【鯉月】周回軌道の先で待つ

しずよ

七夕にまつわる軍曹の過去に、少尉がもやもやするお話。鯉月の二人は両片想いで迷ったり悩んだりしている状況です。稲妻後、網走前あたりのつもりで書いています。少尉の営外住居の使用人がふわっとした感じで出ています。

 約三週間振りに、鯉登は小樽から旭川へ戻ってきた。午前中は通常の訓練をこなして、昼食後に執務室で日報に目を通していた。すると、いきなり月島がやってきて驚いた。お前は今日、小樽にいるはずじゃないのか。扉を開け放した出入口で、きっちりと足を止めて敬礼する。鯉登は入室を許可して質問する。
「いつ小樽から来たんだ?」
「昨夜です」
「そうなのか? 私も昨夜こちらに到着したばかりだ。同じ陸蒸気に乗っていたのではないか?」
「はあ、そうかもしれません」
 月島は素っ気なく返す。
「と言うよりなぜ扉を閉めた? 暑いだろう」
 今日の旭川は滅多にないほどの湿度の高さだった。だから窓からの風が通るように、廊下への扉を開け放していた。それなのに、月島が入室した際に閉めてしまった。
「鶴見中尉からの伝言があります」と神妙な顔をする。月島が突然こちらに来たということは、まあそうだろうな、と鯉登は思った。開け放したままで、刺青人皮に関する報告をしづらいのは確かだ。廊下を歩く複数人の足音や声が聞こえる。そうして月島が口を開きかけた時に、扉が叩かれた。ふたりは一瞬だけ息を詰める。
「鯉登少尉殿! こちらに月島軍曹殿はおられますか?」
 上等兵の焦った声がした。
「入れ」
 鯉登が返事をすると、扉が開いた。上等兵は敬礼する。
「月島軍曹殿に報告いたします。先程、午前の訓練に使用した弾薬の確認をしたのですが、……それが、その……」
「数が合わないのか?」
 月島が尋ねると、上等兵は腹をくくって声を張り上げる。
「それが、拳銃が足りないのです!」
「なんだと?」
 月島はしかめ面をする。鯉登にも月島の心境は十分に伝わった。めんどくさい、と心の中でため息をついているに違いない。弾薬でも合わなければ大捜索が始まるのに、よりによって拳銃とは。月島の予定はきっと聯隊長等への伝達事項を済ませたら、すぐにでも小樽へ帰るつもりだったのだろう。しかし、こうなると早めに担当者に確認をして捜索を開始する必要がある。
「月島軍曹、時間がかかりそうなら私への報告は軍務後でも構わん」
 月島は振り返り「は、しかし」と反論しようとする。眉をひそめて困惑顔だ。鯉登は月島の心中を察する。──銃の捜索に夕方まで時間がかかってたまるか。それから鶴見中尉殿からの伝達事項を早く伝えなければ。
 おおかたそのように考えただろうから、月島が断れない言い方をした。
「それに、家人も月島が顔を見せるのを楽しみに待っているぞ」
 すると月島は目を丸くする。それから「承知しました」としおらしくなった。月島は上等兵と退室した。
 月島の訪問を待っているのは、鯉登の家の使用人のふたりだった。
 それは熊岸長庵を確保した後のこと、鯉登も小樽での囚人狩りに加わったから、ここ旭川の営外住居に使用人だけ住んでいる状態となっていた。だから鯉登は二人の様子が気になっていて、もし月島が単身で旭川に戻る際には、ついでに家の様子を見てきてくれ、と頼んでいた。だから初夏以降、何度か月島がひとりで鯉登の家を訪れていた。



 午後六時、玄関から月島の張りのある声がしたから、鯉登は自ら迎えに出た。
「水もしたたるよかにせじゃな」
 鯉登がにやりとすると、月島はむくれた。分かりやすくて好ましいと思った。月島はにわか雨をかぶってしまい、行水でもしてきたような有様となっていた。なので三和土で短靴と靴下を脱ぎ始める。それから不満そうな声をもらす。
「夕方から雨が降りそうだったのに、あなたがわざわざ外に呼びつけるからこの様です」
「まあ怒るな。風呂の用意はあるぞ。中尉殿からの伝達は上がってから聞こう」
 鯉登が帰宅するのと同時に、雲行きが怪しくなった。窓から外を見ていると、やがて土がむわっと匂い立った。ああ、これは雨の降り始めの空気だ。鯉登がそう感じた直後、ざあっと一雨きた。夕立だ。北海道ではほとんど降らないから、珍しいと思った。そういえば昨日も降ったと使用人から聞いた。そして彼らも故郷の蒸し暑さを思い出したと笑っていた。
 子供の頃に「夕立は三日続く」と兄から教わった。しかもそのことわざを、月島も知っていたようだ。さっきの口ぶりはそう受け取れた。それなのに、雨衣も持たずに手ぶらで来たのか。鯉登は詮ないことを考えた。
 月島が入浴する間に、使用人らは軍服と軍帽、靴と靴下の水気を取る作業をした。絞った後にたくさんの古新聞で包んで叩く。靴の中には丸めた新聞を詰める。おおかたの水を吸わせて、形を整えて干した。短い夏の間だけ着用する、鯉登の着ているのと同じ茶褐色の夏衣は、含む水気で少し重たい色になっていた。
 月島が風呂から上がると、間もなく報告を始めた。網走監獄に潜入していた宇佐美が、師団の間者だとばれたということ。それと谷垣の電報から、彼らの移動先を把握していること。
「中尉殿は、網走へ向かう機会を逃さないように、杉元や谷垣の動向をうかがっておられます。できればこれらを鯉登閣下へお伝え願えますか? 時期が確定したら、中尉殿から少将殿へ正式に要請がなされます」
「承知した。それにしても宇佐美上等兵の正体がなぜばれたのか、理由は聞いたか?」
「いいえ、理由までは存じておりません」
 ふむ、と鯉登はしばし考え込む。次に会ったら直接宇佐美に問いただしてみるか。
「それと、拳銃は見つかったのか?」
「はい」
 月島は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
「どこにあったのだ」
「はい、憲兵隊舎の屋根の上で発見しました」
「は? 誰かが投げ上げたのか」
「そうだと思うのですが、しかし誰もそんな不審な行動をする者を見ていないというのです」
「面妖だな」
「はい、そんな真似をしていたら誰かが気付くだろう、と憲兵にも言われました」
 官舎から道を一本隔てた向かいに憲兵隊舎ある。その二階の屋根に届くように振りかぶっていたら、あからさまに怪しいはずだ。
 月島は目を伏せて「はー」と息を吐いた。疲れを滲ませている。こうして自宅に呼んだことも、少し気の毒になってきた。でもめんどくさい以外の気持ちを素直に表現する月島が、なんだかかわいいと思ってしまった。
「ご苦労だったな」
「はい。川底もさらいました」
 射撃場へ向かう途中に川がある。それ以外にも、練兵場には池が豊富にある。その中に入って底をずっと探していたのなら、今日の月島は水難の相なのかもしれないと思った。でもそれを口にしたら、きっときつく睨まれるだろう。だから鯉登はこう言った。
「案外、カラスの仕業かもしれんな」
 思いつきだったが、月島は「なるほど」と膝を打つ。「紛失した時間については、訓練後に銃の手入れをしている間しか考えられなかったのです。カラスなら可能性はあります」
 人間の真犯人がいたらいたで、その目的を問い質して処分しなければならないから、かなり厄介だ。だからふたりとも、本当にカラスのせいであってほしいと思った。そこでお茶が運ばれてきたので、月島は愛想笑いをして礼を述べた後、うまそうに飲んだ。
一息つき「この浴衣は貸してもらえますか?」と聞いてきた。
「ああ、構わん。それより月島は明日小樽へ戻るのか?」
「はい、汽車の時間までに乾くといいのですが」
 そうして室内に干された軍服に目をやる。密に詰まった綿だから、乾くのに時間がかかるだろう。
「もう一組あるだろう?」
「ええ、ありますが、小樽です」
 それもそうか、と鯉登は思った。月島は今ほとんど鶴見の任務に従事しているから、活動拠点を小樽の兵舎に移しているような状態だった。こうして鶴見からの伝達事項がある度に、旭川に顔を出すのである。今日は自分以外にも、聯隊長や兵卒らにも申し伝えたのだろう。
「時に月島」
「はい」
「貴様たちの冬の軍服は、いつになったら紺絨ではなく茶褐絨に変わるのだろうか?」
「はい、私が聞いた話では、向こう五年は紺絨のままだそうです」
「は? まだ五年以上も先なのか?」
 本当なら昨年の勅令により、下士官以下の軍衣も満洲の大地の色に合わせた茶褐衣に統一すると決められている。しかし政府はロシアとの交戦中に大量のラシャを買い付けており、まだ倉庫にたっぷりと紺色のそれが眠っているのである。計算したら五年分はあったそうだ。だから今はそれを消費してしまうべく、経過措置となっていた。
 それにしても、五年とは。鯉登は眉をひそめる。それから月島に疑問を投げかけた。
「月島。お前今年でいくつになる?」
「は、三十四です」
 そうだ、兄と同じ年齢なのだ。それに五つ足して三十九。下士官の定限年齢は四十。特務曹長から尉官にあがる者は滅多にいない。つまり茶褐絨の軍服に袖を通さないまま、月島は現役から退く可能性が高い。
 それに思い至ると、鯉登の胸には急に焦りに似た気持ちがせり上がる。正体不明の何かに急き立てられて、無性にどこかへ駆け出したくなる。でもいくら走ったって、月島との間に横たわる時間を縮めることなんてできないのに。鯉登が内心焦っていると、月島の声がした。
「少尉殿、ひとつ尋ねてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「お庭に七夕飾りの柳がありましたが、一ヶ月間ずっと飾っているものなのですか?」
「一ヶ月?」
 鯉登が不思議に思っていると、月島は「先月七日にもこちらで七夕飾りを見ました」と言った。ちょうど一月前、月島は単身旭川へ戻ってきてそれを目撃したらしい。鯉登は七月七日は小樽にいたので知らなかった。
「なので鹿児島の七夕は、新暦に合わせているのかと」
「いや、地元の七夕は旧暦だ。少し待て。家の者に聞いてくる」
 そう言い残して鯉登は居室を出た。台所にいた女中に理由を尋ねる。すると、北海道では七月七日に飾るのだと思ったらしい。彼らは鯉登家と共に鹿児島から越してきているから、北海道の七夕事情を詳しく知らなかった。それで鯉登は合点がいき、月島の待つ部屋へ戻る。
「理由が分かったぞ。私たちが最初に住んだ函館の七夕が新暦だったのだ。だから家の者は、北海道の七夕はどこでも七月七日だと思ったらしい」
 一方、旭川の七夕は旧暦だ。まさに今日、自宅や駅前から師団へ続く商店街にもたくさんの七夕飾りがなされていた。
「それなら少尉殿のお宅では、織姫と彦星は二度も会えたのですね。なんと贅沢だ」
 月島は広角を上げた。月島が微笑んだ? 鯉登は驚いて呆然としてしまった。しかし動揺させられたのが何だか癪で、鯉登は冷静を装って尋ねる。
「たった二度の逢瀬が贅沢なのか?」
「ええ、贅沢です」
 尚も強調する月島に、鯉登が到底納得できない顔をする。すると月島が理由を説明し始めた。
「私も子供の頃に織姫と彦星の話を聞いた時には、一年に一度しか会えないなんて、かわいそうだと思ったんですよ。でも今は考えが変わりました。一年に一度でも会えるなら十分じゃないか、そう思うようになりました」
 月島はそう言って窓に目を向けた。鯉登は窓を開けて空を確認する。先ほどにわか雨を降らせた低い雲は、すでに風に流された後だった。それより遥か上空を、丸く千切られた雲が素早く流されていく。それらの隙間から星の瞬くのが見えた。今年はなんとか織姫と彦星は会えたのだな。鯉登は川を渡る夫婦に思いを馳せて、そして隣にたたずむ男に意識を向けた。
 ただの一度も会うことの叶わない人がいるのだと、鯉登にはそう受け取れた。聞かなければ良かった。初めて聞く身の上話が、こんなに重たい話になるなんて思いもしなかった。鯉登は月島のことをよく知らない。数ヶ月前まで赤の他人だったのだから、しょうがないと思っている。それでも近頃は、鶴見からたまに召集される予備役などから「鯉登少尉殿と月島軍曹殿は、まるで何年も共にあった戦友のようにお見受けします」と言われることがあり、それが鯉登には密かに自慢だった。だから、互いを理解し合うのは時間のみではないのだと、そんなふうに考えるようになっていた。
 慢心が招いた落とし穴に、今夜どさりと落ちてしまったようだった。



 鯉登が陸軍士官学校を卒業する直前のこと。
 父の艦が横須賀に寄港して、その後東京の英国公使館の友人と会うと言うから、音之進にも同席するか打診があった。その英国人とは幼少時に鹿児島で何度か会ったことがあり、懐かしさからすぐに了承した。次の日曜日、友人夫妻と父と音之進の四人で会食した。彼らの会話は近況報告から次第に時をさかのぼり、薩英戦争の話になった。
 約四十年前の生麦事件での報復合戦から講和後は一転して、薩摩藩と英国は互いを尊重し理解に努めてきた歴史がある。だから父のこの交友関係も、そういった先達の努力の上に成り立つものだった。
 それなのに父は友人と別れた帰り道、大英帝国を『遠い国だ』と複雑な表情で語った。音之進はたいそう驚いた。そんな素振りなど微塵も感じたことがなかったからだ。息子の動揺が手に取るように分かったのだろう、父は理由を聞かせてくれた。
 かねてより大英帝国は帝政ロシアと敵対していたから、五年前に日英同盟を結んだ。それは、ロシアの東アジア侵攻による国力強化を阻むのが目的だった。要するに英国は大日本帝国を盾にしたのだ。だから日露戦争では、海も陸も英国の協力なくしてはロシアに勝つことはできなかった。
 それなのに、である。
 ロシアが負けたと知れ渡ると、英国はまるで偉大な父を喪ったかのような悲しみに包まれたのだという。
「音之進、彼らん喪失感が理解しきっか?」
 父の問いかけは、率直にいうとまるで理解できなかった。しかし、それを口にするのも憚られて唇を噛む。私は陸士で一体何を学んできたのか。
 黙りこくる息子の背中を、父は軽く二度叩く。
──日本人が英国人のことを丸ごと理解できないのと同様に、彼らもまた我が国を知ることは難しいだろう。これまで積み重ねてきた歴史が違うのだから。でもそれは、不寛容や不審につながるものではない。肝心なのは『相手には理解できない側面もある』と弁えておくことだ、と父は語った。



 あの日の複雑な心境を、不意に思い出してしまった。そして鯉登は目の前の男を見た。知らないことは悪いことではない。──そう言われても、割り切れない思いが残る。
 私は月島を、どれくらい理解しているのだろうか。まるで知らないんじゃないか。こんなに近くにいるのに。──いや、近くに思えるのは実はまやかしで、くるりと背を向けて逆に走り出し、地球を一周したところにいるのが月島なのだと感じた。本当は、地球上で一番遠い。
 それに思い至るとやるせなくてむしゃくしゃして、それらを月島本人にぶつけたくなった。八つ当たりだ。こんなのは子供の癇癪だと分かっている。でも鯉登はざわめく気持ちを止められなくなっていた。兄でもなく親でもなく、ましてや祖父母でもない男に、なぜこんな甘ったれた気持ちをぶつけたくなるのか、その理由が鯉登は分からなかった。
 しかも湧き上がるのは甘えだけじゃない。同時に芽生えたのは甲斐性のようなもので、月島の願いなら何でも叶えてやりたい欲求を抱え始めていた。だから鯉登は腹立ちまぎれにこう言った。
「月島、お前も短冊に願い事を書け」
 言うが早いか使用人を呼ばわり、紙と筆とこよりを持ってきてもらった。鯉登が「ほら」と突きつけると月島はめんどくさそうな顔をする──鯉登はそう予想していたのだ。
 だが現実は違った。月島は全く表情を変えずに、黙って筆を取った。墨を含ませて紙にさらさらと筆を走らせた。
 月島はあっという間に書き終えた。それも意外だった。常に願っている事柄を心に秘めていなければ、普通は何を書くか迷うものだ。短冊を見てもいいのだろうか。自分で焚き付けたくせに鯉登が気を揉んでいると、月島はまた予想外な言動に出た。
「少尉殿、申し訳ないのですが、これを一番上に結んでもらえますか?」
「あ、ああ! 構わんぞ」
 受け取って玄関から外に出る。月島も後をついてくる。飾りつけをした柳の木は、夕立をやり過ごすために屋根から軒下へ移動させられていた。鯉登は少し背伸びをして、月島の願い通り一番上に短冊を結んだ。その間に書かれた内容は見えてしまった。というより、月島は自分に見せるために頼んだのだ。結び終わった鯉登に月島は「ありがとうございます」と声をかける。
 手玉に取られているような悔しさと、気を許してくれたような喜びがない交ぜだ。鯉登はそのちぐはぐな胸中を上手に表す術をまだ知らなくて、つい子供のような憎まれ口をたたく。
「月島ぁ、短冊には芸事の上達を書くものだぞ」
「そうでしたか。無学なもので存じ上げませんでした。今回だけは、それも芸事ということにしておいてください」
 そう言う彼の願いは、実に他愛もない内容だった。

『財布を忘れても、早く気がつきますように』

 なんだこれは。真面目そうにふざけたことを書きおってからに。お前はいつも財布を忘れるのが前提なのか。私をからかっているだけなのか。それとも──。
 鯉登は月島に、次から次へと言ってやりたい台詞が思い浮かぶ。でもその中のどれも口にする気にはなれず、実際声に出したのはこれだった。
「ふん、私ならすぐにお前に追いついて届けてやる」
 すると月島はわずかに瞠目して「あなたにそんな使い走りのような役割を、させる訳にはまいりません」と言い張る。
「ならば、忘れ物をしないようにすればよかろう」
 すると「……そういうことじゃないんです」と言い淀む。話の先が見えない。月島に何があったのだろう。聞けば教えれくれるのだろうか。普段の鯉登はかなり口が軽いのに、たまに本音を語らずごまかす瞬間がある。それが今だった。つまり月島の身の上話は、鯉登にとって軽く口を滑らす対象ではないのだ。それに気付いたから余計に、素直になることも笑いをとることもできなくなる。
 短冊に目をやる。そうだ、いつまでも軒下ではなく高い場所に飾らなければ。
「よし、屋根に飾るぞ」
 家の裏に回って、物置からはしごと縄を持ち出す。それを屋根にかけてから表に戻り、柳を運ぶ。鯉登は器用に片手ですいすいと一番上まで登っていった。
「なあ月島、どこに括り付けたらいいと思う?」
「あの、そういうの、ここに登る前に調べておきましょうよ」
 吊りランプを持ち後からついてきた月島が呆れる。そして彼は屋根をぐるりと歩いて回り、屋根の下に柱か何かないか探した。
「少尉殿、雨樋しか適当なものがありません」
 それは軒先からまっすぐ地面まで伸びていた。少し頼りないが、しょうがない。鯉登は瓦で足を滑らせないように軒先まで移動して、手早くそれに柳を括り付けた。それから屋根の天辺まで戻る。そこに月島が待っていた。空を見上げた。
「月島、七夕は七月より八月の方がいいと思う。星が濃くよく見える」
「はい」
「月島もそう思うか」
「ええ」
 織姫、彦星、そして天の川に橋をかけるカササギの星。それらが南東の空によく映えていた。月島の願いが叶いますように。胸の中でそっとつぶやく。そうして鯉登は隣に立つ横顔を見た、はずだった。
 目が合ってしまった。月島もこちらを見ていた。間髪入れずに月島は目をそらし、かしましく屋根瓦を踏みしめて、はしごを降りていく。
「待て、月島!」
 鯉登もはしごを降りる。
「私はこれで帰ります。夜間にすっかり長居してしまい、すみませんでした」
「外泊届を書け」
「いやいや何言ってんですか帰りますよ」
「官舎よりうちの方が風の通りがいい」
 鯉登がそう言うと、玄関に入ろうとした月島が足を止めた。だから押しの一手を。
「朝風呂だって入れるぞ」
 すると月島が鋭い目つきで鯉登に振り向く。
「……少尉殿、私を風呂で釣ろうとしないでください」
 月島はそう言って軍服を取りに室内へ入って行った。
 釣られている自覚はあったのだな。そう思ったけれど、指摘すると月島がますます意固地になりそうなので止めた。それより、月島は今日旭川にやって来たのは予定外だったのだから、そもそも外泊許可は要らないのではないだろうか。
 鯉登は胸の前で拳を握る。よし、もうひと押しだ。自分より使用人らが引き止める方が、効果的かもしれない。鯉登はそう思ったから彼らを呼びに行った。
〈了〉

【鯉月】周回軌道の先で待つ

【鯉月】周回軌道の先で待つ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-25

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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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