黄昏百景

薄れたこと。

きっとその人のことは一生好きなんだろうとあの時は思っていた。
だけど、横断歩道を横切っていく彼女の横顔を見るまで、僕は名前すら思い出すことがなかった。

車からぼんやりと信号待ちをしていると不意に見覚えのある姿が目にとまった。
正確に云えば見覚えがあるような姿であって、彼女だという確証はない。
一瞬、人と人の間を抜けていったその人は横断歩道を足早に過ぎていく。
わずかな隙間から見えたその顔は、流れるタイムラプスのなかをゆっくりと開く花弁のように映った。
モノクロームでスローモーション。
そんなような歌があったのを思い出す。
その姿を見た時、まさにそんな感じだった。

その人と別れたのは十年前の秋のこと。
はっきり言って理由は覚えていない。些細な事だったと思う。
今になれば、きっと何でそんな理由でと思えるような事だから覚えていないんだろう。
ただ記憶しているのは、メモ代わりに使っていたノートに書かれた「さよなら」の文字と、その数日前に彼女が同じ頁に落書きした、お世辞にも上手いと言えないキリンの絵。
そのノートを見た時、何でこの頁に書いたんだよと、さよならの文字よりも先に、キリンの絵で笑い合った時間を、別れの言葉で上塗りされたことに当時、僕は苛立った。

誕生日、クリスマス、動物園、レストラン、近所の散歩、新しいカメラ、コンバースのオールスター、ドライヤーの音、サンダルウッドの匂い、窓際の観葉植物、ロクシタンのハンドクリーム、飲みかけのコーヒーが入ったマグカップ、肌の温もりと耳元の吐息。

信号待ちで溢れ出す薄れた彼女の記憶も思い出も、本当に経験したものなのかハッキリしない。もしかしたら僕が勝手に作り上げた、気持ちの悪い妄想なのかもしれない。

大きめのクラクションを二回鳴らされて信号を見ると青になっていた。
バックミラーで後ろの車の確認をしたが、トラックのグリルしか見えない。慌てて車を走り出す。すぐ先にコインパーキングが見えた。
Pの文字に吸い込まれるように僕の腕は勝手に左にハンドルを切り、車輪止めにタイヤを乗せていた。
急かされるように走ってパーキングを出て、さっきの交差点の横断歩道を駆ける。人がいない歩道と車道の間を走りながら、その人を目で探した。その先の交差点から歩道橋を抜け、中央通りを渡る。もう一度、歩道橋の上から辺りを見渡し、確証のないその人の影を探した。
一体何がしたいんだ？居るわけないし、見つからないのも分かっていた。
なのに走らずにはいられなかった。さっき水の底からすくい出したようなあの人の記憶を確かめたいだけなのか。その事でこんなに心が掻き乱されるものなのか。
もし会えたとして何を伝える？元気ですか、僕のことを覚えてますか、身勝手で一方的な行動に何の意味がある？
ノートに書かれたさよなら。最後に見たあの人の姿が思い出せない。顔、どんな顔だったんだろう。

汗で首筋がじっとりしている。乾いた喉が張りついて、息が乱れて苦しかった。
自動販売機を探したが、財布も持ってこなかったことに気づく。
辺りはすでに陽が落ち、ネオンが歩道を照らしていた。
来た道を戻る。自分でも理解し難い行動は、走った以上に足を上らなくさせていた。

マンションのドアを開けると娘がクレヨンを持って走ってきた。
お帰りなさいとキッチンから妻の声が聞こえる。夕食の香りが部屋に満ちていた。
どうかしたの？と訊く妻に、何でもないと答えた。
纏っている空気が彼女を敏感にさせたのだろうか。
後ろめたい気持ちが余計に部屋を濁した。
取り繕うように週末の話をした。少し遠出して美味しいものでも食べに行かないかと。

手を洗いながらドレッサーの鏡を見る。
そこには、どうしようもなく情けなくて格好悪い、身勝手な男がいた。