔化され、重要な問題点として認識されていないと思われる。
不特定又は多数人に紛れ込み、同じ参加者であるが故に他の参加者が行う殺人に向けた表現に誰よりも刺激されるのは、各参加者である。自らも同様の表現を行い、相乗効果で「アイツを殺害しようとしている」ことに異様に興奮し、殺意のエクスタシーに達する。間接的殺人に積極的に参加する方々が味わうであろう、この過程を繰り返すことにより、普段被っている常識人の観点から指摘できる様々な問題を塗り潰すことは容易になる。酩酊している、と表現してもいいこの状態は、そのうちに各人の脳内における通常のあり方になる。そうして一種の中毒性を獲得する。そうなった場合、その目に写るすべての出来事が、自身が実行している殺人行為に彩られ、それに関連する意味しか認識できなくなる。
例えば、必死に目を擦る、という行為を殺人の意味を込めたものとして常日頃、積極的に実行している人物は、ターゲットと勝手に設定している相手が自分の目の前で同様の行為をとった場合、自分自身への殺害行為の仕返しをしている、と直ちに判断する。そして、さらなる仕返しとして、その相手に向けて同じ行為を何度も何度も繰り返すだろう。その相手が、身体的反応としての痒みを解消するために適度に目を擦っているという常識的な判断は、自身が行っている殺人行為の意味に縛り上げられ、その人物の頭の中から完璧に排除されるからである。
表面的には守っている常識人の立ち位置から感じられる、悦びを伴った背徳に支えられた価値観、感覚でしか『世界』を把握できなくなる。過剰な色眼鏡がその内部に深く食い込んでいる。
パターン化した殺人はまた、把握されれば、容易に処理される。しかも、かかる殺人を実行することにより、その相手に「殺人を実行する人物」と評価される根拠を与える。さらに、それを常日頃繰り返すことによって、その相手をして「この人物は意味もなく人を殺そうとするのが通常であり、人を殺さない方が異常である」という、本来ならば他の者に下し難い評価を可能とさせる。それでもなお同様の行為を繰り返すその人物に対しては、しかし、ターゲットになっているはずの相手が思うことは既にない。一応の関心を抱いた事象として、すべき評価はされ尽くしている。あとは認識する必要のない情報としてその全てがただの背景となり、その相手の日常に溶け込む。
そんなはずはない、と積極的殺人への参加者の方々は異を唱えるかもしれない。参加者の人数が増えれば増えるほど、殺人の表現の圧力が高まり、相手はそれを無視できなくなり、自身が想像する通りに苦しみ、自身がそのターゲットととなったときに判断すると確信する自死を選ぶはずだ。そう声高に主張されるだろう。
果たしてそうであろうか。先の規則正しい生活を送る人物を殺害しようと試みる参加者の例からも見て取れるが、積極的参加者が採用する間接的殺害方法はそこに込めた殺意の表現を相手が認識し、十全に理解し、期待する通りの感情的反応をしてくれなければ意味がない。この点で、かかる殺害方法はコミュニケーションそのものである。
コミュニケーションは、受け手がいないと始まらない。その受け手の気持ちを動かすのが極めて重要となる。そのための工夫を施すこと、相手を知り、相手を理解し、相手に寄り添う努力が欠かせない。
さて、ろくに相手を知りもせず、何もかもが自分と同じだと断定し、その脳内に繰り広げる『世界』観に基づき、自分に対して行われたならば死ぬしかないと確信している妄想を駆使し、不特定又は多数人という仮面を被っているつもりになってその身を晒し、必ず成功すると思い込んでいる『殺人』を恥ずかしげもなく行っているその『個人』の有り様を、とても冷静に観察する相手から見て、その殺意の表現は、その心を動かす程の魅力があるといえるだろうか。
いやいや、そちらがいま述べたように、間接的殺害方法の肝は相手の否定的な感情を引き出すことだ。だから、相手が指摘することの内容から「嫌がる事」がないかと読み漁り、「これだ」と思ったのと同様の行為を繰り返せば、その相手をより精神的に追い詰めることができる。だから常にこちらがイニシアチブを握っている、そういう『強者』の立場にいま立っている。そう、積極的参加者が主張することが考えられる。指摘によって、殺人を実行する積極的参加者として素っ裸な状態に置かれたにも関わらず、各参加者が自身の行為を省みる素振りすら見せない理由はおそらくここにある。
考えてみよう。殺意の表現に対する指摘には、どれだけ低いものであっても、その間に成り立つ共通理解を打ち立てるための基礎が見出せる。お互いに分かり合えるだろう、という思いから、各参加者がなぜ人を殺そうとするのかを理解しようとする指摘を行う者の態度表明がそこに見られる。また一方で、反発などはあって当然、しかし指摘したことに対する理解に向けた動きが各参加者の方でも生まれるはず、という期待が表れている。
しかしながら、その側面に窺える話し合いへの気持ちを踏み躙ることこそ、積極的参加者が関心を向けるところだろう。「裏切り」あるいは「上げて落とす」等の参加者が好んで採用する殺害方法の特徴は、落差を用いた追い詰め方が有効であると彼らが判断しているからであり、その相手を自死に追い込める刺激的なスパイスであると彼らが評価している証左である。彼らの内面に食い込んだ色眼鏡が映す『世界』では、心躍る瞬間かもしれない。
確かに裏切りは、期待に膨らむ腹を破って生まれ出る。こう記せば、積極的参加者の方々からの賛同を初めて得られるだろうか。
だが、とその期待を裏切るために、ここでもう一度記そう。
「この人物は意味もなく人を殺そうとするのが通常であり、人を殺さない方が異常である。」
この最終的な評価を各参加者に下した人物がする指摘があるとすれば、さて、そこにある『期待』は何だろうか。
表現は「人に見られる」ことを前提にする、と何度も記す。そのために、あらゆる形で行われる表現は、相手の受け取り方を想像している。伝えたい事をできる限り正確に伝えるために工夫は必要であるから、時と場所に応じて自身の対応を変えるのは、相手と繋がるブリッジを適切に築くための努力である。そのために、書き手が素直に思うところを記さない、あるいはその記し方を変えることは正しい。表現はある意味で「伝えたいことを伝えるための」作り物である。各参加者が行う殺意の表現であっても、この点に変わりはない。
敢えて他の表現と比較し、積極的参加者が行う殺意の表現に欠けているものを指摘するならば、その表現が狙い通りに相手に受け取られるとは言い切れない、と冷静に判断しない点であろう。表現に託した意味に誤解や曲解が生じる可能性を考慮し、または誤解や曲解が相手との間で現に生じたときに、それを正す方向に表現し直し、相互理解を目指す修正を積極的参加者は行わない。寧ろ、誤解や曲解は各参加者が望むと推測する。
常識的な振る舞いに託された殺意、という裏腹な表現が各参加者間において最上の殺害方法と評価されていることは、その実行の仕方を観察して窺える。表面的には法的にも社会的にも責任を問われない、しかしターゲットにおいては今にも死にたくなる表現となっている。安心安全な立場から、一方的殺人を仕掛けられる。『強者』として振る舞える。だからこそ、この方法が彼らの間で評価される。
そのために、過激な表現やいわゆる『匂わせた』要素を殺意の表現に散りばめ、否定的な解釈を行うように誘導する。こうすることで相手を自死へ導ける、そう思っている。したがって、誤解や曲解は各参加者の望むところなのである。正すなんてもっての他、と彼らは口を揃えるだろう。
このような殺意の表現を行う積極的参加者の態度が、他の表現の受け取り方にも影響を与えることは先にも記した通りである。その『世界』は常に自身の殺意に足を引っ張られて誤解され、曲解される。
しかしながら、解釈は対象に対する理解であるために、その根拠となった価値観や世界観を暗黙に肯定するというフィードバックが生じる。自身の内面的な世界を構築する要素を、理解を通じて踏み固めている。そうして、自分の世界が確固たるものとなっていく。反面、他の世界の有り様が否定される。そういう自身の『世界』観に関する重要な判断を行う側面が、「理解する」という行為には存在すると考える。
自身の『世界』観を左右する「理解する」という行為を意図的な誤解や曲解を通じて行えば、その『世界』観は殺意という梃子が求める方向に曲がるのは当然だろう。発想を変えれば、積極的参加者はこのような『世界』の見え方を殺害対象に求めているといえるかもしれない。なぜなら、その『世界』には殺意が溢れている。したがって、殺害対象はその全てに恐怖する。各参加者の姿を見ただけで自死してくれるかもしれない。そう期待して彼らが行動する可能性は十分にある。
では、指摘をする者はこの点を承知していないのだろうか。パターン化された殺人に何の感慨も浮かばない人物が見ている『世界』は、彼らが期待する様に全く同じものなのだろうか。
コミュニケーションは、発信者が込めた表現に広げる可能性を受け手が引き受けるからこそ、かかる受け手がコミュニケーションを支えているといえる。そして、かかる受け手が行った返しの表現を受ける、かつての発信者がまた、その可能性を受け持つことでやり取りの面白さが生まれる。反対に、決め付けられた表現の不毛な大地に芽吹くコミュニケーションの可能性は見出し難い。発信した表現が一度も交わらず、平行線に終わっても不思議でない。
誤解や曲解しか行わない相手である、と分かって行われる指摘に込められた期待は相互理解に向けられていないと仮定した場合、それはただのひとり言又は自問自答と言い換えていいだろう。しかし、ひとり言又は自問自答も言葉として読み解かれれば、その表現が地平に向かって消えることなく、読み解いた者の中に息づく。その言葉が、読み解いた者の内に生きている。既にその者の言葉となっている。解釈を通じた芽吹き方をし、すくすくと育っていく。
このようなやり取りをも広い意味でのコミニュケーションといえる、という同語反復めいた包み方を施せるのが言葉の面白さであり、怖さである(意味で作られる『世界』は果てしない)。
広義のコミニュケーションの枠で捉えれば、先の指摘の最低限の目的はただその内容を「読める状態にする」という点にある、と指摘できる。ならば、その効果を考えるのが理解の助けになるだろう。つまり、既に記した意味による『世界』の拡張である。積極的参加者の方々が望む『世界』観の相対化、彼らが期待する『呪い』の肩透かしである。
積極的参加者の方々が信じる、殺意の表現が絶対に通じる『世界』と並ぶ『世界』、その表現が意味もなく片付けられる(かもしれない)『世界』、積極的参加者が『積極的参加者』そのものとして取り扱われる『世界』。『世界』。『世界』。
ここで、相対主義に対する有名な批判に基づき、「殺意の表現による間接的殺人が通じない『世界』観が存在できる、という主張が絶対に正しい」と主張することは矛盾であるという批判が、積極的参加者の方々から主張されることが予想される。この指摘は論理的に正しい。
殺意の表現が通じない相対的な『世界』観が正しい、と主張すれば、他の『世界』観を否定することになる。異なる『世界』観を否定している時点で、先の『世界』観が絶対的になる。矛盾である。
しかし、積極的参加者の方々が殺意の表現で誰かを『呪う』のと同じく、広義のコミニュケーションの枠で捉える、先の指摘が目的とする『世界』観の相対化もまた理屈を用いた『呪い』だとみるとき、かかる目的は理屈に頼りながら論理的な正しさとは無関係なところで成立する。すなわち、「そうかもしれない」と思わせることにより他の『世界』観の可能性を生む。この時点で、その『呪い』は成功している。
それは屁理屈だ、その主張でいえば、『われわれ』の行なっている殺意の表現も「怖い」「死ぬかもしれない」と思わせた時点で、目的とする『呪い』に成功している。ならば、『われわれ』の表現は絶対的で、誰も逃げられない。そうなる!と主張する積極的参加者も居られるかもしれない。
確かにそうだ。しかし、「そうかもしれない」と思わせることにより他の『世界』観の可能性が生まれている。この時点で、先の指摘の『呪い』は成功しているといえる。
それは屁理屈だ、その主張でいえば、『われわれ』の行なっている殺意の表現も…。
確かにそうだ。しかし、「そうかもしれない」と思わせることにより…。
いや、だからそれは屁理屈だ、その主張でいえば、『われわれ』の行なっている殺意の表現も…。
確かにそうだ。しかし、「そうかもしれない」と思わせることにより…。
いやだから…。
確かにそうだ、しかし…。
意味と戯れる、『呪い』の肩透かし。この辺りで止めておこう。
「そうかもしれない」と言えない、認めたくない積極的参加者は殺意の表現を絶対視したいのだろう。その状態は、その表現に縛られていると言ってもいい。「人を呪わば穴二つ」という言葉が、ここに来て現実味を帯びて響く。
ただし、こだわりが必ずしも悪い方向に働くとは言えない。したがって、その当否の判断は参加者本人に任せるべきと考える。
*
間接的殺害方法に慣れ親しんだ参加者にとって、その方法はあって当たり前である。気に食わない等の内心の感情が燃え上がれば、すぐに準備は整い、あらゆる仮面は脱ぎ捨てられ、いつでも積極的参加者として殺人を実行できる。ただし表面的にはバレない形で、という薄い仕切りにより生まれている都合のいい認識が生み出すのは、「例外、例外」と彼らが口にしながら、原則的に採用する殺人の選択への傾きである。
この傾きがあるために、いまのターゲットを殺害すれば、もう二度と同じ方法で関係のない他の者を殺害したりしない、と積極的参加者が高らかに宣言しようとも、その足元はズルズルと滑っていき、時間経過とともに被っている常識人の仮面がもたらす罪悪感のようなものが薄れ、再び間接的殺害方法が容易く選択される。そうして、また積極的参加者としての行動を公に曝け出すことになる。
そのときの心情を今風に言えば、こうなるだろう。
「え、ていうか、次もイケんじゃねぇ?」
そうして始まる新たな『イベント』は、いつまでも参加者の『心』を掴み、離さないのだろう。飽きる、ということもないのかもしれない。そこにあるのも、底知れない欲の塊なのだろうから。
突発的なイベントと違い、日常の一部を成す慣習の怖さは、その慣習が、慣習に規定される者の行動で存在感を与えられているにも関わらず、規定する者の手を離れ、規定されている側に回った者たちから慣習の内容を変える等のアクセスを簡単に許してくれない点にある。
パターン化された殺害方法は実にシステマティックである。誰もが参加できるよう、単純化され、平準化された結果である。そのために、この殺害方法に積極的に参加する者か否かに関わらず、誰にでも適用できる方法として確立し易い。マニュアル有りの遊びとして、いつでもどこでも行える。つまり、間接的殺人に積極的に参加している者に対しても、この殺人ごっこは容易に行える。その対象になってしまう可能性を排除できない、という点では「舵を取れない」ことと同義ともいえる。
いま記したこの遊びに内在する欠陥は、しかし、例によって積極的参加者の間では問題として把握されない。酩酊しているから、と理由づけることもできるが、それ以上にかかる欠陥を認めることは、殺人ごっこの全面的否定に他ならない。この殺人ごっこに参加している、という事実がもたらす全能感は、おそらく何ものにも代え難い。いつでも、どこでも、誰でも殺せるという威力を信じる積極的参加者は、ここにこそハマる。
この点を否定することは、さきの観察者と同じ視点に立つ。王様の耳はロバの耳の逸話のごとく、観念的な『団体』の衣なんてどこにも見えない状態の個々の積極的参加者を前にして、頭に浮かぶ疑問は数多い。しかし、その疑問を素直に泳がすことで見られる、その尾ひれの動きの珍妙さにクスッと笑い、仕方がないとばかりに手早くそれらを片付けられる。そういう「部外者」の振る舞いを行っていることになる。
観察はその対象が分からない、知りたいという動機に支えられる。したがって、観察者には観察者以外の者が存在する。違う価値観を抱く他のもの(者、物)がその『世界』に存在する。分かり合える可能性が横たわる「部外者」でいられる。
反対に、積極的参加者には、積極的参加者以外のもの(者)がその『世界』に存在しない、いや正確にいえば存在できない。積極的参加者が行なっている殺人方法は、同じ者の間でしかその効果を発揮しない。殺害しようとする相手は『わたし』と同じである。そうでなければ、『わたし』が行う殺意の表現そのものが相手に理解される余地がなくなる。では、何のために殺意の表現を行うのか。
その相手が『わたし』と同じように『わたし』たちのことを何もかもを知りたがっている、見たがっていると疑わずに『参加者』としての殺意の表現を行えるか。
『わたし』が行なった表現により、ターゲットとする誰もが自死すると思うからこそ、陽炎のように存在感を失った良心を鼻から吸い込み、それを勢いよく吐きながら、必死に殺意を表現できるのでないか。
完全無欠の『コミュニケーション』としての殺人方法は、こうして同じ『わたし』の間でのみ通用するものとなり、積極的参加者の『世界』から『わたし』以外の者が排除され、不存在で埋められた死者の世界に送られることになる。
仮にあるとすれば、積極的参加者がそのインタビューに答えて口にする「アイツは『わたし』たちと違うから」という発言は、(誰に対してのものかは不明だが)体裁を整える言い訳以上の意味を持たないだろう。その方法は雄弁に語っている。あいつもこいつも、『わたし』と同じ仲間又は仲間となり得る、そう思っていると。
言動不一致。真に見つめるべきはその行動であり、採用するその方法なのだろう。
また一方で、積極的参加者はおそらく自分自身が自死できると断定している相手から積極的に評価される存在である、という自己の姿をその頭に描いている。再び記す『強者』というキーワードはその遊びに欠かせない要素であり、また丸見えとなっている他の参加者同士で殺し合う姿に怯えることのない、「参加者なのだから、殺される側に回ることはない」という看板で埋め尽くされた、心休まる『城壁』として取り扱われる。
さあ、ここまで記してきたことを繰り返す無駄は省く。その上で最後の疑問を記す。
相対化された「部外者」からみて、各参加者の何かが肯定的に映っているだろうか。各参加者になりたい、と思わせられているだろうか。
相対化された「部外者」からみて、各参加者の何かを知りたいと思わせられているのか。各参加者の、何を知らなければならないと思わせられているのか。
相対化された「部外者」からみる、各参加者の如何なる振る舞いがその心を動かせるといえるのか。もっといえば、参加者していない「部外者」は、各参加者のことを、各参加者が期待する程に『見ている』と本当にいえるのか。『強者』という自己評価を膨らませるバルーンの中に注入されている視線は、一体誰のものなのか。
「部外者」だからこそ答えられない問いである。それらの全てをお天道様に向けて浮かべ、見送ろう。
(一)
曖昧模糊で、手に負えなくて、御し難い。
観察を終え、主観のままに歩く世界で自身の姿を写す鏡の前に立つ時、あらゆる感情を捨てるのも、純粋に理想を投影するだけでも足りないだろう。
何が好きで、何が嫌いなのか。または、何に関心をもつのか、もたないのか。
問わないことも大切であり、問い続けるのも大事である。
コントラストのはっきりとした判断が必要な時もあるし、そうしない選択が適切な場合も少なくない。
と、考え始めると切りがない。けれど、考えなければならないことがある。
面倒臭い、と正直に言う。
でも面白い、とどこかに呟く。
カラスがカーッと鳴いたのだから、『自分』という住処にはいつでも帰れる。
意味が付き纏う『呪い』で『世界』を編もう。そうして網のように使えばいい。
受け止められるものがあるだろうし、隙間から溢れるものがあるだろう。
恥ずかしがらずにやり直す。
見直して、理解する。
省みる。
そうして、また。
二
『観察』しよう。
普段、気に留めない背表紙の絵を見つめたく思い、付着していたパン屑を指につけ、慎重にゴミ箱に入れる作業を終えることを優先した。スパイシーな具材を挟んだ食パンのカリカリした美味しさを咀嚼した真昼間は、白い光を室内に招き入れるご機嫌ぶりである。風が強くて、外気温は低くなりがちな日であったから、カーテンで遮断することを控えた。無邪気な眩しさにも目を瞑った。明かりに白く染まる床を、靴下越しに暖かく踏んだ。
そうして戻って来た机上に在る、裏返った一冊の絵と向き合った。読み終えたその暗い内容に反し、シンプルで、可愛げのある花模様は、注意深く観察すると六枚の花びらの先から色褪せており、大きな花弁全体の頭が垂れた姿と相まって、枯れ始めている印象を強く受けた。有名な装丁者の手によるものだから、何かしらの理由があるのだろう。拘りを尽くす人物と聞いている。その一冊の作者との親交も深い。
ユーモアが尽きることがなかったその物語を覆う、テーマの重さを支えていたのは間違いでも冗談でもなく、頻繁に売り買いされた傘であり、時々乗られたタクシーであり、車内に忘れられた手帳であった。その手帳に持ち主へ辿り着ける手がかりがあったか、と連想したが、そんな描写はどこにもなく、そもそも都市小説にジャンル分けできる一冊に描かれる自然描写は、ビルとともに遠く離れる天気のみである。花は一輪も咲いていない。
あるいは、そういう狙いなのか。見た目で誘う、そういうアピールを思ったが、この一冊の売りがそのテーマにあることは、背表紙より目立つ帯に堂々と書かれている。背表紙に咲く花はそれに負けている。購買意欲をそそるパンチ力は強くない。
そもそも暗い物語の良さは、開き直れる強さだろう。その物語より、現実の自分の状況はマシだと判断できる意味でも、またその物語が誰においても起き得る現実感を引き摺ってでも、頁を閉じ、物理的に歩き出せる自分に見出せる逞しさがある。
また一方で、漠然と感じていた不安などの気持ちがその一冊の中で物語られる暗さに囲まれ、目で追える形になることで向き合える良いきっかけになる。名付けられた魑魅魍魎と同じく、得体の知れなさが括られる。
得体の知れないもの、という形で取り扱える存在とは長い時間を過ごせる。そうすることで見えてくる核心があり、発見できる本音の影がある。そうして再び、一冊の表紙を開く動機が生まれる。暗い物語を占める、その暗さの濃淡を知れる。
これを成長といえるかは別にして、この一冊と長く付き合う必要があるのは間違いない。
なら、とここで思い付く。
その背表紙にある一輪は、現実に先んじてこの一冊に要する時間を過ごした。だから枯れ始めている。
あの一輪が枯れ始めるのに必要だった過去の時間は、作者がこの一冊にかけて欲しい時間を表す。その意向を受けた装丁者は、これに応えた絵を描いた。それが枯れ始めている一輪になった。
「本」という物質を用いた表現。いや、しかし穿ち過ぎの感が拭えない。
仮にそうだとしても、なぜ『花』だったのか。その役割を果たせる形象は数多い。
「何となく、」
と決定されたかもしれない装丁は、改めて見ても実に可憐で、儚い。『花』に表れる一般的なイメージを超えた手触りが、親しみを強く感じさせる。やはり、これも意図した表現と確信する。慈しみを裏返した、何かの。
足りないヒントを想像で埋める遊びを一旦止め、薬缶に火をかけた。その合間にかけた検索の結果をフリックして見つけた、「世界の歩き方」は数日で南半球から帰って来る。奥歯で噛んでいる今の『謎』に繋がらない足跡はカートに入り、いつしか届く、その間に香り立つ湯気で曇った世界で転ばぬよう、慎重に進みながら再び向き合うタイトル。そこにある明暗がまた見えるまで、待つ観察。
少し冷まして、飲んで、離す。
茎が『思っていたよりも長い』と気付いて、睨んだ。
観察