茸のミイラ
茸の考古学小説です。縦書きでお読みください。
私は大学で宗教学と民族学の教鞭をとっている。宗教の始まりに興味を持ち、古代宗教をさぐるため、アフリカの部族間の自然信仰や原始宗教の違いを調べている。そのため、民族学についても知らなければならない。調査には発掘調査なども含まれ、考古学的、人類学的な知識も必要になる。
さらに、原人、古代人、現代人の脳の発達を無視して単純に解析できない。人食を平気とする脳と、同じ人間を傷つけるのは自然と避ける脳で、信仰のあり方は当然違ってくる。脳とからだの生命科学についての知識もとり入れなければいけないと思うのが私の考えである。
そのようなことから、大学では専門に近い考古学、人類学の先生はもちろんだが、生命科学の先生方と飲んだり、宇宙物理学の専門家と空想的な会話をしたりする機会が多い。
その中の生物生態学の先生が興味のある話をもってきた。彼は緑石憲男という。
生態学の専門家は往々にして、ある動物、ある植物の一生を研究しているものであるが、彼は植物、動物、菌類、すべての生き物の生活を絡ませて、生態学をやっている人間で、発想が広くて話をしていても面白い。
彼は夏休みの終わり、家族をつれて信州原村のペンションにいった。山を散策するためである。植物、昆虫、茸、面白いものがたくさんあるという。
「三橋先生、信州に行ったとき、変なものをみつけましたよ、写真撮ってきたから見てください」
緑石先生がそう言って研究室に入ってきた。
「八ヶ岳の麓の原村のペンションに三泊してきました」
原村は八ヶ岳のふもとになり、そのあたりはその昔、縄文文化が花開いていたところである。遺跡がたくさんあり、土器、土偶を始め鉄製品などが出土している。隣の茅野市にはそこから出土した有名な国宝の土偶、縄文のビーナスと仮面の女神がある。
「茸でもみようと家族をのせて鉢巻道路を行きましてね、わき道に入ったあと、しばらく行ったところで車を止めて林にはいったらこんなものがあったんです」
そういって写真を広げた。そこには遺跡らしいものが写っていた。
彼はそれを見つけたときの様子を語ってくれた。
林の中の小道を子供たちに茸の説明しながら歩いていたそうである。目立たない山だが、そのあたりはどこに入ってもいろいろな茸を見ることができる。道があるということは、地元の人が茸採りや山菜採りによく来るところなのだろう。
「たくさん茸が生えているからよくごらん」
彼は奥さんと二人の娘を連れて奥に入っていったという。
「面白い茸があるよ、あそこの赤い茸は毒だよ」と彼が説明しながら林を歩いていたら、五歳と六歳の娘が父親の前を走り出した。
「転ばないようにね」と母親が注意したとたん二人ともぱたんと前に倒れた。足が何かに引っかかったのだ。
「ほら大丈夫か」と両親が駆け寄ったが、子供たちは元気に立ちあがった。
「ここに段差がある」、小道の脇が少し高くなっていて。それに足が引っかかったようだ。
そこはちょっとした草原になっていて木が生えて いない。クローバやタンポポなどの丈の低い草が生えている。草原は木々に囲まれていて日当たりも悪くない。こういうところにも茸は生える。背の高いたくさんの唐傘茸が、草の中から頭をだしている。
彼が草原に入ったとき、やはりつまずきそうになった。かなり段差がある。どうも石のようなものが道と草原の間にあるようだ。
彼は奥さんに段差があることを教えて、注意してあがるように言った。二十センチも高くなっているだろうか。草でわかりにくい。
子供と奥さんを唐傘茸の間に立たせて写真を撮った。
「唐傘茸は食べられるんだよ、採ってごらん」
子供たちは喜んで茸を採ると両手に持って掲げた。子供用の雨傘にできるほど大きな傘だ。二人は茸を持って走り出した。反対側にいくとまた二人ともころんだ。
両親はほらほら注意しなければと駆け寄って子供を抱きおこした。
「大丈夫かい」子供に怪我はなかったが、もっていた唐傘茸は壊れてしまった。
草原の周りを歩いてみると、かなりきちんとした円形である。直径が20メーターほどだろうか。
彼は草原の縁を靴で踏んでみたところ、かなり堅い。枯れ枝を拾ってきてそこを掘ってみたそうだ。草を取り去り、土を掘ると、丸っこい石の頭がでてきた。それが並んでいるようだ。所々チェックしたところ、草原の縁のまわりすべてを丸い石が囲んでいることがわかった。
遺跡であることはすぐに気がついた。掘り出してみた石が自然のままのものではなく、人の手が加わっている。
見せてもらった石の拡大写真では、卵の頭の形をした同じ大きさの石が並んでいる。
「回りを掘ればもっと石は出てきたと思うが、時間もないし、そのままの方がいいと思ってやめた」
「面白いね、どうもありがとう、なんだろうな、面白い、この写真を境先生にも見てもらうよ」
境民雄は人類学、特に縄文時代に興味を持っている学者である。
「もし夏休み中に行くなら、一緒にいって場所を教えるよ」
「うん、学生も連れて行くから、そうなったらよろしくお願いします」
境先生が出てきたときに、その写真を見せたら、目を輝かせた。
「すごいね、原村のあたりには縄文遺跡がたくさんあるよ、関係があるね、僕も仲間にいれてよ」
ということになり、夏休みが終わる前に、行くことのできる学生を誘って、緑石先生の見つけた遺跡を見に行くことにした。
それから一週間後、研究室のスタッフとともに、車をしたて、緑石先生に案内をたのんで出かけた。
中央高速に乗れば大学から原村は遠くない。小淵沢からすぐである。
案内された場所は確かにきれいな円形の盛り上がりであり、直径は20メートルあった。周囲にはきれいに頭が丸くされた石が埋め込まれている。明らかに人工物である。
最近地中の中の構造を地上から探索できる機械が日本で開発されている。エジプトの墳墓の探索にはその機械が用いられていて、砂漠の中に隠れていた太陽の船や新たな墓がみつかっている。我々も物理工学の先生の協力を得て小型のものを使っている。
最初にその機械で調べたところ、円形の草原には石でできた直径が10メートルほどの円形物が埋まっているようである。
最初に回りに埋まっている石を一つ掘り出した。以外と長いもので、取り出すまでかなり深く掘った。でてきたのは直径が20センチの頭を持った茸形のものだった。長さは40センチほどある。それに茸城の石と石の間に細い石が挟まっている。
茸棒と呼ばれる縄文時代の出土品がこのあたりの遺跡からでている。石でできていて、祭祀に用いられたのではないかと考えられている。しかし、一見茸のようでもあるが、茸棒はもっと単純で、頭と下の部分で太さがあまり変わりがなく、どちらかというと、男性の陽物と考えられてもいる。この円形遺跡を囲む石は紛うことなく茸そのものの形である。傘の下に襞まで彫られている。他の県の縄文遺跡から茸の焼き物が出土しているが、形から言えばそれに近い。だがここのものは形や大きさが一定で石でできている。
縄文人は茸をかなり大事な食料、もしくは薬として用いていたと指摘されている。ここもそういった儀式に用いられた祀りの場の可能性もある。さらに地中に埋まっている円形の大きな石は石室ではないか。もし遺体が安置されていれば墳墓ということである。新しい発見につながりそうだ。
その時は二泊ほどして、大体の見取り図を作り、写真を撮るだけにとどめて、研究室に戻った。
本格的に調査するには、県や町の教育委員会などに報告して発掘許可をもらう必要があるので、その資料を整えなければならない。
仮に円形茸遺跡と名付けて調査を進めることにした。それを解析すると同時に、あたりに同じようなものがないかどうか探す必要がある。そうなると、我々の研究室だけでは無理であり、県や市、文科省からの財政的な援助も必要になる。
夏休みがあけてから、地元の教育委員会にその話を持っていった。
原村地域の教育委員会は遺跡の調査には力を入れている。もちろん諸手をあげて協力をしてくれることになった。町には、すでによく知られた縄文時代の住居跡の復元などがあるが、その上をいく発見で、日本中が注目してくれるのではないかと期待された。教育委員会のほうから、地元のアマチュア考古学者たちに連絡が行き、協力していただく段取りをとりつけてくれた。
アマチュア考古学者たちの活動力には専門家とは違った、余計なものにとらわれない自由で強いものがある。我々研究者は会議やら論文書きやら、研究費申請やら一般向けのイベントの準備やらあり、調査に割く時間がとても少なくなっている。アマチュアはともかく掘って、新たなものを掘り出す喜びを第一の目的でいどむ。われわれの集中力とは違ったものがある。
実際、この円形茸遺跡も彼らの力が不思議なものの発見につながっていったのである。
地下の様子を地下探索機で詳細に調べた結果では、まず円形の丘のまわりには8800個の茸の形をした石がならべられており、茸の形の石と石の間には茸の柄の部分の細さを補う細長い石が埋められている。こうしてしっかりした石垣が形作られていて、驚いたことには、それが何段にも重なり、探索機では地下10メートルまで続いている可能性が示された。
円形茸遺跡は土でできているが、真ん中の地下5メートルのところに直径10メーターほどの円形の石造りと思われるものが埋まっている。仮に石室とよぶことにした。その回りは土ではなく小砂利のようである
土の組成を調べた結果、遺跡の上を覆っている土は林の中のものと同じだが、1メートル下の土は異なるようである。有機物が豊富で畑の土のような感じを受ける。ということはこの円形の丘には何か植物が植えてあった可能性がある。友人の植物学者に見てもらった限りでは茸の培地のような気がすると言っている。この円形の丘に茸だけが生えていたとすると、なかなか見事な景色であったろう。
肝心なことは、円形茸遺跡ができた時代だが、茸の形をした石の同位元素の放射線量から年代測定をしてもらったところ、今から一万年前ほどだろうということである。ということは初期の縄文時代の可能性がある。その時代に古墳などはなかったと思われるので、何か儀式に使われていた場所と考えられるかもしれない。縄文時代の初期からそのような信仰の仕組みがあったことがわかるとこれも新しい発見になる。
掘り始めるのは全体の様子がしっかりとつかめてからである。
そのようなとき、一人の遺跡マニアが隣の山の中腹に同じような円形の丘をみつけた。まわりを広く調べるべきだと主張していた男である。本人は原村でペンションを経営している。そちらはほとんど奥さんに任せて、遺跡探しに情熱を手向けている男だ。
第二の円形の丘も最初のものとほぼ同じ大きさで、円の回りには同様の茸形の石でできた石垣があった。
「二つあったら、もっと見つかりますよ」
見つけた早川紀夫は日に焼けた顔をほころばせて言った。年のわりにはきれいな歯並びをしている。本当のマニアである。経済学出身でどちらかというと文学少年であったらしく、SFを読みあさった結果、異星人の足跡を探すことから考古学に目覚め、遺跡の発掘の楽しみを知ったという経歴の持ち主である。
「そうかもしれませんね」
「円形茸遺跡がいくつでてくるか、先生、縄文人は数字をどのように知っていたのでしょうか」
「数字はなかったかもしれませんが、数の概念はあったようです、土偶のようなものに丸の数などであらわされているようです」
「最初の円形茸遺跡の回りの茸石は一列が8800個という数ですが、8という数に意味はあるでしょうか」
「さあ、今では8の字が無限や末広がりを示すので、ずいぶん好まれているようですけど、数字のない当時8に意味があったかどうかわかりません、むしろ三角形から三、とか四角形から四とか、生活の中のよく使われる形から、意味を持たせたりするのじゃないでしょうか」
「縄文人は丸が好きですね」
「そうですね、家は丸く地面をほって、そこに草葺きの家をたてている。そのとき柱などを必要なものを立てるわけですね」
「今のように四つの柱ですよね、支える力をよく知ってますよ」
「柱の数は家の大きさによりますが、柱と柱の間がだいたい35センチメートルになっているという報告もありますよ」
「規則正しく作ることを知っていたわけですね」
私はうなずいた。
「しかし、この円形遺跡は住居ではないので、別の規則性があるかもしれません」
「土の中のものが石室だったら、墳墓ということで、縄文人の見方が変わります」
「縄文人は死んだ人を、そのまま住居の脇に埋めて石などをならべていたようです、石を並べるということは、死に対して悲しみや、恐れや何らかの感情をもっていたのでしょう、あの石室に特別の人を葬ったものだとすると、おっしゃるとおり、すごい発見になります」
「円形茸遺跡の近くには住居跡は見つかっていませんね」
「そうですね」
「もし墳墓でないとすると、何かをする場所ですから、何をしたか明らかにすると、また面白いですね」
「そのためにも、一号遺跡を掘って調べるのと、第三、第四のものがどこかにあるか調べるのと同時進行させ魔性、早川さんはもちろん第三の遺跡発見に力を注いでください」
「もちろんです、楽しみで仕方ない、寝ないで歩きますよ」
本当のマニアだ。
一号円形遺跡の上には大きなテントがかぶせられ、発掘が始まった。それからは面白いことが次から次へと発見された。
掘り進めていくと、最表面の下の肥沃な畑の土のさらに下したにはとてもきれいな均一な赤い土の層があらわれた。これは赤土で、関東ローム層、すなわち富士山の噴火により堆積した土である。特に赤いものを選んで使ったようで、赤にも意味がありそうだ。
探索機の調査では5メートルほどのところに石室のようなものがあるはずで、その回りは小砂利のようだ。
学生や手伝いのボランティアの人たちが、見落としがないように丁寧な手作業で赤土を取り除いた。
十日ほどかかって、5メートルの深さまで掘り進んだ。やっと石室の上の部分が現れた。周りは白っぽい小さな石のはいった土である。その土の層は、石室の周りを5メートルの幅でかこんでいる。
「何でまわりにたくさんの砂利なんかいれたのでしょうね、水気を含んでしまって、石室にはよくないでしょう」
大学院生が不思議そうだ。
「そうだね、それに砂利だとするとどこの川から採ってきたのだろ、意味があることは確かだからその点も詳しく調査だ」
大学院生が土にまみれたいくつかの白い小石を手に取ると土を布で払った。
「先生、これ、石じゃありません、象牙、いや、歯のようです」
自分も手にとってみた。確かに人の歯だ。
「みんな歯ですよ」
大学院生は歩き回って表面に出ていた小石を調べた。
すべてそうだとすると、直径20メーターの円形の土地で、地上から5メーター下から、どこまで歯が埋まっているのだろう。すごい人数の人の歯である。
「掘るのをやめてくれ、これから、区画割りをして、上の方から採った砂利は、いや歯のようだが、袋に入れて保存をする」
おおよそ50センチ四方の区画わりで番号を振り、担当者は50センチ掘り、歯の入った土を袋にいれるという作業を行った。深さごとに歯の状態をしらべることで、あらかじめためておいた歯を土にまぜ、いっぺんに作りあげたものか、長い年月をかけて歯をなげいれたりしたものかあきらかする。それに遺伝子調査もできるかもしれない。
縄文人の専門家と歯科医師による歯の解析チームを構成しなければならない。
この発見はかなりセンセーションなものになるだろう。
もう少し詳細な検討を加えた上で、町とうちの大学の合同の記者会見をするのがいいだろう。調査を進めるのに人件費が必要である。研究費獲得には少しオーバーに宣伝しなければならない。気が進まない話だがしかたがない。
こうして、より丁寧に発掘は進められていった。円筒形の石室の周りの歯の入った土の部分が取り除かれていくと、石室は綺麗に切り出された石が詰まれて作られていることがはっきりしてきた。
石室の屋上に、直径が2メートルほどの石でできたマンホールの蓋のようなものがあった。そこが出入り口のようだ。
円筒形の石室の上から、探索機械で中を探った。土がかぶっているときより、鮮明に内部構造がわかった。明らかにいくかの部屋になっている。
歯のはいった土が取り除かれると、高さ5メートルの石室があらわになった。
石室の回りの歯の解析は順次行われていて、縄文時代の人の歯で、下の物ほど年代が古い。歯は大人のものあれば子供のものもあるということである。
はじめてから二ヶ月経った。周りは綺麗に片付いたが、いきなり開けてしまうと、密閉されていた空間に外気がいきなりなだれ込み、中の状態に変色を生じさせてしまう危険がある。探索機械により石室内の様子はある程度わかることから、影響の一番少ないと思われる場所に数ミリの穴をあけ、ケーブルカメラを挿入することにした。細いカメラでもかなり鮮明な画像を記録することができる。
石室は二階屋になっていて、一階部分がかなり広く、二階のところは人がやっと立てるほどの空間のようだ。カメラを一階の床の高さの部分に入れた。
モニターには、屋上の蓋の部分に繋がる石の階段が映し出されている。周りの様子を見ると、石の壁にそって椅子のように飛び出した部分がみえる。一箇所に、石棺のようなものがあり、その脇に椅子があった。やはり石でできている。おそらく長や責任者がそこに座るのだろう。石棺はそこに座った人の棺だろうか。床には屋上にあるものと同じような、円形の蓋があり、そこから一階に下りるようになっているのだろう。
二階の様子を知るため、同様にケーブルカメラ用の小さな孔を開けて、中にケーブルカメラをいれた。
下の階は天上が高く、壁は棚になっていて、白い布に包まれたものがきれいに並べられている。頭の中に浮かんだのはエジプトのミイラである。大きさはほんの30センチほどだろう。円形の壁全てが同様に白い布に包まれたものでうまっていた。
我々はすぐにケーブルようの穴をふさぎ、その映像の解析にかかった。そして、その結論はあるものを保存するための建物ということになった。そのあるものとは、よほど大事なものだろう。
その頃奇妙な報告があった。歯科医師たちによる歯の解析結果である。歯は男女が混じり、様々な年代のものだそうで、さらにおどろいたことには、ほとんどが虫歯のあとのあるものだったそうである。
そういったことも含め、石室内のケーブルカメラの結果を、町の教育委員会や県の担当者に報告し、今までの発掘調査の発表会を行うことになった。大きな講堂や会館で行うより、現場から、映像を交えて、ネットで行うのが良いだろうということになった。
当日、円形茸遺跡が縄文人の歯の入った土に埋もれていて、石室はまだわからないが、白い布でまかれたものの保存庫だろうということを、発掘の純を追って映像で説明を行った。
反響はすごかった。各テレビ局はネットでの発表会現場から、ニュースとして、二本中に発信したためもあるが、我々の発表会をネットで見た人たちは二十万人をくだらないだろう。
文科省も本格的に動き出した。第一と第二どちらも、円形茸遺跡が覆われる大きな建物が造られた。温度と湿度の調節がしっかりできるようになったことから、石室に入ることも可能になった。そこまで、遺跡が発見されて半年である。
三月の末、石室に入ることになった。私と縄文時代の専門家の境先生、大学院生一人、それにNHKのカメラマンである。8Kで撮影することになったからだ。
石室の屋上に載せた小型起重機で蓋をもちあげると、中をのぞくことができた。意外と乾いた空気が顔を打った。カビ臭さもなく、我々は、部屋の真ん中にあるらせん状の石段を、ゆっくりとおりた。
見回すとヘッドランプが照らし出した壁は二万年の歴史があるにもかかわらず、黒っぽくもなっていない。おどろくほど綺麗な状態が保たれている。
壁に作りつけられた椅子がつづき、東の方角の壁際に石の台がおいてある。その上に長方形の箱がある。どうみても棺である。その台には茸の模様が彫られている。彩色はされていない。この蓋を開けるのは後のほうがいいだろう。その脇にある大きな石製の椅子のお尻の部分が少し浅くなっている。ずいぶん使用されたようだ。
次は下の階に行くための蓋を持ち上げなければならない。さほど大きなものではない。持ってきた金てこでもちあげ、二人でずらすことができた。
ここの石段も螺旋状で、おりていくと、壁一面に高さ50センチほど棚が作りつけられていて、白い布に包まれたものがおかれている。どれも長さ30から40センチのもので、棚の中に立てかけられている。
丁寧に写真を撮るようにいって、私はその棺の上の棚の白い布に包まれたものを一つだけ、密閉容器に入れシールドをした。
その日はそれで終わりである。我々は上に上がって、また蓋をするように指示した。
布に巻かれているものは何だろう。かなりの数のものが安置されている。映像と写真はとってある。本格的な解析はこれからである。
我々が石室からでると、またもとのように蓋を閉めた。建屋の中の、処理室で、もちだしたものを、さらに気密の保てる容器に入れ外にもちだした。
これからが本格的な解析である。
ミイラのような布に巻かれたものをレントゲンで調べるには、科学博物館の研究室にそれを持って行く必要がある。科学博物館でミイラを長年研究していた寒川輝男博士が退職後も週に何回か研究室にくる。寒川先生の協力をあおぐのが一番であろう。彼は世界中のミイラを調査してきた。
それを持って、科学博物館を訪れた。
彼はその白い布に巻かれたものを見ると「ミイラだとしても動物ではありませんな、だいたいからだの形がわかるように、特に顔はわかるように布を巻くものですよ」と言って、機密容器のままエックス線透視の機械にかけた。
モニターに現れたものを見て、ちょっと複雑な気持ちになった。
茸のようなのである。
「うーん、なんだ茸か、萎びていない状態だ、茸ををこのような形で保存するのは相当な技術だけど、どうして茸なのですかね、どのような薬品処理をしているのかな、もちろん茸をミイラにするのは謎ですな」
「茸をミイラにして埋葬することもあるのですか」
「私の研究人生でそのようなものに出会ったことはありませんね、この社会では茸が相当大事な役割をしていたのでしょう、埋葬をしてあったのか、保存をしてあったのか」
「この石室の回りには無数の歯が埋められていました」
「ええ、報告書は読みました、歯というものはおうおうにして、遺跡からでるものですが、一つ二つだ、ここのはすごい数だ」
「石室のまわりに歯を投げ入れていたようです、しかも、みな虫歯のようです」
「茸が虫歯の薬として使われたのかな」
「そうですね、石室の棺のようなもの中は、そういったことに関わった人の遺体が安置されているのではないかと思います。それはこれから調査です」
「面白いですね、茸のミイラの解析はどなたがおこなわれますか、科学博物館の茸の専門家を紹介しましょうか」
「お願いできますか、うちの大学の生態学の緑石先生と、人類学の境先生もくわわってもらっています」
「ああ、境先生はよく存じていますよ、縄文人にも詳しいですね」
こうして茸のミイラのチームが構成された。
ミイラと言えばエジプトのピラミッドだろう。エジプトには百いくつものピラミッドがある。紀元前2600年代から、紀元前2100年代の500年ほどの間にだいたい作られている。単純に計算すれば5年に一つ作られたことになる。ピラミッドの役割は葬られた王の魂が天にためらしい。
墓の中の主人公は王だったり王妃だったり、王子だったりするが、ただの骨ではなく、ミイラになった状態で棺の中にいる。天にいっても魂のもどるところを残しておくという考えのようである。そのためエジプトではミイラを作る技術が格段に発達していた。人間のかたちをとどめるべく、くさりやすい臓器を取り外し壷にいれ、体は防腐処理をして、布を巻き付けている。防腐処理をするのに使われた植物からとられた薬がマミーに近い発音で呼ばれていたことからミイラはマミーになったということである。
エジプトでは生活をともにしていた猫や家畜までミイラにされていた。戦の道具や服飾品も一緒に埋葬され、来世の生活がすぐできるようにということだろう。しかし植物や茸までもミイラにしていない。
羊のミイラを作る石の台をエジプトに調査にいったときに見た。そのときミイラに詳しいエジプトの研究者が人をミイラにするには70日もかかると言っていた。
日本ではミイラづくりが行われていた形跡はない。断食のまま死んだ僧侶がミイラ化というか蝋化したものが発見されているが、ミイラとして作ったものではない。
日本の神道では死んだ体は重要視していない。墓は作るが遺体は別のところに埋葬して忘れられてしまう。しかし、やはりまだ神の威光が輝いていない大昔、支配者たちは大きな墓を作ったものである。世界遺産に登録されている古墳である。古墳にはそのころの天皇などが眠っている。しかしミイラにはなっていない。縄文時代に自然信仰はあったのかもしれないが、系統だった宗教らしきものは形作られていなかったではないだろうか。ともかく、二万年もの前に布に巻かれた茸のミイラがつくられていた。それだけでもセンセーショナルなことである。
それから一週間後、石室の二階にある棺の蓋を開けることにした。
ミイラチームの寒川博士と助手の方にも来てもらった。
まず一階の茸のミイラを見に行った。壁のミイラを見た寒川博士は感嘆の声を上げた。
「すごいね、みんな茸なのだろうね」
「調べるには、小型の持ち運び型のレントゲンが必要です」
助手が答えている。
「今度それを持って調査しよう」
それから二階にもどった。
寒川博士は石の棺を見て言った。
「これはふつうの石じゃないない、塗ってある」
ただの石だと思っていた私は驚いた。
「どういうことです」
「石英が吹き付けてある」
「石英だともっときらきらしませんか」
「長い年月で曇ったのだと思いますね」
「でもなぜ塗ったのでしょう」
「開けてみないとわかりません」
石の棺は長さが180センチ、幅が90センチ高さは60センチほどである。
蓋をあけるための道具を持ち込んで、寒川先生の指導の元に若い人が動かした。厚く重いものと思っていたのだが、以外と簡単に動いた。ふつうの石だと思っていたのだが、内側からみると水晶でできていることがわかった。かなり削り出しているので、薄く軽い。
「水晶だと中が見える、あるときまではそのままだったのだろうが、見えないように石英を塗ったようだ」
中に入っていたのは布に巻かれたミイラである。丈は140センチほどである。そばには副葬品らしきものがいくつかあった。ということはこの円形茸遺跡は墳墓でもあるようだ。
「こんなに大きな茸はないだろうから、人だろう、日本にもミイラがあったのか」
寒川博士は感慨深げである。
「三橋先生、このミイラを外にだしていいのですか」
「容器は用意してあります。密閉したまま、ミイラチームにお任せしますので、解析をお願いします」
「わかりました」
「副葬品は赤く塗られた木でできた茸の形をしたものです、3本あります、太さが違います、何に使ったのでしょうね、石臼の小さいものと、いくつかの土器の器がおいてありました」
「この墳墓は茸を虫歯の治療薬にした人の墓だろう。その人間しか治療ができなかったので、うやまわれていたのではないだろうかね」
寒川先生の言うとおりだろう。茸と虫歯の関係を調べていかなければならない。
このミイラ誰なのか。早川さんが見つけた第二の円形遺跡も同じなのか。第二円形茸遺跡はまだ発掘をすすめていない。
まだまだ調べなければならないことが山ほどある。
最初の円形茸遺跡、今では円形縄文古墳と呼ばれるようになったが、それが発見されて一年になろうとしている。かなり解析はすすんだ。ただ目的に関しては当時の様子を知る手がかりは虫歯しかなく、状況証拠で判断するしかないのでまだ固まっていない。
ただ、棺の中のミイラは、女性で、年齢は三十代だろうと推定された。その当時で言えばおそらくそれなりの年である。ミイラがエジプトのように作られたものかどうかということに関しては、ミイラチームの結論は自然のミイラ、断食僧がそのままなくなったのと同じような状態だろうということになった。内蔵はとり出されていない。ということは人工的なエジプトのミイラとは異なり、亡くなってから自然にミイラ化したと考えられるだろう。特筆すべきことは歯が全くないと言うことである。全部抜けている。それだけではない、ひからびた胃から歯が見つかったのである。
これは想像だが、自分の歯を抜いて飲み込んでいたのだろう。なにかの儀式かもしれない。そうして亡くなった女性が干からびた段階で、あらためて布を巻いて棺に安置したのかもしれない。
それと、棺から見つかった木でできた茸の形をしたものは、長い間使われたもののようであった。その女性の職業に関係するのか。石臼は中に茸の破片が残っていたことから、茸を粉にするために使っていたことが明らかになった。
布の解析もされたのだが、麻のようで、茸に巻き疲れていたものと同じである。縄文時代に麻による布はつくられていたという。その中でも、最も古い出土品だろう。
茸のミイラに関してはなかなか解析がすすんでいない。まず茸の特定から始められたが、現存する茸に同じものはないだろうということがわかった。またレントゲン検査では石室内の茸はみな同じもののようだ。遺伝子の解析では、紅天狗たけの系統のものだろうということである。
早川さんの精力的な調査にもかかわらず、第三の円形茸遺跡は発見されなかった。このような状態で、第二の遺跡も発掘がはじまった。
宗教歴史学をやっている立場としては、とても興味のある遺跡だが、なかなか縄文人の宗教にからめて結論を出すのは難しいことである。
生態生物学者で最初の発見者である緑石先生とはよく話すが、彼がいうには、動物は二つの基本的な本能があり、それは体の維持と子孫の維持で、体の維持のためには食べると言うことが最も重要なこととなる。そのために動物は体の中で一番堅い組織である「歯」をもつことになったわけで、虫歯になって抜かなければならなくなると、縄文人は相当心配して、他の歯はそうならないようにしようと心がけたはずだという。
この指摘は私にはとても重要で、彼に感謝をしているわけだが、虫歯になった縄文人はきっと虫歯にならないように祈ったと思われる。祈るには祈るものが必要である。それが茸なのではないだろうか。それを司っていた司祭などがいてもいいわけで、それが石棺の中のミイラではないだろうか。
第二の円形茸遺跡の円筒形の石室は第一遺跡のものと大きさは同じで、埋められている歯も同様であった。異なるところは棚に載せられている茸のミイラは半分ほど中身がなかった。布だけ残っていて、茸が取り出されている状態だった。それと棺の中は男で、やはり歯が全くなく、胃の中のあったのである。副葬品は木でできた茸の形をしたものと石臼で、第一円形遺跡と同じであった。
この大発見は世間に驚きをもたらしたことは確かなのだが、専門家のあいだで、ミイラになった人間の素性や、歯が胃の中から見つかったことの意味は、解釈がさまざまで結論に至っていない。
ただ、ここに記しておきたいのは、発掘チームで議論した記録である。
出席者は、発掘を実際に行ったチーム、この地の専門家である早川さん、歯の解析にあたった歯科大学の蒲田先生、ミイラの解析チームの寒川先生、茸の解析の中心である緑石先生、それに縄文人の専門家の境先生、地質解析チームの石田先生、宗教解析の私である。それに関係した大学の学生たちが聞きにきた。
三橋:お集まりのみなさんと、得られたデータを解析いただき、その結果を基に、この遺跡の役割を推察したいと思います、最初に遺跡のある場所について、地質研究チームの石田先生お願いします
石田:1号遺跡は標高500メーターほどの山の中腹にあります。そこの県道そのものがすでに海抜250メーターですからそこからちょっと上った海抜300メーターほどのところにあります。第2の方は隣の山の中腹で。やはり海抜300ほどのところです。二つの遺跡を地図上で見ると直線距離だと100メータほどしか離れて居ません。もし林になっていなかったとすると、下の方から見ると遺跡がならんでみえるでしょう
三橋:縄文人の専門の浜田先生、あのあたりに縄文人の住んでいた跡はあるのですか
浜田:いえ、あのあたりにはありません、かなり離れた、もっと麓の日当たりのいいところにあります
三橋:歩いていけるところですか
浜田:はい、ただそんなに近くというわけではありません
三橋:とすると、貝塚のように毎日の生活に使われていた場所ではなく
特別なときにつくられた、または使われたと考えていいでしょうか
みながうなずいた。
三橋:それだけではなく、住居からしっかり見えた可能性があるとすると、あの遺跡は大事にされていたことだと思います。さて遺跡の役割についてですが、世界でも珍しいことは、石室のまわりに歯が埋められていたのです、歯について、鎌田先生にお話し願いたいと思います。
鎌田:松本歯科情報大学の鎌田です、このような解析をしたのは初めてです。埋まっていたものがいつ頃の歯か、どのような種類の歯か、調べられる限りのことをしましたので、ご報告します
鎌田医師はスライドを使いながら話を進めた。
鎌田:まず、数ですが、53万9781個でした。一番下の土の中にあった歯の年代は7から8千年ほど前のもの、上の方にあったのは6から5千年ほど前のものです。歯は今の人と比べるとちょっと小さめです
境先生がそれでは縄文の後期のころですねと言った。鎌田先生は続けた。
鎌田:1号遺跡の歯は82パーセントほどが虫歯、壊れた歯で、18パーセントは虫歯になっていないものでした。その18パーセントのうち13パーセントは乳歯、5パーセントは大人の歯です。割合に関しては、2号遺跡も似ていますが、磨耗度は1号遺跡より強いものでした。
緑石:おとなで虫歯ではないと言うことは、どういうことが考えられますか
鎌田:虫歯以外で抜けるのは、衝撃、すなわちぶつけたり戦だったりではないでしょうか
境 :縄文人は戦いをあまりしなかったでしょうね、狩猟、特に海での狩猟で生きていたのでしょう、そういうところでの事故が多かったのでしょうね
緑石:そのころ歯槽膿漏などはない のですか
鎌田:縄文人の歯についての知識は私にはないので、お答できないのですが、境先生どうでしょう
境 :歯が埋まっていたということを聞きまして、縄文人の歯の論文にあたってみたのですが、縄文人はとてもよく歯を使うので、すり減って、歯周病にはなっていたようです、本州では虫歯はあったようです、北海道の縄文人にはあまり虫歯は見られなかったという報告もあります
三橋:とするとこのあたりの縄文人は特に虫歯に悩まされていた可能性はありますね
境 :ええ
鎌田:最初に言うべきでしたが、1号遺跡の歯はみな女のもので、2号はすべて男でした
みなからどよめきが起きた。
三橋:あの遺跡には歯が1000年にもわたって捨てられていたことになりますね、古墳と言うより虫歯塚といった方がいいですね
何人かの人がうなずいている。寒川先生が発言を求めた。
寒川:石室のミイラについて報告します、1号の人のミイラは女性、身長は145センチ、紀元前3千年、すなわち五千年ほど前、でした、2号のミイラは男のもので、慎重155センチ、こちらも紀元前3千年よりちょっと古そうですが、一号の女性とたいした差はないと思いますので、やはりほぼ3千百年ちょっとほど前のものと言っていいと思います、身長は縄文人として平均的なものです。ただ石室そのものは紀元前6000年、8000年前に作られています、茸形の遺跡の周りの石と同じころです。
三橋:とすると、縄文時代の初期、8000年前に石室が作られ、その周りに茸石の石垣が作られた、さらに、その頃から虫歯を石室の周りにすてた、それがたまりたまって、積もって、石室をうもれさせてしまった。だけど、人のミイラは五千年前と、縄文時代の最後のほうと考えていいわけですね
寒川:その通りです、作られたときの石室の役割を考えなければなりません、作られたときから使われていて、後で墳墓の役割が加わったということだと思います、副葬品から、あそこを使っていた人の役割がわかると思います、木でできた茸の形をしたものと、石臼の役割などです。
境 :石臼で茸を粉にして虫歯の痛みをおさえたりしたのでしょうか。
緑石:その可能性はあると思います。ミイラの茸を科学博物館と一緒に解析したのですが、紅天狗丈に近いのですが、成分は必ずしも同じではないようで、まだわかっていません
三橋:紅天狗茸だとマジックマシュルームの中間ですか
緑石:マジックマッシュルームは笑い茸のなかまで、紅天狗とは違う種類です、笑い茸の成分のアルカロイド系のシロシビン、シロシンは毒性が強く幻覚、麻酔さようがありますが、紅天狗は神経伝達物質のギャバの受容体に作用するムシモールやイボテンサンをもちます、作用はやはり催眠、幻覚ですが、毒性はかなり弱いものです。ミイラの茸は紅天狗茸の仲間ですが、マジッックマッシュルームと同じ成分も持っています、
三橋:とすると、睡眠作用、幻覚作用が現存の茸よりもっと強いということですね
緑石:はい、そうです
境 :マジックマッシュルームは古代から儀式に使われていて、アメリカやアフリカでは茸の形をした石がでています、日本でも茸の石は縄文遺跡からは大分でています、ただ、日本の場合に茸がどのように使われていたかわかりません、茸の石そのものは祭祀に使われていたようです
鎌田:お話を聞いていると、麻酔をかけて歯を抜くことを思い出します。虫歯が痛くなったとき痛み止めつかったわけでしょうか
境 :縄文人が歯を治療したという証拠は今まで見つかっていませんが、このあたりは縄文時代も茸がたくさん生えていたのでしょうから、偶然その作用を見つけて、使ったのかもしれませんね
三橋:遺跡は虫歯塚で、つくられたとき石室は治療室で、茸を利用して虫歯を抜いたところかもしれません、そこには治療をする人が居たはずで、きっと医者の役割を持っていたのだと思います
早川:私も虫歯と聞いたとき、抜歯を考えて副葬品がどのように関係するか、実際に同じようなものを作ってみました
彼は手に持っているものを皆に見せた。ミイラと一緒に埋葬されていた木でできた茸の形をしたものである。それに紐のようなものである。
早川:石の臼で茸をすりつぶし、それを飲ませて、意識がはっきりしなくなったら、木の茸の傘の縁で虫歯をたたく、奥の歯はほそいものをあてて、太いのでそれをたたく、ぐらぐらになったら、この草の糸で縛り、この茸の棒に巻き付けて引っ張る
彼は動作をしながら説明した。
寒川:すばらしい、その紐は茸のミイラをまいていたものですね
早川:はい、麻の仲間から作りました
三橋:歯を抜くのに鉄器を使わなかったのは、患者の気持ちを落ち着かせる為だったのかもしれませんね
早川:そう思います、武器としてはったつしてきた鉄器を口の中に入れられるのは怖かったのではないでしょうか
三橋:とう言うことは、やはり石室は治療の場所
寒川:そうですね茸の貯蔵所でもあり、その場で治療をした可能性がありますね、あの石英でできた石室は巨大な水晶を磨き上げて作り出したものです、はじめは透明だったでしょう、患者はその中に寝かされると、茸の薬効だけではなく、その中にはいることで、別の世界にはいった気持ちになったでしょう、外から見ていて、茸が効いてきたら、蓋をあけて、早川さんが言ったような方法で虫歯を抜いたのではないでしょうか
三橋:先生は人のミイラはどうお考えになりますか
寒川:先生がさっきおっしゃったように、歯を抜く医者だったのではないでしょうか、女のミイラも男のミイラも、自分の歯を飲み込んでいる、なにかがおきて、生きたま 治療のための石の箱に入り、何らかの拍子に抜けた自分の歯を飲み込んで、やがて死んでしまった。しばらくして、だれかが布を巻き付けられたのではないでしょうか、だから残念ながら作られたミイラではなく、何も食べずに成仏した即身仏と同じような形だったのでしょう、ミイラとはいえない。布を巻き付けられた後、この遺跡は埋められたのに違いありません
緑石:茸のミイラは人のミイラの少し前に作られているということはどういう風に解釈したらいいでしょう
寒川;茸が採れなくなって、ああいうかたちで保存して使っていたのかもしれません
そのとき、緑石先生が手をあげて、発言を求めた。
三橋:何でしょう、緑石先生
緑石:今、遺伝子を解析している研究所からメイルが入りました。向こうの先生が、重要な解析をし忘れていたということです、1号遺跡の女性のミイラと2号遺跡の男性ミイラは兄弟の可能性があるそうです、それぞれ違う人が解析していたので、付け合わせてみなかったようです
三橋:としますと、歯医者というか、虫歯の治療に特別な地位のものが居たということでしょうか
寒川:そうなるでしょう、縄文時代の信仰や儀式は、三橋さんの専門、話をまとめていただきたい。
三橋:寒川先生にご指名いただきましたが、何分にも縄文時代の儀式や宗教的なものはわかっているとは思えませんので、ほとんどが推測にすぎないのですが、この遺跡が見つかったおかげで新たな考えをもつことができました、
縄文人は食べる、噛むということを大事にしていたことは、前から指摘されていたことです、縄文人は海の狩人で海辺での暮らしが長かったのは貝塚でもわかることです、一方狩猟も行われていたことも知られていますが、そちらを得意としていた者達は山間で暮らすようになり、茸にも親しむようになったと思われます、茸のうまさ怖さを知り、薬として使うようになった、そのおかげで、虫歯の痛さから逃れる方法を考え出した。茸による麻酔です、発見した者は代々その役割を負うようになった。虫歯を抜くのは儀式だったと思います。抜いた歯は皆同じ場所に捨てた。きっと虫歯封じの儀式などもそこで行われたのではないでしょうか。乳歯も捨てられていたところを見ると、大人になっても歯の再生を祈ったりもしたかもしれません。
さて、どうしてそれを執り行っていた二人が、生き仏のように、いきたまま治療のために使われていた水晶の石箱に入り死んだのかということです。治療の箱が棺になり、しかも、透明の水晶で患者の様子を見るものだったものに、粉にした石英をまぶし中を見せないようにしたのかということを考えて見たいのとおもいます、
寒川先生が二人が死んでから、布を巻いたかもしれないとおっしゃいましたが、別の可能性として、二人はどこかに幽閉され、食事も与えられずに死んで、布を巻かれた可能性や、まだ生きている間に布にまかれ、石室に入れられたなども考えられます。
彼らが何かに失敗をしたとか、悪いことをしたというものです、歯が再生をしなくて怒った地位ある人間がいたのかもしれませんが、それだと、二人同時にミイラにしなくてもいいかもしれません。理由は分かりませんが、ともかく二人は葬られ、不必要になった虫歯の治療室はおわらされ、埋められたのです。
男女で歯の治療の場所が違ったということは、一緒ではまずいことがあったのでしょう、男の歯と女の歯が一緒だと、再生したときに男に女の歯が生えてくると困ると思ったのかもしれません。
ということは歯を抜く男の術者は女の術者と交わってはいけなかったかもしれません、ところが、術者兄妹でそういう関係になって、民衆から石室に入れられたのかもしれません。
そのころになると虫歯を自分で治療をするものも出てきたことから、歯医者入らなくなってきたこともあったかもしれません、
これは科学的な根拠があって言ったのではなく、可能性のいくつかとして、まとめさせていただいたもので、今後、新たに発掘を進め、証拠集めをしなければなりません
そこで皆から拍手がおきた。
早川さんが手をあげた。
早川:三橋先生のお話とても面白く拝聴しました、お聞きしたかったのは、あの石室や埋められていた歯に特別なばい菌、ウイルスなどはなかったのでしょうか
鎌田:それも調べたのですが、特殊な菌は検出されませんでした。寒川先生も真っ先に茸と人のミイラの菌について調べてもらいましたが、特にありませんでした
早川:ありがとうございました、もしかすると、二人が変な病気になって、閉じこめられたのではと思ったからですが、そうではないとわかりました
三橋:それではみなさま、ありがとうございました、これからもこの遺跡の解析にご支援ください
ということで、討論会は終わった。
ところが一年後、大変なことが起きた。
ミイラにされていた茸が、一号二号とも遺跡を覆っている建物の中にたくさん生えてきた。
緑石先生は、石室に会った胞子が建物の中に入り、温度湿度が一定に保たれ、石室内と環境がおなじにしてあったため、繁殖したのではないかといっていた。
科学博物館は生きている茸が手に入って大喜びだった。
話はこれで終わらなかった。当初茸の生えている遺跡で発掘調査にたずさわっていた人、茸を研究した人に大変なことがおきた。緑石先生もそうだったが、ある日、朝起きると、みんなの歯がすべてなくなってしまっていた。
しかも、病院の検査で、抜けた歯は胃袋にたまっていた。遺跡から出た人のミイラと同じ状態になっていたわけである。
あの茸の胞子は歯に触れると、歯槽を溶かし、痛みもなく知らない間に抜けてしまう、とても怖いものだということがわかったのである。 厚生省と環境省があの茸の管理に躍起になっている。
私はあれから現場に行っていない、おかげで歯は大丈夫だった。幸い厳重な建物に覆われているので茸の胞子は遠くにはとんでいないだろう。あそこは立ち入り禁止になった。
ミイラの胃袋に歯がはいってっていたのは茸にやられたためだ。だけど虫歯が千年にわたって捨てられていたのは何を意味するのだろう。緑石先生は一つの可能性として抜歯の痛み止めに使われていた茸の性質がながい間に変化したのかもしれないと考えている。
ある日、早川さんがまとめたデータや写真をもって私の研究室にきた。
「先生しばらくです」
「いやこちらこそ、早川さんのおかげであの遺跡の解析が進みました」
早川さんはてっきり歯が全部抜けていると思ったのだが、笑顔できれいな歯を見せて挨拶をした。
「早川さんは歯大丈夫だったのですね」
「ええ、今でも、毎日あの近くで縄文の遺跡をさがしてます、先生はあれから発掘現場に行っていないのですね」
「ええ、まとめるのがいそがしくて」
「先生の歯が大丈夫だったからそう思いました」
「だけど、早川さんはなぜ歯がきれいなんですか」
もしかすると特異体質で、彼を調べればあの茸の胞子から歯を守る方法がわかるかもしれないと思ったから聞いたのだ。
しかし彼は笑いながら指を口につっこんだ。
彼の手には入れ歯があった。
「総入れ歯です、実はもう10年ほど昔になりますが縄文遺跡探しをしているときに、歯が全部抜けてしまったのです、きっとミイラの茸と同じものが私の歩いたところに生えていたんだと思います」
国に報告しないといけないんじゃないですか
私が言うと、早川さんは入れ歯を戻して、
「お任せしますが、私はその茸を見たわけではないし、御国に言うと、茸狩りや縄文遺跡の探索ができなくなりませんか」とまた笑った。さらに「死ぬ訳じゃないし、今の入れ歯はよくなってますよ」と言った。
私はうなずいた。早川さんが暗示しているように国にはだまっていることにした。
茸のミイラ