ウィークエンドシトロン

 あれは季節に背いて暖かい十一月のことだっけ。予約していた本を図書館まで受け取りに行った時に、近くの公園でボールを蹴っていたあの子とすれ違ったんだった。赤い帽子を被ったあの子は同じクラスで、ちょうどその頃席替えをして隣になった男の子だった。すれ違う時に、お互い「あ」という顔をした。ふい、と先に顔を逸らしたのはわたしのほう。本をたくさん抱えているところなんて、見られたくなかったんだもの。でも、週明けに学校で顔をあわせて気まずくなることを考えたら、挨拶のひとつでも交わしておけばよかったかなって少し後悔した。予約の本は、読みかけの児童長編小説の続きとか、可愛い雑貨の雑誌とか、産まれたばかりの妹に読んであげる絵本とかが多いけど、今回は一冊、手に取るのも少し緊張するような本が混ざってる。外国の、お菓子のレシピ本。黒の表紙に小さく写るお菓子の写真に、小さな文字で飾られた表題は、とてもおとなっぽくて、品がよくて。背伸びしているってわかってるけど、どうしても読んでみたくて仕方がなかった。お菓子なんて、作ったこともないのに。憧れがわたしの背中を押したの。家に帰るまで待ち切れなくて、チュロス売りのいる広場のところでページを捲った。甘い香りが漂う中で見たお菓子の写真は、どれも可愛くって、丁寧で、宝物みたいだった。乾燥した手はうまくページを送れなくて、ばらばらと飛び、開く予定のなかった真ん中のページが開いた。砂糖がけされているお菓子の写真が大きく写っている。その傍には華奢な文字で、ウィークエンドシトロン、と書かれていた。
「あの子を感謝祭の食事に誘ったら?」
 陽射しが差し込む窓際で雑誌を読んでいる双子の妹のリリーが言った。「あの子って」「今ルルーの隣の席に座ってる子」「男の子だよ」「知ってるわよ」同じ声が部屋の中を行き来した。
「そういうリリーは誰を誘うのよ」
 頬杖をついて溜息ひとつ吐き出して問いかけてみた。彼女は指折り数えながら何人もの男の子の名前を挙げてきたので、わたしは途中で「もう、いい」と止めた。「お父さんが卒倒しちゃう」
「別にいいじゃない。うちには男兄弟が居ないんだし、庭にテーブルとチェアを並べるのも、女手ばかりじゃ大変なんだから。それに、ルルー、あなたの作るたくさんのお菓子は、たくさん食べてくれる男の子たちがいないと片付かないわ。ね?」
 リリーの口の巧さに騙されて、わたしは次の日、男の子を誘うことにした。鐘の音が鳴って授業が終わると、やんちゃ盛りの男の子たちが次々に教室を飛び出していく。あの子はそんな男の子たちとは違って、落ち着いて帰り支度をしていた。
「ねえ」
 先に鞄を背負ったわたしが話しかける。男の子は、あの日と同じ「あ」という顔をした。だからわたしも咄嗟に、ふいっと顔を背けて(自分で話しかけたにも拘わらず)駆け出し、思わず教室を出てしまったけど、自分の不審さに身震いして、すぐ自分の席まで戻った。
「どうしたの?」
 男の子が訊ねる。わたしが不審な動きをしている間に、身支度をすべて終えたようである、赤い帽子を被って小脇にはボールを抱えていた。
「ううん、ごめん、なんでもない。……じゃなくて……あの」
 感謝祭を一緒に祝いませんか、と誘ったわたしの手はじんわりと汗をかいていた。「感謝祭って、きみんちで?」予想していなかったであろう誘いに男の子は目を見開く。こくりこくり、頷いて返事をする。
「いいけど、多分母さんが、お世話になりっぱなしがどうとか、煩いと思うから、うーんそうだなあ、食事が終わったら、うちに来て遊ぶのはどう? おれは女の子の遊び知らないけど……ゲームってやる? やらない? それじゃ、教えてあげるから一緒にやろう」
 こくりこくり、肯定の返事をする。「じゃ」と言って、男の子は去っていった。左側を通り過ぎる彼から、洗濯物の陽だまりの香りがした。
 わたしは今まで知らなかった。本当に品がいいというのは、彼のような人のことを言うのかもしれない。背伸びや着飾りのあるものでなくて、何の気なしに毎日暮らしを整えていること。ごく自然に。でも、だからこそそんな彼に贈りたくなった。華奢な横文字の、素敵なお菓子を。
 弾む気持ちを胸に秘めながら、朝焼けのような白い夕暮れを、わたしはゆっくりと歩いて帰った。

ウィークエンドシトロン

ウィークエンドシトロン

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-26

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