抽斗
部屋へ入ると、あなたは背を向けて座っていた。
ふと悪戯心が湧いて、そっと後ろから抱き締めてみる。
「だーれだ」
「え? わからない。だれ?」
口調が変だと思った。
直ぐに顔を覗き込むと、あなたは私を真っ直ぐに見て、言った。
「わからない」
私は、一拍だけ置いて。
「そっか」
反射的に、そう答えていた。
何故だろう、不思議と、あまり衝撃はなかった。何となく、名乗っても無駄な気がした。というか、それでもう一度「わからない」と言われる方が怖かった。ただ、どうしようかなとは思った。
部屋の整頓に来たのだけれど、このまま普段通り始めれば、あなたの私物を漁る不審者と思われかねない。
何か、何か言わなくては。
「あーええと、じゃあ、じゃあ。コイツ嫌い?」
唐突な、私自身を指した問いに、あなたが顔を顰める。そこには墨痕鮮やかに「いきなり何言い出すんだコイツ」と明記されていた。
その表情も初めて見る気がする。
「あの、ええとね? コイツ見て、嫌な奴だなーとか、あっち行けとか、思う?」
内心、少し怯みながら、重ねて問うた。
何故だか、笑い出したい気分だった。
あなたは真剣な面持ちでしばし、まじまじと私を眺め。答えた。
「キライじゃない。すき」
「あ、よかったー。ありがとう嬉しい。じゃあ、この部屋居てもいい?」
「いい。いて」
許可が下りたので、私はいつものように片付けを始めた。
口走った問いが、正しい対応だったのか判らなかった。
それでも、嫌な奴であると判定されなかった事にはほっとしていた。
そして、私にはそれだけで充分なのだと感じた。
そうやってぼんやりと手を動かしていた時。不意に、あなたが叫んだ。
私の名を。
高らかに、勝ち誇るように。
旗を掲げるように、繰り返し何度も。
私の名を呼んだ。
少しだけ、動けなかった。
あなたの抽斗は、次は開かないかもしれない。
私を嫌な奴と判定するかもしれない。
けれど私は、あなたとの時間を、あなたへの感情を、憶えている。
だから。
あなたの抽斗がどんな状態でも構わない。
「はぁい、なあに?」
振り返り、そう声を返すと、あなたと目が合った。
ああ、その表情なら知っている。
この対応は間違っているだろうか。大袈裟に喜んでみせるべきだった?
何だって構わない。
今ここにいるあなたが、安心してくれるのなら。
抽斗
(初出・2020/12/13)