シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) Ⅺ 影の形
蛍は、綾が少女の傍に落ち着いたのを見届けて、影の集う部屋へ向かった。
葵がそこにいることは聞いている。おそらく、桜もいるだろう。
広い廊下から階段室に入り、薄暗い階段を上がって行くと、狭い廊下へ出た。
規則的な小さな窓の外は、心細い街の灯りが遠く見える。
蛍はゆっくりと進みながら、今日の事を思い返した。
パーティの喧騒の中、お互いの位置を把握しながら動いていたはずだった。
少女はずっと綾の傍に隠れるようにしながら、なんとかその場で耐えていた。
彼女が嫌悪する一族も出席している。綾は注意深く距離を取るようにして、なんとか平静を保っていた。
だが、緊迫した雰囲気にそうそう長く耐えられるものではない。
少女が疲れを見せ眠くなってきたところで、綾は少し離れた場所の賓客に呼ばれ、葵が少女を引き受けた。蛍は綾に同行してその場を離れた。
残った桜が、葵に何か頼まれて離れた隙に、葵は少女を別室で休ませると見せかけて会場から連れ出し、そこへ殺しを請け負った男が来る手筈であったようだ。
気付いたのは、綾だった。
クマのブローチに仕組んでいた発信機を、偶然野村が作動させ、綾は引き留める賓客を振り払って会場を離れた。
綾に遅れて駆けつけた蛍と桜は、あからさまな邪魔と思われる数名に足止めをくらったのだ。
士音と中津もまた、少女たちから引き離すように仕組まれていたため、駆けつけるのが遅かった。
捕らえた薬漬けの男は、正気とは思えない事ばかりを口にした。
どこまでが本当なのか判然としない会話の中、どうやら『誰か』にそそのかされただけだということはわかった。
その者が誰なのかは、答えられないようだ。覚えていないのではない。気にもしていないようだ。
その者から、薬をつかい黒髪の少女を『人形』に加えてはどうかと持ち掛けられた。
男は、見せられた写真の虜となり、
「コレクションの中でも絶品となるはずだったのに」
と薄笑みを浮かべたという。
男にとって、その『誰か』はどうでもよかったようだ。
余罪がありそうだ。
警察の方には、県警本部長である本多を通じて処理している。
蛍はふと窓に映る自分の姿を見つめた。
能面のように強張った無機質で空虚な輪郭線の向こうに、遠い灯りが点在する。
そのどこかに、あの男はいるだろうか。
野村の口から、『貴妃』と出た時、蛍の思考に浮かんだのは、冷たい眼差しの女ではなく、顔や首筋に無数の傷を負いながらも逃れられない男の影だった。
このまま、何も変わらないまま、食いつぶされてしまうのだろうか。
蛍は、そうなった時の無残な男の姿を思い、歩を止めて小さく肩を抱いて震えた。
その時――。
怒鳴り声が廊下に響いた。
桜の声だ。
顔を上げてその部屋に急いだ。
「不動さん、どうしたんですか」
走り込んですぐ目に入った姿に、蛍が問う。
小さな部屋に葵と桜と柊、そして不動がいた。
不動がここにいるということは、すでに野村から情報を得たのだろう。
不動が、蛍に気付いて一段と冷汗をかいている。
サングラスから垣間見える少々タレ気味の目尻を一層下げて、オロオロと狼狽えるばかりだ。
強面を効かせて野村の護衛を務めていた先程までの振る舞いが、一度に飛んでしまうような情けなさだ。
「すまん、蛍。俺が教えたばかりに、桜を怒らせてしまった」
見れば、葵に襲い掛からんばかりの桜は、烈火のごとく怒り狂っている。
中津が来るまで待てば良かったと小さく呟きながら、不動は額の汗を手の甲で拭った。
「あの野村という青年が見た女は、羽鳥家の当代夫人だ。そして葵に姫様を亡き者にする為に手を貸すよう強要したのも、あの女だった」
「あの方だったのですか・・・」
蛍は、そう呟くのがやっとだった。では、貴妃と繋がる『女』も――。
だから、桜は怒り狂っている。
「何故、葵さん。三家の中でもとりわけあの女狐の家が何を考えているか、よく分かっているでしょう。お嬢様や姫様が今までどれ程嫌な思いをされてきたか。どんな汚いやり方で鷹沢を喰い散らかしているか、知らない訳じゃないでしょう」
どうしてそんな人間の言いなりになったのか、どんなに考えても桜には分からないだろう。理由があると言われても、なおも言い募ってしまうだろう。
「どうしてそんな奴の言う事を聞くの。本当に、姫様は殺されていたかもしれないんですよ。葵さんは、小さな子を殺す手助けをしようとしていたんですよ」
ありったけの思いをぶつけるように叫ぶ桜の声ばかりが、小さな部屋に響く。
その言葉を、椅子に座って俯き、葵は拘束された両手を瞬き一つせず見つめている。
そんな葵を、柊は窓辺に寄り掛かり腕を組んで静観している。
「桜、葵にもそうしなければならない理由があったのだろう。とにかく、中津さんが来るまで待とう」
何とか割って入った不動だが、桜の怒りはおさまらない。
「どんな理由があろうと、人の命を奪っても良いとはならないでしょう」
桜の言葉に不動は黙った。
返す言葉が分からなかったのだ。当たり前の道理が誰にでも通じるならば、少女が命を狙われることもなく、自分たちが命をかけて守る必要もないはずなのだ。
葵はゆっくりと顔を上げ、視線を桜に向けると、底光りのする目で低く唸った。
「貴女には分からないわ、桜。常に安全な場所にいて、何もかも自分の想い通りに振舞って、それが親の力だって気付かずに、ただ吠えているだけの貴女に!!!」
「なん・・・」
「親に守られて、『影』だと名乗ってお嬢様の傍に居て、何も苦労せず、そうしている貴女に、私の何が分かると言うの。目障りなのよ、貴女は。親が染井先生でなければ、誰も貴女なんか仲間だなんて思わない」
語気は強くなり、最後は叫びにも似た。
「皆が思っているわ。鬱陶しいのよ」
吐き捨てた言葉を正面に受け止めて、桜は絶句した。
柊も不動も、そして蛍も『津』を名乗っている。
その三人が、ただ無言でいたことが、葵の言葉を肯定しているように思えて、桜は苦痛に歪んだ表情で喉の奥から声を絞った。
「親のことで何を言われたって、私にはどうすることもできないわよ」
それだけ言い返すのが精一杯だった。
蛍の前を横切り、桜が出て行く。
不動は大きく息をつき、やれやれと呟いて天井を仰いだが、蛍はただ無言で葵を見つめていた。
表情は変わらないが、葵にはその視線が自分を非難しているように思えた。
「貴女も大変でしょ。いつも彼女と一緒にいて腹立たしくは思わないの。蛍」
「どうして腹を立てなければならないんですか」
「貴女は、『津』でしょ」
そう言われて、蛍ははっきりと言い返した。
「ええ、そうです。私は親のことを言われてもわかりません。過去の話をされましても、答えるものがございません。葵さんは『津』ではないでしょう。どうして同じ立場の桜にそんな感情をぶつけるんですか」
「同じじゃないでしょう」
葵は吐き捨てるように言った。
父・粟根は鷹沢士音の側近だったが、常に過度のストレスに晒される部署に配属された。そんな父を心配するあまり、母は病弱になったのだ。
染井英夫の会社内での立ち位置はまったく違ったものだ。その娘として安穏と影をしている桜とは違うと言いたいのだろう。
だが、蛍から見ればどちらにしろ答える言葉はない。
視線をそらし、部屋を出ていこうとした蛍の前で扉が開き、中津が入って来る。
「中津さん、どうなりました」
それまで黙っていた柊が姿勢を正して問いかける。
中津はそれには即答せず、部屋を一瞥して不動を見た。
「会場での御前の周囲はどうだった?」
中津に代わってパーティ会場へ向かった不動は、まもなく一人事件現場に戻って来て、それからはずっと野村の傍にいた。
中津は、自分が立ち去ってからのあらましを柊から聞き、不動に質問した。
「御前に変わりは?」
「自分が御前の警護に向かうと、御前付きの桔梗に追い返されまして」
不動は困った顔で言葉を濁した。
本当に追い返されたのだ。狙いは『ここ』ではない、と。
それでも連れていた部下はすべて桔梗に託して、自分一人士音の元へ戻った。
「わかったことは?」
「お嬢様を助けた青年が追っていたのは、三家の一つ、羽鳥家当代夫人でした。しかもお嬢様を狙っていると思われる『貴妃』と呼ばれる女と接触しているようです」
そして、葵に少女をパーティ会場から連れ出すよう強要したのも同一人物だった。
貴妃と聞いて、中津が一瞬、蛍に視線を向けた後、葵を見る。
手に握りしめた携帯電話に力がこもっている。
「粟根様からもその女の名前が出た」
葵が弾かれたように中津を見上げた。
「そうだ、葵。お前を脅し、粟根様を追い詰めた、三家の中でも特に害になっている家の当代夫人だ」
葵の父・粟根の出向している会社の業績不振の責任を一身に背負わされる形で、進退を問われていたのだ。その命で贖えと。
その出向先の会社は、羽鳥家の経営するものの一つだ。
父は、その事を娘に話すことはなかった。
だが女は葵に、父親を失いたくなければ言う通りにするしかないのだと、他の選択肢をすべて排して詰め寄った。
「娘に辛い思いをさせたと、ご自分を責められていたよ」
中津の言葉に、葵の表情に絶望が忍び寄る。
「まさか・・・父は・・・」
言いかけた葵を遮るように、中津の手の中で呼び出し音が鳴る。
少ないやり取りで電話を切った中津の表情には、険しさの中に少し安堵の色が見て取れる。
中津はゆっくりと葵に近づいた。
葵が少し強張った表情で言葉を待つ。
「粟根様はご自宅で自害する直前だった」
中津は、座っている葵を見下ろしながら、ゆっくりとそう伝えた。
精神的に追い詰められていたことは明らかだった。
しかもそれを確認するかのように潜む影が自宅周辺に見受けられた。
「何もかも話してくださった。お前が父親をネタに脅されたように、粟根様は妻、つまりお母さんを人質に取られた形で脅されていた」
「母が・・・」
「どんな汚い手を使っても姫様を亡き者にしたがっているのは、周知の事実だろう」
「・・・・・・」
「お前が何を命じられていたのかも、粟根様はご存じだった。それを止められなかったことを、とても悔いておられた」
そんな粟根に少女が無事であることと、娘も保護したことを伝えた。
「父は・・・」
「無事だ。お母さんも、な。染井先生が連絡をくれた。もう大丈夫だ」
粟根の妻――葵の母の元には海堂と染井英夫が向かい、事なきを得た。
ここ数日体調不良で再入院していることは染井が聞いていた。
こちらも怪しい男が複数周囲に見かけられたが、染井たちの姿を見て引き下がったという。
「もう少し遅ければ、どちらも助からなかっただろう。間に合って良かった」
鷹沢士音も、そう呟いて肩を撫でおろした。
報告を静かに語って聞かせる足元に、大きく見張る瞳を潤ませて、葵は膝から崩れ落ち、低い嗚咽を漏らしながら息を吐いて身体を丸めた。
「だから言っただろ、報告を待てって」
窓辺によりかかって腕を組み、微笑を浮かべる柊がポツリと呟く。
葵はひたすら泣いた。
その肩からは力が抜け、ただただ流れ落ちる涙を止められずにいる姿を伏し目がちに見つめ、蛍は静かに部屋を出ようとした時だ。
「蛍、気を付けてくれ」
中津はちらりと蛍を見て、不動に視線を向けた。
「貴妃については、無視できなくなった。分かっているな」
中津は語気を強めて念を押した。
蛍は、中津の言わんとすることがわかる。
胸の奥には一人の男の姿があった。
それを押し殺すように胸元で拳を握りしめ、蛍は一礼して部屋を出た。
シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) Ⅺ 影の形