【鯉月】この世界に花を添えよう

しずよ

月島さんの鼻をテーマにした現パロギャグです。リーマン鯉登くんが、毎朝通勤電車で見かけるかわいい鼻の月島さんに在宅勤務で会えなくなるのですが、とある事件に巻き込まれて再会するお話です。Twitter投稿したものに、少しだけ加筆修正しております。

 名前を言ってはいけないあの人。
 鯉登は朝の電車内でその男をはじめて見かけたとき、魔法使い映画の登場人物のようだと思った。似てる……か? いや待て、違う。あの人物に抱いたような、切迫した恐怖感はない。しかし頭だって坊主で堅気ではない印象なのに、何が違うのだ。そう、むしろ小動物に近い気がする。ああ、正面からだけでなく横からも見てみたい。しかし朝の満員電車内で、降車時以外で動くことは困難だ。なのでその日は降りるまで、じっくり正面から眺めた。
 男はいつも同じ時間帯の同じ車両に乗車していた。鯉登より先に乗り、後に降りているらしい。朝は見かけるが帰りは一度も見たことはない。帰りは遅いのだろうか。通勤ご苦労。勝手に心の中で男を労う。
 そうして一方的に親しみを募らせて、男の鼻を凝視しながら妙な空想をするようになった。
 たとえば春は自分が男のマスクになったとしよう。一般的な高さと違い、鼻のラインに沿うのも逆に難しいかもしれない。しかし鯉登は体の柔軟性には自信があったので、彼の顔に密着してやれる確信があった。花粉からお前を守ってやれる。そう思うと無性に庇護欲を掻き立てられた。
 たとえば夏は日焼け止めクリームになったとしよう。真っ先に日焼けしやすいのは鼻だけれど、彼の場合は頬と額も同じくらい焼けやすいのではないか。しかもけしからんことに色白だ。たっぷり私を塗って紫外線から保護してやらねばならん。
「わ、私を……塗……」
 鯉登はなんだか鼻の奥がむずむずしてきて、鉄のにおいを感じた気がした。まずい。空想を慌ててかき消した。
 たとえば秋は眼鏡になったとしよう。果たしてノーズパットは普通の物でもずり落ちないんだろうか? 広い児童公園でまれに見かける直滑降な滑り台のようなスリルを、日常でも味わえそうだ。ああ、一度でいいから眼鏡をかけて通勤してくれないか。そしてずり落ちる眼鏡を、人差し指でくいっとあげる仕草をしてくれ。
 そして冬だ。男は首が少し短かいから、マフラーになったら口どころか鼻まで届きそうだ。もこもこした姿を想像するだけでも癒やされるものであるが、鼻の頭は寒さで赤らんでいる方が、かわいいに決まっている。だから私は首元をあたためることに尽力しようではないか。
 そうして一年を通して自分が男の顔と戯れる空想をしていたら、鯉登は毎日の満員電車が苦痛でなくなっていった。今はまだ三メートル先から眺めているだけだが、いつか彼が事件か何かに巻き込まれ、助けに入った自分と仲良くなる。そしてお礼としてあのむぜ鼻を様々な角度から眺めさせてもらう。そんな一昔前の電車男みたいなロマンスにふけるのが、鯉登の日課となっていた。



 年が明けて三月末、いつもの時間にいつもの扉から乗車すると彼が見当たらない。
 鯉登は嫌な予感がした。ひょっとして引っ越しか? それとも時差通勤か在宅勤務になったのか。鯉登の勤務先も在宅に切り替える社員が出てきた矢先の異変だった。
 もしそうなら、もう会えないのではないか? それに思い至り激しく落ち込む。もうあのうさぎのようにむぜ鼻が見られないかもしれないなんて。足から力が抜けていく。ふにゃふにゃの腑抜けになるところを、つり革に捕まりしゃがみこむのをどうにか耐えた。その時だった。
 電車が駅に滑り込み、目の前のドアが勢いよく開く。新宿駅ひとつ手前の当駅では、降車する客はほとんどおらず、ホームに立つ客がすぐに乗ってきた。脱力していた鯉登は彼らに押されてよろめいた。しかし倒れないようにどうにか踏ん張る。やがてぐらりと電車は揺れて発車する。ふと気づくと、自分の目の前に背の低い坊主頭の男が立っている。
 ん? 坊主?
 よく見ると鯉登の前に立っているのは例のむぜ鼻の男だった。
「む……!」
 むぜか、と叫びそうになり、まわりの客が迷惑そうにじろりとにらむ。
「すみません」
 鯉登は小声で謝り頭を下げた。しかし一番うるさかっただろうに、目の前の男は無反応だ。私のことは壁くらいにしか思っていないのではないか? 非難がましい目でもいいから、自分を見てほしかった。距離の近さに浮かれた次の瞬間に撃沈して、そして再び興奮がよみがえる。
 ち、近い……! けれど真横から鼻を見られないではないか!
 身長差のせいだ。男は鯉登よりおよそ十五センチ低い。だから鼻は斜め上からのアングルだ。が、それもまた癒しになるのだと分かった。むぜもんはどん角度から見てんむぜもんじゃ。ついでに別のいいものも見られた。つむじだった。思わず頭を撫でたくなり、必死に衝動を抑える。それにしてもなぜ坊主なのか。ひょっとして頭頂が薄いのを目立たなくするためのファッション坊主なのか、と思っていたのだ。しかし違った。てっぺんも黒々としていたから鯉登は安心した。
 気になっていたむぜ男のことをいくつも知ってしまった。
 鯉登は胸はほんわかとあたたかくなる。ああ、こういうのが幸せというのだろうか。自分でも頬が緩んでいるのが分かる。小さな幸せを噛み締めていると、次の駅に着いた。新宿駅だ。乗客が一斉にドアに向きを変え、出口に進む。すると目の前のむぜ男もくるりと向きを変える。降りるのか? 下車駅もいつもと違うじゃないか。降車口は鯉登の背後になるから、ひつぜん男は鯉登と向き合った。ぐぐっと人の波に押されて男は前のめりになる。ぽすん、と顔がぶつかった。そう、むぜ鼻が鯉登の胸にうずもれた。「あ」という小さなうめき声。
「すみません」
 顔を離して気まずそうに、上目遣いで鯉登に謝罪した。ほんのり頬があかく見えたのは気のせいか。鯉登は言葉を失って、男の背中を黙って見送るしかできなかった。男が降りる。ドアが閉まる。ホームの人影もすぐに分からなくなった。
 顔が、私の胸にうずもれて、それで。
「……」
 鯉登は自分の胸に手を当てる。どくどくと激しい動悸が煩わしい。男の少し痛そうに歪めたあの表情。鎖骨付近に一瞬だけ感じた鼻のおうとつ。どさくさに紛れて支えるふりして抱きとめれば良かった。さきほどの場面を繰り返し繰り返しなぞる。
 また会いたい。
 鯉登は切実にそう思った。
 しかし、この世はちっともままならないもので、翌日から鯉登の勤務先は在宅勤務になってしまったのである。
「ああああ、せっかく一歩近づけたのに……!」
 鯉登は自室でひとり、後ろにぐにゃりと反っくり返る。しかしそんな駄々っ子のようなことしても、彼もまた電車通勤しているとは限らない。
「はあ……」
 終わった。もう二度と会えないかもしれない。こんな事態になる前に、思い切って昨日声をかければ良かった。たった一言で良かったのだ。「大丈夫ですか?」と。そうしたら「大丈夫です。ぶつかったお詫びをさせてください」と男が返事をして、あのむぜ鼻を愛でさせてくれたかもしれないのに。思い返せば、声も想像通りだった。鼻と同じようにつつましく、なおかつ低めのよく通る声。それは自己顕示欲や自尊心を最小限にしたような、そんな抑制が音に化けたような声だった。むぜ鼻とのギャップに咽せそうになる。
 しかしもうこの世には、電車男みたいなロマンスは存在しなくなるのか。
 鯉登はすっかり袖を通さなくなった自分のスーツの上着の胸に、あの日の男と同じように顔をうずめた。



 四月に入るとまったく電車に乗らなくなった。それで日課に加えた夜のランニングで、最寄駅の近くを通る。未練がましいな。鯉登は自嘲する。いくら駅のそばに来てもあの男に近付けるわけではないのに。そろそろ帰るか。駅前の交差点の横断歩道を渡って帰宅しようとした、その時に事件は起こった。
ーードカッ、と、背後から何かがすごい勢いでぶつかる。赤信号で待っていた鯉登は、車道に飛び出してしまった。
「……っ!」
 鼻先三センチ。目の前を車が横切る。車道の真ん中に投げ出されるのを、どうにか踏みとどまった。そして交差点の真ん中から荒々しい声が降ってくる。
「ふざけんな!」
「てめえ何考えてんだ! ひかれてえのか!」
 走り去る二台の車からの怒号は、鯉登に向けられたものではない。それは鯉登の背を押し赤信号を無視して道を渡った無頼漢に向けられたものだった。
 状況が飲み込めずに車道脇にしゃがみ込む鯉登に「君、大丈夫か!」と後ろから声がかけられた。振り向くと同時に歩道に腕を引き寄せられる。
「……あ、……はい、大丈……あッ!」
 なんと鯉登を助けれくれたのは、電車のむぜ鼻の男だった。
 え、どうしてここに? 私があまりに渇望しすぎて妄想の世界へ突入してしまったのか? ここはどこだ? 現実か? 夢じゃないのか?
 心臓は急にどぎまぎして、全身の血がどくどくと猛烈な勢いで流れる。そんな鯉登の大興奮など露知らず、男は落ち着き払って質問してくる。
「車に接触は?」
「いや、ぎりぎりだったが接触はしていない。というか、さっきの男を追っているのか?」
「そうです。奴は窃盗の……」
 その返事を聞くや否や「足には自信がある!」と言って鯉登は走り出した。信号が赤から青に変わった瞬間だった。
 何十メートル離れているだろうか。窃盗犯は飲み屋の店先のゴミ箱を倒し、駐輪中の自転車を蹴り倒し、わざと通行人にぶつかり追手の妨害を繰り返しながら必死に逃走している。
 必ず追いついてみせる。
 小賢しい妨害など何のその、次第に犯人の姿が大きくなる。もう少しだ。手を伸ばすには足りないから、何か。
 鯉登はポケットからスマホを取り出して男に投げた。
「いってえ……!」
 後頭部に命中して速度が落ちた。すかさず鯉登は飛びかかって、倒れた男の背中に馬乗りになった。そして両腕を捻り後ろ手にして、野次馬に呼びかけた。
「おい! 見てないで駅前の交番行って呼んでこい!」
 しかし呼ぶ間も無く後方から短くサイレンが鳴り、パトカーがすぐ近くに止まった。
「大丈夫ですか!」
 パトカーから降りてきた丸顔の警官が、鯉登に駆け寄る。そして駆けつけたもうひとりの警官が、犯人の体を鯉登の代わりに押さえつける。そして「被疑者確保のご協力感謝いたしまーす」と軽快な調子で、犯人をパトカーの後部座席に押し込んだ。
 それから丸顔は「あのう、お時間ありますか? 少しお話聞かせてもらいたいんですが。それと感謝状の贈呈がされるはずなので、名前と連絡先を教えてもらえますか?」と言う。
「感謝状? そんなもののためにやったのではない」
「辞退されますか? それは残念だなあ」
 丸顔がしょんぼりと眉を下げる。私はあのむぜ鼻の男が追いかけていたから、捕まえただけだ。そこに「前山!」と後ろから声がかけられる。ふたりが振り返ると、やってきたのは例のむぜ鼻の男だった。丸顔が状況説明する。
「月島さん、彼が被疑者確保に協力してくれました」
「ああ、知ってる。駅前の交差点で彼は奴に突き飛ばされたところを私が目撃していた。それにしても君、大したものだな。我々でもあんなに早く走れる奴はなかなかいないよ。スカウトしたいくらいだ」
 そう言って男は笑う。というか警察官だったのか? むぜ鼻の持ち主なのに?
 鯉登が月島の正体に驚いていると、前山は月島にこんなことを言い出した。
「月島さん、私と宇佐美は奴を連行しますので、彼から事情を聞いてもらっていいですか? それと説得もお願いします。感謝状を辞退したいそうなんですよ」
 前山と宇佐美はパトカーに乗り込んで去っていった。
「自己紹介おくれました。我々は特殊詐欺の捜査員なんですよ」
 月島は鯉登に名刺を差し出した。
「○○署刑事課知能犯係長・月島基」
 鯉登は名刺を読み上げる。「先ほどの男はアポ電詐欺を計画したお宅に詐欺を見破られたので、計画を変更して空き巣に入ったんです。私が監視している最中での犯行でした」
「私服の刑事だったのか……」と鯉登がぽつりとつぶやくと「ええ、お久しぶりですね」と月島は目を細める。
「私を覚えているのか?」
「ええ、先月まで毎朝同じ車両に乗ってましたよね。私は仕事柄テレワークは無理なので今でも電車通勤していますが、あなたのように通勤されなくなった人が増えて、いま電車内はかなり空いていますよ」
 鯉登は通勤時の月島を思い出す。三月末、新宿駅で下車する直前にぶつかった時以外で、電車内で目が合った記憶は一度もない。でも月島は鯉登のことをしっかりと覚えていると言う。どういうことだ。あれか。きっと刑事のカンとやらで、毎日下心たっぷりで舐めるように鼻を見ていた自分のことを、要注意人物として実は警戒していたのではないだろうか。それに思い至ると恥ずかしくていても立ってもいられなくなった。
「……ああああ!」
 鯉登はアスファルトをバリバリとはがして掘った穴に隠れたくなった。
「あの、取り乱しているようにお見受けしますが、大丈夫ですか……?」
 月島もしゃがんで鯉登の顔をのぞき込んでいた。
「ち、近い」
「ああ、申し訳ないです。ソーシャルディスタンスと言われているのに。それより、本当に感謝状は辞退されるんですか? 私としては、今回の件だけではなくあなたには感謝していたので、受け取ってほしいのですよ」
「今回だけではなく?」
「ええ」
 月島は語った。



 なんだか異様な眼力で、自分を見る若い男がいる。鯉登に対する最初の認識はそれだった。しかも一度だけではなく、毎朝まいあさ乗ってから降りるまで容赦なく見てくる。なぜだ。理由がわからず居心地がわるい。刑事をして何だが、世の中には一般的な理解の及ばない人間はいる。絶対に目は合わせないようにしよう。月島は心の中で固く誓う。
 そう決心したにも関わらず、その決意がぐらつく事案が発生した。
 月島は通勤途中で痴漢らしき男を見つけた。自分の位置からはっきりと見えるわけではない。でも様子がおかしいから、次の駅に着いた瞬間に男と被害者をさりげなく下ろして事情を聞いて、鉄道警察に引き渡すか。そう頭の中で計画を練っていた時だった。
 いつも月島を凝視している若い男が、その痴漢らしき男と被害者の間にいつの間にか割って入っていたのである。自分が盾になったのか……? だから痴漢らしき男は、その後は諦めたのか何もせずに降りて行った。
 果たしてあれは偶然だったのか。
 だから月島は、その男をさり気なく見るようになった。見ていることを絶対に彼に気づかれないように、注意深く観察し続けた。すると男はその後も、痴漢らしきおかしな動きをする男の隣に、移動するのを何度か目撃した。
「あんな風にさり気なく犯罪を抑止するなんて、なかなかできることではありません。だから私はあなたに心の底から感謝しているのですよ。個人的にもお礼をしたいくらいです」
「受け取る」
 鯉登は月島の手を握り即答した。
「……えっ、そうですか、よかった。では後ほど○○署から連絡がいくと思いますが……」
「いや、個人的なお礼の方だ」
 そう言い切ると、月島の顔がやや引きつる。
「……個人的……だと、飲みに行くくらいしか思いつきませんが、いま外出は控える時期ですし……」
 月島は困惑しながらも、自分から言い出したことだから一応提案する。そして手を振り解くきっかけを必死で探る。
「酒を飲む必要はない。持ち帰りのミルクティーでもスムージーでも何でもいいぞ」
 鯉登がさらに顔を寄せるから「近いです!」と月島は顔を背けた。
 おお、ついに横顔をこんな間近で見られるなんて!
 鯉登は電車の中では見られなかった月島の横顔に感動した。そしてさらに限界まで近づけば、月島が観念したように目を閉じるので、鯉登はすうすうとにおいを嗅ぎ、べろりと鼻を舐めてしまった。もう欲望には逆らえなかった。
「……あの、いま何しました? 舐めましたよね?」と月島が目を開けておそるおそる尋ねるから「あちらを散歩している犬が犯人だ」と鯉登はしらを切った。
〈了〉

【鯉月】この世界に花を添えよう

【鯉月】この世界に花を添えよう

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-25

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work