必要悪2 ― Schwarz ― Forget me not
極彩トワイライトオペラ 第2楽章 漆黒の吸血鬼2
1 ヴァチカン捕囚
イタリア共和国は芸術と美食の町フィレンツェ。
世界中が秒速で進化し続けても、このフィレンツェだけは昔の面影を残したまま、アンティークの宝箱の様な町並みには誇り高い宝物がたくさん詰まっている。
通りそのもの、街そのものがオープンエアの美術館と呼ばれるフィレンツェは、貴族屋敷や修道院を改装したホテルなんかの建物も多い。伝統を色濃く残した街で見つける小さな変化も面白い。
そんな芸術に愛された町のはずれ、森の奥深くに佇む巨大な石灰質の白い古城。整備された庭にはサイプレスが城をぐるりと取り囲んで青々と茂り、桜の蕾が今か今かと春の到来を心待ちにする。池の睡蓮は初夏の少女のようにしなやかに揺蕩い、白、青、赤、ピンク、黄色、様々な種類の花達が我先にと咲く順番を競っている。
そんな城に住むのは、不死王と呼ばれる吸血鬼、サイラスを家長としたザイン・ヴィトゲンシュタイン一族。と、宿敵であるはずのエクソシスト。敵同士が同居するに至ったのは、一族の長サイラスと、エクソシスト集団“死刑執行人”のボス、アマデウスが兄弟だったからだ。
元々王位を争って殺し合いをするほど仲の悪かった兄弟だが、今のところ兄弟間の関係は安定している。仲が悪いのはサイラスの娘シャルロッテと、アマデウスの側近アドルフ位なもので、シャルロッテの侍女のクララとアドルフの補佐クリストフは恋人同志だし、他の隊員たちは仲良くやっている。
というのも、シャルロッテが事態を面白くしたいが為に、サイラスと愉快な謀略を巡らせている為だ。
ヴァチカン教皇庁教理省枢機卿直属対反キリスト教勢力及び魔物強硬対策執行部、通称“神罰地上代行”強硬殲滅課精鋭部隊“死刑執行人”。死刑執行人たちの活動は、短期で終わるものもあれば長期に渡ることもある。
現在、教皇クレメンス16世が前立腺がんで入院中の為、教皇自身が退位を検討していると言う話題がニュースを賑わせている。年末年始しかり、こう言ったイベントが起きると、調子に乗って付けあがる輩が出てくるのも人間の性と言う物だ。
教皇交代のタイミングで、ヴァチカン宛にテロの犯行声明が届いた。そんなプレゼントを寄越したのは悪魔崇拝の新興宗教団体で、悪魔崇拝者だけにやることがテロリストと変わらない。
テロリストの本拠はスイス。衛星にハッキングしその映像を頼りに、彼らがサバトと称して開いている集会の会場は特定できた。そこへ密偵であるアレクサンドルが潜入し、たった今ヴァチカンの管理下にあるセーフハウスに帰投したところである。
「アレク、どうだった?」
尋ねたアドルフの顔を見て、アレクサンドルは溜息を吐き両手を広げた。
「もーねー、狂気の沙汰としか思えない。ただの乱交パーティ会場だった」
「んだそれ」聞いてアドルフも呆れ、更にアレクサンドルは口を尖らせた。
「悪魔召喚の儀式でもやってんだろうと思って、俺ちょっとウキウキしてたのにさー。返せって感じだよ」
「浮かれてんじゃねーよ」
一応ツッコむと、アレクサンドルは真顔になって身を乗り出した。
「でもね、一応説教みたいなことはしてた」
その言葉にアドルフが視線を上げた。
「なんて?」
「神徒に鉄槌を喰らわせる、それは悪魔の仕事だってさ」
なるほど、とソファにもたれたアドルフは懐を探って携帯電話を取り出し、電話をかけ始める。
「あーもしもし、ガリバルディ課長、お疲れ様です。実は例のテロ集団ですが、テロに乗じて教皇及び枢機卿暗殺を目論んでいる可能性が高いので、“聖堂騎士”の方で警備をお願いできますか? あー、はい。はい。殲滅はこっちでやりますんで、でも念の為。お願いします。ハイお疲れ様でーす」
アドルフが電話をしているのを見て、なんだかサラリーマンみたいだわ、とシャルロッテは思った。
予告ではテロの決行は5日後、3月25日受胎告知の日の夜。犯行予告の内容は「ヴァチカンに深淵からの祝祭を、ジュデッカを解放する死の舞踏を」という微妙な物だった。解読するのは、聖職者には楽勝だった。地獄の最下層コキュートス、その第4圏ジュデッカにて氷漬け中の悪魔大王ルチフェルを解放し召喚する、受胎告知の為にヴァチカンに集う信者たちをその生贄にする。狙われるであろう場所は、教皇庁前の広場。そこで受胎告知の祝祭イベントが開かれる運びとなっているため、そこに集った人間を包囲し虐殺する。
決行が5日後ならば、主力がヴァチカンに移動するのは3日以内だと推測されるため、今日潰してしまうのがベストだ。アレクサンドルによると集会場の地下室の倉庫から爆発物を数点発見したと報告があり、また、どうもヴァチカン内に内通者がいるような素振りだった。その点は新たにアドルフがアマデウスに連絡を取り、内部の調査を依頼した。
「アレク、その爆弾は?」
「時限式。破片式じゃなかったよ」
「OKOK。じゃぁディオとレオは地下の爆弾を改造してやれ」
「あいよ」
「人数は?」
「50人前後。出入り口は3つ。正面玄関と裏口、キッチン」
「ならフレディ、玄関とキッチンにトラップ仕掛けとけ。エルンストは後方支援」
「了解」
「あいあい」
「で、制圧は……」
「私やるわ!」
即挙手をした。シャルロッテなら瞬殺できるうえに、逃亡を図ったとしてもシャルロッテ一人で攻撃に回るのであれば、包囲に人員を割くことが出来る。何より経費の削減になる。
「クララも現地に同行して、ナースね」
と言いながらクララに救護セットを持たせると、男性陣は俄然やる気が出た。
スイスの湖畔近くの港の倉庫街、そこに集会場となっている倉庫がある。深夜は当然人など居らず閑散としており、時折野良猫が我が物顔で歩く。アメリカでもたまに見かけたが、その集会場もそうだった。古くなった倉庫を買い上げて、一部を生活空間にリノベーションし人が住んでいるようだった。
湖の波の音と、ヨットや客船の軋む音。それらを耳にしていると以前の住居を思い出す。
「前の家を思い出しますねー」
クララも同じことを考えていたようで、思わず笑った。
「前お前らどこ住んでたんだ?」アドルフが尋ねた。
「あら言ってなかった?」
「知らん」
「5大湖のほとりに住んでたのよ」
「アメリカ?」
「そう」
へぇ、と呟いたアドルフは俄かに複雑な顔をした。
コイツには色々俺の事知られてんのに、俺コイツの事なんも知らねぇ! なんか腹立つ!
自分ばかりが情報を晒しているという事にようやく気付いたらしい。この仕事が終わった後、インタヴューを決行することに決めた。
通信と傍受の為ライトバンにオリヴァーを残し、他の人員は身を潜めながらその倉庫の前に隠れる。窓から灯りは漏れていたが、位置は高く様子を窺えそうにはなかった。
なのでここでもシャルロッテが名乗り出る。「見て来るわ」と言って返事も待たずに、壁をすり抜けて侵入すると1分もせずに戻った。
「マジビビるわお前」
「そんな事より課長」
「なんだよ」
「誰もいないのだけど」
アドルフをはじめ、全員鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。
「は?」
「だから、誰もいないって」
「ウソ」
「マジよ。やっぱり内通者がいたみたいね」
「マジかよ!」
アレクサンドルが様子を探り、それを受けて他の課に協力を要請した。その為にこちらの動向が敵に漏れて、先に行動を起こされてしまった。
こうしてはいられない、とすぐに車に戻った。車は特定してあったので、オリヴァーに追跡してもらいつつ、アマデウスに連絡を取り“神罰地上代行”及び衛兵団にも厳戒警備を要請した。
「俺らはヴァチカンに行く。お前らはどうする?」
シャルロッテはついて行くと言った。クララとクリストフにはヴァチカンの空気は重すぎると判断して、二人は指揮と後方支援に回ることになった。
それにフレデリックが「えっなんで主任まで?」と口を挟んだ。
「そんな事言っている場合じゃないわ。早く車に乗って」
質問を無視し、無理やりぐいぐいと押し込んでシャルロッテも車に乗った。ここからヴァチカンまで、どんなに走らせても1日以上かかる。
「一旦フィレンツェの城に帰ったほうがいいわ。車がもう一台欲しいし」
「は? そんな暇ねーぞ!」
「あるわよ」
言うが早いかシャルロッテは車の床に手をついた。するとそこから伸びる影が全体を覆っていく。全てが黒一色に染まり闇に覆われ、その瞬間ガタンと車体が揺れた。一瞬で暗闇が消失した窓の外に広がっているのは、湖畔の風景とは全く違う、見慣れた城の庭だった。
「着いたわよ。あー疲れた」
息を吐いて影はとうに元に戻した。驚いた隊員たちが一斉に胸をなでおろしているのを視界の端に捉えた。
「もうお嬢がハイスペックすぎて崇拝しそうだよ俺」とエルンストが言うので、「していいわよ」と言うと遠慮された。
城に入るとリビングにくつろぎ仕様のサイラスがいて、アマデウスは連絡を受けてすぐにヴァチカンに発ったようだ。
「また嫌味を言われると半泣きで出かけたぞ」
ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿は、部下の教育もまともに出来ないんですね。敵を取り逃がすなんて、吸血鬼は仕事も出来ないんですね。
そんな感じの事を。
あら可哀想に、と適当に相槌を打って、サイラスに耳打ちした。
「お父様、この事件の内通者が誰か、この事件の顛末はとても重要になります。よく見ていてくださいね」
その言葉を聞いたサイラスは、「そうか」と愉悦を含んだ返事を返した。
――――その頃、ヴァチカン。
「お呼びですかカメルレンゴ」
「ええ。ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿、あなたは一体何をしているのですか」
やはり嫌味を言われた。教皇が不在の現在ヴァチカンを仕切っているのは代理人であるカメルレンゴ――――いわゆる教皇の秘書長だ。登庁したと聞いたらしく呼び出されて即嫌味だ。
「まったく、これだから化け物は信用できないのです。自分が生かされているのだという事を十二分に理解して、その身命を賭して忠実に働いていただきたいものです。それが契約だと聞いていますよ」
「申し訳ございません」
言われ慣れてはいる。だがいい気はしない。心の中に燻る反骨心を抑えて、アマデウスに出来る事は謝罪しかない。そんなアマデウスを睥睨して、カメルレンゴが言った。
「内通者がいるそうですね」
「はい」
「特定は出来ましたか?」
その質問に「NO」と答えると嫌味が返ってくるのはわかりきっているが、「YES」と嘘を吐くと余計に悲惨な目に遭うのは自明の理。仕方なく「いいえ、まだ……」と口籠りながら返事を返すと、カメルレンゴから帰ってきた返事は意外なものだった。
「そうでしょうね」
意外で、冷たく諦めたような口調をしたものだから、驚き思わず顔を上げた。するとカメルレンゴは冷めたような眼でアマデウスを見下ろしていて、その視線に俄かに怯んだ。
そしてカメルレンゴの薄い唇から、視線よりもはるかに温度の低い声が注がれた。
「ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿、裏切り者はあなたなのでしょう?」
「まさか!」
あまりの事に立ち上がろうとすると、周囲の者達に聖杖で抑えられ渋々跪いた。やはりカメルレンゴは氷のように冷たい目をして見下ろしていた。
「教皇聖下がご不在である現在、呪いを実行する地位にある者はここにはいない。この機に乗じて反乱を起こそうとしたのではないですか?」
「それは、カメルレンゴ、誤解です。私はその様な事は考えておりません」
「信頼しかねますね。裏切り者は何度でも裏切ると言いますし、言葉だけで信頼できるほど、我々は化け物に対し寛容にはなれません。それはあなたがよくご存じのはずですが?」
何を言いたいのかはわかる。カメルレンゴが何をしたいのかも。
現教皇と、その側近であるカメルレンゴはヴァチカンにおける対化物絶滅主義の筆頭だ。その意味では“神罰地上代行”の運営には協力的だが、だからこそ「吸血鬼ノスフェラート」の血族であるアマデウスの存在が許せない。そのことで散々苦言を呈しているし、これまでの歴史の中でアマデウスも耳が痛むほどに聞いてきた。いい加減、自分の存在が疎ましく思われていることも、迫害に近い扱いを受けていることからわかっている。だからこそ、常に平身低頭してヴァチカンに尽くしてきた。
しかし、この機に乗じているのはカメルレンゴの方で、アマデウスに謀反の疑いをかけ排除しようとしている。長年をかけて作り上げた“神罰地上代行”は、初期こそアマデウスが吸血鬼の力をもってして前線に赴くこともあった。だからその実績と努力を買われたこともあり、指揮を円滑なものにするため、比較的寛容だった当時の教皇に枢機卿と言う地位を与えられたのだ。しかし現在は、システム上盤石なものになっていて今更アマデウスの指揮など必要としていない。人間にでも指揮は勤まるのだ。
「あくまでもご自身の潔白をを主張するというのなら、こちらにお留まり下さい」
悔しい、たかが人間に。悔しい、契約の呪いの為に。反旗を翻すことなどできないと、わかっているくせに。
何年何十年、どれほどアマデウスが尽力しても、努力しても、忠誠しても、その結果も経過も顧みられることはない。人間ではないというだけで、正当な評価をされないことは奥歯を砕く程に悔しかった。聖職者たちにとって自分が迫害の対象になることは致し方ない事だとわかっていても、わかっていてこの場所に身を置くことに甘んじていても、それでも涙が出てしまいそうだった。
悔恨で震える体を必死で抑えて、アマデウスは言われるがままに、投獄された。
2 3/20 聞き込み
村一番の狩人がいた。その男は誰よりも早く駆り、また人よりも秀で、またその美しい容貌も人を惹きつけた。その男の名は、ノスフェラートと言った。
ある時、通りかかった村長の孫娘が、狩りをするノスフェラートに出会い、一目で恋に落ちた。だがその時、孫娘はそれはそれはお腹が空いていて、ノスフェラートに抱擁すると同時に吸血した。孫娘は、吸血鬼だった。
抱擁には壮絶な苦痛を伴い、ノスフェラートもまた吸血鬼に変容してしまった。吸血鬼となり人々からはその姿を認識されなくなった。一部の魔術師がノスフェラートが吸血鬼となって、姿を消し人を襲っていると村人に話し、村人たちは手のひらを返したように気味悪がり、彼を追い立てようとした。彼は、彼をそうせしめた娘を憎んだ。だから彼女の求愛には一切応じずに、川で禊をする少女に恋をし、抱擁した。その少女も吸血鬼になった。
ある時、孫娘の元にノスフェラートが会いに来た。胸を高鳴らせる娘に、ノスフェラートが言う。
「あの時からあなたの事が頭から離れませんでした」
娘は恋が成就したことに喜んで誘われるがままについて行き、森の奥深くで殺された。
孫娘を手にかけた時、ノスフェラートの前に立っていたのは村長だった。怒りに震えた村長は、ノスフェラートを徹底的に打ちのめし、こう言った。
「呪われてあれ、その醜い姿で生きよ。お前のしたことは、そのままお前に降りかかってくるであろう。我が一族の恨みを、お前の一族全ての者で贖え」
あれほど美しかった顔は、村長に殴られて腫れあがったまま、二度と元に戻ることはなかった。ノスフェラートが吸血鬼化した者も、皆死に絶えた。しかし、川で抱擁した少女だけは生きながらえた。その少女はノスフェラートを憎み、殺しにやって来たので返り討ちにした。
その後、大洪水により村は水に沈み村長も死んだ。しかしノスフェラート達は生き残り、新たな時代がやってきても呪いだけは、村長の強大な魔力を保ち続ける。
ノスフェラートが繁殖を許される相手は、ノスフェラートの能力では吸血鬼化することのない、特定の人間に限られた。ノスフェラートの醜い娘もまた恋をして、その男性を抱擁する。そうして抱擁された相手は、自分の身の上を嘆いてノスフェラートの血族を憎む。息子も、孫も、ひ孫も、恋焦がれた相手に憎まれて命を狙われる。村長の呪いはそうして、延々と、連綿と、ノスフェラートの一族を苦しめ続けている。呪う方も呪われる方も、どちらかが死ぬまでその苦しみから解放されることはない。
だから追う方「地上の者」は「地下の者」の殺害に執着する。その執着はまるで、烈しい恋のようだった。
教皇庁に到着し、アマデウスが逮捕されたと聞いて、サイラスから聞かされたノスフェラートの話を思い出していた。呪いからの解放に執着することは、最早回心だとかそう言ったレベルの話ではない。腹が減ったから飯を食う、眠くなったら寝る、そう言う本能的なものだ。元来アマデウスは虎の威を借る性分であるし、そう言った呪いの本能がある限りは、ヴァチカンに反旗を翻すことなどあり得ない。そんな事をしても、アマデウスには一切メリットはない。
「誤解です、猊下はその様な事は致しません。大体この非常時に、カメルレンゴは何をお考えなのですか!」
その情報を齎した“聖堂騎士”の課長ガリバルディに、アドルフは激昂して食って掛かった。ガリバルディもまた疑問には思っていたようだが、一先ずアドルフを宥めた。
「リスト課長、落ち着いて下さい。“検事”の方に内通者の特定は急ぐようにお願いしてあります。猊下が冤罪であることは必ず立証されますので、今は私の言う事を聞いて下さいませんか」
その言葉にアドルフは眉を寄せた。
「……ガリバルディ課長の?」
本来なら代理の指揮は、直近の側近であるアドルフのはずであった。ガリバルディは少し居心地が悪そうにして言った。
「はい、カメルレンゴよりエゼキエーレ枢機卿にご命令があったそうで、私が仰せつかりました。猊下がご不在の際の“神罰地上代行”の指揮は私にと。リスト課長以下“死刑執行人”は……猊下に洗脳されているから、信用できない、と。“死刑執行人”はこの件から外れるようにとのことで……」
言いがかりも甚だしい。余りの言い分に瞬間的に頭が沸騰したが、ガリバルディに激昂したところでどうしようもない。実際取り逃がしたという非がある以上は、事件への関与を絶たれても仕方がないし、日ごろの事を考えると処罰対象になっても致し方ない。息を整えて静かに怒りを鎮めた。
「解りました。ではよろしくお願いします」
「公務としての“死刑執行人”の捜査は認められません。リスト課長に指揮権がない以上は、私の独断が許されるという事ですが……」
その様子を見てガリバルディも安心したが、それと同時に酷く申し訳なく、また憐れに思ったのか、命令ではあったが穏やかな口調だった。途中で言葉を切って、ガルバルディが声を潜めて言った。
「リスト課長は、今日は非番です。好きに過ごしてください」
アドルフは思わず失笑して、わかりました、と笑顔で返事をしてその場を辞した。
シャルロッテも教皇庁についてきた。なので服装を修道服に似せた。紅一点のシャルロッテに周りはすれ違うたびに振り返り、視線が集中して居心地が悪い。シャルロッテの存在を不思議がる人には、アドルフが「並ならぬ戦闘力を持っていたので、スカウトしたシスターです」と適当に説明した。
「流石はヴァチカンねー教皇庁ねー。息苦しいしなんだか吐きそうだわ」
それがシャルロッテの正直な印象だ。後はみんな黒い服を着ている、男しかいない、くらいしか思うところはない。色々試しては見たが、魔剣や蝶の嵐などの使い魔を出すことは出来なさそうだった。ヴァチカンの聖なるパワーのせいか、郊外で待機するクリストフとクララの気配も攪乱されてわからない。が、姿を変容させたり影や血液に隠れたりは出来た。
戻ってきたアドルフと、オフィスで早速会議をした。「今日から事件解決まで全員オフだ」と聞かされてみんな驚いて怒ったが、休みなら何をして過ごそうがこっちの勝手だと開き直った。
オリヴァーによると、テロリストたちは真っ直ぐヴァチカンに向かっていて、まだ到着していない。ヴァチカンに入る街道には検問が敷いてあるし、教皇の入院するローマの病院の警備は厳戒態勢だ。一見したら鼠一匹通さない鉄壁に思えるが、内通者が大司教や枢機卿クラスの高位の者と仮定した場合、ヴァチカンへの侵入を許してしまう可能性は捨てきれない。
「内通者は、間違いなく司教以上よ。アディと叔父様の通達した命令を即時把握できるのは、“神罰地上代行”を除けば、ある程度地位がないと無理でしょうからね」
アレクサンドルが潜入を終えてアドルフがヴァチカンに指示を出し、シャルロッテ達が集会場に踏み込もうとするまで、時間にして3時間程度だった。その間に状況を把握したうえで、情報を横流しできるのは上層しか考えられない。
「そうだな。とりあえず犯人探しは“検事”に頼みたいところだけど、任せてばっかもいられねぇ。お前らには悪いけど、俺は単独行動をとる。汚名返上と猊下の無罪の立証は同時進行じゃなきゃいけねぇから。お前らはクリスの指揮の下、組織の追跡と抑止及び殲滅に全力を挙げろ。奴らがヴァチカンに入る前に、必ず入国を阻止して潰せ」
隊員たちはその命令に素直に従う事にし、すぐにそれぞれの仕事に取り掛かった。シャルロッテはアドルフについて行くと申し出た。お約束の様にアドルフは難色を示したが、ここもお約束通りアドルフの意見は無視した。面白そうな方に首を突っ込みたくなる、シャルロッテの性分にようやくアドルフも慣れたらしく、すぐに諦めて同行を許した。
「どうでもいいけどお前、顔色ワリィぞ。大丈夫か」
「心配するなんて柄にもない事を。そんなにいい人のふりをしたいの?」
「……どこまで理不尽なんだよお前は」
シャルロッテは本当に具合が悪いので、もとより白い肌がより蒼白になっている。たまに親切心を出してみたアドルフだったが、シャルロッテが冷たく突っぱねるので、ただでさえ気落ちしていたのが余計に沈んだ。それにシャルロッテが顔を覗き込んだ。
「あら、いつもの元気はどうしたの? 折角心配してやってんのに、とか言わないの?」
「……誰のせいだ」
相変わらず暗い顔だ。
「湿気た顔してるんじゃないわよ。アディらしくもない。アディが暗くなっても叔父様は助からないわよ」
「うるせーな、わーってるよ」
ふと、廊下の時計が0時を告げる鐘を鳴らせた。重い鐘の音が響く廊下の掲示板の日付が、21日に変わった。
「もうすぐ誕生日じゃない。好きな物なんでもあげるから、それ考えて元気出しなさいよ」
「そんなので浮かれるほど、俺はガキじゃねぇんだけど」
「私からのプレゼントに浮かれないなんて、罰当たりね」
「いやお前の存在が罰当たりなんだけど」
言われて思い出す、吸血鬼のシャルロッテがいるのは聖地だ。
「あっそれもそうね!」
「アホか……」
アドルフはやっぱりうんざりした気分になったが、少しだけ気分はほぐれた。
シャルロッテにも無線を持たされて、二人で小話をしながら向かうのは、アマデウスが投獄されている地下の牢獄だ。遥か昔は実用されていたその牢獄も、実際に使用されるのは数十年ぶりのはずの場所。堅固な牢獄と結界を施した中に、アマデウスが幽閉されている。勿論、そこにアマデウスの直属の部下であるアドルフが近づくことは不可能だ。当然ながらプリズンブレイクと言う強硬手段を試みるつもりはない。そんな事をしたら、今後一生お尋ね者だ。
とりあえず目的は、アマデウスが誰にどの程度情報を開示したか、それを尋ねる必要があった。地下に辿り着いて、見張りらしき神父に面会を申し出たが、やはり面会謝絶だと断られた。
一旦地下から出て、物陰で会議する。
「うーん、どうすっかな。まぁある程度わかんだけどさ」
「神罰地上代行はわかってるわよね? あとは教理省の枢機卿と? ていうか、どこが関与しているの?」
ヴァチカンには原則武力と言う物は存在しない。神罰地上代行は秘匿の組織であるし、表だっているのは、別の省の警察組織、スイスの衛兵団くらいだ。通常警護やヴァチカン内の問題に関してはその警察が動く。神罰地上代行が動くのは、教理省の仕事である“異端審問”に関わる場合だ。今回は問題がヴァチカンにまで発展したため、総力を挙げることになった。だから、ある程度の情報は警察や傭兵団にも行き渡っているはずだ。
「けど内通者云々に関しては、他の省の人員は知らねぇかもな。でもわからん。警察は知ってるかもしれんし、カメルレンゴと教皇には話はいってるはずだけど、他の枢機卿たちはどうだろう?」
アドルフの考察を聞いて、頬に手をついて溜息を零した。
「なんか面倒くさいわねー。やっぱり聞いた方が早いわよ」
「だから、それが問題なんだろ」アドルフは溜息を吐く。それに両手を開いて見せた。「どこが? その為に私がついてきたんじゃない」
言うが早いか、シャルロッテは立ち上がり再び地下へ向かう。慌ててアドルフがその後を追うと、地下牢に差し掛かる少し手前の角で身を隠した。しばらく二人で隠れていると、一人のオッサン神父が地下牢から出ていった。アドルフはその神父の事を知らなかった。長年勤めているのだから、アドルフの知らない人物なら他省の司教以下の平官吏(異動アリ)だ。休憩か交代の見張りであることは間違いなさそうだったので、再びシャルロッテは廊下に姿を現した。
「アディはここにいて。私が叔父様に聞いてくるから」
アドルフも立ち上がり「俺も行く」と言ったが、アドルフの胸を押して下がらせた。
「ダメダメ。アディは来れないわよ。足手まといだし」
「何だとコノヤロー」
「いいから、待て」
「犬扱いしてんじゃねーぞコノヤロー」
「アディが見つかったら元も子もないでしょ。いい子にしてたらご褒美あげるから、待て、お座り」
「ムカつくマジで」
とは思ったものの、シャルロッテの言い分も尤もだと納得して、言われたとおりにステイに従った。
廊下の影で先程のオッサン神父に変身し、地下牢の前に辿り着いた。見張りは二人いて、二人とも急遽用意されたであろう机とパイプ椅子に腰かけて、不思議そうにこちらを見た。
「おや、マチェラッティ神父、どうなさいました?」
どうやらこのオッサンはマチェラッティと言うらしい。尋ねたメガネ神父に眉を下げて返事を返した。
「いやー、実は万年筆を失くしてしまって、多分中に落として来たんだと思うんですが」
昇進のお祝いにと信者がくれた思い出の品なのです、と、適当な事を言って地下牢を指さしてみる。
「おやそれは一大事ですね。探しに行かれるならお手伝いしましょうか?」
「いえいえ、そんなご迷惑は。と、あれ、どこやったかな」
わざとらしくポケットを叩いて鍵を探すふりをしてみると、「さっき戻してたじゃありませんか」と、笑ったハゲ神父が机の引き出しを開け、鍵を渡してくれた。
「いやもう、近頃物忘れがひどくて。年を取るのは恐ろしいものですね」
「あはは、わかります。私もよくやります。万年筆、見つかることをお祈りしています」
「ありがとうございます」
笑顔で礼を言って、まんまと地下牢に侵入。しめしめ引っかかったヴァーカ、である。
地下牢の中を少しうろつきまわり、奥の奥。そこには荘厳かつ霊験あらたかで清廉な――――吸血鬼にとっては悍ましい気が満ちている。鉄格子や煉瓦の壁中至る所に聖書の文面が張りつけられ、銀で施錠されたその独房で、アマデウスが一人蹲っていた。
その前に腰かけると、アマデウスが顔を上げた。
「……なにか?」
「聞きたいことがあるんです、お静かに願えますか?」
「なんでしょうか?」
アマデウスから向けられるのは、明らかな敵意と警戒心だった。それを見て変身を解いた。
「――――っ! ロッテ!」
「静かに」
驚き声を上げたので、唇の前で人差し指を立てて静粛を願うと、アマデウスは驚きつつも頷いた。落ちついてようやく鉄格子の前まで這ってきた。
「ロッテ、どうして?」
「叔父様を助けたいとアディ達が躍起になっています。そのお手伝いに」
それを聞いたアマデウスは「そっか」と言って少し儚げに笑った。
「だから叔父様、私の質問に答えて頂けますか?」
「うん、なに?」
「さっき――――20日の夜ですが、アディから逐一報告を受けていたと思います。その報告と通達を誰に連絡しましたか?」
「えっとー……」
アマデウスが少し宙を仰いだ後答えた。敵のアジトの発見と、これからの行動に関しては“神罰地上代行”の各課の課長、教理省長官、国務長官以下総務局長外務局長、スイス衛兵団(警察)、カメルレンゴ及び教皇秘書室。教皇へはそこから連絡がいっているはずだ。
「だけど、事件の概要自体は国務長官から行政庁にも連絡がいっているかもしれない」
「行政庁?」
「教皇庁って言うのはあくまで教会の運営を取り仕切るものであって、実質的な政治は行政庁が執政してるんだよ」
「へぇ……」
ヴァチカン市国と言えば当然国家元首はローマ教皇だが、教会におけるトップは国務長官だ。だが行政におけるトップとなると、行政庁長官となる。
曖昧に返事をしながら質問を続けた。
「それで、内通者の件に関しては、どこまでが把握していますか?」
アマデウスが直接それを連絡したのは、“聖堂騎士”課長ガリバルディ、“審判者”課長アリオスト、“検事”課長カンナヴァーロ、スイス衛兵団団長バーデン、教理省長官である主席枢機卿エゼキエーレ、カメルレンゴのトバルカイン枢機卿。
聞いて、フム、と考える。内通者がいる。内通者がテロに加担していることは間違いない。今テロを発生させるという事は、教皇及び枢機卿暗殺、またはテロを利用して国家転覆を狙っている、という予測が真っ先に来る。しかし教皇暗殺はともかく、内通者が教会関係者である以上、国家転覆は考えにくい。それよりも、「今コンクラーヴェを行うことに異議がある」と考える方が妥当だ。こんな事件が発生してしまえば、如何に教皇が病床に就いていたとして、騒動の最中に退位を宣言したりはしないだろう。教皇の退位は避けられないとしても、今すぐ退位を検討することはないはずだ。内通者は何らかの理由で、退位及びコンクラーヴェを先延ばしにしたいのだ。
「次代の教皇と目されているのは、やはり主席枢機卿のエゼキエーレですか?」
この考えは妥当なのだが、アマデウスは唸った。コンクラーヴェの選出と言うのは、通常の行政選挙に比べてはるかに難度が高い。なにせ3分の2を上回る票数を獲得しなければ、選挙はいつまで経っても終わらないのだ。余程枢機卿内で信頼を勝ち得ている人がいればそうでもないだろうが、通常、とくに派閥が絡んでくると、長期化は免れない。
政治が絡むと、どうしても派閥と言う物は出てくる。例にもれずヴァチカンにも保守派と革新派と言う物があって、例えばアマデウスを例えに挙げると、業務をスムーズ且つスマートに推進するために、アマデウスの利用価値は十分と考える革新派と、典礼に則ればアマデウスの存在は言語道断と考える保守派がいる。同じ教理省の中にも当然保守派はいて、アマデウスが吸血鬼と知らない者もいるが、知っている者の中には、アマデウスの下で働くことに異議を申し立てる者はいる。
教皇は絶対的絶滅主義の左翼的保守派であり、教皇の養子であるカメルレンゴもまたそれだ。保守派の筆頭はまだ若いカメルレンゴではなく、国務長官のフォンダート枢機卿。反して主席枢機卿であるエゼキエーレは合理主義的革新派で、利用価値や合理性、科学的手段にも目を向けている為アマデウスには寛容だ(かといってアマデウスの味方ではない)。
アマデウスを枢機卿に推挙したのは数代前の教皇で、入庁を許したのは更に遡る。この時はイタリア統一などの歴史的な背景があったこともあり、革新派が台頭していた。しかし、現在の教皇もそうだが先々代辺りから古典派保守派が筆頭していて、アマデウスへの風当たりは強く、予算が削減されてしまったくらいだ。その軋轢もあって、ここ数十年保守派と革新派では熾烈な権威争いが過熱している(決してアマデウスを擁護する為ではない)。
「では内通者は革新派のエゼキエーレを推薦する枢機卿、若しくは本人でしょうか? 保守派――――フォンダート枢機卿が筆頭している内は、その勢力を縮小させないとエゼキエーレが当選しないと危惧して?」
「いや、保守派と革新派が二大派閥と言うだけで、中立派とか他にも派閥はあるからねー」
思わず顔を顰めた。
「年寄りは面倒臭いですね……」
「しょうがないよ。歳取ると人間はそう言う風になるもんだよー、いつの時代もね」
「まぁ、そうですね」
特に男で、ある程度権威の味を知ってしまったらそう言う事にもなる。
とりあえず、そうなると内通者として怪しいのは、現在筆頭している保守派である可能性は低いと思われる。が、それもアマデウスによると怪しいとの事だ。
「カメルレンゴはね、現教皇に心酔しきってるんだ。もうすごいラブってる」
「あぁ、要するに現教皇に続投を願いたいと」
「っていう憶測が立たなくもないかなー」
「余計面倒臭いんですけど。ていうか、それなら直接お願いすればいいでしょ」
「教皇って絶対主義的だし、一回言い出したら余程の事がなきゃ意見曲げないんだよ」
頑固親父らしい。そうなると狂信的なカメルレンゴの取りうる手段としては、テロの加担も辞さないと言う訳だ。
「親が親なら子も子ですねー。どこの家庭も似たようなもんですね」
「全くだね。まぁわかんないけど。ロッテの仮説を基にするなら、僕的に怪しいのは、カメルレンゴ及びその支持者、エゼキエーレ枢機卿及びその支持者」
「それと、フォンダート枢機卿及びその支持者、教皇からの推挙が欲しい保守派の枢機卿の誰か、ですね」
「ま、そんなところだろうね」
一通り話を聞いて、再び唸る。問題はそう、仮説だ。シャルロッテにしてみれば、テロリストの目的は置いておくとして、内通者が教皇暗殺を企んでいる可能性は低いと考えている。なにせ教皇は90歳に近く、それほどの高齢で発症した前立腺がんが治癒されるとは思えない。どの道放っておけば、半年から1年くらいで死ぬ人間だ。わざわざリスクを冒してまで、殺す必要性を感じない。
だとすると、誰かの命を狙っているとしたら枢機卿、もし暗殺が目的でなければ、やはりコンクラーヴェの延期くらいしか思い浮かばない。
そう考えて、新たに疑問がわいた。
「叔父様、仮にコンクラーヴェの延期が成功したとして、その為に齎されるメリットは何が考えられますか?」
シャルロッテの質問を受けて、アマデウスも腕組みをして唸った。
現在もそうだが、教皇不在の場合はカメルレンゴが代理として執政する。教皇が死んだ後も同じようにカメルレンゴとエゼキエーレ主席枢機卿が教皇代理として執政する。その際、カメルレンゴには通常与えられることのない特権が発生するが、教皇の決議が必要な案件などは、次代の教皇が確立しない間は保留されるのだ。
「うーん、なんだろう……現教皇に決議して欲しい火急の要件があるか、若しくはその逆か……」
「逆?」
「今の教皇はその案件の決議を渋ってて、内通者もその方が都合がいい、とか?」
「でも延期で構わないんですね……時間が解決するような事なんでしょうか? 叔父様は今会議中の問題とか、何かご存知ですか?」
アマデウスは首を横に振った。
「ゴメン、僕ヴァチカンの政治には不可触だから」
「あ、そうでしたね……」
アマデウスは“神罰地上代行”の指揮以外に、枢機卿としての権利は保有していないのだ。
とりあえず、アマデウスから引き出せる情報はこんなものだろう。お礼を言って笑って、もう一つお願いがあるとアマデウスにねだった。
「叔父様、今万年筆持ってませんか?」
「持ってるけどなんで?」
ここに来る口実に、失くした万年筆探しを言い出したのだというと、苦笑された。
「じゃぁこれ持ってって」
「ありがとうございます」
格子の中からそれを受け取って、格子の中のアマデウスに手を伸ばそうとしたが、結界が青い火花を散らしてシャルロッテの手を拒絶した。それにアマデウスは悲しそうに笑って、「ごめんね」と言った。
「いいえ、叔父様。叔父様の無罪は私とアディで必ず立証しますから、待っていてくださいね」
「うん、ごめんね」
「叔父様は悪くないんですから、どうか謝らないで。こう言う時は礼を言う物ですよ」
こんな時でも可愛くない事を言うシャルロッテにアマデウスは苦笑して、「ありがとう」と言った。
「では叔父様、待っていてくださいね」
「うん、気を付けてね」
「はい」
再びマチェラッティ神父に変身し、丁寧にアマデウスに礼を取りその場から立ち去った。
牢の入り口にやってきて「見つかりました」と万年筆を見せびらかし鍵を返すと、「よかったですね」と喜ばれた。そそくさとその場を立ち去り、アドルフにステイを言いつけている場所に向かっていると緊急事態だ。
「おっと」
前方からマチェラッティ本人がやってきていることに気が付き、すぐに変身を解いて、今度はメガネ神父に変身した。
「あ、お疲れ様ですフォルト神父。どちらに?」
「ちょっと小用を足しに。歳を取ると近くて困りますなー」
また適当な事を言ってそわそわしてみる。
「あー今、そこのお手洗いは掃除中でしたから、ちょっと歩かなきゃいけませんよ」
アチャーと言う顔をしてみる。
「参ったな、走らないと。いい年こいてやらかしてしまう」
「ははは、引き留めてはいけませんね。急いで急いで」
「どうもありがとう」
笑って礼を言って、何だこの年寄りトーク、と思いつつ走ってその場から退散した。
牢の前にやってきたマチェラッティ神父は、目をパチクリとさせた。
「あれ? フォルト神父?」
今すれ違った筈だ。
「おや? マチェラッティ神父?」
今立ち去ったはずだ。
おや、あれ、んん? と、3神父はひとしきり首を傾げた。
アドルフがステイする場所に戻り変身を解き、アマデウスに聞いた内容を聞かせた。それを聞いてアドルフも一しきり唸って思索にふけりはじめる。
「アディ、考え事は行動しながらでもできるわ。2人しかいないんだから、いつも通りにやってたら間に合わないわよ」
と急かして、地下からさっさと退散した。1階に戻ったところで、もう一つ、とアドルフに振り返った。
「いい子にしてたからご褒美あげる」と万年筆を渡した。
黒い万年筆は年季が入った物で、それを受け取ったアドルフは万年筆を見つめた後シャルロッテを見た。
「これ猊下の?」
そう言った事に少し驚いた。
「よくわかったわね?」
尋ね返すとアドルフは、万年筆をぎゅっと握った。
「俺が猊下に差し上げた」
「そう」
本当に叔父様を慕っているのね、と思った。だからこその迷いと焦燥。万年筆を握る手の上から手を添えて覆った。
「今はアディが預かっておいて。叔父様が釈放されたら、必ず、アディが返してあげて」
「わかった」
返事を返したアドルフは、瞳に使命感を宿して強く頷いた。
素直なアドルフはとても珍しいので、少し可愛かった。
「アディはいい子ね」と頭を撫でると、気分を害したらしく「撫でんな」と手をはたかれた。やっぱり可愛くなかった。
二人で歩きながら、アドルフが言った。
「お前の言う『テロを引き起こした理由』だけどよ、普通に考えたらやっぱ教皇暗殺か枢機卿暗殺だろ?」
普通に考えれば、真っ先にそれが来る。コンクラーヴェが実行されることは、遅かれ早かれ間違いない。だとしたら騒ぎに乗じて邪魔な枢機卿を排除したい、もしくは教皇を。そう考えるのが妥当なのだが。
「そういうのは短絡的だからあんまり好きじゃないわー」
「お前の好みはどうでもいいんだけど。つかお前、ワザと話をややこしくしようとしてねーか?」
「だってただの暗殺じゃつまらないじゃない」
つまるとか、つまらないとか。
「あのー……一応言っとくけど、暗殺ってただ事じゃねぇぞ? その辺わかってるか?」
「わかってるわよー、でもそれじゃ犯人がただのおバカさんになっちゃうじゃない。つまんないじゃない」
ここにきてアドルフはようやく気付いた。
「さてはお前、この状況楽しんでるだろ」
「うん」
返事を返すと、途端にアドルフは激昂した。
「ウンじゃねーよ! こちとら必死なんだよ! ふざけんな!」
「ふざけてないわよ。私だって一生懸命楽しくしようとしてるわよ」
どうせなら、大事件も遊びも本気で取り組んだ方が楽しい。
シャルロッテの返答にアドルフは頭を抱えて地団太を踏んだ。
「もーなんでお前ついてきたんだよ。あぁ、クリス、助けて」
こういう時クリストフなら、真面目に仕事をしてくれてナイスなフォローをしてくれていたはずだった。少なくとも仕事に関しては、シャルロッテとコンビを組むことは最悪の事態と言わざるを得ない。
アドルフの様子にシャルロッテは笑って慰めるように肩を叩き、それがさらにアドルフの神経を逆なでした。が、その辺りはいつも通りに無視して、「ほら行くわよー」とオフィスに引っ張った。
オフィスには既に隊員たちはいない。オリヴァーは指揮をするクリストフと合流して、他のメンバーは装備を整え直して出て行った。
事件解決に対する抱負は、願わくば穏便に、そしてミステリアスに。それがシャルロッテの第一希望だが、世の中そうそう思い通りにはいかないものだ。内通者がどう考えているかは不明だが、テロリスト達が教皇や枢機卿暗殺を目論んでいる可能性がないわけではない。そもそも他のヴァチカンの人員は、それを一番危惧して警護に当たっている。
「ねぇアディ、テロリストたちの方はどうなっているかしら?」
「あぁ、聞いてみる」
隊員たちは全員教皇庁から出て行って、迎撃の準備を整えている。今回は警察も動員していることから、いつも通りに皆殺しと言うわけにはいかない(かといって反撃してきたら殺す)。内通者がいる以上は、少なくともリーダー位は押さえておきたいところだ。
アドルフが指示をしたのは、ヴァチカンに入る前に一網打尽にすること。侵入されてしまっては遅いし、警察と違って事件を未然に防ぐ権利を持つのだから、活用しない手はない。
100人前後の衛兵団は、ほぼ全員が教皇の警護に回っている為、ヴァチカンを出てローマの病院に行っている。教皇庁及びヴァチカンを守護するのは、“聖堂騎士”を筆頭にした“神罰地上代行”の面々だ。それでも足りなかったらイタリア軍を要請することになる。ヴァチカン内に軍を入れる事は認められないが、イタリア側からヴァチカンを包囲してもらう。そうすることで事実上ヴァチカンを防衛できるのだ。
特定できているテロリストの車は3台。高速道路を使ってスイスから真っ直ぐに南下している。ノイズの混じった無線の向こう側で、オリヴァーが言った。
「そろそろミラノに差し掛かるころだね。このままブッ続けで車走らせて、ヴァチカンに到着するのは明日の深夜か明後日未明にかけてかな」
「そうか。クリスはなんて?」
「えっとね、とりあえずエルンストとレオがこっちから遊撃に出た。ガリバルディ課長がヘリ貸してくれたから、鉢合わせするのは明け方くらいかな」
「装備は?」
「レオお手製(改造)対戦車ロケット擲弾発射器。旧ソ連製クルップ式無反動砲RPG-7改」
「それは重畳」ニヤリと笑った。「一人くらいは残しとけよ」
「了解!」
小さく頷いてアドルフが無線を切った。
「ヘリなんて操縦できるの?」
「レオは武器マニアで運転マニアだから、大概のもんは」
思っていた以上に有能なことに、素直に感心した。
「すごいわねー。一度ヘリでクルージングしたいわー」
「暢気な事言ってんなバカ」
ヘリでヴァチカン上空を旋回してみる、そんな妄想に囚われていた。が、ヴァチカンの事を考えていたら、すぐに別の事を思いついた。色々状況を考えてみると、微妙に辻褄が合わない。
「ねぇ、アディならどうする?」
「あ? なにが?」
「テロリストは犯行予告を出しているのよ、25日。猶予は4日。それで今までスイスにいたなんて、おかしいと思わない?」
問われてアドルフも、口元に指を当てて考え始めた。
もしシャルロッテがテロリストなら、確実に実行するために、何日も前からヴァチカン近郊に潜伏している。そして、3日から5日以内には、ヴァチカン内に爆発物を仕掛けておく。動き出すには遅すぎるし、シャルロッテなら犯行を予告した日時きっかりに、犯行を実行したりはしない。趣味系犯罪となると、考え方によっては几帳面に守る所だが、その辺りは置いておくとしてだ。
アドルフも唸った。
「そうなんだよな、俺もその辺は不自然に思ったんだよ」
「そうでしょう? ねぇ、もしかして」
顔を見合わせた。
「囮?」
声が揃った瞬間、アドルフが立ち上がった。続いて追う様に立ち上がり、出て行こうとする服の裾を掴んだ。
「どこいくの?」
「ガリバルディ課長ンとこ。警備の強化依頼と、あと事件を報道して式典を中止にしてもらわねぇと」
テロからの予告は非公開とされていた。その為、ヴァチカンの関係者以外は事件の事を知らないのだ。ヴァチカン国民はほぼ全員が教会関係者だが、式典の際にはイタリアからも外国からも客がやってくるし、ヴァチカンには国境警備などが無い為、許可された区域には誰でも好きなように出入りできるようになっているのだ。
もし二人の予想が正しければ、ヴァチカン内には至る所に爆弾が仕掛けてあるかもしれない。爆弾は時限式だから遠隔での操作が可能になっていて、予告日の前からでも、警告や威嚇の為に爆破される恐れがある。その時に、何も知らないで前乗りした観光客が巻き込まれてしまったら――――。
アドルフに賛同して、二人でガリバルディの元へ行った。二人の考察を聞いて、ガリバルディはすぐに警備の人員を増やすと約束してくれて、広報を担当している国務省や、式典を主催する福音省にも、枢機卿を経由して連絡を取ると言ってくれた。
「式典の中止と、事件の公開に関しては上の判断になりますので……どうなるかはわかりません」
第一希望は誰も何も知らないうちに、何も起きない内に犯人を逮捕することだ。だが、警戒はしておいて損はない。上がどういった判断をするかはわからない。念の為で公開して中止してくれればありがたいが、式典にイタリアの議員も出席するし、それなりに費用を投じている。今の段階で中止を言い出せば、開催に協賛したあらゆるところで不都合が発生する。
公開と中止に関しては、シャルロッテ達には提案する事しかできない。上には賢明な判断を願う事にして、再びオリヴァーとクリストフに連絡を取った。
「おいクリス、今ロッテとも話したんだけどよ」
『マジか』
「いや俺まだ何も言ってねぇよ」
『え? でも今お嬢が囮って』
「あ?」
アドルフが訝しげに覗き込んできて、クリストフ本人にも言っていなかったことを思い出した。
「あっ忘れてたわ。クリスは私の支配下に入ったから、テレパシーできるのよー」
「マジ……」
『うわーすげー。いよいよ化け物っぽいな』
シャルロッテとクララ、シャルロッテとクリストフの間ではテレパシーによる通信が可能だ。しかしクリストフとクララの間では不可能だ。ちなみにシャルロッテとサイラスの間でも可能だ。
「うふ。便利でしょ。これでいつでもクリスに小言を言えるわ」
『俺のプライバシーを返してくれ』
「それは無理な相談よ。そう言う物だもの」
そうなってしまうものなので、シャルロッテの意志がどうこうは関係ない。
いや、そんなことはどうでもよかったと、いきなり脱線した話を戻した。
「囮かどうか100%の確証はないわ。あっちはあっちでそれなりに武装しているのは間違いないし、囮と言うよりも別働隊として準備していた可能性が高いわ」
「そうだな。一応“聖堂騎士”の人員を増やして市内の警備はより厳重になるだろうけど、俺らも“検事”と協力して市内を改めてみるから」
『わかった。じゃぁこっちも残りの人員をそっちに寄越すから。テロリストたちがヴァチカンに既に侵入してる可能性があるんだな?』
「そうだ」
『もし見つけたら?』
「当然、殺せ」
『了解』
無線を切った後顔を上げて拳を握った。
「何だか盛り上がって来たわねー!」
露骨にワクワクしてみせるシャルロッテに、アドルフは半目になる。
「あからさまに「楽しくなってきた!」って顔すんなよ」
周りは緊張感タップリに、険しい顔をして騒々しく動き回っている。溜息を吐いてこめかみを抑えるアドルフに、にっこり笑った。
「大丈夫よ心配しないで。叔父様は絶対助けてあげるから。さぁ、“検事”の所に行くわよー」
「……ハイハイ」
やっぱりうんざりした顔をするアドルフを連れて、“検事”のオフィスへ向かった。
彼らの通称はそのまま仕事の内容を現しているので、原則的には“検事”が捜査を担当し、“審判者”が吟味し裁きの可否を決議し、有罪判決が出たら“死刑執行人”が実行に移す、と言う流れになっている。犯人探しは“検事”の仕事になるわけだが。
「裏切り者でしょー、わっかんないのヨ」
と、検事の課長カンナヴァーロも腕組みをして唸った。なぜオネェ、と思ったがそこは置いておくとしてだ。
「ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿猊下から連絡があった以後の、通信記録とか色々探してはいるのヨ」
ヴァチカンからスイスへの通信の記録は、スイス衛兵団の増員の要請を含め、通常業務の連絡もあり時間が経過した現在、特定が難しいらしい。何より教皇庁の電話を使ったかどうかも怪しい。
「エルモ、お前的には誰が怪しい?」
「一番怪しいのはやっぱザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿ヨ」
とカンナヴァーロが言った瞬間、アドルフが笑顔でカンナヴァーロの顎を掴んだ。
「課長、冗談は休み休み言いましょうね?」
「ギャー! 痛い痛い! ゴメンなさい!」
思わず全力で謝ったカンナヴァーロは、アドルフが手を離してやると顎をさすりながら涙目で見上げた。
「アディちゃん、相変わらずイイ男なのに、無駄にバカ力ネ……」
「無駄ではありませんよ、それが仕事ですから。なんなら砕いて差し上げても良かったんですよ」
「敬語で恐ろしい事言うの辞めてちょうだいヨ。そのスマイルも余計に怖いワ」
普段のアドルフを知っている人からは、彼の営業スマイルと敬語は「なんか怖い」という理由で不評だ。
「いつも俺らにだけ仏頂面するカメルレンゴよりゃマシだろ」
「まぁそうネェ……本当カメルレンゴは、猊下もアディちゃんたちも大嫌いよネ」
カンナヴァーロは苦笑した。
「絶対あの人が内通者だと思うんだけどな。結果的に俺らの邪魔してんだからよ」
「それは早計ヨ。カメルレンゴはあの教皇聖下の養子なのヨ。確かにアディちゃんたちには嫌な人でしょうけど、聖下もカメルレンゴも素晴らしい人だから、教会を裏切るなんてあり得ないワ」
カンナヴァーロの説得は正しく正論だったようで、アドルフは少し面白くなさそうに舌打ちした。
アドルフの背中から顔を出した。
「そんなにすごい人なんですか?」
「そりゃモウ!」
途端にカンナヴァーロは興奮したようだ。
「特に聖下は素晴らしいお方ヨ。聖職者の鑑だワ。聖下のコンクラーヴェの時はね、一度の投票で5分の4の票数が集まって即決されたんだから。すごいでショ?」
「それはすごいですねー」
実に立派だ。カメルレンゴが心酔するのも頷ける。感心しているとカンナヴァーロが言った。
「ロッテちゃんもシスターなら知っておくべきヨ。回廊に肖像と略歴があるから、見て御覧なさい」
「そうします」
返事を返すとカンナヴァーロはにっこりと笑って、スススとアドルフに近づいた。
「ホンット可愛いお嬢さんネー。こんな上玉中々見かけないワヨ。もう手ェ出した?」
アドルフはその質問にギョッとして、引き攣った顔をしながら返答した。
「……出してねーよ」
「ウソばっかり!」
「いやマジで」
「ヤダもー、アディちゃんいつからチキン野郎になったワケ?」
「なってねぇよ。コイツにヤル気が起きねぇだけだ」
「……ED?」
「違う! つかしつけーんだよテメーは!」
「いだだだだ!」
アドルフがヘッドロックをかけると、カンナヴァーロが必死にタップするので離してやった。しかし気付くと、既にシャルロッテはいなくなっていた。
――――ムカつく……勝手にやってろってか、コノヤロー。
結局アドルフの事はどうでもいい。
それより今はカンナヴァーロに教えてもらった回廊を見たいのだ。さっさと部屋から出て回廊に向かった。
3 休憩
歴代の教皇の肖像が並んでいた。即位した年の古いものから順番に左から、最初は肖像画で途中から大きな写真になっている。一番右端のクレメンス16世も、他の教皇と同じように礼服で正装して、赤い組紐で重ね合された金と銀の天国の鍵と、三重になった冠の紋章の旗。杖を持つ指には猟師の指輪と呼ばれる金の指輪が光っていて、写真に写る顔は優しく微笑んでいる。
略歴には地方の教会の牧師から始まって、教皇に至るまでの経歴が記してある。教皇名はクレメンス16世だが、枢機卿までは本名を名乗っている。教皇になった時に名前を変えるのは、ただの慣習だ。
「ファウスト・トバルカイン卿……」
思わず声に出して、もう一度写真を見た。ただのしわくちゃのおじいちゃんの写真だ。それなのに、嫌なことを思いだした。
ロッテ、ファウストが……。
妹のマチルダが泣き縋った。
玄関先で母親のニーナが泣き崩れていた。
ニーナ、ファウストは?
ファウストは……ゴメンね……ロッテ。
帰ってくると約束したのに、そのまま帰って来なかった。ニーナが言った。
軍なんて向いてないって、言ったのに。
だからシャルロッテは、戦争も軍人も嫌いだ。
そんな昔の事を思い出してしまって、息を吐いた。
バカバカしいわ。ただ名前が、同じだっただけよ。ただそれだけじゃない。
ファウストと言う名は、ゲーテの作品の中で悪魔に魂を売る男の名前だから、好んで付けたがる人はあまりいなくて、少しばかり珍しい名前だ。
ファウストは戦争で死んだ。もう随分と昔の話だ。珍しいからと言って、たまたま同じ名前を見かけただけで、今この事件の最中に思い出して感傷に浸る必要はない。
20歳から聖職の道に入って、もうそろそろ70年。教皇も病気になって、すぐに死ぬ身だ。
「前から思ってたけど、教皇位に就く人って、結構長生きよね」
ようやく追いついたアドルフに言った。
「神のご加護なんじゃねーか」
「そうかもね。それならきっとクレメンス16世も、妙な死に方はしないでしょう」
「そーだな」
なんだか妙な情が湧いた。暗殺を予定しているのならば、阻止しなければ。彼は、病気で死ななければいけないのだ。
隣に立つアドルフが欠伸をしているのを見て、回廊の時計を見ると4時を回っていた。
「アディ寝てきたら?」
「そーする」
この男は睡眠欲に反逆する気はないらしく、眠い時は素直だ。
「お前も、仮眠室来れば」
歩き出したアドルフを見上げた。
「どうして?」
「一応ここ、聖地だし。お前も色々力抑え込まれてるし、朝になったら寝るんじゃねーか」
そう言われるとそんな気がしたので、仮眠室まで一緒について行って、場所だけ覚えておいた。
アドルフが寝ている間に、教皇庁の見取り図とヴァチカンの地図を眺め、爆弾を仕掛けそうな場所がどこか考えた。
そうこうしているうちに案の定シャルロッテも眠くなって、仮眠室に行った。アドルフはまだ寝ていて、起きる気配が全くなかったので、オリヴァーに無線で連絡してしばらく寝ると言った。
『ていうか、主任とクララちゃんも寝ちゃったんだけど。指揮ナシの状態でやれと?』
「アディはもう少しで起きると思うから。もう私眠くてしかたないのよ、ここ空気悪いし」
『……おやすみ』
「おやすみ」
無線を切って、何台も並ぶ2段ベッドの、いちばん日当たりの悪い壁の影の上の段に潜り込んだ。
聖地のベッドの寝心地は、ものすごく寝苦しかった。
目が覚めて、直ぐ上にベッドの天井があることに少し驚いて、ヴァチカンの仮眠室だという事を思い出した。もぞもぞと這い出て腕時計を見ると、7時を回ったところだった。とっくに日は上っているので、シャルロッテも寝ているかもしれない。
そう考えて仮眠室をぐるりと見渡すと、目だたない場所の二段目から、長い黒髪が一筋垂れさがっていた。
近づいておもむろにその髪を手に取って、引っ張ってみる。
結構強く引っ張ってみる。
ついでにもう一回。
やっぱ全然起きねぇなー。
シャルロッテは昼間も起きていられるが、一度寝てしまうとちょっとやそっとでは起きることはない。とても深い昏睡に陥ってしまう事は、既に実験済みで知っていた。でも何度やっても「スゲェ、起きねぇ」と思う。
少し体が怠かったが、梯子を上ってみた。シャルロッテが梯子に背を向けて寝ていたので、無理やりこちらに寝返らせる。普段シャルロッテが高飛車で偉そうで、強くて勝てないので、静かで無防備な寝顔を見るとなぜか優越感を感じた。
その寝顔が不意に歪んで、震える睫毛の隙間を縫って涙が零れ落ちた。引力に逆らう事無く、右目から左目を辿って、更に粒を大きくしてシーツにしみ込んでいく。それにアドルフは、かなり驚いた。
うおぉ、コイツでも泣く事なんかあんのか!
思わず興奮して、反射反応に近い速度で携帯電話を取り出し激写。しかも連写。
ファイルを保存しますか。
はい。
ファイルを保護しますか。
はい。
やべー、コレクリスに送ってやろう。あ、待ち受けにして後でロッテに見せてやろう。
なぜか浮かれて待ち受けに設定する鬼畜野郎。
携帯電話を仕舞ってシャルロッテの顔を見ると、涙は止まったようだが、一滴だけ睫毛の先に残っていた。何となくそれを指先に取って、舐めてみる。
苦い……。
人の涙はしょっぱいが、シャルロッテの涙は塩辛い上に苦かった。重曹のような味がした。
つか血の涙とかじゃないんだなー。
父も母も元は人間なので、ただ成分の割合や配分が若干違うだけで、シャルロッテを構成する物質は人間と同じだ。吸血鬼はあくまで、人間から派生したという枠を出ることはない。
コイツ、自分の涙とかも口に出来ねぇのかな?
普段血液しか採っていないので、素朴な疑問だ。目元に残る涙を指先に掬って、シャルロッテの口を開いて無理やり突っ込んだ。
ホラ、舐めろ。
なぜか少し興奮したが、当然ながらシャルロッテは無反応なので、すぐにつまらなくなった。と同時に、噛まれたら大変だということに気付いて、慌てて指を抜いた。
あぁ、危ねぇ。迂闊だった。
全くその通りだが、シャルロッテは何もしていないし何も悪くない。動悸が収まってようやく指が濡れたままなのに気付いた。それで無意識に指をパクリ。
――――って俺はヘンタイか!
梯子の上で頭を抱え、2秒ほど悶絶。でもすぐに落ち着いた。
しかしなぜか悔しくなったので、ジャケットを脱いでシャルロッテの顔にぐるぐるに巻きつけ、それを更に激写して満足した。
一人で愉快なアドルフはたまに寝込みのシャルロッテに悪戯をしているので、携帯電話には結構な写真が保存されている。ちなみにクララは、クリストフと付き合う事になってから部屋を分けたので、アドルフの暴挙には誰も気付いていない。シャルロッテ本人は、アドルフの携帯電話の中に「シャルロッテ」と題されたフォルダが多数ある事を知らない。
うぅ、臭い。
意識は覚醒したが、まだ目は開けていない。とりあえず臭い。
煙草臭い……なにこれ。
顔に何か被っている。目を閉じたままそれを引き抜いて、ようやく目を開けて引き抜いた物を開いてみると、黒のジャケットだった。
アディめ……。またなんかやったわね。
アドルフに寝ている間に何かされていることは、薄々気づいている。部屋にアドルフの煙草の香りが残っていることがあるし、短い金髪がベッドの上に落ちていることがあるからだ。しかし証拠がなかったので、今まで言及することが出来なかったが、今回ようやく証拠を掴んだ。
「おはようアディ」
コーヒーを飲んでいたアドルフを見つけてにっこり笑うと、アドルフもとても爽やかに「おはよう」と言った。ストレスが発散できて満足と言った顔だ。それにカチンときた。
「これ」
ジャケットを差し出すと、それはもう愉快そうに笑って受け取ろうとしたので、その場でビリビリに引き千切ってやった。
「何すんだテメェ!」
「こっちのセリフなんだけど。レディの寝込みを襲うなんて、とんだチキン野郎ね」
「誰がチキンだ!」
「普段私に勝てないから、寝てる時しか仕返しできないんでしょ。情けないわねー」
と言うと、アドルフは予想外にも黙って、視線を外して座りなおした。更に激昂して反撃して来るか、悔しそうにするだろうと思っていただけに意外だ。
「なによ」
「別に」
なんだか怒っているようだ。
「アンタが怒る筋合いないわよ」
「………………」
なぜか沈黙する。
なんか変ねー?
不思議に思って前まで回り込み、顔を覗き込んだ。
「なによ? 言いたいことあるなら言ってよ」
気持ち悪いから、と尋問すると、じっとシャルロッテを見つめていたが、小さく息を吐いた。
「泣いてた、お前。寝てる時」
「フーン。ドキドキした?」
「いや全然。別の意味では興奮したけど」
浮かれたと言いたいらしい。
「それが?」
「珍しいなと思って」
「そうでしょうね」
アイドルのポロリ映像よりもお目にかかれない、お宝映像だ。
「なんで泣いてた? なんか夢見た?」
「聞きたい?」
「うーん、気にはなる」
シャルロッテが泣くなら余程だ。
教えてやることにした。
「夢を見たのよ」
「なんの?」
「最初はアメリカに住んでた頃の夢を見てたはずだったんだけど、途中から視界が真っ白になって、アディとかクリスとか、みんなが私に煙草の煙を吹き付けるという悪夢を見たわ」
教えてあげると、途端にアドルフが笑い出した。
「ハハハ! もしかして俺のジャケットのせいか!」
「多分そうよ。寝起き早々煙草臭くて最悪だわ。泣きもするわよ煙たくって。ただでさえアディは、傍にいるだけで煙草の匂い移るんだから」
適当にはぐらかしたことはアドルフにもわかったと思うが、アドルフは笑ってそれ以上は追及してこなかった。
「あーウケるわお前ー。見る? お前の泣き顔」
「なに撮ってんのよ」
「待ち受けにしたった」
「バカじゃないの」
アディの方がよっぽどウケるわ、と思った。
「クララ」
「はい?」
呼ばれて顔を上げると、クリストフが神妙な顔をしていた。
「なんかアディから送られてきたんだけど」
そう言って見せてくる携帯電話の画面に、思わず釘付けになった。
「い、一体何が……」
件のシャルロッテの泣き顔だ。
「「おやすみロッテが泣いてたから激写した(ハート)」だそうだ」
「なんですか(ハート)って」
「アイツの事だからテンション上がったんじゃないか」
シャルロッテの泣き顔を見て大興奮して、嬉々として撮影する様子が目に浮かんだ。
クララは思わず半目になった。
「普通女の子の泣き顔見て撮りませんよね」
「普通はな。でもアイツは鬼畜野郎だから」
「お嬢様……お可哀想に」
「こればっかりは同情するわ」
普通の感覚なら、夢を見て泣いている女子を見かけたら、どうしたどうしたと気にしたり、親切な人なら心配したりするものだが、アドルフは大喜び――――今更だがそう言う奴だ。
「でも、お嬢様が泣くなんて……」
クララはとても心配そうにするので、なんだかクリストフがクララを心配になった。
確かにシャルロッテは、泣くイメージとはかけ離れている。本当に余程なんだろうとは思う。
「お嬢が泣く事ってある?」
「ありませんよ」携帯電話の画像をもう一度見て嘆息した。「お嬢様の泣き顔なんて、初めて見ました」
その言葉に少し驚いた。
「えっ初めて?」
「はい」
出会ってから60年近く経つが、一度も泣いているところなど見たことはなかった。本当に異常事態なのだ。
「どうしたんだろう……」
心配だ。
そうしているとまた携帯電話が鳴った。
「「アメリカ時代の夢を見たらしい」って」
アメリカ時代の、シャルロッテが泣くほどのこと。クララには心当たりを一つ思いついたが、クララも聞いただけで詳しくは知らない。クララと出会うよりもずっと前の話だ。だけど、それほど昔の事でもシャルロッテは、懐かしがりながら愛しみ、そして今にも泣きそうな顔をしてクララに語ったのだ。
「その人が、帰ってくるって約束して帰って来なかったんだって」
クリストフには何のことかわからないが、「そうか」と返事をした。
「たぶん、帰ってきたらお嬢様と、結婚しようと思ってたんじゃないかな」
そりゃ死亡フラグだな、と思った。
「お嬢の元カレ?」
「多分。私も知らない人ですけど」
クララが知らない人なら、何もなくても既に死んでいたっておかしくはない。
それほど昔の事だ。
それほど昔の事を。
「お嬢はまだ、忘れられないのか?」
「それほど――――」
写真を見た。泣き顔を見て泣きそうになった。シャルロッテが悲しそうにするのは、いつも彼の話をする時だけ。
「それほど、愛してらっしゃったんですよ」
ヒョロヒョロして弱っちくって、親切しか取り柄がなくって、いつも損ばっかりしてるような情けない人で――――そう言う人だったから。
シャルロッテが笑って言った。
「私、あの人が世界で一番、大好きだったのよ」
その時の、シャルロッテの泣きそうな笑顔を思い出して、涙が出た。
「クララ」
「うぅ、アディムカつきます。撮ってんじゃないわよ」
「……消すように言っとく」
「ムカつく。本当あの人嫌い。デリカシー無し男」
泣くクララをあやしながら、全くだな、と思った。
4 3/21 盗み聞き
結局今日になっても式典は中止されることはなく、事件も公開されていない。まだその辺りは審議中のようだが、とりあえず教皇の欠席だけは公表された。
「割と賢明な判断ね」
「そうだな。教皇欠席ってだけでも、観光客は激減するからな」
今はまだ容体が安定しているという事で、教皇も式典には出席することになっていた。欠席となれば観光客も残念がって、敬虔な信者を除いては、来るのを諦める人も多く現れるだろう。何より教皇の身の安全が第一だ。
「神父も信者も掃いて捨てるほどいるけど、教皇は一人しかいないものね」
「そりゃそうだけど、嫌な考え方だな。客も教皇も命の重さは同じだぞ」
思わず口をへの字に曲げた。
「あー美しいわね! そう言う考え方大嫌い! 反吐が出るわ! 命の重さは平等じゃないから素敵なのよ!」
誰にでも平等にやってくるものは“死”だけだ。いくら綺麗事を言っても、現実では命の重さは平等ではない。
アドルフは納得いかないような顔をしていたが、反論もままならなかったようで黙り込んだ。
「ところで、エルンストとレオはテロリストたちに遭遇したかしら?」
シャルロッテが寝たのは日が昇り始めた6時過ぎだったが、それまで待っても連絡はなかった。夕方になってようやく目覚めることができたので、シャルロッテは状況が分からない。
アドルフが難しい顔をして腕組みをした。
「それがよぉ」
「どうしたの?」
「高速降りたらしくて、一般道に入っちまった」
あまり栄えていない都市の高速道路なら、朝になっても結構空いていたりする。しかし一般道となれば話は違う。大きな通りは通勤ラッシュで車が多く、そんな中で爆撃する許可を与えるわけにもいかない。何より“死刑執行人”は公務の外での活動になるので、そんなことをしては大問題だ。仕方がなくそのまま追跡していたのだが、更なる問題。
「長時間飛行してたわけだし仕方ねぇんだけどよ」
「もしかして燃料切れ?」
「そ」
借り物のヘリコプターは小型の物で、そもそも合流するであろう地点を計算すると片道分くらいしかなかった。それでも目的が達成されれば構わなかったのだが、予想外に時間を食ってしまった為に、その間に燃料が尽きてしまった。
エルンストとレオナートはとりあえず適当な場所に降りて、今は迎えに行ってやる暇も手間もないので、ステイを言いつけている。
やむなし、とシャルロッテも息を吐いた。
「明らかにこっちの動きがバレてるわね」
「やっぱお前もそう思う?」
「思うわ」
言って、顔を上げてぐるりと部屋を見渡した。
「盗聴器でも仕掛けられてるんじゃないの?」
顔をアドルフに戻すと、「御名答」と、デスクの上に小さな黒いプラスチックの箱をいくつも乗せた。
「コンセント、照明、電話、机の下。他にも何か所か」
同じことを考えて、シャルロッテが寝ている間に探し出していたらしい。
「これで全部だといいんだけどね」
「わかんねーもんな。どっか場所移すか」
「そうしましょ」
内通者は教皇庁の人間だ。アドルフたちがいない隙を突けば、誰だっていつでも仕掛けることは可能だった。彼らは他の職員と違って外に出ることが多いし、アドルフとクリストフもほとんどの仕事を城で片付けていた。ここ1か月は不在の事の方が多かったのだ。
一応アドルフは“検事”や“聖堂騎士”にもその連絡をしたようだ。が、そちらは“死刑執行人”と違い、大概人がいるので盗聴器は発見されなかったらしい。
それを聞いて階段を下りながら首を捻った。
「なんっか不自然よね」
「だよな。俺らのオフィスに仕掛ける意味が分からん」
ヴァチカン防衛を阻止したいのであれば、真っ先に邪魔すべきは“聖堂騎士”だ。内通者が特定されても困るだろうし、“検事”の動きにも注視しておくべきだ。少なくともシャルロッテなら、この2部署を要チェックする。“死刑執行人”の仕事は原則が暗殺であるから、仕事の計画を立てる事はあっても、普段調査などをしたりはしないのだ。
内通者は“死刑執行人”の動向を気にしてる? なぜ?
今現在の“死刑執行人”の動きは、テロ別働隊の追跡と、シャルロッテとアドルフが犯人探しをしているにすぎない。テロリストを攻撃されては困るから、その為だというのはわかるのだが――――。
少し考えて足を止めた。
「叔父様のオフィスにも行ってみない?」
アドルフも足を止めた。
「なんで? 猊下捕まっちまってんだから、仕掛ける必要がねぇだろ」
「そうなんだけど、なんか気になるのよー」
「うーん……そうだな」
アドルフも賛同して、教皇庁を出ようとしていたのをやめて階段を上った。
アマデウスのオフィスに辿り着くと、早速二人で家探しを始めた。アドルフは主に電子機器周辺を捜し、シャルロッテは正直どこをどう探せばいいかわからないので、部屋をぐるりと見渡してみる。
濃いボルドーの絨毯に、バルコニーへ通じる真っ白な窓枠にかかる暗幕の様な真っ黒のカーテン、ウォルナットの壁の下半分は白の花模様でモールディングされた、凝った装飾の板壁、天井にまで作りつけられた膨大な量の本棚と、年季の入ったどっしりとしたデスク。
オフィスには相応しくない、ダークグレーのマントルピースの上には、写真が飾られている。8人の子供達――――面影が残っていてわかる、それはアドルフたちの子供の頃の写真だった。見たところ8歳くらいだ。年齢を考えると、この頃はまだイザイアは誕生していなくてヴァチカンにも来ていないようだった。
「可愛いわね」
思わず感想を漏らした。子供のアドルフたちは屈託なく笑っていて、無邪気に肩を組んだりピースしたりして、楽しそうに映っている。
イテテ、お前脚踏んだろ! と、クラウディオがレオナートの首根っこを掴んで、
ホラ映らないだろ、こっち来いって! と、アレクサンドルがフレデリックの肩を組んで引き寄せて、
アマデウス様、早く早く! と、急かす様にエルンストが何かを語りかけていて、
やめろってお前ウザい! と、後ろから満面笑顔でおぶさるクリストフにアドルフが鬱陶しそうにして、アドルフと手を繋いだ、一番小さいオリヴァーが見上げて笑っている。
そんな、20年近くも前の写真。
「今でもあんまり変わってない?」
「……お前の目にはそうかもな」
「どうして叔父様は、これ見よがしにこんな写真を飾っているのかしら?」
「この頃までは良かったとか何とか」
「あぁ、この頃までしか可愛くなかったという事ね」
「どうもそう言う事らしい」
一番可愛かった頃の写真をいつまでも飾って、可愛げがなくなった部下たちへの嫌がらせだ。嫌がらせで子供の頃の写真を飾っているのも、何とも微笑ましいものだ。嫌がらせとはいっても、アマデウスにとっては殺伐とした教皇庁の中、この写真を見て一人癒されていたのだろうと思う。
「叔父様は、あなた達を大事に思ってるのね」
照れているのか、アドルフから返事はない。
「あなたは叔父様を愛してる?」
「あぁ、俺に限らず、みんな」
「そう」
育ての親だ。逮捕されたと聞いた時の、アドルフやみんなの反応を見ればわかる。今必死になって冤罪を晴らそうとするアドルフを見ればわかる。上司であり、師であり、父親だ――――例えアマデウスが吸血鬼でも。
「家族なのね」
「少なくとも俺達はそう思ってるけど」
「叔父様だって、そう思ってるわ。でなきゃ」写真に視線を戻した。「あなた達がこんな顔で笑えるはずないもの」
シャルロッテの言葉を聞いて、アドルフは少しだけ嬉しそうに「そうだな」と言った。
再びアドルフは家探しを再開して、シャルロッテは一つの本棚の一角の前に立った。そこは板壁の中に本棚を埋め込んだようになっていて、見れば見るほど怪しい。しばらく考え込んで、板壁を指で軽くたたいていく。
コン。
コン。
コン。
カン。
――――あった。やっぱり。
軽い音がした壁の前にしゃがんで、押したり持ち上げたりしていると、壁が外れて隠し戸棚が出てきた。丁度デスクに隠れてドアからは見えないようになっていた。隠し戸棚の中からは、いくつかの箱とファイルが出てきた。ファイルをパラパラとめくり、いくつかの書類を抜き取って服の中に隠した。
アドルフに気付かれないよう、戸棚に再び壁をはめ込んでいると、幾人もの足音と話し声が近づいてくるのが聞こえて、慌ててアドルフが駆けてきた。
「ヤベ、人が来た!」
「そうね」
「隠れるぞ!」
「えっなんで」
別にいいじゃない、と思ったシャルロッテに反して、アドルフはあたふたしながらシャルロッテの腕を掴み、大きな窓にかかるカーテンの中にシャルロッテを引きずりこんだ。
「そう言えば盗聴器見つけたの?」
「黙れ!」
「むぐ」
アドルフに口を塞がれた瞬間に、人が入ってきた。足音の感じでは10名いるかいないか。入ってきてすぐに本棚やデスク、キャビネットの中を漁り始めた。
「全部ひっくり返しちゃいなサイ。生半可な所には隠してないワヨ」
「はい」
あら、このオカマ口調。
どうやらカンナヴァ―ロ率いる“検事”が捜索にやってきたようだった。と言う事はやはり、内通者の嫌疑が濃厚なのはアマデウスと言う事になる。若しくは、徹底的に捜索をして証拠が見つからなければシロだと、そう判断を付けるためにやって来たのか。
二人でそうっとカーテンの中から様子を窺っていると、捜査員の一人が隠し扉を開けようとしている。隠し扉の仕組みは他の部屋にもあるのか、難なく見つけて開けてしまった。角度からして、デスクに隠れてその様子は良く見えない。デスク周辺を捜しているカンナヴァーロが、背後の捜査員に話しかけた。
「どう?」
「過去の報告書ばかりですね、今の所それ以外にはなにも」
「そう、続けて頂戴」
「はい」
カンナヴァーロも引き出しを開けて中を探っている。周囲の捜査員の様子を見渡して、背後の捜査員に頷き、しばらくガサゴソしていた。少しするとカンナヴァーロが「これだワ」と、紙切れを取り出した。
それを聞いて捜査員たちがカンナヴァーロの元に集まるのを見て、すかさずカンナヴァーロのオフィスにいた捜査員の一人に変身し、シャルロッテもカーテンの影から出てカンナヴァーロの元へ行った。
「コレに間違いないワ」
それはメモのようで走り書きだった。
「やっぱり、ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿が内通者だったのネ、行くワヨ」
「はい」
そう言うと捜査員は引き上げて、カンナヴァーロと共に部屋から出て行った。すぐにアドルフもカーテンから出てきて、ドアを開けて捜査員を送り出していたシャルロッテは、ドアを閉めて変身を解いた。
「なに、なんだよ」
「打ち合わせメモよ」
書いてあるのは文章と言うよりもほとんど単語だ。15個、3/25、教皇、広場、3/15、と言うようなことが書かれている。どうもこのメモがテロリストとの打ち合わせをした証拠のようだった。
アドルフは信じられないと言った顔をした。
「猊下が、そんなわけ!」
「ええ、あれは擬装よ。私ならあんなメモ残すような真似はしないわ。誰かが」
誰かが、アマデウスに罪を被せようとしている。
「盗聴器は?」
アドルフは動揺していたが、ポケットに手を突っ込んで差し出した。
「1個見つけた。でも」
「なに?」
見上げると難しい顔をしていた。
「俺らのオフィスに仕掛けてた奴と型が違う。コレ市販品だ」
「え?」
見てもシャルロッテには違いがよくわからない。ここ、とアドルフが線を指した。細いエナメル線は少しだけ錆が来ている。
「俺らのオフィスの奴はここまで劣化してなかった」
「ずっと前から仕掛けられていた、違う盗聴器……別物と言う事は、仕掛けた犯人は違うという事かしら?」
「わかんねぇ、でも、前から仕掛けてたって、何の為に?」
一体何の目的で? 叔父様を監視する必要があって、死刑執行人の動向を注視する必要がある?
誰かがアマデウスに罪をなすりつけようとしている、それは間違いなさそうだ。盗聴器は状態を見る限り別件と考えてよさそうだ。以前からアマデウスを監視していたのは、アマデウスが吸血鬼だという事を考えれば、自然な流れと言ってもいい。
「仕掛けた人と、叔父様を陥れようとする人は同一人物かしら?」
だとしたら。死刑執行人の活動を邪魔して、アマデウスを陥れようとする人。
「カメルレンゴ、か?」
アドルフがそう言ったので、見上げて言った。
「ねぇ、カメルレンゴに会いたいわ。どこかで会えないかしら」
アドルフは少し悩んでいたが、「行ってみるか」と頷いた。
カメルレンゴと言うのは、通常の行政に置き換えるとかなりの高官になる。日本の内閣で言うところの、官房長官の様な立ち位置だ。いくら官僚とはいえ、課長クラスのアドルフでは滅多に会えるような人ではないし、会いたいと言って会わせてもらえる相手でもない。
一応秘書室に行ってカメルレンゴとの面会を希望したが、案の定忙しいとの理由で断られてしまった。そこで二人が上げた提案は次の三つだ。
1・アマデウス逮捕を不服と訴えて、無理やり押し入る。
2・シャルロッテが隠れて侵入。
3・二人で窓から襲撃。
あーでもないこーでもないと議論して三を採択し、今現在二人は窓から様子を窺うべく、別の部屋のバルコニーから壁伝いに移動中――――厳密にはそんな行動をとっているのはアドルフだけで、シャルロッテはバルコニーから隣へ簡単に飛び移り、アドルフがやってくるのをぼやきながら待っているところだ。先にシャルロッテの方がカメルレンゴの部屋に辿り着き、アドルフを待ちながら中の様子を窺っていた。
ようやく辿り着き、疲れたと息を乱すアドルフにシャルロッテが笑って言った。
「カメルレンゴらしき人がね」
「なに」
「今部屋から出て行ってしまったわ」
「えー……俺の労力返せ」
アドルフがえっちらおっちらやってきている間に、人が呼びに来てカメルレンゴは出て行ってしまっていた。仕方がないので、疲労とショックで著しく落ち込むアドルフの手を引いて、一緒にバルコニーからジャンプして別の部屋から室内に戻った。
再び教皇秘書室に面会を希望すると、カメルレンゴは現在会議中との事だった。
「何の会議ですか?」
尋ねると、受付をしてくれた神父は「お教えすることが出来ません」と至って事務的に言った。それでもめげずに質問を重ねた。
「いつ終わりますか?」
「わかりかねます」
「誰が出席してるんですか?」
「お教えすることが出来ません」
「どこの会議室ですか?」
事務的な対応に終始していた神父だったが、その質問でようやくアドルフと視線を合わせたが、相変わらず冷めた口調で言った。
「お教えできません。乗り込まれても困りますので」
会議室の場所を聞いた時点で、そこに向かう気満々なのが丸出しだ。神父は疲れたと言わんばかりに溜息を吐き、メモ紙を丸めてごみ箱に捨てた。
「何もお教えすることはございませんので、お引き取り下さい」
お前が息を引き取れ、と思ったが、シャルロッテも引っ張るのでその場から渋々引き下がった。溜息を吐くアドルフを見上げた。
「枢機卿たちと会議中ですって。何の会議かまではわからないけど、第4会議室よ。連れてって」
引っ張り出した勢いで袖を引いて案内を強請ると、アドルフはキョトン顔だ。
「えっ何、なんで知ってんのお前」
「秘書達が内緒話してたのが聞こえたのよー。それに受付の人が捨てたメモ紙に書いてあったわー」
秘書たちが、やってきたシャルロッテとアドルフをチラチラ覗き見ながら、小声で話していた会話の中にそう言った情報が盛り込まれていた。受付が捨てたメモも、他の枢機卿からカメルレンゴを呼んでくるように連絡を受けた電話対応メモだったので、簡潔に記されていたのを垣間見た。
いつもながら抜け目がなく地獄耳のシャルロッテに、アドルフは溜息を吐いて、「こっち」と第4会議室まで歩き出したので、後を着いて行った。
堂々と会議室のドアを開けて入ることは不可能だ。なのでやはり窓から侵入し、天窓あたりから様子を窺う事にした。まずはシャルロッテが透過して窓を開け、アドルフを招き入れた。二人で石造りの窓枠に腰かけ覗き込む2m程下、広い議事堂には護衛も兼ねて招集された多くの枢機卿たちが集っている。議事堂内は見渡す限りの年寄りで、服も白ければ頭も白い。真っ白だ。
その年寄りの群れの中で一際若いカメルレンゴ(推定40代前半)が会議を仕切っていた。若干ざわついている議事堂に、カメルレンゴのよく通る怜悧な声が波紋した。
「エゼキエーレ枢機卿にお伺いしたいのですが」
「何でしょう?」
一人が返事をした。それを見て指さし、アドルフに向いた。
「あの人が?」
「そ」
シャルロッテの指差す先、綺麗に禿げ上がった小柄な老人が、教理省長官で主席枢機卿のエゼキエーレだった。瞼は下がっていたが、眼鏡の奥に光る瞳は、とても機知に富んで知性を漂わせており、同時に野心的であった。合理主義者として有名なエゼキエーレであるが、合理主義とは言いかえれば、不合理で面倒な物を淘汰する、その面倒な物が存在する理由を蹂躙できる冷酷さを持ち合わせているという事だ。
返事を返したエゼキエーレに、至って穏やかな口調でカメルレンゴが尋ねた。
「状況はどうなっておりますか? ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿の事件への関与が、濃厚だと耳に挟みましたが?」
「ええ、犯人グループと接触していたと思われる証拠がいくつか。ですが、本人は事件への関与を否定しています」
エゼキエーレの回答に、他の枢機卿はざわついた。
やはり。
化け物など、この聖なる館にはふさわしくないのだ。
今こそ追放すべきではないか。
そう言った言葉を至る所から耳に拾った。ざわめく議事堂に、静粛を求めるカメルレンゴの声が響く。
「それと、もう一つお尋ねしたいことがあります。強硬殲滅課が勝手な行動をとっているようですが、私は事件への関与を認めた覚えはありません。即刻活動を中止させてください」
「申し訳ありません、当局が非番を言い渡した為に勝手に行動を起こしているようで……初動の失敗の汚名返上をしたいという思いもありましょうし、ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿はともかく、強硬対策部の者達は、彼らには同僚としての情があるようで……」
聊か申し訳なさそうにしたエゼキエーレだったが、カメルレンゴはその様子を顧みる事もなく強く言った。
「悪魔の仔に同情が必要だとは思いませんね。即刻事件から手を引くよう厳命してください。彼らの存在がなくても、捜査に支障をきたすことがあるとは思えません」
カメルレンゴの言葉を聞いて、隣のアドルフを見上げた。
「なんだか酷い言われようね? 悪魔の仔だなんて」
アドルフは不機嫌そうに息を吐き、自嘲気味に言った。
「上の連中とか、昔っから言うんだよ。俺らが吸血鬼の子飼いの犬で、化け物に使役される使い魔だとか何とかさぁ。カメルレンゴが付けたあだ名が悪魔の仔だよ。中々いいセンスしてると思わねーか」
「なぁるほど、道理でアンタ達根性悪くてメンタル強いはずだわ」
「お陰様でな」
そんな風に嫌悪している悪魔の仔たちの捜査への関与を、これほど厳命されてしまっては、エゼキエーレもその旨をはっきりと通達して来るだろう。そうなれば逮捕だとか射殺だとか、大っぴらな行動をとることが出来ない。そう言う事ならばやはり、行動は隠密に限る。教皇庁の外に本拠を移して、秘密裏に活動してやればよい。その辺りはシャルロッテもアドルフも同意見だった。
一人の枢機卿がカメルレンゴに向かって言った。
「では、例の件と絡めて、ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿を?」
その質問に周囲は再びざわつき、カメルレンゴに教皇の意志を尋ねはじめる。その様子にアドルフは眉を寄せた。
「例の件って、なんだ?」
「今会議中の、重大な案件よ。叔父様の進退にも関わることだから、ここでこの話が持ち上がってくるとは思っていたのよ」
シャルロッテの言葉を聞いて、アドルフはその横っ面に視線を突き刺す。
「なんでお前、知ってる風なの?」
「ここに来るまでの間にお父様に調べて頂いたの。秘書たちが話していた内緒話で、少し気になることがあったから」
教皇秘書室で、秘書が二、三人で固まって話していた。
ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿猊下が、やはり内通者らしい。
では罪が確定したら処分されるのでは?
されなくても、この件を利用して排斥される可能性が高いのでは?
そうですな、あの案件が通ってしまえば、最早彼は不要ですな。
しかしあの案件が通ることはないでしょう、ヴァチカンの威信にかけて。
いや、実際難しいのでは。政府側からのアクションを無下にしすぎると、軋轢が生まれます。かつて政府とは対立していたのですから、関係の悪化は望ましくないのでは。
そうですね、難しい問題です。
秘書たちの会話を聞いて、アマデウスとヴァチカン、そしてイタリア政府に関わりのある何かがあることを知り、サイラスにテレパシーで調べるように頼んだ。それで先程返事が来て教えてもらった。
「これはまだ極秘で、一部の人しか知らないわ。政府でも与党の人間を除いては僅かしか知らないみたい。今はまだ、政府が教皇になんとか折衝しているという段階らしいんだけど、政府側は決議を急いでいるという話だわ」
「なんだ?」
訝るアドルフを真っ直ぐに見上げて言った。
「ヴァチカンにイタリアの駐屯軍を置く話よ。それが可決されたらどうなるかわかるわよね?」
アドルフは見る間に顔を青ざめさせたが、それは無理もない事だった。
もし、軍が逗留することになれば、それは事実上ヴァチカンの防衛を軍に依頼することになる。そうなれば、真っ先に影響を受けるのが“神罰地上代行”だ。警察はスイスとの兼ね合いもあるので、組織は継続されるし軍とは違うものだ。しかし“死刑執行人”の軍備縮小は免れられない。そうなるとその機会を利用してアマデウスは排除され、最悪の場合“死刑執行人”もお取り潰し。“神罰地上代行”の部署は合併と縮小により、ほとんどが“聖堂騎士”と“検事”に吸収されることになる。大昔から存在していながら、本来なら存在してはいけない組織だ。キリスト教の教義を重んじる面々は、その存在に散々に異論を呈してきた。しかしながら、教義を重んじるからこそ軍の介入を歓迎することはできない。軍の仕事は防衛だけでなく、暴力装置でもある。今まで“死刑執行人”が秘匿であったのに対して、軍は公式の組織だ。ヴァチカンの為に、公に武力を振るう組織が存在することは、迎合し難い事実なのだ。だから枢機卿たちはこの案件の決議には賛否両論で、教皇も決議を渋っている。
枢機卿から質問を受けたカメルレンゴが、落ち着いた口調で言った。
「教皇聖下にも状況はお話ししておりますが、この議題に関しての御意志に変更はありません。以前仰られたとおり、この案件の決議は次代の教皇に委ねるとのお言葉です」
その言葉に一人の枢機卿が立ち上がった。
「それは、聊か責任逃れに思えます。次代に押し付けるなど、死を利用して責任を回避しようとしているのではありませんか?」
反論にカメルレンゴは、変わらず冷静な態度で返した。
「教皇聖下はこう仰いました。「自分が決定しても構わないが、その決定が間違いであった時、余命半年の自分が責任を取ることが出来ない。自分が決定を下し崩御した後間違いが発覚し、次代の教皇に尻拭いをさせる事が気に入らない」と。決定を下したのなら、全責任を負うべきです。そもそも教皇とは、ヴァチカンにおけるあらゆる事象の責任を負う立場にあるのです。それがクレメンス16世であれ、次代の教皇であれ、決定を下した以上はその権限において責任を負う事が義務だとは思いませんか。決定だけしておいて後始末を後進に任せるような人が、教皇位に就くことなどないでしょう。教皇聖下は、クレメンス16世は、次代に選出される教皇と、その教皇を推挙する皆様の良識に期待しておられるのです。皆様の公正で良識のある目で選んだ教皇なら、正しい判断を下し責任の所在を熟知した人物を選出されると信じておられるのです。お分かりいただけますか?」
説得にも似たカメルレンゴの演説に、周囲は難しい顔をしながらも納得してしまったようで黙り込んだ。その様子を見て感心した。
「カンナヴァーロ課長の言う通り、教皇もカメルレンゴも大した人ね。立派だわ」
「……為政者、聖職者としては、俺もそう思うけどな」
教皇が決議を渋っている理由は、自分がこれから死んでしまうからと言う理由もあったのだろう。そう考えるとやはり、この問題がテロにも関係しているのではないかと考えた。
「つまりよ、この件に関して教皇は是も非もねぇってことか?」
首を横に振った。
「いいえ、違うわ。教皇はこの件に大反対しているから、決議する気がないのよ。だから大した男だと言っているのよ」
「ハァ?」
訳が分からないと口をぽかんとさせるアドルフの為に説明しよう。教皇が教皇であるというのなら、当然大反対するに決まっている。でなければ何のために永世中立国であるスイスから傭兵を仕入れているのかわからない。しかし教皇は、ハッキリとした反応を示していない。それは、行政側を門前払いするような真似をすると、軋轢が生じるからと言うのもある。それ以上に、放っておけばこの件は勝手に立ち消えると睨んでいるためだ。
そこまで説明すると、アドルフも気付いたようで手を叩いた。
「そうか。今期限りで退陣するのか」
「そういうこと。7月で今の大統領は任期を終えて、元老院は解散。7月には選挙があるわ」
増税や政策、あらゆる問題に対する与党の対応に、イタリア国民は不満を募らせている。次回の選挙では間違いなく、与党は与党の座を追われることになる。元老院議員選挙は比例代表制なので、自然と得票数の高い政党は与党となり、そこから大統領が選出されることになる。
「成程、次に当選するのは、“ルナ・コローナ”か?」
「多分ね。で、“ルナ・コローナ”党首は、この問題には大反対だそうよ」
アドルフは笑って息を吐いた。
「なるほどなるほど、そりゃ確かに教皇は大した人だ。何もしなくても、放っておけば勝手に頓挫するんじゃねーか」
しかも、政府との関係を悪化させることもなく、政府内で勝手に終息してくれるのだ。これは放っておかない手はない。
半ば呆れたように感心していたアドルフだったが、ふと首を傾げてシャルロッテを見た。
「つかお前、なんでそんなことまで知ってんの?」
「お父様に調べて頂いたって言ったでしょ?」
「なんで旦那、そんなことまで調べられたわけ?」
「そりゃお父様のお友達が政府にいるからよ」
アドルフはこれでもかと目を見開いて、声をあげそうになったので慌てて塞いだ。アドルフはすぐに落ち着いたので手を離してやると、息を整えて声を潜めた。
「ちょ、待て待て。旦那の友達って、人間ではないよな?」
「当たり前じゃない。しかもお友達は人狼ですって。素敵」
「いや素敵じゃなくて。なに、政府の誰」
興味津々にするので、一応静粛を願った。絶対驚いて声を上げるなと言うと、アドルフも覚悟したのか頷いた。
「内緒ね、言わないでね」
「うん」
「アルヴィン・モンテヴェルディ」
アドルフはやっぱり声をあげそうになって自分で口を塞ぎ、塞いだ口の中から呟くように言った。
「ウソ、マジ……“ルナ・コローナ”党首?」
「そうよ。ちなみに党員は全員人狼とか化け物だそうよ。ヴァチカンとの関与に前向きになるはずがないわ」
「道理で……あの政党の成長はおかしいと思ったんだよ」
アルヴィン・モンテヴェルディと言う男が彗星のように現れ、彼が結成した“ルナ・コローナ”は新人ばかりの新党であったにもかかわらず、党員は全ての選挙区において全員当選するという、異例のデヴューを果たしている。モンテヴェルディ氏自身は、作家、政治評論家として人気を博していて、高学歴、イケメン、博識、しかも優しいとの事で老若男女問わず大人気だ。政党には彼の弟もいて、副党首である弟の方もアイドル並の容姿で、主に女性から大人気。女性党員も姫様なんてアダ名がついている。幹事長は南の大都市ナポリでは超有名な若き実業家で、彼が一代で築き上げた財は10億を超えると言われていて、ビジネスモデルとしてサラリーマン階級から崇拝されている。
「化け物は美人かブサイク、人から迫害されるか人心を掌握するか、このどちらかじゃないといけないのよ」
「えぇー、じゃぁ“ルナ・コローナ”が与党になったら、この国は化け物に支配されることになるんじゃん」
「そうよ。さすがにそこまでは、教皇だって知らないと思うわ」
「そりゃそうだろ……」
無理もないが、アドルフは顔を覆ってしまったが、話しを戻すことにした。
「だから、情報源は確かだから情報も確か。教皇は7月になって現在の与党が退陣するのを待っていると言う訳よ」
「そりゃ化け物新党が与党になったら、ヴァチカンになんか関与したくねーだろうよ。すげーな、こんなに鮮烈な利害の一致を見るのは初めてだ」
ヴァチカン駐屯軍の交渉、この案件が通る確率はゼロに近いと言っていい。このまま時間を置けば、時間が解決してくれる。カメルレンゴの言った教皇の期待と信頼と言うのも、当然反対派が教皇位に就くことを暗に期待しているという意味だ。しかし、教皇が死を待たずに退位を表明して、新たに就いた教皇がこの案件に賛成している人間ならわからない。テロを起こした内通者は、きっと反対派なのだ。だから、教皇退位を引き延ばす為にテロを起こした。
「――――つーことか?」
話をまとめたアドルフに頷いたが、同時に腕組みをした。
「でも逆パターンも考えられるのよ。テロを起こしておいて、そのテロを防ぐことが出来なかったとする。そうしたら軍の必要性をアピールする結果になるわ。賛成派にも動機はあるのよ」
「だからお前、話ややこしくすんのやめない?」
「だってそうじゃない」
「そーだけどよぉ……」
動機は両派に存在してしまうので、今の時点でどちらと確定するのは早計だ。まずは、枢機卿たちがどういった考えなのかを聞いておく必要がある。再び二人は眼下の枢機卿たちに視線を戻した。
一つよろしいか、と一人の枢機卿が立ち上がった。
「例の案件については、教皇聖下の御意志に反論はございません。しかし、ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿の件については、今議論すべきかと思います。彼の事件への関与が断定的となれば、化け物である彼をこの聖なる土地に留めておく理由があるのかどうか……皆様のご意見を持って、教皇聖下にご判断戴きたい」
その枢機卿の提案に、カメルレンゴも頷いた。その様子を見てアドルフを見上げると、「フォンダート卿だ」と言った。
発言、及びこの会議を招集したらしい、国務省長官フォンダート枢機卿。白髪交じりの茶髪で、きつく結ばれた口元はいかにも「頑固親父」と言った風体を醸している。彼は保守派の筆頭で「伝統は絶対」をスローガンに、伝統と教義を侵犯する物を徹底的に排除する排他的な性格が有名だ。教皇を乗せた神輿も、伝統である「人が担ぐ」と人権を考慮し「車」に変えるかで、エゼキエーレ枢機卿と大論争を巻き起こしたらしい(結局車になった)。伝統や古典というのは、長く継がれているからこそ、そこには確かに存在する理由と言う物がある。中には上記の様に時代にそぐわない伝統もあるが、伝統は排除してしまっても、その内必要性を再確認して復興する事がある。その必要性と言う物を、フォンダート枢機卿は熟知し、また熟慮している。
「間を取って馬車と言う発想はなかったのかしら。あるいはキリスト教らしくロバ」
「ロバに教皇乗せられねぇだろ。馬も出てきただろうけど、ケンカが白熱するとどうしても争点が極端になるもんだし」
「あぁ、それもそうねぇ。つまりはエゼキエーレ枢機卿もフォンダート枢機卿も、自分の意見に絶対の自信があるという事ね」
「ま、そんだけの実績も地位もあるし、当然だけどな」
「そうねぇ。本当に年寄りって面倒くさいわー」
年寄りと言うのは、感情のある赤子だ。赤子の泣き声には「腹が減った」という報告しか含まれていないのに対して、老人は「腹が減ったからさっさと飯を用意しろ」と訴える。歳を取るにつれて段々我儘になっていくのが人間で、知恵があって口が利ける分赤子と比較して厄介なのもまた事実だ。
眼下で枢機卿たちがアマデウスの処遇に関して会議をしている。彼の必要性を訴える者、不必要だと訴える者、しまいには彼を教皇庁に在籍させた当時の教皇の非難を始める。それを言い出した枢機卿に、エゼキエーレとフォンダートが揃って食って掛かった。
「教皇を侮辱するとは何事ですか。神の使徒たる教皇の判断に、誤りなど存在しません。それは許されざる発言です。すぐに撤回してください」
「彼の働きによって“神罰地上代行”の構造が確立したことも揺るぎ無い事実です。あなたにそれが出来るのですか。自分に出来もしないことを非難するなど、愚かな真似はおよしなさい」
二人に怒られた枢機卿はすぐにしおらしくなって、発言を撤回して謝罪を始めた。その様子を見ながら溜息だ。
「本当に年寄りって、面倒くさいわねー」
「……だな」
見解は違っても結果的には同調することもある。
5 休養
枢機卿たちの会議は、アマデウス必要派と不要派に分かれて侃々諤々の議論をしていたが、しばらく見守っているとほとんどが不要派になってしまった。アマデウスの功績を訴えていたエゼキエーレが、しかしアマデウスの事件への関与を持ち出すと、どうしても処分する方向性に行ってしまうので、ついに折れてしまい、そこから他の枢機卿たちも意見を変え始めてしまった。
たくさんの枢機卿たちが提唱した。
この聖なる館に、化け物など存在してはいけない。
吸血鬼とは神への反逆者、それは淘汰されてしかるべきだ。
そう言った意見が大多数を占めたものだから、カメルレンゴも頷いた。
「わかりました。では皆様の総意を聖下にお伝えしておきます。その意見を持って、聖下にご判断戴きます」
枢機卿たちの会議では、アマデウスは処分されるという方向で決定してしまった。それを聞いてアドルフは焦ったようだが、シャルロッテは少し疑問を感じた。
「ねぇ、叔父様の処遇を決めるのも教皇決議が必要なのね。これほどの総意を得られたのなら、枢機卿決議でも構わない気がするのだけど、どうしてかしら?」
「わかんねぇけど……猊下をヴァチカンに入れたのが教皇だから、とかじゃないか?」
昔の教皇が決定したことを、枢機卿たちが覆すわけにはいかないという事のようだ。そう言われると確かにそんな気はする。しかし、聊か気がかりで頭を悩ませていると、アドルフが出ようと言った。
「会議終わっちまった。話が教皇に行ったら、猊下が処分されちまう」
言われて下を見ると、枢機卿たちが片付けを始めてぞろぞろとドアに向かって席を立っている。丁度カメルレンゴもドアを抜けたところだった。それを見届けてアドルフを見上げた。
「どうする?」
「どうするって、どうしたらいいんだ?」
「そうねぇ、じゃぁ選んで」
どうにかしたいがどうしたらいいかわからないアドルフの為に、候補を挙げた。
1・プリズンブレイク。
2・せめて待ってもらえるよう、カメルレンゴを説得する。
3・教皇を説得する。
4・すぐには処分されないだろうから、その間に真相を究明する。
「い……4!」
1を選択したいのが本心だろうが、どう考えても可能なのは4しかない。
「でもいよいよって時には、俺みんなに謝らねぇと」
「そうね。みんな突然無職どころか犯罪者ね。私にも謝ってよ」
「お前も手伝うなら謝る必要ねぇだろ、共犯なんだから」
「そうといえばそうね。どうせヴァチカンに追われる身になるなら、アンタ達も吸血鬼になっちゃいなさいよ」
その言葉にアドルフは、眉を下げて深く溜息を吐いた。
「ガチで反逆するわけだしな……いざとなったら、それもアリかな……ここまで不幸か、俺の人生」
「失礼ね、吸血鬼は不幸じゃないわよ」
「俺らにとっては、吸血鬼化すんのは不幸なんだよ」
ブツブツと文句を言うアドルフと共に、窓から外に出ようとした時だった。ふと眩暈がして窓から手が離れた。
咄嗟にアドルフが手を掴んでくれたので落下は免れたが、アドルフも不安定な場所でシャルロッテを支えるのを辛そうにした。なので、下に人がいないことを確認して、アドルフの手を払った。
「ロッテ!」
「後で迎えに来てぇぇぇぇ」
落下しながらそう言うと、すぐに芝生の庭に激突した。気のせいかと思っていたが、やっぱりヴァチカンは伊達ではなかった。来た時から具合は悪かったし、先ほどからどんどん具合が悪化している気はしていた。しかし自分が吸血鬼で、体調不良なんて初体験なものだから、気にもしないで無視していたのだ。
ぐっと腕に力を入れた。落下の衝撃のせいもあってか、ヴァチカンにいるせいもあるのか、腕は骨折した上に脱臼して回復も遅いようだ。何とか上体は起こしたものの、腰の骨も同様で歩けそうになかった。こんな情けない事態は初めてなので、思わず泣きそうになった。
30分近く待たされて、やっとアドルフが迎えにきた。来るのにやたらと時間がかかると思っていたら、車に機材なんかの荷物も全部積みこんで、車を回してくれていたらしい。歩けないと訴えると、うんざりした顔をされたが「おんぶして」というおねだりを聞いてくれた。
「ついでだからローマまで出るぞ。ホテル取っといたから。クリスたちにもそっちに来るように言っといた。どうせ俺らはもう、マトモに活動できやしねぇしな」
思った以上に出来る子だったので少し感心していたが、「クララが来るまで……」と言っていた言葉が急に止まって、車のドアを開けると後部座席に乗せられた。起き上がるのが億劫でそのまま横になると、ドアの所からアドルフが片足だけ踏み込んだ。
「なぁお前さぁ」
「なに?」
「飯、もう2日食ってねぇだろ。腹減ってねぇか?」
よくよく思い返してみると、テロ討伐に赴く前日から血液を摂取していなかったのだ。血はクララの乗ったライトバンに置いてきてしまったので、どこかでクララと合流してご飯を調達しなければとは考えていたが、すっかり忘れていた。
「そういえばそうねぇ……なんか眩暈するし、そのせいかも……」
「成程、貧血か」
案外と適切な表現をしたアドルフに、顔だけ上げた。
「その話を持ち出したって事は、血を飲ませる気になったの?」
尋ねたが、アドルフは無表情だ。
「……うーん、考え中」
返答を聞いてまたパタリと顔をシートに沈めた。
「いいわよ、嫌なら無理しなくたって。とりあえずホテル行きたいわ……疲れた」
「わかった」
車が動き出してヴァチカンを抜ける。ヴァチカンは狭い国で、教皇庁からローマまで一直線に続く大路がある。そこを走り抜けてローマに出ると、幾分か重い空気は払われて少しだけ怠さも軽減した気がしたし、骨折も治った。それと同時に、聖なるパワーで抑圧されていたのか、猛烈な空腹感に襲われ始めた。
「ねぇホテルまだ?」
「もうちょい。あと5分くらいだから」
「早く、早く」
「ハイハイ」
面倒をかけておきながら急かして、ホテルに着いた。ヴァチカンのオフィスを拠点にすることは不可能になったので、このホテルを拠点にしようと思ったらしくファミリースイートを取ってあった。よくよく考えると式典の前だ、たくさん観光客がやってきていてホテルの空き部屋を探すのも苦労したはずだ。そう考えると申し訳ない気分にもなったが、正直な話今はそれどころではなかった。
部屋に入って即、アドルフを襲撃した。
「ちょ! ストップ! 俺まだやるって言ってない!」
「もう無理、お腹空いた。ねぇお願い、ちょうだい、ちょうだい」
「Non! 待てって! 噛みつくのは無し!」
床に組み敷いたアドルフが嫌だと言ってジタバタ暴れるので、渋々シャルロッテの方が少し我慢して説得することにした。
シャルロッテは吸血をするとき他の吸血鬼と違い、自分の意志によって相手の扱いを操作することが出来る。相手を吸血鬼にしたり骸人形にしたり、全身の血を吸い取って殺したり、少量血を戴くだけでただの食料にすることが可能だ。それを聞いてアドルフも大人しくなって上体を起こした。
「えっ、じゃぁ噛まれても吸血鬼にならないようにしてくれるんだな?」
「してくれるから、お願い、ちょうだい、もう我慢できないから」
アドルフは少し瞑目して悩んでいたが、結局折れてくれた。それを見てすぐにネクタイを緩めて首元に噛みついた。牙が刺さった瞬間「いて」と漏らしたが大人しくしている。
「あんま飲み過ぎんなよ、俺が貧血になる」
一応わかってはいたので、ごくごくと飲みながら感覚で計って、400CC位に留めておいた。血の味が少し渋いのは、恐らく煙草のせいだ。それでも空きっ腹には五臓六腑に染み渡る心持がした。服を汚してしまわないように、噛みついてこぼれ出た血をお掃除するように舐め取り「ごちそうさま」と顔を上げると視線を逸らされた。
「ありがとう」
「いいえ、ドウイタシマシテ」
なぜかよそよそしいし、相変わらず視線を合わせようとはしない。
「終わったんなら早く降りろよ」
「じゃぁこの手をどけてくれないかしら」
吸血で頭がいっぱいでご馳走様をしてから気付いたが、いつの間にやら腰に腕を回されて抱き込まれている。アドルフは慌てて手を離して、ついでとばかりにシャルロッテを押しのけた。
まだお腹は空いていたし具合が悪くてふらついたが、何とか起き上がって文句を言いつつ、様子がおかしい事を尋ねるも「なんでもねぇ」と一蹴された。
「いいから、さっさと風呂でも入って休め」
「じゃぁお風呂連れてって」
「歩けるだろ」
「でも一人でお風呂入れないから」
「じゃぁクララが来るまで待ってろ」
「……わかった」
正直今は入浴するのも少ししんどいのだ。それに今はしっかり体調不良を自覚してしまったので、アドルフとケンカをする元気もない。ふらふらと立ち上がると、アドルフも立ち上がり介添えをして寝室まで連れて行ってくれた。
「後は俺らで何とかするから、お前はもう寝ろ」
ベッドに横になると、毛布を掛けたアドルフがそう言った。
「ありがとう。またヴァチカンに行く?」
「あぁ」
「じゃぁ聞いて」
一連の盗聴で得た情報を元にシャルロッテの考えを述べ、それに関する注意をしておいた。
寝室を出た瞬間アドルフは安心して、大きく息を吐いた。
あぶねぇ、なんだよアレ。完全に勃ったじゃねーか。どーしてくれんだ。
シャルロッテの介添えでもしていないと、前かがみになっている原因がばれる。吸血の際、吸血される側には強い性的快感を伴うという事を、シャルロッテは知らなかった。トイレにでも行ってしまおうかと考えたが、今はそれどころではないので我慢だ。煙草に火をつけてソファに腰かけると、ちょうどクリストフとクララとオリヴァーがやってきた。
「お嬢様は!?」
心配顔で駆けてきたクララに、シャルロッテは寝室で寝ているから介抱するように言いつけると、すぐに寝室に入っていった。オリヴァーに事情を説明して、隊員たちにも無線で連絡してもらっている間に、クリストフをバルコニーに連れ出して小声で話した。
「お前ロッテに吸血された時痛かった?」
「すんっげぇ痛かったぞ。めっちゃ辛かった」
あの時確かにシャルロッテも辛いわよと念押ししていたし、様子を見る限りそうだったのだろう。吸血鬼化するというのは、人から化け物への変異なので、苦痛を伴ったり発熱したり、衰弱してしまったりするのだ。しかしただ吸血されただけならそうはならない。
クリストフが覗き込んだ。
「お前お嬢に吸血されたのか?」
「あ? あぁ、アイツ飯食ってなかったし腹減ったとか言ったから」
クリストフは少し驚いて、小さく笑った。
「前は絶対やらんとか言ってただろ」
「だから俺も迷ったけどさぁ……」
シャルロッテは教皇庁にいる時から顔色が悪かったし、具合が悪いと言っていた。でもご飯も食べないで、変身などの力も使って、捜査に協力してくれていたのだ。シャルロッテもシャルロッテなりに頑張って、力を貸してくれていたことが素直に嬉しかった。それを思うと、少しくらい分けてやってもいいと思ったのだ。更に言うと元気がなくて弱っていて、瞳を潤ませておねだりをするシャルロッテは珍しいので、それでイイ気になったというのもある。かといってあの副作用は想定外だったので、クリストフ達が早く到着してくれて心底安心した次第だ。
「ロッテ、肩も腰も細くてさぁ」
「だなぁ」
「なんかいい匂いしたんだよ」
「欲求不満だなお前、禁欲なんて慣れないことするから」
「……解禁しようかな」
「したらしたで、お嬢に怒られるんじゃないか」
「……じゃぁロッテがヤらせてくんねぇかな」
「くれねぇだろうなぁ」
「……」
ラッキースケベかと思いきや、結構つらかった。
6 3/22聖職に中指を立てろ
時計の針は0時をとっくに回って3月22日に日付が変わったホテルに、エルンストとレオナート以外の全員が集合した。シャルロッテは元気を回復したら自分でヴァチカンにやってくると言ったので、一先ず彼女からの話を伝えた。
ヴァチカンはとても狭い国だ。ディズニーランドより狭い。しかも一般人が立ち入ることが出来る場所は、教皇庁前、美術館、広場、聖堂とかなり限られている。それでも、何でもない時でも観光客は長蛇の列を作って聖堂に並び、広場は人がひしめいている。イベントの際は、こう言った立ち入り許可区域を含め、まさに祭りと言った様相で驚くほどの人間が集まる。一般人が出入りできる一番初めの土地は、ローマから続く和解の道を抜けた「サン・ピエトロ大聖堂」前の広場。流れに流されて入って行く観光客には、どこが国境なのかもわからないはずだ。
「で、まぁロッテが言うには、悪魔召喚の儀式をするなら魔方陣を描くように、広場を取り囲んで数か所爆破するだろうつってた。けど、どっかに隠したりとかは絶対しないはずだとも」
首を傾げたイザイアの隣で、フレデリックが手を叩いた。
「そうか、仕掛けたって周囲には警備が張り巡らされてるから」
アドルフが頷いた。
「そういうこと。予告もしてるしこっちは既に捜索を始めてる。あっちだってその辺りはわかってるはずだから、事前に隠すなんてことはしない」
「じゃぁどうする気なんだろう?」
本来なら警備は警察の仕事だ。しかし教皇は欠席することになっているし、警察は教皇の警備の方に回っている。当日に警備にあたるのは“神罰地上代行”だ。その警備の目をかいくぐって爆弾を持ちこもうと思うなら――――。
「自爆だろうな」
「うっわぁ……」
と、全員が引いたところで「と思いきや」とアドルフが続けた。
「観光客に扮するなら自爆だ。でもそうじゃない。勿論その可能性もあるけど、ロッテが言うには爆弾を仕掛けるのは“聖堂騎士”の誰かだ」
その言葉に全員がつんのめって、説明を要求したので解説する。
シャルロッテの予想では、テロの人員は既に何人かヴァチカンにも潜入している。そう考えた根拠は、シャルロッテ自身の事だ。テロ前の厳戒態勢の時期に、新規参入で入ったシャルロッテを訝る人間もいたが、特に不思議がりもせず受け流した人間がいた。このタイミングで知らない人間がやってくるなど、怪しい事山の如しだというのにだ。しかも、男成分100%の教皇庁において女性であるシャルロッテがやってきても、特に何も反応はなかったのだ。その反応はいっそ、異常と言っても良かった。
シャルロッテが言った。
「内通者は、ガリバルディ課長とカンナヴァーロ課長よ。その二人の上で誰かが糸を引いてるわ」
アドルフは少なからず驚いた。ガリバルディはアドルフに協力的だったし、カンナヴァーロは歳が近い事もあって懇意にしていたし、まさかこの両名が裏切り者だとは考えてもいなかった。しかしシャルロッテが言った。
「わざとよ、作戦が失敗するように細工したヘリを貸したのよ。カンナヴァーロが叔父様のオフィスから見つけたメモは、あれは自分で持ち込んで発見したように見せかけただけよ。二人がアディに協力的だったのは、叔父様、ひいてはあなた達の仕事をワザと失敗に追い込んで、その評価を著しく下落させて叔父様の嫌疑を濃厚にするため。「ワザと作戦を失敗して、テロを誘導させた」と誰かに言わせたいのよ」
それに盗聴器の事もある。“検事”と“聖堂騎士のオフィスで”見つかるはずがないのだ、そもそも仕掛ける必要がないのだから。自分達が指揮する管轄なのだから、情報も動向もいくらでも操作はできる。盗聴なんてしなくても筒抜けで、20日の夜にアドルフが連絡した段階でテロリストに指示を出したのは彼らだ。
まさか“神罰地上代行”の中に裏切り者がいるとは思っていなかった。みんな信じがたいと顔に出していたし、証拠は一切ない。だから、その二人が真犯人だとしても今は追いつめる事は出来ない。その代り目的を阻止しなければならない。
彼らの手の内には、人知れず新規の隊員として配備されたテロリストがいてもおかしくはない。
「……目的って?」
恐る恐る尋ねたアレクサンドルに言った。
「テロの阻止だ」
「はぁ?」
やはりというべきか首を傾げた。どういうことだと質問がやって来たが、それを受け流して続けた。
「それと、カメルレンゴまたはフォンダート枢機卿、若しくはその両方の暗殺だ」
更に質問が増えて少し鬱陶しくなったので、またしても解説タイムだ。
恐らく、上で糸を引いているのはエゼキエーレだ。事の発端は例のイタリア駐屯軍の事にあるのは間違いない。しかし、その為だけにテロを起こしたとすれば、少し理由が浅い気がする。褒章の割にリスクが高すぎる。とすれば、考えられる利益は「使徒座」に他ならない。テロを引き起こしておいて、テロと結託しているのをいいことに先回りし、それを阻止し手柄をものにする。その手柄はガリバルディとカンナヴァーロの評価を高め、当然教理省長官であるエゼキエーレの地位をも高めることになる。その上で邪魔者を排除すれば完璧だ。そう考えていたところで、カメルレンゴがアマデウスを容疑者として拘束したことは、ラッキーハプニングとしか言いようがなかった。しかし、“死刑執行人”の活動まで制限されてしまったことは誤算ではあったが、少し発破をかけた程度でまんまと独断専行し始めた。そうなれば彼らの掌で転がされるだけだとも知らずに。
「真犯人は、カメルレンゴじゃないの……?」
イザイアが眉根を寄せたのを見て、アドルフも息を吐いた。
「俺もそう思うんだけどさぁ、ロッテは違うって。まぁカメルレンゴなりになんか考えがあって逮捕したことは間違いない。でも内通者はカメルレンゴじゃない。俺らのオフィスに盗聴器を仕掛けたのはガリバルディ課長で、猊下のオフィスに仕掛けたのはカメルレンゴか教皇の命令」
「でもカメルレンゴは徹底して俺らの仕事邪魔しようとしてるわけじゃん。猊下を逮捕したのだって――――」
「そう、そこだ」
アドルフが真っ直ぐ視線を向けた。
「カメルレンゴには猊下が犯人じゃないことはわかってるはずだ。敵が行動を変えたのは猊下が捕えられた後だったんだからな。猊下が犯人ならテロリストたちに指示が出来るはずがないんだ」
それにクラウディオが膝を叩いた。
「それって、実質的に猊下の無罪を証明してることになるじゃないか!」
「そういうことだ。カメルレンゴが何考えてるのかまではわかんねぇけど」そう言って頭を垂れた。「ロッテが嫌な事言いやがってよぉ……」
アドルフの様子に、みんなは何だどうしたと身を乗り出した。
シャルロッテがアマデウスのオフィスの隠し棚から見つけた物は、過去の報告書だった。その報告書に記されていた。
「20年前、“聖堂騎士”の課長をやってたのはカメルレンゴらしい」
オリヴァーが声を上げた。
「えっ!? じゃぁ猊下とカメルレンゴって上司と部下だったんだ?」
「そうだ。で、ロッテが言うには、“死刑執行人”を組織させたのもカメルレンゴの提案なんだと」
「えぇー!!」
さすがに全員ひっくり返りそうになった。あれだけ嫌われていて、組織の生みの親とは全く信じがたい。大混乱する仲間たちを見てアドルフも溜息を吐き、話しを続けた。
「ロッテがさぁ「如何にも悪役風で出てきた人間って、大概悪役じゃないものよ」とか言ってさぁ」
「えぇ―そんな理由?」
「「叔父様を逮捕したのとあなた達の行動を制限しているのも、あなた達を守るために決まってるわ!」とか断言しやがってさぁ」
更にシャルロッテは「その方が素敵だわ」とも続けた。全員が「それはどうだろう」と腕組みをして首を捻る。
「まぁとにかく、テロに関してカメルレンゴはシロだ。これから俺らがやらなきゃいけねぇ事は……」
1・何とかフォンダート枢機卿とカメルレンゴに取り次いでもらって、この話をして説得する。
2・最早聖堂騎士は信用できないので、警察または死刑執行人の人員で二人を護衛する。
3・カンナヴァーロとガリバルディ及びエゼキエーレが内通者であるという証拠を発掘する。
「――――ってとこだな」
説明を終えても全員が頭を抱えたり項垂れたりして考え込んでいたが、いつまでも手をこまねいているわけにもいかない。内通者を確定させなければ、このままではアマデウスの身が危ないのだ。その辺りはカメルレンゴがどう考えているかは不明だが、カメルレンゴとフォンダート枢機卿が暗殺されることも阻止しなければならない。
全員が了解の返事をして、それを見届けて立ち上がった。
「エルンストとレオの事はロッテが何とかするつってたから任せておく。クリスはクララと一緒にロッテの面倒見てろ」
「おう」
「オラ、お前ら立て。行くぞ」
「ヤー」
敵が長年共に働いてきた同僚だという事は、正直な話辛い事だった。だけど、だからこそ裏切りを許してはおけない。カンナヴァーロよりもガリバルディよりも、アマデウスの方がもっと大事だ。それでアマデウスが助かるというのなら、同僚であるはずの聖職者にすら中指を立てる。それが存在してはならない、存在しないはずの“死刑執行人”であり、悪魔の仔たる所以だ。
7 3/22 独房
こつん、と地下牢に足音が響く。
こつん、
こつん。
時折砕けた煉瓦を踏みしめる、一人分の足音がする。その足音が止まって、鉄格子の外に誰かがいることに気付き、顔を上げたアマデウスは力なく笑った。
「カール、こんな夜中になんの用?」
名前を呼ばれたカメルレンゴは、不服そうに眉を寄せた。
「名前で呼ぶのはおやめ下さいと、何度も言った筈です」
開口一番の文句にアマデウスは「そうだったね」と言って笑いながらも、その表情は翳った。
「随分とお辛そうですね」
ヴァチカンの深淵、しかも結界を施された中だ。これほど長時間教皇庁に身を置くこと自体初めてで、アマデウスは衰弱しきって起き上がる事も出来なくなっていた。何とか顔の筋肉と口だけは動くのが、唯一の救いだ。
「やっぱり、僕の事が許せない?」
「ええ」
「カールって昔っから、結構根に持つよね」
「それが何か? 私を裏切ったのはあなたです。自業自得では?」
アマデウスはやはり「そうだね」と言って、悲しげに瞳を揺らした。カメルレンゴが膝を折って、鉄格子の前に膝をついた。
「私はあなたが嫌いです」
「知ってる」
「あなたの子供たちはもっと嫌いです」
「……わかってる。けど、君の期待を裏切って悪いとは思うけど、それは僕の教育が間違ってただけで、判断するのはまだ早いよ」
嘆願とも取れるアマデウスの言葉に、カメルレンゴは奥歯を噛みしめた。
「あなたが、あなたが私にウソを吐かなければ、私を裏切ったりしなければ――――あなたが人間だったら、それで済んだことです」
ただの、上司と部下だった。優しくてまじめで、信頼のおける上司のはずだった。だから、部下としてアマデウスに信頼されていることも、とても喜ばしかった。親密な上下関係を築ける相手なんて、社会では出会う事などほとんどない。だからこそ、相互に全幅の信頼を寄せている――――そう思っていたのに。
カメルレンゴはある時まで、アマデウスが吸血鬼だという事を知らなかった。だがある戦いの中で、カメルレンゴを守って被弾したアマデウスが、人間ではないことを知った。
敬虔な教徒だった、狂信者と呼んでも良かった。共に魔物を打ち倒してきた仲間だと思っていた、そのアマデウスが吸血鬼だった。本来なら殺さなければならない相手だった。その事をそれまでアマデウスはカメルレンゴに隠してウソを吐いていた――――その事が、どれほど悔しかったか、どれほど悲しかったか。それを裏切りと呼ばずに、何と呼べばよいのか。
とりわけ腹が立つのが、アマデウスのウソがその一つだけではないことだ。今現在も重大なウソを吐いている。
「なぜ、いつまでも報告がないのですか? 目的は何ですか? ただ殺されては困るから? あの悪魔の仔らのため? それとも、何か考えがあって、教会に身を置くことを希望しているのですか? それならなぜ、その事を申請しないのですか? よもや、申請できないような事情があるのではないでしょうね?」
畳み掛けられる質問に、アマデウスはピクリと眉を顰めた。
「……何が言いたいの?」
何が言いたいのかはアマデウスにもわかったが、とりあえずそう尋ねた。しかしカメルレンゴは「私がお聞きしているのです」と、ぴしゃりと質問をはねのけた。なので仕方なく質問に対する返答を返した。
「まだ遂げていないから、だけど?」
カメルレンゴはまっすぐに見つめて、語調を強めて言った。
「あなたの虚言には呆れるばかりです。それならばなぜ、ヴァチカンから離れたのです?」
ほんの一瞬だけアマデウスが視線を外したことを確認して、言った。
「本当は、コンスタンツヤは、既に殺されているのでしょう?」
コンスタンツヤとは、アマデウスが追っているノスフェラートの女だ。アマデウスを吸血鬼にし、その呪いによってしばりつけている女。
カメルレンゴは、その女は既に戦いの中で死亡しているものと考えた。だから、その報告がなく今も尚教皇庁に身を置いているアマデウスの考えていることを尋ねようとした。カメルレンゴの質問に、アマデウスはハッキリと違うと言った。しかしそれでは納得がいかない。
「あなたは昔言っていましたね」
どうしても殺したい吸血鬼がいる。その吸血鬼を殺せたら、何だって構わない。その為にヴァチカンに来たのだ。アマデウスは昔、カメルレンゴにそう語ったことがあった。その時のアマデウスは、緑眼の中にはっきりとした敵意を宿していて、その瞳の中を駆け巡る憎悪の狗の姿に、カメルレンゴの方が聊か恐怖を感じたほどだった。それが今では、すっかり鳴りを潜めてしまったように見受けられた。
「昔の様な必死さが、今のあなたに見えないのですよ。私を含め、昔からあなたを知る人間に、コンスタンツヤが既に死亡していることを悟られたくないから、ヴァチカンから出たのでしょう?」
「僕がウソを吐いているって根拠は、そんなこと? 証拠は?」
「ありませんよ。いずれにせよ、コンスタンツヤに会ってコンスタンツヤとわかるのが、あなたしかいないのですから」
アマデウスがコンスタンツヤを殺したと証拠を見せても、それが本当にコンスタンツヤなのか判別することは誰にもできない。だから、アマデウスがウソを吐いている証拠などはないが、真実を言っているという証拠もない。そもそもコンスタンツヤと言う名前も本当なのか怪しいくらいだ。状況とアマデウスの様子とで、本当は死亡してそれを隠していると考えた。その裏で何を企んでいるのか。カメルレンゴが聞きたいのはそこだ。
「あなたの行動は契約違反です。契約に反した場合の処罰はお分かりですね?」
アマデウスが教皇庁に来た時に、当時の教皇と契約をした。それは契約とは名ばかりの、不平等な呪いだった。それは、アマデウスが目的を達するまでヴァチカンに恒久の忠誠を誓うこと。その契約を違えた時、教皇の名において処罰される。かといって、アマデウスが目的を遂げた後、呪いを解いてさようなら、という気はさらさらなかった。アマデウスが目的を達成した後待っているのは、これまでどおりの飼い殺しか、不要と判断されれば殺される。アマデウスは人間ではないから、人間らしい扱いをする必要はない。例え飼い犬でも、粗相をすれば殺処分するものだ。飼っている犬がただの犬ではなく、狂犬ならばなおさら。ヴァチカンの人間にとって、それは当然の思想だ。
アマデウスもその事は重々承知している。目的に関わらず、逃亡を謀れば死、裏切れば死、不要と判断されれば死。そう言う約束を引き受けたのは自分なのだから、他人に言われずともわかっている。それでも今は死ぬわけにはいかなかった。今アマデウスがいなくなってしまったら、死刑執行人たちの盾になるものが何もなくなってしまう。彼らの盾になっている物がアマデウスだったから今まで守って来れたのに、アマデウスがいなくなってしまったり、代わりの誰かでは攻撃に耐えられない。
「契約の事はわかってるけど、僕にはカールが何を言っているのかわからない。テロの件といいコンスタンツヤの件といい、君はとにかく僕をヴァチカンから追い出したいだけだろう?」
アマデウスはそれが正解だと考えた。とにかくカメルレンゴは、アマデウスを排除できれば何でも良いのだろうと。もう同僚ではない、友人ではない。カメルレンゴが自分を敵視しているという事は、誰よりも知っている。アマデウスが吸血鬼だと知った時の、カメルレンゴの失望と怒りを湛えた視線に、アマデウスもまた傷付けられたから。
アマデウスだって好きで吸血鬼になったわけではないし、好きでウソを吐いて騙していたわけではない。アマデウスが吸血鬼だと知らずにいたら、嫌わずに済んだ。知られずにいれば、カメルレンゴに嫌われなくて済んだ。だから隠していたのに、あの時カメルレンゴが死ぬよりも、嫌われた方がマシだと考えてしまった。結果として、双方を後悔させた残酷な物こそが、真実だ。
「僕は、何かを企んでいるわけじゃない。別に今の状況に不満があるわけでもない。これまでどおり教皇とカメルレンゴの監視下に置かれることにも、針のむしろに全包囲されることにもね。いい加減もう慣れてるし」
ただ、と言葉を切ってカメルレンゴを見上げる視線は、哀眼だった。
「……ただ、僕はアディ達を、見捨てたくないだけ」
カメルレンゴが離れてしまって、その後手に入れた唯一の、吸血鬼になってから長い歴史の中でできた唯一の――――家族。彼らだけが、アマデウスを家族だと思って慕ってくれる。彼らのその思いだけが、アマデウスの唯一の寄る辺だった。それを一度でも手に入れてしまったら、今更失う事など考えたくもない。
カメルレンゴが静かに言った。
「孤独が恐ろしいですか?」
素直に「恐ろしいよ」と答えた。
「君は孤独を知っている? 人の中で感じる孤独は、それはもう耐えがたいものだよ」
人の中にいると孤独を感じるが、自然の中では孤独を感じないと言ったのは、モンゴメリ。疎外される位なら、一人でいた方が孤独を感じない。だけど、人間社会で生きる以上は、アマデウス程でなくとも多少はそう言った思いをしなければならない。
「僕はヴァチカンに忠誠を誓う。何をされても何を言われても、平身低頭して尽力し続ける。だけどその為には、アディ達が必要なんだよ」
何の支えもなしに生きていけるほど、強くもない。元が人間ならばなおさら。人間の中で生きるのなら、殊の外。
「なるほど、あなたはその為にヴァチカンにいるのですね。ここから離れる理由になってしまうから、コンスタンツヤの件を認める気はないというのですね」
「それでなくたって、コンスタンツヤは死んでいない」
そうですか、と小さく息を吐いたカメルレンゴは、大金をベットするギャンブラーのような眼をして言った。
「では彼らに真実を話してあなたがヴァチカンに居続けるのと、彼らに真実を隠したままあなたが消えるのと、どちらがいいですか?」
どきり、と止まったはずの心臓が激しく鼓動した気がした。
真実――――アドルフたちに隠している秘密。それは、墓場まで持っていくべき秘密であり、ヴァチカンの機密でもある。それを知られてしまうことは、針山の上で生きていく事よりもはるかに苦痛であることは容易に想像がつく。それほどの秘密を隠しているのは、そうしなければ彼らがアマデウスの元を去ってしまうから。何より彼らの心を酷く傷つけ、その瞳を悲しみに曇らせてしまうから。
脳髄に鳴り響く。
愛する息子のような彼らが、アマデウスを呼ぶ声を。
「アマデウス様」
子供の頃は素直で可愛らしかったアドルフが、大人になってニヒルな奴に育ってしまったけども、それでもその態度の中に愛情と、少しだけの甘えが存在していることを知っている。
「アマデウス様」
今でもまだ子供のように幼く純粋で、無垢なイザイアが知ってしまったら、きっとイザイアには涙せずにはいられないその秘密を、どうしても知らせる気にはなれない。
これ以上、信頼を裏切りたくもない。彼らにだけは嫌われたくない。彼らに真実が露呈することは、想像するだけでアマデウスの心を引き裂いた。
脳と精神が、究極の選択に悲鳴を上げる。
生か死か。真実を知られ、再び享受した孤独の中で生きるか、秘密の内に、幸福の中で死にゆくか。
その選択を迫るカメルレンゴの瞳、その表情は変わらずアマデウスを氷点で見ていた。
あぁ人間は、なんて恐ろしい生き物なんだ。
この世には鬼が溢れている。人の心には鬼が棲んでいる。だから死後鬼になる者がいる。
究極の選択は、いよいよアマデウスの精神を追い詰めていき、しかし彼に出来る選択は一つだけだった。
「……コンスタンツヤは、死んだ」
その返答を聞いて、カメルレンゴは立ち上がった。
「そうですか。では彼らには秘密にしておいてあげましょう。この件は事件が終わった後聖下に報告します。どの道あなたは、枢機卿団の審議においては有罪とされました。事件後はあなたの望み通り、彼らには何も知られないまま、呪いから解放して差し上げますので」
立ち去る足音を聞きながら、涙が滲んだ。
これでいい。
長生きなどするものではない。長生きと言うのは、人と共にするからいいのであって、単独でするような物ではないからだ。孤独は人の心を闇に曇らせ病みを呼ぶ。それならいっそ、死んでしまった方がいい。
これでいいんだ。
孤独の中で生きるくらいなら偲ばれて死んだ方が、まだ生きた甲斐があると言う物。
何度も何度もそう言い聞かせて、アマデウスは一人独房で涙した。
8 3/22 魔法使いの弟子
シャルロッテが言った。
「忘れないでね、これはテロ事件よ。主役は内通者ではなく、あくまでテロリストだという事を、忘れてはダメよ」
ヴァチカンに戻った時、騒然とする教皇庁の様子を見て、その言葉の意味を改めて知った。
内通者として挙げられていたはずのエゼキエーレが、何者かにより殺害された。
「どうして、エゼキエーレ枢機卿が……?」
「じゃぁエゼキエーレ枢機卿は内通者じゃなかったって事?」
仲間の言葉を聞いて、アドルフは首を横に振った。
「いや、俺がテロリストでもエゼキエーレ枢機卿を殺すね」
「なんで?」
尋ねたイザイアを見下ろして言った。
「目的が達成されれば、最早用済みだからだ」
利用していたのはエゼキエーレだけではない。テロリストの方もまた、エゼキエーレ達を利用していた。協定と言う関係は、そのまま相互に利用し合うという関係なだけであって、決して仲間だなんて甘いものではない。その事を忘れて、傲慢になった結果が殺害だ。
エゼキエーレが殺害されたことで、当然ガリバルディとカンナヴァーロもテロリストたちの謀反に気付いたはずだ。引き入れたテロリストたちの暴走を懸念して、秘密裏にその者達を殺害しようと動き出すと考えられる。
「荒れるだろうな、こっから」
シャルロッテがいたら、「面白くなって来たわねー!」と大興奮して一人大盛り上がりしているだろう、なんて状況にそぐわない事を考えた。
現場では既に“検事”が仕切って捜査をしていて立ち入り禁止になっている。アドルフたちも当然立ち入りすることなどできないので、近くにいる神父に尋ねた。
「すいませーん、死因はなんですか?」
「射殺らしいですよ」
「そうですか。どうも」
礼を言ってその場を離れ、みんなで頭を抱えた。
「よりによって!」
「うわぁ、最悪だよ」
ヴァチカンの中は基本武器の持ち込みなどは出来ない。観光客などは金属探知機をくぐらないと入る事すらできないのだが、その教皇庁において武器の携行が許されているのが、警察と“聖堂騎士”と“死刑執行人”だけ。刺殺などであればナイフなら厨房でも調達できるが、射殺となれば話は別だ。
「少し、よろしいでしょうか」
案の定、声をかけてきたのは“審判者”課長アリオスト。どうやら“検事”の方で捜索は全面的に行うらしいので、“死刑執行人”の聴取を“審判者”が引き受けたようだ。ようするに、絶賛容疑者扱い中だ。勿論“死刑執行人”は何もしていないのだが、何かしら証言や証拠を出しておかなければ容疑が払拭されることはないと考え、素直にアリオストに従った。
てっきり個別で聴取を取るかと思いきや、全員が一つの会議室に通された。驚くべきことに、そこで待っていたのはカメルレンゴで、思わず足を止めたアドルフたちを座るように促しアドルフ、クラウディオ、アレクサンドル、フレデリック、オリヴァー、イザイアと順に視線を流して口を開いた。
「欠員の理由は?」
「メンデルスゾーン主任はローマにおります。ウェーヴァーとマイアベーアは、討伐の為にスイス方面に向かわせました。が、作戦を失敗しミラノ付近で待機しています」
やはり命令を無視していたアドルフに向かって、カメルレンゴはそれとなく睨みつける。それは一瞬で視線を逸らされて終わったが、シャルロッテの言うような美談を信じる事は出来ない、そう証明するには十分な視線だった。
「リスト課長が教皇庁でまで、女を連れまわしていると噂になっていましたが、彼女は?」
人聞きの悪い事を言う物だと思ったが、そこに反論しても仕方がないので質問にだけ回答することにした。
「彼女は、以前地方の討伐に行った際協力してくれた信者の一人で、彼女の戦闘力が我々に匹敵する以上の物でしたので、スカウトして入隊させました」
「その許可はザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿が?」
「はい。報告を聞いておりませんか?」
「聞いていませんね。第一、教皇庁に女性の参入は認められません。即刻除隊を命じます」
「わかりました」
アドルフが素直に応じたので、カメルレンゴは少し訝るように視線を投げた。そもそもシャルロッテは入隊どころか、半分遊びでついてきたようなものなので、除隊を言い渡されたところで困ることなど何もない。カメルレンゴはしばらく窺う様にして見ていたが、ふと視線を外した。
「話は変わりますが」
「はい」
「リスト課長、上着はどうなさいました?」
言われて思い出して、急に寒くなる。シャルロッテがジャケットを引き千切ってしまったので、昼はともかく夜は寒い。それ以上に、ジャケットがないせいでオープンキャリー(むき出しで銃を携行する事)。怪しい事山の如しだ。
「あー、上着は例の彼女に破られました」
「……」
明らかに何か誤解を招いたような視線を向けられたが、事実そうなので仕方がない。背後ではクラウディオ達も「なんでそうなるの?」と首を傾げているが、気にしていたら仕方がない。
「……その、例の彼女は?」
「体調を崩してしまいまして、ローマのホテルで休ませています。メンデルスゾーン主任は、その介抱に当たっています」
「この非常時に女性の看病ですか」
「ええ、我々は非番ですので」
徐々に空気が張りつめてきて、クラウディオ達はややハラハラした面持ちになる。しかしここで怯んではいられないので、頑張って視線をバチバチと合わせる。が、カメルレンゴの方はふいと視線を外してしまった。
「ところで、エゼキエーレ枢機卿が殺害されたのはご存知ですね?」
「はい」
「あなた方、先程までなにを?」
「私は彼女と共に第4会議室での枢機卿団審議会を盗み聞きしておりました。その際彼女が7階から転落したので、彼女をローマまで連れて行き看病しておりました」
「バカな真似をするから、怪我などするのです」
「そうですね。ですが彼女の方は問題ありませんのでご心配なく。パガニーニたちはシュトラウスに集めさせた情報を元に、ヴァチカン付近に滞在しているスイス人をリストアップさせ、その者達の調査と監視をしておりました。彼女がけがをしたので、一旦ホテルに集まって話し合いをして、ちょうど教皇庁に戻ってきたところです」
「では、エゼキエーレ枢機卿が殺害された頃はローマにいたと、そういうことですね」
「はい。ホテルの従業員にでも確認を取って戴ければ」
アリバイはちゃんとある。ドヤ顔気味でカメルレンゴを見ると、またも一瞬で視線を逸らされた。それを見てエゼキエーレ殺害の件には勝利を確信し、アドルフの方から口を開いた。
「カメルレンゴ」
「なんでしょう」
「ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿を釈放してください」
「なぜです?」
「勾留される理由がないからです」
そろり、とカメルレンゴは視線を上げて、鈍くあるいは鋭く、真っ直ぐにアドルフを睨んだ。
「理由はありますし、盗み聞きしていたのなら知っているはずです。有罪は確定しました」
「ですが、カメルレンゴは知っているはずです。猊下は無罪です」
カメルレンゴははじめて、ほんの少しだけ笑った、嘲笑するように。
「ええ知っていますよ。彼は無罪です。しかし彼は、自ら罪を認めました」
「なんですって!」
机を叩いて立ち上がると、慌ててフレデリックが袖を掴むので振り払った。彼に何かしたのかと問い詰めるアドルフの様子を見ていたカメルレンゴの顔からは嘲笑など既に退き、さらに続けた。
「昔の様に拷問など、野暮なことは何もしていませんよ。あなた方には何も語らないと約束しましたので、何も言えませんね」
アドルフが立ち上がったと同時に、建物が小さく揺れた。アドルフはカメルレンゴにキレながらも、自分はこんなに腕力があったのかと少し驚き、すぐにそんなはずはないと打ち消し、一瞬でノリツッコミを終えると改めてカメルレンゴを睨んだ。
「無罪である以上、猊下が自白しようが冤罪には変わりありません。カメルレンゴの捜査と聴取は不当です。それは規律を冒すものではありませんか」
アドルフの言ったことは至って正論だ。しかしそれは通常の被告で通常の捜査機関ならばの話。なにもかも普通ではない状況で、カメルレンゴは嘲笑した。
「規律? あなたがそんな言葉を遣うとは、驚きです。リスト課長に規律を語られたくはありませんね」
その言葉にアドルフはぐうの音もでなかった。日頃の行いが悪いのは否定しようがない。なにせアドルフは、片っ端からカトリックの規律を破りまくる破戒僧である。アドルフ達がそんな問題児なのは、子供の頃から彼らに対し悪辣な大人に対する反発ゆえだ。自由の取捨選択のために、押し付けられる規律を徹底して無視した(でもアマデウスの前ではイイ子ぶっていた)。
その破天荒ぶりは目に余るものだが、いかんせん優秀なうえにアマデウスの庇護下にいることで、口出しをしにくかったというのが現状だった。彼ら自身暗殺者として育てられたために、その実力が恐れられていたというのも背景の一つにある。普段アマデウスのことは「吸血鬼」だから苛めていられたが、彼らを直接攻撃すると何をされるかわかったものではない。
しかしカメルレンゴはその地位もさることながら、服の上からでもわかる、未だに鍛え上げられた肉体と、常に落ち着き払った姿勢がその実力のほどを示している。カメルレンゴにとっては恐るるに足らない、彼らはまだまだ青二才だった。
「命令は無視する、神聖な教皇庁に女を連れ込むでは、つくづく呆れて物も言えません」
そう言ったカメルレンゴが何か思いついたように顎を撫でて、不遜に笑った。
「そうですね、丁度聞きたいことがあったんです。私の質問に正直に答えられたならば、考え直しても構いませんよ」
その言葉に一縷の希望を感じた。カメルレンゴは取引を持ちかけるようなことはしても、嘘を吐いて騙すような人間ではないと知っている。質問に答えれば考え直す、これは大変な譲歩だ。こんなことを言い出すくらいなのだから、難しい質問をぶつけてくるに違いない。 アドルフ達に聞きたいことならば、例え都合の悪いことでも、多少分が悪くなろうと正直に話してしまってもいいし、いざとなれば適当に言い訳すればよい。
そう考えて了承の返事をすると、カメルレンゴは早速質問をしてきた。
「気になっていたんですが、あなた方スイスから戻ったにしては、やけに早い到着でしたね?」
その質問に、アドルフのみならず全員が言葉を失ってしまった。
本来なら丸1日以上かかるものを、シャルロッテの瞬間移動を使った為に5時間程度で到着してしまったのだ。変に思われても致し方なかったが、あの状況ですっかり忘れていた。
やっべぇ! どーしよ!
冷や汗をダラダラ垂れ流すアドルフの背後で、クラウディオ達が「課長頑張れ!」と必死に心の中で応援する。しかしそこにカメルレンゴが畳み掛ける。
「もしかしてスイスには行っていなかったんですか? だとしたらあちらの状況を知っていたのはおかしいですねぇ。あなた方も内通していたんですか?」
「違います!」
「ではどのように?」
「えっと、えー…」
アドルフはすっかりしどろもどろになり、先程までの威勢はどこ吹く風。こんな時クリストフやシャルロッテがいてくれたら、上手いこと言い訳を考えてくれたかもしれないが、アドルフは一旦テンパリだすと中々脱却できない(ドSの習性の一つである)。
シャルロッテは吸血鬼で、その力を以て移動したと素直に話すべきか――――否。それは絶対ダメだ。
エルンストとレオナートだけがスイスに行っていて、その報告をこちらで聞いたとウソを吐くべきか――――否。アドルフ達全員がスイスに赴いたことは、既に報告済みだ。
実は飛行機をチャーターしていたとでも言うべきか――――否。パスポートの提示を求められたらアウトだ。
焦った頭では余計に、巧い言い訳が思い浮かばなくていよいよ焦燥が募った頃、カメルレンゴが息を吐いた。
「結構です。答えられないのであれば、こちらも答える事はありませんし状況は変わりません。あなた方にも怪しい点は非常に多いので、今後は私の監視下に入って戴きます。よろしいですね?」
全くよろしくないが、まさか一言も答えを返せない質問をぶつけられるとは思っていなかった。完全敗北を喫したアドルフは、その命令に項垂れながらも頷いた。
「あの!」
少し高い声が響いて、椅子の足を引きずる音がした。イザイアが立ち上がって、今にも泣きそうな顔をして言った。
「猊下は、本当に有罪が確定したんですか?」
「ええ」
カメルレンゴの徹底して低温の返答に、イザイアは堪らず涙ぐんだ。
「じゃぁ、じゃぁせめて、最期に猊下に会わせてください。お願いします」
イザイアの懇願に、周りも同調し始めて立ち上がった。
「お願いします」
「お願いします、猊下に会わせてください」
「お願いします」
全員が立ち上がって懇願する、その様子を見つめているカメルレンゴの前に行き、膝をついた。
「お願いしますカメルレンゴ。最後に一目だけでも、会わせていただけないでしょうか。それが叶いましたら、我々は今後、全ての処遇をカメルレンゴに委ね、臣従いたします。ですから、お願いします」
アドルフの様子と周りの懇願を聞いて、カメルレンゴは若干鬱陶しそうに息を吐いたものの「いいでしょう」との返答を戴けた。その事に歓喜した“死刑執行人”だったが、「ただし」と続けた。
「事件中は勿論事件後も、あなた方の首を切り落とす権利は私に所属します。あなた方は現在より、私の直轄に入ることになります。今後一切、勝手な行動は許しません。よろしいですね?」
「はい」
やはり全くよろしくないが、今の状況では「YES」以外の返答はできない。なにより、事件はまだ終わっていない。それにアマデウスだって生きている。アマデウスに会って話せば、まだ打つ手立ては残っているはずだ。諦めるのは、まだ早い。
そう考えて自らを鼓舞し、カメルレンゴにつき従い、会議室を出た。
地下室に入ろうとすると、その入り口にはたくさんの人だかりができている。すかさずカメルレンゴが何があったのかと尋ねると、地下牢3神父の一人、マチェラッティが慌てた様子で引き入れた。なので、カメルレンゴに促されるままに地下室に入ると、地下牢前のゲートに差し掛かった辺りから、やたらと埃っぽくなっている。
慌てて駆けてきた3神父の一人、フォルト神父がカメルレンゴを中に連れて行き、アドルフたちにはそこに待機するように言いつけた。大人しく待っていると、少しして「来なさい」と中に呼ばれた。
明らかに何かあったらしい事はわかる。よもやアマデウスの身に何か起きたのでは、そう思うといてもたってもいられなかったが、アマデウスがいたであろう地下牢を見て、愕然とした。
「これは一体……」
アマデウスのいたはずの地下牢、そこは鉄格子は勿論、周囲の壁まで派手に破壊されていた。先程の振動はこれだったのかと合点がいったが、肝心のアマデウスの姿はない。
「え、あの、猊下は……?」
フレデリックの問いに、「消えたようです」とカメルレンゴが言った。
3神父の状況説明によると、それは本当に突然だった。3人はゲートの前で見張りをしていて、3人ともが誰かを見た覚えはない。なのに、突然轟音と共に振動が響き、奥の方から砂埃が立ち上ってきた。奥に行こうにも砂埃の為に視界が悪く、ようやく埃が落ち着いてから奥に行くと、そこは既に破壊された牢獄が口を開けるばかりで、人っ子一人いなかった。当然、誇りが落ち着く間もゲートの前にいたので、誰かが通れば気付くはずだ。それでもやはり、誰も見かけていない。
「まさか」
「猊下プリズンブレイクしたのか?」
アレクサンドルとオリヴァーが寝ぼけた事を言うので小突いた。シャルロッテでさえ体調不良になったというのに、ヴァチカンの結界を施された中で、アマデウスが無事でいられるはずがない。その事はカメルレンゴもわかっていたようで、「外部の手引きでしょうね」と言った。
「ホラ見ろ」
仲間に見るように、床を指さした。牢獄の中には煉瓦の破片が多く散らばっている。反して、隣の独房にはわずかな破片と埃が被っているだけだ。
「どう見てもこりゃ外から穴開けたんだろ」
「あっ、そっか」
「けどこんなことできる奴普通いなくね?」
「砲撃でもしたのでは?」
カメルレンゴの推論に、首を横に振った。
「いいえ、火薬の匂いがしませんし――――ディオ、壁見ろ」
言われて壁の検分を始めたクラウディオは、少ししてカメルレンゴを見た。
「やはりこれは砲撃や爆破の類ではありませんね。破片なんかも見当たりませんし、焼けた跡もありません」
「そうですか。あなた方、こう言った所業が出来る人間に心当たりは?」
「ありませんよ」
そんなことが出来る人間には、全く心当たりはない。心当たりがあるのは、人間ではない奴だ。全員が、なんとなーく犯人の目星はついているが、ここでは一致団結して黙る。
「言っておきますが、我々はこの件には関与してませんからね。猊下に会わせて欲しいと言ったのに、まさかこんなことになって会えないとは思いもしませんでした」
カメルレンゴがアドルフたちの手引きで、誰かが逃がしたのかもしれないと疑う事は仕方がないが、実際アドルフたちも予想外だったので驚いたのは間違いない。しかしアドルフは、これを好機と見た。
「大体、これは本当に外部の仕業なんですか? 我々にも秘密裏に、猊下を処分しようと考えたんじゃないでしょうね?」
「御冗談を。私はその様な手を使うような卑怯者ではありません。そもそもザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿の処遇決定には、教皇決議が必須なのです。まだ話もしていないのに彼を処分したとなれば、その者の方が処分対象です」
ウソ吐けこの野郎とお互いに睨みあっていると、無線が不快なノイズ音を立てた。無線がつながったことに気付くと、すぐに「俺だ」とクリストフの声がした。どうやら全員に繋がっているらしく、それに返事を返そうとするとすかさずクリストフが「聞いてないふりしろ」と言ったので、そ知らぬふりをした。少しの間沈黙して、またノイズ音が聞こえる。そのノイズ音の向こう側では、何故か男のクスクス笑う声が聞こえて、思わず眉を顰めそうになった。
『ガキども、ご苦労。久々の旦那様だ、喜べ』
やっぱこの人だったー、と放心しそうになったが、正直状況としては喜んでいいのかが良くわからない。反して、無線の向こう側のサイラスは、なぜかとても楽しそうだ。命令を聞いて心の中で了承の返事をすると、無線が切れた。
その瞬間、目の前にサイラスが現れた。
「うわぁっ!」
アドルフとカメルレンゴの間に立ちはだかるように、現れたその姿はいつもの通り黒いコートを翻して、蝙蝠の様なつばさが生えている。それで突然現れれば、知己の間柄でも驚きもする。
ここでアドルフたちがしなければならないことは、他人のふりである。
「な、だ、誰だ!」
ちょっと本気で驚きながらも、カメルレンゴを庇うように回り込みサイラスに銃を向けて威嚇すると、サイラスはやっぱりいつも通り不遜に笑う。その笑い方を見てシャルロッテの氷結微笑を思い出し、この辺りは親子だなぁと、少し状況に見合わない感想を持った。
「はじめまして、聖職者諸君。私は・サイラス・ジェズアルド・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ルートヴィヒスブルク・バッハ」
そう言って、サイラスは流れるような仕草で礼を取る。サイラスが無駄にいい男なのと、その仕草から現れる高貴さと、黒い瞳が黒曜の様に輝いたことに気付いて、思わずぞっとした。
サイラスに警戒しつつ銃を向けるアドルフの背後から、カメルレンゴが少し前に進み出てきた。
「……不死王サイラス……」
「あぁ、知っていたのか。これは嬉しい」
「ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿から、話は聞いている……しかし、貴様の話はここ数百年聞いていないから、死んだのだろうと言っていたが……」
「なに、余所に引っ越していただけだ。丁度イタリア人がアメリカを発見したというのでな。開拓から見守ってきてやったぞ」
まだ仲が良かったころに、アマデウスはサイラスの事を少しだけ話していた。かつて欧州で圧倒的な権勢を誇った、「不死王」の伝説。今はもう亡国だが、とある国はサイラスが陥落して作ったなんて、おとぎ話のような伝説まで聞かされていたのだ。しかし、その国が没落したのも、何も噂を聞かなくなったのも、サイラスが消息を絶ったためだった。死んだとか人間に戻ったとか色々噂はあったが、それが今目の前で不遜に笑う美丈夫だとは思いたくもない。しかし、それがサイラス本人だと確信せざるを得ないのは、ヴァチカンに堂々と瞬間移動で現れ、吸血鬼としての姿をし、その手に握られている聖書の破片が、ヴァチカン最堅の結界を破ったことを現している。そんな所業が出来る吸血鬼は、数多いる中でもサイラスくらいのものだ。
「アマデウスは私の弟でな。捕まっていると耳にしたので、取り返させてもらったぞ」
「……なぜ、その事を知っている? どこから聞いた?」
アマデウス逮捕どころか、テロ事件すら公表されていないというのに、その情報が漏洩するはずがない。カメルレンゴは冷静でありながら、その表情には明らかに動揺が浮かんだ。
サイラスはカメルレンゴの質問に、喉の奥でくくっと笑う。
「あぁ、ガリバルディだ。奴は目先の欲に目が眩んだ、憐れな犬でなぁ」
「ガリバルディ課長が?」
訝ったカメルレンゴに、すかさずアドルフが言った。
「カメルレンゴ、実は我々の調査では、テロ事件の内通者としてカンナヴァーロ課長とガリバルディ課長の名が挙がっているんです」
「では……このテロ事件は……」
驚愕の表情で睨むカメルレンゴに、サイラスはくつくつと笑って言った。
「先程面白い事を考えたのだ。アマデウスはやめろと言って聞かなかったが――――」ニヤリと笑った口元から、牙がのぞいた。「教皇を人質に取ってある」
「なんだと!?」
「殺されたくなければ、早めに病院に行くことだな。私の手下は血気盛んで手が付けられんのだ」
ニヤニヤ笑ったサイラスがコートを翻すと、そこから無数の蝙蝠きちきちと飛び立つ。
「せいぜい頑張りたまえ、人間諸君」
その言葉とともに、霧のように消え去った。
サイラスが消えた後、銃を仕舞ってすぐにカメルレンゴに振り返った。
「教皇聖下は勿論、猊下の状況も気になります。我々も同行しますので、早く病院に行きましょう!」
「わかりました」
全員で地下室から出て、大急ぎで支度をしヴァチカンを出た。終始カメルレンゴの表情は変わらなかったが、その瞳に焦燥の色が浮かんでいるのは見て取れる。それを見ていると何となく良心の呵責を覚えたが、今はサイラスの命令が優先だ。
病院周辺の警察への敬礼もそこそこに、カメルレンゴと“死刑執行人”は全速力で階段を駆け上り、最上階の特別室――――教皇の病室へ辿り着いた。病室の前には2人、警察が見張りをしている。しかしサイラスの瞬間移動の能力を考えると、見張りなど役に立たないと考えたのか、カメルレンゴはまたしも挨拶もそこそこに病室のドアを開けた。
「カール? 夜中に騒々しいぞ」
乱暴に開かれたドアの中、メガネをかけた白髪の老人がベッドに横たわり、その隣には警察団長のバーデンが付き添っていて、それ以外には誰もいない。
「……あれ?」
カメルレンゴらしくもなく、少し間の抜けた声を出した。
「父上……と、団長、だけですか?」
「そうだが? なんだ、どうしたんだね?」
「え? いや……」
カメルレンゴはものすごく肩透かしを食らったような顔をしている。が、やはりカメルレンゴの表情は驚愕に変わることになった。
悩んでいた顔を上げてクレメンス16世に向いたとき、そのベッドの脇に立っている人間が増えている。
「案内ご苦労。実は病院の場所が分からなくて困っていたのだ。ははは」
騙された、やられた。そう気付いてカメルレンゴは、頭が真っ白になった。
9 3/22 病室
それはさておき、肝心のクレメンス16世もサイラスに気付いて、首を傾げた。
「いつの間に? 君は?」
「あぁ、申し遅れたな」
そう言ってサイラスはベッドの前に膝をつき、クレメンス16世の手を取りキスをした。
「光栄至極、こうして教皇に会うのは実に数百年ぶりだ。私はサイラス・ジェズアルド・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ルートヴィヒスブルク・バッハ」
その自己紹介に、クレメンス16世も目を丸くした――――が、しかしその瞳は落ち着きを取り戻し、どこか揺らいだ。
「……やはり、吸血鬼か」
「はじめまして、クレメンス16世」
「初めてではないぞ、吸血鬼。まぁ、あれから70年だ……気付かぬのも、無理からぬことか」
驚いたのはサイラスの方だった。どういう事かと問いただそうとした瞬間、再び病室のドアが開いた。
「アディ、お疲れ様」
シャルロッテが入室して、その後からクララとクリストフとアマデウス、いつの間に迎えに行ったのかエルンストとレオナートもやってきた。挨拶を交わしていたシャルロッテがクレメンス16世に微笑みかけると、彼は途端に眉を下げた。
「あぁやはり、ロッテ。私のロッテ」
ぽろり、と皺だらけの瞼の下から、涙が零れた。
「ロッテ、死を前にして思い出すのは、いつも君の事ばかりだった」
涙をこぼす、眼鏡の奥の琥珀色の瞳。優しさの残る面影、愛しげに名前を呼ぶその声は。
「やっぱり……ファウストなのね?」
「ロッテ……あぁ、70年経った今でも、変わらず君は美しい」
「ファウスト!」
突然始まった感動の再会シーンに、周りは「えっ、どうしたらいいのコレ?」と、もれなく戸惑った。
駆け寄ってサイラスを突き飛ばし、シャルロッテは手を握ってクレメンス16世は涙をこぼす。その様を見てサイラスは、先程までの傲岸さなど吹き飛んだ。
「待て待て! ファウストだと!? 貴様、あの小僧か! 生きていたのか貴様!」
「サイラスは相変わらず、私に厳しいなぁ。久しぶりに会ったというのに、少しくらい喜んでくれたって……」
「誰が喜ぶか! 貴様が死んだと聞いて、内心私は大喜びしたというのに!」
「お父様、酷いわ……」
「酷い事などあるものか! この小僧は死んだふりをしていたのだぞ! お前ももっと怒れ!」
深夜の病室で一人激怒するサイラスを、シャルロッテとクレメンス16世が窘めている。その様子を見ていたカメルレンゴが、話に割って入った。
「失礼。シャルロッテさん?」
「あぁ、カメルレンゴ、初めまして」
「あ、初めまして。あなた、リスト課長が連れてきたシスターですよね?」
「そうですね」
「それで、不死王がお父様とは?」
「あ、私のお父様です」
「……」
「……?」
どういうことだとカメルレンゴはアドルフに振り返る。
「えー、あー……」
少しの間視線を泳がせていたが、言うに事欠いてアドルフは「てへっ」と笑ってごまかした。
「てへっではありません! どういう事ですかこれは!」
「えっ、あ、えっと―……」
アドルフでは埒が明かないと早々に見切りをつけて、カメルレンゴはアマデウスを睨んだ。
「こら! ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿!」
「えっ僕!?」
「説明しなさい!」
「……するから、落ち着いて聞いてくんない?」
カメルレンゴの剣幕にたじろぎつつ、一先ずアマデウスはアマデウスたちとサイラスたちが協力関係に至るまでの顛末をかいつまんで説明した。ウッカリ同席する羽目になった警察団長バーデンは勿論、クレメンス16世もカメルレンゴも目を白黒とさせていたが、かすかに不思議に思っていた部分もあったようで、得心が言った顔をした。
「……なるほど、先程の質問の答えは、シャルロッテさんですね?」
Q・どのようにしてスイスからヴァチカンへ来たか。
「はい……すいません」
アドルフは非常に言いにくそうにして肯定した。
「そうか、サイラスとザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿は兄弟なのか……助けにヴァチカンに忍び込むなんて、仲良しだな?」
クレメンス16世の一応気を遣った発言に、兄弟は揃って「ハッ」と鼻を鳴らした。
「私はコイツが嫌いだ」
「僕も兄様は嫌い」
視線を合わせると互いに「ケッ」と視線を逸らす。クレメンス16世のせいで急に兄弟間がギスギスし始めてしまい、慌てた様子でバーデンが会話に参戦した。
「えっと、とりあえず今は吸血鬼一族はこちらの味方であると、そう言う解釈で間違ってませんか?」
随分ざっくりした解釈だが、間違ってはいないのでシャルロッテが肯定した。が、バーデンは首を捻った。
「しかし、あなた方にはメリットなどないでしょう? 何故協力する気になったのです?」
サイラスとアマデウスは仲が悪いし、サイラスたちは吸血鬼なので教皇庁に味方する理由はないはずだし、アマデウスたちと教皇庁は仲が悪いし、本来ならこの3勢力が全部敵対していると言ってもいいのだ。唯一行政庁から派遣されたバーデンには、不思議現象にしか見えない。それ以上に何か企んでいるのではないかと疑っている。
バーデンの質問にシャルロッテは、当然と言わんばかりの顔で言った。
「だってあのまま叔父様が処刑されたら、私達がアディ達の面倒見なきゃいけなくなるし、テロ事件を解決させないとファウストたちも困るわけでしょ。それに……ねぇ? お父様」
シャルロッテとサイラスは視線を合わせて、同意した親子は声を揃えて「こんなに面白い事は滅多にない」と臆面もなく言ってのけた。質問したバーデンもそうだったが、カメルレンゴもクレメンス16世も、アマデウスたちも顔を引きつらせる。
「お、面白いから……?」
「面白いからよ」
「面白いとはなんですか!」
激昂してカメルレンゴが食って掛かって来たが、アマデウスがそれを宥めた。
「ごっ、ごめん。この親子普段からこんなんだから……代わりに僕が謝るから。ごめんなさい」
「なんかすいません」
サイラスとシャルロッテの代わりに、何故かアマデウスと“死刑執行人”達が謝罪した。それでもカメルレンゴは怒っていてバーデンは相変わらず表情が固まっていたが、クレメンス16世はクスクスと笑った。
「ロッテは相変わらず、楽しい事に目がないね」
「うふ、そうなの」
クレメンス16世が、シャルロッテのそう言う性格を覚えていてくれて、それを良しとしてくれていることも嬉しかった。嬉しくなって手を握ると、クレメンス16世は頭を撫でてくれたので、それでついうにゃうにゃともたれかかると、サイラスに引き離された。
「何を私の前でイチャイチャしているんだ」
「ちょっとくらいいいじゃないですかぁ。お父様のケチ」
「ファウストはもうジジィだろうが!」
「おじいちゃんになってもファウストはファウスト。関係ありませんわ」
ね? とクレメンス16世に改めて振り返ると、どことなく嬉しそうに微笑んだ。それでやっぱりイチャイチャしていると、イライラするサイラスの横からアマデウスが割り込んだ。
「あのちょっと、ていうかさっきから聞こうと思ってたんだけど。ロッテと教皇聖下って知り合い?」
「ああそうだ、私も気になっていたんですが……ちょっとそこ、イチャイチャやめてください」
カメルレンゴの言葉で元気を取り戻したらしいサイラスにやっぱり引き離されてしまい、つまらなく思いつつも質問にはクレメンス16世が返答した。
「ロッテはまぁ……若い頃の、なんていうかこう……元カノ」
「元カノ!? 何ですって、父上!」
「いや、あの、聖職になる前の事だし、時効だろう? 秘密だよ」
「それは秘密にしますけども!」
昔のこととはいえ、吸血鬼と教皇のスキャンダルなんて表沙汰に出来るはずがない。全員驚いていたが、一先ず落ち着きを取り戻したカメルレンゴが深く溜息を吐いた。
「とりあえずシャルロッテさん」
「なぁに?」
正体を明かした今、部下のふりをする必要はないのでいつも通りに返事をした。
「あなた男を見る目はあるんですね」
「うふ、そうでしょ」
「で、父上」
「なんだい?」
「女を見る目はありませんね。顔に騙されたんじゃないですか?」
「失礼だねお前……」
「ホント失礼しちゃうわ! アンタ殺すわよ!」
憤慨するシャルロッテの傍で、サイラスとクララも気分を害したらしく「殺れ殺れ」と囃し立てているが、アマデウスたちはカメルレンゴ派に回った。
「お嬢見た目はパーフェクトなんだけどね」
「中身がね……絶対尻に敷かれるし、最悪踏まれそう」
「一度お嬢みたいな女に惚れたら、他の女じゃ物足りなくなりそうで怖いよな」
「多分教皇聖下はドMなんだよ」
「あぁ、だったらある意味女見る目あるんじゃない?」
死刑執行人たちの与太話は、教皇の年老いた耳には全部聞き取れなかったが、文句を言われているのはわかる。
「君たちの知るロッテがどんな女かは知らんが、私の知るロッテはとても綺麗で、優しくて可愛らしい女性だよ」
シャルロッテを見つめて、噛みしめるように言った。
「あの頃から変わらず、美しい娘だ……」
若い頃、よく見惚れていた。
「ロッテは綺麗だね」
「何よ今更」
「う……そうだけど、可愛いなぁって」
ちょっとアタフタしてそう言うと、シャルロッテはいつも悪戯っぽく笑う。
「嬉しいでしょ? 自慢でしょ? 街で噂の超絶美人の私が、世界で一番あなたが大好き。こんなに名誉な事ってある?」
それでいつも笑ってしまった。
「ない! 俺すごい自慢だよー。世界中に見せびらかしたい」
「そうでしょう? 私に愛されて幸せ者ねー」
「自分で言うんだ……」
「言うわよー」
高飛車でプライドが高くて我儘で。だけど、何の取り柄もない自分を世界で一番愛してくれた、美しい人。
――――70年前。
父が死んで家族の為に軍に志願して入った。普段から引っ込み思案で、穏やかな性格のファウストには合わないと、家族からも友達からも反対された。
案の定軍に入っても、ドイツ系だからといじめられたし(当時アメリカとドイツは敵対国)、大人しい彼は散々にからかわれた。気弱で臆病者で、いつも上官になじられてからかわれて、親切にしても騙されて裏切られて。素直で親切な性格が空回りしてしまう――――いつも損ばかりしていた。
そんな時出会ったのが、当時軍で評判になっていた美少女、シャルロッテ。
当時シャルロッテは趣味で賭けストリートファイトをやっていて、軍人相手に勝ち越して大儲けをしていた(サイラス主催)。超美人で誰も勝てない女がいると、当時は軍内の噂を風靡していた。
駐屯地の近くの酒場で、シャルロッテが戦っているのを見た。その強さを目の当たりにして、彼女の美しさを見て、心を奪われた。しばらく経って、情けなくも酔っ払いに絡まれて殴られているファウストを助けたのが、シャルロッテだった。
「情けないわねー、あなた軍人でしょ?」
助けてもらった上に、ファイトマネーで酒までおごってもらった。
「でも、殴ったら相手はもっと怒るだろ? 俺が殴っても多少は痛いだろうし、誰だって痛いのは嫌じゃないか」
「でもあなたは痛い思いをするのね。相手の怒る気を挫く位、徹底的に殴ればいいじゃない」
「……君怖い事言うね」
「あなたこそ軍人のくせに変わってるわね」
第一印象はお互いに「変な人」だったと思う。それから見かけるとどちらともなく声をかけるようになって、約束をして会う様になって、告白する勇気が出せずにいたファウストに、シャルロッテが「私に告白しないの?」と迫って、頑張って交際を申し込んで、付き合うようになった。
周りにはからかわれていたけど、中には嫉妬の視線を向ける人もいた。
見て、シャルロッテ、今日も可愛い。
一緒にいるのは彼氏か?
なんか冴えない奴。
アイツならオレの方がいいだろ。
知ってるアイツ。軍の奴だけど超弱いんだよ。
ロッテに守ってもらってるんじゃねーの。
そんな中傷が聞こえてきて、落ち込むこともしばしばあった。その度に気付いたシャルロッテが言った。
「ファウストは私と他人と、どっちの言う事を信じる?」
「そりゃもちろん、ロッテだよ」
そう言葉を返すと、眩暈がするほど眩しい笑顔を向けたシャルロッテが、手を握って言った。
「じゃぁ信じて。私はファウストが大好きよ。一番大好きよ。あなたはとても素敵だわ。その辺の人なんかより何倍も素敵だわ。誰が何と言っても、家族思いで優しくて、そんなあなたが一番カッコいい。世界で一番愛してるわ」
そう言われる度に涙が出る程嬉しくて、恥ずかしくて、元気になった。やっかみの目で見られることは沢山あったけど、シャルロッテが心の支えだった。会うたびに好きになっていって、それを恐ろしく感じるほどに、愛した。
シャルロッテは厳しい事も言うし、冷たい事もあるし、高飛車で我儘で、正直ついて行くのは大変だ。だけどそんな奔放な彼女が大好きで、冴えなくて取り柄もない自分を一生懸命愛してくれるシャルロッテを、どうにかして喜ばせたかった。
お金はあまりなかったから、出来る事をたくさんした。一生懸命お店を探してあちこち連れ出して、手を繋いだ、マフラーを貸してあげた、たくさん話して、たくさん愛してると言って、髪を撫でて抱きしめてキスをした。シャルロッテが喜んで、笑ってくれることは何でもした。
シャルロッテに相応しい自分であろうと、シャルロッテの前では勿論仕事だって頑張った。シャルロッテもそれが分からない女ではなかったから、彼の支えになれるよう努めた。あの頃はお互いに、お互いの愛に報いようと、ひたすらに慈しんだ。
だから、護衛艦の仕事に赴くことになった時決めた。
結婚しよう。
シャルロッテを幸せにしよう。
きっと自分にしかできないから。
きっと喜んでくれる――――そう、思っていたのに。運命の曲折は、二人の愛を引き裂いた。
シャルロッテ、泣いているだろうか。
今どうしているだろうか。
裏切ったと怒っているだろうか。
でも大丈夫、シャルロッテは美人だし優しい人だから、俺じゃなくても幸せにしてくれる人が現れる。
勝手にそう決めつけて、裏切った。
互いに真心と愛情を、ひたすら注ぎ合っていたあの素晴らしき日々は――――もう取り返すことはできない。
70年経った今でも、シャルロッテは相変わらず美しい。愛想笑いではない、優しい笑顔をクレメンス16世に向けている。
「私は今でもファウストを、あなただけを愛してるわ」
シャルロッテが言った。しわくちゃのおじいちゃんになってしまっても、もう死ぬと知ってしまっても、彼が彼であることに変わりはないから。その深い愛をクレメンス16世も知っていたから、正直に言った。
「私も君だけを、愛していたよ」
正直に言ってシャルロッテを傷付けやしないかと心配にはなったが、今でも愛していると言ってしまったら、死んでしまった後より悲しみを深めることになる。それをシャルロッテもわかっていたのか、悲しそうにはしたが笑った。
「過去形ね」
「そうだね」
「私とあなたは結ばれない運命だったのね」
シャルロッテは吸血鬼で、クレメンス16世は教皇で、シャルロッテはこれからもずっと生きていくけど、クレメンス16世はもうすぐ死んでしまう。
「そうかも、しれないね」
「悲しい?」
「あぁ、とても。君は?」
「泣きたいけど、今はまだ」
「いつまで我慢するんだい?」
「私70年泣いてないのよ。あなたが死んだ日から」
「その内私はまた死んでしまうよ、今度こそ」
「その時に泣くから、その時まで取っておくわ」
「すまないね……ロッテ」
「本当よ、これだから人間は嫌なのよ、死ぬから」
クレメンス16世は思わず苦笑した。
後にも先にもシャルロッテを泣かせてしまうのは彼くらいで、これほど愛せたのも彼くらいで。彼の性格からして、聖職と言うのは天職に他ならなかったが、いつの間にやら教皇にまでなってしまっている。
「お嬢様の男を見る目は、一流です」
クララは素直にそう思って口にすると、シャルロッテが少し誇らしそうに笑って「超一流よ」と言った。少し苦笑しながらも「クレメンス16世も、超一流ですよ」と言うと、クレメンス16世も嬉しそうに「そうだろう」と笑った。
「ファウストの女を見る目だ・け・は! 評価してやる」
一方のサイラスはものすごく不機嫌に「だけ」を強調して言うので、死刑執行人たちは「ジェラシー燃え盛りすぎッスよ」と苦笑した。一方シャルロッテの目にサイラスは、アウトオブ眼中である。
「私、本当はファウストと結婚したかったわ」
「私も、あの仕事が終わったら君にプロポーズしようと思っていたんだ」
「うふふ、多分そうなんじゃないかと思っていたの」
ふわふわした雰囲気をぶち壊すべく、早速サイラスが水を差す。
「小僧なぞ絶対許さんぞ!」
「実現してないんだからいいじゃないか……」
「……あぁ、そうだな。ではさっさと死ね。なんなら私が直々に殺してやっても構わんぞ」
「遠慮するよ。本当にサイラスは私に厳しいな」
「お父様酷いわ……」
確かに、と周りも内心思ったが、それを言うと余計にサイラスを怒らせそうなので黙る。が、シャルロッテには譲れない。
「ダメよ、ファウストは病気で死ななきゃいけないの。病気で、沢山の人に偲ばれて、悼まれて死んでいくの。それがあなたに相応しい死に方よ。それ以外の死因は許さないから、あなたは私が守るわ」
周りにはわからなくても、サイラスとクララ、クレメンス16世にはわかった。未だにシャルロッテが愛していることはわかるから、だからクレメンス16世の2度目の死を受け入れることが、どれほどの悲しみなのか。本当は彼を若返らせて吸血鬼にすることだって可能なのに、それを一言も打診したりはしない。愛し合ってはいたけれど、70年も聖職を務めてきた、その経歴と誇りを汚すような真似を、彼に選択させようとはしない。悲しみを押し殺して、傍にいたいなんて我儘も言わないで、ただひたすらに優しい死を提供しようとする。彼が目指した物を、彼が彼であることを破壊しようとはしない。それが愛の引き起こすものだという事を思い知った。依存や信仰などの「偽物」を愛だと誤解しているような人とは違う、シャルロッテの誇り高く深い、本物の愛情に感服せずにはいられない。
「ありがとう」
クレメンス16世は感涙を止めはしなかった。
冥土の土産、これ以上は何もいらない。この一つだけで構わない、それほどの物を餞に貰った。世界中の人が喪に服し、涙に暮れるだろう。そんな他人の涙も今の地位も、それらすべてを捨てても有り余る。
「ありがとう、愛してくれて、ありがとう」
涙を流すクレメンス16世にシャルロッテは優しく笑って、握った手にキスをした。
そのそばではクララが嗚咽を漏らしてグスグスと泣いている。それに苦笑した。
「もう、クララは泣き過ぎよ」
あやすように頭を撫でると、号泣しながらクララが言った。
「だっで、お嬢様が泣かないから」
本当は泣いてしまいたいくせに。
「お嬢様が泣かないから、代わりに私が泣くんですぅぅ」
シャルロッテは思わず苦笑してしまって、だけどクララのそんな真心はとても嬉しかった。
「クララは本当に可愛いわねぇ。優しいわねぇ」
と頭を撫でると、隣にいたクリストフが「お嬢に似たんだろ」とクララの涙を拭った。
10 3/22控室
見舞い客用の控室は、大病院らしく真っ白で清潔に整えられていて、しかもその辺の家のリビングより広い。そこに教皇以外の全員で腰かけて話し合いだ。時間はもう既に深夜だったので、教皇にはお休みいただく事にし、事件に対する作戦を話すことにした。というより、サイラスがアマデウスを脱獄させた理由なども話していなかったし、ヴァチカン側の協力は必須だ。
一先ずアマデウスの処分の件に関しては、事件解決まで保留とクレメンス16世がはっきり言った。それでようやくアドルフたちも安心したらしく、本当に申し訳なさそうにして、アドルフがカメルレンゴに頭を下げた。
「カメルレンゴには本当に、ウソを吐いて申し訳ありません。ですがカメルレンゴと教皇聖下をお守りするには、こちらで一緒にいてもらった方が守りやすいですし、聖下にも一緒にお話を聞いていただきたいと……」
重要参考人であるアマデウスの身柄を奪取し、更に教皇を人質に取ったと脅せば当然病院に大集合する。狙いは効率的な護衛だった。あの状況でアドルフたちがどれほど説得しても、素直に信用しようとしないだろうと考えての事だ(それにしても無茶だが)。
カメルレンゴとバーデンは顔を合わせて深い溜息を吐いた。
「聖下の方はご心配には及びません。事件中は私と警察、病院関係者以外は面会謝絶ですし、警察のメンバーには最近異動はありませんから全員を把握しています。スイスとの国交に支障をきたすわけにも参りませんし」
バーデンも頷いた。
「ええ。我々は全員がスイスからの傭兵ですから、我々の方で何か問題があったとすれば、それは外交問題にまで発展してしまうでしょう。それだけは避けなければなりませんし、命を賭してでも教皇聖下はお守りせねばなりません」
警察には警察の都合と面子と言う物があり、その為に通常の警察以上の使命感を持っている。そして、強い使命感と責任感を持っているのは、カメルレンゴも同じだった。
「あなた方の言いたいことはわかりますが、現時点では事実上教皇庁の責任者は私です。私はあちらでやらなければならないことが山ほどありますし、この非常事態でただ守られて怯えていろと言うのなら願い下げです。それはまるでテロに屈するようではありませんか。私は教皇庁に戻りますよ」
カメルレンゴの都合もあるし、なにより見上げた男だ、と思う。屈したくはない――――それはカメルレンゴのプライドもあるだろうし、信教への信仰もあるのだろう。
「ねぇ、じゃぁこうしましょ? あなたは教皇庁に戻って、直属に入ったアディ達がその補佐と同時に護衛をするわ。それならいい?」
「私の仕事の邪魔をしないのであれば、許可しても構いません」
許可が下りたことに一応安堵していると、カメルレンゴが顎に手をついてシャルロッテを見た。
「しかし、本当にカンナヴァーロ課長とガリバルディ課長……エゼキエーレ枢機卿が内通者なのですか? なにか証拠が?」
頷いた。
「私がアディに話した段階では、証拠はなくただの推論だったけど。証言が出てきたから確定的よ」
えっ、と全員がシャルロッテを見た。
「おい、証言て誰から?」
覗き込んだアドルフにニッコリ笑った。
「エゼキエーレ枢機卿よ」
「ハァァァ!? ちょっと待て! さっき殺されてただろ!」
「死ぬ前に聞いたのよ。死んだのは可笑しかったわね。やっぱりねって感じ」
「イヤ可笑しくない! つかどうやって聞いたんだよ!」
会議中は勿論、会議が終わってからもシャルロッテとアドルフはずっと一緒にいたのだ。離れていたのはローマからヴァチカンに戻る10分程度で、その間にエゼキエーレを訊問して、更に殺されてしまったなんて考えられない。が、はっとした顔をしてアドルフはサイラスを見た。
「……旦那ですか」
「まぁな。言っておくが殺したのは私ではないぞ」
「まぁ、旦那が銃使うはずないしわかりますけど」
吸血鬼であることに誇りを持っている男が、人間の武器など使う筈がない。サイラスが犯人じゃないことに一応の安堵はしたが、その状況を聞いてみると、やっぱり全員が驚きと共に悶絶した。
シャルロッテからテレパシーで話を聞いて、そろそろパパも参戦しようとやってきた教皇庁。真っ先にエゼキエーレ枢機卿の元へ特攻をかける。当然のごとく瞬間移動で部屋に現れて、エゼキエーレを魔術で押さえつけて更に犬で威嚇する。
「内通者は貴様だな。目的は使徒座か? さぁ、素直に吐く事だ。殺されたくなければな」
「な、なにを! 貴様化け物のくせに、この私に言いがかりをつけるというのか!」
「この際化物かどうかなど関係なかろう。まぁお前が吐かなくともよいぞ。そうだな」
もったいぶって、やっぱりサイラスはニヤニヤ笑う。
「あの中性的なコールボーイ、彼との密事でもばらしてやろうか」
ゲイ専門派遣サービス「エンジェルプレイス」をよろしく。カトリックではよくあることだ。アメリカにいた頃なんか、神父によるレイプ事件なんて、殺人事件と同じくらいよく耳にするニュースだった。
「わっ、私は何も知らないぞ! そんな少年も知らない!」
「私は一言も少年だとは言っていないがなぁ」
余談ではあるが、神父による性犯罪における被害者は少年や子供が圧倒的に多い。何故普通の大人の女性を襲撃しないのか、聖職でないサイラスには甚だ疑問である。
サイラスは本当はその少年の事など何も知らない。ちょっとカマをかけてみたらまんまと引っかかった。引っかかったエゼキエーレが悪いのだ。サイラスはニヤニヤが止まらない。反してエゼキエーレは冷や汗が止まらない。
「彼の方は金を握らせたらあっさり認めたぞ? 司教枢機卿である貴様が少年趣味の男色好きなどとばらされたら、お前は使徒座どころか更迭だろうな。どの道お前は出世できんぞ」
たじろぐエゼキエーレを見据えて、少し語調を弱めて言った。
「なに、悪いようにはしない。素直に私に白状すれば、お前に火の粉が降りかからぬよう取り計らってやろうと言っているのだ。なにせ私は化け物だからな。何なら私が悪役になってやっても構わんのだぞ。私は自分の目的さえ達成できれば、手段などどうとでも構わんのだ。さぁ、どうする?」
化け物の脅威を目の前にちらつかせて、脅迫と甘言が繰り返されて、とうとうエゼキエーレは屈した。
教皇庁に潜入したテロリストは5人。やはりカンナヴァーロとガリバルディは内通している。目的は選挙の延期とカメルレンゴとフォンダート枢機卿の殺害、“神罰地上代行”の全権及びアマデウスの排除。勿論自分に疑いがかからぬよう、襲われて怪我をしたという演技も忘れてはいない。テロリストの目的は、観光客と教皇庁の人員を人身御供に使っての悪魔の降霊。正直テロリストの目的などエゼキエーレにはどうでもよく、体よく利用した後は“神罰地上代行”を使って組織を壊滅させ、その手柄をものにしようと目論んでいた。
「なるほどな。おおむね予想道理だったが、それだけでは完璧とは言えんな」
頭を抱えながら俯くエゼキエーレにニヤリと笑って言った。
「どうせなら私の方で大統領でも殺してやろう。イタリア政府には友人がいるから、それも容易い。テロ組織にも私の手の物を送り込み、組織の動向を内部から操作してやろう。それで奴らを裏切って混乱させれば、組織の壊滅は決定的だ。組織の上層を暗殺すれば、貴様の事も露呈せずに済むであろうからな。どうだ?」
それはエゼキエーレにしてみれば眉唾物の提案で、聊か迷っていたようだが「そうして欲しい」と言った。
「では、もう少し情報が欲しい。そのテロリストたちをこの部屋に呼べ。奴らから情報を引き出し殺した後、私の部下に奴らに成り代わってもらうとしよう」
「おぉ、それはいい。そうしよう」
そうしてテロリストがやってくる。部屋に入った途端に薄汚い笑いを浮かべるテロリストが5人、エゼキエーレの傍に立つサイラスを見て訝しんだ。
「エゼキエーレさん、そいつはなんだい?」
「喜びたまえ、彼は人間ではない。化け物だ」
途端にテロリストたちは喜んだ。
「ほう! そいつぁいい!」
「アンタもヴァチカンぶっ潰しに来たのかい?」
「まぁ似たようなものだ。ところでお前達、情報を寄越せ」
ニヤニヤと笑っていた口元が、ぐぱっと裂けていく。その亀裂は顎関節を超え喉を過ぎ、腹までもに到達していく。大きく口を開けた異形の化け物が一気呵成にテロリストに襲い掛かり、裂けた口元から覗く鋭い牙が二人を捕えて離さない。阿鼻叫喚すらも噛み砕き、人二人を丸呑みしたサイラスは、口元に滴る血を拭いもせずに瞑目した。
「あぁ……なるほどな、そうか。わかった。情報の提供に感謝する」
「ひっ、ひぃぃぃ!」
「なんで、なぜだ、ドアが開かない!」
エゼキエーレは腰を抜かしてガタガタと震え、テロリストたちは逃げ出そうとドアに向かったが、ドアノブが空回りするばかりで彼らを逃がさない。一応だが、テロリストたちが必死にドアに体当たりしているが、通常ドアは室内からは引いて開けるものである。その背後に忍び寄ると、残された3人は震えて涙を流しながら、サイラスに発砲した。が、銃など効くはずがない。銃弾が命中した場所を埃を払う様にはたいて、サイラスが笑った。
「あぁ、お前らは生かしておいてやる。良い事を教えてやろう。私はお前らの味方ではないし、ましてやヴァチカンに味方する理由はない。私がここにいるのは、単なる暇潰しだ。エゼキエーレ、あの男はな、お前らの勢力を散々に利用してしゃぶりつくした後、貴様ら全員一網打尽にして手柄を独占する気でいるのだ。当然貴様らも利用した後は殺す気だ。私としてはそれも非常に面白いが、私にはそんな事に興味はない。だが、ただ利用されるだけの犬に堕ちた貴様らは、実に憐れなものだな。お前らを殺せと言ったのは、エゼキエーレだ。私の一存ではない」
3人のテロリストに、恐怖と同時に戸惑いと怒りの色が窺えたことを確認して、教皇庁から姿を消した。
話を聞いて、真っ先にアマデウスが叫んだ。
「エゼキエーレ枢機卿が死んだの、兄様のせいじゃないか!」
「私はなーんにもしてはおらんぞ」
「いや旦那のせいでしょ!」
「最悪!」
「マジ旦那性格悪っ!」
「黙れ。おかげで邪魔者を排除できたことだし、テロリストの目的も作戦も勢力もすべての情報が手に入ったのだ。私は感謝されてもいいはずなのだがな。おかしいな」
「おかしいのはアンタだよ!」
「限度! 旦那、限度って言葉知ってますか!」
「私の辞書にそんな言葉はない」
男達は漏れなく「Jesus Kleist!」と頭を抱えていたが、シャルロッテはその様子がおかしかったので一人笑った。
「まぁいいじゃない。そんなことより……」
「そんな事で済ましてんじゃねーよ! この真性鬼畜親子!」
「まぁ素敵な響き」
「褒めてねーよバカ!」
「アディはうるさいわねー。それよりお父様、テロリストの事を話してください」
アドルフはまだギャーギャーうるさかったが、シャルロッテもサイラスも完全無視を決め込んだ。
「具体的な作戦はどう言う物だ?」
普通のキリスト教徒レベルのアドルフたちは未だにうるさいが、カトリック原理主義の筆頭とも呼べるカメルレンゴは「裏切り者とテロリストの殺害などどうでもいい」と言わんばかりに会話に参戦してきた(異教徒は死んでヨシが原理主義のスローガン。新約聖書にも似たような事が書いてある)。
カメルレンゴの質問には、笑ったサイラスが両手を開いて答えた。
「アマデウスを攫ったのはご愛嬌だ」
「ご愛嬌とはなんだ!」
やっぱり怒らせた。
「うるさい。話が進まんではないか」
と言われたので、人間の方が我慢して黙って聞くことにした。
「テロリストの最終目標は悪魔の降霊なのだが、その降霊に使われる対象者がお前達だ」
とサイラスが言って、人間たちに視線を向けた。
「俺達?」
とアドルフが眉を寄せた。
「聖職である我々を、悪魔憑きにする気か?」
カメルレンゴが苛立ちを抑えながら言って、サイラスが頷いた。
「そうだ。聖職のくせに悪魔に憑かれればそれはさぞ屈辱であろうし、何よりお前達を支配して動かすのはテロリストにすればさぞ気分が良かろう。特にカメルレンゴや枢機卿なんかは小僧たちに比べて権力もあるからな、そのお前らが悪魔に意識を奪われて「神なんてクソ喰らえだ」と言わされる。確かにそれは愉快そうだが」
言ってカメルレンゴを見ると、彼はサイラスを真っ直ぐに見て言った。
「悪魔の付け入る隙など、我々にはない。我々の信仰は揺るぎ無いものだ」
自信があった。わざわざヴァチカンでまで神事に尽力するような人間など皆狂信者だ。付け入る隙などないと思いたかったが――――。
アドルフが舌打ちした。
「そうか、その為の内通者ですか」
「そうだ。お前達を相互に疑心暗鬼にさせ、不安にさせ、悪魔の力と神の不在を知らしめるため」
実際に、内通者がいるという事でヴァチカン内は一気に疑惑に満ちた。ただテロリストのミスは、その非難を一身に浴びる対象がいるという事を知らなかった。アマデウスがいなければ相互に疑いをかけたりして混乱もしただろうが、残念ながら日頃から嫌われているアマデウスがいたためにその辺りは全部おじゃんだ。
「このままアマデウスは罪を被ったまま消えたことにした方がいいと思う」
アマデウスは気分が悪かろうがな、とアマデウスに笑いかけると、本当に嫌そうに溜息を吐く。
「まぁ、それでヴァチカンが結束するなら、いいけどさ」
その返事を聞いて、サイラスは嬉しそうにカメルレンゴを見た。
「コイツの身柄は私が預かるから安心しろ。心配せずとも逃がしたりはせん、コイツは大事な金づるだからな」
「ムカつく! それ言わなきゃいけなかった!?」
「言いたかった」
あぁ本当にこの兄弟は仲が悪いようだ、とカメルレンゴとバーデンは納得した。一息ついて、カメルレンゴが項垂れた。
「ただでさえ、ヴァチカンに寄せられる悪魔憑きの報告は毎年5万件を超えているのです。それをわざわざ呼び出そうなんて、イカれてる」
その悪魔憑き事件も大概は精神病だったりの誤解だが、たまには本物もいたりする。そう言う悪魔憑きを祓うのは教区司祭の仕事なのだが、その人員が“神罰地上代行”だ。アドルフたちは戦いが必要な実体系化け物専門の戦闘屋だが、実際に悪魔祓いをする司祭たちの数は年々減っているのが現状で、適した人材を育てる機関もあるしスカウトもするのだが、なかなかやりたがる人はいない。それほど悪魔と言うのは手強く、非常に疲れる相手だ。
「あなた達は、神を信じるか?」
問われて、サイラスとシャルロッテは頷いた。
「私達は化け物だから」
「故に神を信じる。神はラスボスだ」
サイラスの返事にカメルレンゴは小さく苦笑した。
「話が早くて助かる。私もそれなりに悪魔祓いは出来るが、父上の古い友人に一流のエクソシストがいる。彼はもう引退してしまったが、参考に話を聞かせて頂く」
「あぁ、それがいい。ついでに小僧たちも再教育してやれ」
「そうしよう。彼らは根本的に叩き直さねばならん」
カメルレンゴの言葉を聞いて、アドルフたちは「うげぇ」と顔を歪めた。
で、とサイラスが続けた。
「奴らがそんな面倒くさい事を思いついたのはな、実際に奴らの手の内に悪魔がいるようだ」
「悪魔憑きの人間がいるという事か?」
「そうだ。その人間に憑りついている悪魔の命令だという事だ」
アドルフが身を乗り出した。
「えっじゃぁ旦那、その人間と言うのは」
「そいつ自体は全くの無害だ。普段は花屋で働いている若い小娘」
「花屋……いいですね」
「男って花屋とか好きよね」
少しだけ妄想次元に旅立ったアドルフを、シャルロッテが白い視線をぶつけて現実に引き戻した。
「でもなんでそんな清楚っぽい子が?」
「彼氏がサタニストらしい」
「うわ、可哀想」
「でもしょうがねーよ。スイーツ(笑)に限ってDQNに引っかかってバカを見るんだから」
「あー。若い子ってマフィアとか好きだよな。あんなんただの社会不適合者なのに」
「若い女の子って夢見がちでバカだから、すぐ課長みたいなんに引っかかる」
「どーゆー意味だコラ」
ごほん、と咳払いをしてバーデンが与太話を中断させた。
「ではその女性に憑りついている悪魔が、今回のテロを指示したということですよね」
「そうだ。しかし事態はここまで発展してしまったから、彼女に憑りついた悪魔を祓っただけでは済まないだろう。その悪魔がいなくなっても、ここまでくれば勝手に動き出す」
言って、どこからかサイラスはヴァチカンの地図を取り出して広げた。ヴァチカン入り口から正面に広がる広場、その奥のサン・ピエトロ大聖堂、その奥の教皇庁。
「一般人が入れるのは広場と大聖堂だな?」
カメルレンゴが頷いた。
「ええ、それと教皇庁にも。許可された講堂などの限定だが」
「式典当日は?」
「当日は教皇庁への立ち入りは禁止だ」
「この、裏の区域や美術館などは?」
「普段なら規制はしないが、今回はこの事件の為に規制し、広場と大聖堂しか立ち入りを許可しない」
少し苦渋の表情をしたサイラスが顔を上げた。
「何故式典を中止しない?」
その問いにカメルレンゴは、強く睨むようにして言った。
「ヴァチカンは神に傅く聖なる館。たかが悪魔崇拝者如きに白旗を上げてなるものか。中止、それは神が屈したという事だ、それはただの逃避だ。それはまるで敗北主義者のようだ。そんな真似を信徒たる我々がしていいはずがない。我々は決して、神と神を信ずる者以外に、跪いたりはしない」
カメルレンゴの宣言に、サイラスはとても嬉しそうに満足そうにして頷いた。
「素晴らしい素晴らしい。それでこそ人間だ。素晴らしいぞ、カール・トバルカイン。気に入った。私は全面的にお前に協力しよう。私の事はサイラスと呼べ。なぁ事件が終わったら飲みに行こう。城に遊びに来ても良いぞ」
「……いかない」
突然お気に入りになってカメルレンゴは引いたが、サイラスは一旦盛り上がったら中々ブレーキが利かない。サイラス的には一方的にお友達が出来た気分だ。あれこれと熱烈な招待をするサイラスに、カメルレンゴは一応付き合ってあげる風を装って掌で静止した。
「まぁ宴会は事件が済んでからで。そのテロリストたちが行おうとしている降霊の魔術と言うのは、どういったものだ?」
サイラスも諦めたようで息を吐いて説明を始めた。
その魔術は悪魔が齎した物だった。用意される魔方陣は二つ。一つは大聖堂前広場と、もう一つは教皇庁。広場の魔方陣の方で観光客を生贄に使い、それによっておびき寄せた悪魔の軍団を教皇庁に降霊する。
当日は観光客の入国に関してはかなりの規制がかかる。何でもない時でも常にヴァチカンの前は警察がいて交通整理に勤しんでいるが、そのヴァチカンに入る唯一の道、和解の道はいつも大勢の人と馬車と車が常に渋滞していて大混雑だ。わざわざ人のごった返している和解の道を爆破して観光客を閉じ込める。
更に大聖堂を爆破し、そうすると逃げ道を失った観光客たちは広場に固まるしかなくなる。一塊になった数百人の生贄を使い悪魔を呼び出し、教皇庁の中に悪魔を引き入れる。信仰を失った者、懐疑的な者、大きな悩みや戸惑いを抱えている者、そう言った者達は聖職であれど悪魔に憑かれやすいから、そう言った人たちから順に侵略されていくのだろう。そして、テロリストの、悪魔の軍団のボスである悪魔が命令する――――命を以て信徒を斃せ、と。悪魔の最終目標はどこに至っても、対象者の命を奪うこと。ついでに他人を巻き添えに出来ればラッキーと言うわけだ。
しかし、例えその術式自体が成功したとして、それ程の人数を生贄にしたとしても降霊される場所がヴァチカンであることを考えると、完全なる成功は果たせないだろう。その辺りはテロリストもわかってはいるようだ。
「潜入していた5人の仕事は、教皇庁に魔方陣を構築することだ。今日の時点で半分以上完成しているようだから、人員を欠いたとしても後3日ある。捕まらなければ完成するだろう」
カメルレンゴが眉根を寄せて、地図を見ながら言った。
「しかし、教皇庁周辺で魔方陣の様な物や、妙な落書きすらも見た覚えはないぞ?」
「当然だ。ばれやすいような物で書くはずがない。テロリストたちが使ったのは無色のニスだ」
「……なるほど、それなら見えないし、雨でも流されることはないか。考えたな」
「ある程度場所は覚えている。地図に詳細を描いてやるから、部下を使ってシンナーでもぶちまけておけ」
「あぁ」
ただ、とサイラスが頬杖をついた。
「私がテロリストを殺してしまったからなぁ。邪魔者がいると報告がいっていると思うのだが」
「そうですよお父様、どうして3人を生かしておいたんです? 殺してしまえば良かったのに」
どうせならその方が良かったと人間たちも思ったが、サイラスは少し宙を仰ぐようにして答えた。
「うーん、やはりな。その方が一層盛り上がるだろうという誘惑には勝てなくてな」
「あーじゃぁしょうがないですねー」
最早ツッコむ元気もない人間たちである。先程から気になっていた横を見て、時計を見てサイラスたちに向いた。
「もう朝の6時。そろそろ教皇庁に戻って休んだ方がいいわ」
「あぁ、そうか。そんな時間か」
カメルレンゴも腕時計を見て、周りも伸びをし始めた。
「アディは早々と寝てるから、ホテルでも教皇庁でも、誰か連れてってね」
「……静かだと思ったら」
「私の話の最中に居眠りをするとは、この小僧はいい度胸だな」
やっぱりこの男は睡眠欲には勝てないらしく、途中から沈黙したと思ったらいつの間にかうつらうつらし始めて、座りながら眠っていた。それを見てエルンストが苦笑しながら、アレクサンドルと二人でアドルフを肩に担いで立ち上がらせた。
「あー課長はいつもッスよ。下手したら戦闘中にウトウトしてますから」
「そんなのでよく死ななかったな……」
「神のご加護じゃないっすか」
「こんな、聖職をバカにしたような奴でも神は守るのか」
つくづく神の懐の深さには感心させられる。半笑いのクリストフがぺちぺちとアドルフの頬を叩いた。
「まぁコイツは一応信仰してはいるから。おい起きろ」
目は開いていないが、何とか意識は覚醒したようで唸っている。
「ほら、ホテル連れてってやるから。お休み前のお祈りは?」
「んー……、きょうもいちにち、おまもりくださったかみよ、あすのひのでをたのしみに。あすもてんしをぼくのそばに、よよに」
笑いを堪えながらクリストフが「ガキの頃からの癖」と笑った。
「コイツの寝言は最高に面白いぞ。今度お嬢もやってみれば」
「是非今度夜這いをかけるわ!」
アドルフの寝言お休み前のお祈りが余程可笑しかったのか、バーデンもカメルレンゴも声を殺して爆笑した。
11 3/22司祭館
優しい掌が髪を撫でて、心地よい声色で。
「お休み前のお祈りをしようね」
「うん」
手を組んで目を瞑ると、一緒に声をそろえる。
「今日も一日お守りくださった神よ、明日の日の出を楽しみに」
彼女は少しだけ長く祈る。
「明日も天使をこの子の傍に、世々に。大天使ガブリエル、その羽根でこの子を抱いて、羽根の影で安らかな夢を」
彼女がそう祈ってくれるのがとても好きで。
彼女がその詩を気に入って、祈りを終えた彼女が満足そうに額にキスをするのがとてもとても好きで。
彼女が傍にいて、天使が見守る中で眠ることがとても幸せで、朝の日の出はきっと毎日美しいものだろうと。
そう言う毎日が当たり前に続いていくのだと、何の疑問も持たなかった。
「おかあさんのことも、まもってください!」
自分ばかり祈られるのが嫌でたまにそう言った。すると彼女は嬉しそうに微笑んで抱き寄せてくれた。
「お母さんはいいの。私の天使はここにいるわ」
いい匂い。
お母さんの匂い。
優しくて暖かい。
お母さんの感触。
世界で一番大事で、世界で一番近くて、世界で一番大切だった女の人。
もう既に、失ってしまった者。
彼女を失ったと同時に見失ったものもあったけど取り戻した。
失ったことはとても淋しいけど、とても悲しいけど、それでもどこか安らぎを覚えるのは。
きっと俺の傍にいるんだ。
そう思えるから。彼女の事だから。
幸せだ、と思う。思い出しかなくても。
思い出しかなくても幸せだと思える幸福は、彼女から齎された最後の愛だ。
だから、彼女に愛された身の上を誇りに思う。
自分に母親と言う人間が存在していたことを、神に感謝する。
思い出の中の母はとても美しい人で、ああきっと彼女が天使だったのだと。
明日も天使を俺の傍に。
アーメン。
目を覚ますと、至近距離で見ていた。
見た目は天使に匹敵するのに、中身が悪魔の化身のような女が。
「おはよう。どんな夢を見ていたの?」
朝日に照らされた悪女は、これでもかと可愛い顔をして微笑む。
とりあえず、寝起きドッキリで心室細動が起きそうなほど挙動不審な心臓を落ち着かせた。
「別に……いや、ていうかお前が驚かすから、忘れちまった」
「あら、残念」
残念。
なんだかとても幸せな夢を見ていた気がした。
目覚めてベッドから出て、顔を洗って歯を磨いて、とりあえず煙草とコーヒー。
シャルロッテはそれをじっと見ていた。
「なに? つかなんでお前ここいんの?」
「今日のスケジュールをお父様に通達するように言われたのよ」
本当はクリストフがいるからテレパシーで済ませられるが、就寝アドルフにちょっかいを出しに来ただけだ。
「今日はまず、カメルレンゴの紹介で例のエクソシスト、マルクス神父に会いに行くわ。時間が勿体ないから私の瞬間移動で連れて行くわね」
「えっローマにいないのか?」
「今はフィレンツェにいるそうなの」
「へぇ、そうなのか」
「そう。それと、それが終わったら大事なお話があるわ」
ぴた、とコーヒーに着けようとしていた手が止まった。
「なんの?」
「叔父様がカメルレンゴと取引をして自白したというのは聞いた?」
「聞いてはいねぇけど、まぁなんとなく」
何も話さないと約束しましたので、あなた方には何も語れません、とカメルレンゴが言ったから、何となくそうだろうと思っていた。
その取引で自白したという事は、アマデウスはその事を話したくないが為に自白するほどだ。余程の事なのだというのはわかる。
「何の話だ?」
「あなたが7割がた正解している話よ」
と言われても、アドルフにはピンとこなかった。
「なんだよ?」
「帰ってからのお楽しみ……いや、楽しくはないわね。あなた達にとっては、ちっとも」
「まぁ、愉快な話じゃなさそうだってのは予想つくけどよ」
ふとシャルロッテが隣に座って、アドルフのコーヒーカップを手に取って口に着けた。チビリと口に含むと、すぐに「うえ」と顔を歪めた。
「あぁやっぱりダメだわ都会はダメだわ。折角のコーヒーの味を水道水が邪魔してる」
「水道水が!? ていうかお前コーヒーとか飲めんの!?」
「まぁ、私達は一応自然発生した生き物だし? 自然の物は口にできるのよ。完全無農薬の野菜や狩猟で得た肉や川の水や清水はね。でも近頃はダメよー。どの食料品にも保存料だの香料だの入ってるし、それ以前に水にも色々混ざってて」
「あぁ化学製品はダメなのか」
「そうよ。だから近代の食品は全くと言っていいくらい口にできないわ」
昔はよかったわーと思い出に耽る。少し前まで食べられないものの方が少なかった。それなのに現代は、食べられるものを探すのも一苦労で、そんな面倒をするなら食べたくない。
「現代の食い物でも、食おうと思えば食えなくはない?」
「そうね。でも絶対イヤ。体が拒絶反応するし」
うえってなるのよ、と首を絞めてみせる。
「なんで自然に近いものは平気で、化学製品はダメ?」
「人間は排泄をするでしょう。私達はしないから」
吸血鬼は排泄をしない。体内に入れた物は即時エネルギー変換される。人間は排泄をし、余分な物や毒素を排出する機構があるから、化学製品を体内に入れても特に問題はない。だけど、全て余すことなく体内に吸収してしまう吸血鬼には大問題で、体内に毒が溜る一方だ。だから体が拒絶する。
「あーなるほどな。城の庭広いんだから、菜園でもやれば。城の裏に川あるし」
「えっそうなの? 知らなかった」
「あーお前引きこもりだもんな。多分探せば古井戸とか出て来るぞ」
「じゃぁ事件が終わったらお願いね?」
「は?」
「菜園」
「は? なんで俺が?」
「いいから」
「いやいいからじゃなくて」
「アディが頑張って作ったお野菜で出来た料理を食べて、あーん美味しいわすごいわアディって、私が喜んでるの見たくない?」
「いや、別に」
「私を喜ばせられる男って、多分只者じゃないわよ」
それは確かにある意味納得だが、だからって。
「いや、しねーし。俺暇じゃねーし」
反論するとシャルロッテはいつも通りに微笑んで、アドルフの髪を撫でる。
「多分暇になるわよ。この事件が済んだら“死刑執行人”は解体されるから」
「えっ!?」
驚いて目を剥いたアドルフに、やはりシャルロッテは優しく微笑んで、額にキスをした。
「大丈夫よ、天使が守ってくれるわ」
「待て、どういう……」
「私のすることを悪魔の所業だって恨んでもいいけれど、きっと立ち直ってね。それがあなたの為でもあるし、あなたの天使の為でもあるし」
「ちょっと待て、何言ってんだ」
「あなたの大事な人を守るために、あなたはすべきことを選択するのよ。本当に大事な人は誰か、考えて」
「待っ……」
待てと言っているのにシャルロッテは、言いたいことを一方的に言って消えてしまった。
11時になるころになってアドルフが教皇庁に到着し、カメルレンゴのオフィスに行くと、彼は既に朝から仕事をしていたらしく待っていた。後からクラウディオ達もやってきて、そのタイミングを見計らったかのようにシャルロッテもやってきた。
すると、シャルロッテの格好を見てカメルレンゴは突然怒り出した。
「あなた! 何ですかその格好は!」
装飾のないシンプルなデザインで、フレアスリーブでボディコンシャスなミニのワンピースに、ニーハイブーツから覗く絶対領域はサービス。
「何って、いつも通りだけど」
普段着には動きやすいミニがマスト。何より自分に似合っていて可愛い。
「ここでそう言った格好をしないでください! 目の毒です!」
「目の保養の間違いじゃなくって?」
カメルレンゴは溜息を吐くことで少し落ち着きを取り戻したらしい。
「禁欲主義者たちからは侮蔑の目で見られますよ。それ以外からはイヤらしい目で見られますよ。いいんですか?」
「どーでもいいわ。せいぜいムラムラして犯罪に手を出して更迭されてしまえばいいわ」
「あなたってひとは! 父上が嘆きます!」
「大丈夫よ。私昔っからこういう格好してたから」
昔はこんな格好をしている人はなかなかいなかったが、シャルロッテはあまり流行などは気にしない。気持ちの上では、常にTシャツにデニムの人と変わらない。何より昔は「女子が足を出すなんて言語道断」だったが、シャルロッテとしては「こんなに綺麗な足を見せないなんて罪悪」だ。
そんなことより。
「ホラ早く行くわよ。マルクス神父には連絡取ってあるんでしょ?」
「あぁ……まぁ、すぐに行くと言ってあるから……」
「じゃぁすぐ行きましょう」
と言うわけでいつも通り、シャルロッテの有無を言わさぬ強制連行で数日ぶりに戻ったフィレンツェ。引っ越してまだ2か月程度、シャルロッテはイマイチ場所が良くわからなかったので、知っているところに飛んでそこからカメルレンゴの案内でぞろぞろ歩く。
死刑執行人たちは一応、祭事用の紫色のストラをかけている。カメルレンゴはどこから見ても神父だが、死刑執行人はシルバーの縦ラインが入った戦闘服でストラなので、見れば見る程マフィアに見えてくる。そこにピチピチ美少女シャルロッテがいるものだから余計に、絶対趣旨に一貫性のない変な集団に見えてるわ、と思いながらやって来たのは、ボロボロになった司祭館。
錆びた門の内側には、その門と交換する前の古い門扉が壁に立てかけてある。壊れた石像が転がっていて、庭にある鉢には水がたまってオタマジャクシが泳いでいた。
こんな所に本当に、その伝説のエクソシストが住んでいるのかと、全員が訝ってカメルレンゴを見る。
「まぁ、変わった方なので。くれぐれも機嫌を損ねないように」
「よっぽど気難しいの?」
カメルレンゴは顎を撫でて、宙を仰ぐようにして言った。
「一言で言えば、異端ですね」
その言葉に一抹の不安を抱えながらも、門をくぐって中に入り、カメルレンゴがドアをノックした。すると、中からカタカタと音が聞こえて、しばらく待たされているとドアがカタンと音を立てた。しかし誰も出てこないが、代わりにドアに作りつけられた小さな出入り口から猫が出てきた。黒いぶち模様の猫でとっても美人だったので、思わず抱き上げた。
「このにゃんこがマルクス神父?」
「……違います。あれ、出かけてしまったのか?」
もう一度ノックをすると、また中からカタコト聞こえて、今度こそドアが開いた。
「待たせたの」
そう言って出てきたのは、禿げ上がって残された髪は真っ白でぼさぼさで、神父服を着崩した寝ぼけ眼の老人だった。
「マルクス神父ご無沙汰してます。寝てたんですか?」
「寝とった……すぐと言ってもこんなにすぐとは思わなんだから」
「はは、すみません」
再会の握手を交わし、彼がシャルロッテ達に視線を移したのに気付いて、アドルフが進み出た。
「お初にお目にかかります。ヴァチカン教皇庁教理省枢機卿直属対反キリスト教勢力及び魔物強……」
「長いわい。いいから早よう入れ。猫が入る」
アドルフの自己紹介を遮ったマルクス神父は、入ろうと隙を窺っている猫とフェイント合戦をしていた。シャルロッテの抱いていた猫は飼い猫だったらしく、連れて入ってもいいと言われたのでそのまま抱っこして連れて入った。自己紹介を中断されたアドルフは若干ショックを受けたようだったが、そのまま中に通されて少し驚く。
室内は雑然としていたが、雑然としているのはマリア像やキリスト像、十字架や聖典などが至る所に所蔵されていて、それ以外は生活に必要最低限の物しか置いていなかった。テレビなんて勿論なくて、テーブルの上には十字架と像を除けば燭台くらいのもので。普通は滅多に使用しないが、彼は頻繁に使用するのか、コートハンガーにかけてある紫色のストラが一番褪せていて、代わりに普通は一番使用頻度の高い緑色のストラは新品そのものだった。
ソファにどっかと腰を落ち着けたマルクス神父の対面にカメルレンゴが腰かけ、シャルロッテも座ることを許された(猫を抱いていたせいだ)。他は座る所がないので立たされた。
「ほんで、わしにエクソシスムの講義をしろと」
「はい。電話でも事情はお話ししましたが……」
「テロがなんとやら」
「はい」
瓶から栓を抜いたマルクス神父は、小気味良い音を立てて注がれた赤ワインをカメルレンゴに差し出し、自分では瓶のままグビグビ飲み始めた。
「悪魔に憑かれた女性はそのお嬢さんかね」
「いえ、彼女は違います」
「じゃぁなんじゃ」
「まぁ、協力者と言いますか」
「ふーん、まぁよかろ」
満足したのか口元を拭ったマルクス神父は酒瓶をテーブルに置いて、ふぅと息を吐く。
「エクソシスムのなんたるか……まぁ祈りじゃわなやっぱり。信仰と祈りこそが物を言う」
「相手は人間を動かす力量を持っている有力な悪魔の様なのです。有効な手段などは」
「んなモンないわい」
素気無く言って、マルクス神父はソファに背を預けた。それを見てイザイアが質問した。
「あの、マルクス神父はどのくらい悪魔祓いをしましたか?」
「さぁのう。2千回か3千回か、そのくらいかの」
「そんなに? 失敗したことありますか?」
「あるぞ……その度に信仰を棄てそうになる。祈りの最中に悪魔が対象者を殺すこともある、帰った対象者が自殺してしまう事もある、共に祈りを捧げる仲間が悪魔に殺されることもあれば、わし自身悪魔に憑りつかれて殺されかけた事もあった」
その度に幾度信仰を棄てそうになって、神に懇願して涙を流して、五里霧中の中悩みの森を歩いたか。
「例え悪魔がどんなものでも、こちらは強い信仰と強い意志がなければ太刀打ちできない。心の中に迷いや戸惑いがあれば、悪魔はすぐにそこに付け込んで、お前さんらのような若造はあっさり憑りつかれて殺されてしまうわ。迷いや疑いを持っていれば勝つことなど出来ん。信仰とその礎になるものを、お前さんらはハッキリと心に描けるか?」
問われて、幾人かは頷いたが幾人かは戸惑いを見せた。それを見届けたマルクス神父は、少しうざったそうに首を振った。
「せめて悪魔に対する時までには、信仰を盤石なものにするんじゃな。それが出来なさそうであれば、そ奴は悪魔に関わるな。悪魔の相手は本当に疲れる。突かれたくないところを突いてくるし、奴らはわしらの罪を知っている。心を読んで人の傷口を抉ってくるし、夢にまで現れて悪夢を見せおる……疲れるんじゃよ、とにかく」
悪魔の力によって人知を超えた力を持った対象者に殺されてしまう事もある。それ以上に悪魔が厄介なのは、精神的な負担が大きすぎることだ。トラウマをその場で暴かれて嘲笑されるし、悪魔を追い出すのは通常長期戦で、悩まされ続けて鬱になる司祭は後を絶たない。それを踏み越えて努力を続けても、悪魔が司祭の力を挫いて対象者を自殺に追い込むことだってあるから、その心にはいくつもの挫折と悔恨を抱える。それを抱える覚悟がなければ、いっそ関わらない方が身のためだ。
彼の顔に浮かぶのはほとんど疲労の色だったが、それがふと緩んだ。
「じゃがな、一番苦しいのは対象者じゃ。心の中に巣食った悪魔が、自分を侵食していく……その恐怖は体験した者にしかわからない。自分が自分でなくなって、自分を失っていく事はとても恐ろしい。自分でなくなった自分が、愛する者を非難し神を冒涜する。そんな勝手を、お前さんらは許しておけるかね?」
問われて彼らは、一様に首を横に振った。
それを見てふと、マルクス神父はカメルレンゴに向き直って言った。
「死刑執行人」
そう言われてカメルレンゴが返事をした。
「……はい」
「カールがそう呼ばれておったのは、もう随分前になるかの」
「えぇ」
「弟子か?」
「……と言うわけではありませんが」
シャルロッテもアドルフたちも少し驚いてカメルレンゴを見ていたが、マルクス神父は可笑しそうにした。
「まぁ、人が死ぬのを見ることに免疫があるなら、多少はイケそうじゃがな。要するに度胸がありゃなんとかなる」
「はぁ……」
「カールはまだ仕込み杖を使っとるのか?」
「いえ……」
「じゃが持っとるんじゃろ」
「まぁ……」
曖昧に返事をするカメルレンゴに、マルクス神父は不機嫌そうにした。
「なんじゃい、イライラするのう。ハッキリ答えんかい」
「……持ってます。が、私はもう引退しましたので」
渋々答えたカメルレンゴに、マルクス神父は愉快そうに喉を鳴らした。
「ビアンカ」
名前を呼ばれて、シャルロッテが抱いていた猫が腕から飛び出し、マルクス神父に駆け寄って行った。少し淋しく思ったが、神父に抱かれる猫は嬉しそうに頬ずりをする。
「人間の武器は本来物質じゃぁないが、それが支えになることもあるからの。その杖を、その銃を、その武器を作って持たせた人間の想いと言う物も、信仰の糧になることはある。人間の武器は本来、愛情であり、信頼であり、友情であり、使命でもある。カール、お前さんの杖はただ斃す為に持つ物か?」
「いいえ、護るために持つ物です」
満足そうに神父が頷いた。
「そうじゃ、お前さんはそれが信仰の礎になる」
頷いた神父がエルンストを見た。
「お前さんは何のために武器を持つ?」
エルンストは子供の頃から狙撃が得意で、だから仕事も狙撃で後方支援に回ることが多い。離れたところから仲間を見守って、仲間を支える影の鷹の目。仲間の障害を確実に打ち倒す――――いつしか魔弾の射手と呼ばれたのは、たまたま姓がウェーヴァーだったからクリストフがあだ名を付けた。
問われて、しばらく考えたエルンストは顔を上げた。
「俺は、仕事の大半が援護なので……友の為に。みんなが安心して前進できるように」
「援護か。その為の武器を作ったのは誰じゃ?」
エルンストがレオナートを指さした。
「レオです。照準器とかも、俺に合わせて改良してくれて。みんなのも、武器の希望はレオに言って改造してもらうんです」
「そうか」
「はい」
「仲間に合わせて、ソイツの為の武器を作るというのは、ソイツの事をちゃんとわかっておる奴じゃなきゃ、なかなか難しいじゃろうな。仲間の事、武器の事、敵の事を見定める事は、まぁ地味じゃが。裏方は居らんと困るじゃろうな」
「そーなんすよ。エルンストが同行してない時って、スゲェ不安で!」
「銃の補給も整備もレオ任せだしな、いないとマジで困るよな」
クラウディオ達が言って、二人は恥ずかしそうに笑うので、神父は「そうじゃろうな」とからかうように笑った。満足そうにしたマルクス神父は、イザイアに向いた。
「お前さんは?」
「俺は……わかんない、です」
ほう、と神父は髪をわしゃわしゃと撫でて、酒を飲んで熱くなったのか掌で顔を仰いでいる。
「では何故武器を取る? それが仕事だから?」
「かもしんないです……でも」
イザイアは俯きながら、スーツの裾を握った。
「みんなに、追いつきたい。俺、いつもミスばっかで、みんなに比べたらキャリアも全然なくて。この前も撃たれたし、あの時課長が助けてくれなかったら死んでた。あのね、課長はすごいんですよ。俺が撃たれて転んでる間に、俺撃った奴も他の奴も全員倒しちゃってて、二挺拳銃で銃捌きも早くて、死角にいても隠れてても課長には関係なくて、ウソみたいにカッコよくて。なのに俺はいつもそんなんで、みんなにフォローされてなきゃ全然で。いっつも守ってもらってばっかで情けなくて、だから俺」
イザイアが顔を上げた。
「強くなりたいんです。課長みたいになりたいんです。課長みたいに、みんなを守れるように」
それを聞いたマルクス神父は、大きなげっぷをした。
「はっは、ガキんちょが小便臭い事を言いおるなぁ」
アンタのゲップも臭いんじゃ、と言う反論は息を止めているのでできない。マルクス神父は徐々に顔色を悪くするイザイアを見て笑った。
「お前さん、エクソシストの才能あるな。良い魂を持っておる」
「えっ?」
思わず顔を上げたイザイアに神父が言った。
「仲間に大事にされて育ったんじゃな。いい仲間を持ったな」
「はいっ」
イザイアは一人だけ年が離れていて、だからたまに仲間外れのような気分になることもあったがそれ以上に、みんなとても可愛がって優しくしてくれた。アドルフとクリストフが先頭を切って、荒れた道を切り開いていく。クラウディオ達はその道を綺麗に均して、どんどん先に歩いていく。イザイアはその後をひたすら追いかけて、たまに躓いて転んでしまう事もある。だけどそんな時みんなは立ち止まって、オリヴァーとフレデリックが手を引いて立ち上がらせてくれる。そうしてまたみんなで歩き出す。いつか先頭の二人に追いつけるように、いつか隣に並んで、ひたすら前だけを見ている二人が、たまに横を見てくれるように。イザイアにはそんな人生がとても愛しくて、それがとても、幸せで。
「強くなりたい、それも結構。男ならそう思うのが当然じゃろうて。じゃがお前さんのいいところは、自分が守られていることをきちんとわかっておる所じゃ。その事を理解して仲間に感謝している。感謝を忘れないこと、それは簡単そうに見えて、実は難しい事でな。それが出来るお前さんは、いい男になるぞ」
それを聞いてイザイアは不覚にも、少し目が潤んだ。それに気付いたのか、神父は愉快そうにした。
「男の割に純粋すぎるのは玉に瑕じゃが、案外お前さんの様な奴は悪魔にしてみりゃ一番厄介じゃ。その魂を大事にせぇ」
「はい!」
嬉しそうにイザイアが返事をして、隣にいたフレデリックとオリヴァーが笑ってからかうように背中を叩くと、イザイアは少し恥ずかしそうに笑った。
その様子にシャルロッテは青臭いわねーと思ったが、こういう男の集団は青臭いかバカのどちらか、若しくは両方だ。それも案外、嫌いではなかった。
「ほんで、ガキんちょの憧れる課長さんは?」
「それが義務で、仕事だからです」
アドルフは即答した。
「勿論、仲間の為とか自分の為とか、色々理由はあります。しかし、私は完全に仕事を遂行しなければならないし、一切のミスは許されません。命に関わるからと言うのもありますが、それ以上にそれが私の義務だからです」
神父は考え込むような顔をしながら、猫を撫でた。猫は嬉しそうに喉を鳴らしている。
「お前さんの義務とは?」
「優秀であること、有能であることです。ヴァチカンの中の誰よりも、私は秀でていなければなりません」
「誰の為に?」
「自分の為です」
神父は突然笑い出して、驚いた猫が膝から飛び出していった。
「あぁ可笑しいのう! 同じセリフを昔聞いた!」
「え?」
「あっはっは、あーおっかし! わかったわかった」
「な、なにがですか」
マルクス神父があまりにも笑うので、なんだかアドルフは怖くなって恐る恐る返事をした。すると神父は落ち着いたようで言った。
「仕事ができる、頭がいい、誰からも賞賛される才能を磨いて、誰にも文句は言わせない。お前さんはそう思っとるんじゃな」
正しくその通りだった。文句を言われているのは運命だ。だから力量に文句を言わせたくなかった。その為に。
「……何故、そう思われるんです?」
「お前さん達、親は?」
「いません」
「ウソを吐け」
「……育ての親が、父親が、います」
「その親父の為にじゃろ。世の中にはどうしたって、生まれの為に文句を言われる奴はおってな。ソイツを育てた人間がいい奴であればあるほど、ソイツ自身は苦悩する。いい子にしていても文句を言われるから、大概の奴はそれに負けて悪い奴になる。じゃが、お前さんと同じ事を言って、育ての親の為に努力し続けて、仕舞には誰も文句を言えない地位にまで上り詰めちまった奴を知ってるぞ」
「そうなんですか……私もそうなれればいいんですが」
「そりゃお前さん次第じゃが、まぁ身近にそのお手本がおるからな。お手本をよく見て参考にせぇ」
とマルクス神父が笑いかけたのは、カメルレンゴだった。そのカメルレンゴは不機嫌そうだ。
「あぁ、彼らはダメですよ完全に破戒僧ですから。イリーガルな仕事は出来ても、それ以外が全くなってないんです。これから叩き直すところで」
「カール、お前は正道を行く。彼らは邪道を行く。そんだけの違いじゃろ。ちっとくらい認めてやれ」
「ダメです」
「頑固じゃのぅ」
それを聞いて、ようやく理解した。カメルレンゴが彼らを嫌う理由。
――――そうか、カメルレンゴは教皇の養子だ。
理由も身の上も知らない、だがきっと同じなのだ。だからカメルレンゴはアドルフと同じ事を言って、本当に誰も文句を言えない人間になった。努力し続けてきたからこそ、同じ身の上でありながら勝手をするアドルフたちが許せないのだ。
本当に頑固で、だけど真っ直ぐな人だ。
彼はきっと理想主義者で、言ってみればロマンチストで。
父親がだいすきで。
あぁなんだ、同じじゃないか。
そうは思っても「カメルレンゴを見習って頑張ります」なんて口が裂けても言わないが。
「あなた方はこれからビシバシ鍛え直しますから、覚悟なさい」
というお叱りに、「はい」と笑って返した。
その返答にカメルレンゴは、気味が悪そうにした。
12 3/22嫌われ者達の告白
本来は聖職者なので許されないはずだったが、アマデウスが許可を下したためにみんなで遊びほうけていた。アマデウスが好きにしても構わないと言った理由は最初はわからなかった。アマデウスはその理由を言わないし、アドルフも聞かない。エルンストやフレデリックなんかは理由を尋ねていたが、アマデウスの事だから真実を伝えることはないだろう。
ずっと、何か重大な事を隠しているのは知っているから、今更秘密が一つくらい増えたって大したことはない。恐らくアマデウスは、自分を含めアドルフもクリストフもみんな、“死刑執行人”が解散してしまった時の事を考えて、そう言ったのだろうと仮定した。
聖職者と言うのは特別な職だから、実際問題社会に出れば他の職で役立つことなど全くない。だからアマデウスが学ばせたものは聖職とは全く違う事ばかりで、仮に聖職から離れることになっても、例えばオリヴァーならIT企業で働けるだろうし、クラウディオは工業系ならどこでも働ける。アドルフやクリストフなんかは、銃の扱いや戦闘に長けているから軍人でもいいし、それ以外にもマルチリンガルなので翻訳も出来るだろう。二人は官職についていたし、指揮や武器の手配もしていたから、公務員だって商社だって働ける。子供の頃は勉強ばっかりで、10歳を過ぎたら戦闘訓練に明け暮れた。文武両道と言えば聞こえはいいが、そのどちらも人並み以上でなければならない理由が存在した。
彼らはヴァチカンでは疎んじられていた。若い世代はそうでもないが、高位の者達からはとくに。だから彼らは人よりも優れていなければならなかった。人よりも劣って、陥れられたり辱められたりすることがあってはならなかった。自分から卑屈にならずに済むようにそれぞれ才能を磨いておけば、誰も文句を言わないし言えないし、言わせる気などなかった。ただ吸血鬼のアマデウスが育てているというだけの理由で、迫害されることに甘んじる気は一切なかったから、境遇に難があってもそれ以外の人格や才能が人より優れていれば、アマデウスや自分自身を嫌いにならずに済む。そうしてアドルフもみんなも努力を重ねてきたから、それでも彼らに難癖をつけて、しまいには人格まで攻撃しだす人間なんかは、かえってその者の方が人として劣っているように見えてきた。今更怒るのも面倒くさくなってクリストフなんかは嘲笑すらしたし、アレクサンドルは憐れんでいたくらいだ。笑ってごまかして適当にその場しのぎをして、聞きたくない言葉は聞こえなくなるという技術も体得できたので、それはそれで良かったとすら思っている。結局文句を言ってくる人間たちはアドルフ達にとって大事な人間ではないから、傷つけられる理由もなければ素直に怒ってやる義理もないので、感情を消費してやるに値しなかった。感情の消費量を自分で調節できるようになったのはまだ子供の頃だったが、我ながら可愛気のない人間に育ったとクリストフと自嘲した。
自分達が疎んじられる理由はアマデウスがヴァチカンにおいて異質だという事もあるが、アドルフたち自身にも何かあるような気はする。だけどその理由をアマデウスは一切語らないし、アドルフも聞きたくないから尋ねない。聞いてしまったら恐らく後悔することになると、なんとなくわかる。
アマデウスはウソつきだし、人間ではないし、ところどころ狡いと思う。だけどそれらは、自分達が愛されているが故と言う事もわかっているから、アマデウスを困らせるような質問はしないことにしている。兄弟のように育った仲間たち、父親の様に育ててくれたアマデウス。家族を失いたくないから、みんな何かしら質問を避けて相互に接触しない部分を持っている。
それで安穏と暮らしていけるならいいのだが、たまにそれで本当にいいのかとも思う。彼らは本当の家族と言う物を知らないから確証はないが、本当の家族と言う物は秘密を隠したまま一生傍にいていいのだろうかと疑問に思う事はある。彼らにとって相手に対し秘密を持つことは思いやりでもあるが、虚偽の偶像を愛することは家族としては誤りなのではないかと感じる。
だからいつか真実をアマデウスから直接話してくれるのを待っているのだが、どうやら彼は一生話す気はないらしい。アマデウスは勿論クリストフや誰かに聞いてみようと考えたこともあったが、その事も誰にも話したことはない。とりあえず直接殺害に手を下した者くらいは復讐を遂げようかとは思うが、そうすることでアマデウスや友人が迷惑すると考えると、未だ実行に移す気にもなれないし、何より実行犯の手掛かりがようとして知れなかった。
家族が殺されて自分だけがヴァチカンに連れてこられた。ならば目的は最初から自分にあったのだと仮定した。だとすればやはり、昔からこの国に根付いているマフィアの存在が浮かんでくる。未だに人を攫って人身売買をしている組織なんてザラにある。
最初はその組織が子供を攫って、アマデウスが組織から自分達を買い入れたのだろうと思っていた。だがよく考えてみると、アドルフもクリストフもイザイア達もみんな、アマデウスの姿を認識できる。アマデウスがヴァチカンにいる間は、その聖域の力の為に誰の目にも認識できたが、本来アマデウスは霊力や魔力を持つ人間にしか認識できないはずだった。
自分達には全員、何らかの力が備わっている。アマデウスは力を持つ人間を選別して買い入れたのか――――否。それは間違った推理だとすぐに気付く。アドルフやクリストフなら選別のしようもあった。あの時二人とも5歳だったが、オリヴァー達は1歳にも満たなかった。その年齢でどのように力を持っているか選別する手段があるのか。
それだけがずっとわからなくて、でも一つだけ思いついた可能性――――両親。
両親、若しくは片方だけでも力を持っていると判別できれば、その子供も力が遺伝している可能性はある。その可能性に行きついたと同時にはじき出される結果は、「アマデウスの命令によって両親が殺害された」という事に他ならない。
何故殺害しなければならなかったのか、何故自分達を必要としたのか、その理由は全く分からない。クリストフの兄は殺害されたのに、彼だけは生かされた。レオナートの妹は殺害されたのに、彼だけは生かされた。
どうして。
どうして?
わからないことだらけで、だけど既に分かりきっていることが一つだけ。
本当の事を知ってもきっと、自分はアマデウスを嫌いになれないと思うし、嫌いになりたくない。真実はアドルフが予想しているよりも残酷かもしれないが、アマデウスの命令で自分の両親が殺されたことも数年前に気付いたし、それを知っても尚彼を敬愛する感情に変化はない。
子供の頃に両親の復讐を誓ったものの、アマデウスが両親の仇だと気付いた頃には既に、アマデウスは両親以上に親になっていた。アマデウスが自分達に真心を持って愛してくれた十数年間を振り返ると、彼の贖罪は十分に果たされていると思えた。
「アディの推理は7割正解よ。聞きたくもないでしょうけど、聞いてもらわなきゃ困るの。あなた達を無闇に傷付けることになっても、悪いけど知ったことじゃないわ」
シャルロッテが言った。
「お前が言おうとしていることは、俺達の出生と、ヴァチカンに来た理由なんだな」
「お嬢様、言わないって言ったじゃないですか!」
クララが今にも泣きそうな顔をして、シャルロッテに縋った。教皇、カメルレンゴ、アマデウス、サイラス、シャルロッテと死刑執行人。必要な人は全員集めて、カメルレンゴとアマデウスの協定なんて潰してやろうと考えた。
「いいえ。あぁ、内容はそうよ。だけど話すのは私じゃないわ」
縋り付くクララを離すとそっと小さな手を引いて、クレメンス16世の前へ連れて行った。
「クララはね、あなたと同じ瞳の色をしているでしょう?」
それは、疑似的な。
「あなたと子供を作った気になりたかったの」
「子供がいれば、君も淋しい思いをせずに済んだかもしれないね」
微笑んだクレメンス16世が、クララの頭を優しく撫でた。
「可愛い子だね」
「私みたいにとびっきり可愛くて、ファウストみたいに優しい子なの。アディやクリス達の為に泣けちゃうくらいに」
「お嬢様……」
クララは喜んでいいのかどうしたらいいのか、戸惑うばかりでシャルロッテを見上げていた。
後ろからクララを抱きしめて、今度はカメルレンゴに振り返った。
「カール」
「……なんでしょう」
「教皇がファウストだって知って、改めてあなたの名前を見た時、私は涙が出る程嬉しかったわ」
シャルロッテも最初は気付かなかったが、後で気づいた。会って確信した。写真ではわからなかった、眼鏡の奥の琥珀色の瞳、優しさの残る面影。何より、シャルロッテと再会した時の、驚きと感慨に満ちた表情は、かつて愛した恋人の物に他ならなかった。
カメルレンゴが、ハッとした顔をした。
「……私の、名前は……」
クレメンス16世が優しく笑った。
「そうだよ、ロッテを忘れられなくて、彼女から名前を貰ったんだ」
カメルレンゴの名前、カール・トバルカイン。カールと言う名は、“シャルロッテ”のドイツ系男性名。裏切ったまま、その裏切りを償う為に神事に尽くしてきた。ずっと忘れられなかった、忘れてはいけないと思っていた――――シャルロッテ――――だから、その名を養子にした息子につけた。
「カール、私の息子よ」
クレメンス16世に改めて呼ばれて、カメルレンゴは少しだけ姿勢を正した。
「私がお前を引き取った理由は、お前には話したね」
「はい」
「では、その者達にも話すがよい。お前の事も彼らの事も全て。お前が話さないのであれば」
そう言ってクレメンス16世がシャルロッテを見るので、視線を合わせてカメルレンゴに悪戯っぽい笑みを向けた。
「私が話して、あなたの脅迫もぜーんぶ台無しにしちゃうけど、いいかしら?」
カメルレンゴはその言葉に戸惑ったが、アドルフがシャルロッテを訝しげに見た。
「待て。なんでお前が知ってるんだ?」
さぁ、と適当に相槌を打つと、「やめてくれ!」とアマデウスが叫んだ。
「頼むから、言わないで。カール、ロッテ、お願いだから、言わないでほしいんだ。別に、このまま、僕は死んだって構わないから……聖下、どうか……」
嘆願するアマデウスに、クレメンス16世は首を横に振った。
「悪いが、ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿とカールとの盟約よりも、私とロッテの盟約の方が優先だ」
「盟約?」
アドルフは聞く気でいるのか、アマデウスを抑えるようにして割り込んだ。
「大事な事なの。でもあなた達にとっては、聞きたくもない話だわ。だけどあなた達が聞けば、叔父様は生きることを許される。叔父様はカールとそう言う約束をしたのよ。あなた達は、叔父様に生きていてほしい?」
「……当たり前、だろ」
「では、聞く覚悟はある?」
「……正直、ある程度の予想はしてる」
「そう。みんなは?」
クリストフは何となく予想はついたようだったが、クラウディオ達はわからないようで、戸惑いを隠しきれない様子だった。それを見渡して、一点で目を止めた。
「レオ」
「……なに?」
「あなたの妹が殺されたのはね、教皇庁に女は必要ないから。ただそれだけの理由よ」
レオナートは目を見開いて、驚愕のあまり言葉を失ってしまった。
「可哀想にね。あなたまだ幼かったのに、一生懸命妹を守ろうとしてた。それなのに引き離されて、妹だけが殺された。これから聞く話は、そう言う話。どう? 聞きたい?」
微笑みかけるシャルロッテに注がれる物は、明らかに憎悪の含まれた視線で。
そんな話は聞きたくないと。
聞きたくもなかったと。
忘れていたかったのにと。
早々と彼らには嫌われてしまったようで、シャルロッテは笑うしかない。
「聞くの聞かないの、どっち?」
「そんな話、聞く必要ないだろ!」
激昂したフレデリックが銃を向けてきたが、それを止めたのはアドルフだった。
「やめろ。聞かなきゃ猊下を死なせるって、ロッテは言ってんだよ」
その言葉にフレデリックは苦渋の表情をして銃を下ろしたが、一層シャルロッテには憎しみが寄せられた。とりあえずシャルロッテ的には、アドルフの言葉はナイスフォローだったのでにっこりと笑っておいた。
殺伐とした病室の様子に戸惑っていたカメルレンゴを見上げた。
「さぁ、準備は万端よ。どうぞ?」
そう言って、カメルレンゴにアマデウスのオフィスで見つけた書類を放り投げた。それを見てカメルレンゴは顔色を変えてシャルロッテを睨んだが、シャルロッテは笑って返した。
「ほら、早く言いなさいよ。私の名前を受け継いだ、私のボウヤ。こっちのボウヤ達の遺伝のなんたるか、受け継がれる物を証明する証拠はここにあるわ。あなた本当はわかってるんでしょ? 自分がそうだから、叔父様がひた隠しにしてきた秘密を知られても、アディ達もあなたの様に在るであろうと。そう考えたから叔父様に取引を持ちかけた。そうでしょ? 本当は話す気だったんでしょ? ただそれが今じゃないというだけで。そうでしょ?」
カメルレンゴは書類の束を握り潰して、奥歯を噛みしめた。
「あなたと言う人は……!」
「全てが終わってから大団円なんて迎えられないの。今やらなきゃダメなのよ。叔父様に命を助けてもらった恩返し、したいんでしょ? 本当はこの事件が片付いてから全てを話して、ファウストに懇願して叔父様をヴァチカンから解放してあげたかったんでしょ? そうよね? だけどそうは問屋が卸さないのよ。ごめんなさいね?」
そう言ってシャルロッテが嘲笑した瞬間に、しゃんっと金の輪の音が響いて、クララの顔の横を掠めた。羊飼いの杖、金の装飾が施された杖から抜かれた剣が真っ直ぐに、シャルロッテの胸を突き刺していた。
「お嬢様!」
「ロッテ!」
すぐにクララが振り返って見ると、じわじわと血が服に浸透していて、その剣先が心臓を貫いていることに気付いた。それを見て、シャルロッテは口元から血を吐き出しながら笑った。
「とってもイイ剣筋だわ。引退しちゃったなんて勿体ないわねぇ。心臓を突かれたのは久しぶり。だけどゴメンねカール」
剣を握って、シャルロッテはずぶりと自ら引き抜いて笑った。
「私、一回死んだくらいじゃ死ねないの。なんてことないわ、あと何千回か、何万回か。頑張ってみる?」
「化け物が!」
「カメルレンゴ!」
40代の男性とは思えない、信じられない速さでフェンシングの突きを繰り出そうとするカメルレンゴに、慌ててアドルフが掴み掛って止めに入った。
「やめてください!」
「離しなさい!」
「やめろと言っているんです! 俺は、あなたの話を聞きたい!」
縋るようにアドルフがそう言って、カメルレンゴは抵抗を緩めた。それを見てアドルフも、掴んでいた手を離した。
「お願いです、カメルレンゴ、アマデウス様。本当の事を、教えてください。もう、ウソはうんざりだ」
アドルフはどこか泣きそうな顔をして、アマデウスの前に膝をつき、手を取ってキスをした。
「覚悟は、しているんです。だって、今更でしょう? 俺は、あなたを愛しています。あなたを父として愛しています。だから、あなたと本当の家族になりたい。隠し事は、もうやめにしませんか?」
その言葉にアマデウスは大粒の涙を流して、その場に泣き崩れてアドルフを抱きしめた。
「ゴメン、ゴメンね、アディ。お前が、気付いてるのわかってたけど……でも」
「俺だけ知ってても意味ないでしょう? みんな、驚くとは思います。でも、今更あなたを嫌いになれそうにありません」
「でもっ、お前はお母さんのこと、すごく大事に思ってる……」
「母の思い出はとても大事です。ですがアマデウス様は――――あなたは、俺の父親です」
アドルフも腕を回して、あやすようにアマデウスを抱きしめた。アドルフがカメルレンゴに視線を移して促すように頷くと、観念したらしく座りなおして書類を広げた。
シャルロッテは相変わらずニコニコしていたが、相変わらず死刑執行人から睨まれていて、落ち着かない様子のクララがずっと手を握って、ずっと沈黙していたと思ったらサイラスはものすごく不機嫌だ。一応サイラスのご機嫌取りをしておこうと思って、傍に寄って腕を組んで立つと「心配するな」と言いたげに溜息を吐いた。
深く深呼吸をして、深く溜息を吐いて、カメルレンゴが語り始めた。
「君たちは、“パヴァリア啓明結社”という組織を知っていますか?」
パヴァリア啓明結社とは、急進的な社会改革思想を持ち、徹底した自由と平等を唱え、反キリスト教、反王制を唱え、一種のアナーキズムを主張した。そして、原始共産主義的な共和制国家の樹立を主張した、今から約300年前に結成された秘密結社である。
ある種、オカルティズムの筆頭として名を馳せているこの秘密結社だが、当時は当たり前であった教会と王族の支配から人民を解放し、人民たちが人民の手によって国家を樹立することを望んでおり、その為に血なまぐさいことをするような組織ではなかった。
この結社は創立当初においては、そんなに過激な結社だったわけではない。また、初期においては政治的な色彩も薄かった。創立時においては、学者の知的サークル的な色彩が強かったのである。
この結社の本来の在り様は平和的な物であったが、科学と学術、共産主義的共和制国家への啓蒙と言うのは、教会と王族にとっては危険思想に他ならなかったし、何よりも創設者の意図に反して組織が暴走した。その為にこの結社はたったの10年で没落してしまうのだが、色んな意味で名前を売ってしまったが為に、同じ名前を名乗る秘密結社――――模倣犯の様なテロ組織まで現れ出した。
現代においては悪名にすらなってしまったが、その組織の創設当初の思想を受け継ぎ、自由な学問と科学を追求し続けた残党がいた。
「正確には残党の残党と言ったところです。それが私の両親であり、あなた方の両親」
「えっ!? ウソでしょ!?」
「いいえ、事実です。“悪魔崇拝の政治的陰謀結社”、教会からはそうレッテルを張られている組織のリーダーが、私の父。今から30年程前ですか、残党は教会から攻撃を受けてほぼ壊滅しました。ちなみにその時の指揮を執っていたのはザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿――――あぁ、当時は大司教でしたね。30年前の事件から逃れた残党を狩ったのは、20年前の私です」
カトリック教会はパヴァリア啓明結社の存在を許しはしなかった。神のもたらした物質を変化させる科学を嫌い、人類は全て平等であるという思想を嫌った教会にしてみれば、許し難かった。残党たちはあくまで創設当初の思想を受け継いでいたので、決して政府や教会にとって脅威を齎す存在ではなかったが、絶対的に潰してしまわなければならない理由が浮上してきたのだ。
その理由となったのが、カメルレンゴの父で残党のリーダーを務めていたヨハン・ツヴァイク・カラヤンが、この結社の創設当時のメンバーの末裔であり、また高名な科学者であったことも原因だった。当時拠点としていたのはオーストリアで、彼自身大学で教鞭をとるほどのインテリだった。その中での学閥、人種的政治的宗教的な差別が、学問の舎の中にまで持ち込まれていることを大いに嫌った。オーストリアやハンガリーは国を挙げてジプシーを批判していることもあり、そう言った紛争や内乱は東欧では頻発しており、それもまたツヴァイク教授の嫌うところであった。
同志を集め、創設時と同様に結成された同名の組織は「共同平等協和的な思想を育て、その思想者を政府や教会、大学に送り込み徐々に懐柔し、内側から数十年かけてゆっくりと改革を行う」という、あくまで創設者の意志を汲んだものだった。
しかし結局は、パヴァリア啓明結社――――イルミナティは暴走する。極論すれば、ツヴァイク教授の思想には「バカが上に立ってはいけない」という物に発展してしまって、結社は「人工的人類進化」を理想とした科学的検証を目指すようになる。科学とカバラなどの魔術を融合し、人体実験を行うようになった。そうして精製した薬物をメンバーの夫婦者に投与し、その細胞から優性の物を摘出して人工授精し、肉体的にも頭脳的にも、一般より優れた人種を作り出そうと試みた。
「そうして人工的に作り出された、プロトタイプの第1号が私です。生まれながらに魔力を持ち、子供の頃から人より多くのことが出来ました。私と言う成功例を得て父は、本格的に実験に移行した」
「教授は、自分の子供にも人体実験をしていたんですか!?」
「ええそうですよ。そこまでの事をしてしまったから、教会に目を付けられることになった。人間が人間を作るなんて、許されるのは母親だけ。人工的に人類を作り出すなんて神の領域ですから」
驚きのあまり、まともに相槌も打てないでいる彼らを見渡して、カメルレンゴは息を吐いた。
「いつだって、神の領域に手を出そうとした者は堕天するのです。神話のイカロスも、人間に知恵を齎した“グリゴリ”も」
グリゴリとは聖書の偽典に登場する天使で、元々は人間を監視する為に遣わされた天使だった。だがグリゴリ達は人間の娘を娶って、一人残らず人間界で放蕩し、その知識を人類に振り撒いてしまった。それに怒った神はグリゴリを堕天させ悪魔に貶める。悪魔となったグリゴリ達は腹いせに人間界にやってきては人間に悪魔の子種を孕ませ、また科学や魔術を人間界に齎し、不要な知恵を付けた人間界を混乱に陥れようとした。
「父達からはグリゴリと呼ばれていました。天使の意味なのか悪魔の意味なのか、今となってはもうわかりませんが。グリゴリとは“監視者”を指すものですから、人間界を監視する役割を担って作り出された一人目が私」
それを聞いて、アドルフの脳裏に浮かんだもの。
――――愛してるわガブリエル。私の天使。
あぁもしかして。
あれはもしかして。
両親も結社の残党だったのならば、「人工的に作り出された天使」と言う意味だったんじゃないか。
そう言う発想に至った瞬間、目の前がグラリと傾いた気がした。天地が反転するような、享けていた母の愛が、自分の期待を裏切ったかのような。
動揺するアドルフたちの様子を気にしながらも、カメルレンゴは続けた。
「教会に結社と私の存在が発覚し、ザイン・ヴィトゲンシュタイン大司教の指揮で研究所は襲撃されました。その時は私はまだ12歳でしたから研究には携わっていませんでしたが、当然処分される予定だったのでしょう。深夜でしたし寝ていましたし、私にはあの時何が起きたのかわかりませんでした」
研究所はツヴァイク教授の家の地下にあった。上階を制圧し、地下の研究所も破壊され、深夜に密かに研究を続けていた研究員たちは皆殺し、当然ツヴァイク教授と妻も殺害された。眠っていたカメルレンゴはその騒音で目覚め、怯えながらも階下に降りていく。そして見た物は暗がりの中、月明かりに照らされた何者か。全身を血で染め上げて、撃たれたのであろう銃創がじゅるじゅると修復していく様は、当時子供だった彼にとっては恐怖以外の何物でもなかった。
震えて声も出せずに、その場に座り込んでしまった彼に、近づいてくる。それでもうわかってしまった。
自分は殺される。
人工的人類だから殺されるのだ。
やはり父のしていたことは間違っていたのだ。
神に反旗を翻してはいけなかったのだ。
そう悟り、ぎゅっと目を瞑った、その時。
「待って下さい大司教! その子はまだ子供です! そんな子供まで殺してしまう事はありません!」
そう言って誰かが、きつく抱きしめた。
「しかし、トバルカイン長官、これは教皇聖下からの勅命です。殲滅しろとの仰せなのですよ」
「いけません、いけません。子供の彼が何をしたというのです。お願いですから、助けてあげてはくれませんか」
当時、教理省の長官に就任したばかりだったファウスト・トバルカイン長官――――今のクレメンス16世がそう嘆願した。それを聞いて指揮を執っていたアマデウスは、既に殺害した遺体を細かく分割し、誰の物ともわからないようにし、子供も殺害したと虚偽の報告をした。
「そうして私は父上に引き取られました。イルミナティの事も何もかも、後から父上に聞かせていただきました」
死んだ事にされた為、ヴァチカンの戸籍を取得する時に名前も変えた。カールと名乗るようになって、両親を失ったことはとても嘆かわしかったが、彼は生まれながらに発達した頭脳を持っていたためか、ツヴァイク教授たちの所業が常軌を逸していたこともわかっていた。
教会の中でカールの事を知る者は彼に辛くした。
堕天使。
悪魔。
そんな中傷は日常茶飯事で、子供の彼を傷付けた。その度にファウストが抱きしめて慰める。
「お前は私の息子だよ。生まれなど関係ないよ。お前はきっと立派になるから、自分を嫌いになってはいけないよ。カールは、何にも悪くないのだから」
彼を引き取ったことで、ファウストもまた中傷に晒されていることを知っていた。それでもファウストはそんな事はおくびにも出さないで、カールを大事にして守った。
「父上のお役にたちたかった、どうしても。だから私は神罰地上代行に志願しました」
そう言ってカメルレンゴは、どこか自嘲するように笑った。
「因果なものです。その為にイルミナティの残党を、私自身が狩ることになった」
30年前の襲撃の際、その場にいなかった研究者や逃げおおせたメンバーは研究を続けていた。それが再び教会に発覚したが、カールの様な成功例はほとんど見られなかった。ツヴァイク教授の研究所の様に十分な設備のない研究では、生み出された子供の大半が失敗作。
「奇形だったり障害があったり、そんな子供がほとんどでしたよ。そう言う現状を見ると、ますますを以て自分と言う存在が不気味でした。しかし、6件目で事態が変わった」
そう言ってカメルレンゴがアドルフを見た。
「ガブリエル・フルトヴェングラーは間違いなく、成功例でした」
どくん、と心臓が脈打った。
「なぜ、実験の成功例だと?」
「君は泣きながら、亡くなったお母様に縋っていました。顔を上げて私と、ザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿を見て怯えた」
どくどくと心臓がなっている。
恐怖?
憤怒?
訳が分からなかったが体が震えた。
それを何とか抑えて、口を開いた。
「父と母を殺したのは、カメルレンゴですか?」
「アディのお父さんを殺したのはカール、君のお母さんを殺したのは、僕だよ」
アマデウスが言った。
「あの時君はまだ幼かったし、余程怖かったんだね。僕が近づいたら気を失ってしまった。それもあってか、君は僕達の事を覚えていなかった」
20年前、あの時。
時間はもう夜だった。ガブリエルは寝る時間で、お風呂から上がって母親が寝巻を着せてくれた。寝る前に父にお休みの挨拶をしに行こうと、父がいるはずのダイニングに行った。
母と連れ立ってダイニングに入ろうとすると、話し声が聞こえた。客でも来ているのか、と母が入室を躊躇って引き留めると、ガタン、と大きな音がして、「カテリーナ! 逃げろ!」と父が叫んだ。
その直後に破裂音、すぐにドサッという音が響いた。
母は、声を上げそうになったガブリエルの口をとっさに塞いで、すぐさまガブリエルを抱えて寝室に逃げ込んだ。母はガブリエルをベッドの下に押し込んで、切迫した表情で声を潜めて言った。
「いい? ガブリエル、絶対に喋ってはダメよ。ここから動いてはダメ。ここから出てはダメ。わかった?」
「おかあさん、おかあさんは? おとうさん、どうしたの?」
ガブリエルには、何が起きているのかが分からない。しかし、恐怖だけが募って、怖くなって、涙声で母に縋ろうとした。それを母は止めて、涙を拭って頭を優しく撫でた。
「シッ、静かに。心配しないで。声を出してはダメよ。ここにいるのよ。いいわね?」
「……うん」
母親は立ち上がり、クローゼットのドアを開けた。その瞬間に「客」が寝室に入って来た。ガブリエルは怖くなって、声を上げないように、自分で自分の口を手で覆い、ベッドの下から様子を覗き見た。
母は開けたクローゼットをゆっくりと閉めた。「客」が母に言った。
「そんなとこに隠したって無駄ですよ」
「狙いは、あの子なのね」
「あの子供も、ですよ」
「あの子は、私の子よ。なにもかも、あなた達にだって神にだって、くれてやるものなんかないわ。撃ちたければ撃てばいい」
「元より、そのつもりです」
そう言って「客」は母親の前に歩み寄り、銃弾を撃ち込んだ。母親はベッドの前まで引きずられ、クローゼットの前から血の尾を引いた。
クローゼットのドアを開けた「客」は、ガブリエルがいないことに驚いた。すぐにあちこち室内を探し始めるものの、ベッドの前には母親がいて気付かない。
わずかに意識の残った母は、ガブリエルを見つめて涙を零した。精一杯微笑んで、消え入りそうな声で、囁いた。
「ガブリエル、愛してるわ」
母はガブリエルに伸ばそうとした手を引きとめた。自分の行動でガブリエルの居場所を悟らせないために。涙を零して、瞼を閉じた母は、すぅっと力が抜けたようになった。
力の抜けた母の体から、血が流れてきた。フローリングの溝を辿って、ガブリエルのもとへ真っ直ぐに流れ込んできた。
それを見てガブリエルは恐ろしくなった。真っ赤な血が恐ろしくて、母が母でなくなったようで恐ろしくなった。そして、母の言いつけを破った。
ベッドの下から這い出て、母の体を揺すった。
「おかあさん、おかあさん」
呼んでも、反応はない。揺すられた体からは、衣擦れの音と、血の滴る音が響くだけ。
「おかあさん……ひっく、おかあさん」
泣いても、もう頭を撫でてはくれない。涙を拭ってくれた指先は、既に血に塗れていた。
「うわぁぁん、おかあさぁん、おかあさん」
号泣し、母に泣き縋るガブリエルに影が差した。顔を上げると「客」が立っていて、その手には銃が握られていた。
客が仲間と何かを言って、ガブリエルに近づいてくる。
涙で視界が見えない。
怖い。
たすけて。
誰か。
おかあさん――――。
そこで、ガブリエルの意識は途切れた。
「最初はね、君も殺す予定だった。だけどカールが、殺すのはやめようと言った。だから君は、君たちは僕が引き取った」
ぽろっと、アドルフの目から涙が零れた。
「あなたが、母を殺したんですか?」
「そうだよ」
「殺す必要が、あったんですか」
「……わからない」
ある程度はわかっていた事だ、覚悟していた事だ。シャルロッテの言う通り7割がた予想していた通りだった。
だけど。
どうしても、どうしても。
悲しいのは辛いのは、仕方がないから。
どうしても、どうしても。
母の天使であった自分が母を守れなかったのは苦しい。
「君のお母さんはあの状況で、冷静で聡明だった。僕達に屈しようとはしなかった。君もまた作られた人間ではあったけど、彼女は命を懸けて君を愛してた。だから、君を殺すのは彼女にとても申し訳ないと思ったんだ」
だからその後も、成功例と思しき子供たちはアマデウスが引き取った。
深く溜息を吐くのが聞こえて、その方向に視線をやるとクリストフが口を開いた。
「まぁこの際言いますけど、俺覚えてました。猊下が兄貴撃ち殺したから。いつか絶対ブッ殺してやろうって、ガキの頃は思ってました」
その言葉を聞いて、アマデウスの表情は暗く翳った。
「兄貴は知ってたんですね、親父が銃を隠してる場所。急に戸棚の前に走って行って、発砲した。銃弾は猊下に当たったはずなのに猊下は死ななくて、代わりに反撃した猊下に兄貴が殺された。なんだか知らないけどその後猊下ともう一人――――カメルレンゴですか? なんかその場でケンカし始めて。兄貴が死んで俺はワーワー泣いて、猊下達はケンカしてるし、なんかメチャクチャな状況だったのは覚えてますよ」
あぁ、と呟くようにしたカメルレンゴが、額に手をついて俯いた。
「あの時まで私は気付かなかったんですよ。両親を殺した「何者」かがザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿で、彼が吸血鬼だと。私の時は真っ暗で良く見えませんでしたからね。それで君の事件の時にそれが発覚して、あの場で大喧嘩になりました」
「ハハ、最悪じゃないですか。メチャクチャだ」
両親と兄が死んで血の海で、クリストフは大泣きして。カメルレンゴは命を救われた代わりにクリストフの兄は死に、救ってくれたと思ったらアマデウスは両親の仇で化物で。
メチャクチャ。
「もうそれで私は嫌になって、父上にお願いして神罰地上代行を辞めました。それからザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿とも疎遠になりましたし、近づくのも嫌でしたね」
その言葉にクリストフは鼻で笑った。
「あぁいいですね、逃げられた人は。俺はどうすりゃいいかわかんなかったんですよ。絶対ブッ殺してやろうと思ってた。なのに猊下は優しくて、猊下を好きになっていく自分が許せなかった。本当にどうしたらいいかわからなくて、悔しかったし辛かったし、でもみんなを見てたら、なんかどうでもよくなって」
アマデウスは優しかった。
アドルフは頼もしかった。
みんな仲が良くて、楽しかった。
だから。
「この生活も悪くないかなーとか、思っちゃったんですよね。まぁぶっちゃけガキの頃は、猊下が他の奴に文句言われてんの見てザマーミロとか思ってましたけどォ」
クララがクリストフに駆け寄って行った。
「クリス、知ってたんですか? 本当に?」
「知ってたよ。猊下が隠してんのもアディが薄々気づいてんのも。でも他の奴らは何にも知らないしさ、俺コイツら好きだから、俺一人反乱軍になってケンカすんのヤだったんだよ」
クララは瞳に涙をたくさん溜めて、クリストフにギュッと抱き着いた。
「よく、今まで耐えましたね。頑張りましたね。クリスは優しい人ですね」
クリストフもクララを抱きしめた。
「うーん、もしかしたら誰かにそうやって褒めて欲しくて、我慢してたのかも」
「ぐすっ、私が沢山、褒めてあげます」
「ありがとう」
クララを抱きしめて髪を撫でると、クリストフが顔を上げてアマデウスとカメルレンゴを見た。
「俺ん中じゃもう結論は出てるんです。多分アディも。でも他の奴はどうかな。まぁ考える時間はあるか」
そう言って苦笑気味に、クリストフがシャルロッテを見た。
「本当ヤな女だな。他にやり方なかったのかよ?」
「あったけど、この方が効果的でしょ」
「腹立つなマジで。あと決定的に説明が足りてねーよ」
「私がそれを言ったら恩着せがましくて嫌なのよ」
「プライドたけぇ」
「うるさいわ。わかるならわかるでいいし、わからないならそれでも構わないわ」
「流石化物だな」
「そうよ、いつだって化物は、悪者なのよ」
ふんっと息を吐いて、死刑執行人たちに手を振った。
「ほら、話は終わりよ。大混乱ならここじゃなくても出来るでしょ。ファウストは病人なんだから、さっさと出て行ってちょうだい」
シッシッと追い払うと、幾人かはまだ根に持っているらしくシャルロッテを睨んだ。が、クリストフとアドルフが促して、大人しく病室を出た。
それを見届けて、病室に残されたのはサイラスとクレメンス16世、アマデウスとカメルレンゴ。一息ついてクレメンス16世の前に歩み寄った。
「さて、叔父様もカールもちゃんと約束通りに話したわ。私のお願いを聞いてくれる?」
「あぁ、いいとも」
返事をしたクレメンス16世は、引き出しから紫色のストラを取り出して首にかけ、アマデウスを手招きした。
呼ばれたままにベッドの前に膝をつき、不安げに見上げるアマデウスの頭に手を置いて、彼は詠唱した。
「父と子と神の御名において、我ファウスト・トバルカインが命ずる。この者を永遠に、鎖から解き放て」
その瞬間、パキンと何かが弾けるような音が聞こえた。それを聞き届けて、クレメンス16世は満足そうに笑った。
「これで、あなたはただ一人の吸血鬼になり、只今を以て教皇庁から除籍された。今後あなたはヴァチカンに来る理由もなければ、関与することも許さない。当然ただの吸血鬼になったのだから、通報があれば討伐に赴くことになる。わかったかね?」
その言葉に、アマデウスは大粒の涙をこぼしてクレメンス16世に泣き縋った。その姿を見てシャルロッテは笑ってサイラスを見た。
「一体誰が通報するのかしらねぇ?」
「さぁな」
カメルレンゴがその話に割って入った。
「私が通報しますよ」
「ウソ言わないの。悔し紛れでそんな事言って」
「誤解しないでください」
「本当はあなたがそうしたかったくせに、私に手柄とられて悔しいんでしょ」
「違います」
「んもぅ、カールはツンデレなんだからぁ」
「違いますよ! 失礼ですね! 大体、私がしなくても彼らがするかもしれませんよ!」
「さぁ? どうかしらぁ?」
シャルロッテの大事なお話は周りをひどい混乱に陥れたが、ある程度の効果を見込めたシャルロッテとサイラスは、満足そうに笑った。
13 3/23受け継がれるもの
カメルレンゴがアマデウスと取引をしてくれていたおかげで、アマデウスの命を天秤にかけて真相を聞き出すことは成功した。それによって、アマデウスを教皇庁から除籍することにも成功した。
彼らの出生の秘密を明かすことは、本来シャルロッテとしても予想外の展開だった。恐らくカメルレンゴもシャルロッテ同様に、事件が解決してから真相を話して、彼ら自身に選択させようと考えていたはずだ。事件の容疑に関しては冤罪に他ならないが、真相を話せば生かす、黙秘するなら殺すと取引した以上は、事件終了後にカメルレンゴから暴露して彼を開放する予定だったのだろうと推測した。アドルフたちを自分の指揮下に入れたのが、その証拠と言っていい。それが可能なのは、カメルレンゴが教皇の息子であり、また教皇がクレメンス16世だからだ。本来ならシャルロッテもそれでいいと考えていたが、しかし状況がそれを許さないのだから仕方がないし、どうしても今でなければならない。
エゼキエーレが殺害された現在、最も有力な次期教皇候補はフォンダート枢機卿。彼が教皇位に就けば、恐らくアマデウスは処刑されてしまう。それでは困るのだ。それによってアドルフたちが暴徒化してしまっては、今後非常に動きづらくなる。アマデウスには是非とも穏便に教皇庁を去ってもらわなければならなかったから、この点に関してはクレメンス16世とカメルレンゴには心から謝礼を申し上げた。
一先ず下準備は全て整った。後は、オリヴァーがリストアップしたスイス人の顔写真から、サイラスが見た悪魔憑きの女性を探し出し、さっさと悪魔を追い出す。その後テロリストたちをやっつけて、そのお手柄は全部カメルレンゴに献上だ。そうすれば彼の地位は盤石なものになって、教皇が交代してもカメルレンゴは在位し続ける可能性が高いし、そうなれば直属となったアドルフたちも安泰だ。
計画だけは今のところ完璧、後は計画通りに行ってくれさえすればいい。
カメルレンゴは教皇庁に戻って、アマデウスとサイラスは控室に。クララはクリストフについて行って、シャルロッテはバーデンと一緒にクレメンス16世の付添い。近頃無理をさせ過ぎだとお医者に怒られてしまったので、今日は早めに寝かせた。
アドルフたちが教皇庁かホテルか、どちらに戻ったのかはわからなかった。だからクリストフに連絡を取った。
『クリス、そっちの様子はどう?』
『お嬢の悪口大会』
突然吹き出したシャルロッテに、バーデンは不気味がっている。
『あぁ、そうなの。今どこ?』
『教皇庁』
『そう、アディは?』
『カメルレンゴが来たから、護衛も兼ねて仕事手伝いに行った。おかげでこっちは収集つかんぞ』
『そう』
『アイツの事心配?』
『……』
心配だと言う気にはなれないし、かといって「別に」と突っぱねるのも状況的には気が引けた。黙っていると、クリストフが先に口を挟んだ。
『心配なら心配って言えば? 本当可愛くねーな』
『うるさいわね。アンタ達は教皇庁のどこにいるのよ』
『猊下のオフィスにいる』
『どうして叔父様の?』
『盗聴器仕掛けてあるんだろ、カメルレンゴの』
『あぁ、なるほどね』
聞かれても今更困る相手じゃないという事のようだ。それなら丁度良かったと、つい身を乗り出した。
『悪いんだけど、一つ頼まれてくれないかしら?』
『悪いと思うなら頼みごとするなよ』
『お願い、時間がなくて調べられなかったのよ。イザイアの事』
『えっ?』
『イザイア、一人だけ年齢が離れているでしょう? それに、叔父様のオフィスの集合写真にも写ってない。多分イルミナティ絡みじゃないのよ』
『そうか、確かにそうだよな。ていうかお嬢は俺らの情報、どうやって知った?』
『叔父様のオフィスのデスクの後ろ、その壁は外れるようになっていて隠し戸棚があるの。そこに過去の報告書――――あなた達の、イルミナティの詳細が記載された報告書が収蔵されていたのよ』
『んなぁるほど。盗聴器探ししてる時に見つけたのか』
『御名答。そう言う訳だから、そっちの話が落ち着いてからで構わないわ。もしかしたら話の流れでイザイアの事にも言及するかもしれないから、その時にでも』
『わかった』
返事を聞いて、一つ深呼吸をして言った。
『クリス、ゴメンね』
返事はない。恐らく向こうでクリストフは笑っている。
『らしくねぇな。普段通り偉そうにしててもらわねぇと、折角泥被ったのが台無しだぞ。今のは聞かなかったことにしてやるよ』
『そうね』
『俺にはクララがいるから平気。アディも今んトコ仕事で気ィ紛らわしたいんだろうし、みんなも悪口大会終わって落ち着いたらなんとかなるから』
『そうね、ありがとう』
今度こそテレパシーを切って、ほうと息を吐いた。
「やっぱりクリスが、一番性格悪いわー……」
「えっ?」
「なんでもないの、ごめんなさい」
しんとした病室で、ついつい独り言。思わず反応したバーデンに、少し申し訳なさそうにして笑った。
なんとなく。
あぁ、今日は謝ってばかりだわ。
本当に、らしくない。それもこれも。
悪魔のせいだわ! 腹立つわね本当に!
シャルロッテは急に機嫌を悪くして、眉を寄せてイライラし始める。それに気づいたバーデンは、一層シャルロッテに怯えた。
が、ややもするとシャルロッテは重大なことを思いだして、再びクリストフに連絡を取った。
『大変よ』
『どした?』
『私のお風呂の係がいないの。すぐにクララを帰して』
さっきクリストフがクララがいるから……と言っていたのは、一応頭の隅には置いている。
『ダメ! 今日だけは絶対ダメ! 朝まで帰さない!』
案の定断られたので、今日は引き下がってやることにした。
『じゃぁアディを寄越して?』
『仕事だって……旦那は?』
『お父様にそんなことさせられな……叔父様がいるじゃない!』
『多分旦那ブチ切れるぞ』
『それもそうね。しょうがないからバーデンに頼もうかしら』
『教皇が泣くぞ』
『じゃぁどうすればいいのよ!』
『お一人でどうぞ』
クララを拾うまでは一人で入っていたので、本当に独りが無理なわけでもなく。仕方がないので渋々引き下がった。シャルロッテがふくれっ面をして立ち上がったので、バーデンは思わずびくっと体が跳ねた。
「ど、どうしました?」
「ちょっとスパに行ってくるわ」
「え、あ、わかりました」
温泉に行くだけなのに、なぜあんなに不機嫌なのか。バーデンには謎である。
その頃、アマデウスのオフィスは大盛り上がりだった。主にクラウディオとレオナートとエルンストが大フィーバーだ。この3人は当時3歳だったので殺害云々は覚えていなかったが、ある日突然ヴァチカンにやってきたことくらいは覚えていた。アレクサンドルとフレデリック、オリヴァーとイザイアは幼すぎて覚えていない。勿論話の内容はショックだったから、それなりに怒りは覚えるものの、この4人にとっては最初からアマデウスしか親がいないようなもので、クララの手前もあって黙り込んでいる。
が、特に3人の中でも、妹の事を笑われたレオナートは怒り心頭になって、容赦なくシャルロッテの文句を言っていた。ちなみにクリストフは、アドルフがいないとこの事態に収拾がつかないと早々に見切りをつけて、さっさと白旗を上げていた。
あんな言い方をする必要はなかった、とか。
何も今じゃなくても良かった、とか。
アマデウスは言いたくなかったのに無理させることもなかった、とか。
クリストフにはシャルロッテの意図が分かっているので、心の中で「まぁそうなんだけどねー」とひたすら相槌を打っている。敢えて心の中に留めて口に出さないのは、シャルロッテの為に加勢をするのが嫌だ、と言うだけの理由だ。一応理解はしているが、クリストフも多少怒ってはいる。
クララは反論したいこと山の如しなのだが、シャルロッテがきつく口止めしているので援護に回る事も出来なくて、一人悶々とさせられている。クララは移動している間にクリストフとシャルロッテに事情を聞かされて納得したのだが、正直な話彼らの気持ちもわからなくはないので、ここで敢えてシャルロッテの味方に回ってさらに傷付けるのも気が引けるのだ。
暫く3人がメインでぎゃーぎゃー文句を言っていたが、ドアが開いてアドルフが入ってきた。
「おう、どした」
「5分だけ休憩」
そう言ってソファに座って煙草を吸い始めた。そしてなぜかアドルフが来ただけで静まり返る。
「ん、どした。もうロッテの文句言わねーのか? 廊下まで丸聞こえだったのに」
「さっきは勢い余って猊下の文句も言ってたくらいだったぞ」
「ま、しょーがねーな」
肺に煙を入れて、ふぅと吹き出すとやっぱり静まり返っている。
「お前らさぁ」
アドルフが口を開いて、みんなでそろりと視線を上げた。
「ロッテはこの際置いとけよ。アイツに文句言うのは後回しでいいだろ。んな事より、猊下の事嫌いになったか?」
問われて幾人かは首を横に振って、幾人かは「わかんない」と小さく答えた。
「今朝さぁ、今日話があるとか言ってさぁ、ロッテが」
部屋に来たシャルロッテは、まともに会話もしないで一方的に言った。
「私のすることを悪魔の所業だって恨んでもいいけれど、きっと立ち直ってね」
確かにそう言った。恨まれることなんか、シャルロッテは最初からわかっている。
「どの道俺らには立ち直るしかねんだけど、問題はどっち方面に立ち直るかだろ。今考えるべき点はソコ」
そう言って煙草をもみ消すと「じゃ」とさっさと部屋を後にした。
それを見送ってフィーヴァーしていた3人はソファに転げた。
「もー! ヤダもー!」
「なんなんだよもー!」
「アディもさークリスもさー!」
「なんだよ、俺なんかした?」
「なんもしてねーからじゃん!」
「アディとクリスが何も言わねーのに、俺らが言えるわけねーじゃん!」
「腹立つ! 落ち着き過ぎなんだよ! 俺らバカみてーじゃん!」
「実際バカみてーだぞ。アディの言う通り、お嬢の事は置いといて。お前らはこれからどうしたいわけ? それ話し合った方が建設的じゃねーか? 結論出すのが怖いからってお嬢に逃げるのは終わりな」
クリストフがそう言うと3人はとてもばつが悪そうにして起き上がった。
クリストフの言う通り。
考えるのが恐かった。
だからシャルロッテに逃げていた。
もやもやと心の中を漂う。
戸惑いと怒りと愛情と。
混ざり合うこの不快な感情をどれか一つにまとめてしまって、それが誤った選択だとしたら。
そう思うと怖かった。
「とりあえず、話を聞けたのがカメルレンゴからでよかった。アマデウス様でもお嬢でもいけなかった。カメルレンゴは俺達と同じだからな。俺らも仕事上、俺らと同じ子供をどこかで作り出している可能性はある」
被害者であり加害者である彼らにしてみれば、どちらか片方の話を聞いても、自分の気持なんかわからないくせに、とへそを曲げてしまっただろう。いつかは聞かなければならない話だったが、シャルロッテの人選にクリストフは素直に感謝した。恐らくあの場でシャルロッテがあそこまで言わないと、アマデウスもカメルレンゴも語らなかっただろうという事を考えると、どうしても泥をかぶるのは仕方がない。その辺りはシャルロッテもわかりきっているから、今更弁護する必要も文句を言う必要もなかった。
彼らは自ら、彼らの様な子供を生み出している。そんな事は昔からわかっている。
何故人を殺してはいけないのか。
何故人を殺さなければいけないのか。
そんな事を考える段階は、とっくに過ぎている。
それが仕事で義務だからだ。エクソシスムの一環だからだ。害獣駆除と変わらない、彼らはただの公務員だ。
彼らは一生ヴァチカンから離れることはできない。それは暗に、この仕事から離れられないことを指している。
それはアマデウスもカメルレンゴも同じ事だ。
「俺とアディはもう結論出てる。でも、全然恨んでないわけじゃない。とりあえず気が済むまで殴る位はさせて欲しいところ」
「猊下の事、やっぱり恨んでるんだ?」
尋ねたフレデリックに頷いた。
結論は既に出ている。だけど100%許せるわけではないし、それでいいと思っている。どのみち人間と言うのは矛盾だらけのものだし、何もなくても愛する相手に100%の愛情を注げるわけではない。とりあえずクリストフは、ゴールを定めておいてそこへ到達する努力をするという方向で結論を出した。
「猊下が自分の死を引き合いに出してまで俺らに隠そうとしたのは、あの話が俺達を傷付けると猊下にはわかっていたからだ」
「だけど、ただ恨まれるのが怖かったとか、そう言う理由かもしれないだろ?」
クラウディオが言って、一応笑って頷いた。
「当然それもあるだろうな。誰だって嫌われんのは嫌だし。じゃぁ何故、猊下は俺達に嫌われたくないのか?」
その問いで何が言いたいのかわかったようで、クラウディオは視線を泳がせた。
「そういうことなんだろ。まぁ俺の願望でもあるんだけどさ。俺は猊下を恨んではいるけど、同時に愛してもいる。自分でもわけわかんなくて頭おかしくなりそうだけどさ、まぁ長年の経験から言って、他人を憎み続けるってのは案外疲れるんだよな」
「愛したほうが楽?」
「楽だしお互いハッピー。それにさぁ、俺にはクララがいるし」
そう言ってクララを膝に乗せて抱きしめた。
「いつまでもグチグチ恨み言言う男ってカッコ悪いだろ。クララの前ではカッコつけてたいわけ」
「カッコつけロリコン」
「うるせー」
茶化されてクリストフはいつも通り半笑いで返したが、クララがくるりと振り返って笑った。
「クリスはカッコイイですよ。アディも。お嬢様が期待を寄せるだけあります」
「えっ、期待されてんの? 何を?」
「さぁ? でも二人は見込みがあるって言ってました」
「なんの?」
何の見込みなのかクララも知らないのだが。
「さぁ?」と返してみんなに向いた。「クリスとアディと一緒に育ったんだから、あなた方がアマデウス様に寄せる思いも一緒だと思っています」
そう言ってみんなを見渡して、フレデリックの名前を呼んだ。
「フレディはお嬢様に銃を向けたとき、話さなければアマデウス様を死なせると言ったアディの言葉で銃を下ろしましたね?」
「……そうだね」
正直な話、秘跡を受けた銀弾でも撃たれたくらいじゃシャルロッテは死んだりしないが。
「結論を急ぐことはないと思います。だけどアマデウス様に死んでほしくなかった、その気持ちはとっても大事です」
フレデリックは俯いたまま呟いた。
「でも俺、クリスとかレオとかとは立場が違うから。親の事なんか覚えてないし、薄情かもしれないけど」
そう言ってくすっと笑った。
「正直俺はもう結論でてるんだよ。だって俺の親はアマデウス様しかいないもん」
フレデリックの言葉に、アレクサンドルとオリヴァー、イザイアも同調した。レオナートとクラウディオ、エルンストを気にしながら。
クラウディオが言った。
「俺が覚えてんのは、なんかウチが爆発したことと、急に攫われたことくらいだ。正直親の顔も名前も憶えてない。お嬢に腹が立ったのは、ただの怠慢かもしれない」
「怠慢って?」エルンストが首を傾げた。
「知りたくないことを無理やり聞かされたようなもんだ。結局俺は何も知らないまま現状維持で、今まで通りに過ごしていたかっただけなんだよ」
真実を知る必要はなかったかもしれない。だけど真実を求めていた人はいたし、真実を殺したまま苦悩している人もいた。
「課長とクリスは偉いよな。すごいよ。親兄弟が死んだ時の事も覚えてんのに、偽物の平穏を良しとしなかった。本当の事をちゃんと聞いて自分で整理つけて、それでも関係ないって、愛してるって言えるのはすごいよ。強いな」
不穏な話に耳を塞いで、偽りの温水に浸かったままでも、それはそれで幸せだっただろう。だけどそれではアドルフの言った通り、本当の家族とは言えないから。
「なんていうか、二人とも真剣に生きてんだなって。反省したわ」
あははとクラウディオが笑って、「そうかもねぇ」とエルンストも呟いた。しかしレオナートはやはりぶすくれている。
「そりゃさ、まぁ俺らの仕事もこんなんだし、何年か経って誰かに「親の仇!」って恨まれることもあるだろうけどさ」
「そこはまた話は別だろ。こっちは国家権力なんだからよ。嫌なら逃げりゃいいし、ヴァチカンの責任にしてここにいるも良し、好きでやるも良し」
長年こういう仕事をやっていると、いちいち人を殺すことに感慨なんて湧いていられない。ミスをしない様に自分が死なないように、ただ仕事だからそれを完遂しなければならない。今更人を殺すのが嫌だとか、そんな段階はとうに過ぎて、彼らはとっくに暗殺のプロで。
「仕事か……」
「そうだな」
「そうだよな、カトリックが新人類なんて、許すはずないもんな」
「そうだな」
「正義は一体、どっちだ?」
彼らにしてみれば親の仇が悪で、だけどヴァチカンにしてみればイルミナティが悪で。どちらもきっと自分の正義を主張する。
「いつの時代だって、勝ち残った方が正義だよ」
どちらが正義でどちらが悪か、それは道徳ではなく歴史が証明していて未来が判決を下す。
「勝ち残った方が思想や規範を作って征服していく。カトリックはずーっと昔からそうしてきただろ」
この世界で一番人を多く殺したのは毒でも銃でもなく、思想だ。
「残った方が正義なら、生き残ってる俺も正義だよな」
レオナートが言った。
「そうだな。生きてる以上、人生はお前のものだ」
返事をしたクリストフに、レオナートは睨むようにしていった。
「俺がどうしてもアマデウス様を許せなくて、殺すことになっても?」
「そうだな。そりゃお前の勝手だ。応援も妨害もしない。ただ」言葉を切ってクリストフが半笑いをやめた。「猊下が死んで泣く奴が、お前にとってどうでもいい奴ならな。そいつに恨まれる覚悟があるなら、好きにすりゃいいんじゃねーの」
それを聞いてレオナートは失笑してしまった。
「覚悟ある?」
「全然ないし、アディとケンカして勝てる気がしない」
「そーゆーわけで俺も諦めたわけよ」
「あはは、なるほどな」
レオナートは笑いながら懐かしむような眼をして俯いた。
「……でも、ラヴェンナ――――妹、可愛くてさ、仲良しだったんだよ」
「お前妹守ろうとしたんだって。偉いな」
レオナートはゆるゆると首を横に振った。
「あの時、父ちゃんは逃げろって言ったのに、俺怖くて逃げられなかったんだ。まぁどの道ガキの足じゃ逃げても捕まっただろうけどさ」
「かもな。教会じゃなくても、いずれイルミナティのしていることが公になれば、どっかしら摘発しに来てたのは間違いない。そうなったら俺らはそれぞれの地域で孤児院にでも引き取られて、多分会う事もなかったんだろうよ」
「そっかぁ、そうだよね」
周りが同調したのを見て、クリストフはいつも通りに半笑いをした。
「警察とかなら親を殺しはしなかっただろうけど、とりあえず教会で良かったよな。おかげで兄弟仲良く」
それにみんなは苦笑交じりに笑う。ふと、クララが口を挟んだ。
「あの、ここに来るまでの間に考えてたんです。あなた達多分、本当の兄弟です」
「えっ?」
視線が注がれて、少し居心地が悪かったが、話の続きを催促されているのはわかったので口を開いた。
「多分ですけど。あなた達は人工的に作り出されました。長い年月をかけてツヴァイク教授が研究し、更にあなた方の両親も10年以上研究を続けていた。その中で失敗作も数多く生み出されたようですが、あなた達と言う成功例が同年代に生まれた。多分組織は発見したんです、その術式の適性因子――――誰か特定の人物の遺伝子が、実験に適していた。遺伝子レベルでは、あなた達はれっきとした兄弟だと思います」
証拠は全くないし、当時の研究資料は教会にとっては全く不要な物なので、その場で焼き捨てられてしまったので真相はわからない。
「なるほど……そうかもな」
「つーか俺ら試験管ベビーなら、親は多分親じゃねーよな。代理出産したとか預かって育てたとか、多分そんなんだぞ」
クリストフが言って、それはそうかもしれない、とみんなが頭を抱えた。
「俺の兄貴とか、レオの妹とか、もしかしたらそっちは本当の兄弟じゃなくて――――例えば親の実子で俺らは実験体。多分本当の家族構成はそんな所だ」
「何で、そう思うの?」
「そりゃぁ」
クリストフがみんなを見渡して言った。
「俺ら全員、ビックリするくらい金髪碧眼。兄貴黒髪だったもん」
「あっ、そういえば」
「ホントだ……」
「俺らの遺伝子の元になった奴、この金髪の持ち主って優秀だったんだなー」
本来金髪碧眼の遺伝子と言うのは、生物学レベルでは劣性なのはまた別の話である。繁殖の過程で量産されにくい、淘汰されやすいという意味で、生物学上は劣性だ。その劣性が実験においては適性因子となったのかもしれない。
「でも俺ら顔は似てないな?」
「それは多分、一部は同じ遺伝子情報を使っていても、他は別の人を使ったのだと思いますよ」
「なるほど」
「でもさ」
クラウディオが口を挟んで、イザイアを見た。
「イザイアって誰かに似てるよな?」
言われてみんながイザイアを凝視する。視線が集まってイザイアはワタワタと慌てた。
「えっ? わかんない。そうかな? 誰に?」
「わかんねーけど、なんか見たことあるっつーか」
「誰だお前」
「イザイアだよ!」
上手いこと話しがイザイアにいったので、クリストフはシャルロッテからの通達をみんなに話した。
「イザイアだけ正体不明っつーのも俺的には気分悪いんだけど、お前はどうしたい?」
イザイアはしばらく悩んで床を見つめていたが、ふと顔を上げた。
「探す!」
返事を聞いて膝を叩いて立ち上がると、シャルロッテに教えてもらった隠し戸棚の前に行った。押したり引いたりガタガタやっていると壁が外れて、中の戸棚には書類のファイルが雑然と倒れている。雑然としているのは、カンナヴァーロの部下が漁った後片づけなかったせいだ。
シャルロッテが持ち出したのはアドルフの報告書だけで、それを読んでシャルロッテには真相がわかったので、他は置いてきた。みんなの分はまだ残っているはずなので、当然イザイアのもあるはず――――だったが、探せど探せど出てこない。
「報告書捨てたのか?」
「かもしんねぇけど、可能性としては別方向か?」
「別方向って?」
「神罰地上代行の仕事には関わりがないって事だよ」
クリストフの言葉にみんなは驚いて目を丸くした。
「いやわかんねーけど。隠し戸棚にすら置いてないってことは、証拠になりそうな物はないかもしれねぇな」
「えぇー! もう、なんで俺だけわけわかんないの!」
イザイアは拗ねてその場から立ち上がって、歩き出すとマントルピースの前で足を止める。みんなが映った集合写真、そこに自分だけが映っていない。
――――どうして?
なんだか悲しくなって、その写真を手に取る。
――――どうして? アマデウス様、俺の事はどうでもいいの?
訳が分からなくなり、力が抜けた手から写真が落ちた。角から落ちてガラスが割れて、少しうんざりした気分で写真を拾った。
「あれ?」
ガラスが割れて、外れてしまった裏板を嵌めようとすると、写真が2枚出てきた。一枚は集合写真で、その裏に隠れるように挟んであったもう一枚は、ヴァチカンで撮影したのかアマデウスが映っている。その写真を見てイザイアは目を丸くした。
「っあー! なにコレどういうこと!?」
イザイアが大声を出して、なんだどうしたとみんなが集まってくる。これこれとイザイアが写真を見せると、みんなも首を傾げた。
「猊下とお前じゃん」
「俺最近猊下と二人で写真撮ってないよ!」
「言われてみればこの写真古い……あれ」
エルンストが気付いて指差した。
「俺今日コレ見た覚えあんだけど」
指さした先は、偽イザイアの手に持っているものだ。
「あ、本当だ」
「アレびっくりしたよな」
「ていうかどういうことだマジで」
アマデウスと一緒に写真に写っている偽イザイア、イザイアはどうやら神罰地上代行には関係ない。
「まさかねぇ」
「いやぁ、そりゃねぇだろ」
「隠し子とか……ねぇ?」
「……」
「……」
「……」
顔を見合わせて一致団結、突撃。
突撃した先で、まずは突撃したことを怒られ。
質問をすると、呆れられた上に怒られ。
「ヴェルディ君が私の隠し子ですって? バカなことを。あなた方と一緒にしないでください」
「おいおい、カメルレンゴに限ってそりゃねーだろ」
アドルフにまで呆れられてしまったが、イザイアは説明を求めて写真を突きつけた。
「だって、じゃぁコレどういうことですか! カメルレンゴですよねコレ!?」
写真に写っていたのはアマデウスと、羊飼いの杖を持った若かりし頃のカメルレンゴ。
その写真を見てカメルレンゴは、少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「あぁ、そうですね。確か20歳くらいの頃です」
「俺、カメルレンゴに似てるみたいなんですけど」
「そうですね」
「……どうしてですか? 報告書、俺のだけなかったんです。俺はイルミナティに関係なくて、カメルレンゴとも関係なくて。じゃぁ俺はどうしてここにいるんですか? 関係ないならどうして、カメルレンゴに似てるんですか?」
ふぅ、と少し疲れたような顔をすると、カメルレンゴはアドルフに人払いを頼み、アドルフが人払いを済ませると、溜息を吐いてイザイアを見た。
「30年前――――というか、私の世代の成功例ですが」
「はい」
「当然、私一人ではありません」
「えっ?」
成功例第1号がカメルレンゴ。勿論2号3号が存在した。カメルレンゴ以外の成功例は他の家に預けられていたが、当然彼らは面識があり幼馴染同様だ。
「彼らもイルミナティのメンバーが引き取って育てていましたが、一人は30年前の事件で家族もろとも殺害されたようです。ですがもう一人は」
「逃げたんですか」
「そうです。そして彼を中心に研究がすすめられた」
しかし、逃げた先ではまともな設備もなく、研究を独自に進めることは困難だった。そこでも何とかアドルフたちと言う成功例は産まれたが、20年前に再襲撃を受けることとなった。
「その再襲撃ですが、私の元に通報があったのです。今度こそイルミナティを潰してほしいと」
「誰からですか?」
「“彼”ですよ。30年前の生き残りで私のクローンであった、彼」
カメルレンゴの世代では、設備はあっても理論が発展途上。カメルレンゴという成功例が生まれたのは、ほとんど偶然の産物と言ってよく、同じ手法をとっても中々成功例は産まれずにいた。その為ツヴァイク教授は、カメルレンゴのクローンを作り出すことにしたのだ。その為にカメルレンゴと全く同じ人間が生まれてくることになった。
「彼はまぁ、言ってみれば私とは一卵性双生児の様なものです。彼は30年前の事件の後は、“新人類”のひな形として組織に祭り上げられた。彼と再会したのは本当に偶然でしたが、その時に互いの身の上を話して、私の話を聞いた彼は言いました。「イルミナティを潰せ」と」
彼は組織を憎んでいた。彼の扱いはひな形だ。大事にされて神の様に崇められる実験体だ。彼は一度も実験体の扱いから出られることはなく、一度も人として見てもらったことはなかった。
毎日検査されて、毎日投薬されて、毎日細胞を取られてクローニングした細胞を使って、自分の遺伝子を持つ子供が作られるのに、それは自分の子供とは言い難い。
彼は言った。
「なぁ、こんな人生が人間に必要だろうか? 俺は人間なのだろうか? 俺の様な人類を作り出して、それが一体なんになる? 人間は飯を食って、働いて、寝て、恋をして結婚して、子供を作って老いて、子供や孫に看取られて死ぬものだろ? 俺にはそれは不可能だ。ならば俺は一体なんだ? 俺は兄さんのクローンで、本当に俺は俺なんだろうか? また俺の遺伝子を使って成功事例が生まれた。あの子達は俺の一体なんだ?」
自分は一体何で、行きつく先はどこへあるのか。
そう言った哲学的ともいえる疑問は、彼にとっては現実的過ぎる難題だった。
彼の話を聞いて、カメルレンゴはアマデウスに話し、アマデウスの追跡調査によって組織を発見したことにして再襲撃した。その際、彼だけは内部告発者として保護し、余所の地域へと逃がした。
「それからは彼とも連絡を取らなくなったのですが、5年経って彼が子供を連れて私の元に会いに来ました」
そのとき彼は嬉しそうに言った。
「聞いてくれ、俺結婚したんだ。俺の子供だよ。この子は俺の子供なんだ」
とてもとても、嬉しそうに。
父親によく似て、金髪碧眼の男の子。
「君にそっくりですね」
「兄さんにもそっくりになる」
そう言った彼は、どこか悲しげに笑った。その表情を見て不安を感じた。
「奥様は?」
「この前、交通事故で死んだんだ」
「そうですか……それは、お気の毒に」
「それで、俺ももうすぐ死ぬと思う」
度重なる実験の為に彼の体にはもう限界が来ていて、重篤な病気を患っていた。
「この子は独りぼっちになる。この子はさ、俺のせいでアーニャは妊娠できなくて、やっぱり人工授精になったんだけど、それでも間違いなくこの子だけは俺の子なんだ。初めて人を好きになった。アーニャの子だからこの子を愛してる。この子には幸せになってほしいから、独りぼっちで淋しい思いをさせたくない。この子にだけは、人として生きて欲しいんだ。だから兄さんが、預かってくれないか?」
彼は涙ながらにそう言って、子供をカメルレンゴに託した。その子は父親に瓜二つのカメルレンゴを見て不思議そうにしていたけど、すぐににっこりと笑った。
「その後彼とは一切の連絡を取っていませんのでわかりませんが、恐らく亡くなったのでしょう」
「あの、でも、どうしてアマデウス様が俺を引き取ったんですか?」
「あなたが彼にソックリと言う事は、私にもソックリと言う事です。今回の様に色々と誤解を招くのは御免でしたから。20年前の内部告発の件を知っているのは父上とザイン・ヴィトゲンシュタイン枢機卿だけでしたから、父上の提案で彼に引き取っていただくことにしたんです」
「なるほど……そうなんですね」
神罰地上代行にもイルミナティにも関係ない、イザイアは“彼”の遺伝子を受け継いだ多くの子供の中でただ一人、彼の本当の子供。
彼は人間になりたかった。
誰かに愛されたかった。
誰かを愛したかった。
それが叶った、その結晶がイザイア。
あは、とイザイアが笑った。
「じゃぁカメルレンゴは俺の伯父さんなんですね」
「そういうことに、なるんでしょうかね。よくわかりません。私も彼も実験体ですので、兄弟と呼ぶのが正解なのかもわかりません」
「イイじゃないですか、兄弟って事で。なにか名称がつかないと落ち着きません」
「そうですか、ではそう言う事にしましょう」
話を聞いていてアドルフは、すこし気にかかる点があったのでカメルレンゴに尋ねた。
「彼のせいで奥さんが妊娠できなかったというのは?」
尋ねられて、あぁ、とカメルレンゴは視線を落とした。
「私は検証したことがないので知りませんが、彼はクローニングされた人間だったせいか生殖能力はなかったそうです。あなた方は検証結果はどうでしたか?」
言われてアドルフは口元に手をやった。
「そーいえば俺、あんだけ遊んでてノーミスです!」
「ではそう言う事でしょう。我々は繁殖能力はありません。どれほど優れていようが一代限りの新人類など、生物全体から見れば失敗作以外の何物でもありません。いえ、それどころか」
キィと椅子を鳴らして、椅子の背に深く体を沈めた。
「シュレディンガーの定義を知っていますか?」
「いえ」
「シュレディンガーという博士が提唱した、生物の定義です」
まだ遺伝子が発見される前の時代、彼の提唱した生物の定義は、後に遺伝子が発見されたことで真実と裏付けされた。
「その定義によれば、繁殖と代謝をする物が生物なのだそうです。では繁殖しない我々は、生物なのでしょうか?」
カメルレンゴも彼と同じように、そんな事をずっと考えていて。
だけどアドルフたちには唐突過ぎて、全く思考が追い付かない。
「わかりません」
「まぁどの道聖職である以上は繁殖能力がなくても差し支えありませんが。リスト課長もミスがないからと言って、調子に乗らないように」
「……最近は大人しくしてます」
その返事を聞いて、カメルレンゴは少しだけ挑戦的な視線を向けた。
「そうですか? 実用の機会がない以上、私は去勢と言うシステムを復興してもいいと思っているのですが」
その言葉に全員が「Non!」と首を横に振った。
「それはダメですよ!」
「ダメですって!」
「怖っ!」
「冗談です」
とカメルレンゴが言ったので騒ぎはすぐに収まったが。
カメルレンゴでも冗談言うんだな、と、少し驚いた。
14 3/23好きな人がよく眠れますように
その頃シャルロッテは、タクシーに揺られてやってきたスパで、ハーレムを形成していた。
「きゃぁ、ロッテお肌すべすべ」
「髪の毛つるつるー」
スパに着いて一人入浴しようとしたのは良かったが、あまりにも久しぶり過ぎて体を洗う手順がイマイチよくわからなかった。
シャンプーは、髪を濡らしてからつけるんだったかしら。髪に直接つけてたかしら。
あっ、コンディショナーが先だったかしら。
試行錯誤しながら髪を洗う。でもやっぱり何かミスが起きる。
どうしてかしら。クララがしてくれる時みたいに泡がモコモコにならないわ。
だらりと緩い泡が垂れてきて、シャルロッテの顔は泡だらけになっている。その様子を近くで見ていた女子たちは面白がって「あたしが洗ってあげるわ」と髪を洗ってくれた。
「ごめんなさいね、いつもは侍女にしてもらうから、よくわからなくて」
「いつの時代のお嬢様よ」
「あっ、シヴィル。そのマッサージすごく気持ちいいわ」
「でっしょー? あたしエステティシャンの資格持ってるんだ」
「そうなの? 道理で。私ラッキーね」
本当にお金を払ってあげてもいいと思った。
面白そうにシャルロッテの髪や体を洗うのは、20代前半位の女性が二人、シヴィルとステラ。久しぶりに女の子と話せたので、シャルロッテも結構楽しい。
「あーやっぱり女の子っていいわ。なんだか癒されるわ」
「男所帯なの?」
シャワーをかけながらステラが尋ねた。
「そうなのよー。男ばっかりってつまんなくて」
「あっでもわかる。男って結局男同士でつるんでる時が一番楽しそうなんだよねー」
シヴィルが言ってステラも頷いた。
「だよねー。いっつもあたし達仲間外れ」
「ステラはイイじゃん彼氏いるんだから。彼氏いなくて仲間はずれなあたしは悲惨だよ」
シヴィルが口を尖らせるので思わず笑った。
「彼氏がいるのに仲間はずれなのも結構悲惨な気がするわ」
「そーなの! 結局彼はあたしより友達といる時の方が楽しそうなんだもん!」
「しょうがないわよ、男ってそんなもんじゃない」
男って子供よね、と男の文句を言って盛り上がる3人。
体を洗って、広い広い浴槽に浸かる。こういう広いお風呂にゆったり入るのは初めてで、なんだか衝動的に泳ぎたい。勿論そんなはしたない真似はしないが。
「こんな風に人と温泉に入ったのは初めてだわ」
えっと二人が振り向いた。
「そうなの? 友達とバカンスとかいかないの?」
「そういえば行った事無いわね」
なにせ友達がいない。
「お嬢様って言ったら遊びまくってるってイメージあったのに」
「うふふ、私引きこもりだから」ぐーっと手足を伸ばしてみた。「こういうのもたまにはいいわ。沢山お金があっても外に出なきゃ意味ないわよね」
そう呟くと二人は顔を見合わせて、再びシャルロッテに振り向いた。
「ね、ね、ロッテ」
「なぁに?」
「あたし達ね、3月末までローマにいる予定なの」
「あら、偶然ね。私もよ。もしかしてヴァチカン巡礼?」
「そうそう!」
「だからさ、一緒に遊ぼうよ!」
そうはいってもシャルロッテは事件の事もあるし、暇なわけではないのだが。
でもこの機会を逃したら、きっとこういう出会いは滅多にないし。人との出会いは一期一会。
当然金目当てだとか、自分を窓口にして男漁りしたいんじゃないかとか、色々邪推はしたけども。
「いいわよ。お風呂に付き合ってくれたお礼もしたいし」
返事をすると二人は喜んで、スパを出ると早速シャルロッテを連れて夜の街に繰り出した。
一応サイラスには少し出かけてくると連絡をして、テーラードジャケットにVネックシャツ、ショートパンツの動きやすい格好に影を作った。
やはりというべきか2人はシャルロッテをバーに連れてきた。店に入って少しすると2人は驚いてシャルロッテの腕を組んだ。
「すっごい、みんなロッテの事見てる」
「そりゃこんだけカワイけりゃ!」
「視線が鬱陶しいわ」
キャピキャピ言いながら入ったのだが、シャルロッテに気付いた男を中心に女もみんな振り返る。
「うお、超可愛い」
「お前声かけてこいよ」
「モデルかな? マジ可愛い!」
「ヤッタ、俺らの隣キター!」
そんなひそひそ話を拾う、吸血鬼の地獄耳。
ちょっとうんざりした気分になりながら、年代の古いワインをオーダーする。ちびりと舐めて見て、これは大丈夫だと胸を撫で下ろした。
案の定男が数人声をかけてきて、それが中々のイケメンだったのでステラとシヴィルは喜んだが、シャルロッテはひとまず頭からつま先まで品評。
髪の艶がなくて、ジャケットは安物、ベルトはブランド物、ボトムも安物、靴はボロボロ。一通り男を観察して顔を上げた。
「悪いけど私、年収100万ドル以上の男じゃないと相手にしないの。ごめんなさいね」
「ドル!? 100万ドルって何ユーロ!?」
「75万ユーロよ」
日本円にして約9千万円である。シャルロッテはお金にはあまり価値を置いていないが、お金を稼げる男にはある程度価値を置く。
「ウチの男達はみんな高給取りなの。悪いけど庶民は相手に出来ないわ」
それを聞いて男達はガッカリしながら引き下がった。
聞こえていたのか、今度はブランド服と宝石に身を包んだジャラジャラした男が寄ってきた。
「男のくせにこれ見よがしに着飾ってみっともないわよ。お金はあっても品がないわねあなた」
また男はガックリして、庶民に小さく嘲笑されながら引き下がった。
それを見送っていると、隣でシヴィルとステラが可笑しそうに笑っていた。
「どうしたの?」
「ロッテって彼氏いるの?」
クレメンス16世が浮かんだが。
「彼氏はいないわね」
愛してると言ったが、彼には過去形で返されたので、事実上フラれている。
「だろーと思ったよ! ロッテは高嶺の花すぎるの!」
「そうかしら?」
「そーだよ、お金持ちで美人なんてすごいリア充だよ」
そうだろうか、と思う。お金持ちで美人で、化け物で友達も彼氏もいなくて。それがリア充。少なくとも彼女たちの目には、それが羨ましく映っている。実際人間の感じる幸福にお金と言うのは影響力が高いので、当然と言えば当然だ。
ぐいっとワインを飲んで、頬杖をついた。
「彼氏ね、いないけど好きな人はいるの」
なんでこんな事を話しているんだろうと思う。多分酔いが回って来たのだ。案外ワインはアルコール度数が高い。シャルロッテは排泄しないので、勿論肝臓や腎臓などもまともに機能していないから(あるかどうかも疑わしい)、アルコールなんかにはものすごく弱い。1杯でベロベロに酔っぱらってしまうのだが、天然ものの純正品は成分が分かっているので体内で自力で分解する。お陰で泥酔することはあまりないが、それにも勿論限界はある。少し酔うと余計に、分解が追い付かない。
「え、好きなら告白すればいいじゃん。ロッテに好きって言われたら誰でも喜ぶでしょ」
「言ったけど、フラれたわ」
「えーうそ!」
「彼女がいたとかそういうこと?」
「いいえ、彼は聖職者だし、もうすぐ病気で死ぬからよ」
70年も聖職者として働いてきたクレメンス16世が、今更聖職を辞めるなんて考えてはいない。何よりシャルロッテも、そうして欲しいなんて思っていない。70年も人生をかけてきた聖職と言う仕事に彼はプライドを持っている。それを穢すことなど出来ようか。
シャルロッテの話を聞いて、二人は気の毒そうに見つめている。
「いいのよ、わかってたことだし。今傍にいられるだけで十分なの。最後に我儘も聞いてくれたし」
最後位シャルロッテのお願いを聞いてあげたいと、クレメンス16世はアマデウスを呪いから解放することを許してくれた。本来ならそんな事は絶対に、絶対に許されないだろうとわかっていた。だから余計に嬉しくて、同時に申し訳なかった。
「だけど、わかっていても……悲しいわ」
「ロッテ……」
覗き込んだシヴィルがハンカチを差し出してくれたので、それでようやく自分が泣いていることに気付いた。
出会ったばかりの二人に、酒の勢いでこんな事を話して、本当にバカみたいだと思う。
だけど、悲しいとか辛いとか、そんな事を誰にも言っていなかった。誰にも言えなかったし、言ってはいけないと思っていた。
「ごめんなさい。ありがとう大丈夫よ。少し、すっきりしたわ」
涙を拭いて笑ってハンカチを帰すと、二人は顔を見合わせて、何かを決意したようにシャルロッテに振り向いた。
「ロッテ、お金持ち好きならさ、その好きな人も偉い人?」
「そうね」
なにせ教皇だ。
「じゃぁその人に教えてあげて」
「なにを?」
切迫した表情で声を潜めて、ステラが言った。
「25日はヴァチカンに近づかないでって」
その言葉で気づいた。この二人はテロの事を知っているのだと。事件の事は未公開だから、外部に漏れていない限りは一般人が知るはずない。それを知っているという事は、彼女たちはテロの関係者だ。問い質してみようかと思ったが、敢えて知らないふりをした。
「……彼は病院にいるからどの道ヴァチカンには行けないの。だけど、私は当日どうしても行かなきゃいけないから」
「ダメだよ!」
「お願い、行っちゃダメ」
「そう言う訳には行かないのよ、乗りかかった船だから途中で降りられるわけないわ」
シヴィルが縋るような眼をした。
「そんなに大事な用事なの?」
「そうよ。あなた達も25日は、ヴァチカンで大事な用事がある様ね?」
そう言うと二人は視線を泳がせて、小さな声でステラが言った。
「本当は、あたし達だって行きたくないよ。でもニコラが……」
「ニコラ?」
「ステラの妹なの。あたしはニコラとは親友で、あたし達本当はニコラを追って来たの」
もしかして。
やっぱり悪魔が憑かれた女性は人畜無害で、彼氏が彼女を無理やり連れまわしていて。しかも彼女は悪魔に意識を奪われているから、自分ではどうしようもない。
「ニコラをヴァチカンテロの首謀者にしたくないのね」
シャルロッテの言葉に、二人は弾かれたように顔を上げた。
「し、知ってるの……」
「ええ、知ってるわ。これからあなた達の身柄はヴァチカンで保護するから、捜査に協力して」
二人は戸惑いながらシャルロッテを見つめた。
「待って、ロッテって、何者?」
「何者でもないわ。対テロの対策に当たっている知人がいるから、彼に話して」
「で、でも!」
彼女たちの心配はわかっている。だからにっこりと笑った。
「心配しないで、悪魔に憑りつかれた女性が悪魔崇拝者にいいように利用されているって所までは、私達も掴んでいるの。問題は彼女たちの所在。あなた達もニコラも、悪いようにはしないわ」
二人は心配そうではあったが頷いて、立ち上がった。
サイラスに教皇庁に行くと連絡して、すぐにタクシーで向かった。教皇庁教皇秘書室、その前にいた受け付けはシャルロッテの事を覚えていたのか、おや、と顔を上げた。
「たしか……」
「教理省枢機卿直属対反キリスト教勢力及び魔物強硬対策執行部強硬殲滅課のシャルロッテ・ルートヴィヒスブルクよ。カール……いえ、カメルレンゴは?」
「カメルレンゴはお休みになりました。ですが、リスト課長はおいでです」
「じゃぁリスト課長にお願い」
「少々お待ちを」
やり取りを聞いて二人は落ち着かない様子でソワソワとしだした。
「ちょっとロッテぇ」
「カメルレンゴって、そんな偉い人と知り合いなのぉ?」
一般の行政で言えば官房長官に当たるので、恐縮するのも無理はない。
「今現在この問題には彼が中心になって指揮を執っているの。まぁ今は寝てるみたいだけど、大丈夫よ」
二人を落ち着かせていると、受付がどうぞと中へと促した。ノックをするとアドルフの声で返事が返ってきて、ドアを開けると彼は何やらデスクワーク中だった。
「どした?」
「ていうか、アディはカールの護衛じゃなかったの?」
「俺居眠りするから信用できないとか言われて、イザイアがついてる」
「あぁ、そうでしょうね」
言いながら勝手に応接用のソファに腰かけて、シヴィルとステラも座らせた。アドルフもソファの所にやってきて対面に腰かけた。
「その二人は?」
「例の悪魔憑きの女性――――ニコラの姉と友人よ」
「マジか」
「マジよ」
アドルフが驚いた表情をして二人を見ると、二人も頷いた。それを見てアドルフが懐を探って「初めまして」と名刺を渡した。それを見た二人は途端にアドルフの膝元に縋り付いた。
「司教様!」
「お願いします、ニコラを助けてください!」
「お、落ち着いて下さい。我々も事情はある程度はわかっていますから」
「ニコラはテロなんて、そんな怖い事出来る子じゃないんです!」
「二人とも、大丈夫だから落ち着いて、ね?」
シャルロッテが傍に寄って手を握ると、二人は頷きながらえぐえぐと泣きはじめた。
「ニコラは悪くないの。悪いのはアイツ」
「あんな男やめろって言ったのに」
「詳しく話していただけますか?」
「はい……あの子、前に街で不良に絡まれてしまって、それを助けたのがアイツ――――エドガーで」
「それだって親切心じゃなかったんです。その不良たちがエドガーたちのチームのライバルだったからってだけで」
だけどそれでも、助けてくれたエドガーにニコラは恋をしてしまった。不良同士のケンカ、それだけならまだよかったが、エドガーが争っていたのは麻薬の売買の縄張りだった。
そんな事も知らないでニコラは好きになって、知った頃には後戻りできなくなって。ニコラの気持ちを知ってエドガーは、彼女の気持ちを受け入れた。それだって、愛情があったわけではなかった。いつでも好きな時に抱ける都合のいい女を手に入れた、そう仲間に漏らしていた。そんな男。
「ニコラは本当に好きだって知ってるくせに、アイツは呼び出す以外に連絡の一つもまともに寄越さないで」
「あの子が泣いてるの、何度見たかわからない」
それを聞いてアドルフは非常に耳が痛い思いがしたが、頑張って続きを聞いた。
シヴィルもステラも、あんな男はやめなさいと別れなさいと、何度言ったかわからない。ニコラはたまに体に痣や傷を作って帰ってくることもあったから、エドガーが暴力を振るうのだという事もすぐわかった。だけどニコラはDV男と被害女性のスパイラルに陥ってしまって、もうエドガーから逃げることは困難になっていた。
それがいつの事だったかはわからない。そんな彼女の心の隙を突いて、悪魔がニコラに忍び込んでしまった。いや、ニコラだからこそ入り込んだと言っていい。泣きっ面に蜂、それこそが悪魔だ。
最初はステラが異変に気付いて、心療内科に連れて行った。だけど薬をもらっても全く効果は出ない。悪魔憑きなのではと疑って、教会にも連れて行こうとした。するとニコラが嫌がった。
「何故彼女は嫌がったんです?」
「エドガーがサタニストで、ニコラが悪魔に憑かれてるって聞いて、それでアイツ喜んだって言うんです」
「悪魔に憑かれてから、彼が優しくなったなんて、あの子……」
悪魔がいるから彼に愛される。悪魔を追い出されたら、愛されなくなってしまう。一度優しくされてしまったら、それを手放すことはニコラにとって苦痛でしかなかった。
それからニコラは悪魔とエドガーの言いなりで、教会に近づかないどころか家にも滅多に帰らなくなってしまった。悪い仲間とつるむようになって、ステラやシヴィルにも汚い言葉で罵るようになった。
そんなニコラと接するのが辛くて、一時は二人も見放そうとした。だけど悪いのはニコラじゃない。親友だから、姉妹だから、どうしてもニコラを助けたかった。ニコラを助け出したくて、家を出る彼女を尾行した。着いた先は湖畔の倉庫街で、そこでは沢山の男女が集まって集会をしていて。サバトと称されたその集会の様相に二人は驚くばかりで、聞いた話を頭に入れるのが精いっぱいで、そのまま泣きながら帰ってしまった。その翌日にはニコラもエドガーも、姿を消してしまった。
「その時、聞いたんです。ヴァチカンにテロの犯行声明を出したって。ヴァチカンを血の海にしてやるって、人ならぬ声でニコラが叫んでた」
「あの子は、どこに行ったんですか? あの子の心はもう、あたし達の知るニコラには戻れないんですか?」
花屋で働いていた。少し気弱だけど笑い上戸で、明るくて優しいニコラ。お客さんからも人気があって、密かにニコラに恋をしている人が何人かいて。両親もステラの恋人も、もう諦めろと言ったけど諦められない。
家族だから。
友達だから。
とっても大事な人だから。
見捨てることなんか出来ない。
「ニコラを、助けて」
ステラが涙を流して訴えた。
「あの男を捕まえて、悪魔を追い払ってください。お願いします司教様」
シヴィルが床に頭を付けて懇願した。
二人の様子にアドルフとシャルロッテは視線を合わせて、コクリと頷いた。
「勿論です。彼女の救出に全力をあげましょう。あなた方にも護衛を付けます」
そう言うとすぐにアドルフは内線をかけ始めて、その間にシャルロッテはサイラスに連絡を取った。少しするとアレクサンドルとフレデリックがやってきた。
「この二人に護衛をさせます。ホテルまでお送りしましょう」
「その前に、そのニコラと言う娘の写真を持っているか?」
急にサイラスの声がして、驚いて飛び跳ねたフレデリックの後ろにサイラスが立っていた。
「旦那、もうちょっと普通にこれないんですか」
「普通に来たではないか」
サイラスにとっては普通だ。
ステラがバッグを漁って写真を取り出し、それをシャルロッテが受け取ってサイラスに渡すと、サイラスは写真を見て軽く弾いた。
「そうだ、この娘だ。リストになかったという事は、不法入国したようだな」
「なるほど、と言う事はまともな宿には泊まれないでしょう。安いモーテルか、もしかしたら車中泊でもしているのか……ローマ限定にしても、探すには時間が足りませんね」
アドルフが唸っていると、「あの」とシヴィルが口を挟んだ。
「エドガーの車、盗難車で赤のメルセデスなんです。ナンバーまでは覚えてないんですけど」
「なるほど、病院周辺にその車がないか捜索した方が良さそうだな。バーデンに連絡する」
そう言ってサイラスがアレクサンドルの後ろに隠れたと思うと、ふっと消えた。
真っ赤な高級車が安いモーテルや公園なんかで車中泊していたとしたら。そんな異様な光景は、目立つに決まっている。アドルフはニヤリと笑ってまた内線をかけ始めた。
「オリヴァーはヴェリンツォーナ市近郊で盗難届の出ている赤のメルセデスを探せ。それが済んだら衛星、ローマ市内の街頭カメラにメルセデスが映っているか片っ端から探せ。それと同時進行して捜索する。捜索は“検事”に依頼するから、お前らはそれやっとけ」
電話を切ってアドルフは二人にニッコリと笑った。
「彼女の居場所は明日中には特定します。彼女とあなた方の安全は保障しますのでご心配なく」
その言葉に二人はホッとしたようで、体の力が抜けて二人で微笑んだ。
アレクサンドルとフレデリックが連れて秘書室を出ようとした時、シヴィルとステラが振り返って言った。
「ロッテに出会えた幸運に感謝する。事件はまだ終わってないけど、きっと神様が助けてくれるよね」
「ええ。大丈夫よ、任せて」
「ありがとう」
涙目で微笑んだステラが言った。
「ロッテとロッテの好きな人が、今夜もよく眠れますように。おやすみ」
「おやすみなさい」
安堵の表情を浮かべた二人にシャルロッテもホッとして、手を振って見送るとソファに深く身を沈めた。気付くとアドルフと二人だ。
対面に座ったアドルフが、煙草に火をつけて口を開いた。
「お前あの二人に、教皇の事話したのか」
「……酔ってたのよ」
今更になって二人の前で悲しいと言って泣いてしまったのを思い出し、少し後悔に駆られた。
だけど悲しいものは悲しい。
「しょうがないじゃない。私だってたまには、泣きたいことくらいあるわ」
「あーそうだな。俺も今日は誰かさんのせいで泣かされた」
少しばつが悪くなったが、ここでシャルロッテが機嫌を損ねるのはお門違いだ。何とか声を落ち着けた。
「私の事恨んでもいいのよ。嫌いになってもいいわ。だけど叔父様の事は嫌いにならないであげて」
そう言うとアドルフは、ふーっと煙を吐いて気怠そうにシャルロッテを見た。
「アマデウス様もお前の事も、嫌いになる理由なんかねぇし」
不覚にも。
これは酔っているからだ。
きっとまだお酒が抜けていないのだ。
なんだか泣きそうになって、アドルフの隣に座って腕にしがみついた。
「泣いてもいいけど鼻水つけんなよ」
「うるさいわよ泣かないわよ」
何となくアドルフにも、シャルロッテの気持ちが分かる。精神的に追い詰められたような気分の時、カメルレンゴにはああ言ったけど。
こんな夜は人肌が恋しい。
だからアドルフは煙草を消して、シャルロッテが掴んでいた腕を離して、ぎゅっと抱きしめた。
「なによ」
「少しだけ」
「煙草臭い」
「お前は酒臭い」
なんだか文句を言うのも疲れて、そのまま腕の中に納まったままでいた。もしかしたら自分より大きな体の人に抱きしめられるのが心地よかったのかもしれないし、温かくて安心したのかもしれない。
沈黙してシャルロッテの耳に聞こえる、アドルフの心臓の音。
あぁ、この人は生きているんだわ。
今更そんなことを思う。
だけど、ファウストはその内この音を止めてしまうのね。
そう思うととても悲しい。
だから、せめて生きている間に、たくさんたくさん優しくして、彼から返事が来なくても愛してると伝えなければ。もしかしたらそれは迷惑かもしれないけれど、最期に幸せだったと笑って欲しい。
「アディ」
「なに」
「今生きている人を、今あなたの目の前にいる人を、今あなたを大事に思う人を、大切にしてあげてね。人はいつか死んでしまうから、死んだ後に後悔したくないのであれば、そうしてあげて」
アマデウスやクリストフ達の事を言っているのだろうと、それはわかった。
「お前は後悔しそうなのか?」
「わからないわ。だけど、悲しい。私は、ファウストに死なないでなんて言えないわ。傍にいて欲しいなんて言えないわ。私が何をしても、ファウストはファウストのまま死ななければならないのよ。もうすぐ死んでしまうのよ。その運命を変えてはいけないから、その事がとても悲しい。どうして」
どうして、今更再会してしまったんだろう。
会わなければ二度も彼の死を見ずに済んだのに。こんなに悲しい思いをせずに済んだのに。
こんなことをアドルフにこぼしているのも嫌になって、つくづくアルコールは恐ろしい。
アドルフが溜息を吐いて、シャルロッテの頭にかかった。
「驚いたよ最初」
「何がよ」
「お前が聖下と会った時、すんげぇデレてたから超意外だった」
「ファウストは特別よ」
女にとっては男が思っている以上に、好きな男と言うのは特別な存在だ。
「お前俺らには適当だしさ、ツンツンしてるし。そのお前が特別優しくするんだから、そりゃ聖下もメロメロなるだろうと思った」
「でも私フラれたわ」
「お前が聖下の為に引き下がったからだろ」
「そうだけど」
アドルフが子供をあやすように背中を叩いた。
「お前イイ女だな。男の誇りを穢さねぇ女は、イイ女だ」
「……そうかしら」
今日は本当に本調子じゃない。いつもなら褒められたら当然でしょと胸を張れるのに。
「らしくねーな。どした」
「なんでもないわ。ちょっとブルーになってて、酔ってるだけ。アディこそ慰めたりして、あなたらしくないわ」
「今目の前にいる大事な人を大切にしろって、お前が言ったんだろ。それに」
「なによ」
「お前みたいな女に惚れられたら、俺も惚れるだろうなーと思って」
「ハァ?」
何を言っているのかしらと顔を上げると驚いたことに。
寝てる!? 今の寝言だったの!? どこから寝てたのかしら!
いつの間にやら寝息を立てて、シャルロッテを抱いていた手はだらりと垂れさがっていた。
驚きのあまり白目をむきそうになり、何とか時計を見ると4時を回っていた。成程この時間ならアドルフは眠くなる時間だ。
さてどうしよう。この状況をどうしよう。
自分が仮眠室に連れて行かなければならないのか。それは少し面倒臭い。
本当なら酔っている自分が介抱されたいくらいなのに、何故人の面倒を見なきゃいけないのか。 しばらく悩んでソファに寝かせることにして、仮眠室から毛布を持ってきて掛けた。
寝顔を見て金髪をさらりと撫でた。寝言の事を思い出すと、本当にアホな男だと思うが。
「ありがとう。今夜もアディが、よく眠れますように」
そう言って額にキスをして、その場から姿を消した。
必要悪2 ― Schwarz ― Forget me not