Alla fine dell'amore 愛の終わりに
Alla fine dell'amore 愛の終わりに
「なんやあのエロじじい!もう!めっちゃ腹立つ!」
扉をノックもせず、ミカコさんが声を張り上げて練習室に入ってくる。古いアップライトピアノが一台あるだけの狭い部屋に甘ったるい香水の香りが流れ込み、エチュードの運指を確認していた私の心臓が跳ね上がる。一瞬にして進むべき小節を見失う。
ピアノの脇にある譜面台にばさっと楽譜を置いて「あんなやつの単位なんて捨ててやる!ほんまに!さいてーや!」と、ミカコさんはさらに音量をあげて叫んだ。小さな明かり取りの窓から夕日が差し込んで、ミカコさんの髪があかく燃える。
「エロじじい」はミカコさんが師事している声楽科の教授だ。「エロじじい」の悪い噂は、専攻の違う私の耳にも届いてくる。なかなかの「さいてー」な事例を伴って。
「まあ、ええわ。とりあえず練習しよ。あのおやじが文句なんか言えないくらいに歌ったるっちゅうねん!」
譜面台の楽譜をぱらぱらめくりながら、不自然なカンサイの言葉でミカコさんが言う。最近、付き合い始めたカンサイの男のせいであるのは明らかで、それを聞くと私は調律の狂ったピアノのような気分になる。
「『Alla fine dell'amore』からやろっか。でもさあ、正直、愛のなんたらかんたら、っていう曲がきらいやねん。なんでも愛愛、あいあい、アイーって言っとけばいいんちゃう?みたいな感じが嫌やねん。愛の挨拶とか、喜びとか夢とか……えーとあと何が あったっけ? まあええか。はよやろ。」
すっと姿勢を正したミカコさんの顔つきが変わる。
ミカコさんはアレグロのテンポで生きているのだと思う。
私も体の軸を整えて鍵盤に指を置く。椅子が軋む。静かに、滲むように、ひとつひとつの音にすべてを集中させて弾くアルペジオ。
となりで息を吸う気配がして、歌が始まる。
Alla fine dell'amore 愛の終わりに
君は行ってしまった
手折ったすみれを捨てて
誓った言葉も捨てて
君は行ってしまった
白い月のもと
漕ぎ出した小舟の櫂を
僕はなくしてしまった
そこには輝く波が残され
悲しみだけが揺蕩う
すべて消えてしまった
終わりなどないと思っていたのに
あの日の太陽の光も 鳥のさえずりも
美しい星々もすべて消えてしまった
そして今 僕は暗闇に包まれている
君は行ってしまった
手折ったすみれを捨てて
誓った言葉も捨てて
君は行ってしまったんだ
埃まみれの狭い練習室に柔いベールが幾重にも降りてきて、小さく震える。
ビブラートをあまりかけないミカコさんの声は、なめらかで素朴な響きを持つ。声量は少し弱いけれど、芯があって狙ったところを外さない。たっぷりとした情感も備わっているけれど、剥き出しのそれではない。
その声を聞いていると、私にはミカコさんが望んでいることがすべてわかる。ゆったりと歌いたいのか、先へ先へと歌いたいのか、ぴったりと合わせてほしいのか、ほんの少しためらいがほしいのか、ただただ寄り添って欲しいのか、不思議とわかる。
最後の和音を弾き終えると、余韻が消え去るのを待ってから二人して静かに息を吐く。ミカコさんの耳の飾りが揺れ、いつのまにか夕日の明度が落ちていることを知る。
「うん。じゃあ次の曲、お願い。」
楽譜をめくる音を聞きながら、ミカコさんが早くカンサイの言葉を喋らなくなればいいのに、と思う。そして、次の次のそのまた次の曲も途切れなく続いて、この部屋に終わりが来なければいいのに、と思う。
なぜなら私も「愛」とつく曲が、だいきらいだから。
ヴォカリーズ
「ねえ、言葉って必要?」と
あなたは言った
あの日 あなたが歌ったのは
ヴォカリーズだった
選ばれて撚られた言葉を
捨ててあなたは歌った
連なった真珠を引きちぎって
空へ放り投げるように
「ねえ、言葉って必要?」
すみれ 小舟 白い月
光 太陽 星 そして言葉。
溢れたものが
全部が嘘になってしまうなら
はじめから 詩なんてなかった
あの日 あなたが歌ったのは
ヴォカリーズだった
Alla fine dell'amore 愛の終わりに