夢と少女と現実と。
――空を、見ないでくれ。
一人の少年は、悲しそうに微笑んで、そう言った。
ジョン・ケイナー著「空の少年」より
いったい、どんな気持ちで彼はその言葉を伝えたのだろうか。これから戦場へ赴くことを嘆き悲しみながら、沈んだ表情でその言葉を――いや、きっとそうではないだろう。
彼は、微笑みながらその言葉を伝えたのだ。愛する人に、優しく、微笑みかけながら。だから、決して、沈んだ表情なんかではなかったはずだ。悲しそうなその微笑みは、たぶん、とても優しくて、切実なものに違いなかったろう。
ジョン・ケイナー著「空の少年」。
その物語の最後で、一人の少年が、最愛の少女に別れを告げる。その時に頼む一言が、空を見ないでほしいというものだ。その願いは、彼が心から望んだもので、とても悲哀に満ちていて、それでいて、ひどく優しいものだった。
パタン、と真里菜は本を閉じた。いったいどれくらいの時間が経過してしまっただろう、時計を見ると、すでに五時半を回っていた。
(いけない……)
図書館の閉館時間は、午後五時である。もう三十分も過ぎているが、きっと顔見知りの司書が、また気を利かせてくれたのだろう。こうして読み耽っていると、いつもその邪魔をしたくないからと一時間ぐらいは閉館時間を延ばしてくれる。その度に、真里菜は申し訳ない気持ちで一杯になるのだ。
席を立ち、受付まで行って、その司書を呼びかける。
「えと、ごめんなさい、先生。また、時間忘れてて……」
柔和な顔立ちの女性の司書は、やんわりと微笑んで見せた。
「いいんですよ。本を読んでくれるのは、やっぱり嬉しいですから」
この優しさが、真里菜にはどこか申し訳ない。
司書がこういう性格をしていることはすでに分かっているし、とてもいい人だとは思っている。だからこそ、彼女の優しさに甘えてばかりいるのはやはり釈然としないものだった。
「その本、借りていく?」
「え、あ、はい……借ります」
「ちょっと待っててね」
口下手で人見知りの真里菜は、人と話す時はどうしても少なからず緊張してしまう。けれど、この司書はそんなことは気にもせずに、いつもこうして優しく接してくれていた。
貸し出しの記録をつけた司書は、戻ってくると、本を手渡してきた。
「ありがとうございます」
文庫本サイズの小説。それを胸に軽く抱えて、お辞儀をする。
「また来てね」
そう微笑みかけられて、真里菜は一つ照れながら頷いて、図書館を出て行った。
せっかく借りた本を、もう一度読み直してみようと思いながら。
電車の中である。
ガタン、ゴトン、とどこか心地のいいリズムに揺られながら、椅子の背に体を預けていた。
(帰り着くのは、七時ぐらいかな)
図書館で本を読み耽ってしまった日は、いつもこれぐらいの時間になってしまう。もうちょっと早く帰った方がいいのだが、特に門限があるわけでもないし、問題があるわけではない。ただちょっとだけ、注意されたりすることもある。
「ん……」
何だか、眠くなってきてしまった。今日は体育の授業もあったし、日本史の抜き打ちテストもあった。もしかしたら、その疲れが溜まっているのかもしれない。
薄れゆく意識の中、真里菜の頭には一つの物語が浮かぶ。
戦場へ飛んでいった少年と、その少年を愛した一人の少女の物語。
――空を、見ないでくれ。
その言葉が脳裏を過ぎって、やがて微睡みの中で、真里菜は意識を閉じた。
『君は、人を殺して、何になると思う?』
そう問いかけられた。
声の方に目を向けると、一人の少年が空を見上げている。
『僕はね、人を殺しても、何にもならないと思うんだ』
少年はこちらも見ずに、そう続けた。
すぐに気付く。少年が言葉をかけているのは、真里菜ではなく、別の少女だった。
『あなたがそう思うなら、きっと何もないわ』
少女はどこからかふいに現れて、少年の隣に座っていた。
階段の一番上に、少年も続いて、腰を下ろす。
『そっか。やっぱり、何もないのか』
呆れたように呟いて、少年は隣を振り向く。
少年の手が、少女の黒髪を梳いた。
『君は、僕が死んだら、泣いてくれるかな?』
その台詞に、二人を見ていた真里菜ははたと気付く。
(さっき、本で……)
少年の仕草も、台詞も、場面も、すべてあの本で読んだものだ。それがそのまま、目の前で動いている。
『泣かないわ。きっと』
『はは、それはひどいな』
冗談のように笑ってみせる少年に、少女は真剣な面持ちで伝える。
『だって、あなたは死なないでしょう? きっと、死なないわ』
この会話は、この台詞は、確か物語の終わりごろだったはずだ。
つまり、二人はこの後――
『そう、僕が死なないから泣かない、か。僕が死なないって信じていてくれるのは、嬉しいね』
少年は、そこで一度、また空を見上げる。
空はひどく暗澹としていて、星の一つも見えてはいない。
『あの空で、僕は生き残っていられるかな』
戦闘機に乗って、この暗い空を飛ばなければいけない。
それが、軍に入隊した彼の運命だった。
そして、少年と少女の二人は、この夜に一つの約束を交わす。
それが、二人の最後の約束だ。
『じゃあ、僕はきっと生き残るから』
静かに、優しく少女を見つめて。
『だから、君はこの空を、僕が飛んでいるこの空を、』
少年の目に、涙が浮かぶ。
少年は、一言告げてから、少女と口付けを交わした。
『絶対に、――空を、見ないでくれ』
少女の涙が。
少年の涙が。
――二人の頬を、流れ落ちた。
「はっ……」
目が覚めて開口一番、真里菜は勢いよく息を吸った。
突然目覚めたせいか、ちょっとだけ動悸が乱れている。
(寝てた、のかな……)
うとうととしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
何だか、胸がむず痒い。
(夢、見てたのかな)
何かを忘れているような気がする。
何か、とても大切な、何かを。
「って、あ……」
電子掲示板を見ると、いつも降りるホームをすでに一つ過ぎていた。
アナウンスが流れる。次のホームで降りなければいけないと、真里菜は慌てて立ち上がろうとした。
「あ……」
膝の上に、本があることに気付く。
ブックカバーはつけていなくて、本のタイトルは――「空の少年」。
ちょっと前のことなのに、電車に乗ってこの本を読み返していたかどうか、思い出せない。
すると、その本の表紙にある少年と少女、そして青空のイラストを見て、何か胸のうちに温かいものが込み上げてくる。
忘れていた何かを思い出せそうな、そんな感じがするけれど――
「わわっ」
昇降口が開いたのを見て、真里菜は慌てた。
急いで、本を鞄の中に仕舞う。
やがて何とか無事に電車から降りて、家からは少し離れてしまったけれど、ようやくプラットホームに立つ。
辺りにはけっこう人がいて、学生服を着ている人たちがいくらかいた。その中に、真里菜と同じ学校の生徒も何人か混ざっている。
「あ、流れ星……」
ふと空を見上げていたら、一筋の光が通っていった。
(久し振りに見たなぁ)
そんな感慨に浸りながら、もうちょっとだけ夜空を見つめてみる。
(そういえば、お話は終わったのかな?)
戦争中の少年と少女を描いた物語は、まだ一冊目が出たばかりである。これから、二冊目がでるのかどうか、まだ分かっていない。
でも、真里菜は二冊目が出てほしいと思っている。
少年が空に飛んでいったところで一巻が終わるなら、二巻では少年と少女の甘い恋物語を描いてほしいからだ。
(出ると、いいなぁ……)
今度は、切ない二人の物語ではなくて、甘い甘い、二人の恋物語を読んでみたい。
戦争なんかに、二人の恋が負けてほしくないのだ。
「帰ろう、かな」
二巻の二人と出会う前に、早く家に帰って、もう一度、一巻の二人と出会っておきたい。
ちゃんと、二人のことを理解してから、二巻での二人を楽しみたいのだ。
だから、今日はもう、本屋とかに寄り道したりはしないことにする。
また二人と会えることに胸を弾ませて、真里菜は歩き出した。
きっと、物語の二人が幸せになってくれることを祈って。
夢と少女と現実と。