角砂糖

角砂糖

 
 手をつないで踊っている。
 円を描いて。
 三人の女の子だ。
 くちをつむいで。
 お互いの裸足の爪先を監視して。
 まちがってはならないのだ。
 呼吸すら忘れるほどに、
 小さな胸も張りつめて、
 静かに、
 熱く、
 踊っている。


  *

 
 珈琲がテーブルへ置かれた。
 僕は窓ガラスへ鼻をつけ、庭で踊る女の子たちを鑑賞していた。  
 珈琲を置いた給仕もまた窓の向こうを見やって言った。
「まだ踊っているのですね」
「ええ」
「あれは、きっとまた失敗しますよ」
「そんな」
 とても慎重に、窮屈に、痛々しく、三人の女の子はステップを踏む。足元の草はすっかりみんな横へ倒れている。スカートのひらめくその下に花が散らかっている。
「ご覧なさい。青い服の子です。頬がりんごの色だ。それに目には太陽を飼っている。あれはよくない」
 給仕に指摘されて、僕は青いスカートの女の子を注視した。
 彼女は確かに強烈な光を目に宿している。
 それはつまり、なにかをこころに抱いてしまった証拠だ。
「ほら、隣の子の足を踏んだ。やり直しです」
 給仕の言った通りになった。
 青いスカートの子は目に宿した太陽を地面へ捨てて、それを何度も踏んだ。踏みつけた。
 二度とかがやかないように。
「難しいのですよ。所詮、我々は人間なのですから」
 給仕はほかの客に呼ばれて去った。
 そのとき、白い空からひとかたまりの雨玉が降ってきた。雨玉はまっすぐに庭へ落ちた。     
 飛び散った水滴が窓ガラスを打つ。衝撃に目をつむる。直後、庭で踊っていた女の子たちは消えていた。円を描かれた草が湿っている。彼女たちは雨玉に潰されたようだ。この町ではよくあることだった。雨玉の振動を残して珈琲が小さく波立っていた。


  *


 女の子は自分以外のなにものかになりたいがために魔法使いと取引をする。
  この町へ越してきた一年の間に、魔法使いと取引した女の子を僕はたびたび見かけた。
 女の子たちの欲求は僕の理解できる範疇を超える。
 蝶だとか、音符だとか、羊雲だとか、そういう到底なりえないものへの変化を望んでいる。
 僕に彼女たちの気持ちは理解できない。ただ、魔法使いとの取引を成就させようと試みる姿はうつくしい。
 彼女たちはステップを繰り返し、声が枯れても歌をやめず、壁や道に絵を描きつづける。この町は魔法使いにたぶらかされた女の子の健気な痕跡にあふれている。
 しかし、残された芸術をたどってみても完成したものは発見できない。限界まで努力しつづけた最後はどれも形をなくして崩れている。たとえば壁に描かれた巨大な鳥の頭は色彩を破裂させただけのもの。壁に手を添わせ、そこへ絵の具を叩きつけた女の子の背中を僕は想像する。十二色といっしょに叶わぬ願いを壁へぶつけた女の子の背中。彼女の望みはなんだったのか、壁は語らない。
 女の子が女の子以外のものに変化する瞬間がほんとうにあるならば、僕も一度くらいは目撃者となってみたいものだ。


   *


 魔法使いは町で最も古いアパートメントに住んでいる。
 そこには中庭があり、青い天を求めて伸びる見事な木と星の明滅する池があり、光をはらんだ花が咲き乱れる。僕は中庭のすばらしさに惹かれて建物自体は廃墟寸前というこのアパートメントの一室を借りた。ここに住みつくのは僕と同じ理由をくちにする、絵描きやら音楽家やら詩人やらの、たぶん少しばかり壊れた連中だ。
 時々中庭の木の根を枕にして白と灰の壁を侵食する緑の蔦を眺める。
 二階のとある窓はほとんど蔦に侵されている。太陽の光がいかにも薄い部屋、そこが魔法使いの部屋らしい。僕の部屋は魔法使いと同じ階だ。だから魔法使いの部屋の前をいつも通ってはいるのだが、ご本人はもちろん、ドアを叩く客のひとりにすらいまだ遭遇したためしがない。ほんとうに存在するのか疑いは濃い。
 ただ、アパートメントの入り口で足を止める女の子をたまに見かける。そんな女の子は決まって、炎にかざした刃を隠し持った横顔をしている。


   *


 僕の仕事は石に姿を与えることだ。
 手のひらで石をあたためてゆくと、石の奥に決して溶けない冷たさが残る。僕たち石職人はそれを石の芯と呼ぶ。その芯こそが石の望む姿だ。石の上辺を剥ぎ取り芯を晒せば、おどろおどろしいものが現れることもあれば、涙を誘うほどうつくしいものが現れることもある。隠れた石の本性さえ抜き取れるのならどんな形をしていようが僕には愛おしい。
 今、僕は水中庭園の浮島に運ばれた石に取り組んでいる。大きなものなので芯を読むだけでかなりの時間を必要とする。
 水中庭園とは呼吸装置を身につけて遊泳を楽しむことのできる娯楽施設だ。飼い慣らされた淡水人魚が来園者を案内する。
 舟を漕ぎ浮島に向かえば、水の奥深くに大きな花のゆらめくのが見えることがある。それが淡水人魚だ。人間のぎこちない泳ぎと淡水人魚のそれはまったく違うので、誰にでもすぐに見分けがつく。
 最近浮島に淡水人魚がやってくる。それはほかの淡水人魚にはない行動をする。水から勢いよく飛び出し、浮島に身を乗せて草むらに顔を押しつける。どうやら一日に一度はやっている。それはほんのわずかのうちに行われるので跳ねる音のした時に駆けつけてもすでに水中へ戻っていることが多い。
 淡水人魚が水へ戻ると緑色の膜が広がる。緑色の髪が水と太陽の作用で一滴のインクに変わるのだ。 
 きらめくエメラルドの花。
 僕はそれを見るのが好きだ。魔法使いと取引した女の子を鑑賞するのと同じくらいに。
 水の跳ねる音が聞こえたなら、僕は急いで石を離れ、波紋の広がる水面を見にゆく。 


  *


 仕事を終えてアパートメントへ帰ると、部屋の前にリボンで装飾された小石が置かれていた。
 卵に似ている。手に取って調べる。じんわりと冷たい。なにかの姿を固く隠している。
 にぎりしめて熱を与えても、まったくぬくまらない。
 仕事の石へ集中することに努めているが、これだけ表面の冷たさを持続するものはめずらしく、興味を引かれる。
 また、僕を石職人と知っての挑戦と受け取れば愉快だ。愉快に任せて、石をポケットへ入れた。


  *


 舟を漕いでいると水の底からエメラルドがきらめいて浮島に近づいてゆくところに遭遇した。
 滅多にない機会だ。急いで櫂を操る。淡水人魚は五色の魚とたわむれながらゆっくりと泳いでいたので、僕は先回りできた。
 いつも淡水人魚が現れる辺りへ舟を停めて待つ。
 やがて淡水人魚は渦を巻き、水の底から昇ってきた。淡水人魚が飛び出すと、舟はおおいにゆれ、祝福のように水しぶきが降った。 
 真っ白な太陽がエメラルドの髪と立派な尾を虹で彩った。
 僕は喜んで拍手した。
 そのとき、淡水人魚と目が合った。初めて見る淡水人魚の目は葡萄の一粒のようだった。それがみるみると大きく見開かれた。尾がうねった。淡水人魚は空中で方向を変えた。浮島へは着地せずに水中へ身をひるがえしたのだ。
 再び舟が盛大にゆれたと思ったら、いきなりすべての音が鈍く遠ざかり、周囲が重く泡立った。僕は水中庭園へ落ちていた。周囲はどこも青く深く、上も下も右も左もない。闇雲にもがいて回転した。しゃぼん玉のような空気を吐いた。白いきらめきが視界の隅に光った。光。太陽。空気の世界。手を伸ばす。そこにエメラルドが覆いかぶさって視界を暗くした。僕はわずかに残る胸の空気をすべて吐き出した。


  *


 角砂糖は黒い水面へ銀の匙からゆっくりと落下していった。
 客の気配はあれど姿の見えない午后の喫茶店。誰もが自分だけの場所で庭を鑑賞し、珈琲を愉しむ。
 僕は中庭を見ることもなく給仕を捕まえて話をしていた。
「僕は魔法使いと同じアパートメントらしいのですが、まだ一度だって会ったことがありません。魔法使いはどんな暮らしをしているのでしょうね」
「さあ」
「どんな人物なのか知りたくて、オウムの真似をする女の子に尋ねたことがあります」
「へえ。どうでした」
「まったく聞き出せませんでした。あの子たちはくちが固いですね」
 それも魔法使いとの約束なのだろうか。彼女たちはどのようにして魔法使いと会って取引を交わすのだろう。しかしそれよりも、僕には謎のことがある。
「僕にはわかりません。この町の女の子は、なぜみんな競うようにほかのものになりたがるのでしょう」
「あなたにはそういうお気持ちはありませんか」
 給仕が窓の外に視線を向けた。
 僕もつられて庭を見やる。
 金色に染まる午后の庭には罪人のこころさえ奪いそうな色とりどりの草花が茂っている。
「僕はようやく僕です。この身でなければ困ります」
「あなたは優れた石職人だから」
「あなたはいかがですか」
「私は望みませんよ。人間は人間なのですから」
 ドアの開く鈴の音が鳴り、給仕は去った。
 僕はようやっとの僕だ。石の温度を探れる手を得るまで苦い月日を重ねた。この手をなにかへ変えようなんてくだらない。昔は手だけでなく、僕自身もいくらか違ったような気もする。今はなにが違うのかも思い出せない。
 女の子たちはきっと知らない。
 スカートを風に乗せて踊る姿の可憐なことを。壁に道に残る芸術の軌跡の見事さを。光に溶ける歌声の甘やかなことを。
 女の子の鑑賞を目的にこの町を訪れる客人のなんと多いことか。
 彼らは沈黙を選ぶ。写真機を鞄へ忍ばせ、静かに女の子を見守る。 
 慎重に彼女たちと距離をあける。
 それは客人だけではなく、町の大人たちの暗黙の規則でもある。
 叶わぬ夢をあきらめろなどと忠告する大人はひとりもいない。
 彼女たちの願いの叶ったあとの姿には実のところ興味がない。ただうつくしい、今の一瞬にしか興味がない。願いなど叶わずに永遠に踊りつづければいいとさえ腹の裏側では考える。だから彼女たちは僕たちに靴を投げたとしてもきっと許される。投げるべきなのだ。


   *


 目を覚ますと圧倒的な不快感に襲われた。
 水に濡れた全身の重み。
 ちくりと肌を刺す草には血濡れた鱗。
 青く生臭い肉の開いた臭い。
 怠惰に死体を引きずるような音の元を確認するために、僕は身を起こした。
 淡水人魚が尾を引きずって芝を這っていた。
 陸にあがった魚は醜い。僕はぼんやり思った。
 浮島の端で淡水人魚は肩を上下させ、緑の髪を耳にかきあげ、とがった横顔を地面へ近づけた。
 それは水から跳ねて浮島に着地した淡水人魚が見せたことのある行動だった。
 淡水人魚はまばたきして涙をこぼした。
 それは小さな芽へ落ちた。涙は葉の真ん中を伝い、茎を通って、そっと地面へ吸いこまれた。
 荒く呼吸しながらそれを見届けた淡水人魚は身投げ同然に水中庭園へと落下した。
 淡水人魚がもはや水の底から浮上できないのではないかと、僕の胸は張り裂けそうになった。雨玉に女の子が潰されても傷ひとつ感じない胸が。僕は駆け寄って水中を覗いた。澄んだ水には赤い筋がたゆたい濁った。 
 淡水人魚は遠ざかってゆくところだった。
 僕はひどく安堵した。努めて冷静を取り戻そうと、赤い濁りから淡水人魚が涙を落とした植物へ視線を逃がした。
 それは水から生まれたように透明だった。太陽に透かされて、地面に淡い影絵を映していた。
 冷静を取り戻すはずの行為が完全に僕を裏切った。植物を間近で見た途端、心臓が悲鳴をあげた。完全に胸が裂けた。植物はうつくしすぎた。
 僕がこの町で感じるうつくしいものは、すべて魔法使いの取引に関わる。だから直感した。淡水人魚は魔法使いと取引して涙で植物を育てている。別のものになろうと願っているのだ。
 ほかの女の子には感じたことのない痛みが血液を冷やしていった。 
 おそるおそる、透明な芽に指先で触れた。
 ひやりと湿る表面は淡水人魚のたっぷりと水をふくんだ目を思わせた。


   *


 晴れた日に石を削った。淡水人魚は水から跳ね、魔法の植物に涙を与えた。双葉の間から、するりと新しい茎が伸びた。
 白い雲ののしかかる日に石を削った。淡水人魚は植物に涙を与えた。僕は岸で緑の鱗を拾った。
 濃い霧の日に石を削った。 
 ミルクのような霧の奥から水の跳ねる音が聞こえ、涙を与えにきたのだと知った。
 風が花を運ぶ日に石を削った。淡水人魚は涙を落としたがあえなく風に流された。せめて植物が風に折れないよう、僕は小石を周りへ積んだ。エメラルドが花を巻きこみながら水中を旋回していった。
 夕陽が燃える中、石を削る手を止めていた。植物はするりと伸び、涙色のつぼみを宿し、太陽に染まっていた。植物の前の草は剥げて地面が露出し、古い血液が染みこみ、何枚もの鱗が生気を失って散らばっていた。


   *


 卵のような石を両手に閉じこめる。
 温度をうつして芯の冷たさを探ろうとしても一向に石の表面がぬくまらない。いつまでも冷たさを失わずに手の温度を奪ってゆく。
 湧き水を包むくらいの冷たさ。
 じわりじわりと僕を浸してゆく。
 石と手の温度が同化して、お互いの境界線が次第にわからなくなる。
 僕が石の一部になる。
 水と同じ温度になる。
 僕は水になる。
 芯が冷えて、目を開ける。
 

   *


 白々しいほどにまぶしい部屋だ。
 天井にはみなもがゆらめく。
 魚影が横切る。
 僕の鼻から泡がもれている。
 いつもうるさいほどさえずる鳥が沈黙している。
 尾が水を打つ音が響く。
 透明なつぼみが屋根の上で今にも咲こうとしているのをなぜか知っている。
 にぎった石の冷たさが淡水人魚の温度を連想させる。
 僕は、


 僕はドアの前に立っていた。
 涙色のドアだ。ノックする。
 応えはない。
 誰の部屋って、魔法使いだ。それは確かだ。
 ドアを叩く。
 静かだ。
 静かすぎて水音が響く。
 強く叩く。
 何度も叩く。
 強く、何度も。
 波紋だけが広がる。
 僕は、


 僕は舟を漕いでいた。
 櫂が重いのは水が重いからだった。漕ぐたびになぜか浮島が遠ざかる。
 水面に血液の色の花が浮かぶ。
 浮島で水しぶきがあがる。
 きっととがった横顔が涙の雫を垂らしている。
 つぼみが今にも開くのではないかと僕が心配している。
 おそろしさで胸が裂けそうだ。
 胸が裂けたら水が吹き出る。
 僕は、


 僕はノックする僕は舟を漕ぐ僕は植物の根元を掘る透明な葉に月が透ける背後で水の音が割れる鱗の剥がれた尾が水面を打つ。
 そういう、
 そういう夢を見た。


  *


 角砂糖が黒い水面に溺れた。
 その隣へマシュマロの器が置かれた。器を置く骨ばった手は給仕のものだった。
「お気持ちの沈んでいる様子ですね」
 給仕は僕の顔色を正しく読み取った。
 客への遠慮のない調子が僕にはちょうどよかった。鉛色の雲が重く空を這う暗い午后、客は僕だけだった。
「その通りです。実際困っています」
「お話をお伺いしますよ。もっとも、役に立てるかわかりませんが」
 給仕の気遣いはありがい。寝苦しい夢からせっかく覚めたのに、その気分がまとわりついて離れなかった。
「誰かご存知の方はいませんかね。魔法使いとの取引をやめさせる方法なんて」
「例の、淡水人魚ですか」
「ええ。あれにはあのままの姿でいてほしい。僕はあの花が咲く前に根ごと引き抜いてしまいたい。けれどあれを悲しませたらかわいそうです」
 食べるつもりもなく、マシュマロを手の中で転がす。
 給仕は首に刃を向けるような笑いを浮かべた。どうにもこの給仕は時々ひやりと冷たい顔をする。そういうときは腹の奥まで覗かれた心地になって落ち着かない。
「こころを奪われてしまったのですね」
「まあ、実は僕、泳ぎが苦手でしてね。湖にも海にも近寄ったことがなくて、今回初めて見たのですよ。人魚っていうものを」
 実際給仕の指摘は当たっているので白状する。
 こころを奪われてしまったのだ。きらめく宝石は砕かずにそのまま置いておきたい。
「水中庭園にはほかにも色々の淡水人魚がいますよ。一度潜ってみてはいかがです。魔法使いとの取引をやめさせることはできません。彼女たち自身があきらめない限りは」
 給仕は言い切って奥の暗がりへ消えた。
 ほかの淡水人魚。
 女の子たちの踊りを鑑賞するとき、僕は道すがら舞う蝶を追う心地でいる。女の子ひとりひとりの違いを認識しない。女の子たちがなにになりたいと望むのかと想像を廻らせるとしても心配などではなくたんなる楽しみだ。僕は控えめな鑑賞客のひとりだ。
 なのに、淡水人魚については胸が騒ぐ。
 葡萄のような目を見てしまったゆえだろうか。ほかの淡水人魚を知ったなら、あれよりうつくしい淡水人魚を見つけたのなら、惜しいと思うこの気持ちは消えるのか。
 珈琲で手をあたため考えるうちに雷が鳴り始めていた。空にいくつもの割れ目ができている。その割れ目から雨玉がやがて落ちるだろう。雨玉は空の隙間を漏れてくる。
「あれは水中庭園のほうですね」
 いつのまにか給仕が戻っていた。 
 曇った窓を眺めてつぶやく。
 雷によってできた一番大きな空の亀裂は確かに水中庭園の方向だった。そこから、たっぷりとした雨玉のかたまりが、早くも重たげに身を垂らしてきている。かなり大きな空の亀裂だった。あそこから生まれる雨玉に当たったらたやすく潰されてしまうにちがいない。
「水中庭園は大丈夫でしょうか」
「あれだけの規模だと庭園の水はすべて入れ替わるでしょうね。あなたの仕事されている石も覚悟したほうが賢明でしょう」
「石は砕けても構いませんが、淡水人魚たちはどこへ逃げるのですか」
「どこへも。なに、大丈夫ですよ。代わりの淡水人魚は調達できますから」
 こともなげに給仕は答えた。
 そう言えば庭で三人の女の子が雨玉に潰されたとき、僕はよくあることだとしか思わなかった。そう、この町ではよくあることだ。 
 屋外で魔法使いとの取引を実行する女の子たちを雨玉が直撃することは。
 珈琲もマシュマロも残して、僕は店を出た。
 空にはいたるところに亀裂が走っている。雷がどろどろと鳴る。僕は水中庭園へ走った。危険の迫る町を歩く人間はいない。みるみると亀裂の雨玉はふくらんでゆく。遠くで別の雨玉の落ちる音が響いた。 
 庭園の門扉は閉じられていた。それをよじ登る。舟を岸へつなぐ綱を放ち、飛び乗り櫂を漕ぐ。頭上の大きな雨玉が今にも空からちぎれてきそうだ。水面は暗く、魚影も見えない。とにかく僕は浮島に舟を近づけた。透明の植物の確認できる場所に。植物のつぼみは、ゆるく開きかけていた。淡水人魚の涙が花として開こうとしていた。
 僕は淡水人魚を探した。エメラルドの影を探した。なんと呼びかけていいのかわからずに「おおい」と繰り返した。
「おおい、雨玉がくる。どこか、隠れる場所を探せ。逃げてくれ」
 声が水の深くまで届くことを願って僕は何度も叫んだ。
 やがて、空気が鈍く震えるのを感じた。舟がわずかに水面にめりこんだ。頭上を振り仰ぐ。雨玉が重みに耐え切れず、とうとう落ちてくるところだった。
 潰れる。
 僕は覚悟した。覚悟して、舟を蹴った。浮島へ飛んだ。濡れた地面に滑り転んだ。
 淡水人魚が涙で育てた植物だけは守らなくてはならない。この花さえ咲いたなら、雨玉に当たろうとも、淡水人魚はその望む姿へきっとなれる。僕は植物の上に覆いかぶさった。雨玉の気配が迫る。背骨の折れることを予感して目を閉じた。
 近くで水の跳ねる音がした。
 角砂糖の落ちて生じる王冠を連想したとき、雨玉のはじけるすさまじい衝撃が、僕を、浮島を、水中庭園を、ひとつにした。
 背骨が軋む。
 両腕と両膝の間に透明な花が咲いている。
 はじけた雨の粒子が僕と花を襲う。
 ごうごうと鳴る雨の渦の中、緑色の髪が、僕の腕の間に混じった。
 背中に、雨ではない、肉の感触がある。それは冷たい。僕の背中の温度がうつって、じわりとぬくまる表面の、奥が冷たい。なめらかな石みたいだ。僕の手におさまり、徐々に姿を現す、結晶を宿す石みたいだ。それが、僕の背を覆っている。雨に包まれて、僕は背中で温度を探る。芯にある冷たさを探る。冷たさのかたまりが隠れているはずだ。僕には読み取れる。きっと読み取れる。雨玉から僕を守ろうとしている、それを、僕は、きちんとわかっている。大丈夫、わかっている。大丈夫。雨玉が落ちる一瞬前に、花は開いていた。淡水人魚の涙の花は、確かに、そこに開いた。


  *


 角砂糖が黒い液体の中へ完全に溶けた。
 給仕の細い指に煙草がはさまれている。白く煙がたゆたう。それは天井にとぐろを巻く。
 給仕は珈琲へ煙草の灰を落とし、
「いかがですか」
 その火を、僕のにぎりこぶしの上にかざした。
 テーブルへ置いた右のこぶしに僕は卵のような石をにぎっていた。
 石は僕の温度とすっかり同じになっている。肉の熱に変わったその奥に、冷たい拍動を感じる。
「彫れると、思います」
「それはよかった」
 給仕は笑んで、煙草を珈琲に沈めた。火が水を焼き、水が火を飲む。
 薄い手がドアを開けた。
 椅子から立ちながら蔦の這う窓を見た。埃っぽいガラスの向こうに月を抱えた大木がそびえている。
 どこかで見た、どこかから見た、いつも見ていた、蔦と木と窓。
「どうぞ」
 給仕がドアを開いて待つ。その横を通るとき、彼は僕の背中に手を当てた。毛を抜かれる痛みが走った。給仕はなにかをつまんで見せた。
 鱗だった。
 エメラルドの鱗だ。
 それを受け取る。石といっしょににぎりしめる。
「では、よろしくお願いします」
 給仕の手が僕の背中を容赦ない力で押した。
 一歩足を踏み出すとすぐにドアは閉じられた。
 僕の歩く廊下が濡れた。髪からも服からも水がしたたる。靴の中に水が入っていて歩くたびに重く汚い水音をたてた。
 ランプの灯る薄暗い廊下はどこを歩いても床が軋む。これは、僕のよく知った廊下だ。廃墟手前のアパートメントだ。
 自分の部屋の前で後ろを振り返ったとき、給仕だったなにものかの姿を思い出せなくなっていた。背格好も年齢も声も顔も性別も。  
 黒い珈琲の奥底へ沈んでしまったように。
 部屋へ入り、濡れた服のままテーブルにつき、石と鱗を並べた。もう一度石を両手に包む。確かな拍動を感じる。それは僕の心音と重なる。早く生まれたいと拍動している。拍動に促されて、僕は石を削り始める。


  *


 小鳥の声がはじけている。
 またどこかで雨玉が落下したのだろう。空気の一粒にまで水分がしみこむ。雨玉が落ちるたびに町は潰され、ひととものとが空へ溶けてゆく。空には雨玉に潰されたものたちが溶けて笑う。
 さまざまなものの溶ける空を求めて伸びる庭の大木は、今日も宝石をまとうごとくに葉へ枝へ雫をきらめかせる。
 宝石をまとう木の下で、女の子が笛を吹いている。
 女の子の周りには百花が狂い乱れ、蝶と蜂とが螺旋を描いて命尽きるまで終わらぬ踊りをつづける。 
 蜜の匂いが腐乱する。
 なにも棲めぬほどに澄んだ池の底には滅んだ国の硬貨が沈んで退廃へ手を引こうとする。
 太陽は悲鳴をあげながら炎を吐き、庭を光と影で切り裂く。切り裂かれた境界からは煙がたなびき、巨大な蟻は焦げた煙を麻薬として嗜み、愉しげにうごめく。
 蟻が列なす白と灰の壁には芸術の痕跡が残る。蔦はそれを隠蔽しようとしている。
 笛の音が中庭のすべてのものに触れて音符を落としてゆく。
 罪人ほどこころを奪われるだろう。
 狂気をはらむ混沌とした中庭の魔法に。
 アパートメントの窓はすべて中庭に向いている。牢獄のような暗い窓の内側から住人は鑑賞する。
 そこで起こる絶え間ない事象を。
 そして、それらの絵を描き、音楽を紡ぎ、詩を読み、踊りを編み出す。見つめ、生み、残す。繰り返す。女の子が現れるたびに繰り返す。
 僕は石を削る。
 石の奥の拍動を感じる至福。生まれたがっている。僕の手で生み出すのだ。昼も、夜も。削りつづける。
 まばたきを忘れた目は血を溜め、乾いた喉は声も涸れ、足は立つことを忘れた。石を削る以外に僕がすることはもはやない。
 葡萄色の目が記憶の中から僕を見つめる。
 水面へ広がったエメラルドのインク。
 僕の背骨を守った肉の厚み。
 背中に刺さった鱗。
 罠のような珈琲の匂い。
 落ちてゆく角砂糖。
 僕は魔法を飲み干し。エメラルドに魅せられ。
 溶ける。
 僕の骨を、肉を、内蔵を削るのは、魔法使いなのか淡水人魚なのか。
 雨玉とともに巻きついた緑の髪は今も僕の指にからまる。
 僕はどうやら少し狂っている。
 喜ばしいのだ。骨身を削って淡水人魚へ新たな形を与える行為が。
 歓喜しよう。骨を削って歓喜しよう。祝おう。骨と花を空へ撒こう。
 牢獄の暗い穴の部屋で何人もの虜囚が狂気を歓喜している。
 魔法使いはひやりとする笑みを浮かべ虜囚のために珈琲を淹れる。
 笛が聞こえる。
 笛の音が脳随を針金でなぞる。
 厳格な規則の契約に忠実な笛の音。庭を鑑賞する誰かがきっと笛に囚われる。
 踊る。歌う。描く。
 飛ぶ。這う。溶ける。
 削る。
 僕ら虜囚は目覚めを求める喉を鳴らし珈琲を待つ。
 魔法使いがカップを差し出す。
 黒い液体に映る顔。
 銀の匙が角砂糖をすくう。
 そして。
 角砂糖は珈琲へ落ちる。
    
                                                   
            終    
     
              

角砂糖

以前に保管した「庭の虜」の改変です。製本するつもりで装丁を考える中、本来の形は「角砂糖」のほうだったのではないかと、改めました。

角砂糖

石職人と淡水人魚のお話です。(以前保管した「庭の虜」改変です)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-20

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著作権法内での利用のみを許可します。

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