こと初めからこと静まり

 ことようか。

 本日、十二月八日を「こと納め」という。

 知る人ぞ知る日、である。
(ことさら説明するのも野暮なのであえてこういう言い方にしました。気になったら調べてみてね)

 ことを始める日とも、ことを終える準備の日とも、伝えられている選日(特別な日)であるから、何か文を拵えて投稿しようと決めていた。だけども、言うか言うまいか正直悩んだ。あえて黙るのも一つの選択だと思ったが、やり始めたことなのでケジメはつけておく。

 自分の日記のような話なので、どうか読む人があったなら、軽い気持ちで流してほしい。



 星空文庫の場を借りて、コロナ騒動に関して思うところをお伽話に交えて投稿をしたのが四月の始め。
 武漢の医師の訴えを目にしてからだいぶ時間が経つ。新春の出来事が、いまでも思い起こされる。

 本日、十二月八日である「こと始まり」と定められた日は、最初のコロナ感染者が確認された日である。

 この祭りの起源とするところを知らずに「神のみぞ知る」などと言ったところで収まるわけもなく。
 人の起源がなんであるか。何が真実であり、虚偽であるかを見極めることは難しいことで、一概にどうこう言えるわけではないけれど、原因と結果の繋がりは、鍛錬を積めばある程度わかるようになり、物事の予想もつくようになる。

 アマビエがなんの神か知らない人が勝手に誇張を交えて喧伝しようが、ソノモノが出来ること出来ないことは決まっている。神が定めし祝日(いわいび)に国葬を挙げようと企てた者らが「神のみぞ知る」などといっているのだから、笑ってしまう。せめて神のみぞ知るというだけの信仰があるのなら、その頼みの綱とする神を知る心構えがあってもいいのではないだろうか。

 祝うべきときに祝い、悲しむべきときに悲しみ、言うべきときに言い、行うべきときに行うことが出来るなら、苦労はしない。何事にも積み重ねというものがあって、目的に沿った積み重ねが出来るなら物事は順当に進むのに。

 少し想うところがあって書き留めたことがある。
 自分に向けて書いたもので、とくに落ちもなければ面白いものでもないので、坊主の説法でも聞くように、子守唄に耳を傾けるような心持で、聞き流して頂ければ、と思う。



 






 古の戦話にこのような台詞がある。

 ――――ミカタは決して挑戦者にならず、応戦に廻れ。
 少しも進撃しようなどとはしないで、むしろ大きく撤退せよ――――。

 その後の経緯も、またその前の経緯も、まるで見えない口伝由来なので、真偽とするところはよくわからないが、古来の秘伝の噺である。苦境にある人の苦し紛れの撤退術か、それとも何かの秘策であるか。
 わからないなりにも考えてみると、……なるほど、今も昔も、変わらず曲者というのがいるらしい。

 近頃、(いくさ)を話題とする人が増えてきた。
 先の大戦に似ていると論争する人がいる一方で、陰謀論戦を繰り広げている人などが居る。
 どちらに対しても殊更なにか言う気はないが、戦と構えるならば、必然と戦術がいるものである。
 対立があると知りながら、争いが起こっていると知りながら、無策無為に戦火を広げるものではない。

 勝てればこそ戦う意味もある。
 負けを好んで戦う者は少数で、その挑戦者たる者に先頭を譲るもまた戦術である。

 敵を軽視し、己を過信し、双方の戦力を見余るは最も忌むべきことなのは言うまでもないだろう。
 また己を軽視し、敵を重視しすぎれば、返って負けをみることにもなる。

 自己分析と客観性は、どんな時代であっても有益で、双方は二つで一つの見識であり、己一人の知見では知り得ない貴重なモノ。
 勝敗も同じで、勝つためには負けあり、負けあればこそ勝ちもある。勝負は裏と表、二つで一つ。


 病を敵と見立てるならば、その因果を分析することが治療の道。
 意見の違う者を敵と見立てるならば、その言い分を軽視せずに耳を傾けることが制圧の近道。
 政治行政を敵と見立てるならば、その当事者の所作を分析し、意向に沿うように行うが統治に繋がる。
 法規に従わない市民を敵と見立てるならば、事情を汲んでやるがよろしかろう。

 さて、ここに一つ差異がある。

 人と戦をするならば、相手の心理()を知ることが重要になってくるが、病となると勝手が違う。
 病に心はない。意思があると言えるほど、今の科学は病の気持ちを知らない。


そういうわけで、病のお気持ちを知らないので、日本の現状はごらんのとおりである。

 疫病の姿形は人目には見れず、どこに潜伏し、今何をしているか、どんな企みをもって、どんなことを仕掛けてくるか、まるで把握することが出来ずにいる。いつ誰が発症し、いつ誰が蔓延させ、いつ誰が死ぬるか、具体的で鮮明なことは分からず、また季節が膨張させる。病床の数だけがありありと伝わってくるも、それが多いのか少ないのか、どうにも判断できない者さえいる有様だ。

 難しいことは簡単なうちに片づけるのが最善である。
 どんな大事も、かならず小事(たいしたことないこと)から始まっていく。

 疫病は大か小か。
 重大だと思う人もあれば、瑣事と考える人もいるだろう。

 経済は大か小か。
 重大だと思う人もあれば、瑣事と考える人もいるだろう。

 では私はどうだろうか。
 疫病も経済も中に過ぎない。

 今、何よりも重大だと思うのは、国家という人、政府という集団、企業という組織、これらの社会勢力が、まるで統率が取れておらず、互いに互いの目的を知らず、(指示)がバラバラでかえって空回りしており、にも関わらず、病は環境を得ており、社会は進行せねばならず、時間は進まなければならないという事実である。

 免疫不全がなぜ起こるか。互いが互いの目的とするところを理解することが出来ないので邪魔しあうに至る。
 適切な情報が伝わらないがゆえに、問題は多く起こるものであり、破滅的な秩序も生まれる。
 現状を整理していくと、その破滅的秩序を逆手にとれば、ということに尽きるのだろう。

 ならば今、好んで病と戦をすることは無益に等しい。

 人の行動は性根に由来する。

 他人の性根を当事者じゃない人間が躍起になって変えようとしてもなかなか変わるものではない。
 それでも変えようとするなら大事から変えるよりも小事から変えたほうが簡単で行いやすい。
 本題に入る前に前置きがいるのと同じで、何をするにもやはり所作が必要で、やり方というものがある。

 自然の摂理を無視して進行しても好転はない。

 黙って待つのも一つの戦法だ。
 求められてもいないのに好き勝手に話すものでもない。

こと初めからこと静まり

こと初めからこと静まり

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-02

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