逃げる魔女と元看守
十日目の夜
「あんまり楽しい話じゃないよ」
焚き火が跳ねる音に続き、彼女はそう言った。
「結局は一人の魔女の生きざま。楽しい話であるわけがない、でしょ?」
それでも聞きたい。どうせ夜は長いのだから。そう伝えると彼女はため息を漏らし、空を見上げる。夜空よりも深く黒い長髪が赤い焚き火の光に照らされ、星々の煌めきのような瞳は虚空の一点を見つめている。虫たちの鳴き声。風は冷たいはずではあるが、この目に見えない結界の中ではそれも感じない。「獣に襲われないオマジナイ、みたいなもの」そう、彼女は言った。
「物好きだね、君は」
そうかも知れない。はにかんだ、笑顔のような、もしくは困り顔のような、複雑な表情の彼女の瞳が私を貫く。それでも私は貴女に興味がある。なぜ、生きていられるのか。普通ならば、もう。
「そうだね」
彼女が目を細める。今にも泣きそうな表情を浮かべ、火の中に木を焚べる。パチリと弾け、火の粉が星空に浮かび上がった。
「……でも、今から話すことは君の中に残らない。それでも君は良いの?」
構わない。ただ聞きたいだけなのだから。それが私の血肉にならないものだとしても。そう伝えると、また火はパチっと弾け、しばらく虫の声だけが木霊する。
「わかった」
そんな、ため息のような声。
「話してあげる。夜は、長いしね」
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-いつから聞きたいの? 子供の頃から? それとも魔女になったときから?
-わかった。じゃあ私が魔女と出会ったときから、だね。
私は孤児だった。父や母の顔も知らない。どうして師匠に拾われたかも、結局は教えてくれなかったんだ。気づけば師匠の家にいた。覚えているのは師匠の温かいかぼちゃのスープがとっても美味しかったってこと。絶品でね、だから師匠にはいつも作ってもらってたっけ。真似しようと思ってね、私も作ってみたけれど……愛情、が足らなくてね。師匠の味には程遠いものしかできないんだ。
ああ、ごめん。こんな話はどうでも良いね。とにかく私の師匠と……先代の魔女と出会ったのはそれがハジメ。いつも師匠がともにいた記憶。優しい人でね。でも魔女の術は何一つ教えてくれなくって、その代わり家事や掃除や文字や数字……お勉強だね。そんなことばかりだった。「不幸になる」そう言われてね。私もそうなのかもって思って、成長するまでは何も思わず、師匠に付き添っていた。
師匠については知ってるでしょ? 魔女の生き残り。霧の魔女。記憶を奪うもの。忘れ薬。……悪魔の使い人。咎人。罪人……。ほかはどんなあだ名があったっけ。いろいろと言われていたね。けれども実際は、うん、とても優しい人だったよ。私のお母さん。
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彼女は罪人だった。とはいえなにか罪を犯したわけではない。ただ魔女の弟子である。それだけの罪で、私の所属していた牢獄に囚われた。彼女と初めてであったのは、冷たい牢を隔ててのことだった。私は看守であり、たまたま彼女の牢を担当していた。
死んだ目をしていた。よく整えられた長い髪は、乱暴に掴まれたであろうにまだその麗らかさを保っていて、大きな瞳で私をじっと見ていた。衣服は着ていない。一糸さえ纏わず、窓さえもない冷たい牢獄の中で、次の日をただ待たされていた。三日も持たないだろう。そう思った。
薄暗い牢に浮かぶ、細く蒼白い身体。幾度も殴られたはずだってのに傷一つなく、その美しくも異質な身体はたしかに気になった。しかしやがて、そんな興味も失われる。どうせボロボロになり、私がそれを捨てに行く。いつものことだ。
すぐに何人かの足音が聞こえた。同僚たちが降りてきたのだろう。あいつはそこか? 尋ねられる。ああ、そこにいるよ。そう言い返す。重々しく牢屋の扉が開く。また始まった。そう思いながら椅子に座り、読みかけていた本を開ける。寓話が好きなのだ。だから好んで読んでいる。いろいろな音が聞こえた。彼女の声は聞こえなかった。
五日目。彼女はろくに食わず、しかしその黒髪や身体は入ってきたときとなにも変わらず、綺麗なままだった。殴られたはずなのに。切られたはずなのに。拷問されたはずだってのに。目は死んでいる。何も言わず、ただ私を見ている。用があるのか? どうでも良い。
「たすけて……」
……小さな声。聞こえないふりをする。五日目になって、いまさら。
「どうして……」
……震える声。魔女の弟子になってしまったからだよ。運が悪かった。
「ごめんなさい……」
……消え入りそうな声。謝られても困る。見て見ぬ振りをするってのも苦しいのだ。
「……」
……諦めたのか? 本を開ける。
「私……なにも、していない……」
……全く。
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私は看守であるがために彼女の牢の鍵は持っていたし、人がいなくなる時間も把握していた。牢の鍵を開ける。薄暗い牢の中で彼女は白い背を私に向けて寝転び、体を丸めていた。やはり身体に傷はない。そうとう痛めつけられているはずなのに。これもやはり魔女だからなのだろうか。
「……」
土の床は泥たまりができるほどであり、体液は壁や、さらには天井まで付着している。血の跡もある。そりゃあ、拷問されたのだから当然か。酷く臭う。やりすぎだ。誰が掃除すると思っているのだろうか。
「どうなっているんだ、貴女は」
なぜ傷がない。鞭で背を打たれているのを見た。ナイフで胸を刺されたところも見た。拷問器具で股間を潰されていたところも見た。それでも彼女の身体は傷一つなく、入ってきた当初のように蒼白く、綺麗な体をしている。
かすかに彼女の体が動く。どうやら起きてはいるようだ。ゆっくりとした動作で、幾重もの絹糸が白い背を滑るように、背を向けたまま体を起こした。
「呪い、だから……」
呪い? その背に尋ねる。
「悪魔は綺麗な体であることを望むから……」
それは代償のようなもの。長く生きることはできない。その代わりに永遠の身体を得たという。死してようやく、その身体に傷がつく。
「……都合の良い身体……だよね……」
寿命も決まっていると聞いた。それまでは死ぬことさえ許されない。どれだけ苦しくても生きなければならない。寿命により死ぬまで好きにされる。人にも、悪魔にも。
「諦めていた……」
死ねるならば死んでいると、彼女は言った。けれども死ぬことさえ許されないから、何もかも諦めようと思った。けれども耐えきれない。ついに、耐えることができなかった。死ぬよりも辛い。死ぬこともできない。耐えることもできない。
「……おねがい、助けて……」
話を聞かなければよかった。そう思った。好奇心に負けてしまった。彼女に興味を持ってしまった。だから、彼女を脱獄させた。
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楽しそうに彼女の話は続く。あの日からずっと、私は彼女と旅をしている。どこかに留まることはできない。彼女がそれを嫌がった。誰にも迷惑をかけたくない。誰も信用することができない。できるだけ遠く、誰にも見られないところに行きたい。
あの日から十日は経っただろう。今頃は私の同僚たちは私達を探しているだろうか。見つかるかもしれない。だからなるべく、あの場所から離れる必要がある。
「……それでね、師匠が町から兎肉を買ってきてね、シチューを作ってくれたんだ。真っ白い、牛乳とチーズを混ぜたシチューで、とっても暖かくてね。思えばそれが初めて肉を食べたんだっけ」
彼女の話はとりとめもなく、師匠と呼ばれる魔女との思い出話が大半を占める。夜が更けていく。彼女の言葉が止まらない。
逃げる魔女と元看守