天正6月2日 第2章

前回のあらすじです。
無理やり本能寺で信長を狙撃するよう指示された倭寇の女頭・夷空と火術師のあざみは、信長暗殺の黒幕・千宗易の差し金によって、再び京都に戻ってきました。彼女たちに課せられた任務は、信長の生死の確認。その鍵を握るのは、阿弥陀寺の下男・幸吉と言う男なのですが・・・・
と、色んな展開が入ってまいります。本能寺の変、直後の京都、お楽しみください。

藤堂高虎

同日、同時刻、京都三条大路。
宵の口を過ぎて人の絶えた堀端を小さな影が走っていく。
繕いの多い麻服を着た、小さな少年だった。粗莚一枚、頭を隠すように羽織って、猫のように大きな目が、薄明かりの中を蠢く。身のこなし、目配り、いかにもはしこそうだ。その所作は雑踏のスリか、空き巣の物盗りのようだ。通りから通りへ、辺りをうかがいながら、軒先を伝うように駆けていく。
(まあ、誰もいないか)
京都市中を震撼させた、本能寺の変からまだ一昼夜だ。
朝方から続いた戦闘は小規模のうちに収束した。明智勢はその日のうちに北北東、信長の築き上げた天主のある安土へ向かっている。京には早くも、昨日の戦闘の面影は微塵も見られなくなっている。
それでも朝までは、明智勢はいたのだ。
昨日昼ごろまで、本能寺近くの人家では、残党狩りが行われていた。光秀のお達しが出たからかお馴染みの略奪が行われなかったことは不幸中の幸いだったが槍をもった足軽が、大声でおらびあげては、そこら中を駆け回っていたのだ。
少年の警戒は身に付いた習慣だった。表通りを歩くとき、自分の動きが誰から丸見えだと思うとき、身体が常にいざと言う際の逃走に備えて反応してしまう。これは経験が獲得した本能で、ちょうど目を閉じても野良猫が実は眠らないのと同じようなものだ。
信長の入京以来、京都も献金で潤ったが、この街は依然、眠らない犯罪都市だ。各地で続く冷害や凶作で、流れてきた老若男女が火事場に逃げ回る鼠のように大量に流入しては、飢饉の度に死んでいく。それでも、この疲弊した都市に、そもそも人の生業になりそうなものはないのに、人だけは入ってくるのだ。
まして騒動のあとだ。どさくさに便乗する野伏せりや人さらいが出るのは、当然のことで日が落ちてからは外に出るものは滅多にいない。臆病に気を配るに越したことはない。
(やんなきゃ、歩けないっての)
クグツの虎夜太は物静かに呼吸を整えた。昼間の暑気が去ったとは言え、まだ暑い。耳に追いすがる藪蚊の音を聞いてから、虎夜太のいらだちは、堪えがたいものになっていた。
「・・・・・ったく」
「虎夜太」
「うわあっ」
「何を驚いてるんだ」
後ろから声を掛けられたのだ。驚かない方がどうかしている。少年はそう抗弁したかったが、面と向かってできない事情があるので、ここは精いっぱいの愛想笑いでごまかすしかない。
「なんでこんなとこまで着いてきてんですかっ。高虎の旦那、動かないって言ったのに」
「じっとしてられるわけねえだろ。おれはこんなところに遊山に来たわけじゃねえ」
藤堂高虎は、太い鼻を掻いて虎夜太を睨みつけた。
「いや、気持は分かるよ。でもさ、旦那」
「へらへら笑うな。・・・・・・用もねえのに笑うやつ見るとむかむかするんだよ」
(・・・・・じゃあ、どうすりゃいいんだっつの)
虎夜太は胸の中で高虎に聞こえないように毒づく。直接言い返してやれたらどんなに溜飲が下がるだろうと思うが、ここで口には出せない事情が虎夜太の胸につかえてそれを阻止している。
「なあ、虎夜太。おれは早くこの街を出たいんだよ。なのにわけが分からない理由で足止めを喰ってるんだ。お前は何も話さないし、お前が夜中にどこかへ行こうとすれば、つけたくもなるだろ」
「そりゃあ、旦那も退屈してるし、高松の陣に帰りたいってのは分かるよ。でも、そんなこと言われてもさ、おれにはどうにも出来ないんだってば」
「お前じゃ埒が明かないのは分かってるよ。前野車左衛門と話をさせろって言ってるんだ。・・・・・奴はどこにいるんだ?」
「さあ・・・・・」
と言った途端、身体ごと虎夜太は持ち上げられた。それが片腕なのだが、虎夜太の襟首を捕まえる右の拳が、雀蜂の巣のようにごつくてまた、馬鹿でかいのだ。しかも目の前の虎を思わせる顔は、それにもまして大きく、しかも造作が暑苦しい。
「おれの言ってること、分かるよな、虎夜太。おれに密偵は向いてないんだ。・・・・・こんなでかい図体であと何日、どこに隠れていろって?」
直接文句を言えるわけがない。虎夜太も一目見て、びっくりした。この男のもとの主の浅井長政も六尺(一八〇センチ)の大男だったらしいが、高虎と言う男は、それにも増してでかい。まさに雲を突く大男だ。この非常時にこの男に密偵をやれと命令した大馬鹿者の頭の中身を、虎夜太はのぞけるものなら一辺のぞいてみたいと思っていた。
「えっと・・・・・備中高松にある本陣には、高虎様が命じた通り、明智謀反の報をすでに走らせてるんです。まあ、その前に前野様が手配したんで、そっちのが早く届いてると思いますが」
「で? おれはなぜ秀長様のところへ帰陣しちゃいけない?」
「だから、畿内一帯はすでに明智の目が光っていて、密使は厳重に監視されています。昨日の昼に軍勢は安土に発ちましたが、近日中には戻ってくるし、その間ここに不穏な動きがあればそれに備えて密偵くらいは放っているでしょう。・・・・・素人が下手に動くのは危険なんですよ」
やっと納得したか。と言うように、虎夜太がため息をつくと、
「だからそう言えって言われてるんだろ、虎夜太」
「だからそんなわけないでしょ・・・・・て言うか、足浮いてるんですけどっ」
虎夜太の身長は、高虎の腰の辺りまでしかない。十五になって、いまだ大人の女よりも背の低い自分に、虎夜太はひそかに劣等感があったが、さすがに高虎ほど馬鹿でかくなりたいとは思わない。
(いくさ以外なんの役に立つんだ、あんたはよ)
「とにかく前野に会わせろよ。京都に来てからこっち、あいつ一回もこっちに顔出してないじゃないか。一体どこにいるんだ?」
(・・・・・つか、こっちが聞きたいよ)
虎夜太に待機命令を出している前野車左衛門とは昨日から、連絡がつかずじまい。実はさっき、高虎の目を盗んで何とか合流しようとしたのだが、示し合わせの場所に前野たち京都工作部隊は現れなかったのだ。
「虎夜太、いいか。これは、簡単な問題だぞ。上様暗殺の報があったから、おれは中国から馬を走らせて京都に入ることになった。そしたらすぐに明智勢がおおっぴらに謀反を起こしたせいで、ここを出られなくなったんだ。
でも、今は違う。明智は去った。その上まだ、上様の安否は定かじゃない。どうする? おれは中国に馳せ帰って、羽柴筑前様に直接、今の状況を報告する。そこで一刻も早く、一兵でも多く、京に帰さねばならんだろう。違うか?」
「違ってない、と思います。・・・・・で、でももう、遅くとも今晩には本能寺事件の報は中国に伝わって、筑前様は撤兵の支度を始めるでしょうし、二万の兵が取って返すとなれば、当の明智もおれたち足もとの羽虫の動きなど気にもかけなくなるに決まってますって。そもそもあんた一人戻ったところで今さら・・・・・・」
猛獣の形相が迫ってくる。ひえっ。虎夜太は頭から喰われる錯覚に陥って、悲鳴を漏らし、目を閉じかけた。
「馬鹿か、お前。おれが戻ってきてねえことが重大なんだろうがよ! これだけ重大な合戦のさなかにいて、おれだけ置き去りかい。ふざけんじゃねえぞ。おれはこの二本の腕と槍で身代稼いでるんだ。分かるか?」
「分かりますって、旦那の気持ち・・・・・いや、分からないです。分からない、と思います。はい。でも、どうにもならないんですって。前野の親方の段取りがなきゃ、おれたちはここを動くことなんて到底出来ないんです。今この街は平穏に見えますけど、明智が放った密偵や野伏せりはじめ、色んな奴が跋扈(ばっこ)してるんですって」
「そんなもん、おれがねじ伏せてやる。いくさが出来ねえなら上等だ、まとめてそいつらの首根っこ、引っこ抜いてやる。いいから早くそいつら連れて来いっ!」
(勘弁してくれよ、もう・・・・・)
虎夜太は泣きそうだった。一人で猛獣を飼いならすのは、さすがに一昼夜が限界だ。実際、次の段取りが決まっていなければ動けないことは確かだし、本当に今、どうしていればいいんだろう。
(白瀬のお姐(ねえ)がいてくれたら・・・・・)
温和なお姐をあてがっておけばこの虎も、少しは退屈が紛れるだろう。彼女がもしいなくならなければ、今夜こんなことにもならなかったはずだ。連絡がつかなければ、市中、前野の消息を追って歩くことだって出来たのだ。
(ったく、どこ行っちまったんだよぉ、お姐は)
本能寺の変があった、その朝から。
相方の白瀬は、行方が分からなくなっているのだ。

虎夜太はどうにか高虎をなだめすかすと、三条大路の果て、つぶれかけたあばら家のひとつに連れ帰った。この辺りは鴨川沿いの落人集落である。
この戦乱で疲弊した、不毛の首都にあてもなく流入してきたものたちが自然と群れ集まる吹き溜まりだ。鴨川沿いの藪の中に、焼け出された廃材で建てられたあばら家や敷かれた御座の上に思い思いの人々が、無為な夜を迎えている。煮炊きの煙の臭いや人の気配はするが、この辺りのものたちは巣穴の中ではお互いに、声を掛け合う気力も失っている。
そこに棲むのは、武家くずれのほろほろ僧、わけありの流れ者、人買いや妓楼から逃げてきて私娼化した辻君(つじぎみ)と呼ばれる女ども。または虎夜太のようなクグツと言われる流しの芸人たちだ。彼らは昼間は往来や河原の目立つ場所に出ては、芸や身体を売って生業にしているが、ここへ来れば別に、陽気に騒ぎ合う仲でもない。
虎夜太の寝る場所も、家とは呼べないほどの掘っ立て小屋だ。疫病で死んだ男の持ち家に居座っている。雨除けの庇程度の板を組み合わせ、土間には筵が敷いただけのものだ。
藤堂高虎はその筵の上で一人不貞寝をするふりをして、薄目を閉じていた。
(・・・・・ちっ)
かまをかけるぐらいの知恵はある。どうやら虎夜太が主を見失っているのは本当だと思って、考えていいようだ。
沢の音が流れている。陰気な音―――飢饉の年は、餓死者で流れが止まると言う、鴨川の水の音だ。この陰鬱なあばら家で高虎はもう三日も、無為な日々を過ごしている。死なない程度に食は足りてはいるが、一人で外出することを禁じられているので、戦場わたりの身体を、どうしても持て余してしまう。
(どうなってやがる)
事変のあったその昼のうちに、明智勢は北へ去った。目指すは、言うまでもなく安土である。信長の覇権の象徴である安土城を征服した後は、しばらくは兵を動かすまいと、高虎は見ていた。クーデターで浮足立った自軍を整えるため、畿内の動向をしかと見極めるためだ。なにしろ明智にとって時間はたっぷりある。
報せを東西の方面軍が撤兵を準備して京都へ馳せ登るには、まだ半月近くを見てもいいはずだ。その間相手になりそうなのは、四国への遠征を予定していた丹羽長秀と織田信孝の軍勢だが、本来は友軍である明智勢二万の到着を待っていた彼らに、まともに立ち向かう力があるとは到底思えない。
(まあ、もし信長公が難を逃れていたとしたら、話は別かも知れんが)
いずれにしても決戦はもはや京都市街では行われまい。
歴史的に見て京都は、防衛戦には向かない市街地なのだ。古くは源平合戦の木曾義仲から、入京した多くの征服者が攻め込みやすく守り難いこの首都の地形に泣いた。
明智光秀ほどの戦上手が、その轍を踏むはずはないし、心情的に言って光秀はこの地を戦乱で穢すことを好まない。
北国から柴田勝家と滝川一益が、中国から羽柴秀吉が、軍勢を率いて引き返してきたとするなら、領国の丹波か、占領した信長直轄の近江周辺で戦端を開くだろう。
(そのとき明智の相手が、秀吉の中国遠征軍じゃなかったらおれが困るんだよ)
高虎は、例の水攻めで停滞する備中高松の陣からひそかに抜け出して、山陰を北から迂回するルートで京都に入った。
京都へのこの連絡路は、川並衆が中央との伝達のために確立した早道だった。川並衆とは、秀吉の側近、蜂須賀正勝率いる密偵たちである。正勝が小六と名乗っていた一介の野伏せりであった頃から、秀吉肝いりの情報工作集団として活動している。
彼らが、そして高虎が通常の海沿いの街道を使わずに、さきに陥落した上月から丹波を迂回するルートを確立し、そこからひそかに京都に入ったのには実は明かすことの出来ない裏の事情があった。高虎は、秀吉の口から直接聞いた言葉を確かに覚えている。
「・・・・信長公の密殺を企てている輩がおるそうな」
あれは、五月のさみだれが泥飛沫を作る豪雨の晩だった。

虎の戸惑い

藤堂高虎がこの件で、直属の司令官である羽柴小一郎秀長から呼び出しを受けたのは、五月の中旬過ぎのことだった。二か月に渡る長陣で酒にも女にも博打にも飽いていた頃の急な呼び出しに、高虎は訝しげながらも、もしかしたら抜けがけ功名を立てる機会なのではないかと勝手な期待を持っていた。
浅井家を放り出されて以来、高虎はつても名跡もないまさに渡りのいち戦場人だった。この時代のもっとも戦国武士らしい典型とも言えるが、実情はそう恰好のいいものではない。さび槍一本、破れ具足の隙間を自分で繕う。雇用の不安定な陣借りで、足軽に紛れての戦場の手柄稼ぎはまさに、命懸けのその日暮らしだ。いくさ働きがそれほどでなくても上役に取り入れば召抱えもあるものの、この体格に見合った血の気の多い性格が災いして、大喧嘩で十日と保たずに飛び出したりしている。村村で催される餅の大食いで糊口をしのいでいた時期もあったりした。
それがどうにか今をときめく織田家の筆頭である羽柴秀吉の傘下に潜り込んで、どうにかここら辺でおのれの存在感を示したいとやきもきしていた矢先だった。春からの単調な長陣に厭いた心が、刺激に飢えていた。
「くれぐれも他言は無用なのだがな」
秀長は言うと、高虎を石井山頂上にある秀吉の本陣に案内した。秀長の陣は石井山のふもと、堤防のある蛙ケ鼻とは目と鼻の先である。空はもう幾日も曇天、土嚢を積み上げて作り上げた堤は雨に打たれて真っ白な飛沫を上げていた。耳を聾するような轟音が、陣中を包んでいる。
「わざわざ済まぬな。呼び立てして」
羽柴秀長は、秀吉とは腹違いの弟だ。親が違うせいか、色黒で痩せ形の秀吉とは対照的に、色白の肥り肉、穏やかな人格者として内外の評判もそう悪くはなかった。
「いえ、むしろ光栄です。まさか当家に仕えて日の浅い私の名前を覚えて頂いて、お声をお掛け下さるとは思いもしませんでしたし」
「そうか。・・・・・まあ、何分急なことでなあ」
彼が何か頼みにくいことを命じようとしているのは、何となく顔つきで分かった。高虎はそう言う人の良さげな秀長が嫌いではない。決死の作戦への参加を命じられても否やは言うまいと覚悟はしていた。
(この長雨に乗じ、小舟でも仕立てて城中に攻め入るんじゃないか?)
そのとき高虎は直感的にそう思った。
今や完全なこう着状態である。そろそろ打開策が必要とされているに違いない。二万の遠征軍を率いる兵糧その他の経費も馬鹿にならないし、戦闘がなくなって久しい現場の雰囲気もとかく、だれきってきている。
石井山の本陣に行くと、篝火のもと、秀吉とその幕僚陣と言う、錚々たる顔ぶれが揃っていた。蜂須賀正勝、黒田孝高。そして総大将、羽柴秀吉。秀吉は先の上月(こうづき)城(じょう)攻めでの高虎の活躍にもおおいに触れただけでなく、大げさな身振りで高虎の来訪に手をとってその労をねぎらってくれもした。
「さて、頼みたいこととは他でもにゃあのよ」
しかし、命じられたのは予想もしないことだ。
「早馬を駆り、急ぎ京に戻ってくれんか」
意図を掴みかね、高虎は耳を疑った。戦線を離脱しろと? 続く言葉はさらに衝撃的なものだった。
「実は信長公を仕物(謀殺)にかけようとするものどもの密書が、このほど手に入ってしまってな」
話によると毛利方へ届く密使の取り締まりを実施しているうちに、一通、重大な内容の密書を携えた者を捕らえたらしい。どうやら、近日中に信長を密殺する計画を実行に移す旨を、毛利方の中枢幹部の一人・小早川隆景(こばやかわたかかげ)に伝える内容だった。
「実は今、毛利との和議を進めておる。ことが相成れば、高松落城の折に信長公のご出馬を願うことになっておるのよ」
と、秀吉は内々の事情まで高虎に明かす。
早ければ六月一日に、信長は京都の宿所、本能寺に入り、公家衆との歓談などのスケジュールをこなしたのち、中国入りに向けて準備を進める予定だと言う。密書によれば狙うのは、その宿所本能寺においてと見るべきだろう。
「されど重大な時期じゃ。上様にはこのこと、伝えるわけにはいかぬのよ」
「それは何故でござりましょうか」
高虎が当然の疑問を投げかけると、秀吉は浅黒い顔にさらに濡れた渋皮を張り付けたようなしわを浮き出させ、
「今の状況を見て分かろう。いくさもそろそろ潮時と言うことよ」
この長陣の間に実は、毛利との和平交渉が進んでいるのだ、と言うことを秀吉は暗にほのめかした。
「これ以上攻めても毛利は攻めきれん。おれとしてもここらで上様にひとつ出張ってもらい、毛利と手打ちと言うことにしたいのよ。高松城を梅雨の雨で水浸しにしたのも、毛利に考える時間を与え、味方に損を出さぬためぞ」
「はあ」
城攻め一つとっても、そう言う考えをするものなのか。手柄首第一の将兵と、一軍を預かる司令官の考え方の違いに、高虎は素直に感動している。
「と、言うわけじゃ。まずはことを内々に処理したい。毛利が我らをかく乱するために故意に流しておる風聞やも知れんでな、せめてその真偽を確かめるまでは、上様の耳には直接入れたくはないのだ。そこでじゃ、高虎。京にいる小六の手の者のところへ行き、事情を説明してもらいたい。頼まれてくれるか?」
そこまで聞いては、否とも言えない。
高虎は狐につままれたような面持で自分の陣に帰ると、事情を説明し、その日のうちに高松を去って姫路に戻った。そこで秀吉の言う連絡者の一人、川並衆の前野車左衛門に迎えられ、ひそかに入京したのだった。

「上様を仕物に? それは確かなのか」
前野車左衛門の反応は、意外にも冷ややかだった。
「まあよい。話はこの文にて知れておる。京でのおぬしの身柄はわしが面倒を見よう」
賀茂神社で、世話役の虎夜太と白瀬に会った。それから前野からは何の音沙汰もない。ただ、それとなく京都を出てはいけないと仕向けるその態度が明らかで、不審だった。

例えばこうとも考えられる。前野は当初、この密書の存在を頭から信じていなかった。密書は本物でも、京都での信長の暗殺計画など、ありえないことだとたかを括っていたのだ。それが昨日の明智の一件が起きて、大わらわになった。この推測が正しければ前野は今ごろ、自分が犯した大失敗を糊塗する作業に夢中だろう。当然、現場の実情を知っている高虎を中国の陣に帰すことなど以ての外に違いない。
(おれの口を封じようとは、上等じゃねえか)
返り討ちにする自信はある。もしそうなら、前野の首を携えて、秀長の陣に馳せ帰るくらいのことは考えていた。
(・・・・・だが、向こうが顔を出してこなきゃこっちは探しようがねえからな)
虎夜太は若い割に目端が利くやつだが、居場所を教えてもらっていないところを見ると前野にはあまり信用されていないらしい。
ひとくちに渡りと言ってもクグツとは、特殊な血族のものたちなのだ。群れからはぐれて虎夜太がなぜ、一人で生きているのか、それは深い事情があるのだろうが、今の高虎にはそこまで詮索するほどの心の余裕がない。あるわけがない。
(このままあの小僧まいて備中まで戻るか?)
だが、すぐにそう出来ない理由もあるにはあった。

もうひとつ、気がかりなことがある。
昨日いなくなった白瀬と言う辻君のことだ。
本能寺の血煙りに紛れて、女は突然、姿を消した。そのこと自体は本人にとっても、突発的なことだったに違いない。
白瀬は路傍に立ち尽くしていた。高虎がいくら制止しようとしても、混乱の場を去らなかった。
あの混乱のさなか。女は燃える本能寺よりも、なぜか逃げ惑う群衆に視線を巡らしていた。今思うと、そんな気がしてならなかった。
「お願いします」
どうか、お見逃しを。
女が口走った言葉からは、高虎の監視役として取り繕った飾り気が剥がれ落ちていた。漂泊のクグツの女が雑踏の中で見つけたのは一体、なんだったのだろうか。
女が残していったものが一つ、高虎の手の中にある。
それは祇園の懸想文を二つに断ち割った、その片割れ。恐らくは誰かと連絡を取るために必要な割符だ。白瀬はこんなことを言っていた。
「この騒ぎが収まったらなるべく早いうちにこれを持って、阿弥陀寺の幸吉と言う寺男を訪ねてください。その男が高虎様に」
―――まことのことを話してくれるでしょう。
「まことのことだと?」
「此度のようなことに、高虎様を巻き込れた御不運はお察しします。されど、わたしのことも高虎様のことも、是非もなきこと」
白瀬は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「生き残って、御立派な大将殿におなり遊ばしませ」
彼女は泣きながら少し、儚げな笑みで唇を綻ばせた。高虎にとって大切なことを何か明かさずにゆくと言うすまなげな笑みが、その陰にあるものの得体の知れなさを匂わせた。

信長公を仕物にかける。これは、もしかしたら明智の軍勢のことではないのではないか。一連のことの流れを追うと、高虎はそんな気がしてならなかった。
仕物とは、本来、密殺のことだ。病気と称して自分の城に相手を呼び出して殺す。入浴中や就寝中など、油断を見すましてひそかに襲う。このやり方にそれほど大がかりな人手や手間はいらない。暗殺と言うには、光秀の行動はあまりに真っ向すぎる。
例えば、密殺の中でもっとも頻繁に用いられる手が、毒飼いである。この京都では古今の政争で、無数の得体の知れない毒が暗躍したとも聞く。
かつて、主家の三好家を滅ぼして京都政界を我が物にした大和の松永弾正は主君を殺すのに、いくさを経ずして、毒で秘かに殺したとされる。このとき使ったのは堺から取り寄せた鴆毒(ちんどく)(ヒ素化合物)だが、これは無味無臭、傍目には病に貪り尽くされて衰弱死したようにしか見えなかった。また、
鉄砲。
公式の記録にも、信長が二度、狙撃の危険に晒されたと言う話は知れ渡っている。そのうち一発は右腿を貫通したが、致命傷を負わされたことはただの一度もない。
とは言え、市街に護衛が分宿していて、信長の宿所が手薄だった今回のような状況では、狙撃と言う手段はかなり有効のように思える。だが、どちらもあながち有り得ない話ではない。
毒の本場は何と言っても忍びだ。鉄砲と言えば、紀州の雑賀に天下に恐れられた鉄砲放ちがいくらでもいる。
伊賀と紀州。動機の点でいえば、信長はどちらの恨みも買っている。棲家を追い出された忍び、大坂本願寺と結託して抵抗戦を続けていた雑賀。この二つ―――いまだに中国の毛利に繋がっている。
毛利家は今や信長の侵略戦線に対する、西日本最後の砦なのだ。秀吉は和解を模索しているが、一方的な領土侵犯を続けられた老大国毛利が、それほどにお人好しとは思えない。
圧倒的な物量で信長は来る。それに対抗できるのは、乾坤一擲、はなから大将首狙いの一手だ。かつて信長が桶狭間で今川義元に対して行ったように、少数精鋭によるテロルは、閉塞的な状況を打開する、最後の手段になりうる。
もちろんこれは高虎が想像しただけで、毒殺にせよ、狙撃手にせよ、あの日、そんなものがあの本能寺に紛れ込んでいたかどうかは、もはや確かめようがないが、決してありえない話ではない。
(だがすべてを話すとは一体、どう言うことなんだ?)

虎夜太はその夜再び外に出たのだろう。
高虎を庵に戻したあとは、再び姿を消していた。
身支度をして、高虎は街に出た。京都の日常はすでにそこに戻っていた。表通りの見世棚を冷やかす雑踏の中、高虎は周囲の気配の微妙な変化に、心を研ぎ澄ませつつ歩いた。
見たところ、その後を追う者はいない。どうやら虎夜太以外に、高虎を監視するものは付けられてはいないようだ。
そもそも自分がなぜここに派遣されて来たのか。なぜ、おれだったのだろうか? 一連の経緯に、高虎は当初からある程度の胡散臭さは感じてはいたが、抜けがけ功名の行幸に目がくらみ、折に触れて引っかかる奇妙な不信感は意識して排除してきた。
(だが冷静に考えるとおかしなことが多すぎるぜ・・・・・)
後悔しても遅いが、本当に巨大な、何か陰謀めいたことに否応なく巻き込まれている自分に、高虎は気づき始めていた。

小さなすれ違い

三条大路に従って西に、左手に焼け落ちた本能寺を見て歩く。辻で拾った立ち話では、信長の遺体は上京の阿弥陀寺に運ばれ、荼毘に付されたのではないか、と言うことだった。
納戸で自決したと言う信長の遺体をどうやって阿弥陀寺にまで運んだのか。思うに遺髪などを胸元に隠して持ち出したものが居たのかも知れない。ともかく阿弥陀寺で分宿していて難を逃れた織田家の家来たちが集まって、信長の供養をしていたことは確からしい。その連中はもう、昨日の昼までの残党狩りで粗方狩り尽くされてしまっているだろう。
辻で商売をする女たちに目が移る。桂女(かつらめ)や大原女(おおはらめ)、鍋売り、辻君に、歩き巫女。入り乱れる女たちの中に無意識に白瀬の姿を捜してしまう。垂髪の濡れた艶が美しい女だった。上京のだいうす町が近くにあるせいか、黒人の召使に日傘を指させた商人(カピタン)や、黒衣の宣教師たちの列ともすれ違う。
阿弥陀寺の門は堅く閉ざされていた。明智方はここに信長の首があると踏んで、相当の無茶をしたらしい。今は逆に、人気が絶えたのではないかと思うくらい、不気味な静寂を保っている。
高虎は大声で呼ばわった。数度、無視されたかと思ったとき、中から作務衣を着た小僧が顔を出した。高虎は事情を説明した。しかしなぜか小僧の、にべもない態度を崩すことは出来なかった。
「三条クグツの白瀬と言う娘に頼まれてここを訪ねておるのだが」
「そのようなものはこちらでは覚えがありませぬし、幸吉なる寺男もおりませぬ」
「いや、確かに。実はこの割符を・・・・・」
「くどい」
・・・・・・? どう言うことだ? 人目憚らず高虎は訝った。割符を見せる暇も与えずに、無情に門は閉じられた。
「くそっ、何様のつもりなんだ、こら。待ていっ、くそ坊主」
虎のような剣幕の大男が毒づいている門を開ける馬鹿はいない。暴言を口走った青坊主は門の向こうで青くなって、息をひそめているかもしれない。仕方ない。高虎は人が集まる前に諦めて帰ることにした。ふと振り返るとその後ろで、赤い髪をした稚児髪の童子が呆けたようにその様子を眺めていた。こちらもまた、胸糞悪い。
高虎はことさら憎々しげにそいつを蹴散らした。
「しっ、しっ、見せもんじゃねえんだよ、小僧」

「ひゃっ」
だいうす町の雑踏を分けていると、突然背後で、あざみの悲鳴が上がった。
「・・・・・なにしてるんだ」
「で、でかっ!」
夷空から遅れてあざみは、大分向こうで立ち尽くしている。
やれやれ、またか。ため息をつくと、夷空は道を駆け戻った。
「なにしてるんだ、急ぐぞ」
「だ、だって虎みたいにでっかい男が」
言葉にならないほど愕いているあざみに、夷空はあきれ顔をした。
「あざみ、お前虎を見たことがあるのか?」
「そんなの、あるわけないじゃん。だけど本当に滅茶苦茶大きいやつだったんだって。そいつが、があっ、てわたしのこと怒鳴りつけてきてさ・・・・・」
「虎がか? 男がか?」
「人間。て、言うかあんなでっかい人間初めてみた・・・・・」
「見てない私に言われてもな。この界隈は南蛮人もうろついてるんだ。でかい男なんか、珍しくもないだろう」
あざみより頭ひとつ大きな夷空だが、往来を見渡しても、それと目立つほどの大男の姿はどこにも見えなかった。
「嘘じゃないってば、信じてよぉ」
「信じても信じなくてもいいが・・・・・時間がないんだぞ。事情は分かってるだろ、あざみ。わたしたちはまず阿弥陀寺を見つけなくちゃいけないんだぞ。・・・・・ん?」
あざみの後ろにある門札に、夷空は気づいた。
「なんだ、ここだったのか」
通り過ぎていたのだ。そこに、阿弥陀寺があった。夷空は決められた合図をして、中から門を開けてもらった。
「和泉同郷の田中宗右衛門様から、こちらに住まわれる幸吉殿宛ての文をもって参りましたが」
すべての手はずは宗易から聞いていた。夷空は、旅の歩き巫女の姿をしている。応対に出た顔色の悪い小僧は、文の宛名を見てさらに顔色を蒼くして、
「幸吉殿は、おとついの晩より行方が分からなくなっております。その間、この文の宛ての使いだと言う方以外には幸吉と言うものはおらぬと言ってくれと申しつかっておりまして」
先ほど虎に食いつかれたことを思い出したのか、小僧は少し憮然とした面持ちで答えた。どうもこの少年も宗易の手の者らしいが、深い事情には携わってはいないようだ。
「なぜいなくなったのか分かるか?」
唇を歪めると、小僧の坊主は首を横に振った。
「分かりません。ただ何かの事情で急ぎ、京を去るよう手配をなさっていたようです。あなた方のような御迎えをこそ、待っていたと思うのですが・・・・・・」
「この割符については何か聞いてるか?」
と、夷空は宗易から預かったものを差し出した。それは祇園の懸想文を刃物で二つに断ち割ったものだった。小僧は目を丸くしたが、怪訝な顔をするばかりで返答は、はかばかしくない。
「さあ・・・・・私は、申し次をするばかりの役目なので」
「そうか。それなら戻ってきたらすぐに、ここへ連絡をくれるように言ってくれ」
夷空は自分たちの居場所はもちろん直接は告げずに夷空は宗易が手配した、連絡係の在所の方を小僧に教えた。門が完全に閉じると着いてそうそうの、唯一のあてが切れた。
「見ての通りだ。これから、どうする?」
あざみは訝しげに首を傾げた。夷空も苦笑して肩をすくめる。
「肝心のこの場所にいないんじゃ探しようがないな」
と、夷空は、阿弥陀寺の堅固そうな門から真夏の青空を突く塔頭を眺めた。
「しょうがないよ。今の都のありさまじゃ、すぐに見つかる方がどうかしてるって」
街は平穏無事に戻ったかに見えたがその分、裏では各所の密偵が活動を繰り広げている。夷空たちが入った伏見口にも関所こそなかったが、それらしい人間がそれとなく人の出入りを監視しているのがすぐに分かった。こそこそしていないところを見ると、明智の放った細作(さいさく)(スパイ)かも知れない。
「それよりお腹空かない? 夷空、わたしたち昨日の夜から何も食べてないでしょ」
そう言えば、と夷空は腹を探る。一晩中駆け通しで口にしたのは水だけだが、言われるまで気がつかなかった。
「それは別にいいが、店で食べてる暇なんかないぞ」
「夷空、今何かを必死になって探してたら、余計目立って仕事がやりにくくなるんだよ。まずはどこかこの近くのお店に入って、噂話でも集めないと。さっき人に聞いたんだけどこのお寺、織田家の菩提寺らしいよ」
「ああ」
それはさっき聞いた。なんでもここに本能寺の残党が集まって、明智とひと悶着あったらしい。信長の生死について、もしかしたら何か情報を得られるとすれば、この寺かもしれない。
「決まりね。じゃ、なにか食べよ。お酒があるところがいいかも」
「仕事中は飲まないんじゃないのか?」
訝る夷空を尻目に、あざみはもう、それらしい店を探している。
「飲むのは夷空だよ。相手にも飲まして、情報を取るんじゃん。夷空、女言葉で話してよ。一応、ちゃんとしてればそれなりに綺麗なんだからさ」
「あざみ、今の褒めてるんだよな。私のこと・・・・・」
ふと夷空は、あざみが見慣れない袋を持っているのを見た。
「それ、中身はなんだ?」
「銭入れみたい。さっき虎の男から貰っちゃった」
言うと、あざみは手の上で袋を放ってじゃらじゃらさせた。
「盗んだのか?」
悪びれず、あざみは肯いた。呆れたものだ。忍びの技術者はどうも、手癖が悪い。たぶん、いくさがないときはそれで生計を立てているからだろう。
「だって悔しいじゃん。わたし、蹴られそうになったんだよ? 女のわたしに小僧とか言ってたし、これくらいの罰は当たらないと」
「たち悪いぞ、お前。まったく、どんな育ち方してきたんだ」
「夷空だって海賊でしょ」
「馬鹿」
夷空は、それをあざみから反射的に引っ手繰った。袋の口から、銭でないものが飛び出したのはそのときだった。
「なんだこれは」
指でつまんだそこから出てきたのは、例の祇園の懸想文の片割れだった。

「こっちの方角へ行ったのか?」
あざみが言うには、その虎男は薬師寺備後邸の塀の前を通り過ぎ、宝境寺方面に向かって行ったようだ。同じように夷空たちは道をたどったが、男の手がかりになるようなものは見当たらなかった。
「どんな男だったんだ?」
「だから本当、馬鹿みたいにおっきな男」
「でかいはもういい。武士だったのか?」
あざみは肯いた。半端な体格ではないようだ。だが小汚い身なりをしていたので、どこかに仕える武士ではないらしい。
「偶然とは思えないな」
男が持っていた割符は、ぴたりと夷空のそれと一致した。刃物で切りとってある上に、その境目で親指の血判を二つに割っている。完成した文章を夷空は眉をひそめて黙読した。
「そもそも、なんなんだこれは?」
「祇園の懸想文だよ。都では売り子が往来で売って歩いてるの。想う人がいたらこれを買って、その人に贈るんだよ」
「想ってるなら会って言えばいいんじゃないか?」
夷空がしたのと同じように、あざみは眉をひそめた。
「そうじゃない方がいい人もいるの。もともとは都のえらい人の風習だから、わたしはよく知らないけど」
平安の頃、恋人は歌で気持ちを交わしあった。公家文化の都ならではの雅な商いである。
「なあ例えばだが・・・・これは誰が売ってるんだ?」
「さあ、地の人に聞けばわかると思うけど。懸想文売りも見れば分かるよ。烏帽子に赤い狩衣着て、花の枝を担いでるって言うから」
「それだ」
夷空は手を打った。
「まさかこの文句の出所を探すの? 売り子なんて京都の大路小路に一杯いるんだよ」
「闇雲にいちから探して回る必要はないだろ。こう言う商売には縄張りがあるだろう。まず懸想文売りを探して、その元締めのいる場所を訪ねて、話を聞くんだ」
「悪くない案だけど・・・・・そう上手くいくかな」
「やってみよう。誰から誰に渡したのかくらいは分かるかも知れない。お前が考えた手を使うのは、日が落ちてからでもいいだろ」
「夷空、女のふりするのが嫌なんじゃないよね・・・・・?」
途端にひどく早足になった夷空に、あざみは追いすがった。

何もかも胡散臭い

(どうなってやがる)
その頃、虎男は丹波の街道と合流する、柏野の辺りまで歩いてきてしまっていた。怒りに任せ無心に歩を進めてきたが、いつのまにか用事もない道外れに来ていた。途中、もと来た道を引き返そうと南に折れたりもしたのである。しかし見慣れた通りに出ないまま、紙屋川の辺りに差し掛かってくると、北野社の辺りの人だかりに吸い寄せられた。行き倒れが出たか、それとも川原で果たしあいか。騒ぎは前者のようらしいがひと際大きな高虎にも、群がる人の頭の先までは見えなかった。
「図々しいで、この餓鬼」
割り込もうとして跳ね飛ばされたのか、どん、と小さな身体が押し出されてくる。それが虎夜太だった。反射的に受け止めた高虎と振り返った虎夜太が、顔を見合わせてあっ、と同時に声を上げた。
「なにしてやがんだ、こんなとこで」
「前野の頭が殺されたんだ」
虎夜太は泣き腫らしたのか、赤い目をしていた。着ているものに返り血も浴びている。どうも見つけたのは、この少年らしい。
「なんだと? いつ、どうして、誰にだ?」
「昨夜からずっと探してて・・・・・全然連絡が取れなくて、心当たりの場所駆け回ってたらさっき・・・・・」
「まず、落ちつけよ。お前がちゃんと話せなきゃ、おれも話が掴めねえだろうが」
虎夜太を跳ね飛ばした男が押されて下がってくる。
「邪魔やないか。見ぃへんならさっさとどけや」
「うるせえ、馬鹿野郎」
高虎は平手で蠅を叩くように、たかって来た男を張り飛ばした。
「どけえ、こらあっ! 関係ねえやつはとっとと失せろ!」
虎夜太の手を引き、高虎は人波を押しのける。そこに埋もれていたのは、精確に言うと完全な死体ではなかった。
地面から生えた青竹に、生首が刺されている。縁日の飴玉のように、三つ、四つ。見るとすべて前野の一味のものたちだった。断面の削ぎ口が粗く、顔面が火傷や裂傷、打撲の痕で惨たらしく傷つけられていた。どれもが恐ろしい苦悶の表情を浮かべている。拷問を受け、鋸のようなもので生きたまま首を落とされたことは明白だった。
前野車左衛門のそれは、両目が潰されている。首に棄て札がしてあり、そこに『必罰』と書かれていたのが高虎の眉をひそめさせた。
「誰がこんなことをした?」
虎夜太はしゃくり上げながら、首を振るばかりだった。
「とにかく行くぞ。・・・・・こいつらには悪いが、ここに長居は出来ねえだろ」
高虎は虎夜太の首を掴むと、入ってきたときのように人波をかき分けて外へ出て行った。嵐のように割り込んできて、また同じように小僧を連れて去って行った大男を跳ね飛ばされた人たちが、唖然として見ていた。

「頭が言ってた。実はあの日、信長様を殺そうとしていたやつらの目星はついていたんだって」
虎夜太が話し出した内容は、高虎にとって衝撃的なものだった。
「そいつらは本能寺でことをなした後、伏見から堺湊方面に逃げる計画を練っているらしいから、そいつらを阻止するんだって」
「どんなやつらだ?」
「分からない。でも話じゃ、腕ききの鉄砲放ちらしいんだ」
(・・・・・ふん)
仕物にするなら毒か、鉄砲か、か。一応高虎の予想は、的を射ていたわけだ。
「で? なぜそれが手はず通りいかなかった?」
虎夜太は当惑した表情でかぶりを振った。
「あの朝のことがあったから、たぶん計画が変更になったんだ。前の晩に、お頭はあんたを迎えに来るはずだったんだけど、その迎えが来なかった」
「そっから、連絡がつかずじまいか・・・・・」
呼気を落ちつけながら、虎夜太はようやく肯いた。
「おいら、どうにかしないと、本当にやばいんだ。白瀬のお姐と二人、クグツの一族から無理矢理引き離されて、この仕事でへまをしたら一族のみんなも殺されちゃうんだ。でも、頭がいないと何していいか、全然わかんなくて・・・・・」
「大丈夫だ。前野たちは死んだが、まだおれたちは生きてる。もしなんならおれが事情を話して、お前らの一族に責めが及ばないようにしてやるよ」
「旦那、気持はありがたいけど、前野の頭がいなきゃ今の京都から無事に出ることも難しいよ。あんたには言わなかったけど、おいらも感じるんだ。おいらたちも誰かに命狙われてるんだぜ」
「そいつらに心当たりは?・・・・・ねえみたいだな」
虎夜太の表情を高虎はすぐに察したが、心の中ではすでに別のことを考えていた。
(前野がおれを迎えに行く予定だったって?)
とすると前野は、信長暗殺計画があることをかなり具体的に、掴んでいたと言うことになる。暗殺者が鉄砲放ちで伏見方面に逃走経路をとっていることなど、密書の内容には書かれていなかったのだ。
それなら、あのにべもない態度はなんだったのか。例えば高虎からの情報が現在自分が調べている内容の裏付けに過ぎなかったとしても、そのことを隠す必要はなかったはずである。そもそも、高虎の役目はただの使い番に過ぎない。それを、なぜ高虎を京へ留め置き、暗殺犯を始末する手伝いまでやらせようとしていたのか。
高虎は苦々しげに顔を歪めた。
(胡散臭え・・・・誰がどうとかじゃなくて、何もかもがだ)
天正十年六月二日。
信長が死に、あの日から、どこかで何かが狂った。あの日から消えたものが二人。一人はさっき、町辻に無惨な骸を曝した。
『必罰』。なにかの報いを受けての死なのだろうか。前野から話を聞かされていなかった二人にはなんの推測も仮定も設けようがない。
そして白瀬―――あの日、突然消えたもう一人の女。
いまだにその行方は分からない。
それにしても奇妙なものだ。真実を知るものは次々と、京の表舞台を去っていく。彼女もすでに、誰かの手にかかっているのだろうか。幸吉も? それならまだ、おれたちはなぜ生かされている?
ともかくもまずは高虎は虎夜太を連れて、鴨川べりの庵へ戻ることにした。取りに帰るほどの荷物はなかったが、もしなりふり構わず逃げるなら、武器の準備くらいはしておいた方がいい。自分ひとりはいいにしても、虎夜太はあまり戦力にはならなそうなのが高虎は少し心配だった。

夕暮れを過ぎて、河原は静まり返っている。この辺りの人々は高い油を使ってまで、夜なべをする用事などないのだ。虎夜太は足音もなくその辺りを歩いて、家の周りの安全を確認した。ふいに、
「旦那」
誰かいる。しっ。人差指を唇にあてた。確かに、気配がした。任せろ、と高虎は合図をし、傍らに落ちていた入口の御簾を下げていた樫の棒を取り上げる。
「誰だ」
押し殺した声で、高虎は小屋の中を呼ばわった。相手はそれに敏感に反応したようだった。しかし反撃に転じるとか、そう言う様子ではなさそうだった。他人様の家に押し入った癖に、帰って来た家主に驚かされて、非難がましい目を向けている。暗闇で見えないが、影は、そんな感じに揺れ動いた。
「・・・・・どちらに行かれておりましたのか」
「あんた、名を名乗ったらどうだ?」
相手は一旦、言葉に詰まった。しばらくあって、底錆びた声で、
「阿弥陀寺の幸吉です」
出ろ、と高虎は合図して、二人で小屋の外に出た。幸吉は五十年配の、無害そうな寺男だった。茶色の麻服をまとい、腰縄を締めているが、危険なものを持っている様子はない。
「誰?」
不審そうな様子の虎夜太に、高虎は白瀬に言われた通りの事情を話した。
「白瀬は何かあったらこの男に頼れっておれに言づけてたんだよ。やつが京都からおれらを逃がしてくれる」
「えっ、白瀬のお姐がそんなことを・・・・・?」
本当に虎夜太は、何の事情を知らないようだ。
「なんでお前は知らねえんだ」
「知らぬのも無理はありません。白瀬は前野様のうちから、手管を使って、こちらの身内に引き入れた間者でございますから」
「間者だと?」
高虎は不審げに初対面の二人の間者の当惑ぶりを見比べた。
「話すまでもないと思うけど、本能寺の鉄砲放ちを始末したら、おれたちは前野の頭と一緒に西国街道方面に逃げるつもりだったんだ。その足ですぐ旦那の陣に帰れるように」
「・・・・・申し上げにくいことですが、その話はどの道まやかしでしたでしょうな。高虎様は生きて帰参なられるとしても、やむにやまれぬ事情で間諜に携わった我らは早いうちにすべて、しかるべき処分をされていたに違いないでしょう。白瀬はあなた方の身を案じて、我らが話を聞きいれたのはひとえに、あの方の心底が見えぬからこそ」
「あの方だと? 誰のことだ」
「ええ・・・・・」
そこまで話すと幸吉は、言葉を溜めた。次に口に出す言葉を考えているようでもあったが、言うべきか言うまいか決意しているようにも見えた。まもなく意を決したのか、男は口を開くと、
「実を申しますと、こたびの仕物を仕掛けたのは、中国路におられる羽柴筑前様その人なのです」
「馬鹿言えっ」
高虎は怒声を浴びせたが、幸吉はまったく動じずに、
「今、中国におられる羽柴秀吉様が堺の千宗易様に命じて、こたびのお膳立てをすべて整えさせましたのです」
「・・・・・不敬なこと言うと承知しねえぞ」
「事実です。他に言いようがありません」
「黙れと言うんだ」
怒ってはみたものの、高虎の声音は徐々に弱っていく。
「ちょっと待て・・・・・気持ちを整理する・・・・・おれにはなんだかよく分からねえ。なぜだ? なんだってあの羽柴筑前が、信長を始末しようとする?」
幸吉は眼を細めると、かぶりを振った。
「上の方の話はよくは分かりませぬ。ただ、筑前様と宗易様、ひいては堺との利害が一致した、としか申し上げられませぬ」
「・・・・・そうだな」
確かに。その件についてこれ以上のことは、高虎のような葉武者には知っても無駄だろう。それに。ことは意外に単純明快、この時代のどんな男でも生まれたからには取れるなら天下を取りたいと考えるのは、ごく自然なことだ。今でさえ、明智がその座についているが、これからそれを倒した誰かがその栄光に浴せるはずだ。
いや、違う。もっと、別に聞きたかったことがあったはずなのに。落ちつけ―――高虎はおのれの中で暴れる何かをまずは抑え込むことに専念した。落ち着いて一つずつ、話を吟味しろ。慣れない感情の整理に苦慮しなければ、流れ流れていく現状に追いつくことが出来そうにないことくらいは分かっていた。
「あの・・・・大丈夫でしょうか」
心配そうな幸吉を尻目に、高虎は熱いものでも無理やり飲み下したかのように息を飲んで顔をしかめると、
「ああ、いいぜ。続きを話しな」
では、と幸吉はいきなり話を続ける。
「高虎様。わたくしが思うのに、あなた様の役目は二つほど、ござりました。まず一つは本能寺の事件の渦中で確かに信長公が亡くなられたことを見極めること、いま一つは、信長様を仕物にかけしその鉄砲放ちを始末なされること」
「だから使い番に来ただけのおれを、京に留めようとしたのか。それで分かった。・・・・・・だが、に、してもなぜおれなんだ? お前が言った二つの役割だが、現地にいる身内の川並衆の誰かでも、もっと確実に出来るじゃねえか」
「川並衆はお膳立てをしてもよろしゅうございます。しかし、この一件の一部始終を見届けるは、お身内のものであってはならなかったのです。・・・・・例えばもし、あなた様がこのまま本能寺の朝そこで起こったことを目撃し、暗殺犯の始末に成功し、つつがなく今に至っていたとしたら、どうお考えになったと思います?」
「・・・・・・・・・そりゃあ」
たぶん、有頂天になっていただろう。中国に帰参し、秀吉たち首脳陣に報告するだけでは飽き足らず、鉦を叩いてでも陣中で触れて回ったに違いない。自分が立ち会った、歴史的瞬間の興奮を。
「なるほどな。明智の謀反に信長公の暗殺、この二つは第三者の目撃によらなければならなかったわけだ。一兵卒に過ぎないおれが立ち会うからこそ意気は上がり、いくさに弾みもつく。おのれの阿呆が目に浮かぶぜ。今頃、目についたやつの肩ひっつかんではこう触れまわってるんだ・・・・・いいかよく聞けよ、この中国遠征軍を束ねる羽柴秀吉こそ、信長公の衣鉢を継ぐ忠義者なんだ、ってな」
と、苦々しげにつぶやいてから、高虎は、はっ、とあることに気づいた。
「おい、ちょっと待て・・・・・話の流れで聞き逃すところだったぜ。丹波亀山の明智が謀反を起こすことも、中国の陣は知ってたんだろう? じゃあ、なぜあの朝、予定通りいかなかったんだ?」
すると、幸吉の気配が如実に変わった。ようやく気付かれましたか。とでも言うように、男は深くため息をつくと、二人の顔を上目使いに見渡し、
「ことはそう、それほど単純には運ばなかったのですよ」
薄い月明かり。なぜか深い絶望に沈んだ幸吉の鈍い色の白眼だけが、夜目にも潤み光って二人を見返している。
「なんだよ。気になるじゃねえか、早く続きを話せ」
話してもいいものか。沈黙は幸吉のそんな一瞬の逡巡を物語っている。しかしだ。秀吉の明らかな逆心を今はっきりと聞いた。それ以上に重要なことが他に、あるものなのだろうか。
「・・・・・実はあの日以来」
長い沈黙の後、幸吉は絶望に満ちた声で二人に真に驚くべきそのことを告げた。
「信長公はご健在で、今なお御身を永らえておられるのです」

虎との出会い


「おい、ここで間違いないんだろうな」
やや見当違いの方角に向って、夷空は呼ばわった。
「なんだか辺りが何も見えなくなってきたぞ」
彼女はあざみのかなり先を歩いていた。声だけがして、お互い時折、妙な気分になる。夜も更けると、辺りは人の眼鼻立ちも分かり難いほど暗く沈んでいく。都の辻裏に、夜ごと妖しの物の怪が出没する怪異譚も納得できる不気味な暗さだ。
「あざみ、離れるなよ。なあ、ちゃんと近くにいるんだろうな」
「いるってば」
夜目の利くあざみが主に辺りに気を配っている。だからどうしても夷空より、立ち遅れてしまうのだ。
「速いよ、夷空。わたしのが歩幅狭いんだから、待っててくれたっていいじゃんか」
「分かってるよ。だがお前、用心しすぎじゃないのか」
あざみは夜目でも分かるむくれた顔をした。
「もう、夷空、誰のお陰でここが分かったと思ってるの?」
「分かったって。お前の手並みにはちゃんと敬意を払ってるさ」
さすがはあざみだ。あれから、市中に出回る懸想文の札が、下河原の犬神の地人と言われる卑賎が商いを取り仕切っていることをすぐに突き止めたのだ。頭に手配してもらって、文句を書いた売り子からも話が聞けた。半日の成果としては上々にすぎる。
「褒めても何もでないよ。とにかく、これから行く場所に、この懸想札の持ち主がいなきゃ、話にならないんだから」
話を聞くと、歌の文句は決まり文句も多いが売り子の才覚で工夫を凝らしたものがよく売れると言う。そうして売り歩いているものは客覚えもよく、あっさりと買い手が割れた。
「だがそれにしても、買ったのは女だったとはな」
この札は、三条大路に立ち居する白瀬と言う辻君に売ったのが最初と言うのだ。その売り手は新しい札を売り出すと、その文句を吟味して改善したりもするので、いつどこで誰に売ったかと言うことまで正確に分かるらしい。なんでも、女は五十絡みのどこかのぱっとしない下男風の中年男とその札を買い上げ、道でそれを二つに断ってお互いの懐に仕舞っていたと言うのだ。
思うにそのときの男が幸吉なら、自分の分の割符を宗易に宛て、送ってきたのだろう。宗易のもとにあったのは、そのうちの幸吉の分なのだ。
「あの娘も、何も、あんなぱっとしない男と好き好んでそないなことせえへんでもようおすのにな」
白瀬と言う辻君は、界隈でも評判の美人らしい。その想い人にしては相手が随分年かさでみすぼらしかったので、その売り子の印象に残ったのだろう。
女は三条大路のどんづまり、鴨川の川べりに庵を構え、弟と二人で棲み暮らしている、と言う話だった。
「しかし、お前が見た虎のような大男はどうしたんだろう?」
「さあ」
あざみは小首を傾げると、そんなことどうでも良くなった、と言うように、
「白瀬って女の家を探したら、分かるんじゃない? 案外その男が亭主で、留守番してごろ寝してたりして」
集落の入口の桜の木の根元に、頭から菰を被った老人が座り寝をしていた。銭を与えて中の様子を聞くと、白瀬の庵の在所のある方向を指差して教えてくれた。
「あっちだ」
藪の向こう、集落の外れで小屋は一つしか建っていない。それも人一人寝れるか否かすら怪しい規模の破れ家だった。夏の夜で月光が、入口に至る一本道の途次、かすかにふくらんだ広場を明るく照らしている。
そこに立ったとき、ふいにあざみが立ち止まった。
「・・・・・待って」
「どうかしたのか」
「誰かここに集まっていた」
言う前にあざみは、足もとの砂地に残された足跡の数を確かめている。
「二人・・・・・三人だと思う。そんなに前じゃない。わたしたちに気づいて・・・・男が二人・・・・この辺に散ったかも」
「先に嗅ぎつけられたか」
あざみは無言で肯くと、辺りを見回した。小屋の周りの藪は静まり返って、風も立っていない。肩の袋に入れたエキドナをいつでも取り出せるように、夷空は袋の紐を緩めた。
「・・・・・誰だ」
反対に誰何された。声の方角はまだ、分からない。太い男の声だ。それは誰だと問いかけながらも、狙う獲物の立ち居振る舞いを確かめようとするような。そんな相手との距離を、探る声音だった。
どう出る? あざみと夷空は、顔を見合わせた。ふいに襲ってはこなかったものの、二人の気配を感じて待ち伏せしていた相手が何者で敵意があるのかどうなのか、いまいち様子が掴めない。まずは仕方ない。夷空は隠れているのが、この家の主人とみて話を進めてみることにした。
「昼間に阿弥陀寺の前で拾い物をしたものだ」
夷空は探るように視線を巡らすと、口を開いた。
「たぶんあんたのものだろうと思い、後を追って来た。あんたが持っていた犬神の地人の懸想文の割符のことで話があるんだ」
途端にがたり、と音がした。小屋の前に立て掛けてあったのか、つっかい棒が倒れこんできたのだ。夷空たちがそちらに目を向けた刹那、
「・・・・・あんたらは何者だ」
あさっての方向から声がした。
「宗易殿から使いを受けて参ったものです」
ぬっ、とその男が藪の中から姿を現した。確かに虎、と思うほど大きかった。上背には自信のあった夷空ですら、目を見張るほどだ。
「あんたがそうか?」
さっきの声の主は首をかがめて、夷空の姿を見つめた。
「ああ、あんたのと一致する割符もこの通り持ってる」
あざみが盗んだ割符と、宗易からもらった割符。二つをぴたりと合わせて、夷空はそれを相手に見せた。じっとそれを見守っていた大男は次に、あごをしゃくって、
「そっちの小僧もか?」
と、あざみを見た。迫力に、あざみは怒る気勢も削がれている。
「あの娘もそうだ。あんたと、阿弥陀寺の幸吉と言う男を迎えに来いと言われて堺から来た。風体からすると、あんたは、中国の陣からこの京都に入り込んだ藤堂高虎と言う男か?」
「あんたが先に名乗れよ」
男は片眉を吊り上げると、肩先をそびやかした。
「私は夷空だ。こっちの娘はあざみと言う」
それで十分だと言うように、高虎は鼻を鳴らした。
「なぜおれを知っている?」
「宗易からあんたの身柄も保護するように頼まれた。ただ、そんなにでかいと言う話は聞いてなかったがな。―――あんた、どうでもいいが本当にでかいな」
「なんでかおれにも分からんな。一族で並外れてでかいのは次男坊のおれだけだった。分かるのは、だから、家を追い出されたってことくらいだな」
言うと、高虎は腕を振った。出てきてもいいぞ。そんな合図をしたのだろう。小屋の隅から一人、あざみくらいの小さな少年が顔を出した。彼がその後ろに、それより頭ひとつ大きいほどの中年男を庇っている。
「あんたが幸吉か?」
顔色の悪い中年男は無言で肯いた。
「こっちの坊主は?」
少年は大きな丸い目を見開いて、夷空たちの姿を吟味した。
「虎夜太だ。おれの世話をしてくれている。あんたが割符を持ってきてくれた白瀬の弟だと」
「あんたたちが幸吉さんが言ってた、宗易様からの使いかい?」
虎夜太が訊いた。どうも恐る恐ると言った、そんな感じだった。
「悪いが見ての通り、おれたちも追い詰められててな。なんだか知らねえがこっちへ来てから手はずをとってくれるはずの仲間がみんな殺されちまって、話が見えてねえんだ」
「あんたがなぜ、この割符を持っていたのか経緯はなんとなく分かったが、白瀬本人はどうしたんだ?」
「さあな」
高虎は太い首筋を掻くと、そちらに傾けて、
「白瀬は本能寺で信長公が襲われたあの日以来、足取りが分からねえ。あんたが持ってるその割符は、本人が消える前におれに預けて行った代物だよ。生きて都を逃げたかったら、そいつを持って阿弥陀寺の幸吉って男を訪ねろと、おれは、そう言われてな」
「幸吉殿、あなたは白瀬とこの割符をどう使うか、打ち合わせはしていったんだろう?」
夷空の問いに、幸吉は軽くあごをひいて肯き、
「私は白瀬殿から預かった割符を二枚に断ち割って、一枚を堺の宗易殿のところへ預けおき、いざと言うときに京を脱出する手はずだったのですが・・・・肝心の白瀬殿が行方が分からなくなりまして―――それで、困っていたのです」
「で、今、ちょうどその辺りの事情をうかがってたわけだ。こいつの話じゃ、本能寺には相当の裏があるらしいとさ。・・・・そこまで話してたら、お前らの気配がしてな」
「それなら話が早いな。私たちが聞きたかったことも、すぐに聞けそうだ」
「お話せねばなりませんことはすべて致します。されど、まずはここを無事に脱出し、宗易殿の元へ行ける手筈がついておるのなら、その道すがら、詳しいことはお話しとう存じまするが」
「今はあんたたち、それほど差し迫った状況にいるのか?」
夷空の問いかけに、さっきまでの秘事を共有していた三人は微妙な目線を交わしあった。
「信長公は生きてる」
口を開いたのは、高虎だった。
「そしてそれを仕組んだ野郎を許しはしねえ。だから今この京都で、それを知ったやつの口を封じようとしてやがるんだ。どちらもやり損なったみたいだからな。別に応援するわけじゃねえが、桔梗紋も、本能寺に潜んでたって鉄砲放ちも不甲斐ないもんだぜ」
そのとき悲鳴が上がった。声を上げたのは、虎夜太だった。
「どうかしたのか」
「・・・・・誰かいる」
その一言で、一瞬にして空気がざわついた。
「何者だ?」
夷空が答えた。
「もしかしたら、明智の細作かも知れない。随分目をつけられていたからな」
露骨に舌打ちすると、高虎は聞いた。
「どこだ?」
虎夜太はむなしく首を振った。
「判らない。・・・・・でも、どっかで誰かが見てるんだって」
「え・・・・・」
そう聞いてとっさに、身をかがめたあざみの対応はくしくも、的を射ていた。偶然とは言え、次の刹那に放たれた矢の軌道上には間違いなく、彼女の頭があったからだ。あるいは一度死にかけたあざみの超常的な感覚が働いたのかも知れない。女の悲鳴のような征矢の独特の風切り音は、二日前に本能寺であざみの命を失いかけたのと同じものであったのだから。
ドン、と言う分厚く鈍い音で、白羽の矢が突き立ったのは、幸吉の胸の上だった。笛穴の開けられた禍々しい矢じりは肋骨の隙間をくぐり抜けて、左わき腹を縫い付けるように貫通した。心臓を破られたショックで幸吉は痙攣し、わななく指で震える矢羽を抑えようとしつつも、真後ろに崩れ落ちた。
「ひいっ」
「伏せろっ!」
高虎の合図で残った三人はあざみと同じように地面に手をつき、続く第二弾の方向から、襲撃者の位置を割り出そうと夜目を利かせた。話していたときの立ち位置で、高虎はあざみと小屋の蔭へ、夷空は虎夜太と近くの茂みに身を潜めている。
「どこだ?」
震える虎夜太の首を捉えながら、夷空は聞いた。虎夜太は視線を向ける。
「あっちだ・・・・・多分、あっちからだった」
胸を撃たれた幸吉は今や両足をかすかに広げたまま倒れこみ、目と口をだらしなく開けて、むなしい痙攣を繰り返していた。虎夜太の指は、その幸吉の腹を横切って川岸の林の奥手に向かっている。
「誰が何人いるか分かりそうか?」
夷空は袋に仕舞ったエキドナを取り出しながら、虎夜太に訊ねた。
虎夜太の答えが来る前に自分でも周りを見渡し、あわただしくこの小屋を包囲する、人数の気配を察知する。四方の木立の陰で、少なくとも三つは動いた。
二発目は火矢だった。オレンジ色の弾道が別方向から三つ、虎夜太が指した方角にもはっきりと見えた。狙いは建物だ。突き立った三本の火矢で、古びた材木で組み上げた家屋はなすすべもなく炎上し出した。
「ちっ」
高虎があざみの手を引いて、小屋の中に引き返した直後だった。彼は紐で吊るしておいた槍を引き抜き、鞘を払った。出ていくはなに、三の矢を喰らった。矢は肩の布を抉ったが、幸い傷は浅く、高虎が槍を振るうのになんの支障もなかったが肝は冷えた。
「こそこそ隠れてねえで出て来いっ、この高虎様の槍の錆びにしてやるっ!」
「・・・・・いい的だな」
そのやや後方。夷空たちは炎上する小屋の風下に藪を移動しながら、川べりに潜む射手の姿を見極めようと巨大なエキドナを構えていた。
「虎夜太、お前の相棒が囮になってくれそうだ。その間にこっちで潜んでる射手をなんとかしよう。・・・・・なんだ、どうかしたか?」
「あ、あんた、なんでそんなもん・・・・・?」
てきぱきと装填の準備をする夷空に虎夜太は、目を丸くした。ただの歩き巫女姿の夷空が、どう見ても舶来物の巨大な銃を携えていたことに虎夜太は驚いたのだろう。修羅場に慣れない少年の目を覚まさせるように弾ける火縄を挟むと、夷空は言った。
「驚いてるのはこっちだ。だが今、これ以上話してる暇はない。夜目が利く上に、向こうは小屋にまで火をつけてるんだ。せめて飛び道具を仕留めないと、こっちは逃げることも出来ないぞ」
あざみを庇いながら、高虎はよく戦っていた。燃える小屋を取り囲んだ男は三人、その刃を片手の槍だけで上手く防いでいる。無防備のあざみがいて、いつどこから飛んでくるか分からない矢をかわさなければならないとなると、そう長くは持ちそうにない。
「虎夜太っ、生きてるのか? どこにいるか返事をしろっ」
「まだ、返事はするな。それよりさっき見た方角を言え」
高虎の様子が気になる虎夜太の頭を押さえ、夷空は目標を決めさせた。そのとき槍を持って敵と飛び違う高虎の背後すれすれに次の矢が発射されたのを見て、とっさに立ちあがって夷空は撃った。
エキドナの轟音は、その場にいた全員の動きを止めるのに十分な衝撃力だった。
もちろんこの闇では命中精度はたかが知れている。だが、必要以上の脅威は与えられた。夷空の攻撃を知り、射手たちの目標は高虎を外れ、彼女に集中してきた。乱れ飛ぶ数本の矢の中で、夷空は冷静にその位置を見極めると、早射ちで三発、それらすべてを命中させた。狙撃手は完全に沈黙した。
「あざみ、逃げるぞっ。一緒に逃げて来いっ!」
「うん」
夷空の合図で、あざみは手持ちの炸裂弾を宙に放り投げた。エキドナが精確にそれを撃ち抜くと、大音響とともに辺りに火花が飛び散り、一気に視界が明るくなった。
その隙に夷空は虎夜太に先を走らせ、自分も逃げながら殿(しんがり)を引き受けるべく、空になったエキドナの熱い銃身に布を巻くと、肩に担ぎあげた。
「お前・・・・・」
その得物を見て高虎は、声を失った。
「どうかしたか?」
この女―――鉄砲放ちなのだ。しかも凄腕の。いくさ場になって初めて、高虎は夷空の顔をまともに見た気がした。
「残念ながらもう弾切れだぞ。あまり期待はするなよ」
「あ、ああ、そいつは分かってるが・・・・・」
虎夜太に続いて、あざみが高虎の脇を駆けて行く。そのとき高虎の脳裏を、なにか表現しがたい既視感が駆け抜けていった。
(まさか・・・・・)
「行こう」
湧き出た追手を振り切って、二人も川沿いの林の中を北へ、足元も定かでない闇を走り出した。

(・・・・・間違いない)
本能寺が炎上し、逃げ惑う人々で街が大混乱に陥ったあの朝。きなくさい通りに、高虎も立ち尽くしていた。
白瀬は逃げなかった。黒髪を振り乱し、戦乱で自分の家が全焼したかのように茫然自失としていた。
(・・・・そうだ)
金襴(きんらん)刺繍(ししゅう)のぼろぼろの袖を振りまわし、あるいはほどけた帯を引きずって。本能寺を追われた女たちが、入り乱れ辻に惑う。白瀬は彼女たちの中に、早足に別方向を行く奇妙な二人組を見ていたのだ。
「あっ」
つられて走り出した白瀬の袖を―――高虎が捕らえた。

「・・・・なにを見てる?」
同じ速度で走りながら、あのときと違う女が、高虎の視線に気づいている。月明かりで滑らかな頬に、白瀬のものと違う切れ長の瞳が光る。女が背負う銃の柄にあしらわれた蛇身の女神の乳房に視線が移り、あわてて高虎は目を反らした。
「・・・・この鉄砲がそんなに珍しいのか? 変な奴だな」
「なあ、お前・・・・・あの日」
本能寺にいただろう――――これで、信長を撃ったんだ。この女なら、出来る。それだけの場数も踏んでるし、度胸もある。げんに今、あれだけの人数で急襲されても即座に反撃し、状況判断を下したではないか。
思わず高虎は口をつぐんだ。その場で立ち止まりそうな話をしている暇はない。不審げに眉をひそめる夷空にあごで促して、高虎は逃げ足の速度を上げた。

偶然の再会


先に逃げた二人の後を追い、市街の裏路地を錯綜する。混乱しているようで、虎夜太はきちんと目印を残してあるようだった。月が流れる方向や建物の雰囲気から、烏丸通りを南下して、下京の町に入ったことは高虎にも分かった。
因幡堂(いんばどう)の築地塀を左手に、下京のだいうす町。一軒の東屋が、中庭に続く鬱蒼と篠竹に覆われた木戸をさりげなく開けておいてあった。二人は目印を回収し、そこへ足を踏み入れた。
「旦那」
虎夜太の声がした。箱庭の松の木の根元に、小さな身体をひそませていた。
「危なかったな」
「・・・・・幸吉さんも殺(や)られちまった」
「・・・・・ああ」
あの分では、即死だろう。手の施しようもなかった。
「手掛かりが切れちまったな。あの人が本当に知らせたかったことはまだあったみたいだったのに・・・・・」
「仕方ない、まず私たちで話を合わせよう。幸吉殿から、本能寺で信長が死んでいなかったと言う話は聞いたんだろ?」
三人は何とも言えない表情で肯いた。まだ、憔悴している場合ではない。
「あざみはどうしたんだ?」
「中で話してる。今は・・・・・」
そこまで言いかけて、虎夜太は言い淀んだ。
「なんだ? 誰かいるのか?」
高虎が訊いた。
「白瀬のお姐が、助けてくれたんだ。・・・・・・おれたちを、ここに連れてきてくれたんだけど、それがさ・・・・」
夷空は閉め切られていた雨戸を開けた。そこには紅い南蛮絨毯がひかれ、祭壇が設けてあった。西洋銀器の燭台に立てられた大きな二本の蝋燭が、中の二人の姿を照らし出す。白瀬らしき白衣の辻君は、こちら向きであざみと何か話をしていたようだ。振り向いたあざみの目にうっすらと涙が光っていた。
「ありがとう、夷空」
心に溢れた気持ちをどう表現していいか分からないと言うように、あざみは瞳に涙を浮かべた。それを見た夷空は一瞬、理解できずに首をひねった。察したように白瀬が、彼女に向かって会釈を投げかける。
「・・・・・夷空さん、妹が色々と苦労をおかけました」
「あんたが・・・・・」
口に出すと夷空も、想像していた以上に驚いた。確かによく見ると面差しにどこか、共通した印象がある。二人が姉妹なのは、誰もが見れば納得することだ。
「おい、二人とも血縁なのか?」
訝る高虎に、夷空は二人が生き別れた事情を説明した。
「おれも、あざみと逢ったときにお姐に似てると思ったんだ」
「おれは虎夜太、お前の姉だって聞いたがな」
まだ納得いかないと言うように、高虎は難しい顔で腕を組む。
「クグツは血族同士が多いのですが、ゆくあてのない流れ者ならば誰でも歓迎してくれるのです。・・・・・・虎夜太もわたしも、旅の途中で拾われた身なのです」
「あざみがあんたを探してたように、あんたもあざみを探してたって言うことだな」
行き別れる前の、あざみの姉の名は、はやめ。今は白瀬だ。夷空の言葉に彼女は無言で肯いた。満足げに細めた瞳から、あざみのものと同じ涙がこぼれ落ちた。
「わたしは・・・・・駿河の富士市で須賀口の妓楼の主人に買い取られましたが、まもなくそこを抜け出して大坂へ出ました」
堺湊から、海外に売り渡されるあざみを追ってのことだろう。幸か不幸かその前に、あざみは戦場わたりの火術師の一味に拾われていたのだ。
「それがあるとき、近々あざみの人買い証文が堺の人市で取引されると聞いて・・・・・」
「そいつを買い取るために、あんたこの仕事に与したわけだな」
聞いていて夷空は苦々しかった。人間のすべての自由を売買するたった一枚の紙切れ。解放を餌に、それだけのために二人の人間が十年の歳月を狂わされたのだから。
「・・・・再会は喜ばしいが、私たちはまだ生き残ったわけじゃないし、なにもかも納得していない。もしかしてこれから、死ぬ以外の選択肢はないにしてもな。幸吉殿は、あんたの代わりにあそこで死んだ。残りの事情をすべて話してもらおう。私たちを狙っているのは本当に生き残った信長なのか?」
「幸吉殿からそう聞いているのであれば、それ以上わたしには話すことはなにもありません。信長公はやはりご存命なのでしょう」
「待てよ、それだけで終わる話じゃねえぜ。いまだにおれは、信じられないんだ。あんたが知る限り納得いく経緯ってのを話してもらわなきゃ収まるか」
「姉さま、聞いて・・・・わたし、夷空と二人で信長を撃ったの」
あざみの言葉に白瀬は、驚いたわけではなかった。その告白を実の妹の口から聞く覚悟をしていたのだが、目を見開いたのは、実際に聞いてみると、想像以上に衝撃が大きかったせいだ。
「夷空は二発撃った。わたしたちは一発で信長の顔に当たったと思った・・・・・・でも、仕留めきれなかったの。信長はわたしたちみたいな鉄砲放ちが本能寺に潜んでいることを、知ってたんだ」
「まさか明智の謀反も事前に察していたのか?」
夷空の思いつきに、白瀬は小さくかぶりを振った。話したくないと言っているのではなく、本当に知らない様子だった。
「その辺りはわたしにも何も知らされてはいませんでした。ただあるいは、信長公は、ご自身のお身内からそうした人間が必ず現れることを知っていたのかも知れません。だからこそ本能寺に地下道を引き、こなたからまっすぐ北方にある阿弥陀寺に逃れる道を作ったのでしょう」
「本能寺には地下の抜け道があると言うことか?」
「幸吉殿の話では、恐らくは」
白瀬は肯き、
「阿弥陀寺では、その秘事は固く守られてきました。だから幸吉殿でさえ、どこにその抜け道があり、あの晩どこから信長公が本能寺から脱出できたのかすら、判ってはいないようなのです。ただ、寺では厳重なかん口令を敷き、寺内の者も縁者も出入りさえ厳に禁じられたそうです」
「なるほど」
だからそうなる前に幸吉は単身、抜け出してきたのだ。
「幸吉殿がいなくなった今、阿弥陀寺から情報を引き出すのはもはや不可能です」
白瀬は息をつくと、残りの話をすべて吐き出した。
「・・・・・ただ事変後、信長公と親しくされていた住職の清玉様が本能寺の焼け残りから信長公のお召しになっていた寝間着の残骸を見つけ、明智殿に報じ、許可を得て供養したそうですが、その一方で尾張へ極秘の使いを出している様子もあるのです。
清玉様は公の死を装う役目を仰せつかったのでしょうが、別の一方でその死に疑問を抱くものを葬り去ろうとしている者たちが暗躍していることを仄めかしてもいたそうです。
すべては信長公の指示なのか、畿内に潜むどんな者たちが動いているのか・・・・・またそれがどう言う意図を狙っているのかは分からないのですが・・・・・どうやらあの日、京都にいたもので本能寺の秘事に関わった全員が念入りに炙り出されて消されようとしていることは事実なのです」

女海賊と槍大将

「蒸しやがるな」
高虎は納戸の隙間から黒雲に煙る月を見上げると、ふーっと大きなため息をついた。
「今夜のうちはここを出ない方がいいでしょう」
白瀬は言った。
「明日以降、どうやって脱出するか、めどはついているのか?」
夷空は、あざみを見た。
「むしろ日中なら逆に安全かも知れない。変装して表街道を通れば、襲撃されずに堺に着けるよ」
「おれたち全員が変装できる用意はあるのか?」
物憂げに高虎が水を浴びせる。
「・・・・・それより数日逃げおおせることが出来りゃ、中国にいる味方が戻ってくるかも知れねえぜ」
「秀吉を待つのか? あんたは武士だからいいだろうが、秀吉が私たちの命まで救ってくれると言う保証はどこにもない」
「おれがどうにかするさ」
「前野の頭が殺されたんだ。もしかしたら中国の陣には、そもそも話が届いてないかも知れないよ」
虎夜太の一言で、高虎も押し黙った。埒が明きそうにない。
閉塞したその場の雰囲気を夷空が代弁した。
「堂々めぐりだな。取り敢えずひとつだけ確実なのは、今夜ここが安全だってことぐらいだ」
「それも時間の問題です。この京にいる限りは、わたしたちはいずれ必ず消されてしまうことは確実でしょう。遅くても明日までにこの街を出る手段を考えなくてはなりません」
朝まで数刻しかないが、五人は眠ることにした。あざみと虎夜太を白瀬に任せ、体力に自信のある夷空と高虎は、交代に見張りを担当しつつ、仮眠することにした。雑魚寝した三人の傍で彼らは向かい合って、お互い戸板にもたれて膝を立てた。
「・・・・・月が見えねえ」
寝ずの番となると、高虎はすぐに戸を開けた。なにかにつけてこの大男は騒がしかった。薄く目を閉じていた夷空は、引き戸を押し開ける音に眉だけをひそめてみせた。
「なあ・・・・・・あんたの得物、見てもいいか」
肩にかけた銃把を差し出して、夷空はエキドナを高虎に手渡した。
「意外にごついんだな」
袋から中身を出し、高虎はエキドナを両手で抱え上げた。女神は優美な燻し銀の乳房をまとわなければ、大砲のように武骨だった。
実際、中世の日本では大筒と言うのがふさわしいサイズだ。これが十匁の弾を吐き出すとなると、身体にかかる衝撃力は半端ではないはずだ。大柄とは言え、女の身で、まさかこれを軽々と撃つとは。高虎は構えてみて、改めて夷空の凄腕を知った。
「・・・・・そうじゃない。肩で構えるんだ」
高虎が銃を構え試すすがめつしていると、突然、夷空が言った。眠ることは諦めたらしい。迷惑そうに吐息を漏らしながらも、上体を起こして、高虎の構えを修正してやった。
「こいつで信長を撃ったのか?」
「まあな」
短く答えると、夷空は高虎を見据えた。
「仕留めきれなかったって?」
「二発も撃ってな」
自嘲気味につぶやいてから、夷空は顔をしかめた。なにが言いたい? その表情は高虎にそう問い返しているように見える。
「実を言うとよ・・・・おれはもともと、あんたを斬るためにここへ送り込まれたんだ」
「斬ればいい。今さら何にもならんだろうがな」
銃を置くと、自嘲気味に頬を歪め高虎は手を振った。
「待てよ。・・・・そう言う意味で言ったんじゃない。おれにはあんたを斬る意志はなかった。おれは何も聞かされず、あの日、突然そうしなきゃいけなくなる段取りだった。だからあんたを斬ろうと言う考えはもともとなかったし・・・・・今も別にねえんだ」
続けて言葉を繰りながら、
「つまり・・・・・すべては仕組まれたことだったってことさ。形はどうあれおれが実行犯のあんたの首を持って帰参すれば、光秀とやり合う前にてっとり早く、やつは信長の仇討を完遂したことになるだろ。やつの狙いはそれだった。せこいやり口だ」
「世の中を動かす仕組みと言うのは大抵はそんなもんだ」
「かもな。・・・・・だがおれは、裏のからくりに先に気づいちまったし、そいつが文字通り張り子の虎で、今、最悪の状態で破綻してきてるってことも、よく分かってる」
「で? あんたはこれからどうするんだ? 秀吉を裏切るのか」
「さあな。正直よく分からんな。今の状況で迂闊に帰参するのは阿呆のすることだ。それによく考えたら、もともと羽柴秀吉なんて男とは、裏切るほどの仲でもねえしな。自慢じゃねえが、おれは今までに四回主君を変えてる。・・・・・おれは別にこの身一つとおれの藤堂家さえなんとかなればそれでいいんだ」
「武士もそう言う考え方をするのか?」
「そうしないやつもいるが、おれには関係ない。おれはこの身体一つで渡ってきた。まだ二十六だ、それがありゃいくらでも何とでもなるんだ。こんな、どっから飛んでくるか分からねえ鉄砲玉みたいなのに喰われてたまるかってことさ。お前らが思ってるより、おれら武士の話ってのは、ずっと単純なんだ」
「そうか。うん・・・・・まあ、確かにそうかもな」
「何が可笑しい」
「・・・・ん?」
自分でもいつの間にか、笑顔がこぼれでていることに夷空は言われて気づいた。
「おれは馬鹿かも知れねえが、理由もないことで笑われるほど、安くはねえぞ」
「ああ、すまなかった。ただ、あんたの話があんまり私たち海賊の考え方と近いんで嬉しくなってしまってな」
「まあ、そう違いはねえだろ。お前、海賊なのか?」
「私は、武器商人だ。南蛮人からこう言う銃や硝石を卸してこの国で売りさばいている。私は無論、最新型を手に入れることも出来るが、実際使ってるこの銃はもうかなり古いものなんだ」
夷空は高虎からエキドナをこの手に返してもらい、
「あんたが鉄砲を戦場で最初に見た年は?」
「おれが十四の時だから、十二年前。あれは姉川合戦の頃だな」
間髪入れずに、高虎は即答した。
「姉川を挟んで対峙した敵方がずらっと鉄砲を持ってた。その頃おれは浅井家にいて、敵方は織田家だったがな。信長は当時で足軽十人分の給金より高え鉄砲を何百丁も揃えてたそうだ。五寸釘で耳の穴を塞がれたような音だったよ」
しみじみ戦場経験を語る高虎にそうか、と夷空は相槌を打ち、
「こいつを持って来た南蛮人が本当は鉄砲を売りたくなかった、そう言ったら信じるか?」
「馬鹿言うな。南蛮人はこいつでよっぽど儲けたんだ。売る気がねえはずがあるか」
なぜかいきり立つ高虎に、夷空は楽しそうに首を振り、
「売る気はないじゃない、本心から言えば売りたくはなかったのさ。ポルトガルもイスパニアも、最終的にはこの国を掠め取ろうとしていた。侵略する相手に自分たちの有利な兵器を渡すと思うか? 答はどう考えても否だ」
「じゃあどうして売った?」
「先に売られたからさ。売りこんだのは、中国人の倭寇・・・・つまり、私たちみたいな存在だった。王直と言う倭寇の大立者がいた。その男が、南蛮人が禁じ手にした鉄砲売買で大儲けした。たった二丁の銃が同じ重さの黄金より高いほどの大儲けだ。あわてた南蛮人もその儲けに乗らざるを得なくなってしまったのさ。でも、ここで問題が起きた」
「もったいぶるなよ。なんだ?」
冗談みたいな話だ、夷空は前置きしてから、
「彼らには不幸なことが二つ――――一つ目、彼らの祖国は遠かった。戦乱で使われなくなった銃を掻き集め、この国に売り込むまでにはゆうに数年掛った。二つ目、その数年の間に、倭人たちは自前で鉄砲が作れるようになってしまった。しかもイスパニア人のそれより優れていた――――倭人の作った銃は、南蛮人のそれより軽くて当たりやすく、故障も少ないんだ。どっちが売れるかは、考えてみなくても分かるだろ?――――こうして」
彼女は肩をすくめた。不景気なため息を添え、
「大儲けをふいにした南蛮人たちの手には、長い船旅の借金と兵器の在庫、給料を支払われずに荒れ狂う船員たちが残ったのさ」
「本当の話か、それ」
真夜中に、大手を叩いて高虎は爆笑していた。
「大真面目な話だ。イスパニアは国単位の莫大な借金を抱えてしまった。今、その負債をどうやって補填するか、私たち倭人を品定めしながら、慌てて考えている最中だ」
「ふん、南蛮人も意外と間抜けなもんだな」
二人はそうしてひとしきり笑った。
「なあ・・・・・ところであんた、倭人なのか」
ふと笑顔をひそめ、高虎は突然聞いてきた。
「なんだ、急に」
「夷空と言う名は本名か?」
「違うとも言えるし、そうだとも言える」
夷空は口元だけ虚しい笑みを浮かべ、かぶりを振った。
「わたしは買われたんだ。そして海の上で自分で買い戻したのさ」
「へえ」
ふと、高虎は手を伸ばして、今度は夷空の頬に散りかかった前髪に触れた。黒く濡れた髪は潮を含んで少し硬かった――――火薬すすの黒い雀斑(そばかす)を指がなぞる。まさか、もしかして。夷空は、目を見開いて、真剣な表情をしている高虎を見詰め返した。
「こうして見ると案外、綺麗な顔してるんだな」
「それで、口説いてるつもりか?」
ふっ、とその瞬間、夷空の息が抜けた。
(なんだ。知ってるわけではないのか―――私のことを)
大きな手を迷惑そうに払い、やめておけ、と言う苦笑を流し目に織り交ぜる。
「もう眠るといい。私は十分寝た。・・・・明日からは、眠れなくなるかもしれないぞ」
「馬鹿言え」
高虎は挑むように、笑みを返す。たぶん、もうひと押しとか、考えているな――――まったく、甘い考えだと夷空は思った。
色々と面倒くさいこと抜きに男はやりたいことがある――夷空にもそう言うことは分かっていたが、今はそう言う気分にもなれなかった。会ったばかりの男に、見せる身体でもない。高虎ですら、別に飢えているからでもなく、戦場わたりの身体に身に付いた感覚なのだろう。女と話をしていて、行き着く先がたまたまそうなのである。
やんわりと拒絶すれば、のしかかってくる男でもなさそうだ。見た目ほどこの男は単細胞でも、大味でもないことを夷空は知った。何よりこの国の武士の美点は、結果はどうあれ、いつでも潔いことだ。高虎は所在なげにしていたが、あくびを漏らすとやがて眼を閉じた。

秀吉の器

雷雨の中、無数のひずめや沓が泥を掻きまわし、大地がうなる。
二万の軍勢の撤退――――羽柴秀吉は姫路に着こうとしていた。
それは、荒れ狂う濁流に乗るような強行軍だった。
陣を敷いていた備中高松からこの姫路まで実に一〇五キロ。六月六日から一昼夜でこの距離を秀吉は駆け抜けたことになっているが、実は件の六月二日の計画実行に合わせて、撤退のための準備は徐々に進めてはいたのだ。
だが、二万人の軍勢の大移動となると、口実を作って少しずつ、兵を前線から移動させたり、撤退路の沿道に兵糧やら、替え馬やらをこっそり準備しておくにも手間が掛かった。些細なことでも一つの段取りがもたつくと、さらに次々と、計画の段階に齟齬が出来てしまうことはよく分かっている。秀吉にとってのストレスは、そんなことではなく、今帰って来て京都の情勢がどうなっているかだ。
信長は果たして、生きているのか―――もう、死んでいるのか。
畿内の本当の情勢が分からない今、早く帰りすぎることも、遅すぎることも、彼にとっては命取りだった。
いくさと同じく、計画したことには常に予定外の事態が起こる。問題はそれを腹に収めてぬかりなく、どう処理するかだ。それには何より、忍耐が必要なのだ――――忍耐とは同じ大きさの金の重さに勝るほど、それを腹に呑み込むのは重労働なのだが、金の重さの方をよく知っている秀吉だけに、極限のストレスに耐えながらの行軍に何とか耐えて、ここまで来たのだ。
秀吉自身、その道の達人を自負している。忍耐なら人一倍してきた。だが、分かっていても段取りの遅滞ほど、頭に来るものはない。
(高虎めら、なにをしとるか)
脳裏に一昨日――六月三日のことがよぎる。本来ならば、前野車左衛門を頭とした川並衆の報告か、ついで信長暗殺犯を仕留めた高虎の喜び勇んでの帰参があるはずであった。それがいつまで経っても来ない。
これでは備中を離れることすら出来ないではないか――――
撤退のきっかけについては幸い、秀吉の腹心、黒田官兵衛が一計を案じた。地元から徴収してきた名もなき下人を毛利への密使に仕立てて殺し、そこから本能寺の一報を得たことにしたのだ。その官兵衛も今はいない。予定の遅延が響いたため、備中高松に殿(しんがり)として残して来ざるを得なかったのだ。例えば本能寺の事態を本当の密使が伝えるなどして、毛利が講和条約を破って秀吉を追いかけてくるかも知れなかった。
姫路城が近づいてくる。ここで一旦、追いついてきた順に人員を整理し、兵力を温存せねばならなかった――――さすがの秀吉も、馬上でくたくたになっていた。なにしろ寝るのも、馬の背でするのだ。馬の胴を締める股が強張って、生来のガニ股が余計ひどくなりそうだった。
先発した実弟の小一郎秀長と、蜂須賀正勝が待機して、秀吉の馬が着くのを待っている。秀吉はすれ違いざま、正勝を殴りつけたい衝動に駆られた。疲労で殺気みなぎる血走った眼の色が隠せないとは言え、まだ理性は残っていた。だが、我慢には限界がある―――掴みかかったのは、陣の裏手まで秀吉を追ってきた、秀長になった。
「一体、お前らの手はずはどうなっとりあすのか?・・・・・・なあんもかんも、話が違うでにゃあか」
きつい地言葉で怒りをぶつけられるのは、弟の秀長くらいだった。正勝には出来ない。かつて、どこにも属さない局地ゲリラ集団だった川並衆を、説き伏せて傘下に入れたのは人柄の誠実な秀長あってこそだった。今でも、遠慮があった。
「はっきりと、ここで決めてもらおう。今、兵を返してええものか、そうでにゃあのか。ほんまに信長様が死んどりゃあせんのなら、まだ間に合うでよ」
「信長公は、亡くなられました――――畿内から噂を集めています。そのことだけは、まず間違いないかと」
「それならなぜ、前野も高虎のやつも帰って来ん?―――宗易から確かに、信長様を仕留めたとの知らせが入って来ん?」
蒼白の秀長は答えに窮して、曖昧なかぶりを振るばかりだった。
「ええか、小一郎。わしらは出たとこ勝負で振った目を信じて、もう軍勢を動かしとる――――本来ならこれらはすべて、信長様より拝領した軍勢だて。このまま京へ戻り、いや、山陽道を戻って信長様が実は生きておったことが分かったなら、出方を改めなければならんし、正勝や官兵衛の口も封じねばならん。それで万が一、わしが宗易めに鉄砲放ちを雇わせたことが露見したら――――そんなことは考えたくもにゃあが、おのれと長浜の一族が皆殺しにされん方法を何でも考えなきゃいかんのだぞ。早く信用置ける者どもを連れて来い。このままだと到底、わしは、危ない橋を渡りたくても渡れんでかんわ。・・・・・聞いとりゃあすか、小一郎」
ここまで一気にまくし立てて秀吉は、この父親違いの弟の顔面が蒼白なのは、別に理由があることに気づいた。目が、泳いでいるのだ。何かを隠してやがるな――――
「小一郎、おみゃあさん、まだわしに黙っとることがありゃあせんだろうな。今のうちじゃぞ―――隠しだてするなら斬り捨てるでよ」
秀吉は柄に手を掛けた。本気になると普段は大きくからっとした声音が低く眠たげな、不気味な話し声になる。そうしたときの兄の残酷さを秀長は何度か目の当たりにしていた。
秀長はあわてて、声を上げた。
「実は姫路城に宗易殿が到着しておられるのです。それが―――」
「どきゃあっ」
絶叫するように言い、秀長を小突き倒した秀吉は、城の中庭へと入って行った。ひかれた幔幕の下に、甲冑をつけた大柄な宗易がいて、静かにこちらを見ている。
「しばらくじゃにゃあか、宗易」
ゆっくりと、秀吉は近づいていった――――柄に手はかけたままだった。
「ここ何日と言う間、おれァおみゃあとじっくり話がしたかった」
その瞬間、切り上げられた刃が宗易の目の前を風を切って掠めた。さらに秀吉は両手に柄を持ち添えると、腰を沈めて唐竹に刃を振り下ろした。肉を斬る気であれば、斬られた相手はそれと気づかず、絶命するほど――――秀吉の居合は凄絶だった。だが刃は空を切り、備前(びぜん)国光(くにみつ)の切っ先が、兜の守らない宗易の鼻の先で留まっていた。
「今のおみゃあが今日までのおれだで、宗易」
骨を噛むほどの殺気を崩さぬままに言うと、秀吉は剣を引いた。
「それで? なにか、今のおれを喜ばせる報でも持ってきとりゃあすのか」
「信長公が生きて本能寺を脱した模様ですな」
ぴくり、と双眸を動かしたのは、むしろ宗易だった。もったいぶらずに核心を突いて、この男の性根を見極めたかったのだ―――秀吉は血走った青黒い顔のまま、静かに宗易を見つめ返すと、
「ほう・・・・・そんな話でおれの器を試そうてか、宗易」
平常心の声――――宗易が密談を重ねた秀吉の声に戻っていた。
(・・・・合格や)
むしろ内心ほくそ笑んで、宗易はあごをひいた。
「そうなってもあんたと私は一蓮托生、そいつを伝えに来たまでのこと・・・・・畿内の情勢はまだ一遍も我々が予想した動きから外れてはおらんことですしな」
ふうっ、と秀吉は大きく息を吐いた。はち切れそうなどす黒いものが一気に吐き出た気がする。宗易めが――――人の感情の押し引きどころを心得てやがる――――本質は茶の湯などと、甘いものではない。知らず知らず、人はこの男の意のままにさせられる。
宗易は南蛮人が吸う、一本の細い葉巻きを一本差し出した。
「ええもんを持参しましたで――――気分が良うなります。今は茶の湯などと言う気分には到底、なれませんやろ」
「阿呆、こにゃあなときにそんなものが吸えるか」
「ただの葉巻きです。少しは気分転換なさったらええと思いましてな」
引っ手繰るようにそれを受け取ると、秀吉はその細巻きを加えた。
「で? しくじったのは本当なのか、宗易――――」
煙で目をしょぼつかせながら、秀吉は話を続けた。
「今はやり直さしとります。そもそも、ほんまのことを調べさせるのも、まだこれからでしてな」
「まさかおれとはバレとりゃすまいな」
据わった眼で、秀吉は宗易を見た。
「今はまだ何とも。ただ、バレたところでどうと言うこともあらしまへん。すべては、このひと月ほどのうちに無かったことにしてしまえますやろ」
「なくなるのはわしらでは洒落にならぬでよ」
「その点は重々承知」
「四国遠征軍はどうだ?」
「手はず通りに・・・・・信孝様と長秀様は、同行の津田(つだ)信(のぶ)澄(ずみ)様を始末なされたご様子」
「そうか・・・・・」
津田信澄は、信長の甥。かつて信長自身が謀殺した、実弟、勘十郎信行の子―――光秀と結んで逆心ありとしたのは、宗易の入れ知恵だろう。秀吉にしてみればそれをもって、宗易の決心を察せよと言うことか――――まったく、喰えない男だ。
「兄上」
秀長が、正勝と立っている。蒼白の表情だ。秀吉は葉巻きを置くと、物憂そうな目を向けた。
「なんだ」
「城中にこんなものが――――」
どさりと、秀長は両腕に抱えた包みを放り投げてきた。秀吉の足もとに解かれたそれは、重たげな菰包みだった。その場の空気が凍りついた。中に入っているのは―――篝火の揺らめきに映るのは、ちらりと見えただけだが、確かに軽く折り曲げられた人の指なのだ。秀吉は近寄って行き、中身をあらためた。足で乱暴に蹴転がした。
ごとり―――それは肩から切り落とされた、人の腕だった。逞しい男のもの。日にちを経ているのか、それは夜目にも土気色にくすんでいた。
だが、はっきりと見えた――二の腕の肉に刻まれた文字を。

そう書かれていた。腕は、一枚の紙片を握っていた。そこには、こう書かれていた。
必罰
虎の鼻息のような鬼気を帯びたため息を、秀吉は吐き出した。
「・・・・察するところ、おみゃあさんの趣向じゃあなさそうだの」
その場から踏み込んで来ない背後の宗易を見やって、
「ならばこれからどう出るか、姫路から向こうに着く間とっくり考えねばならんて。お互い、落ちる首の心配が多すぎて、難儀しそうだわな」

白瀬の事情

京都の、朝が白んで来た。靄が街を覆い尽くしている。高虎は薄く目を開けた。ふわり、かすかな衣ずれの音がした―――戸板を引き開けて、そっ、と誰かが入ってきたようだ。傍らに舞い降りてくる気配の正体は知っていた―――高虎は目を閉じたまま、ぼんやりとしたままの声音を出した。
「あざみ」
虎の寝息はまだ深かったはずだ―――そう思っていたあざみはびくりと肩を震わせた。
「起きてたの?」
「ああ、もう十分寝たさ―――それよりどうなんだ、こいつの調子は?」
「うん、大丈夫だと思う。・・・・・もう、熱も引いたみたいだし」
高虎は目蓋を開けた。目の前で小さな手が、盥に汲み上げた井戸水で濡らした手拭いを絞っている。あざみがそっとそれを、寝ている夷空の額に置くところだった。つい小半時ほど前は動きが激しく、たびたび手拭いが落ちた。動悸は鳴りをひそめ、寝息は収まって、どうにか小康を保っているようだった。怪訝そうに高虎はその様子をうかがった。
「なあ、おれは何もした覚えはねえんだが。何が起きたんだ、いったい」
あれから急に夷空はうなされ、高熱を出したのだ。湯のように噴き出た汗に身体が茹で上がり、床に倒れこんで苦しげにうわ言に悩まされ始めた。鉄鍋で煎り殺される夢でも見ていたのではないかと思うほど―――高虎はあわてて、夷空の額から湧きだした汗を手拭いでふき取ったり、身体を冷やすための井戸水を探したりして落ち着かなかったのだが、やがて奥の三人が異変に気づいて起きてきたために、大事に至らずに済んだのだ。
「わたしも心当たりがないの―――初めて見た、夷空がこんな・・・・・」
夷空の異常に、相棒のあざみですら、狼狽していた。付き合いが長いわけではないが、初めてだったのだ、こんなことは―――それがただの高熱でないことは、姉と二人であざみが汗でびっしょりの身体を拭くために、夷空の着物を脱がせたときに、よりはっきりした。夷空の身体に刻まれた無数の古傷―――それが新しい火傷のようになまめいて、真赤に膨れ上がっていたのだ。高虎ですらあんなのを見たのは、正直生まれて初めてだった。
「全身に浮かび上がった痕だが、あれは・・・・・」
その先を遮るように、あざみはかぶりを振った。
「身体の傷のことは知ってたよ。でも、夷空は詳しくは話してくれなかったの。たぶんだけど――――昔すごくひどい目に遭ったんだと思う。もしかしたら・・・・・・もう、子供が身ごもれなくなるほどの」
高虎にも癒えない古傷はある。だが、それが黒く塗りつぶされた過去を蘇らせるかのように生々しく腫れ上がるような、そんな経験はしたことがない。想像もつかない。
「何があったのかな―――元は倭人なんだろ? どうしてここへ戻ってきた」
「夷空にはエリオって言う息子がいるの。夷空はこの国に、エリオのお父さんを探しに来たんだって」
「父親を? 南蛮人か?」
夷空の目が開いた。その意識は、どこか別の場所にいたようだ――はっとして四方をめぐった視線は、その様子を心配そうに覗き込むあざみを見て、ぴたりと停まった。
「ここは・・・・・」
「まだ京都―――夷空、わたしのこと誰だか分かる?」
ふっと自嘲気味に笑うと、夷空はため息をついた。
「そうだったな・・・・・すまん、迷惑をかけた」
あざみは、それを見ると本当にほっとしたように、胸を撫で下ろした。
「びっくりしたよ、急に苦しみ出したから。高虎さんが気付いてくれなかったら絶対死んでたよ」
「ああ、おれもまじで死んだかと思ったぜ。あんなの初めてだったからな。あんたの身体に浮かび上がったあの生傷・・・・・あれは―――」
「ひどい声だな、私の声。咽喉が渇いたよ」
夷空はわざと、間延びした口調で話を変えた。
「あんたにも迷惑をかけたな」
水を汲みに行った虎夜太と小屋の持ち主と話した白瀬が同時に帰ってきた。
「様子はどう?」
「大分楽になった。ありがとう」
虎夜太が持ってきた手桶の水で、夷空は軽く口をすすいだ。
「こんなことはここ数年無かったことなんだがな」
「そっか・・・・・」
何があったのとは、あざみも聞けなかった―――夷空も努めて今までの自分に戻ろうと努力して振舞っている風が見られたからだ。察した高虎も努めて素っ気なく白瀬に向って、あごをしゃくった。
「歩けそうなら、早くこの街を出ないとな。なあ、ここは、いつまで居られるんだ?」
「そう長くは――でも、大丈夫。午前中ここを発つ商隊の一行と話がつきました。高虎様と夷空さんは護衛、と言う形でそれについてもらいます」
「なるほど、それなら武装した人間が二人、くっついて行っても違和感はないな」
「あと二刻ほどしたら伏見口で落ち合う予定です」
「姉さま、わたしが刻限より早く行って、大丈夫かどうか探ってくるよ。夷空の具足と・・・・・あと、予備の火薬もとってこなきゃならないし」
「あざみ、それなら私も行こう」
立ち上がり、ふらつきかけた夷空を虎夜太が抱きとめる。
「いや、あんたは休んでいてくれよ。夷空の姉御、あんたの腕は頼りにしてるんだ。旦那とお姐と三人で待ってなって。あざみにはおいらがついてくからさ」
「・・・・・わたし一人で行けるってば」
「二人で行ってきなよ、あざみ」
素の姉の口調に戻って、白瀬は言った。
「えー」
「ちび同士のが、なにかと目立たなくっていいだろ」
「一人だと、何かとかさばる荷物じゃないのか?」
「・・・・・分かったよ」
夷空と高虎にも言われ、あざみはしぶしぶ承知した。
「昼前にここを発つ。それまでに落ち合う場所を決めておこう」

二人がぶつくさ言い合いながら立ち去るのを見届けると、夷空は深くため息をついた。確かに大分消耗したようだ。身体のあちこちがびりびりと痛んだ。にしても、あの夢を見たのは、何年ぶりのことだろうか。夷空は迷信は信じないたちだ。だが、エキドナのことと、このことは別だった。
(これ以上何かよくないことが起こらなきゃいいが―――)
無意識の習性だ。こんな胸騒ぎがすると、やらずにはいられない。夷空は首にかけた十字架を取り出すと、その小さな歯型にそっと自分の濡れた歯を押しあてた。

「夷空さん」
はっ、と突然、夷空は瞑想を破られた。白瀬が油紙に包まれた何かを胸に抱えて夷空のところへやって来たところだった。
「あざみがこれをあなたに、と―――」
中に入っているのは四つほどの早合包みだった。恐らくはあざみが、事前に予備を作って持っていてくれたのだろう。つくづく、段取りのいい娘だ。
「妹を救ってくれて、ありがとうございます」
「礼には及ばないさ。私もあざみに命を救われたようなものだしな」
白瀬は夷空の傍らに座ると、さりげなく面を伏せた。
「あざみに聞きました―――あなたも、わたしたちと同じ・・・・・人買いに売られた身なのだと」
「古い話だな。もう、あまり覚えてないことだが―――あざみがさらわれた歳には、私は海の上にいて、人買い商人が話すイスパニアの言葉を必死に覚えようとしていた頃だ」
「わたしは十六、あざみは七つ―――夷空さんは親御さんのお顔を覚えては――」
夷空は虚しく首を振った。
「・・・・・すみません」
「気にするな、忘れただけさ。記憶にあるのは、一緒に買われて連れまわされた琉球女の顔くらいかな。年格好はあんたぐらい―――色の浅黒いがっしりとした海女だった」
「あざみもそのようです。生まれ育って知り覚えた肉親の顔でも年を重ね、無数の人を経れば―――段々と薄れていくものです。今、会えて―――本当に良かった」
「私も良かったと思う―――記憶はあいまいにしても、あざみはあんたと母親を探してたんだ。再び自分の身を売り払っても、あいつはあんたの身柄を買い戻そうとしていた。ようやく会えたんだ。あざみはあんたに返すさ。でもこれからどうする気だ? なあ、そろそろあんたの、本当の目的を教えてくれてもいいんじゃないか?」
光を閉じ込めて鈍く輝くエキドナのボディを撫でていた夷空が、いつの間にかこちらを見ているのに、彼女は気づいた。白瀬の表情は、はっと色を変えた。
「別に驚くことじゃない。あざみも、私と出会ったとき、本当の事情を隠していた。あんたも、一度は身売りされた身体だ――――そこから逃げてくるのは、なんにせよ、並大抵のことじゃないはずだ。例えば、何かをする覚悟がなければ、思い立てはすまい―――一生働いても返せない身請け金を背負わされるとは言え、そこに住み家と生活は保障されているわけだからな。それがどんなに酷くても生活から抜け出すのには、それ相応の理由と、意志の力がいるはずだ――――あんたが今、ここにいるのは何かを決心してきたからに他ならない。・・・・・無理にとは言わないが、話してくれてもいいんじゃないか?」
夷空の言葉も最後の方は、噛んで含めるような言い方になっていた。高虎も口には出さなかったが、自分にも聞く権利があると言うように、白瀬の方に顔を向けていた。
「・・・・・あざみからはどこまで話を?」
「三河のある村の出だってことまでは聞いた。それが、ある日―――父親と兄が行方不明になって、残った家族は全員夜盗どもの手で売られた、と。ありふれた人さらいの話だ。だがおかしなことは―――その夜盗どもは、ちゃんとした身曳き証文を持っていて、それには父親の名前と血判が押してあったと言うんだが」
「その話には、間違いはありません。母とわたし、それにあざみを売ったのは紛れもなく父です―――父と兄は、ある方の密偵を勤めていてそれが露見して殺されました。危機を感じた父は事前に手を打って、わたしたちを三河の外へ逃がしてくれる手はずだったのです。ところが手引きのものが、父から手に入れた身曳き証文を逆手にとって・・・・・」
「先手を打たれたわけだ」
「まあ、あり得ない話じゃないな―――ありふれてはいねえが」
傍らでじっ、と聞いていた高虎が初めて、口を挟んだ。
「三河で密偵ってのが、ちと気にかかるがな。で、あんたもその仇を追って、宗易の密偵になったのか?」
白瀬は顔をあげて、肯いた。
「半分は―――わたしは父の真実を知って納得いく形をつけたいと思いましたし、あざみを見つけて助けてあげたいとも思ってもいました―――あざみは堺港から船でよそに売られたと言う噂を聞いていましたので。宗易様の手先になったのも、この仕事を終えたら手を尽くしてあざみの身柄を探してもらう約束だったのです。それがあの朝――」
「あの騒ぎの中であざみを見つけてしまったんだな?」
白瀬は、あごを引いて肯いた。あのとき、その場に自分もいたのだ、覚えがあろうとなかろうと―――夷空は知らず知らずのうちに自分の記憶を手繰っていた。
白瀬の瞳に映る、あざみの姿――――女装した夷空の手を引いている。
「あのとき、わたしはそれまでの自分すべてを忘れてしまいました。今のおのれの立場も、ことの後先も、もう一つの本願のことも――――あの恐ろしい騒乱のさなかで、わたしの瞳が捉えたのは確かにあざみだったから―――我に返ったのはいつのことだったか、もうそんなことは分からないくらい―――気づくと、わたしはあなたたちの姿を追って、駈け出していたのです」
天正十年六月二日―――本能寺が燃えたあの日。白瀬は見つけたのだ。逃げ惑う群衆の中で、あざみの面影を。七年経っていた。白瀬自身の記憶も幼かった。幼女だった妹は、十五歳になっていた。それでもなお―――高虎はあの日の白瀬の必死な剣幕を、目に思い浮かべながら話を聞いていた。あのとき、この世ならぬ何かが、彼女に知らせたのだ。これを逃したら二度と会えないかもしれない、と―――
「あざみはあんたに会おうと思っていたし、あんたもそうしてすべてを放り出して、あざみを追おうとしてたんだ。行きがかり上の雇い主の私が、それにどうこう言う筋合いはないし、この仕事が終わったら好きにすればいいと思うが―――いま一つ聞きたいのはその、もう一つの本願のことだ。あざみは納得しているのか?」
「すでに、話は―――この仕事が終わったらそちらのことに掛かると思います」
「私たちを無事に堺に送り届けたら・・・・・か?」
こくり、と白瀬は肯いた。
「馬鹿げた話だ。一応、言っとくが、あんたが仇なそうとしている相手は、それほど甘くはねえぞ」
「分かっています。あざみには昨日の晩にすべてを話しました―――二人がいなくなった理由も、父が誰の手から、わたしたちを守ろうとしたのかも。その上で、出した答えにあざみも納得してくれていると思います。それに、わたしが集めた情報が確かなら、わたしたちが追うその相手も、今頃この京で足止めを喰っているはずなのです。もしかしたら今なら―――」
「首尾よく復讐が出来るって? それほど甘い話じゃねえぜ」
大げさな身振りで手を振ると、高虎は鼻を鳴らし、
「お前らが誰を狙ってるかは察しがついた。だが、そいつを狙うのは無茶な話だ。三河の太守と言われた男だ―――お前らにやられるほど甘くはねえ。それにそいつなら、とっくに三河に戻っているだろうよ。あの日から五日経ってる―――軍勢を率いてきたわけじゃないんだ、身一つならどこにでも逃げられるさ」
「それでもまだ、逃げていない、としたら?」
「・・・・・何か根拠があるみたいだな」
夷空は大して期待もしていないと言う風に、聞き返した。
「徳川家康はまだ、京都に居ます―――わたしが姿を晦ました日、あの男は京に戻っていた。わたしはその動きを、ずっと見張っていたのですから」

意外な道連れ

「なあ、あざみ―――これからどうする気なんだよ」
納屋の中に隠した行李をごそごそと探りながら、虎夜太が口を開いた。
「別にどうもこうもないよ。わたしはただ、雇われたことをするだけ―――わたし、夷空に雇われてるんだから。姉さまのことは姉さまのことで、話が別」
「家康が京都にいるとしても?」
「とっくにいないよ、こんなところには」
あざみはにべもなくかぶりを振ると、行商道具の連雀の中に予備の火薬類を隠し、
「ただの人違いだって――三河公だよ? 虎夜太だって見て判るわけじゃないでしょ。誰だって、そんな偉い人の顔、まともに見た経験なんか滅多にないはずだよ」
「お前だって、信長の顔をげんに見て知ってるんだろ? お姐は家康の顔くらい、見て知ってるさ。今回の上洛で京だけじゃない、堺でもあちこちに顔を出してるんだ。お姐が大体、見間違えたりするもんか」
「断言できるわけないじゃん。わたしだって―――」
あざみは振り返って続きを言おうとしたが、気後れが水を差して、それを口にするのをとりやめた。
「なんだよ・・・・・?」
「別になんでもないよ―――とにかく、夷空たちと生きて堺に帰るのが、わたしたちの目的なんだから、早く行こ」
同じくらいの小さな手を、あざみは引く。どこか丸っこいあざみの手に較べると、虎夜太のそれは中指と薬指の長さがほぼ同じで、スリや職人に向いていそうな手をしている。
(・・・・・どうしよう)
「家康を殺そう」
とは、姉は言いはしなかった。だがそうなるだろう。卑劣な手段で父と兄を葬り、一家の身柄を他国に売り払ってことを収めようと図ったのは、誰あろうかの徳川家康なのだから。百二十万石の領土と野戦上手で鳴る三河武士を束ねる、東海一の大名―――織田信長の唯一の同盟国相手であり、目下最大勢力を持つその男が今、方途を失って畿内で孤立している。
本能寺が燃えたあの日、家康は堺にいた―――信長の招待を受け、供周りの人数は僅かなはずだった。家康の首は畿内では格好の賞金首だ。白瀬のような諜報のプロが関わればわずかな情報の操作で―――労せずして、家康を足止めするくらいの包囲網は作り上げることが出来るはずだ。
「父さまや兄さま―――それに、母さまを殺したのは家康なの・・・・・あざみ」
(・・・・知ってるよ。わたしだって、憶えてることはあるもん)
あざみも、あの晩の夢を見る―――さらわれて雨の中、夜通し道を駆けた。ずぶ濡れの男たちは粗野で、あざみや姉が何かを言うたび、赤く潤んだ瞳をぎらつかせ、刃を引きつけて恫喝した。泣き叫ぶ二人を母が命を賭けて護った。二度とは経験したくはない―――それでも折に触れて、今でもあざみを襲ってくる悪夢だ。でも、
(それを命令したのが誰で、どう言う理由があったか、なんて今さら聞いたって―――)
そんなことより、あざみは姉と生きて再び会えたこと―――ただそれだけが嬉しかった。遊女から流れクグツに身をやつしても、父が隠していた真実を追及することと、七年越しの恨みを晴らすこと―――そのことだけを糧に、生きてきた姉の気持ちも分からないではなかったが。

あざみは、伏見口の落葉松(からまつ)の塚の蔭に虎夜太と身を潜めようと考えた。約束の宣教師たちと京都商人の隊商の列はぽつり、ぽつりと集まり始めている。日本人と見える唐物商人の一行も十四、五人だが、そのうちの何人かは小さなロザリオを胸に提げていた。幹の陰で、二人は顔を見合わせる。安全上から考えれば、今、この辺りでこれ以上危険な隊列の組み合わせはないと思ったのだ。
かつての宣教師の日本での旅は、まさに命懸けだった。道を歩けば石くれを投げかけられる、船に乗ろうとすれば同乗の客に同乗を拒否される。ひどい場合には土地の案内人が居直り強盗に早変わりして、彼らから着ぐるみを剥がそうまでする―――これらはすべて仏教徒たちが流した悪い噂のせいだった。
一見して異形の風貌を持つ南蛮人の宣教師たちは、邪教を広めるだけでなく、行く先々で人をさらって喰らうとまで言われていたのだ。キリシタンと肩を並べて旅をすることは、肌着でいくさに出るのと同じ、まさに自殺行為だったのだ。
ただ―――今の自分たちがそうした贅沢を言っていられない状況にいるのを、あざみたちもよく分かっていた。夷空が心配したのは、まずは姉が組んだ段取りが、そのまま罠になっていないかと言うことだけだろう。敵がまだ何者でどこから現れるのかすらも、見当がつかないのだから。
「・・・・・大丈夫そうだな、取り敢えずは。あざみ、一旦夷空の姉御のとこに戻って、装備を届けてきなよ。ここはおいらが張っとくからさ」
あざみは返事をせずに、虎夜太を軽く見返ってから前に視点を戻し、
「わたしがここにいるから、虎夜太行ってきてよ。わたしと虎夜太で、荷物分けてあるから。・・・・・そっち、夷空に渡す分」
荷物を虎夜太に任せ、あざみは、再び丘の様子をうかがった。
当たり前のことだが宣教師たちは、武装は意識していないようだ。あざみが彼らに感心するのはあれだけの目に遭ってもなお、宣教師たちが非武装で諸国を布教して回ることだ。日本の寺社勢力のように、彼らは私兵団を率いていないし、武力に訴えたこともない。日本人とは違う価値観が、彼らを守ってくれているがゆえだろうか。
あざみは、出発前だと言うのに熱心に説法をする一人の宣教師に目を留めた。三人いる宣教師たちの中では、一番年若く見え、話し方も溌溂としていたからだ。
海藻のように巻かれた長い栗色の髪と、頬まで生えた髭―――南蛮人の年齢は風貌からは分かり難い。だが、その快活そうな表情や身ぶりからすれば、この中でもっとも若いはず、と推測がついた。濃い眉の下の、庇の深い大きな瞳が無邪気そうに潤んでいた。
不思議と、魅力のある男だ。説法を聞くためにかしずいているのは、たったの二人だが、どこかおざなりそうに、投げやりな応答をしている他の宣教師たちとは、まるで違う。
彼なら、たとえ石像が相手でも、その熱心さを失わずに話が出来るだろうと言うような―――何か形容しがたい清々しさと、まぶしさがあざみにも感じられた。
男がふと、不自然に顔を背けてこちらを見た気がしたので、あざみは身を伏せた。この位置と場所で、見えるはずがないのだが、今やっぱりなぜか―――視られたような気がしたのだ。
背後の落葉松の赤枝が、ふいにからりと鳴った。虎夜太の合図だ。最後にあざみはもう一度、男の方を見直した。今の雰囲気からはさっきの不審な動きの正体は、どうしても掴めそうになかった。足音を立てずに、あざみはそこを去った。

「大丈夫そうか?」
巫女の衣装を脱ぎ捨て、夷空は身支度を整えているときだった。小さな鉄板を入れた革具足に短剣、エキドナにも銃剣が刺してある。火縄を何本か短く切って垂らし、迎撃できる態勢にしていた。長い髪をひっつめて、火薬すすのついた頬を晒した夷空は、女装の時よりもしっくり来ているようだ。やはりどうも女装には、かなりの抵抗があったらしい。
「見たところ問題はないと思う。待ち伏せも見当たらなかったし」
「―――では、すぐに出ましょう。準備はよろしいですか」
白瀬の呼びかけに、夷空は目顔で肯く。
「武装して往来を歩けるのは、ありがてえな」
高虎も面頬を当て兜を被り、完全に具足をつけている。巨大な身体には窮屈そうだ。この男が大槍をしごいて歩けば、どんな危険な連中も目を反らして素通りするに違いない。
あざみも小柄に手投げ式の焙烙(ほうろく)玉(だま)を着物に隠した。白瀬と虎夜太も表からでは判らないが、その身体には何か仕込んでいるはずだ。
「じゃあ、行くか」
南蛮人たちへ事情の説明は、夷空がすることになっていた。宣教師たちがもし、過度の武装を嫌がっても、どうにか納得してもらう他ないのだが―――あざみたちの報告を聞く限りでは、武装についてはそれほどの心配には及ばなそうだった。
「堺までともに行けば安全でしょう。そこからはすぐ宗易の屋敷へ行ってください」
姉は適当なところで、離脱することを考えているのだ――夷空には、きちんとそのことを話しておいた方がいいはずだ。迷いの中であざみは、夷空の横顔を見ていた。
「油断するなよ、あざみ」
夷空の声に、はっとする。何か言い返さなくちゃ―――
「大丈夫だよ、別に」
と、言った瞬間、高虎の手がぺちんと後ろからあざみの頭を叩(はた)いた。
「――――たっ」
「こいつの言う通りだ。よく見てるようで、ぼけっとしてるからな、お前。昨日だってこの高虎様がいなかったら死んでたんだぞ。普段から気合入れやがれ」
「うるさいな、分かってるよ。大体、わたしがちゃんと見てたから、夷空だって信長のことにも気づいたんじゃんか」
「分かってるさ、お前こそ何度も言わせる気か? エキドナの火薬の調合が出来るのは、お前だけなんだぞ。流れ矢ごときで死んだら、私が許さないからな」
「うん・・・・・・」
夷空のさりげない気遣いに上手く応えることが出来ず、あざみは胸を押さえた。
(わたしが急にいなくなったら夷空は困るんだよ、姉さま―――それでも行くの?)
高虎に叩かれて身体ごとつんのめったあざみの様子がおかしくて、夷空の横で忍び笑いを漏らしている姉は、答えをくれそうにない。そう言えば―――あざみにとって、自分がどうするべきかの答えは、いつだって成り行きがもたらしてきた。
(でも―――わたし、今は違うよ)
ねえ、夷空、聞いて。実は―――声を上げかけたあざみだったが、さっきまで高虎たちとおどけていた夷空の背中が急に引き締まったのを感じて、再び口をつぐんでしまった。

「よくお越し下されました。この時期ですから、お互いわが身には気をつけましょう」
隊商たちを仕切るのは播磨屋と言う若主人だった。年齢は四十前後と言うところ、温和そうな雰囲気の男だったが、鬢(びん)の辺りに昔つけられたと思しき、一撃の刀傷が目立つ。野伏せりにやられた傷――かつての京都路は、関所と称した恐喝まがいが多く出没したため、いちいちまともに話を通していたのでは、埒が明かなかったそうだ。
播磨屋はこうした経験には慣れた一行らしく、素性も定かではない新しい護衛を迎えるにしても、格別気張るでもなく、かと言って迷惑そうな顔もしなかった。
「彼らにも一度、挨拶をしよう」
黒衣をまとった宣教師たちに夷空は、目線を移した。
「あざみ、どうかしたか? お前、さっきから変だぞ」
なんでもないの一言が返せず、あざみは夷空を見返した。それからあわてて目を背ける。
「・・・・・大丈夫だよ」
「さっきから青い顔してんな。なんか悪いもんでも食ったんじゃねえだろうな」
「うん・・・・・まあ、そんな感じ」
答えに窮したあざみに、夷空は高虎と不思議そうに顔を見合わせた。
「やつらとはイスパニアの言葉で話をする。その方が、不信感を持たれずに済むと思う。お前と高虎は、とにかく私の傍にいてくれ。あとで誤解を生まないように、二人ともきちんと紹介しておかないとな」
三人の宣教師たちの中から、一人が夷空たちの姿を認めて歩いてくる。蓬髪の若いイスパニア人―――進んでこちらにやってくるのは、あざみがさっき落葉松の丘の蔭から見た、あの熱心そうな伝道師だった。さっきまで落ち着いていた夷空に、どこか違和感めいたものを感じだしたのは、その男が三人の目の前に立ったときだった。
「日本(ジパング)の侍、それに鉄砲、扱えるお方までお供願えるとは―――道中よろしくお願いします。皆さんにも、神の祝福、あらんことを」
男は早口の滑らかな言葉づかいで、そんな内容のことを口にした。
「おい、夷空、こいつ今なんて話した?」
呑み込めないものを口に入れたと言う顔で、高虎は眉をひそめた。巻き舌の拙い日本語なのだが、各地の方言のニュアンスも織り交ざってか、単語・文節の発音や抑揚に問題があったのだ。
もっと少ない言葉でゆっくりと伝えれば、ある程度細かい意志疎通が可能な語学力ではありそうだが。それでも少年のような好奇心に輝く二つの青い瞳と、闊達な雰囲気がそれを補って余りあった。
「この男は、私たちを歓迎すると言ったんだ。何も問題はない」
と、夷空はあざみたちを一瞥したあと、
「・・・・いいか、私たちは堺の町木戸の前まで、あんたらと同行する。それまであんたらの護衛はここにいる私たちですべて引き受ける。気になることがあったら、今のうちに言ってくれ」
後半はイスパニア語で、夷空は言った。すると宣教師は、大袈裟な口調で何か感動を表す言葉を口にすると、夷空に向かって懐の大きな意外にごつくて毛深いその手を差し出してきた。あざみは目ざとく見ていたのだが、異変はちょうどその、すぐ後に起きた。
夷空が握手に応じる仕草をしかけて、乱暴に相手の手を振り払った。対人交渉に慣れた彼女にしては珍しいことだった。宣教師はあっけに取られて、拒否された握手の仕草を停めたまま苦笑をかみ殺している。夷空の見上げた瞳にぎらぎらした憎悪の色が宿っているのを、はっきりとあざみは見た。突然の彼女の剣幕に、高虎もあっけに取られて、なりゆきを見守っていた。
夷空の激情は、すぐに収まった。とは言え、ただの小康状態なのかも知れない。今は個人的な感情に気を取られて、我を失っている場合ではないと思い直したのだろう。夷空は宣教師に向かって―――あざみにもそれと判るほど、ひどく簡素な言葉づかいで、
「こっちがあざみ、こっちが藤堂高虎殿だ」
あれ? 夷空はどうして自分の名前を名乗らないのだろう―――あざみの疑問は、次の一瞬で、完全に氷解した。男は拙い和語で、自分の名前を自己紹介したのだ。
「リアズ・ディアスです。これから皆さん、お世話なります」

旅路の別れ

リアズ・ディアス―――かつて、夷空の夫? 恋人? 確実なのは、これから堺まで同道するこの男が、エリオの父親だと言うことだ。あの子―――エリオは、夷空とこのリアズと言う宣教師の間に生まれたひとり息子―――夷空はそれ以上は、リアズについて話もしなかったし、彼の横を歩いても一瞥するそぶり一つ、見せなかった。
あざみが初めて見る、感情的な夷空―――いつのときも彼女は、なりゆきや空気に呑まれずに、行動を決めてきた。深い因縁のある人間と同道することに耐えがたいとしても、全員で決めた活路を投げうったりしないのは、夷空の理性の部分だったろう。しかし、理屈では度し難い生理の側面も、否定してはいけない。それもまた、一つの事実なのだ。
夷空が感情を爆発させてすべてを台無しにしないように、全精力を傾けていることは、あざみにも分かった。左肩にエキドナを担ぎ、前を行く淡々とした姿に、さっきとは違う緊張が宿っていることが、リアズにも伝わっているのだろうか。
色々な意味で足取りの重い堺路が、穏やかな午後の静寂の中、始まった。伏見口を発って青々とした田園を抜けると、動くものの姿は彼らの隊商の列くらいになった。本能寺の変があってから悪化した治安を象徴するのか、裏腹と言うべきか、うららかな初夏の気配にすれ違う人すらいない無為の行軍だった。
この中でもっとも戦場勘に長けた高虎ですら、堪えていた生あくびを時々しかけて噛み殺したりしているような―――夷空はむっつりと無表情を保ち、白瀬は別の緊張感を抱えて、殊更何食わぬ顔を装っている。さっきから虎夜太も無駄な軽口はやめ、誰もが口を開くきっかけを失っている―――一見、完璧に見える平穏は、次に来る嵐の足音を克明に捉えていた。
しかし、それにしても―――
誰が見ていなくても、リアズ・ディアスはいつも口元をかすかに綻ばせている。夷空に倣って、あざみも極力顔を合わせたりはしないようにしていたのだが、先に手を貸さなければいけない場面があって、無用に強くその手を握られてリアズに感謝された。
きらきらと潤んだリアズの情熱的な目線に―――これでもさすがに女であるあざみは、夷空に悪いと思いつつも、どぎまぎしてしまった。
リアズと言う男、元は海賊かなにかだったのだろうか――握られた大きな手も、髭の中からかすかにのぞく喉元にも、大小無数の傷が見られる。例えば髪で顔を隠しているが、目立つ場所にも、古傷があるかも知れない。この点は、夷空と同じなのだ。
(二人の間に、なにがあったんだろう―――?)
夷空は息子をリアズに会わせてやりたいと言っていたが、見る限り今の二人に男と女の情の繋がりはなさそうだ―――この快活な宣教師が彼女に向って何か罪深い行為をしたのは、間違いないことなのだろう。今朝がたの夷空の悪夢も、もしかしたらこの不吉な予兆を彼女の身体に告げていたせいなのかも知れないと、あざみは思った。

洞ヶ峠に差し掛かろうとする頃―――山あいの沢の畔で、播磨屋が休憩の昼弁当を遣うことを告げてきた。そこはこの隊列が堺に向かうとき、一時休息をとる場所なのだろう。夷空たちだけならいざ知らず、重い荷駄を曳いた馬たちも、しばしの休息と水を欲しがっているようだ。峠の山道から、沢のせせらぎに従って自然道を降りたところが、草が刈り取られた大きな水場になっていた。
播磨屋の隊列は水を飲ませるために岸辺に馬をつなぎ、思い思いに弁当を開け始めた。夷空たちにも、麦飯に塩漬けの刻み菜をまぶした御握りや瓜の古漬け、水筒に入れた濁り酒などが振舞われる。食欲のない夷空や白瀬に代わって、それらをすべて引き受けたのは高虎だった。
「―――あざみ」
小さな声で、白瀬が合図を送る。離脱しようと言うのだ―――あざみはいちいち指摘しなかったが、昼に京都を発ってここまで来る間にも、姉は幾度も仲間からの連絡らしきものを受け取っていた。抜け道に紛れて姿を晦ますなら、今が頃合なのだ。
確かに―――今を逃せば、家康は三河に引っ込んでしまうだろう。そうなれば二度と、家康の身柄を確保するチャンスは巡ってはこまい。でもあざみはずっと迷っていたが――もしかしたら、人生で二度と巡ってこないこの機会を逃して一生後悔するのではないか、と言う危惧も、やはり心のどこかにあった。
皆の様子をうかがいつつ、姉が抜け道へ誘導する。虎夜太はすでに、京へ馳せ戻る準備に先立っているようだ。姉ですら、ここを中途にして去ることの後ろめたさを認識しているのだ。だったらなぜ―――あざみは意を決してひとり肯いた。小さな胸を押さえて、息を吸い込む―――迷っている暇はない。今、言うんだ。
(行かない―――わたし、行かないよ、ごめん、姉さま・・・・・)
「あざみ」
そのとき、夷空の声が、あざみのすぐ近くの背中の方で響いた。
「どうかしたのか?」
あざみは、はっとして夷空の顔を見上げる。なぜか気おくれがして―――目を背ける。心がひるむ。そそくさと去る姉の姿も視界に入らなくなって、あざみはうろたえた。一瞬、自分が何を決断して誰にそれを話したらいいのか――そんなことすら、分からなくなる。
そうだ、夷空にもいちから事情を説明しなくちゃ―――身勝手な姉の決定を話して、わたしは行かないって言うんだ。姉さまとは事情が違う―――わたしは夷空に直接、雇われたんだ。あざみは夷空の方を振り向くと、その目をまっすぐ見て口を開いた。
「あのさ―――夷空、わたしね・・・・・」
「行くんだろ」
「え・・・・・?」
突然、夷空は言った。大きな温かい手が、あざみの頬に触れた。
「話は白瀬から聞いた。お前の相手は、この国で一、二を争う大大名だ。これを逃したらもう二度と自分の手の中に捕まえることは出来ないぞ。船を出す潮を間違える海賊は、この世で一番愚かな船乗りだ。私はここまでで十分だ―――迷うな、行け」
「ありがとう・・・・・」
なぜそう言って、夷空から離れることを決断したのか――あざみにも判らない。本当は今でもそうしたくないのに―――ありがとう、その言葉を言うだけで、自然と涙があふれた。夷空の笑顔が、ただ、嬉しかった。
そっ、と髪を撫でられ―――瞳にあふれた涙を火薬くさい指で拭われるだけで。彼女がすべてを察して、その上で自分を許してくれること―――ただそれだけが、あざみは無性に嬉しかった。
「死ぬなよ」
「―――夷空もね」
夷空は苦笑した。あざみに、笑顔と憎まれ口が戻ってきたので安心したと言う顔だ。
「私は堺にいる。終わって行くところがなかったらいつでも、戻って来い」
「うん―――」
すでに言葉は要らなかった。あざみは夷空の胸に顔を埋めると、しばし静かに泣いた。夏の日の夕立のようにぼんやりと、温かい涙だ―――いつだろう、悲しくない、こんな涙を最後にこぼしたのは。父も兄も、母も姉も、教えてはくれなかった―――そうだ、あざみを最初に拾った、火術師のお師匠たちが教えてくれたのだ。
信長に伊賀が滅ぼされたとき、名張峠の戦闘で彼らは残らず討ち死にした。忍びとして信長に仇なして死ぬのが皆、本望だと言っていた。しかし―――あざみだけはまだ、将来があると言って逃がしてくれた。迷うな、行け、お前は生きるんだ―――そう言ってくれたあのとき、あざみの瞳に今と同じ、温かい涙が流れたのだ。
あざみが身体を離すと、夷空はもう一度、その髪をいとおしそうにかき上げ、一瞬だけ歪めた顔を拭うような仕草をした。彼女は強い女だ―――少しでもあざみに気兼ねさせるそんな仕草をしてしまったことが、自分でも情けなかったのだろう。照れ隠しに鼻を鳴らすと、腰に下げた袋から銭の詰まったものを少し乱暴に、投げて寄越した。
「これまでの分け前だ―――お前の好きに使え」
「いいよ。だって、お金が必要な仕事じゃない」
「そんな問題じゃないだろ」
夷空は、それを無理やり押し付けた。
「いいから、持って行け」
「―――うん」
あざみは、黙ってそれを受け取って前へ踏み出すしかなかった。夷空を置いて、一歩ずつ、ここを遠ざかる。すぐに戻ってくる―――そんなことが出来るはずはない。お互い、死ぬかも知れないのだ。もうこれっきり――夷空の気持ちに応える言葉を何か探したが、あざみの頭の中には何も浮かばなかった。
「なあ、あざみ」
やがて彼女の気持ちを察してか、夷空の方から言葉にした。
「私たち海賊の間では―――分け前をもらって別れる時、こう言うんだ。また稼がせてもらう、と。私たちの縁のつなぎ目も切れ目も常に金だ。海賊たちにとっては、どんな綺麗な友情の言葉よりも―――それが一番信用出来る約束なんだ」
「そうなんだ」
「ああ、分かりやすいだろ」
「それっぽいね」
破顔するとあざみは、その言葉を口に含んだ。
「―――また」
稼がせてもらう―――か。
夷空らしいと思った。こんなときには、一番相応しいのかも知れなかった。
「やってもいいけどさ―――今度はもっと、楽でお金になる仕事がいいよ」
「まったくだ」
振り向くと、あざみは袋を持ち上げて見せ、努めて笑顔を作ると明るく応えた。
「また稼がせて夷空―――私、また夷空と働くよ」
「分かった」
ふっ、と夷空の顔にも笑みが広がった。
「また、働こう」
「うん―――」
それは今まであざみが見た中でも、夷空の一番、素の表情に思えた。
「またね、夷空」
「・・・・・じゃあな」
袋はどっしりとして重かった。たぶん、夷空の今の有り金全部なのだ―――あざみはそれを胸に抱きしめて、歩くことにした。時折、振り向くと夷空は、手だけを振って見送っている。あざみが振り返らなくても、彼女はずっとそうしていたに違いない。
姉に会う前に、あざみは何とか嗚咽を止めたかった。
「別れは、済ませた?」
野道の坂の途上にある楠の陰で、白瀬と虎夜太が待っていた。あざみは無言で肯いた。
「しょうがないね」
姉は何もかも分かったような顔をして、あざみに肯いて見せた。
「夷空さんと高虎様には、本当に申し訳ないことをした―――でもきちんと事情を話して、最後は納得してもらったことだから。・・・・・わたしたちはわたしたちで、旅の目的を果たさないといけないんだし」
「うん・・・・・」
彼女には、今のあざみの気持は永久に解らないだろう。あざみが姉の、すべてを犠牲にしてまで、家康を追おうとする、その執念の深さを知らないように―――それでも依然、家康とのことはあざみの問題でもあった。自分もまた、逃げるわけにはいかない。
「行こ。今ならすぐに引き返して、現地の人たちと合流できるはずだから」
「―――急ごう」
虎夜太に向かって、あざみは肯いた。
夷空。
(絶対、戻ってくるよ)
約束は必ず。あざみは腰に夷空がくれた銭の袋を提げ直すと、山道の一歩一歩を噛みしめるようにして、歩きだした。

あざみの危惧

「どうだ、もう―――話はついたか」
いつのまにか、夷空の背後に高虎が出てきていた。
「まあな。それほど面倒なことはない。もともとお互いの都合が合ったから、一緒にいただけの話だ。私と、あんたと似たようなものじゃないか」
「そうかな」
高虎は訝しげに首をかしげた。
「ここまで来れば、あざみたちがいなくても大丈夫だろう。あんたは最後まで頼むぞ」
「それはおれが言うことだ。堺に戻ったらおれも、なるべく早く帰陣しなきゃならねえしな。で、夷空、これが終わったら、お前はどうするつもりなんだ?」
ふーっと大きくため息をつくと、夷空は、肩に流れた髪を指で梳いた。
「エリオを父親に会わせたら、この港を離れるだけさ―――戦乱のほとぼりが冷めるまで。後は、以前と変わらない。堺に戻ってくるか、流れた港へそのまま留まるか。どっちにしろ、私は海で、私のやり方で稼ぐだけだ―――生きるだけ生きて、稼げるだけ、稼ぐ。それが出来なくなったら」
「出来なくなったら?」
「―――そうなる前に何か考えるさ。私は息子と生きることしか考えてない。あんただって戦場稼ぎして、一国一城の主になったとして、それからどうするか考えたこともないだろ」
高虎の顔に夷空と同じ、かすかな笑みがこぼれた。
「まあな―――そんなもんだ。特におれは、今出来ることしか考えない男だ」
長い道のりを徒労と感じたら、もしかしたら再び、歩きだす気力を取り戻すことが出来なくなってしまうかもしれないから―――高虎の中にも、同じ恐怖があるのだと感じると少し、夷空も気が楽になるように思える。
「戻ろう。あまり長く離れていると、置いていかれる」
「播磨屋には、おれから説明しといてやる。心配しないでお前は、後から来い」
高虎なりの気遣いだろう。ふと、夷空が顔を上げると彼はすでにいなかった。
妙に背中が軽くなったように感じたのは、胸にぽっかりと穴が開いたからだ。
あざみは、あざみなりの道を行けばいい。それでも、繋がっていたいと願う―――別れ際、彼女なりの気遣いが、嬉しかった。
(―――がんばれよ)
夷空は息をつくと、さきに高虎の消えた道を川辺に急いだ。
沢の方では休憩が終わったらしく、馬を岸から引き上げ、荷担ぎを始めているのが見える。パシッ―――湿った小枝を踏みしめる音が、背後から響いたのはそのときだった。あざみのはずはない―――そんな時間はないはずだ。
「こんなところで何かしてたのか、イスラ」
リアズだ。どうしてこんなところに。興味深げに尋ねたリアズを無視するように、夷空は顔を背けた。大仰な仕草でリアズは辺りを見回すと、今気づいたかのように、
「三人いなくなったみたいだ―――子供が二人、若い娘が一人。播磨屋の警備には問題はないみたいだが―――薄情だな、イスラ。危険だと思わないのか?」
「そのことについて、お前と今、話す気はない」
「別の話なら?」
「今、お前の口から聞きたい話は特にない」
早口のイスパニア語で、夷空は吐き捨てた。
「無事に堺に着きたいなら、黙って守られてろ」
リアズは肩をすくめた。頬には笑顔さえ浮かべている―――夷空の不穏な気配に気づいていないかのように。
「ようやく、話せたな。倭人の言葉は不便だ。今の自分の気持ちを話すなら、やっぱり慣れた祖国の言葉がいいな」
「私のじゃない。お前の国の言葉だ」
夷空は腹立たしげに息を吐いた。
「―――お前に合わせて話す気はないぞ。今のお前の気持ちを聞く気もな。口を開くなと言うために、お前の言葉で話してるだけだ。リアズ、お前がこの国で今、何をしているのか私には興味はないし、聞く気もない。だが、堺に着いたら顔を貸してもらおう」
「私の子なんだな?」
ああ。夷空は苦痛に満ちた眉根を寄せて、肯いた。
「いいだろう、付き合おう。・・・・・・・だが、私はその子が息子か娘かも知らない―――それでも父親の私に、その子は会いたがるものなのかな?」
「お前が犯した罪の一つだ。是が非でも会ってもらう」
噛みつくように言ってから、夷空は自分の過ちに気づいた。会わせるのは、この男に罪を認めさせるため―――エリオは、何も知らないのだ。
「冗談だよ、そんなに恐い顔をするな。ただ、君に会えて嬉しかっただけさ」
「生きている私にか?」
リアズは口元に笑みを溜めると、大げさな身振りで十字を切った。いかにも芝居がかった態度が癇に障ったが―――ここで相手のペースに乗るのも馬鹿馬鹿しいと彼女は思った。
「こんなときにお前が現れた。偶然だとは私は思ってない。何を企んでる?」
「再会は神の思し召し―――今のは、感謝の祈りだ」
心底うんざりした顔で、夷空はリアズを見つめてやった。
「子供には会ってやるさ。その代わり、君は、私と来てもらう」
「断る。その条件なら破談だ」
「私の息子にはなんて説明する?」
「エリオには父親は死んでいたとでも話しておく」
「死んだか、まあそれもいいだろう」
リアズは肩をそびやかし、
「君こそ、私なしで生きて息子のもとに戻れると思っているのか?」
「この国で何度、今のと同じような台詞を聞いたかな」
嘲笑を織り交ぜて夷空は唾を吐き捨て、
「私の知る限り、今のはこれまで聞かされた中で一番ちんけだ」
「勘違いするなよ、イスラ、私のは―――脅迫じゃない。神、デウスがお決めになった純然たる意志の選択だ。君は二つのうち一つを必ず選ばなくてはならない―――必然的にね。私と来るか、今ここで無駄に死ぬかだ」
「言ってろ」
相手にせず、夷空が踵を返した瞬間だった。銃声と悲鳴―――だが、夷空ほどのものがそれだけでこれほど驚かない。この音は、聞きなれた南蛮筒の音だ。飛び交う野卑な言葉は、イスパニアのスラング―――襲ってきた者たちの素性が、たちどころに彼女には分かったからだ。
「―――なにをした?」
失笑し、リアズは肩をすくめるだけだった―――つまりは、これが必然なのだ、とでも言いたげな顔で。口径の大きな南蛮筒の銃声は、威嚇には十分だ。命中精度と操作性は日本のそれに劣るが、火薬を大きくこめられる分、威力も抜群にある。質問を次ぐ間もなく、エキドナを担ぐと夷空は息せき切って沢へ降りていった。
(まさか、こいつら―――)
逃げ惑うものたちの悲鳴は、その間もやまなかった。ある者は祈りの言葉を叫び、川へ転げ落ちても、命乞いすら許されなかった。たまぎる悲鳴がほとばしり、倭人たちの血煙が河原を汚し続けている。
川原に降りた夷空は、足を止めて絶句した。彼女が最初に見たのは頭目・播磨屋の遺体だった。苦痛に歯噛みしたまま、驚愕の表情の播磨屋の生首が、髪振り乱して黒い砂地にまみれている。残虐に痛めつけられた胴体は、流れる川の水を薄紅く染めて、彼方に横たわっていた。
「無事かっ、夷空」
高虎は無事だった。主が討たれて、パニック状態の護衛隊を立て直している最中だった。旗色はかなり悪い。不意を突かれた軍勢の意気を立て直すのは、よほどの優れた大将でも難しい。自身も徒歩槍で奮戦している高虎にその任を負わせるのは酷だろう。
「何が起きた―――」
ふいに割り込んできた南蛮服の男を突き伏せ、高虎は言った。
「そいつはおれの台詞だ―――どうなってる? こいつら南蛮人じゃねえか」
(まさか・・・・・)
夷空は逃げ惑う人たちを見渡したが、そこにイスパニア人の宣教師たちの姿はなかった。二十名前後とみられる襲撃犯は、全員がイスパニアの兵だ―――ブーツにバンダナ、腰にダガーを装備し、バグパイプに似た黒塗りの長い十八ミリライフルで武装している。
「よう、しばらくだな―――会いたかったぜ、イスラ」
降り注いできたその声に、夷空が思わず身震いしたのを高虎は見た。その言葉は、海賊語なのだが、高虎がその言葉を介したのなら―――そこに、イスパニア人とは微妙に違う訛りが含まれているのが分かったはずだ。
夷空にとってはそれは―――悪夢を呼び起こす、驚愕の声音だった。
「貴様―――なぜこんなところに・・・・・?」
背丈はガルグイユと同じほどか、はしこそうな体型も、装束もよく似ている―――スキンヘッドの小男が野太いおのれの首筋を押さえ、夷空の前に立ちはだかっている。
「で? 色男とは、もう話はつけたのか?」

(なんだ――――)
胸騒ぎが―――収まらない。
口の中が乾き切って、緊張で甘酸っぱいものがこみ上げてくる。
気のせいのはずはない―――独りで生きるようになってから、あざみのそうした感覚は、ほとんど絶対的だと言えるくらい、鋭く研ぎ澄まされている。こんな感じがするときは、必ず何か恐ろしいことがあるときなのだ。
ともすればえづきそうになるほどの嫌悪感に耐え切れず―――あざみは思い切って、それを前を走る姉に伝えようと思った。夷空への心残りや感傷がそうさせるのだ、そう言われれば反論は出来ないし、実際にそうかも知れない。だが、もしそうだとしても、あざみの命すら救ってきたこの警告を無視し続けていて、後で取り返しのつかないことになるなら―――我慢が出来なかった。
「姉さま、お願い、ちょっと待って―――」
あざみの声に、白瀬は一瞥したがすぐには足を止めなかった。あざみが歩みを止めて、進む気配を見せなかったので、それで腹立たしげに踵を返して来たのだ。
「ねえ、あざみ、分かってるよね? もたもたしてる暇は、ないの。急がないと―――」
彼方で銃声がこだましたのは、その一瞬後だった。さすがに姉と虎夜太の足も、それで反射的に身を固くして息を呑んだ。
「何が起きたの?」
「近くない。たぶん、平気だ」
残響音から、感覚的な距離を確かめたのだろう―――虎夜太は危惧を打ち消した。
「行きましょう。時間は無駄に出来ない―――先は長いんだから」
「夷空たちに何かあったのかも―――」
あざみがそれを口に出すと、二人の表情が固まった。
「だとしても、今のわたしたちにはどうにも出来ないの、あざみ」
「姉御には、高虎の旦那がついてるんだ。おいらたちが戻っても、足手まといになるだけさ」
あざみの気持ちを変えようと、とっさに二人は言い募ったが、山野に響く銃声は、不気味な存在感をもって彼らの足を留め続けた。
もともと耳にいい彼ら忍びには断続的に響く銃声の他にも、人の争う気配や男女の悲鳴が、かすかに感じ取れてきていたのだ。人里離れたこの山中で非常事態が起きていることは、もはや彼らの共通した見解になりつつあった。
「行くよ―――もう、迷ったりしないで。夷空さんたちのことは忘れなさい」
もう一度、白瀬は言った―――今度は有無を言わさない断固とした口調だった。
「わたし、戻る―――夷空のところへ」
「駄目よ」
あざみは首を横に振った。
「決めたの―――わたし、夷空を見捨てたりしない」
「いい加減にしなさい!」
白瀬はついに、声を荒げた。
「あざみ、あなたの勝手な都合で戻らせるわけにはいかないのよ。今の自分の気持ちだけで動くのはやめて―――夷空さんも分かっていて、あなたを送り出してくれたんだから。彼女たちを助けるよりわたしたちには、すべきことがあるはずでしょう」
「勝手なのは姉さまの方でしょ・・・・・わたし、復讐なんか望んでなかった。こんなこと、したくない。わたし―――わたしたちの家族がどうしてばらばらにされたかなんて知りたくなかった!」
「あざみ!」
我を忘れた白瀬の平手を、あざみはあえて避けずに受け止めた。頬に焼けるような痛みが走ったが―――こんなことで退く気になれないくらい、これが本当の気持ちに思えた。涙が瞳にあふれて声が詰まったが―――あざみは声を張り上げて一歩も引かなかった。
「わたし、夷空を助けに戻る―――姉さまがどう思おうと関係ないよ。わたしは、わたしを信じてくれた人のことを一番に考えたいの。復讐なんかより何より、今のわたしにはそれが大事なんだ」
「―――本気なの、あざみ」
「本気だよ」
躊躇せずに、あざみは肯いてから逡巡が心をよぎったが、
「生きてまた姉さまと―――会えてわたし、本当に嬉しかった。姉さまがずっと、わたしのこと探してくれてたのもすごく嬉しかったし・・・・・でも、ごめんなさい。もう、わたしたち、会えなくなるかも知れないけど―――」
「そう・・・・・分かったわ。そんなに言うならあなたの勝手にしたらいいじゃない」
長い沈黙の後、ぼそりとつぶやくように白瀬は言った。
「でも、わたしたち、これで本当に生き別れね。わたしもこれからあなたのことは、死んだと思う。そうするから―――あなたもわたしが生きていたって言うことは、今から忘れなさい。それでいい?」
姉さま―――あざみは何か言い返そうとしたが、白瀬は答えを拒否して、それ以上語らせなかった。
「早く居なくなって―――あとはわたしと、虎夜太だけでやるから。これで、わたしたちはもう二度と会うことはないでしょうね」
「本当にごめんなさい・・・・・」
白瀬はあざみを振り払うように、うるさげに手を振るだけだった。踵を返して去ったその背中を、今のあざみは振り返れない。事実、そんな暇もなかった。
(さよなら―――姉さま)
あざみは駆けだした。
来た道を一歩ずつ、引き返すごとに胃の腑を煎りつけるような危機感は、徐々に高まっていく。耳朶に響くのは―――昨夜、古傷を腫れ上がらせた夷空の熱っぽいうなされ声。
憎しみながらそれでも、追い求めていたリアズ・ディアスが、エリオの父親が、ついに彼女の前に現れたのだ。二人の間には因縁がある――――災厄の前触れと言ってもいい、偶然の再会。予期しない出来事―――だが、しかし。
夷空がそうだとしても、リアズにとってはそうでないとしたら? 突然の襲撃に南蛮筒の撃発音、もしかすると、信長を匿っていたのは――――直感が一つの連想として、像を結んだとき、引き裂くような悲鳴があざみの思考と足を停めさせた。
(なに?)
悲鳴は背後から聞こえてきた―――奇妙だ。そう思う間もなく、湿った土を踏み荒らす蹄の音が恐ろしい速さで接近する気配がし、反射的にあざみは脇道の藪に身体を躍らせた。
――――斬られた。
あざみの身体は一瞬、致命傷を覚悟した。背中で知覚したのは確かに―――幾度も戦場で聞きなれた、太刀が風切るあの不気味な音だ。もし今、あざみの反応に寸刻でも遅れがあったのなら。あざみの身体は、中空で両断されていただろう。凄絶な太刀の冴え―――逃げ遅れた裾が剃刀を引いたように、ほつれずに切れた。
そのほんの一刹那に、あざみは飛び違った相手の顔を確かめた。確かに見た―――あざみは驚愕の余り、全身が硬直した。
男の乗った馬は黒鹿毛―――よく養って鍛えさせた奥州馬だ。千金の値でも購えるかどうか分からない大大名のいくさ道具。金緞子の肩衣に、朱塗り金箔張りで誂えたど派手な太刀拵えの似合うその男に、これほど相応な持ち物はなかった。左腕が不自由なその男は、口で手綱を扱いつつ、馬上、すれ違いざまの浴びせ斬りを仕掛けてきたのだ。よほど戦場駆け引きに慣れた騎馬武者でも、容易には出来ない芸当だ―――極致と言っていい。
しかも、あざみを斬り損ない、空振りした後も、右に手綱を持ちかえて馬をよく御して去った。立ち止まりもしないのだ。かつていかなる戦場でも、この男の馬をとめたものはいなかった―――桶狭間、近江姉川、長篠、そして石山本願寺。
(信長だ―――)
間違いない。あざみはこの目で見た。まさか再び、この男に相まみえるなんて―――戦国の覇者にして、不死身の第六天魔王と言われた男はやはり、本能寺の業火をくぐりぬけていたのか。
「―――夷空!」
引きとめる間もなく、信長は姿を消した。時間にして数秒、太刀風が触れ合うまで近づいたのは、ほんの一瞬だ。無論、あの魔王を止める手段を講じたところで、あざみに何が出来たわけでもないのだが―――少女の口を突いて出たのは、あの男の左腕を撃ち抜いた女の名前だった。あの残虐な男が、夷空を赦すはずがない。足がすくんであざみは、立ち上がれもしない自分が憎らしかった。

それでもいい

あざみと同じく、それはまさに―――一瞬の生死の瀬戸際だった。白瀬の場合、信長が太刀を振るう右側に道を避けることを反射的に選んでしまったことが、決定的な明暗を分けた。
「姉さま・・・・・」
茫然とへたりこむあざみの前に、虎夜太が血みどろの白瀬の亡骸を運んで来たのはそれからしばらくのことだった。
「あっと言う間の出来事だったんだ・・・・・」
「――――そうだ、まさか、さっきの悲鳴・・・・・」
そう言ったきりはっとしたあざみは、絶句してしまって―――泣くことも忘れた。
姉の死に顔はそこに、何の表情も浮かべてはいなかった。
歩き巫女の白い装束が、墨を浴びせたようにどす黒く濡れている。すでに遺骸は冷え始めていて、虎夜太が閉じたのだろう、その瞳の縁に滲んだ、涙の痕が乾きかけていた。
「おれ、動けなくて、どうすることも、出来なかった―――気がついたらもう、そこに黒い馬に乗った男が迫ってきて・・・・・」
(―――うそ・・・・・)
まさにその最期の一瞬、肩から一撃で断ち割られたその胸にわだかまっていたのは、無理やり生き別れた妹への憤りの感情だったのか、それとも―――かすかな後悔が、決意に影を差していたのはあざみも、同じだ。姉にもう、真意を聞くことは出来ない。
わたしたち、これで本当に生き別れね―――姉が突きつけた決断が、今すぐにこんな重いものになるなんて。
「やだよ・・・・・これでもう、会えないなんて・・・・・」
嗚咽を堪えて、あざみはただかぶりを振っていた。そんなはずない。受け入れられない。
だって生きてさえいれば、どんなに離れていたって―――つい昨夜、偶然の糸が交わったように、まだつながる可能性があった。どこかでそう希望を繋いで、別れたつもりだったのに。予期せぬ横槍によっていきなりそれが断たれた。なぜ、答えを出した瞬間、運命は突然、退路を断てと迫ってくるのだろう?
「あざみ――――これ、受け取ってくれよ。お姐の遺髪だ」
血で乾いた遺髪は、まるで別人のもののようだ。実感など湧くはずもない。夜太が差し出してきたそれを、あざみは放心状態のまま受け取るしかなかった。
「手伝ってくれ。これから二人で、お姐を埋めよう―――これからどうしていいかわかんないけど、とにかく、このままにはしとけないだろ」
「―――出来ない、今すぐには」
息を吸うと、意を決してあざみは言った。
「どうしてだよ。お前の実の姉ちゃんなんだろ」
「わたし、夷空のところへ行かなきゃ・・・・・あの男が来たの。行かなきゃ―――一刻も早く」
「ふざけんなっ」
あざみは虎夜太に突き飛ばされたが、歯を食いしばって踏みとどまった。
「お前、正気かよ―――お姐はお前を見つけてお前と一緒に暮らすのを何より楽しみにしてたんだぞ。おいらなんか、おいらを生んだ親の顔も知らないみなしごなのに、そんなおいらをお姐は本当の弟みたいに、かわいがってくれたんだ。そのお姐を―――」
「―――許して。どうしてもわたし、行かないと、戻らないといけないの。ここへはすぐに・・・・すぐに夷空と、姉さまのところへ戻ってくるから」
「お前が行ったところで、なんになるんだよ―――おいらと同じいくさ場じゃガキなんて、ただの足手まといじゃないか。相手はあの信長なんだろ。いくら夷空の姉御や高虎の旦那だって―――とっくに殺されちまってら。お前も一緒に殺されるのがおちだよ!」
「それでもいい」
「ばかやろぉっ―――」
虎夜太の罵声があとを追ったが、再び駆けだした、あざみの足を止めることは出来なかった。窒息するほど駆けて―――もう、何もかもが手遅れかも知れない。それで自分も殺されるなら―――別にいい。後悔はなかった。
(わたしは夷空のところに戻るって決めたんだ―――せめて、目の前で夷空も失いたくない。ごめん、姉さま・・・・)

河原はすでに、あざみが予想した通りの風景に満ちていた。
辺りには引きちぎられた肉と衣服の切れはしを抱えながら、折り重なる遺骸が散乱し、人の脂で石砂利が黒く濡れ淀んでいる。川瀬を渡る血なまぐさい風は生暖かい臓物臭を運び、鼻孔を通って口内に溜まった。死臭は味になる―――口の中に沁みるほどの臭気に涙を溜めながらも、あざみは吐き気を堪えて、無言でおのれの足もとを見極めていく。
ここにいくつの死があろうと、今のあざみには嘆く間もなかった。
(・・・・夷空がいない。まだ、手おくれじゃないかも知れない)
「あざみか」
生きた者の声に、はっ、と死の世界から立ち戻った気がした。
そこに、高虎が居た。
「お前、白瀬たちと家康を追うつもりだったんだろ―――戻って来たのか」
あざみは目を見張った。
「高虎さん・・・・無事だったの?」
「まあな」
高虎はそっけなく答えた。具足の草摺りまで黒く凝り固まった血にまみれていたが、目立った傷は負ってはいないようだ。
「全滅だ。ふいを討たれてな。おれの不覚だった。後はみんな、殺(や)られちまったよ」
「夷空は?」
あざみの短い問いに、高虎は俯いた。どうしても答えなければならないのか? その目は、そうあざみに問い返しているように見える。
「連れていかれた。それから、どうなっちまったのかはおれにも分からねえ」
「・・・・・無事だったんだ―――」
あざみは言うと、大きく息をついた。まだ、殺されてはいない。ただそれだけのことだが、思わず身体から力が抜けたのだ。ふっ、と膝から折り崩れたあざみを高虎が抱きとめると、
「しっかりしろ。まだ無事だって決まったわけじゃないぞ」
「分かってるよ」
高虎の腕にすがりつき、あざみは自力で立ち上がった。
「で、お前らはどうなってるんだ。仕留めたのか、家康は」
「・・・・・信長に襲われた」
あざみは言うと、姉が殺された経緯を一部始終話した。
「見たんだな、あの男・・・・信長を確かに」
静かに、だが深く、あざみは首を縦に振ると、
「ここにも現れたはずだよ」
「まあな」
高虎は苦り切った顔で、肯いた。
「おれはお前と違って直接信長公を知ってるわけじゃねえから確証が持てねえんだが・・・・確かにそれらしい男は見たよ。黒鹿毛に、赤い肩衣の男だろう」
「左肘に傷を負ってた?」
「ああ、そう言えば・・・・・そんな感じだったが」
「あの左肘、夷空がやったんだ」
それを聞いてさすがに高虎は、顔から血の気が引いた。
「だが、夷空の話じゃ・・・・・あいつが自分の身柄を差し出せば、自由にしてやるって条件だと聞いたが」
別に殺されはしない。仕事をするだけだ。心配するな。
夷空はこう言って、リアズとともに去って行ったと高虎は言う。
「そんなに甘くないって。ここで命を救って何かさせたとして、そのあと信長が夷空を生かしておくわけないでしょ」
夷空とリアズとの会話はイスパニア語で行われたらしい。高虎の命が助かったところを見ても、なんらかの形で話はまとまったに違いないし、夷空が何か仕事をすることが条件だったのなら、それが果たされるまで、彼女の命は保証されていることにはなる。
「ともかく、あいつはおれらの身代になってリアズたちと去って行ったんだ。今、分かるのはそれだけだ」
「夷空が・・・・・」
仲間のため、息子のため、苦もなく我が身を犠牲にする決断を出してしまう。夷空らしいと言えば、夷空らしい。それでも、あれほどに憎悪を抱いていたリアズに降るしか、あざみたちを救う手段がなかったなんて。あえてそれを択んだ彼女の気持ちを思うと、あざみは素直に喜べはしなかった。
「虎夜太は生きてるんだろ? あいつも迎えに行かねえとな」
あざみはふと、顔を曇らせて、
「姉さまの遺骸もね・・・・・高虎さんは、これからどうする気なの?」
「そのことだ。信長公が生きてた、そんなとんでもねえことを知っておれがすんなり、元の鞘に戻っていくさに出ることは出来ねえだろ。正直、分からねえ。白瀬も夷空もいなくなっちまった今、後はお前に頼るしかねえしな」
「じゃあともかく、堺に戻ってそれから、考えるべきだと思う。宗易との約束もあるし、堺に戻れば、夷空の仲間がいるから善後策を相談しなくちゃ。高虎さんは夷空を助けるのを手伝ってくれるよね?」
「それが今のおれにとって、必要なことならな」
「生き残って、戦場に戻りたかったらね。どうする?」
こんなとき夷空なら、本来のあざみらしさが戻ったと言って、苦笑しただろう。高虎も同じように苦笑した。
「聞くなよ。お前の姉ちゃんの亡骸も、運ぶ手がいるんじゃないのか?」
あざみは微笑んだ。その笑みは再び力を取り戻そうとしていた。
「行こう」
もはやあざみは、振り返りもしなかった。

天正6月2日 第2章

以上、第2章です。本能寺の変の裏舞台、そして夷空とあざみの過去が徐々に明らかになってきたりしております。この後、また展開は、さらに複雑に(面白く、と思って頂ければ幸いですが)なってきます。最後までお読み頂いた方、本当にありがとうございます。ではまた、第3章でお会いいたしましょう。

天正6月2日 第2章

天正6月2日、続く第2章です。舞台は、本能寺、事変後の京都。多くの人たちの思惑を抱えたまま、天正6月2日は二転、三転していきます。と、言うわけで本能寺の変を舞台にした、歴史巨編(!?)続編です。前編からお読み頂いている方、タイトルでちょっと興味が出てきた方、出来れば最後まで、お楽しみ頂けたら幸いです。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-19

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  1. 藤堂高虎
  2. 虎の戸惑い
  3. 小さなすれ違い
  4. 何もかも胡散臭い
  5. 虎との出会い
  6. 偶然の再会
  7. 女海賊と槍大将
  8. 秀吉の器
  9. 白瀬の事情
  10. 意外な道連れ
  11. 旅路の別れ
  12. あざみの危惧
  13. それでもいい