【鯉月】音羽の滝は尽くるとも

しずよ

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金塊争奪戦終了後のお話。
金塊は鶴見小隊以外の手に渡った世界で、鶴見小隊は全員流刑となり誰がどこにいるのか不明、それでも月島さんを諦めきれない少尉が月島さんを探すお話です。
鯉登少尉は歩兵第27聯隊中尉になった後、陸軍大学校を卒業する直前から始まります。在学中に結婚したのですが、離婚寸前です。お嫁さんは少し出ます。会話はありません。
原作には出ないキャラが出てきます。馬橇のおじさん、豪雪地帯に住むお婆ちゃん、除隊後の月島さんと懇意にしている一家が少し出てきます。
ファンブックネタも入ってます。
そしていつものようにハッピーエンドです!

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「今年の受験生には、鯉登くんのように気概のある者がいなかった。実に残念だ」
 今月実施された陸軍大学校の再審の試験官を務めていた教官が、講義室を去る間際に鯉登にそう声をかけてきた。鯉登は思わず目を見張る。それは戦術甲の講義の評定書を、配り終えた後のことだった。陸大に在籍した三年間、というより入学試験の時から厳しいことばかり言い続けていた教官だったから「気概がある」のたった一言でも、花向けだったのだろうと思う。だから鯉登は「恐れ入ります」と恭しく頭を下げた。
 大正元年、十二月。市井の人々は新しい年を迎える準備で忙しそうにしている。その中を鯉登はひとり、馬を駆り自宅に向かう。途中にある蕎麦屋の店先から、揚げ物のいい匂いが漂ってくる。店先の屋台で揚げる銀宝(ギンポ)の天ぷらが、その店の名物だった。しかしその魚の旬は夏だから、冬はハゼが一番よく食されるネタだ。揚げたてをその場で頬張る客や、年越し蕎麦の予約をしている客が目につく。
 一緒に食べたかった。不意に彼の顔が思い浮かぶ。誘えばきっとついてきただろう。でも黙々と食べながらも「私は麺類よりも、白米の方がいいです」と顔に書いてあるかもしれない。そんな想像をして、鯉登はくすりと微笑む。
 卒業式は来週だ。そして年が改まれば、新しい赴任先が通達される。東京に住むのも残りわずかかもしれない。
 今年の夏、明治という一つの時代が幕を下ろした。その翌日、新帝の即位の儀が厳かに執り行われ、そこから改元に伴う様々な宮中祭祀が続いている。自分の生まれた時代が終わるというのは、想像以上に感慨深いものだと思った。
 卒業後、どこへ行くことになるのだろう。鯉登の胸中に寄る辺ない気持ちが押し寄せる。それは喧騒の中でひとり迷子になったような気分だった。黒い不安が頭をもたげる。
 ああこれは、子供時代の私の悪い癖だ。もうそんな年端のゆかぬ者のような、甘えを言っていられないのに。気丈にならなければ。そして、早く見つけてやらなければ──。
「清水や、音羽の……。沢だったか?」
 この和歌の続きは何だったか。
 馬上で無意識に口をついて出たそれは、むかし母が時々小さく唱えていた歌だった。なぜそれを口ずさんでいるのか聞いてみると「失くしたものが、不思議と必ず戻ってくるんですよ」と笑いかけてくれた。「何を失くしたのですか」と聞いても「うふふ」と微笑んで、教えてはくれなかった。
 子供には言えないものなのだろう。少し寂しく思ったが、鯉登はそう理解した。それから祈った。母上の探しものが早く見つかりますように、と。
 鯉登は当時の母の歌声と、祈りの気持ちを思い出す。そうして学舎から家へ帰ってきた。自室で着替えを済ませると、それを見計らったかのようなタイミングで扉が叩かれる。
「郵便物をお持ちしました」
 廊下から書生の声がした。鯉登の家では帝大生を一人預かっていた。妻の従兄弟だ。彼は時間がある時には、下男のような雑務をこなしてくれている。
「入ってくれ」と鯉登が応答すると、彼は封筒をお盆に乗せて運んできた。「ありがとう」と受け取る。まず裏面を見た。差出人を確認するためだった。何も書かれていない。くるりとひっくり返し、表面を見る。そちらにも書かれていない。変だ。その上、すっかり見慣れた「検閲済み」の印もない。何だこの手紙は。鯉登は警戒する。というのも、鯉登家に届けられる手紙は検閲のために一旦すべて開封されるのだ。それなのに、持参されたそれは封も切られていない。それよりも。
「……スズキ?」
 その手紙の宛名は鯉登音之進ではなかった。堂々と真ん中に書かれた名前は、鈴木正一様となっている。なんだ、間違いではないか。鯉登は廊下から書生を呼んだ。そして「誤配送だ。郵便局へ返してくれないか」と申しつける。すると彼は「僕の帰宅するちょうどの時刻に配達人がやってきたので、門で鉢合わせをしました。それで直接手渡されたのです。……が、すぐに妙な点に気がつきました。消印をご覧ください」と言う。改めて確認すると、半年も前の日付だった。
「なんだこれは」
 鯉登は虚をつかれて言葉が続かない。
「これを持参した男性は、格好こそ郵便局員でしたが、違うのかもしれません」
 検閲されたらまずい何かが書かれている可能性がある。彼は言外にそう伝えた。それから「また何かありましたら、お呼びください」と一礼して、静かに退室していった。
「……なんだ、私の味方をしてくれていたのか」
 鯉登はポツリとつぶやいた。書生の態度は鯉登には予想外だった。ずっと訝しんでいたのだ。実は彼も当局からの指示により、自分を監視している一人なのではないか、と。
 鯉登はいま憲兵からの監視下に置かれている身だ。すなわち、どこに行くにも尾行が付くし、手紙や電報・電話は検閲が入る。それは、かつての仲間である鶴見小隊と連絡を取れないようにするための措置だった。
 しかし、彼はどうやら違ったようだ。二年間も疑って、悪いことをした。鯉登は心の中で話びる。そして、意を決して怪しげな手紙を開封してみた。
『拝啓 鈴木様
 目の具合はどうでしょうか? 手前共の湯は目にも効くと評判なのです。どうぞ湯治にいらっしゃってください。お待ちしております。敬具』
 差出人の名前は中にも記されていなかった。鯉登は肩を落とす。ひょっとしたら、徒刑された誰かが、密かに連絡を取ってきたのかもしれないと期待したのに。それどころか書かれている内容に関しても、思い当たる節がない。
 やはりこの手紙は少し気味が悪い。ぐしゃりと握り潰して捨ててしまおうかと思った。
「……暗号か?」
 刺青人皮が頭をよぎる。鯉登は陸大の講義で暗号術を学んだ。この文章にどんな法則が使われているのかすぐには分からないが、暗号で書かれた可能性は捨て去れない。頭に真っ先に思い浮かんだのは、鶴見篤四郎だ。刺青人皮の暗号を解読する智略に長けた彼ならば、それを駆使して自分に連絡をよこすかも知れない。
 そして鶴見は、当局の監視の目をかいくぐり、所在不明になっていた。



 今から四年前、明治四十一年のこと。
 第七師団は刺青人皮の暗号解読に成功したが、アイヌの金塊は彼らの手に渡らなかった。鶴見篤四郎と聯隊長であった淀川は、軍事クーデターの首謀者だと中央から見なされ、内乱罪で死刑となるはずだった。だが、そもそも金塊は真偽不明の秘匿情報だったし、中央もそれを何らかの目的で狙っていた。だから鶴見小隊を利用して入手し、トカゲの尻尾切りをする腹積もりだったようだ。その経緯を白日の元に晒される訳にはいかないから、正式な軍法会議で第七師団を裁くことができずに、非公開で公判が開かれた。そして関係者はほぼ全員、有期限の徒刑となった。それは実質、執行猶予とほぼ同義だった。
『再犯するようなことがなければ、罪を見逃してやる。ただし、何年かは監視させてもらう。再び徒党を組まれて軍事クーデターを起こされたら困るから』
 黒幕である誰かの声が、参謀本部から聞こえてきそうだった。
 しかし、あの鶴見相手に予定調和で終わるはずがなかった。
 彼は公判中、暗号解読による心神喪失を訴えて、脳病院に移送されることとなった。入院して半年が経過した頃。鶴見は病院から忽然と姿を消した。捜査した警察、警備していた憲兵や病院関係者の話によると、脱走を手引きした者が複数いるという話だった。
 鶴見が今どこで何をしているのか、誰も知らない。
 そして鯉登の処分は軽く、四年間の監視のみで済んだ。誘拐事件の前から鶴見は鯉登に接触しており、それが人を洗脳する手法そのものだと認められたからだ。父の平二は当時から、事件の不審な点に気が付いていた。それを海軍省に報告したから、海軍もまた鶴見らの元に間者を送り込んでいたのだ。
 そうして自分一人だけ、助かった。鶴見の駒にされていると気付いてからも、彼らについて行くことを選択したのは自分の判断だったし、いくら囚人相手であっても法治国家で殺人が正当化されていいはずがない。自分にも相応の裁きは必要だ。そんな手助けなど必要なかった。そう言って父に怒りをぶつけ、自分の境遇に打ちひしがれる──過去の自分ならそうしただろう。
 でも今は違う。十四歳からの経験は、逆に鯉登の精神を強かなものにした。こうなったら自分の立場を、徹底的に利用してやる。陸軍内でのし上がり、地位を手に入れ彼らを探すのだ。そういう強い思いがあったから、上官らからどんな嫌味を言われようと、第七師団に留まり一人研鑽を重ねた。そして中尉になり陸軍大学校の受験資格を得た。合格の報を聞いたのが、三年前の十二月だった。
 陸大では金塊騒動を知る者はいなかったから、勉学に打ち込むことができたのは幸いだった。ただ、鯉登の心が凪ぐことはなかった。あの男のことを、一日たりとも思い出さない日はなかった。
 着物の襟から懐に手を差し入れ、首から下げた小判型の黄銅板を握る。それは陸軍の給與品の一つである、認識票だった。誰が戦死したのか把握するための物だから、通常は身に付けることはしない。しかし鯉登は自分の認識票以外のそれを、常に身に付けていた。
『歩二十七 七 月島基』
 第七師団歩兵第二十七聯隊に所属する月島基、を略して彫られていた。
 杉元や土方との戦いの最中で、月島が身に付けていたそれを引きちぎり、鯉登に手渡したのだった。鯉登が月島の姿を見たのは、それが最後だった。



 手紙の消印は日付以外にOという文字が押されている。土地名なのか、それとも集配する郵便局名なのか。地図を取り出してきて調べてみると、そこは新潟県N郡にある郵便局の名前だった。
「新潟か……」
 どうしても月島と関連付けて考えてしまう。この手紙はそこに彼がいると、示唆しているのだろうか。鯉登はかぶりを振る。落ち着いて考えなければ。連絡は一度きりかもしれないのだ。二、三度深呼吸をする。ふと、昔の月島の発言を思い出した。
『北海道には新潟出身者が存外に多いのです』
 あれは明治四十年、冬季演習前のスキー強化訓練でのことだった。八甲田山雪中行軍という惨事があっても、ロシアの南下を想定した訓練を止める訳にはいかなかった。だから第七師団では、スキーの習熟とかんじきでの機動訓練に力を入れていた。鯉登が第七師団に着任したばかりの頃のことだ。冬季演習の計画が立てられ、事前準備として初年兵にスキーの訓練がなされた。その当時は専門の教官がいなかったので、将校や兵卒の中からスキーの達者な者が選ばれた。歩兵第二十七聯隊は谷垣ともう一人、二等卒が指導に当たった。それが鈴木という名だったはずだ。谷垣はマタギという職業柄、冬山にも慣れていると話を聞いた。鯉登はその後に鈴木とも話をした。
「鈴木二等卒は新潟県出身か」
「はい! そうであります」
 鈴木の返事は小気味良かった。少し小柄だが、若者らしい溌剌さがあった。
「どんなところだ?」
「は、S村という新潟と長野の県境にある山間部の集落です。人里離れた豪雪地帯で、冬の間は外界との交通が麻痺します」
「冬の間ずっと? そのような奥地は不便ではないのか?」
 鯉登が率直に尋ねると、隣にいた月島が軽く小突いてきた。
「何だ月島」
「人様の郷里に対して失礼でしょう」
「私は純粋に疑問に感じただけだ。そういうお前は同郷じゃないのか? S村に行ったことはあるのか?」
「いいえ、ありません。私は入営するまで島から出たことはありませんでしたから」
「そうだったのか」
「それに、新潟出身者は他にもおります。北海道への定期航路がありますので、移住者は存外に多いのです」
「ふうん、それならスキーの達者な者が他にもいるかもしれんな」
「そうかもしれませんね。ところで、少尉殿はスキーのご経験はありますか?」
「一度もないぞ」
 鯉登は鹿児島と東京と北海道を転々としていたと話した。話が横道にそれたから、結局S村がどんなところなのか聞きそびれてしまった。



 行かなければ。万に一つでも、月島がそこで待っている可能性があるなら。一度そう思うと、いても立ってもいられなくなった。
鯉登は移動経路と手段を念入りに計画し始めた。まず可能な限り汽車で移動だ。
「一番近い駅はどこになる……? うーん、長野駅か?」
 しかし路線図を何度見ても、山脈に囲まれたS村には、新潟県側からの経路が無いに等しかった。無いものは嘆いてもしょうがない。長野駅から馬橇で進むことになるだろう。手配しなければ。「せめて車が使えたらな……」
 東京ではこの夏からタクシーが走るようになった。地方ではまだ普及していないだろう。それにもし車の用意ができても、雪道を安全に走ることは難しいだろう。鯉登は十六歳の頃に住んでいた函館で、雪が降ろうと構わず三輪車を走らせたことがある。するとタイヤが横滑りしてブレーキも効かずに、危うく川に落ちそうになった。雪を舐めたらいけない。
 さて、長野駅からS村までどれくらいの距離があるのだろう。地図にある大きな道を辿りおおよその距離を割り出してみたら、山の麓まで三日掛かりそうだ。
 麓に着いた後は、橇では登れないから自分の足だけが頼りだ。S村のある山は標高約千メートルである。豪雪地帯での冬季演習を経験した鯉登にとって、決して無謀な高さの山ではない。これまでの経験はどれも無駄ではなかった。鯉登はその夜、北海道や樺太での日々を丁寧に辿りながら眠りについた。



 週が明けて陸大の卒業式翌日、鯉登は慌ただしく始発列車に乗った。目指すは新潟県S村だ。そして卒業を機に、憲兵らによる鯉登の監視も終了した。金塊騒動に一区切りがついた。
 これからは自由の身だ。好きにやらせてもらうぞ。鯉登は決意を新たにする。
 長野に到着したのは夕刻だった。改札をくぐる。降雪はなく曇り空だ。道路の雪は溶けている。長野駅周辺は、県内では雪が少ない方なのだろう。しかし空を見上げると、どんよりと重たい雲が一面に広がり、雪国特有の圧迫感がある。「懐かしいな」鯉登は思わずつぶやいた。北海道の空と似ている。だからたまに雲の切れ間からのぞく青空が、泣きたくなるくらいに清々しい気分にさせるのだ。新潟県への本格的な移動は明日からだ。その日、駅前の旅館に宿泊した。
 そして翌朝。目が覚めて真っ先に確認したのは天気だった。カーテンを開ける。幸運なことに、今日も降雪はなかった。道中の天候も荒れませんように。願いつつ馬橇の待機場所へ向かった。
 どこだ? 鯉登はきょろきょろと見回す。馬橇はいくつか見えるが、どれも自分の手配した橇とは違うようだった。その中に荷車を引くロバもいた。ロバの耳は馬より長くて、ウサギのような印象だと思った。その耳が気になり、近くで見たくて駆け出したその瞬間。
「おーい。こっちだ、こっち!」
 後ろから叫ぶ声がした。振り返ると軍装のような格好をした中年の男が、橇から手を振っている。既視感があると咄嗟に思った。そうだ、杉元だ。奴も着物と軍服を組み合わせた格好だったな。しっかりとした羊毛で作られているから、寒さをしのぐにはちょうどいいのだ。男は小林と名乗った。冬は馬橇で人や荷物の配送をしているが、春から秋は養蚕農家へ桑の葉を提供する仕事もしていると、自己紹介してくれた。
「将校さんはついてるねェ。昨日からこの辺は気温が高くなったから、道は雪が溶けてる。この調子だと案外早く着くかも知れねえよ」
「良かった。よろしく頼みます」と鯉登は頭を下げた。橇が走り出す。風が当たっても平気だ。耳が千切れそうな痛みを覚える旭川と比べたら、穏やかな気温だ。
「それでもさァ、今の時期にS村に行こうだなんて、他の奴なら断ってたさ。あんたが元北鎮部隊だったっていうから、引き受けたが」
「従軍経験があるのですか?」
「ああ、日清戦争へ行ってきた。それで足を怪我しちまったから、日露には行ってない」
「そうでしたか。感謝申し上げます」
「何だそりゃ、俺は自分の家族や仲間を護るために行ってきたんだ。だって国ってえのは俺らの家みたいなもんだろうが。別にあんたから感謝される謂れはねえよ」
 鯉登は思わず意表をつかれて、それからやはり男に感謝したくなった。東京駅で買った土産のことを思い出し「後で召し上がってください」と彼の荷物の隣に置いた。
軍服で街を歩けば、将校さんだ何だと持て囃される場合もある。が、一方では生活苦の不満を直にぶつけられることも、たまにある。「こっちは爪に火を点す生活なんだよ!」と。軍事費の割合を、批判しているのだろうと思った。ピークの日露戦争時と比較すると三分の一に減ったが、それでも欧州でのきな臭さを敏感に感じとって、懸念しているのだろう。鯉登は自分の役割というものを、改めて考える。
「ところであんた、階級は何だい?」
「陸軍中尉です」
「では中尉殿。明るいうちに、できるだけ先に進むであります!」
小林は鯉登の座っている後方に振り向き、にこやかに敬礼してみせた。
 天気が安定していた。予想よりだいぶ先へ行けそうだと思った。その後も彼は自分が入営していた頃の話をした。新兵は午後に学科をこなす。「週番上等兵殿が『学科集まれ、第三班!』と號令かけるでしょ。新入りはみんな腰掛け持ってその部屋に集まってさァ、そして講師の軍曹殿から『聯隊長殿の官姓名は?』って聞かれるんだよ。そうやって、沢山いる上官達の階級と名前を必死に覚えんだけど、何しろそれが二時間も続くんだ。眠たくてねェ」と苦笑いする。それでも「懐かしいねェ、休養班」と、こぼす。そんな話を聞きながら、この日は長野県と新潟県の県境付近まで進むことができた。陽が落ちる前に宿を探して休んだ。そして翌日、新潟県に入った。吹雪いてはいないが、ちらほらと雪が舞っている。道路に積もる雪も、次第に深くなってきた。昨日よりは橇の進む速度が明らかに落ちている。
「さて、この辺で泊まらせてもらおうか」と小林が言う。陽が落ちてきたから、急いだ方が良さそうだ。
「この辺りに旅館はあるだろうか?」
「無いねえ。だから民家に泊めてもらうしかねェよ。ほら、あっちにでかい家が見えるだろう?」
 小林が指さす方に、大きな茅葺き屋根の家が見えた。離れのような建物もあり、蔵もずいぶん大きい。裕福そうな農家のようだ。
「あのくらい広けりゃ、人間二人と馬一頭くらい泊まれるだろう。中尉殿、交渉してきてくれるかい? 俺みたいなくたびれた中年より、色男の軍人さんの方がすぐに話がまとまると思うぜ」
 立ち寄った家に鯉登が交渉してみると、宿泊は可能だと快諾された。ふたりは安堵する。しかし、鯉登はほんの少しだけ緊張していた。この家に、嫁入り前の娘や、息子の嫁などいないだろうか? いや、大きな農家だ。ほとんどの確率で、そのどちらもいるだろう。
 例の妙な風習のない土地だといいのだが……。鯉登は冬季演習での苦い経験を思い出してしまった。

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 その大農家の主婦に招かれ鯉登と小林が玄関を入ると、まず犬に吠えられた。広い土間に犬小屋があり、近くの柱に繋がれている。雪深い地域だと冬の間は、犬小屋を屋内に移動するのだと知った。家も広いから土間も広い。小さめの農機具もいくつか置かれていた。土間から障子を開けて上がると、座敷の部屋が四つ続いている。母家だけでもずいぶん広い家だ。奥の部屋へ通されると、その家の主人らしき初老の男がやってきた。小林より年上だ。旅の目的の話になったから、鯉登が「S村へ行きたい」と答えた。すると、たいそう驚かれた。
「しかも一人で登るのか? なんでだ?」
「そ、それは」
 鯉登は口ごもる。口外すれば、必ずどこかから捜索していることが漏れて、月島に繋がる糸が切れてしまうかもしれない。悪気はなくとも、人の口に戸は立てられないからだ。 何か無難な理由を述べようか。しかし鯉登は基本的に腹芸ができない。視線を彷徨わせていると、主人は察して「まあ、ゆっくりしていきなさい」と笑う。「ごくたまにね、いるんだ。命知らずというか変わり者っていうかさ。──あれは何年前だったか。真冬に一人で来た男も確かぐ……。おっと」
 主人は慌てて口をつぐんだ。そして鯉登と同じように、視線を彷徨わせる。口を滑らせたのを誤魔化すために、口笛でも吹きそうな雰囲気だった。
 ぐ、の次は何だ? 鯉登は尋ねたかったが、質問するならこちらも何か明かさないと公平ではない。だからお互い、茶を飲んでやり過ごした。
 その後、囲炉裏のある部屋で大人数で食事をした。家族構成は主人を中心とすると、祖母、妻、長男夫婦、未婚の次男と三女と四女、孫一人という四世代が住む家だった。たいそう賑やかな食事風景で、鯉登は少し樺太先遣隊を思い出した。懐かしさに一瞬だけ目頭が熱くなった。その後、ふたりは離れの部屋に通された。風呂に呼ばれたので鯉登が先に入った。部屋でひとり待つ間、明日以降の計画を練り直す。
 こうして民家に宿泊するのは、軍人にとって珍しいことではない。演習時の行き帰りでは、いつものことだ。だから鯉登も樺太以外に北海道内で経験がある。ただし経験があるから慣れている訳ではない。小林が湯浴みに行った今、部屋にひとりで実は緊張していた。
 もし夜這いに来られたらどうしよう。それは決して鯉登の自意識過剰ではなかった。
『兵隊さんと一夜を共にすると、お産が軽くなる』
その家の娘が宿泊する軍人と一夜を共にする風習のある地域が、存在するのだ。



 鯉登が任官した年の冬季演習は、T村で行われた。そこは旭川から北上して稚内の手前に位置しており、一月は氷点下四十度に近くなる日もあるという。歩兵第二十六〜二十八聯隊は、演習前にスキーとかんじきの訓練を終えていた。それでも、そのような豪雪地帯での訓練は難易度が高すぎやしないか、と鯉登は驚いてしまった。初年兵はまだ上官らの階級と名前と顔も一致していない時期だ。
「いきなり演習をするのか?」と鯉登は月島に質問する。
「はい。翌年に持ち越すと、十一月で除隊になったり転任する者が演習に参加できませんので」
 鯉登が驚くのも無理はなかった。と言うのも、陸軍の通常の年間計画とは大幅に違うからだ。
 他の師団はこうだった。まず十一月に新兵が入営する。一年間を第一期から第四期に区切り、訓練をこなしていく。そして第四期にあたる翌年の六月末〜九月末に実施される秋季演習が、一年間の訓練の総括となるのだ。
 それが第七師団だけは事情が違っていた訳である。なので鯉登は着任したばかりの一月に、難易度の高い豪雪地帯での遭遇戦の訓練を経験することとなった。
 旭川師団には歩兵第二十六〜二十八聯隊、騎兵、野砲兵、工兵、輜重(しちょう)兵が存在する。今回は歩兵第二十七聯隊と工兵、輜重兵が参加した。それらを二分割して、甲軍と乙軍に分かれて戦うこととなった。組分けで鶴見小隊はみな乙軍になった。
「少尉殿、靴下は三枚重ね履きしてきましたか?」と月島が鯉登に確認してきた。
「ああ、動きづらいものだな」
「はい、しかし冬季演習では凍傷にかからないことを、何よりも優先してください。手や足の指先がちくちくし始めたらご注意を。凍傷の初期症状です。つま先に唐辛子も入れましたか?」
「あっ、忘れてしまった」
「天幕へ戻りましょう」
 輜重兵が運んで設置してくれた野営天幕へ引き返す。その中は火が焚かれており、幾分暖かい。そして飯盒に雪を入れて火にかけて溶かしていた。飲み水にするのだ。気温が氷点下になる地域では、水筒の水が凍るから飲み水にすら苦労する。月島が待機している輜重兵に声をかける。「おい、予備の唐辛子袋があるだろう?」すると橇に乗せてきた荷箱の中から取り出して、渡してくれた。小さな巾着袋の中に、唐辛子が数個入っている。なんでも、唐辛子の成分に温める効果があるとのことだった。鯉登は巾着を両のつま先に入れる。それから月島と雪濠に戻る。
 今回の演習では撃ち合いをする訳ではない。どちらかというと、四日間の野営の寒さに耐えて無事に帰営することが、主な目的のようなものだ。鯉登は月島からそう説明を受けていた。だから鯉登は初の演習なのにも関わらず、大した緊張感はなかった。それに実戦の経験がないとはいえ、陸軍士官学校で学んだ知識があるから、うまく立ち回れる自信はあった。
 が、いざ始まってみると「月島の嘘つきめ!」と愚痴を言いたくなった。
 月島が斥候をすると言うので、鯉登もついて行った。あらかじめ計画した道程を、周囲の様子と時間を確認しながら進む。すると敵軍は演習場所の大雪原に、散兵線を敷いているようだと月島は判断した。
「少尉殿、十時と十二時の方向にある木の影から、光が反射したの見えましたか? 銃の金具か眼鏡のレンズだと思うのですが。それとあの岩場の近くに歩哨線があるようです」と耳打ちしてくる。
「うーん……、月島は目がいいな」と鯉登が褒めると「ありがとうございます。私は勉強をしてこなかったので、視力には自信があります」と謙遜する。そうして月島は、仮設敵兵の潜む場所を割り出した。
「戻ってこちらの歩哨に伝えましょう」
「そうだな」
 道順通りに自陣へ帰り着く。合言葉で確認をした後、月島は歩哨兵に敵兵の位置を伝えた。仮司令部へ戻り、同じ内容を傳怜(でんれい)兵に伝える。鯉登は雛鳥のように、月島の後ろをついて回るだけだった。すると、雪洞にいた尾形が「こんな風に兵が散らばっている時には、特に狙撃が有効なんですよ。だから狙撃部隊が必要だって何度も言ってるのに」とぶつくさ言っていた。それでも今回の演習では敵兵を発見しても撃つ訳ではない。だから鯉登は「ただ発見するだけはつまらんな。雪玉でも作って投げるか」と冗談とも本気ともつかないことを言ってみた。すると月島は思わず吹き出した。
「投げたらそれを皮切りに、雪合戦が始まりますよ」
 中食の後、雪洞作成や野戦築城を工兵と一緒に確認した。斜面を覆う硬めの雪を掘り、人が休める大きさに作る。鯉登はかまくらで遊んだことがなかったから、雪洞の中が意外と暖かいのだと初めて知った。午後二時になると「演習止め」の喇叭(ラッパ)が鳴る。夜は背嚢を枕にして軍装のまま眠った。



 T村での四日間の演習を終えて、帰途に着く。まず五十キロメートル南にあるN村まで、かんじきやスキーを駆使して目指す。N村は演習場所から一番近くにある大きめの村で、国鉄の駅がある。そこまで着いたらなら、もう一息だ。ここから旭川駅までは列車移動だからだ。ここで休憩を兼ねて一泊して帰営する計画となっていた。
 例の娘による夜這い騒ぎが起きたのは、このN村の民家に宿泊した時のことだった。
 鯉登、月島、二階堂と三人の二等卒と一緒に、大きな農家に宿泊した。部屋割りは鯉登が一人で一部屋を使い、月島らが五人で一部屋だった。これは鯉登自身が希望した訳ではなく「将校は下士官・兵卒とは別の部屋」という慣例があった。
 夕食と風呂を借り、布団に潜り込む。演習中は風呂に入れるはずもなく、靴すら脱げない。だから着替えて風呂に入り、布団で眠れるのがまるで天国のようだった。布団の重みが、鯉登が普段使うものと違う。軽くて暖かい。ああ、これは藁の布団なのだな、と鯉登は思った。確か官舎も藁布団だと月島が話していた。そんなことを考えているうちに、すぐに睡魔に襲われた。
「──お休みのところ申し訳ございません」
「なんだ?」
 声が聞こえたから、鯉登は軍刀を手にして飛び起きた。襖を開ける。何か緊急の案件かと思って緊張する。そこにいたのはこの家の娘だった。
「何かあったのか?」
「はい、将校さんに折り入って頼みがあります」
「頼み? 今ではないと駄目なのか?」
「はい。あの……、ここではちょっと、……」
 娘の声は消え入りそうで、様子もどこか落ち着きがない。
「どこならいいのだ?」
「部屋の中なら」
 鯉登は訳が分からない。しかし娘の様子に思い詰めたものを感じるので、招き入れる。彼女は布団の横に正座すると、息を整えた。そして何かを吹っ切るように、こう言った。
「今晩、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「は? ご一緒?」
 どういう意味だ、一緒とは。この娘は、寝ている私の隣で起きて不寝番でもすると言うのか?
「なぜ自分の部屋で寝ないのだ」
「……なぜって、その、将校さんと一夜を共にすると、お産が軽くなると昔から言われております」
「は?」
 そこまで説明されて、鯉登はようやく合点が入った。要するに娘は鯉登に抱かれに来たのだ。
「ちょっと待て、お産が軽いって……、それは迷信だろう? どこの馬の骨かも分からん男と一夜を共にするなど、親が聞いたら泣くぞ」
「いえ、この辺りではむしろ親が勧めるのです」
 鯉登は絶句した。親公認なのか。そこで鯉登は「では何も問題ないな」と舌なめずりして手を出せるような男ではない。しかしどう言って断ればいいのかも分からない。全く想定していない事態だ。
「少尉殿」
 襖の向こうから声がした。月島だ。
「まだ起きているぞ。入れ」
 鯉登がすぐに返事をすると、すらりと襖が開いた。月島は娘を一瞥して「夜分に申し訳ございません。小隊長殿からの傳怜をお伝えするのを失念しておりました」と言う。
「何? 今頃思い出したのか。全くなっとらんな、お前は」
 鯉登は大袈裟にため息をつき、呆れた顔をする。
「は、申し訳ございません」
 月島は畳に額を擦り付ける姿勢で謝罪する。
「そういうことだから、すまんが引き取ってくれないか」と鯉登は娘に言った。すると彼女は「失礼しました」と一礼して部屋を出て行った。襖が閉まり、娘の足音が遠ざかるまで、二人は息をつめて待った。そして何も聞こえなくなると、鯉登は軍刀を置いた。
「……。月島、助かった」
 鯉登が不機嫌そうな顔を元に戻して、静かに感謝の気持ちを告げる。
「はい、余計なお世話かもしれないと思ったのですが、お困りのご様子だったので。つい差し出がましい真似をしてしまいました」
「月島は知ってたのか? 『お産が軽くなる』という言い伝えは本当の話なのか?」
「ええ『一夜限りの兵隊さんに惚れて、ついちゃ行かれず泣き別れ』という歌もあるのです。私は尾形から聞いたのですが、千葉や茨城でも似た話があるようです」
「そうか、関東でもあるのだな」
「往路でもこの村で宿泊したでしょう。その時は誰も夜這いには来ませんでしたか?」
「ああ、誰も来なかった」
「娘がいない家だったのでしょう。それか、米を交換してくれと言われませんでしたか?」
「米? ああ、確か交換していたはずだ」
「軍が持参する米を食べてもお産が軽くなると言われているようです」
「そうだったのか。理由までは聞かなかったから、単なる物々交換なのかと思っておった。それにしても一夜限りの関係を、親が勧めるとは……」と鯉登が顔をしかめる。
「少尉殿のように拒む男の方が、少ないですからね」
 月島がそう言うと、鯉登はますますしかめ面になった。
「私は聯隊騎手を目指しているのだ」
「そうでしたか。しかし『童貞だと弾に当たらない』も『お産が軽くなる』と同じ迷信の類ではないでしょうか?」
「もちろん私だとて本気で弾に当たらない効果があるとは思っとらん。ただ、私はそうまでして関係を持ちたいとは思わないだけだ」
「……そうですね。実は私も少尉殿と同じ意見です」
「つ、月島」
 鯉登は意外に思った。未経験だと知ると、大抵の男は「女はいいぞ」とモテ自慢したり、先輩風を吹かせる男ばかりだったからだ。この男はなかなか信頼に足る人物のようだ。さすが鶴見中尉殿の右腕を務めるだけはあるな、と鯉登は思った。
「月島、今夜はここで寝てくれ」
「え」
「『傳怜』が済んだと知れたら、また娘がやってきたら困る」
「では今日はここで休ませてもらいますが、今後も宿泊の際の夜這いはよくあると思います。上手な断り方をちゃんと考えておいてください」
「相分かった」
 そうして隣から月島の布団をそっと運び入れ、安心して眠ることができた。



「……月島」
 薄日が差しているのに気が付き、鯉登はハッと目覚める。同じ部屋で眠っているのは月島ではなく、馬橇の小林だった。
 そうか、夢か。でも夢ですら月島が出てくるのは、本当に久しぶりだった。鯉登は子供の時からよく夢を見る。それなのに、あんな別れ方をして以降、月島は夢にすら出て来なくなった。寂しかった。だから夢に出るくらいしてくれてもいいのに、とずっと思っていた。けれど実際に夢に見たら悲しくなった。会えない現実が余計に胸に突き刺さる。鼻の奥が少しつんとする。早く会いたい。
 起きて真っ先に天気を確認する。今日も曇りだ。悪くはない。身支度を整えて、朝食をご馳走になる。かんじきを履き出立の準備をしていると、主人がやってきた。
「S村はこの前の道をひたすら登って行ったら着く。道はずっと沢の左横を平行するから、分かりやすいだろう。ただ雪崩には気をつけてな。二日前から気温が少し高めだからさ」
「はい、承知しました。お世話になりました」
「家から少し先に、祠があるんだ。そこにお参りするといい。御山の神様だ」
 そして主人と孫が鯉登を見送る。最後に「神隠しに気をつけろよ〜」とニコニコと手を振っていた。
 そこから鯉登はひたすら歩く。大農家の主人の言う通り、道はずっと沢の隣を通っている。沢の水は凍っているけれど、きっと北海道の川の水のように澄んでいるのだろうと思った。飲めないのが惜しい。天候には気を配りつつ、でも無心で足を前に進める。右、左、右、左。これを繰り返せば五時間後くらいには、村に到着するはずだ。
 右、左、右、左と鯉登の頭の中で繰り返される単語が、箸、茶碗、箸、茶碗にすり替わる。「ふふ」と思わず笑みがもれる。
 それは歩兵教練での、歩調と分列行進の掛け声だった。



「號令」と声がかかると、続けて鯉登が声を張る。「前へ、進め!」
 兵達は決められた歩幅と速度で前に進む。──右、左、右、左。一歩の長さ、踵より踵まで七十五センチメートル、その速度は一分間に百四十歩。左脚を軽く屈めて前に出し、足尖を少し下げ、且つわずかに外側に向け、上(たい)(たい)を少し前にし、右足より七十五センチメートルの所に脚を伸ばし、平に踏み着ける。同時にひかがみを──。
「足が揃ってないぞ、やり直しだ!」
 隊列の乱れを認めて、鯉登が教練のやり直しを命じる。そうして三〜四度繰り返しても、どうにも揃わない。どう指導したものかと首を捻っていると、月島が隊列の向こう側からやってきて耳打ちした。
「少尉殿、掛け声を変えてください。右、左、右、左ではなく、箸、茶碗、箸、茶碗とおっしゃってみてください」
「はあ? そのような指導方法は聞いたことがない。私を馬鹿にしているのか月島軍曹」
「違います。子供の頃に右と左を教わっていない者もいるのです。だから右、左と言われても、咄嗟にどちらか分からず反応が遅れます。ですが『箸を持つ方』『茶碗を持つ方』と言うと、無意識でも間違えずに早く反応できます」
「そうか。これまで箸、茶碗という掛け声で、教練する時があったのだな」
「はい」
 月島に言われるままに、箸、茶碗と声を掛けてみた。すると歩幅も速度も揃うようになったから、鯉登はまたひとつ月島に感謝した。こんなのは教本に書いてある訳がない。先任軍曹は伊達じゃないな、と尊敬した。
 ずいぶん後になって知ったのだが、右と左が咄嗟に分からないのは月島自身の話でもあったと聞いた。歩兵第十六聯隊には、右と左を習わないまま大人になった者も時々いたのだそうだ。大抵の場合、家の農作業の手伝いで忙しく、冬の間しか小学校へ通わない子供だった。行進の教練では彼らと共に月島も苦労したそうで、「箸、茶碗」と唱えて行進していたのだそうだ。
 月島が昔の話をする事自体が稀だったし、しかも話終えてから決まりの悪そうな顔でくるりと背を向けるから、なんとかわいらしい面があるのだろう、と鯉登は瑞々しい気持ちになった。月島軍曹は、軍規を血肉としているような男だ。だから彼のその人間臭い綻びを、いつしか鯉登は愛しく思うようになった。
 そして実は月島と食事をする度に、その話を思い出していた。白くて艶々した白米がよそわれている茶碗と、箸を持つ月島の姿は、鯉登の気持ちをいつもふわりとあたたかくした。月島が無心になって食べていると安心する。それはすなわち、彼が自分の意思で生きようとしている姿だった。



 吐く息が白く、踏みしめる雪も白い。同じ白でも白米とは大違いだ。でもこの地方は、旭川の気候を彷彿とさせた。二〜三時間ほど歩き一度休憩して、そこから二時間ほど歩き続けた。
 杉や白樺が前方の景色を隠すから、後どれくらいで着くのか判然としない。周囲にはこの山より高い山脈が連なっている。でも勾配が緩くなったと感じた。三十分ほど歩くと、少し下り坂になった。ひょっとして、山頂に近いのかもれない。鯉登は胸の沸き立つのを感じ始める。さらに十五分歩くと平坦な道になり、右に直角に曲がっている。前方の道端に小さな祠がある。お地蔵様があり、毛糸の帽子を被って佇んでいた。そこから道の先を見る。吊り橋がかかっている。ずっと道の右隣にあった沢を渡るのだ。橋の先には景色が広がっている。人家らしき建物が見えるから、おそらくそこがS村だ。
 ついに到着した。鯉登は脚を滑らせないように橋を吊るワイヤーロープに捕まりながら、慎重に吊り橋を渡る。沢の向こう岸に着くと、駆け出す勢いで進んで行った。山の上の平坦な場所。どこもかしこも雪が積もっているから、道か田畑か分からない。かろうじて雪が踏まれている跡があるから、そこが道路なのだろうと思った。
 目的の鈴木正一の家はどこだ。誰か外を歩いていないか。数分進んだ先に、民家にしては小さめの平屋建ての建物が見える。そこに近寄り誰かいないか確認すると「共同浴場」と看板に書いてある。しかも温泉らしい。効能・効果は眼病。鯉登に届いた謎の手紙の内容と合致する。「ああ、やっぱりこの村だったのだな……」
 訪ねてきて良かった。ここに至るまでの険しさも、この瞬間にすべて浄化されたように感じた。建物の裏手は切り立った山肌になっており、岩盤の裂け目に巨大な霜柱のような白く細長いものが幾筋もあった。
「こ、これは……、凍った滝だ」
 鯉登は近寄る。
『清水や、音羽の滝は尽くるとも、失せたる物の出ぬはずはなし』
 母の唱えていた歌の続きが、すらすらとよみがえった。
「失せたる物の、出ぬはずはなし──月島が見つからないはずはない」
鯉登はひとりごちて気持ちを強くする。絶対に見つける。
「どちらさん?」
「キエエエエエエッ!」
 背後から声をかけられて、振り向き様に鯉登は反射的に軍刀の鯉口をきろうとした。
「あっぶな!」
 男が慌てて身を引く。少し小柄で坊主頭の若い男が立っていた。男が手に鈍く光る物を持っており、何かの武器かと身構えた。しかし、よく見るとそれは工具だった。数メートル先に工具箱らきし物も置かれており、何かの修理をしている最中だったのだと知れた。 それよりも、鯉登はすっかり油断していた。人がいるとは思っていなかった。独り言を聞かれてしまって恥ずかしい。男は鯉登を訝しげに見る。
「郵便配達じゃないよな? 誰かに用か?」
「あ、ああ。小林正一という男の家を探している。もし知っているなら、案内してほしい」
「あんた誰だ?」
「私は元上官だ。陸軍第七師団歩兵第二十七聯隊に所属していた」
「そうか。俺は正一の従兄弟だ。つーかこの村のもんは、みんな親戚だけどな」
「みんな?」
「ああ。あんた、この村のこと、何にも知らないで訪ねてきたみたいだな」
「……どういう意味だ」
「まあいいや。正一の家まで案内するわ」
 そこから十分ほど歩いて、小さめの茅葺き屋根の前に到着する。
「婆ちゃーん、客が来たぞー! 上がるからなー!」
 鈴木正一の従兄弟は、その家の主人の返事を待たずに忙しく土間から上がった。鯉登も遅れないように続く。正一の従兄弟が婆ちゃんと呼ぶ老女は、仏前で花瓶を手にしていた。鯉登は少し違和感を持つ。真冬で交通の遮断されたこの土地に、生花があるのか? そこで従兄弟と祖母が会話を始めて、鯉登の小さな疑問は霧散した。
「婆ちゃん、お客さん」
「ああ、ありがとう」
「なあ『子供達』だっけ? この男の事?」
「さあ?」
 従兄弟の質問に、正一の祖母はとぼけて返す。子供達? なんの話をしているのだ? 鯉登には全く推測もできない。祖母は腰が曲がっており、小さい背がさらに小さくなっている。彼女は鯉登の方に向き直り「座敷は寒いから、あっちの囲炉裏の部屋へ行きましょうか。腹も空いてるでしょ」と目を細めた。

3

自己紹介よりも何よりも「月島基はここにいますか?」と真っ先に聞きたかった。けれど鯉登は自分の気持ちをぐっと押し留めた。怖いと警戒されて何も教えてもらえなかったら、元も子もない。だからまず、鯉登はかしこまって自己紹介した。すると鈴木正一の祖母は「遠路はるばるありがとう」と、深々と頭を下げた。
 息子夫婦と孫である正一と妹は、約十年前に北海道に移住したとのことだった。この村は人里離れた秘境で主だった産業もないから、生活の糧を求めての決断だったらしい。それよりも、この村に住む一族はいつからこんな山の奥地に引きこもって暮らしていたのだろう。それこそまるで、流刑のようではないか。すると祖母は鯉登の気持ちを察したかのように、言葉を繋いだ。
「儂らはね、平の家系なんですよ」
「平家の……、そうでしたか」
 源氏に敗れた平家の子孫が、落ち延びた場所が日本全国に数ヶ所あるという。鹿児島県内にもそういった落人伝説の謂れのある土地があると、鯉登は祖父から話を聞いたことがあった。でもそれを知った時から不思議に思っていた。もう平安時代から七百年もの時が過ぎ去ったのだ。それなのに今でも尚、子孫は隠れて生きなければならないのか? と。鯉登は子供の時以来の疑問を、思い切ってぶつけてみようと思った。
「お言葉を返すようですが、今の時代、あなたたちを追う者はもういないでしょう?」
「その通りです。だから息子一家はこの村から出て行ったのですよ」
 北海道に移り住み、それから鈴木は第七師団に入営したのだろう。それにしても、祖母は一人残って寂しくないのだろうか。
「あなたは、どうしてここに一人残ったのですか?」
「年寄りはねェ、簡単に家を移ることはできないんですよ。ご先祖の墓もありますしねェ」
 そして囲炉裏端に座るように言われる。牡丹鍋をふるまってくれるらしい。白菜、蓮根、椎茸に猪肉が、鍋の中でぐつぐつと煮られている。猪肉は煮込めば煮込むほど柔らかくほぐれるというから、朝から煮ていたのだと言った。味噌の匂いが空腹を誘う。
そして鯉登は間を置いて、祖母に一番の要件を切り出した。
「月島基という男が、ここを訪ねてきませんでしたか?」
「ツキシマ? どんな人だい?」
「身長はこれくらいの元軍人で、かなりがっしりとした体格です。鼻がこんなふうに低くて、目が……」
 鯉登は、月島のことを語り出したら止まらない自分に気付いた。彼の話をするのは、この四年間ただの一度もなかった。「月島基」と名前を呼べるだけでも嬉しかった。でも「元軍人」と言わなければいけないことに、自分で傷ついてしまった。もう二度と同じ任務を遂行することはないのだ。
「そんな人は来たことないねェ」
「そうですか」と鯉登は気落ちする。
「こんな隠れ里までわざわざやって来るのは、郵便屋さんと行商人以外では、あんたで二人目ですよ。だから一人目がそのツキシマさんかと思ったんだけど、特徴が違うねェ」
「あの、一人目はいつ頃、どんな方が?」
「風変わりな人でねェ、ここで花を栽培しませんかと言うんだよ」
「花? こんなに寒い土地でも咲く花なのでしょうか?」
「なんでも、外地だか大陸だかで、たくさん栽培してる花だそうでねェ。『そんなにたくさんあるなら、わざわざこんな不便な所で育てる必要ないでしょ』と言ったら『買うのは高いから自分で栽培したい』んだと。でも儂一人で花の世話は無理だよ』とお断りしたら『丈夫な花だから放ったらかしで平気です。寒冷地でも咲くように改良します』と言うんだよ」
「改良?」
「そう。さすがに儂も妙な話だと気が付いてねェ。『それはひょっとして育てちゃいけない花かい?』と聞いたら、その人はただ笑ってたねェ」
 ちょっと待て。栽培してはいけない花を寒冷地仕様に品種改良して、秘境での栽培を持ちかける、だなんて……。鯉登の頭によぎったのは、鶴見だった。北海道でも芥子を栽培できる農地をずっと探していた。
「あッ!」
 鯉登は短く叫び、突然立ち上がった。そして座敷へ向かう。仏壇に供えられていた花は、芥子に似た花だった。でも一般的なポピーかもしれない。鯉登は複雑な面持ちで、囲炉裏端へ戻る。祖母はお椀の用意をしていた。
「あの、その人は鶴見篤志郎という名ではありませんでしたか?」
「名前は知らないんですよ」
「そうですか……」
 鯉登は肩を落とす。写真があれば良かった。しかし月島からもらった鶴見の昔の写真は、憲兵らに押収されてしまったのだ。鯉登の手元には一枚もない。鯉登の気持ちがしゅんと沈んだのを察したのか、祖母は元気に「さあお食べ」とお椀を渡した。鯉登は食事を始める。
「その人が来たのは、十年くらい前に一度きりだったよ。でもその帰り際に『お婆さん、一人で寂しくありませんか』って聞くのさ。寂しくないよと言ったんだけど『私が手紙を送りましょう』と言い残して帰って行ったんだ」
 そうして名前も知らない男から、祖母のもとに手紙が届くようになったらしい。だいたい一年に一度で、奇妙なことに住所・氏名が毎回違ったそうだ。でも祖母に手紙を送る相手など、その男以外にいなかった。だから、その男が律儀に約束を守っているのだとずっと思っていると、祖母は語った。
「あの、その手紙はどんな内容だったのでしょうか?」
「読んでみるかい?」
「いいんですか?」
「別に構わんよ」
 鯉登の頼みはあっさりと聞き入れられた。座敷にある箪笥に仕舞ってあると言い、取りに行った。五分ほどで戻ってくる。「全然大したことは書いてないよ。あんた、返ってがっかりするかもしれん」と言いながら鯉登に手渡した。手紙は八通あった。一番古い手紙の消印を確認すると、十年前だった。
 内容は本当に他愛もないものだった。文頭の「おばあちゃん」だけが定型だ。
「おばあちゃん元気でお過ごしでしょうか。今日は雪が一メートルも積もりました」
「おばあちゃんお元気でしょうか。おばあちゃんの着けた梅干しの味が恋しいです」
「おばあちゃん元気だったでしょうか。今日は初めて温泉に入りました」
 文面から何か個人を特定するものが読み取れないか、何か法則がないか鯉登は探す。しかし内容は至って普通の近況報告だ。しかし三通目を見た時に、鯉登はあることに気付いて戦慄した。
 筆跡が全て別人のものだ。
 慌てて残りの五通にも目を通す。住所も違う。差出人名も違う。筆跡も違う。これは、暗号に精通しているからこそ書ける手紙じゃないのか。だから鯉登は確信した。これは間違いなく鶴見篤四郎が送ったものである、と。
 そして最後の手紙に目を通す。消印の日付は半年前の今年六月だ。
「おばあちゃん元気でお過ごしのことと思います。ともが結婚すると聞きました。祝いに花を送ります。後で私の子供達がそちらへ行きます」
──子供達。
 この家まで鯉登を案内した従兄弟が『子供達』の質問していたが、これのことか。意味はあるのだろうか? 抽象的すぎて何を指しているのか、さっぱり分からない。
「『とも』というのは誰ですか?」
「儂の孫娘だよ。正一の妹」
「結婚というのは本当でしょうか?」
「本当さ。だからあの人は不思議なんだ。儂は返事なんていっぺんも出してないのに、うちの家族のことを知ってるんだよ」
「では『私の子供達』に心当たりは?」
「それはないねェ。だからあの人の子供達が、本当に訪ねてくるのかと思ってたんだよ」
 鶴見篤四郎かもしれない人物の子供達。それは彼に付き従った自分達のことか。鯉登は旭川に任官後の出来事をざっと振り返る。非番である水曜日の午後や日曜日に、茶話会と称して小樽の鶴見邸に招かれたことがあった。そこに集う兵卒たちは、みな人間関係に深刻な悩みを抱えていた。洗いざらい話される過去に共感することはあっても、家族と呼べるようなあたたかな関係とは真逆だったと鯉登は思う。
 いや、それでも鶴見にしてみれば、子供のように慕っていたのかもしれない。憶測でしかないけれど。
 その晩、鯉登は手紙の更なる解読を試みたけれど、鶴見や月島に繋がる何かは分からなかった。しかし暗号解読をして脳病院送りになるのも、分かる気がした。鯉登自身、その晩は手紙に取り憑かれたような心持ちになった。
 いかんな。明日はあの山道を下って帰らねばならないのに。そうして頭が冴えていた気がしたのに、目を閉じるとすぐに眠気が訪れた。



 翌朝、朝食をご馳走になり、帰り支度を整える。それから宿泊させてもらった謝礼を贈ろうとしたら、祖母は断った。「そんなもん必要ない。でもね、一つ頼みがあるから聞いてくれませんか」
「なんでしょうか?」
「孫娘にこれを届けてくれませんか」
 祖母が座敷から持ってきた桐箱を開けると、その中には髪結の道具が入っていた。そのうちの一つ、ふっくらとした花と蕾が形作られた飴色の簪が、ひときわ目を引く。それと櫛や前挿の一揃えが、きちんと並べられている。祖母が「花嫁が綿帽子を被る時に挿す物だよ」と説明してくれた。鯉登は簪には詳しくはないが、それでもこの素材は見たことがある。白べっこうだ。これはおそらく、とても高価な品だ。それに、花弁の表現するやわらかさと繊細さには目を奪われる。その形は花嫁そのもののようだと感じた。
鯉登はにわかに緊張して、祖母に確認する。
「このような大切な品物を、他人である私に託すのですか?」
 すると祖母は意外そうな顔をした。
「儂も母親から受け継いだ品だから、高価かどうかは知りません。でも箪笥に眠っているだけなら価値は無い気がするよ」と惚けて相好を崩す。
「承知しました。お孫さんに必ずお届けします」
 鯉登はともの現住所が書かれた紙を受け取る。すると、その場所は何と夕張だった。それから鯉登は「もしここに月島基という男が来たら、ここに連絡をください」とお願いして、祖母の家を出発した。



 結果的に、ここも空振りだったな。一体どこにいるのだ、月島。
 次はどこを探せばいいのだろう。挫けない心を持ち続けたいが、それでも気弱になってしまう。「……ひとまず夕張か」
 その前に、一度東京の自宅へ帰って参謀本部で辞令を受けなければならない。赴任先によっては、容易に探しに行けないかもしれない。
 簪を夕張へ届けに行くのは、辞令の後がいいだろうか。鯉登は昨日登ってきた坂道をスキーで下りながら考えた。板で滑降するのはさすがに早く、登りの約半分の時間で麓まで下りてきた。板を外して背負う。そこで鯉登は、はたと気づいた。
 ここから先の、足がない。
「あああ、馬橇の手配をしていなかった!」
 鯉登は一人で頭を抱えた。長野駅までどうやって移動すればいいのだ。詰めが甘かった。その瞬間、月島が目を伏せてため息をつく姿が思い浮かぶ。これでも成長したつもりでいたのだ。それなのに肝心なところで抜けている。仕方がないから地道に歩いていくことにした。これでも歩兵科だ。数分歩いた先の道の真ん中に、大小の雪だるまがいくつも並んでいた。それらは通せんぼをするように佇む。そこには子供が遊んでいた。鯉登を見て「あ!」と叫ぶ。くるりと背中を向けて「じいちゃーん!」と呼びながら、かんじきで器用に駆けて行った。その先にあるのは、一昨日の晩、宿泊させてもらった大農家だった。「そうだ、あの家の主人の孫だ」
 鯉登も慌ててその家へ行く。すると先程の孫が祖父である主人の手を、引いて出てきた。
「長野に帰って行った小林さんにな、橇を出すように頼まれてたんだ。『あの軍人さん、帰りの馬橇を用意してないと思う』とな」
「の、乗せてもらえるのですか?」
「ああ、でも生憎だがうちには乗り心地のいい橇はないよ。農機具用の荷車になら、閑農期の今は乗り放題だ」
 そうして鯉登は馬の引く荷車に乗って、長野を目指した。手綱を握るのは長男だった。「確か長野駅から来たんですよね? 吹雪にならなければ、明日中には着くかなあ」
 それから一路、長野を目指した。小雪がちらつくが、積雪にはあまり影響がない程度だ。天気はまずまずだ。しかし鯉登は何かに後ろ髪を引かれる思いがしていた。なんだろう、このもやもやの正体は。
 郵便配達も通えない雪深い時期だから、鯉登が訪れなかったから一体誰に簪を託すつもりだったのだろう。孫娘も孫娘だ。子供の頃にS村に住んでいたなら、祖母が祝電すら届けられない時期だと知っているはずだ。それなのになぜ、冬に結婚式を執り行うんだろう。
「……いや、逆だな」
 こうして第三者が来ると知っていた。だから簪は偶然鯉登に託された訳ではないのだ。
「となると、次は夕張へ行け、という意味か」
 鯉登が小さくつぶやくと、前に座っている農家の息子から「何か言いましたか?」と聞かれた。「すまんが、行き先変更だ。これから北海道へ行きたい。新潟から船が出ていると聞いたことがあるのだが」
「えっ、北海道? 確かに新潟港から函館行きとか小樽行きの船はありますけど、山越えなきゃ行けないです。この道からだとまず無理です。いったん東京に戻って汽車で行く方が、安全で早いはずです」
 家から持参した地図を広げるが、この辺りから新潟方面への路線が全く無かったことを、鯉登は思い出した。だから往路と同じように、長野駅に連れて行ってもらった。
 そして家には戻らず、そのまま上野から青森行きの汽車に乗った。鯉登に残された時間は残り三日だ。約半日で青森に着き、そこから船で函館へ。函館から鉄道で夕張へ。
 函館発、午前四時四十分。実に三年ぶりの北海道だ。行き先は夕張炭鉱だった。鈴木二等卒の父は、現場の古参主務者をしているという。坑道の堀進長を月に一度測定する作業があり、それを彼が担っていた。坑夫の賃金にも直結しており、責任のある立場だった。まもなく結婚する予定の妹・ともは、そこで事務員をしているという。鯉登は駅から乗合の馬橇に乗った。この辺りは例年通り、一メートルほどの積雪だ。石炭を運ぶ専用鉄道が発達しており、その線路を越える大きな橋が印象的だ。それらを眺めながら鉱山までやって来た。山の麓は作業員らの町になっており、郵便局から始まり食品・生活雑貨を取り扱う商店や赤提灯が見える。商店の店先では主婦たちが品定めをしていたり、立ち話をしている。その奥に進んでいくと、長屋が建ち並んでいる。住んでいるのは作業員ばかりだから、寮のようなものだった。そして道を一本隔てた向こう側には、戸建ての借家が立ち並ぶ。そちらは家族の多い作業員が暮らしていた。
 町の作りが第七師団と似ているな。初めて来た炭鉱で、鯉登は思わぬ郷愁に駆られた。そうしてなだらかな坂道を数分間歩いていくと、山肌が近づいた。すると大きな東家風の建物がいくつも見えた。選鉱場だ。そこからトロッコ列車のレールが伸びて、その先は坑道に繋がっている。坑夫が何人も行き来している。選鉱作業をしている婦人たちの近くでは、就学前の子供たちが遊んでいる。二階建ての建物が一棟あった。一階は作業員の休憩場所になっていた。外に付いている階段を登る。二階の一番奥が、事務室だった。



「鈴木ともという女性はいるだろうか? S村の祖母から預かり物をしてきた」
 鯉登は室内に入ると、一番手前に座っていた女性に、そう声をかけた。
「えっ、お祖母ちゃんから?」と、驚いた女性は勢いよく席を立つ。「あっ、ごめんなさい。私がともです」
 鯉登は簡単に自己紹介すると「遠路はるばるよくいらっしゃいました」と笑う。面差しが祖母と似ていると思った。「お掛けください」と奥にある長椅子に案内されて、お茶が用意される。鯉登は祖母から預かってきた簪を手渡す。
「ありがとうございます。これはお祖母ちゃんのお嫁入り道具だと聞いています」
「結婚式は近いのか?」
「あの、それは……。少し延期しているんです。そうだ、父が外にいますので、今呼んできますね」と、ともが出て行こうとする。鯉登は慌てて止めた。
「私はすぐに東京に帰らねばならい。だから担当直入に聞く。月島基という男は、ここにいるだろうか?」
「は、基さんですか……」
「こ、ここにいるのか!」
 鯉登は食って掛かる勢いで聞き返す。まさか北海道に、それも旭川からさほど離れていない夕張にいたなんて、考えてもみなかった。もしかして鶴見小隊は皆、外地や租借地に飛ばされたかもしれないと考えていた。とりわけ鶴見に何年も付き従った月島は、台湾や関東州じゃないかと思っていた。
「月島に渡したいものがあるのだ。呼んできてくれないか」
「はい、承知しました」
 どことなく意気消沈した面持ちで、ともは事務室を出た。その様子に鯉登は胸騒ぎがした。もしかして、憲兵や中央のスパイをしている誰かが現れるなど嫌な想像をした。それにもう一つ、決定的に引っかかるもの。
「基さん」とは何だ。
 呼び方にただならぬ気配を察する。結婚を控えた娘が、親しげに月島の名前を呼んでいる。この意味するものは、──ガラッと戸の開く音がした。鯉登は椅子から立ち上がる。
月島だ。
実に四年ぶりの再会だ。頭には鉢巻のように手ぬぐいを巻き、長着の袖をたすき掛けにして、尻端折りした裾からは股引がのぞく。顔はすすけて手も黒ずんでいた。そして何よりがっしりとした印象は以前と全く変化がなかった。
「こ、鯉登少…尉…」
 鯉登が駆け寄って、月島を抱き締めようとした。伸ばした腕を交わされて「お召し物が汚れます」と低く呟いた。困惑か、歓迎されていないのか。しかし小さな抵抗に挫けている場合ではないので、鯉登は月島の手を取った。右手を両手で包み込み「月島、探していた。会えて良かった」と伝えた。しかし月島は無言で視線を合わせない。会いたいと思っていたのは自分だけだったのか? 徒刑を機に縁を切りたかったのだろうか? 鯉登は不安になり、月島に言い募る。「月島、何か言ってくれ」
 すると月島は短く息を吐き、鯉登を見る。眉間に皺を寄せ、面倒くさいと言わんばかりの顔をした。それは昔よく見た表情だった。
「私はまだ当局からの監視が解けていません。だから、あなたは早くここから立ち去るべきだ」
「承知している。時間がないから手短に言う。月島、五日後に小樽港へ来てくれ」
 鯉登がそう言うと、月島はわずかに瞠目した。握った手が小さく震えて、動揺している気配を感じた。それなのに月島は、決断を口にするのは早かった。
「行けません。監視の目をかいくぐり逃げるなど、不可能でしょう。それに追手を振り切ったとしても、ずっとお尋ね者として生きていかなければならない。そんな生活は早晩破綻します」
「大丈夫だ。私に考えがある」
 鯉登が自信ありげにそう言うと、月島は呆気に取られて一段と目を丸くした。それからわずかに口角を上げた。馬鹿にしたような、それともすべてを投げ出したような、そんな顔をする。続けて嫌味たらしい声で「誘えば私がのこのこついて来ると考えたのですか?」と薄笑いを浮かべる。
「違う! 私たちは──」
 ガラガラガラ、と事務室の引き戸が開く。鯉登の言葉を遮るように入ってきたのは、ともだった。月島は握られた手を振り解き、ともに近寄り話をする。
「すまない。すぐに作業に戻る」
「いいえ、呼びに来たんじゃないのよ。せっかく遠方からお知り合いがいらしたから、基さんはもう今日は上がって飲みにでも行ったらどうだと、父からの言伝を伝えに来たのよ」
 その手には茶封筒が握られており、月島に渡そうとする。それを月島は黙って押し返す。
「気持ちだけありがたく受け取っておく。しかし、鯉登さんの方があまり時間がないとおっしゃっている」
「ああ! そうでしたね。ごめんなさい」
 ともは鯉登との挨拶を思い出したらしく、謝った。というよりも、この二人の親しげな雰囲気は何だ。ひょっとして下の名前を呼び合っているのか? ぐっと奥歯を噛む。鯉登は意を決してともに尋ねる。「あなたが結婚するお相手は、ひょっとして」
 それを聞くと、月島が振り向いて鯉登を睨んだ。鯉登は胸を撃ち抜かれたような衝撃を覚える。それとは対照的に、ともはパッと頬を染めた。
「ええ、実はそうなんです。訳あって延期していたのですが、はじ」
「少尉殿、何か私にも預ける品物があると伺いましたが?」
「あ、ああ……。その件だが、少し話をしても良いか」
「私は席を外しますね」と察したともは、すぐに退室していった。
「月島、あの娘と結婚するのか」
「……」
 月島は俯くだけで何も答えない。が、それが答えだった。鯉登の嫌な予感は当たった。
「あの娘を愛しているのか?」
「……」
「答えられないのか、月島」
「私は今の暮らしが大切なんです。だから、あなたもどうか、ご自分の今の生活を大切になさってください」
「……。月島、少し長くなるが聞いてほしい」
 鯉登は月島と離れていたこの四年間の出来事を、今洗いざらい話をすることに決めた。隠し事はしたくなかった。
「私は二年前に結婚したが、普通の夫婦のようにはなれなかった。だから、ここに来る前に離婚届を提出した」
 鯉登が告白すると、月島はみたび驚いた表情をした。
「……そうでしたか」と、ささやくような相槌をして、続けて何事かつぶやいたが、鯉登には聞き取れなかった。「もうおそい」と口が動いたように見えた。

4

 鯉登の元に縁談が舞い込んだのは、今から二年半前、陸大に入学して半年経った頃だった。
 釣書を持ってきたのは父だった。意外だった。というのも、父も母も息子が監視されている最中だと知っているから、そんな話を一切口にしなかったからだ。元より月島のことが忘れられないから、結婚が禁句になって返って気が楽になっていたところだった。
 相手の娘は、薩摩藩主・島津家の氏族──越前国・島津家当主の三女だった。当主である父は海軍中佐だ。そして長女の夫が海軍中尉、次女の夫は海軍少尉と聞いた。
 成る程。父親が海軍内での自分の足場を強固にするための縁談だろう。鯉登は縁談が持ち込まれた経緯をそう推測した。父の平二は中将に昇進したばかりだった。
 こういう縁組は別段おかしくはないし、見合い後は女性側には断る権利がある。しかし海軍一家なのに、陸軍士官である自分に嫁がせようとするのは違和感がある。
 奇妙に感じた鯉登は同封の写真もじっくりと見た。艶やかな振袖に陶器のような白い頬、それと対照的な口元の紅。一見すると普通の見合い写真だ。だが鯉登は娘の異様な点が目につき、そこから目が離せなくなった。彼女のその両の瞳は、まるで意思が宿っていないかのようだった。ぽっかりと空いた暗い穴。なぜそんな風に見えてしまったのか。一刻考えて、こう思い至った。──ああ、私はこれと似た目を見たことある。それは月島の見せた視線そのものだった。大泊や小樽で見た、あの目だ。
 この娘を無気力にしてしまった理由は何だ。鯉登はそれが気になって仕方がなくなり、結果的に見合いをするに至った。会ってみると鯉登の予想通りで、生気がなく人形のようだった。会話にも自分の意思というものがない。父親の手駒か。そんな風に育ってしまった娘に、同情心が芽生えた。
 一方、娘の父親はそれと正反対だった。生に対する意欲や執着の権化のような男だった。それは決して悪いことではないが、軍人としてどうなんだ。良い印象は持てなかった。
 見合いの後に父が「気が進まないなら、断ってもいい」と伝えてきた。というのも、父もこの度の縁談には当惑気味だと吐露する。聞けば、あちらの父が金塊争奪戦とその顛末を知っていると、匂わせてきたのだと言う。
 一体どこでその話を知ったのか。音之進がいわく付きの男だと知ってなお、嫁がせようとするなんて、正気か。きっとあの父親の中では、平二の階級と音之進の問題点を天秤にかけて、階級の方が勝ったのだろう。三人いる娘のうち一人くらいは、毛色の変わった嫁ぎ先でもいいと、計算があったに違いない。
 鯉登は静かに憤った。それならいっそ、自分が父親からあの娘を救ってやるのだと、当時は本気でそう考えた。かつての月島のような暗い目が、鯉登の脳裏にこびりついて離れない。
「しかしな、人を救うだなんて高慢な考えだったと、私は痛いほどに痛感した二年間だった」
 鯉登は俯いて語った。月島はただ黙って聞いていた。彼女の内面に月島を重ねて見てしまった事と、義憤に駆られて見合いを断らなかった事。そのどちらも月島と見合い相手に失礼千万なのに、血の上った頭では冷静な判断ができなかった。月島に会いたいと思っていたのに、気が付けば後戻りできない事態が進行していた。
 そうしてあっさり結婚が決まった。
 私は一体何をしているんだ。自分の馬鹿さ加減にため息しか出なかった。しかしこうなってしまっては、しょうがない。腹をくくるしかなかった。きっかけは同情でも、夫婦として共に暮らすうちに、きっと愛情が芽生えるのだろう。
自分にそう言い聞かせて始まった新婚生活は、当初から違和感が拭いきれなかった。決定的な問題がひとつ浮き彫りになる。
 妻となった人に触れることができない。
 手を握るのはまだいい。しかし、それ以上、背中に腕を回すことすら、どうしてもできなかった。それなのに妻は何も不平不満を言わない。それが逆に鯉登を苦しめた。
 普通の夫婦のようになれないのは、自分の努力が足りないのか。見合いであっても、自分の両親のように仲睦まじい夫婦は存在する。母を大切にする父を尊敬していた。だから同じようにできない自分を不甲斐なく感じた。
 ぎこちない一年が過ぎ、年始の挨拶に妻の実家を訪れた。その際に義父から「子供はまだ出来んのか。やり方を知らないんじゃないか」と揶揄された。内心、はらわたが煮えくりかえったが、結婚したのは自分の判断だったから、鯉登は黙って耐えた。ここで義父に言い返して、実家での妻の立場を悪くする訳にもいかなかった。
 そしてその年の九月、彼岸法要で親戚が一堂に会した日のことだった。義父が「結婚して丸二年になろうとしているのに、子供がまだできないのはおかしい。どこか体に異常があるのじゃないか。至急、医者に診せなさい」と妻を責めた。こんな公衆の面前で、法要とはまるで関係ない話題で自分の娘を貶めるなんて。
 この時ばかりは、鯉登は怒りを鎮めることができなかった。
「私が至らないばかりに、孫の顔を見せてあげられなくて申し訳ございません」
 睨みつけて声を張り上げ、頭は下げなかった。謝罪の言葉を口にしながら、喧嘩腰そのものだった。そうして大勢の前で義父の鼻っ柱をへし折るような態度をとったから、彼もまた怒りを露わにした。「ふん、不能だと分かっていたら、嫁がせたりしなかった」
 法要は台無しになったが、それを気に掛ける心の余裕すら鯉登にはもう無かった。怒りに任せてすぐに鹿児島から帰京した。帰って自室で盛大に落ち込んだ。これでも、忍耐強くなった気でいたのだがな。思ったことをすぐに口にして、行動に移してしまった挙句、この体たらくだ。父や母にも大いに迷惑をかけてしまった。そして、何より妻に対して申し訳なく感じた。
 ひと一人を救うだなんて、思い上がりも甚だしい。この結婚は、もう駄目になるだろう。
 陸大の勉強の合間に、徐々に身辺整理をしていった。そして卒業を目前にした十二月、離婚届にいつ判を押そうかという段階だった。背中を押したのが、鯉登の元に舞い込んだ謎の手紙だった。破綻した原因はすべて自分にある。鯉登は自分を恥じて、それを振り切るように、東京を後にした。



「だから月島に聞いたのだ。あの女性を月島は愛しているのか? と」
 同情が恋情に変わる日は訪れず、妹のような存在に近かったのだろうと思った。月島と何が違うのだろう? 月島に対してはこうじゃなかった。救いたいと思ったのは同じでも、同時に抱き締めてやりたいと思った。慰めて、ゆるして、それから──。
 鯉登は目の前にいる月島を、強く抱き締めたい衝動にかられる。駄目だ、理性的でなければ拒絶される。
 視線を逸らせて深呼吸する。気持ちを抑え込んで、月島の答えを待った。さっきみたいに即答しないなら、彼女を愛しているのかいないのか、分からないのだろうか。数分待っても月島が口を開く気配がない。そんな態度を見せられたら、どうしても期待してしまうではないか。月島は今でも、私のことを好いてくれているのか、と。
 一番確かめたい事柄は、聞く勇気が持てなかった。判断を迫って追い詰めたら、そこで糸が切れるような気がした。鯉登は時計を見た。時間切れだ。
「月島、これを返したかったのだ」
 鯉登は付けていた認識票を月島の首にかける。それから月島の唇に掠めるような口づけを残して出て行った。鯉登は階段の途中から地表に飛び降りる。そして全力疾走した。月島が認識票の名前に気づく前に、ここを離れなければ。
「こ、これは受け取れませんよ! 少尉殿!」
 月島の叫ぶ声が事務棟の方から小さく聞こえた。鯉登は選鉱場に繋いであった馬を借り、そのまま夕張駅まで走らせた。切符を買い改札をくぐり、時刻表を確認する。次の列車の出発時刻まで二十分ある。追いつかれて突き返されるかもしれない。鯉登はじりじりとして乗降場で汽車を待つ。
 月島に渡した物は、鯉登の名前の彫られた認識票だった。月島の物は鯉登がまだ身に付けている。鯉登は願う。それを持ってどうか、小樽港まで来てくれ。
 月島との間にあった紐帯は弱いものだった。恋と性欲を混同していたのかもしれないし、愛を信じるには勇気が必要だった。それでも二人の間にあった絆は、脆くはなかったと思っている。目に見えず不確かなものだからこそ、強かに繋がっていたのだ、と。それも当然だと今なら思う。お互いの存在が、心を強くしたのだから。
 青森で船から再び汽車に乗る。車窓から見える景色は、北海道とさほど変わらない雪が一面に広がる。思い返せば月島との日常は、雪の中が多い。初めて雪の結晶を見た時の話もしたことがある。
「月島ァ、ほら見てみろ。この形の結晶を見たのは、子供の頃以来だ」
「一年前の冬季演習でも、確か同じ話をしましたよ。鹿児島でも雪が降るんですね、と言ったじゃないですか」
 少し呆れながらも根気強く鯉登に付き合う。他愛もない事柄で笑っていた日々に思いを馳せる。鯉登と月島の信じるものは同じだと、疑いもなく思っていた。



 一日半かけて帰京し、参謀本部で辞令を受けた。鯉登の予想通り、東京を出ることになった。引っ越しと移動日を含めて、赴任先での着任式に一週間の猶予がある。鯉登は直ちに東京を発った。月島と約束した小樽を目指す。夕方に出て翌々日の早朝に到着する。船の出港は一時間後。券売所兼待合室の隅で、行き交う人々を見ている。
 今朝六時出港の船に乗る、と書いた紙を月島には渡した。口付けする時に着物の懐に捩じ込んだ。
 月島はまだ来ない。時計を見る。出港まで後二十分だが、五分後に乗船手続きが完了する。だんだん心臓の音が煩くなる。窓口に並ぶ人の列が長くなる。手続きが完了した人は外に出て、船の手前の乗船口に並んでいる。
 後一分。ここで待つ時間が永遠に思われた。待っている間は期待が持てる。私はここでお前が到着するのを待つぞ、月島。心配だろうが、ちゃんとお前の身の振り方は考えている。だから安心して、身一つで来てくれ。
それからわずかに空気が動いて、辺りに窓口からの声が響き渡る。
「間もなく乗船手続きが終了しまーす! まだお済みでないお客様は、至急窓口までお越しください」
 時間切れだ。
 鯉登は窓口に向かい、自分一人分の手続きを済ませた。それから十五分後、大泊港行きの船は出港した。



 二等船室の乗客のほとんどは、到着まで眠っている者が多い。鯉登は個室の一等船室を取ったが、役に立たなかった。肝心の月島がいない。できるだけ他の乗客に顔を見られないようにして、小樽から大泊へ行くつもりだった。
 鯉登の行き先は、大泊から豊原に寄って、その後にウラジオストクへ向かうことになっていた。
 鯉登は客室へ入らず甲板から海を眺めた。実は鯉登は、船酔いをあまりしなくなっていた。それにふと気づいたのが四年前だ。足が鉛のように重くて動かすのが億劫で、だから客室を探すのを諦めて外にずっといた。顔が冷たい。雪が当たって溶けるから当然だ。空を見上げる。見渡す限りの灰色の雲から、白いものが無数に舞っている。不意に思い出したあの和歌を唱えたくなる。
「清水や、音羽の滝は尽くるとも、失せたる物の……」
 船員から声を掛けられる。
「お客さん、流氷で船がかなり揺れそうなんで、客室に……、ヒッ」
 船員は妙な声を上げて言うのを止めた。鯉登がそちらを見ると、青ざめている。「もうしばらくしたら呼びにきますね」と苦笑いを浮かべて去って行った。
 なんだ、失礼な奴だな。私の顔がそんなに変か。鯉登は手袋を外して素手で頬をぺたぺたと触る。濡れている。雪か? いや、これは涙だ。
「……う、」
 嗚咽が漏れるのを抑えきれなかった。悲しみは胸の奥底から止めどなくあふれて、胸や喉や腹筋まで痛みを伴う。涙も声もまるで制御できない。
 振られた。
 一言で表せばそうだった。月島に振られた。監視を振り切って逃亡だなんて、一か八かの賭けであることは重々承知していたのに、なぜか鯉登は「月島は必ず自分を選んでくれる」と思い込んでいた。月島が自分を誰よりも大切に想ってくれていることは、伝わっていた。だから鯉登はついてきてくれると考えて計画を練ったが、それはただの願望に過ぎなかった。
 自分の存在が、きっと迷惑になるから。
 そう考えて行動するのが月島基だった。彼は「自分の意思で動いていない」のでない、厳しいほどの客観性と公共性を持って行動しているのだ。鯉登はそういう月島が、好きだった。
 周囲に配慮する余裕などなく泣き続ける鯉登に、船員は再び声をかけるのをためらった様子だった。氷にぶつかり船が揺れる。
 でもこれまで生きてきて一番好きな男に、共に生きることを拒否されたのだ。もう二度と会えない。これから先どうやって生きていけばいいのか、本気で分からなくなった。
 新聞の三面記事で見かけるような、妻の浮気を発見して相手諸共殺害した事件や、一緒になれない末の心中を、鯉登は冷ややかな目で見ていた。誰かと添い遂げられないからといって、死を選ぶのは大袈裟ではないか、と。
 でも今なら分かる。
 ふと身を乗り出して、凍った海を見る。ここから飛び降りれば悲しみを止められるだろうか。しかしそんな自分を知ったら、今度は月島が悲しむだろう。やはり、自分で死を選ぶべきではない。同じ世界のどこかで生き続ける月島のためにも、私は最後まで生きて生きて生き抜くべきだ。
 そして船は大泊港へ着岸した。
 人の波に流されて、鯉登は樺太の地に降り立った。四年ぶりか。樺太先遣隊の思い出があふれそうになって、慌てて蓋をした。今はとにかく足を動かして、豊原を目指そう。少し歩くと鉄道が敷かれていた。そうか、樺太もあれから変わったのだな。豊原まで予想より楽に移動できそうだ。安堵した。そして鯉登は、大泊駅の待合室に腰掛けた。時刻表をぼうと見つめる。次の列車は一時間後か。生き続けることを決意したけれど、だからといってすぐに気持ちを切り替えられる訳ではない。鯉登はしばらく何も考えずに座っていた。待合室には人がいなかった。人の目がないから、余計に腑抜けていたのかもしれない。
「少尉殿」
「……」
「鯉登少尉殿」
「……」
「失礼いたしました。昇進なさったのですね。鯉登中尉殿」
 鯉登は顔を上げる。目の前に男が立っていた。
「……、つ、つきしま」
「はい、鯉登中尉殿」
 鯉登は勢いよく立ち上がる。突然現れた男は、月島だった。着物姿で頭巾を被り、雨河童と毛布を羽織っている。
「月島……、お前どうして……」
 止まっていた涙が再びあふれ出す。鯉登はすぐにしゃくりあげて泣き始めた。
「う、うう……、すまん月島」
 鯉登は手巾(ハンケチ)で涙を拭う。「でも、止まらないのだ……」と弱々しく言う。
「大丈夫です。みっともないとは思いません」と月島は断言する。
「金輪際、会えないのだと思った」
「その件でお話があります。少し長くなりますが……。私の話を聞いてくださいますか?」
「……うん、もちろんだ」



 月島は金塊争奪戦後の経緯を語り始めた。
「私は怪我を負って三ヶ月ほど入院しておりました。退院後に非公開の軍法会議に出廷し、私は除隊となりました。そして北海道から出てはならないという制限がありました。監視付きですが、一応は自由の身となった。しかし私には帰る家もなければ頼る血縁者もいない。目的もなく、生きていてもしょうがないんじゃないかと思いました」
「つ、月島……」
 鯉登は激しく動揺した。死ぬことまで考えたなんて。
「冬山に入ろうか、海に沈もうか。人様にご迷惑をかけないなら、どちらでもいいと思った。そうして上野から憲兵に付き添われて汽車に乗りました。乗っている途中で、最後にやり残したことがあったと、ふと思い出しました。前山と江渡貝の墓参りです。金塊争奪戦が終わったら、この二人には報告に行こうと決めていました」
 生前、前山の実家は札幌だと月島は聞いていた。先に札幌へ行き、それから夕張に足を伸ばした。江渡貝は炭鉱近くの墓地に埋葬されているのだと、爆発事故後の調査で月島は知っていた。そこは剥製の製作のために、江渡貝自身が墓あらしをしていた墓地だった。
 そうして江渡貝の墓前に佇んでいる時に、月島は鈴木二等卒の父親と出会った。彼はいきなり「あんた、坑夫の誰かの家族かね?」と尋ねてきた。というもの、その墓地は夕張炭鉱での事故で死亡した者が、多く埋葬されていたからだ。
「……まあ、はい、そのようなものです」と月島は曖昧に答えた。
「やはりそうでしたか。お悔やみ申し上げます。そして、現場の責任者として謝ります。謝っても許されないことですが……。事故を防ぐ手立てを考えたいです……」
「いいえ、謝らないでください。ガス爆発は、誰のせいでもありません」と月島は答えた。父親の表情はやや和らぐ。「あんた、優しい人だ」
 そう言われて月島は恐縮した。
「こんな所で立ち話も何だから、一杯どうだい?」と酒を飲む仕草をした。
 月島には幾らかの貯金はあったが、墓参りが終わったら死ぬつもりでいたから、所持金は少なかった。元より月島は、初対面の人と酒を酌み交わし、会話を楽しむような気質ではない。それなのに、断ろうとしたその瞬間、月島の腹の虫が鳴いた。
「あんた腹減ってんのかい。金は持ってるのか? 仕事は? それより、この辺に住んでるのか?」
 父親から質問責めにされた。面倒見のいい男なのだろう。そうして月島は、話すつもりのなかった身の上話をした。仕事は首になったこと、住む家もないこと、身寄りのないこと。すると彼は月島に提案した。「あんたさえ良ければ、うちで働かないか? 十日前の爆発事故で、作業員が八人亡くなったんだ」
 坑夫が足りないのだと言う。炭鉱では大なり小なりガス爆発が頻繁に起きるから、万年人手不足なのだろうと思った。誰でもよかったのかも知れない。それでも月島は嬉しいと思ってしまった。体より先に心が死んだようだったから「ああ、俺にはまだ血が通っている」と感じた。
「行くあてのない私に、とても親身になってくれました。死ぬくらいならここで働くといい、と言ってくれました。だから私は決意しました。ここで炭鉱のカナリアになろう、と」
「炭鉱のカナリアか」と鯉登が繰り返す。
「誰よりも早く爆発の兆候を見逃さず、事故を未然に防ぐ。こうしてまた拾われた命なら、そういう役割に徹して生きようと決めたのが、四年前でした」
 月島は坑夫として新たな人生を始めた。炭鉱の近くにある長屋に住み、食べる物を買う以外には町から出ることも滅多になかった。監視されている身だから、それでちょうどいいと思った。月島が働き始めてから、爆発事故がぴたりと止まった。それはただの偶然かもしれないが、自分の役割を果たせていると実感できて、充足感が確かにあった。残りの人生、こうして暮らしていけるなら十分だと思った。
 転機が訪れたのは、昨年だった。鈴木の父が「所帯を持つ気はないか?」と聞いてきた。自分はその資格のない男だ、と返事をした。
「実は俺の娘がな、家では月島君の話ばかりするんだ」と照れたように笑った。鈴木の娘・ともは炭鉱の事務をしている。月島は軍で培った経験があるから、事務作業も実は難なくこなせた。それは他の坑夫にはない特技だった。月末の忙しい時には、ともを手伝う日もあった。
「考えといてくれないか」と父親に肩を叩かれた。月島は困り果てた。誰とも結婚するつもりはなかったから、何と言って断れば角が立たないのだろうと悩んだ。
 そんな折、事故は起こった。
 炭鉱を持つ会社に、書類を届けにともと月島が出ていた日だった。ガス爆発が起きて、兄の正一が亡くなった。ともは会社から戻って兄の死を知った。兄妹仲が良かったから、悲しいと一言でいい表せる物じゃないだろう。それでも、ともは一度も涙を見せることなく、いつものように振舞った。ある時、事務棟の裏でひっそりと涙を流していると噂を聞き、月島は頭を殴られたような衝撃を受けた。平気なはずないじゃないか。あんなに仲が良かった兄が、突然いなくなったのだから。
 一日でも早く彼女が立ち直れるように、自分にもできることがあるはずだ。月島は数日間考えて、こういう結論に達した。──家族は多い方がいい。そうすると家の中が明るくなるし、うるさいくらいに話もできる。そうしたら兄の死も少しずつ癒されていくはずだ。
 こうして月島は結婚を決意した。
 月島は鯉登をチラリと見た。嫉妬で不機嫌になっていないだろうか。すると、目の前の男は以外にも穏やかに笑った。
「月島は本当に優しい男だな。私の自慢の伴侶だ」
「は、……はん……りょ……」
 なんてことを言うんだ。
「そんなに動揺することか? 私はお前と添い遂げるつもりで迎えに来たと、分かっていただろう? それよりも何だ、結婚の動機が……、私の場合と似ているな」
 鯉登が「うふふ」と笑う。予想外の反応で、月島は拍子抜けした。会えなかった四年間での成長を実感した。彼の笑顔は月島の胸にも伝わって、穏やかになれた。
 あなただって私の自慢ですよ。
 月島はまだ口に出す勇気がないから、心の中で告白した。
「それなのに、なぜ私を選んでくれたんだ? 続きを聞かせてくれ」
「はい。それから半年後、私が炭鉱会社に出向いている間に、また爆発事故が起きたのです」
 その時の犠牲者は三十人。挙式を三ヶ月後に控えていたが、延期せざるを得なかった。そうして喪に服している間に月島の前に現れたのが、鯉登だった。
 月島は大いに動揺した。二度と会えないと諦めていたのに、その鯉登がともの嫁入り道具を持ってくるだなんて、天の配剤だろうか。
「正直なところ、あなたに引導を渡された気分でした」
「つ、月島……! 私はそんなつもりじゃなかった」
 鯉登が月島を抱き締めた。力の加減を忘れて、ぎゅうぎゅうと苦しいほどに。それでも月島は「苦しいから離してください」と言うのは止めた。それより新たに発見したことがある。「鯉登中尉殿、さらに逞しくなられましたね」
 胸の厚みが増した。上腕も太くなっている。そういう変化を見つけて口にしたら、昔から鯉登の体に詳しいと言っているのも同然だと気づいた。月島は急に気恥ずかしくなった。羞恥心を隠すために、鯉登の肩に顔をうずめた。
「続きをお話しします」
「ああ」
 鯉登が夕張炭鉱へやって来た時点で、月島の監視は終了していなかった。正確にはいつまで見張られているのか知らされていなかった。鯉登の場合は、陸大卒業までと伝えてあったらしい。処罰の軽重は、やはり一人ひとり違うのだなと知った。月島はさらにロシア語を使うことも禁じられていた。鶴見に近しい自分の監視が終了するのは、まだ当分先だと思われた。だから鯉登に請われて逃げても、絶対に彼に迷惑をかけてしまうと思った。だから一緒に行けないと、別れを決断した。
 ただ一つ気になったのは「私に考えがある」と鯉登が断言したことだった。
 鯉登に会った次の日、また事故が起きた。
 月島はいつものように、つるはしを持って坑道で作業をしていた。月島より手前で作業をしていた男達が「なんか今朝方さあ、煙突の煙が二股になってたと、うちの母ちゃんが言うんだよな」と話をしている。月島はその異変に気づいていなかったから、外に出て確認しようと作業の手を止めた矢先だった。ああ、これはガスの臭いが。
──ドオオオン!
 山全体が動くような大きな音がした。次の瞬間に猛烈な風に吹き飛ばされて、月島の体は坑道の奥へ飛ばされてしまった。しばらく気を失っていたようだった。月島が起き上がる。「ゴホ、ゲホッ」しばらく咳が止まらなかった。しかし一応、息はできる。が、眠気と眩暈がするから、早くここから出ないとまずい。
「早くこれに乗ってください。山の反対側に出られますよ」
 気づけばトロッコがそこにある。
「しかし、これだけあっても動力がないぞ」
 月島が反論しようとしたけれど、辺りを見回しても声の主はどこにもいなかった。何度目を凝らしても、月島以外に誰もいない。「……空耳か……?」
 ぞっとした。しかし、外国の合唱団に似た、高めのあの声──。月島は聞き覚えがあった。分かった、ありがとう。助言には素直に従って、坑道の反対側へ歩いて行った。
「結果的に私は助かりました。しかし炭鉱のカナリアになると豪語したくせに、自分だけ助かる体たらくです……」
 月島は事故を未然に防げなかったことに大いに落ち込んで、自信を喪失した。この規模の爆発だと、死者が出ているはずだ。火災の延焼の阻止と、被害状況の確認を急がなければ。落ち込んでばかりじゃいられない。気を取り直して事務棟へ向かおうとしたその時に、悪魔の囁きが聞こえた。──軍曹殿が助かったことは誰も知らないよ。今ここから逃げたら『月島基はガス爆発に巻き込まれて死亡した』と処理されるんじゃない?



「私は鉱山から逃げました。歩いて歩いて、寒さに耐えられなくて、途中の大きな家の蔵にあった雨合羽と毛布と頭巾を盗みました。しかし生きていることがばれて、小樽港には憲兵が待っているんじゃないかと、気が気がじゃありませんでした。だから一人でここまで移動しようと決断しました」
 とりあえず旭川に到着した。しかし徒歩だと鯉登の乗る船に追いつけない。汽車で旭川からN村まで移動して、そこから馬橇で稚内へ向かわなければ。しかし月島は仕事中だったから、所持金がなかった。だから旭川で手鏡を質に入れた。鯉登からもらった鏡だけは、常に持っていた。
「金色で綺麗だな、とは思いましたが、まさか本物の金でできているとは思いませんでしたよ」と月島は少し呆れた口調で伝えた。
「ふふ、結果的に月島を手助けできたんだな。贈ってよかった」
鯉登は満足そうに笑った。
 月島はそうして稚内まで移動して、稚内港から出ている大泊港行きの船に乗った。追手が来るのではないかという懸念が付き纏ったが、結局誰も来なかった。それはすなわち、月島基はガス爆発事故に巻き込まれて死亡、この世からいなくなったことを意味した。俺はついに戸籍すら無くなってしまった。でも月島は、喪失感より開放感を感じていた。俺はおかしいのかな。でも自由だ。もし鯉登少尉殿に会えなかったら、樺太を北上してスヴェトラーナの両親か、エノノカとチカパシをひとまず頼ろうと考えた。これまでの経験があるから、強かに生きていけるような気がした。そんなことを考えながら大泊港で待った。定刻通り、鯉登の乗る船は入港した。しばらく離れたところから鯉登の周辺をうかがっていたが、彼を尾行をする者はいなかった。
「月島、来てくれて本当にありがとう」
 鯉登は再び月島を強く抱き締めた。
「鯉登中尉殿の赴任先はどこですか? 死人の私は重荷ではありませんか?」
 月島が心配すると、鯉登は自分の手荷物を探った。「月島の新しい身分証と旅券だ」
 確かめると『釧路新聞社政治部・月島基』と書いてある。
「え? どうしたんですか? 偽造ではないのですか?」
「偽造ではない。本物とも言えぬが、ちゃんと国が発行した物だ。今度から月島は従軍記者だ。だからいつでも帝国陸軍と共に行動できる」
「一体どうやって……」
「私が作った。ただし独断で」と鯉登は自慢げに語る。
「は?」
「私は今度からウラジオストクで特殊任務を遂行する。関東都督府が大陸での諜報活動を組織化する準備をしている。哈爾濱(ハルビン)、豊原、奉天にウラジオストクにも特務機関ができるぞ」
「特殊任務……。こ、鯉登中尉殿、あなたまさか情報将校になったのですか?」
「そういうことだ、よろしく頼むぞ!」
「ええっ? あなた全く腹芸ができないでしょう? 大丈夫なんですか?」
 月島が青ざめて聞き返すと、鯉登は眉根を寄せた。
「失礼な奴だな。当面は公使館付き武官だ。だから政府の公式な活動しかない。だから安心しろ」
 それを聞いて月島は胸を撫で下ろした。
「月島、これからもずっと一緒だ」と鯉登が右手を差し出す。
「ええ」と月島が応えて、差し出された手を握った。
 一蓮托生、運命共同体、それとも合縁奇縁。
 これからの毎日が芝居や嘘にまみれていくとしても、月島だけは最後の瞬間まで鯉登を信じようと思った。そして自分のことも、鯉登にだけは信じ続けていてほしいと心から願った。
〈了〉

【鯉月】音羽の滝は尽くるとも

【鯉月】音羽の滝は尽くるとも

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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