泉の国のトレーネ 番外編

不思議な石の力によって異世界へと導かれた女子高生。
全ての始まりを担う事となる物語の前日譚。

前日譚 革野 凛

若い芽と淡い桜色の花弁が、まだ少し澄んだ冷たさを残す風にふかれ揺られている。
新たな巡りの始まりを告げる香りが風に運ばれて至る所に届けられる春、この国ではあらゆることの始まりがこの季節であることが常だった。
大人も子供も古巣を去り、新天地へ足を踏み入れるとそこには顔も名前も、なにも知らない状態から築かれる真っ新な関係性。
緊張した面持ちを見せながらも良縁に恵まれるよう胸を馳せる者がほとんどであるなか、未だに厚い布団を頭から被り春の麗らかな日差しの一切を遮断して外界との交わりを拒絶する娘が一人。

名を革野 凛という。
年齢にして16、この春から装い新たに高校生という地位を獲得し、中学よりも家からの通学距離が短くなった高校に通うことが決まっていた。
カレンダーには彼女のものではない筆跡で入学を許可される式典の日が記されている。
電波を受信して時間を自力で整える時計には記された日付と同じ数字が違わず表示されていた。
あと少し、数十分で準備を始めなければ間に合わない、という時間になっても外側から見えない小人達の手で力いっぱい押されているような重たい目を開く気にはなれなかった。

やがてトントンと軽い調子の音が一定間隔で聞こえてくる。
起きた様子がない娘を心配した母親だろう。階段を上ってくる音が耳に届いてやっと凛は少しだけ顔を布団の外へと出した。
ノック音が聞こえ少し間をおいて予想通りの人物が扉の隙間から顔を覗かせる。
娘の晴れ舞台に相応しくあろうと着飾った母は困ったようにため息を漏らしつつ、呆れだけは見せないように笑顔を浮かべて娘が未だこもっている布団の山に歩み寄った。

「行けそうにない?」

入学式を出るのを拒む高校生にかけるにしては甘すぎるくらい酷く優しい調子の声色。まるで幼子に語り掛けるようだったが彼女にとって凛はそれほどに愛を注ぐ対象であったのだ。
その愛が痛いほど心に届くからこそ、この日のためにわざわざクリーニングにまで出した正装に身を包んだ母を瞳に捉えた瞬間、駄々をこねてみようかという浅い考えは消えていった。

「…出るよ、さすがに…入学式くらいは…」
「そう、でも無理はしなくていいからね。試験に合格して入学を許可されただけであなたはもう立派な高校生だから、無理に頑張ろうとしなくていいの」
「無理なんて…してないし…」
「そっか…」

櫛を通していなくとも柔らかく滑らかな髪をひと撫でした母は立ち上がりもう一度凛に声をかける。

「あと30分で出発するからね」
「…わかった」

聞こえた返事を微笑みでかえした母が出ていくと部屋は再び一人きりの世界に戻る。
まだ躊躇いを残す心のままのっそりと起き上がった。

「…くだらな」

気分は最悪でも、時間は無情且つ平等に進んでいく。せめてもの抵抗を吐き出した顔は酷く青白かった。


ーーー


「早退します」

一言そう告げて荷物をまとめた鞄を手にし教室を去る生徒が一人。
入学式から少し日が経っているにも関わらず、他の生徒よりもまだ新品同様の状態を保っている制服に身を包んだ凛は、担任の呼び止める声も、学友の落とした声にも耳を貸さず迷いなく正門へと向かい始める。
やがて学校の名所の一つである桜の大樹を横切って門の外へ出ると、めげずに追いかけてきた担任も諦めて校舎へと踵を返していった。
その様子を振り返って確認することもなく自宅へ歩を進める。幾度となく繰り返しても諦める様子のない担任に嘲笑した彼女の足取りは朝よりも軽い。

出席日数を稼ぐためだけの登校なのはわかっているはずだ。
しかし、なぜこうも諦めず引き留めようと声をかけたり追いかけたりするのか、凛には担任の行動が一つも理解できない。
昨今よく取り上げられているようないじめによる不登校ではなく、本人の自主性の問題ゆえの不登校状態である凛に目をかける必要はない。いじめですら見て見ぬふりをする教師が多い中、担任の行動は凛にとって理解不能だった。
放っといてくれていてもさして問題はない。成績は下がるかもしれないが出席日数さえ管理していれば卒業できる程度の学力の高校だ。
地元で名を馳せる進学校でもない、名前を書けば誰でも入ることが出来るような学校に熱意ある教師がいるのは居心地悪かろうと同情すら覚える。

尚、ここまでは担任であればまだ自分の生徒、という大義名分があるのがまだわかる話。
しかしクラスメイトが同じような行動をとっているのはこれ以上に理解できなかった。

「革野さん、次移動教室だよ。一緒に行かない?」
「行かない」
「今日はだめかー」
「今日はじゃなくて、今日も。明日も明後日も変わらないからもう声かけないでくれる?」

それはまた別の日。
何度も心を諦めの方向へ傾けるために突っぱねた声色で素っ気なく返しても、梃子でも動かない頑固なクラスメイトへの効果の程は見られない。
名前を把握する気もないほど、関心と本日の意欲が消えうせてしまっている凛は今日のところはここで引き上げようと鞄を手にした。

「あ、待って!」

ところで人には一定数、心に酷く柔い部分を持つものがいる。そこに無遠慮に触れられると抑え込んでいる感情が本人も制御できないほどに暴走し手あたり次第目にうつるもの全てを傷つけて正気に戻るまで感情のコントロール権を一時的に失う。
凛はその一定数のうちに入る一人だった。関わりを絶つことで柔い部分に触れられる機会を極力減らす本人にとって数少ない努力もお節介というソロ演奏が身勝手に加わることによって不協和音を奏でる。

場所は変わり正門付近の桜の大樹、もう桜色の花弁は散り始め風に攫われて吹雪を起こしては大地を舞い踊っている。枝についている間は美しく景観を彩っていた春の妖精たちも地に落ちてしまえば人々に踏まれて泥にまみれ、やがて消えていく。
追いかけてくる足音も境界を越えてしまえばいつも通り、あきらめて踵を返す。

そう、思っていた。
けれど彼女は、凛の

柔くて脆い部分に触れる言葉を

「ねえ、革野さん!どうして」

落としてしまう。

「どうして人と関わらないようにしているの!?」


時が止まる、という体験をしたことがあるだろうか。
実際に止まっているわけではないにも関わらず音はやみ、目の前の光景は色をなくして静止し、肌に感じる温度もなにもかもがわからなくなってしまう。そんな現象を人は時が止まったようだ、と表現することがある。
それは本人が意図しないタイミングでの祝福に対する喜びやあるいは大切なものが壊れてしまった悲哀によって招かれるおおよそ説明が難しい感覚。
前者であればどれだけよかったか、今この時は圧倒的に後者だった。

「お前には関係ないだろ!!!」

喉奥から上ってくる熱情にのせて言葉を音として吐き出したのは反射。
久しく出していなかった声量は本人の予想を上回る狂暴さをはらんであたりに響き渡り、また新たな時の衝撃を生み出してしまう。
言い放たれた相手がどんな表情をしていたのか確認する間もなく凛は走り出す。地面に落ちてまだ時間が経っていない花弁が引き留めるように足元を舞うのには目もくれず今できる最大の早さを生み出して足を動かした。

乱暴に玄関の扉をあけて感情が昂るまま自室に戻る凛の視界には、突然の荒々しい帰宅に一切反応できなかった母は入っていない。
鞄を叩き落として綺麗にたたまれた布団に包まり、外の世界との交流を遮断しようとした彼女の視界に皮肉にも土足で踏み込んできたのは凛よりも10歳ほど年上の男女の写真。
木漏れ日の中で穏やかに微笑みあっている二人がおさめられたフォトフレームを掴んで振り上げた勢いのまま床に叩きつける。
割れた硝子の破片が散らばって写真にも無数の傷跡をつけた。

「どうしてこんな名前をつけたの…」

おおよそその名には相応しくない人生と先ほどまでの行動。
両の手で顔を覆い、足にガラスが喰い込むのも構わずその場に崩れ落ちる。

「父さん…母さん…」

幸せな時間を閉じ込めた写真で微笑む二人に零した嘆きは一生届かない。
生みと名付け親は彼女を一人残して今はもう、この世をとっくに去ってしまっていた。


ーーー


子供の心には純粋と残酷が同じ顔をして居座っている。
この世に生を受けて間もない頭に蓄積されているまだ少ない知恵と、その心にのっとって発せられる言葉は相手ののちの人生を大きく左右することもある。
けれど、子供の言ったことだからといって咎められることはあまりない。それが明確な悪意をもっていないのなら尚更。
それでも受け取る人によっては心の深い場所にあるのにとても柔らかい闇を作り出してしまうこともあるのだ。

凛が今の両親と血がつながっていないことを知ったのは、まだ二人の手に引かれて歩かなければどこかへ勝手に行ってしまうくらい幼い時だった。
両親がなぜそんな頃に教えたのか理由は聞かされていないが幼い凛には特に気になるところではなかった。
二人は凛に対してやりすぎなくらいの甘やかしをしていたし、溢れる愛を惜しみなく与えられていた日々の中で苦しみなど無縁だったことも一因だろう。
本当の親子以上の絆が築けていたにも関わらずささやかな亀裂が生じたのは幼心ゆえに生まれた、言った本人にとってはほんの些細な疑問。

『どうしてお母さんと顔が違うの?』

一度問われれば止まらない質問の責め苦。その気はなくとも積み重ねられる疑問の嵐は幼い心の平野を荒らして辺りを根こそぎ刈り取るまで去ってはくれない。
人には聞かれたくないと思う事の一つや二つはある。そうはいっても子供には無理な相談。

幼いながらに恐怖を味わった凛が咄嗟にとった行動は逃亡と断絶。真実を求める声から逃げ、仲間に引き入れようとする手を腕ごと絶つ。
それがたとえ孤独を生み出してしまっても慣れてしまえば楽なもの。
天敵から自分の身を護るために威嚇する小動物のように敵意を全面に押し出していれば大抵の人間は寄り付かなくなる。普段は恐怖を忘れて心穏やかに過ごせる。
使命感をもっているか、節介焼きが身に沁みついてしまっているかのどちらかに遭遇しなければ凛の心は恐らく生暖かい凪のまま、のはずだった。

心に平穏が戻るのにはまだ少し時間がかかる。彼女にとって一番触れられたくない部分に関わる質問を投げかけたクラスメイトの存在ごと忘れるのには、

しっとりとした空気があたりを満たす、そんな狭間の季節までかかってしまったのだった。

【ミルヒィシュトラーセ】1.現実逃避

祈りを捧げる手は哀れなほどに震えていた。

今にも零れ落ちそうな願いの塊を堪えようにも、長い年月と共に積み重ねられた痛みは彼の全てを傷つけ弱らせては耐え忍ぶ気力を容赦なく削いでいく。
痛みに抉られる心から溢れる熱を必死に押さえつける彼には傍らの葉がかさり、とささやかな音をたてたのに全く気付くことができなかった。

その音に気づくか否かが運命の分かれ道であるとも知らず、心根から湧き上がる熱は時と共に徐々に冷めていった。
全ての音がやみ、何もかもを感じられなくなったころ、固く閉じられていた心に絶望を招き入れてしまった彼の口から小さく願いの欠片が零れ落ちる。

「---」

細く、か弱い声。それでも願いであることに変わりはない。
大気を僅かに震わせて聞き届けられた言葉は光となって形を成す。その衝撃に耐えきれなかった光の当事者である小さな影は短く悲鳴をあげながら走り去っていってしまった。

「ッ!!待ってくれ!!!」

願いを落としてしまったときよりも遥かにはっきりと力強い声であったにも関わらず、届いてほしい声であればあるほど相手の耳に入ることはなく後悔と共に空間に溶けていってしまった。

気が付いたときにはもう、引き返す事の出来ない道が淡々と敷かれていた。


ーーー


―――ホフノーグ王国。
そこはクライノートと呼ばれる石に宿る魔法と固有の能力をもった人々が生きる5つの島からなる小国。

小さな魔法の島国はのちにマイレンシュタインの日と呼ばれる時を境にゲシュペンストなる異形の者達が国中に蔓延り、人々はある限られた条件下でしか生きられなくなった。

彼らに対抗するため、そしていつかの平和を願い魔法を司る王直属の機関widdeRにより発足された公認組織・プロタクトのもとへ光の導きによりやってきたのは、


―――特異なことはなにひとつない、いたって普通の女子高生、凛だった。
今回の物語はそんな彼女がプロタクトに保護されてから一定の月日を経たのちに訪れた不思議な邂逅のお話。


ーーー


木漏れ日が風に揺られて踊っている。
隙間から差し込む僅かな光は、寒冷な島の気候によって生み出される澄んだ風に冷やされた体を緩やかに暖めてくれた。

「お疲れ様、動ける?」

座り込んでいた娘は差し出された手を取り、引かれるがままに渋々と言った様子で立ち上がる。心はまだ休息を許されたい気持ちでいっぱいだが、長く留まっていることの方が危険である場所にいるためにその希望は叶わない。
振り返った先に広がるのは今しがた通り抜けてきた森林地帯。比較的穏やかな様子をみせながらも一歩足を踏み入れれば異形が彷徨う巣窟となっているという正反対の事情をもつ、名をシュターツの森。

「まだ暴れたりねーなー」
「数を減らしすぎてもよくないからね。じゃああともうひと踏ん張りだ、報告に戻ろう」

羊皮紙に綴られた格式ばった定型文に従い命をこなし、その数を減らしても異形たちは何処からかやってくる。ここで足を止めて体を休める暇はなかった。

「凛ちゃん、大丈夫?」

凛、と呼ばれた娘が自分よりも少し背丈が低い場所から発せられた声に視線を寄越す。心配そうに彼女を見つめる少年と目が合ったがそんな彼に対して愛想よく笑いかけることもなく、隠しきれぬ不満を言葉に乗せて先に帰路を行く者達に続いた。

「全然大丈夫じゃない」

不機嫌を全身にまとった彼女に思わず苦笑を零した少年は全身を引きずるように歩く凛を小走りで追いかけた。


ーーー


来訪を告げる高い鈴の音がりぃんと響く。女はこれを好機と思い、せわしなく動かしていた手を止めた。膝をついて両手を重ねるように組み顎をその上に乗せる。階下から聞こえる騒がしい声が近づいてくるにつれて浮かべていた笑みは深くなっていった。
声の集団が部屋の前に辿り着き、穏やかな一声で言葉の押収がやむと訪れる沈黙。ひと呼吸おいてから聞こえた入出許可を乞うノック音と声に応えると入ってきた来訪者たちを彼女は弾けんばかりの笑顔で出迎えた。

「皆、おかえり!」
「ただいまー!」
「只今戻りました、支部長」
「ただいま…です…」

口々に帰宅の言葉を告げる中、頑なに顔を合わせようとしない者が一人。共に帰還した者たちが声をかけようとするのを女が手で制しながら立ち上がる。こちらに目を向けないのをいいことに気配をとらせる隙も与えないほど素早く一気に距離を詰め、勢いよく顔を限界まで近づけると、ようやくぎくりと体を動かし娘は突如視界に舞い込んできた人物を見た。
したり顔を浮かべ悪戯が成功した子供のようにガーネットの瞳を煌めかせて見つめてくる女の視線に抗えず、固く閉ざしていた口を僅かに開き、隙間から諦めたように言葉をついだ。

「…ただいま…」
「うん!おかえり!」
「はあ…これ言わないとダメなんですか?リリスさん」

呆れを含んだ色を滲ませて訪ねる娘、名を凛。彼女はつい先日までここでは異世界と呼ばれる場所で平穏に女子高生をしていたが今現在は魔法が生きる国、ホフノーグ王国はクリーヌという土地に身を置いている。着の身着のままホフノーグの常識の一切を知らない状態でやってきた彼女に目をかけるのはリリスさん、と呼ばれた彼女よりも少し年上に見える若い女性、正式な名はアマリリス。このクリーヌにおいてプロタクトと呼ばれる組織の長を務めている。
そんな彼女は豊満な胸とは対照的に締まった腰という見る者を圧倒させる華やかな体系をしているが、首元と胸だけを隠すために着た服から出た腹は割れ、腕にも程よくしなやかな筋肉がついている。細すぎない腰に届くであろう豊かなキャラメル・ブラウンの髪を高い位置でポニーテールにし、大きな瞳は永遠の輝きを約束するかのようなガーネットが煌めいている。
風貌からもみてとれる芯の強さに加えて性格は明るく天真爛漫で面倒見が良く、誰であろうと手を差し伸べる優しさを持つ。そんな彼女は支部のメンバーはもちろんクリーヌの人々からもとても慕われていた。
凛も、そんな彼女に手を差し伸べられ繋いだ手に救われて生きているうちの一人。

「だめよー、毎回無事に帰ってこられることが私たちにとっては奇跡みたいなものなんだから、ちゃんと確認しておきたいのよ」
「…」

態度には決して出さないが少なくともその手に感謝の意をもっているからこそ、明確な理由もつけられてしまっては反抗の言葉が出てこない。少々の不服は表情だけで消化した凛にアマリリスは曖昧に微笑み視線を別のメンバーにうつす。

「ではハルト、今回の任務の報告をお願い」
「かしこまりました。支部長」

名を呼ばれ、並んでいた顔ぶれの中で最年長の青年が歩み出る。古めかしさが味わいを感じさせる大きな事務机にいくつかの羊皮紙を広げ丁寧に報告の文言を重ね始めたハルト、と呼ばれた青年が基本的な流れを話す途中に、共に任務をこなした彼よりも幾分か年齢が下だと思われる少年が二人、時折言葉を付け足す。
少年のうち、小さな口から控えめながらも良い着眼点を持ち、的確に報告に必要な言葉を重ねる者の名はヒュリ。眩いほどのサルファー・イエローの髪を短く刈り揃え、控え目な癖は風にふかれるたびに柔らかく揺れる。団栗のように大きく愛らしい目の色は新緑を思わせるコバルト・グリーン。ホフノーグにおいては魔法系統を生業としている者の証にもなるサロペットとローブを合わせたような衣装に身を包んでいる。
性格は控えめで気弱なところがあり、普段は人の後ろに隠れて様子を窺う癖がある引っ込み思案だがいざというときの判断力は支部の誰もが一目置き、回復魔法に関してはその道に詳しいものが実力者としてまず一番に彼の名をあげるほどの名手である。
そしてもう一人、報告に向いているとは言えないがその場の彼の行動が想像できる豪快な言葉遣いが特徴的な少年。名はネオ、ヒュリと同い年だがひ弱な印象をうける彼とは対照的に健康的な肌の色に小柄でありながらも固く締まった筋肉をもち、肥沃な大地を思わせるヴァンダイク・ブラウンの髪は流れるがままに任せ、好奇心に踊る瞳は果実のような瑞々しさを感じさせるスパニッシュ・オレンジ。肉弾戦を主とする戦闘スタイルを採用している彼は、動きやすさを重視した少し余裕のあるタンクトップに身を包んでいる。
元気という言葉を体現したような無邪気で明るい少年であるネオは誰に対しても気兼ねなく接する楽観的な性格の持ち主だが、思考は若干短絡的で後先考えず猛進的に突っ込んでしまうところがあり、彼の体にはいつもどこかしら傷がある。今も尚報告の最中、ヒュリに少しずつ回復魔法をかけてもらい治療を続けるほどだった。

「以上が今回の任務報告となります」

終始耳心地の良い柔らかな声で話していた青年、ハルトが顔を上げ報告の終わりを告げる。
その顔には鼻のあたりで一直線に鋭い爪か何かで裂かれた傷跡があるが、跡があっても彼が元来持つ美しさが損なわれることはなくむしろ儚げな見目の麗しさをより引き立てている。肩下ほどまである髪は他の色の侵入を一切許さない漆黒。身に纏う衣服は質素な襟のついた戦闘特化型のスーツだが所々に施された主張しすぎない装飾が彼のもつ魅力をより一層引き立たせ、薄緑の腰布が翻る姿はどことなく甲冑をまとわない騎士を思わせる。瞳はアメジスト・ヴァイオレットの穏やかな輝きを讃え、緩やかな曲線を描く魅力的な口元は一度目を合わせれば幾人もの人がその秀麗さに一瞬、時を忘れるほどだった。
本人の性格も見てとれる印象の通りで、普段から落ち着いた態度を崩さず穏やかに対処する様子は支部の良心とも言われ、周りの状況をよくみては支部の中核として多忙な長達、まだ未熟な面もあるヒュリとネオ、様々なことに不慣れな凛のサポートをする傍らその能力の高さから個人任務に駆り出されることも多い。

「うんうん、今回も皆で協力して任務を遂行できたようね。合格よ!」
「やったー!じゃあ今日の夕飯は肉でいいよな!」
「今日はお魚だよ。確かカルクさんが…」
「えー?またあの老け顔がとってきた魚かよー」
「誰が、老け顔だと?」

報告中に戻ってきたのか、単身で別の任務に赴いていたクリーヌの副支部長を務める男、カルクが執務室の扉に背を預け腕を組んだ状態でコバルトブルーの瞳をギラつかせネオを睨みつけている。目が合うと一直線に彼の元へ行き問答無用で拳を頭に振り下ろし鈍い音を響かせた。

「いってえええ!!」
「お前はまた余計なことばかり…少しはプロタクトという自覚をもち上司に対しては相応の言葉遣いを心がけろと何度も言っているだろう!」
「まあまあカルクさん…」

ハルトが宥めるにも耳を貸さず動きやすさを重視したインディゴの髪を振り乱してネオにプロタクトたる振る舞いを説き始める。
通常時は冷静な判断で周囲の状況を即座に把握することを得意としたカルクだが、メンバーに対しては立場を重要視するあまり感情が高ぶり怒鳴り声をあげては長々と叱りつける癖がある。その対象は主にネオでこの二人の言葉の応酬はクリーヌ支部ではよくみられる日常風景の一つ。気楽な態度をみせるアマリリスに対して厳格なカルクという組み合わせは非常にバランスのとれた関係性であることは誰の目にも一目瞭然だが、頻繁に怒鳴り声が響く空間は凛にとっては苦手な場所だった。
未だ押し問答を続ける二人に皆が気を取られている隙を狙って、彼女は静かにアマリリスの執務室から退室する。階下へと降り、この場所であてがわれた自室へ向かうと迷わずベッドへ向かい服の皺も気にせずシーツの海へ飛び込んだ。そのまま眠りにつこうとするも、換気のために開け放たれた窓から流れ込む風にゆれるカーテンに彼女の目は奪われた。


ーーー


ホフノーグ王国はクリーヌ、国の中では北西に位置する農業が盛んな田舎町。肥沃な土地と豊かな水源に恵まれているこの場所は毎年とれる農作物の出来がとてもよく、クリーヌ産のものは国の名産として挙げられるほど評価が高い。しかし中央からやや外れた場所に位置しているために人の往来は少なく、農業に必要な広大な土地をもってしても田舎、と称される。それがクリーヌという場所だった。海を挟んだ対岸に雪に覆われた島をもつクリーヌのあるヒューゲル島はその影響か一年を通して冷たい風がふくことが多く、開け放たれた窓から流れてくる風は燻る熱を冷やしてくれるにはちょうど良い。
真雪のような白いシーツに包まれたベッドに寝そべり、レガッタブルーの瞳を細め青い空に水の枯れた筆で描かれたような途切れがちの雲が流れゆくのを見ながら怒鳴り声がやむのを待つ。容姿にさして興味を示さない凛の肩まで伸びてしまったがゆえにあらゆる方向にはねてしまっているネイヴィーブルーの髪が風に誘われ揺れるに身を任せて数十分、いよいよ心地よい眠気が全身を包み微睡みの世界へ旅立とうとする頭にこつりと軽い衝撃が伝わる。いっそ無視して眠ってしまおうとしても最初は軽かった小突きはだんだんと容赦なくなっていく。仕方なく瞼をあけるとガーネットの瞳と視線が交わった。

「カルクの怒鳴り声は確かにうるさいけれど、勝手にいなくなるともっとうるさくなるわよ?」
「…カルクさんは?」
「報告書をまとめないといけないから自分の部屋に戻ったわ」
「そうですか」

眠気を振り払うように凛は勢いをつけて起き上がる。

「それで、なんで私の部屋に?」

冷たい風にも体が慣れてくると流石に寒さを覚える。窓をしめようと立ち上がった凛が振り返ると、そこには曖昧に微笑んだアマリリスが同様に立ち上がり寄り添って彼女の手に自身の手を重ねた。

「あんなに楽しいことが起こってたのにどうしていなくなっちゃったりしたの?」
「…楽しい?あれが?」

到底理解できない、と凛は顔をゆがめる。その感情を一切隠さない表情に思わずアマリリスはふき出した。

「だって皆が仲良くしているのをみるのは楽しいじゃない」
「あれが仲良くしているに入るんですか」
「入るんじゃない?少なくとも、必要最低限のことしか伝えない連中よりは仲良しよ」
「そう…ですかね…」

同意の気持ちが勝ってそれ以上反論を続けることはできなかった。上辺の言葉を重ねて問題を回避し心の距離をとるよりも、しっかりと自分の意見をぶつけ合う方がまだ互いの距離は縮まる。けれど凛にとってそれは大きな躊躇いが付きまとうことだった。
ホフノーグ王国へ突然やってきてほんの少し、生活と常識の全てが変わり慣れないことも多く日々を生きるので精いっぱいだった初期とは違い、少しずつ慣れてきてはいるものの唯一自分の世界にはなかった魔法が生きる国での生活には未だ思想や文化の違いに困惑することも多い。それを一つ一つ手に取って確認してもうまく自分の中におさめることができないことも多く、想像でなんとかやりくりをしようとするも、これまで持っていたものとの乖離が激しい事柄を補完して対処することは16歳の少女にはまだ難しい。
そういう事情もあって、凛はよくしてくれていることに感謝をしつつも心の深いところにある本音は元の世界への帰還、いずれ離れるであろう場所に濁りを残さないように距離を取って接するのは自然と身についたこちらでの振る舞いだ。そんな彼女の様子に気が付いたアマリリスは心に寂しさを抱きつつも、世界を渡ってきた彼女のことを思うともっと近しい距離にいたい、という自分本位な願いを言葉にすることは許されないとわかっていた。
それでも、

「ねえ」
「はい?」
「もう少し、甘えてくれてもいいのよ?」
「…はい?」
「ここではあなたと私しか女の子はいないんだから、もっとこう…」
「女の子…」
「どうしてそこを切り取ったのかしら?」
「いやだって子…あいたたた」

完全に心を落ち着けてほしい、とまでは言わない。けれどこの場所を羽休めくらいには思っていてほしいとアマリリスは願わずにはいられなかった。気持ちに応えるかどうかは凛自身が決めることとして言葉にして投げかけることはしない。

「そういえば、凛。あなたクライノートの方はどうなっているの?」

場の空気を少し変えようとアマリリスがかけた言葉の中に急に耳馴染みのない単語が飛び出してきた凛の思考は停止する。

「クライ…ええと…」
「もう…クライノートはこの国の人がもつ魔法を使うための石のこと。それぞれに色は魔法の属性、形は能力で異なるって説明したわよね?」
「ああ、それですそれ」
「それで?」
「存在を忘れていましたね」

アマリリスがため息を漏らしたがこればっかりはどうしようもできない。
魔法を使う事が出来ない、そもそも魔法の存在すらなかった場所から来た凛だがなぜかこの国の人々が魔法を使用するのに必要な石、クライノートだけははじめから所持していた。しかしその色形は所謂この国では赤子がもつヴェールトロースと呼ばれる形状をしており、色は透明で形は丸い水晶のような姿をしている。まだ魔法の属性も固有の能力も発現していない状態のそれはこちらの常識では2歳から5歳の間までで属性も能力も判明し以降はそれぞれの姿へと見た目を変化させる。

「…」
「…まあ、凛はそもそも魔法がない国で生きてきたからクライノートがそのままでも仕方ないけれど、この国で生きていくなら使えるに越したことはないから何か変化があったらいつでも報告ちょうだいね」
「…はい」

凛の肩にそっと手を置いてアマリリスは部屋を去る。
その後ろ姿を目で追ってから開け放たれた窓は結局そのままに再度ベッドに戻った。今度は毛布を深く被り光を遮断することも忘れず。


ーー


微睡みの中で思考が混ざり、夢とうつつの狭間にある曖昧の中でごく普通の、どこにでもいる女子高生だった自分がふと姿を現す。
召喚された事情もなにもわからないまま、ただこのクライノートと呼ばれる石が放つ光に導かれてやってきた魔法の国ホフノーグ王国。原因がこのクライノートであることを断定することが未だできないでいるが、それはその瞬間を思い出そうといくら思考を巡らせても、うまく当時の記憶を再生することができなくなっていたためだった。必然的にこの石以外にはなにも所持していなかったことから全ての元凶はクライノートであると一時的に断定せざるを得ない。
原因を仮特定したのなら次にやる作業は究明、世界を渡ったであろう凛が元の場所へ帰るためにしなければならない作業だったが、唯一の手掛かりであるクライノートはあれから一向にそれ以上の輝きも変化ももたらそうとはせずただ事態を静観するかのようにそこに在るだけだった。ポケットから取り出して改めて確認してみるも、それに色はなく形も球体のまま。吸収した太陽の光でかろうじて小さな輝きを生み出すのみ。

ーーーわかったら上の方に報告しにいかないといけないね。

以前、ハルトとの会話でも話題に出た中で彼に言われた一言を思い出す。

「…行かないよ、どこにも」

しかし、当の本人は全くと言っていいほど関心はなかった。支部にいる他の者との会話でもクライノートについて言及されることはあったが彼女自身はさほど重要視していなかった。

「夢だよ、夢」

そう、今も彼女は心の底から自分が置かれている状況を認めることができないゆえに現状を受け入れたうえでの行動にうつれないでいた。そのことが彼女を原因究明から遠ざけている。寝返りをうち胸元のリボンを解いて完全にベッドの中へ入り込む。夕餉の支度をする忙しない足音と程なくして漂ってきた香りに包まれながら凛は再度訪れた微睡みの世界へ垂直に落ちていった。

ーーー

日は完全に落ち切り、空の濃紺を不規則な輝きで彩りをもたらす光の粒達が踊る美しい夜。異形の者達が活発化し始めるそんな闇の中で動く小さな影が命からがら開け放たれた一つの窓辺に辿り着いた。小さな流れ星はくすんでしまった桃色を震わせて開かれた窓の先へと半ば滑るように落ちていく。その一部始終は闇のみが知っていた。

【ミルヒィシュトラーセ】2.起点

微睡みから浮上したのは寒さによる震えによるものだった。
まだ眠りの世界にいたい気持ちからはっきりしない意識でベッドにもぐりこんだまま、横着に腕を限界まで伸ばして寒さの元凶である窓を閉めようとする。
しかしうまく端を探し当てることが出来ず、遂には諦めて限界まで伸ばしていた腕を降ろし潔く起き上がろうと手をつくと、ふと頬に柔らかくもほのかに暖かい感触があたって思わず擦り寄った。思い切って顔を埋めると少し距離を取るような動きをするが完全に離れていこうとはしない。そこで凛ははて、と思考を停止させた。果たして今この部屋にこれほど柔らかくぬくもりを持った動くものがあっただろうかと。
意識がまだ夢と現実の間を行き来している間はよく元の世界との区別がつかなくなることがあるが、だんだんと現実に戻ってくると今自分がいるところがどういう場所であるかの理解が追いついてくる。そして戻る思考。

「(なにかいる?)」

薄く目を開いた先に飛び込んできたのは桃色。自身が心地よく収まるところを探しているのか、それはゆっくりと体を回転させ、やがてにぃ、とか弱く鳴き声を零した口のある顔をこちらへと向けた。

「…っへ…」
「きゅい!」

まるで挨拶でもするかのように笑顔をみせるそれは犬とも猫とも表現できない。全身は固さを知らない柔らかくくすんだ桃色の体毛に覆われていることからまだ子どもであることは想像できる。しかし垂れた耳のようなものは葉が数枚連なったような不思議な形をしており、体に付随している小さな手足だと思われる場所はあまりにも短く歩行だけでも困難だろう。そんな姿をした生き物など凛はこれまでの人生で一度も目にしたことはない。
知名度があまり高くない動物ならきゅいきゅいという鳴き声を持つものもいるかもしれないが、丸い瞳はまるで職人が手ずから加工を施した質の高い宝石のような輝きを放つスカーレットを頂き、全体的に愛らしい外見をしている反面口は割と大きく鋭い牙のような歯が数本行儀よく並んでいる。噛みつかれたら恐らく子供であってもそれなりの怪我はするだろう。瞬間、ゲシュペンストの侵入を許してしまったのか、と判断した凛は思わず大きな声をあげながら飛びのいた。
その声はクリーヌ支部にそれなりに響く音量だったらしく、やがて各所に散らばっていたメンバーが彼女のもとへ駆けつけてくる音がいくつも聞こえてきた。音の連なりが一つの場所に集結するころには妙な生き物は凛の声に驚いたのか部屋の隅へと逃げてしまい小さな体を震わせてこちらの様子を窺っていた。

「凛!大丈夫!?どうしたの!?」
「うおっ真っ暗!なんも見えねえ!」
「おいネオ!俺の足を踏むな!」
「わわわっ…み、皆さん落ち着いて…」
「やれやれ」

ぱちり、と小さな音が聞こえた瞬間に明かりが灯る室内。状況を視認できるようになった部屋には不自然な恰好のまま固まりながらある一転を凝視する凛の姿があった。

「凛!」
「あっちょ…待って!」

駆け寄ろうとしたアマリリスに左手を開いた状態で向けて静止を促す。その声に従ったアマリリスが止まると彼女に向けていた手の中で人差し指だけ立てたまま、先ほどまで見ていた方向を2回ほど指さす。誘われた視線が向けた先にいたのは部屋の隅で震えている謎の生き物。先に入ったアマリリスに続いて他のメンバーも部屋に入り対象を確認する。視線が増えてより恐怖心が増したのか、それは小さな手を目にやり顔を隠すようにして蹲ってしまった。一連の行動を声もなく全員がただ見つめていたが、ややあってはじけるようにまずアマリリスが反応した。

「かわいい!!」
「きゅ!」
「ねえ凛!この子どうしたの?」
「どうしたもこうしたも…」

凛自身何が今この場でおきているのか把握しきれずにいる中で説明することは容易ではなく黙ってしまう。焦れたアマリリスが怯える生き物に触れようと伸ばした手を一回り大きな手が止めた。

「待て、安易に触れるな」
「ちょっと、離しなさい」
「おい、まだなにももわかってないんだぞ。むやみやたらに…」
「すげー!こいつふわふわ!」
「きゅうう!」
「おい!こら!」

止められてしまったアマリリスを後目に今度はネオが静止を聞かず謎の生き物に触れた。見ただけでもわかる柔らかさは真だったようで感触が癖になってしまったのか撫で続けるネオ。しかし凛はあまりの怯えように震えてその場から動くことも出来ずにされるがままになっている生き物が哀れに思えて彼の手を払った。

「なにすんだよ、凛」
「怯えてるからやめてあげて」
「ちぇ…で、そいつなんなの?」
「…それは…」

とりあえず先ほどまでに起こった出来事を一通り話してみることから始める。恐らく窓からの侵入を許したことを告げるとカルクの眉間に皺がよったが見なかったことにして話を続け、大方説明し終わると再び周囲は沈黙した。

「ううん、水路をこえてきたし狂暴性があまり感じられないところからゲシュペンストではないのかな?」
「いや、まだ断定できない」

話を聞き終えて自分の見解を述べるハルトの弁をすぐさまカルクが否定する。ゲシュペンストである可能性を捨てられないのは今現在のホフノーグ王国でそれはあり得ないこととされていたからだった。この国には現在、人間のほかに一部隔離された安全な場所に食用の動物達がいるだけで他はゲシュペンストであることが常識となっている。つまり確認されている動物以外の生き物は全て問答無用でゲシュペンスト、ということになる。

「実際、ゲシュペンストの中には強欲ゆえに水路の水でダメージを受けながらも町の中に入ってくる個体もある」
「僕も知っていますが、しかしそれとはあまりにも個体の見た目が違うような…」
「ゲシュペンストにはまだわからないことが多い。もしかしたら姿を変える能力をもっているやもしれん…だから迂闊に触るな!アマリリス!ネオ!」
「うっ」
「げっ」

注意を受けても尚めげない二人が触れようと手を伸ばしているところを目聡く見つけて厳しく怒鳴りつけるカルク。その声の大きさにまた驚いたのか遂に謎の生き物は逃げ場を求めて凛の膝の上によじ登ってきた。小さな手足をばたつかせて必死に登ってくる姿は特に動物に対して特別思い入れがあるわけではない凛の心にも響くものがある。

「もー!凛とネオだけずるい!私も触らせてよ!」
「大きい声出すのやめたらいいんじゃないんですかね」
「凛ちゃんには懐いているみたいだけれど…なにかしたの?」
「なにも、さっきも言った通り起きたら顔の横にいた」

初めから凛に対して警戒心を見せず、むしろ助けを求めて擦り寄ってくる姿はゲシュペンストとは似ても似つかない。しかしカルクが言った通りゲシュペンストにはまだ謎が多く信頼を置くにはほど遠い。

「貸せ、凛」

カルクが鋭い声色と共に一歩踏み出す。その剣幕に思わずたじろいだ彼女には目もくれず謎の生き物が危機を察して逃げ出す前に徐に掴み凛から文字通り引き剥がした。

「あっ」
「きゅううっ」
「カルク!!」
「なんだ」
「流石にそのやり方はダメよ!手を離しなさい!」

アマリリスに大きく窘められ一瞬言葉を詰まらせるも彼が手を離す事はない。大きく暴れてその手を離れようともがく生き物に対して容赦なくもう片方の掌に魔力をこめる。やがてカルクの手の周辺には弱くも鋭い風が吹き始めた。

「ここで魔法使う気かよ!?」
「カ、カルクさん落ち着いて…!」
「支部長、貴方が今のホフノーグ王国の現状をご存じないわけではあるまい。今、我が国はゲシュペンストの脅威と戦っており、軽率な行動が死を招くことは容易に想像できる。不安因子は若い芽であるうちに摘まねばならない」

そうだろう、と視線を寄越すカルクに今度はアマリリスが返す言葉をなくしてしまった。そんな中で怯え自分を害す手から逃れようと小さな体を必死に動かし抵抗を続ける生き物に凛の目は奪われていた。

ーーまだなにも、していないのに。

今この瞬間、この国では見られない生き物だから、そのたった一つだけの理由で簡単に目の前から命が奪われていく光景に胸の奥がざわついていく。まだ少しの時間しか共に過ごしていない凛だが愛らしい見目をした生き物をなにもせず見逃すほど冷酷ではない。
現状をどうにか好転出来ないか、そう考えながら未だ懸命に暴れてカルクの手から逃れようと叫びをあげている生き物の口にある意外にも鋭い歯をみた凛はふと気づく。子どもといえどゲシュペンストであるならば戦闘慣れをしていないうえに眠っていた凛の寝首を掻くことは容易に出来たはずだった。しかし、今現在も凛の体には傷一つつくことなく、五体満足、睡眠をとったおかげでむしろ多少元気を取り戻しているくらいだった。子どもであることを考慮しつつ、それでもこの生き物の一存で危害を加えることはいつでもできたにも関わらず現状凛には全く実害はない。それがこの生き物が出した他ならぬ答え。人前で意見を言うことを嫌う凛でも、今ここで踏み出さなければ予測された未来は確実にやってくる。
自分だけが知っているからこそ、危険性がないこと証明できる唯一の証拠を提示するためにカルクと押し問答を繰り返しているアマリリスが過去に自分に言ってくれた言葉を心の奥底から呼び起こし勇気に変えて息を吸った。

ーーこれまでの凛の事は知らないし、過去はどうしようもないけれど
未来のことなら、凛の気持ち次第でどんな方向でも進んで行けるわ。

「カルクさん」
「なんだ、凛。そうだ丁度いい。ここにはお前の弓があるしお前が…」
「離してあげてください」
「…なんだと?」

カルクの鋭い視線が全身を貫くように強く刺さる。一切鍛えられていない心でそれでも必死に受け止め満身創痍の状態で声を絞り出す。

「その子はまだ、なにもしてないです」
「これからする可能性がある」
「そう、かもしれません…でも危害を加えるならもっと早くできたはずです。でも…私、怪我一つしていません。この中で一番弱くて…気配とかまだ全然感じることができないからずっと…その…寝ていたし…」

頭の中で言葉が渋滞し、うまく伝えられているか分からなくなってくる。それでも必死に断片をかき集めて一つの思いに縫い上げていった。

「そんな私が今無傷でいることが、この子がまだ誰かに危害を加える存在じゃないっていうなによりの証拠になってると思うんです」
「…」
「きゅう…」
「お願いします。世話は…なんとか私やってみるので…だから、殺すのはもう少し待ってくださ…い…」

震える声は終わりに向かうにつれて尻すぼみになっていき、とうとう吐息のような消え入る声になってしまった。それでも言い終わると次に訪れた沈黙に気まずさを覚えて背中に汗が滴る感触がまざまざと伝わってくる。視線を交わらせながら沈黙の駆け引きを続け、ようやく先に折れたのはカルクの方だった。無造作に手に持っていた生き物を凛の方へ放り投げる。

「責任は全てお前が背負うんだな」

たった一言、そう言い残して部屋を去ると緊迫し、張り詰めた空気は一気に和らいで部屋には穏やかな空間が戻ってきた。

「はあー…老け顔こえー」
「ね、ネオ…!」
「まだ近くにいるかもしれないから言葉を選んだ方がいいわよ」
「げっ」

各々が思い思いの感情を吐露して安寧が戻ってきたことに喜ぶ残ったメンバーの声を聞きながら、腕の中に収まった生き物を見やる。まだ少し震えは残っているが先ほどのように暴れたりはせず大人しく凛の腕の中へおさまり居心地のいい場所をみつけるために動き始めた。

「怪我…は、してない?」
「きゅう」
「僕が見ようか?怖がらなければ、だけど」
「うん、お願い」

腕の中にいる生き物をヒュリの方へ向ける。少し怖がる様子はみせたもののヒュリの手が悪意をもたないことを感じることが出来たのだろう。おとなしく触診を受け、異常がないとわかると離れていく手にまるでお礼のように鼻面を寄せた。

「んんー、ほんっとうにかわいい!でもカルクの言う通り化けるゲシュペンストかもしれないから一応…ハルト」
「はい」
「拘束魔法をかけておいて、もし突然暴れだしてもこれをかけておけば一定時間動きを制御することができるから」
「…」

受け入れてくれているようで多少の警戒心を捨てきれていない彼女の対応に凛の不信感が顔に出たことに気がついたアマリリスが笑いかける。

「そんな顔しないでよ!大丈夫、暴れさえしなければ一切体には影響ないとっても安全な魔法だから」
「そうだよ、はい。おしまい」
「え、もう終わったの?」
「うん。体に異常はないかな?」
「きゅ?」

必要以上に触れることはせず、望んだ返事が返ってくることを期待してはいないハルトだったがそんな彼に友好的な笑みを返す生き物は元来人懐こい性分なのもしれない。先ほどのカルクのような接し方をしなければすぐに心を許しているように見えた。凛の腕から離れることはないが向けられる視線に攻撃的なものはないことがわかるのか、無駄に暴れることなく大人しくおさまっている様子に改めて今のところ人を害する様子がないことを再確認する。
アマリリスの指示で余っていた小物を使い急遽寝床を整えてやり、その上にそっと置いてやるとすぐに穏やかな寝息を立て始めた。

「とりあえず、凛の部屋で様子をみることにしましょう。その子については少し心当たりがあるから文献を漁ってみるわ」

なにかわかったら伝える旨を言ったアマリリスに続いて全員が部屋から出ていくのを見送る。少し薄くなった夕餉の匂いに誘われて腹の虫が空腹を訴えてくるまで凛は穏やかな寝顔を眺めていた。


ーーー


地上にあるもの全てが闇に溶けいくような濃く、深い夜。延々と続くように思える闇の中に一点、揺らめく細い光が小さな屋敷の一室を照らしていた。虫の声一つとして聞こえない静寂の中でその部屋にいる女が本をめくる単調な音だけが静止したかのような夜に動きを与えている。

「そんなものを読んで何になる」

不服を訴える声色は低い。それに答えるかのように星の瞬きのような女の軽やかな苦笑を含む吐息が橙の小さな光を溶かす部屋に零れた。

「そこにいてちょうだい。もう随分古くなってしまってページを捲るだけでも粉々になってしまいそうだから」
「…報告がしたいんだが?」
「うちには隠れて報告を盗み聞きするような悪い子はいないわよ。そのまま、続けてちょうだい」

一つため息をついたカルクだがアマリリスが古めかしい本から目線を外さないのを一刻おいて確認し、もう一度短くため息をつくと諦めて報告の為にまとめていた一枚の羊皮紙を取り出した。

「森周辺に特に異常は見られなかった。ゲシュペンスト達が寄り付かないのも今まで通り…だが」

いつもは二つの項目が彼の口から告げられれば報告は終了だった。しかし、そのあとに続く言葉があるとわかるとアマリリスは伏せていた目線をカルクに向ける。

「なに?」
「…詳細はまだよくわからないが、中から何か出てきたような足跡があった」
「足跡?」

カルクが単身で定期的に調査へと出かける森がクリーヌ近辺にある。この国が数年前からゲシュペンスト蔓延る世となり中央島にある泉より配給されているゲシュペンストを退ける成分が含まれている水で満たされた水路の中でしか安全な暮らしが送れなくなってしまってから、それ以外の土地ではゲシュペンストたちが我が物顔で国を闊歩するようになった。しかし、クリーヌより西に少しいった場所にある森には水路が引かれていないにも関わらずゲシュペンストたちが寄り付かず、むしろ森自体を避けるような動きを見せることに不信感を抱いたアマリリスが上の命令なく独自にカルクと共に調査を行っていた。森の周辺は少し泥濘があり、出入りがあるようなら数日は泥濘にその跡を残す。描き起こした小さな痕跡を風の魔法を使って緩やかにアマリリスの元へ届ける。

「…確かに、足跡に見えるわね」
「何か、見覚えがないか?」
「見覚え?」
「本日、我がクリーヌ支部が異物の侵入を許したため迅速に処理をしようとしたがあらゆる方面から反対意見が出てな。任務を遂行することが出来なかった」

腕を組み顔をそらして全身で不満を訴える男に苦い笑みを浮かべながら思考は本日夕刻に紛れ込んできた不思議な生き物に辿り着く。

「…あなたの考えていることが繋がっているなら、あそこで反対意見をだした私たちに軍配があがってしまうのだけれど?」
「認めたくないがな」
「素直じゃないんだから」
「…俺はもう戻る」
「明日、またきちんと話し合いましょう。それまでにこちらの考察もまとめておくわ」

振り返りもせず退出したカルクを見送り再び視線を手元の古い手記と描かれた痕跡を見比べ、進行具合が芳しくない現状に顔ゆがめた。

「頼んだわよ…凛」

願わくば、彼女の存在が変化をもたらす起点となりますように。


ーーー


一週間ほど共に過ごし、凛は例の生き物のことが少しわかったような気がしていた。
まず名前がないと呼びづらいという理由からアマリリスによりもふもふしていて凛に懐いている、という点を踏まえてもふりん、という名前が付けられたその生き物は常に凛と行動を共にし、少しそばを離れようものなら待たされた扉の前でそわそわと右往左往するくらい一緒にいたがった。食事も支部にいる者達と同じものを食べても問題ないことから食品管理をしていたカルクに文句を言われてしまったが、子どもであるもふりんはまだあまり量は食べられないためお目こぼしをしてもらっている。凛の部屋で寝起きし、ときたま支部内に併設された小さな庭に放ってやると喜んで遊びまわり疲れてしまったら日向で一休みし、そのまま眠ってしまう程度にはこの場に慣れつつあった。
初対面での対応のせいかカルクには一週間たってもちっとも慣れる素振りは見せなかったが、彼以外のメンバーにはそれなりに自分を触らせることを許し、ヒュリやハルトとという比較的穏やかな性格の持ち主には抱かれることに抵抗はしなかった。しかしこれを面白くないと思う者も一人。

「どうして私には抱っこさせてくれないのー?」
「きゅう…」
「力が強いからじゃないですかね」
「今度は手加減するってば、ね?」

優しい声色で聞き尋ねるも、凛の腕に抱かれたもふりんは彼女の手を離れる気はないらしく胸元に顔を埋めて顔を隠してしまった。

「残念」
「支部長、そろそろ我々を収集された理由をお聞きしても?」
「ああ!そうだったわね」

場所はアマリリスの執務室。朝食後に呼び出されたのは凛、ヒュリ、ネオ、ハルトの四名。戦闘スタイルのバランスの良さからこの四人の選出が一番多くこの日もクリーヌ支部へと通達された任務派遣のために呼ばれていた。

「なあ、戦えるのか!?戦闘は!?」
「落ち着きなさい、ネオ。もちろんあるわよ」
「やったー!」
「だから落ち着きなさいって、じゃあ読み上げるからね」

内容を簡単にまとめるとこうだった。クリーヌ近郊にある現在は使用されていない塔を指名手配中の盗賊団が根城にしていたが、そこを縄張りとしているゲシュペンストたちが自分たちの住処を荒らされたと思い彼ら怒りを勝ってしまい活動を活発化させたことにより危険性が高まったことから、ゲシュペンストの盗伐と最上階にて籠城中の盗賊団の保護を命じられた。盗賊団は無事を確認出来たのちに別の組織が捕縛する手筈となっている、というところでアマリリスの説明は終わった。各々にどういった行動をとるか話し合う中、凛は一人上の空になっていたがそれをハルトが目聡く見つけて声をかける。

「も、ふりんをどうしようかなって思って」
「そういえば…そうだったね。ここにこの子が来てから凛さんは特に任務もなかったから離れることを考えもしなかったな」
「でも今回の任務は危険なことも多いでしょうし…」

状況を全く理解していないのか目をあわせても不思議そうにこちらを見上げるだけのもふりんに考えを巡らせる。安全のために支部へ置いていくのが正しいとはわかっていても、共に過ごしてきたときの様子やもし自分がいない間になにか問題が起きてしまったら、と考えると置いていくわけにもいかなかった。かといって危険が伴う任務に連れていく選択も出来ず頭を悩ませている凛を見兼ねたアマリリスが声をかける。

「連れていけばいいわ」
「…んん?」
「い、いいんですか?支部長…」
「戦闘ありなら危険じゃねーの?」

各々に意見をだすがアマリリスはそれでも続ける。

「これもいい訓練だと思うの。凛が何かを守りながら戦えるようになるためのね」
「確かに…凛さんの個人戦闘力はあがっているけれど、あくまでプロタクトは民間人の保護を目的としたゲシュペンストとの戦闘だからね」

守る技術が上達することに越したことはない、と続けたハルトに納得する。これまでの戦闘方法としては周りのサポートの中で攻撃を与えることに必死だったが、ここ最近は周りに目を向けることも出来るようになっているのを実感していた。

「…一緒にくる?」
「きゅう!」

言葉がわかっていないにも関わらず元気よく返事をしたもふりんに思わず笑いがこぼれ、束の間の平和に穏やかな気持ちで心が満たされていくのを感じていた。


ーーー


「うそでしょ…」

平和とは本当に束の間であることを目の前に聳え立つ塔に圧倒されながら感じていた。天を貫くとはまさにこの塔のことを表すとホフノーグ国民は誰しもが口を揃えて言う場所だと道中教えられたが、首を限界まで後方に傾けて上空を見上げてもその天辺を捉えることが出来ない無言の圧力を放つ目の前の塔を見て先の言葉に納得する。ただそこにあるだけなら威厳に手を合わせる程度で済むが、今からクリーヌ支部より派遣された4人のメンバーが目指すのは捉えることが出来ないはずの塔の最上階。隠す気もなく零れ出た大きなため息は大気にとけていくだけで現実は変わりはしない。

「気持ちはわかるけど、頑張ろうね。凛さん」

ハルトに諭され重い足取りを引きずるように一歩、歩み出た彼女の周辺が一瞬、轟音とともに闇に包まれる。それは本当に一瞬の出来事で背を押し上げるような強風と共に音も闇も去っていった。思わず上空を見上げる凛だがその瞳には冴え渡る空しか映らない。仲間の催促の声で我に返るまで凛は空に消えたなにかを追っていた。

【ミルヒィシュトラーセ】3.末路

風が混ざりあうように吹き荒れ、大気は大蛇の群れが如くうねり狂っている。
他者の侵入を許さないために設えられた形を持たない楼閣の中央、辺りの風の流れとは真逆に凪の器を構えた場所に銀を帯びた鱗をまとう獣が静かに鎮座していた。伏せた重い瞼を開き蝕まれても尚鋭い輝きを失わない瞳で、苦し気に不規則な揺らめきを放ちながら尚も生きんとする侍従を見やった。

ー終わらせてやらなければならぬ

表面では理解できていても心の深いところから湧き上がる抵抗が重い体の動きをさらに鈍くしてしまう。しかし、過ぎた慈悲はやがて無慈悲に繋がり大きな災いを招く。種を摘まなければ厄災は許しも得られずして立派な悪と成りえてしまうのだ。生まれたその瞬間から付き従うことを骨身に刻まれて生きてきた彼らに対するにはあまりにも惨たらしい仕打ちに、痛みを覚える気持ちが弔いになることを祈り、四肢に力を巡らせて獣は立ち上がった。

一陣の風がもたらす報せによって未来はまた大きな変化をもたらす事を、未だ躊躇いを残す獣は知らずにいる。


ーーー


乱れた呼吸を整えようと息を吸う度に体に侵入してくる冷たい空気によって締め付けるような痛みが全身を襲う。頂上へ辿り着くため歩を進めれば進めるほどに鉛のような重さが蓄積され、目的の場所へ無事到着した頃には凛の体力は戦いを目前に底をついてしまっていた。

「り、凛ちゃん大丈夫…?」
「む…り…」
「…困ったね」
「ほんっと凛は体力ねえなー」
「黙らっしゃい」

呼吸の度にあちこち走る痛みをこらえながら息を整えているとようやく少しだけ穏やかになってきた。それでも体の疲労は消えることはなく、時を重ねるだけ全身に残る倦怠感は積もっていく。座り込んでから幾分か時間はたっているが凛はまだ動き出せないでいた。
そんな疲労困憊の彼女の全身が突如暖かな風に包まれ、渦を巻くように下から上へ美しい光の粒が螺旋状に舞い上がり消えていく。その美しいさまを茫然と見つめていたが、ふと気が付くと先ほどまで全身に纏わりついていた体の重みは少々やわらぎ、立ち上がる程度には動けるようになっていた。こちらの世界にきてから何度か世話になっている回復魔法であることを理解すると施してくれた相手に視線を向ける。

「ヒュリ、だよね?」
「うん。どう?動けそう?」
「よい…しょ…」

完全に回復したとは言えないものの、先ほどよりは随分と楽になった足に力をこめて立ち上がる。ホフノーグ王国指折りの回復魔法の達人の名は伊達ではない。

「よし、じゃあ凛さんが回復したところで…」
「っしゃー!まずは俺が」
「待ってね、ネオくん」
「うげっ」

真っ先に突入しようと己の自慢の武器である戦斧、黎明を抱えなおしたネオをハルトが引き止め、その勢いのまま崩れた壁にあいた穴から中の様子を共に確認させようと引き寄せる。
かつてはその威厳を惜しげもなく披露し君臨していたであろう白亜だけが今尚色濃く残る塔。年月の経過とともに白壁に多少の傷や穢れを許してしまったもののゲシュペンストの侵入以前はこれほどまで荒廃してはいなかった、とかつての様相を知る者は語る。
しかし彼らの根城になってしまった現在では眩い白亜の壁には飛び散った鮮血の跡が繰り返された殺戮を描き、壁を気にする必要のないゲシュペンストの腕力によって至る所が粉々に砕かれ通路には大小の破片が散らばり本来の進路を邪魔している。
そして極めつけには頂上目前の広場の壁に、この塔において最も重要な存在であることを象徴する獣の彫り物が誂えられていたが、殆ど崩れ去っておりどのような姿をもっていたのか想像することすらできなくなってしまっていた。かつてはさぞ美しい外観と内装を構えた古の塔。その目の当てられぬ惨状の果てに、現在では国の理から外れ、己の自由を優先したならず者たちの滑降の住処となっていた。

「あれか?」

そんなならず者達が集まり根城を奪い合うのは自然の摂理。強い者が勝ち取り、弱い者は新たな根城を探すための彼の場所から去る。それが自然のあるがままの姿だが、とうに理性を失ったゲシュペンスト達に自然の理が通用するはずもなく、連鎖の頂点に君臨したものによって弱者の命は風前の灯火となっていた。狂暴性を増したゲシュペンスト達を道中見てきた凛達からすると、あと少しプロタクトへの報告が遅れていたならば、ならず者達の命はなかったことは想像に難くない。
加えて、普段の狂暴性に加え通常群れで行動することはないゲシュペンストがこの塔の内部にいるものに限り統率のとれた行動をとっていたせいでより攻略難易度は上昇。頂上に辿り着くまでに通常より時間を要したことにより彼らの命のタイムリミットはより短くなっている。
統率の元凶をついに見つけることが出来たころには陽が落ちようとする時間になってしまっていた。

「fEUErですね…」
「そのようだね…」

ハルトの後ろから同じように覗き込んだヒュリが元凶の名を囁く。

「ここを根城にして他のゲシュペンストを焚きつけ支配していたというところかな。fEUErにはゲシュペンストを従わせる力があるらしいと言われてきたけれど、どうやら本当のことだね」
「じゃああいつを始末しちまえば他のゲシュペンストもどっか行くってことか?」
「そういうこと。問題はfEUErの戦闘力、やつは単体でも非常に強い個体だからこれは一筋縄ではいかないな…」

逡巡する他のメンバーに倣い凛も別の穴から対象を確認する。
魚の骨のような部分をもち、視界にとらえた瞬間はそれが頭部かと思ったが注視すると骨の部分は彼らにとって鎧の役割を持っていることがわかる。fEUErの本体はオーラのように揺らめき広がる炎で今回相対している個体は目が冴えるような銀を帯びている。以前、別の任務で他の島へ行った際に同じ種類のゲシュペンストを見たことがあったがその時に出会った個体とはオーラの色が違った。
基本群れで行動することはなく個体数も少ないため遭遇率も低いが、彼らがもつなにかしらの琴線に触れてしまうと激昂し、周囲のゲシュペンストを操って支配化に置き自らを守らせたり、攻撃態勢をとらせたりとまるで全てを掌握した暴君の王のような振る舞いをする。
それは自身が戦闘能力をもたないゆえの行動かと言われてきたが近年になってそれは誤りで、個体としての戦闘能力はかなり高いにも拘わらず先んじての行動は操ったゲシュペンスト達の手によるもので攻撃対象を弱らせてから最終的に重いトドメを刺すのがfEUErの戦闘パターンだった。それは二度と立ち上がることのないように、恐ろしい執念を感じるほど念入りに施される。
戦闘訓練を積んでいる熟練のプロタクトでも連携を組み、複数人で挑まなければ命はないと呼ばれるほどfEUErの対象を抹殺する意志の強さ。そこまで言わしめるfEUErの盗伐に本来なら凛個人の戦闘能力を顧みて今回の任務に加わることは難しいと思われていたが、そんな彼女にはつい最近できた戦況を有利に運べる秘策ができた。

「凛さん」

ハルトの考えた作戦はこうだ。ここへ辿り着くまでに粗方のゲシュペンストは排除してきた。fEUErの周りを護衛しているゲシュペンストも残り少なく、ネオがfEUErをひきつけている間にそれらをハルトとヒュリで片付ける。その間は凛はネオのサポート担当に振り分けられた。

「逃げ回りながら矢でけん制してね。凛さんに攻撃がいきそうになったらネオくん、頼んだよ」
「おう!任せろ!」
「…あのさ」

全員の視線が凛に集まる。ふと思いついた作戦を小さく伝えるとハルトは柔らかく微笑み彼女の提案を作戦に組み込んだ。


ーーー


周囲を警戒するようにあたりを見渡す動作を繰り返すfEUEr。
理性などとうに失われていると思われたゲシュペンストの中でも高位にあるfEUErにはまだ警戒心というものが残されているのだろう。だが周囲を見渡すだけで大きく動くことはない。止まった的を狙う事にはもう慣れた凛がfEUErの骨の頭部ではない炎のオーラの部分に狙いを定める。
魔法を扱うことの出来ない凛が唯一出来る皆と共に対等に戦える方法。
一つ軽い深呼吸ののち別の支部にいる顔見知りのプロタクトに特注で作ってもらった相棒の弓を構える。体力のない凛でも長時間持って戦う事が出来る仕様になっており、持ち運びにも考慮して軽さを重視してあるにも関わらず程よい重量感は照準の安定性を約束する。それだけ聞けば機能面に特化しているかと思うがデザインにも職人のこだわりが見え羽根を模したモチーフは設計上必要な無骨な箇所をうまく隠した文句のつけどころがないオーダーメイド。
上弦の末端には鮮やかなスカーレットのリボンがあしらわれ風に揺らめいている。そのリボンと持ち手のやや中間あたりにあるカメオに手を添えてゆっくりと回し始めた。彫られている女神の視線が目的の箇所にあうまで回し、ぽんと軽い調子で叩くと乾いた川を湧き水が満たすように彫りの隙間を金色の輝きが走る。その輝きが失われぬうちに凛はfEUErに狙いを定めて一気に矢を放った。

「!!」

見事命中したそれは金色を帯びた蜘蛛の巣のような形に一瞬で広がりfEUErの体を包み込んで動きを封じる。麻痺状態に陥ったfEUErに一定間隔で電撃の刺激を与え抵抗を許さない間に死角からネオが飛び出し一気に間合いを詰め身の丈ほどある戦斧を振り下ろした。重い一撃を与えられたfEUErは悲鳴のような鳴き声をあげながらねじ伏せられる。
不意をついた強烈な一撃にはさすがのfEUErにも効いたのか小刻みに身を震わせておりすぐに起き上がる様子はない。すかさずネオが重い連撃を繰り出していく。無抵抗なうちにダメージを重ねることによってできる限り短期戦に持ち込もうとするが、仕留めるのに困難を極める個体とあってそう簡単にはいかず幾度目かの連撃を受けた後、炎の柱を噴き出してネオを退けた。

「チッ…」
「ネオ」
「頼む」

ヒュリはすぐさまfEUErの反撃があたった箇所に回復魔法を施しながら共にネオの体力も回復させる。その間、一方的に攻撃されたことに怒り暴れだそうとするfEUErにすかさずハルトが弱体化魔法をかけ仲間の防御力をあげながら簡易的な盾を展開しこちらへと新たに放たれた火柱による被害を最小限にする。
一糸乱れぬ連携に遠目から様子をみていた凛は思わず感嘆の溜息をもらす。しかし気を抜いていられる時間も長くはない。弱体化されていようが構わず今自身が出来る最大の攻撃を繰り出して己に危害を加えるものを退けようとするfEUErの攻撃は時間を重ねるごとに激しくなり押され気味になってきた。やがて戦況は一気に不利になってくる。

「…ッ…ハルトさん!攻撃が一旦止まらなければこちらが…!」
「そう…だね…でも隙が…」
「ああクソッまどろっこしいんだよ!!」
「ネオ!!」
「待って!!」

一方的にやられるだけなのが性に合わないネオが周りの静止を振り切り単独行動にでる。己を強化しながらfEUErの攻撃を避けて一気に間合いを詰め、勢いのまま突進しfEUErの体制を崩す。縺れあう様に転んで行ったが最初に起き上がったのはネオだった。魔法はあまり得意としていない彼だったが、その中でも主属性を駆使し土で柱を作り上げ未だ起き上がることが出来ずにいるfEUErの周囲に展開させて動きを封じる。普段の様子からは想像がつかないほどの手際の良さだが、戦いとなれば人は良くも悪くも変わる。
しかし閉じ込められていただけでおとなしくしているfEUErではない。両腕を高らかに掲げ力を籠め始めると眩い光の半球が両の手の中央に出来始めた。

「やっべ!!」
「ネオ危ない!!!」
「くっ、ここじゃ盾も間に合わない…!下がるんだネオくん!」
「言われなくても…うあ!」
「ネオ!!」

自身だけが不利になるのは気に喰わなかったのか、咄嗟にネオを拘束し逃げられないようにするとため込んだ力を一気に彼に向けて放つ。あまりの執念に一瞬呆気にとられるも咄嗟の判断で両手の拳を地面目掛けて勢いよく振り下ろし大穴をあけ階下へと落下することで攻撃を避けた。

「あっ…ぶねー!!」
「ネオくん!怪我は!?」
「ない!すぐ戻る!」

言い終わるや否や階段へと駆け出したのか語尾は遠ざかっていたが、あの様子ではまだ戻るのに時間を必要とするだろう。主戦力を失ったメンバーは一気に不利状態となってしまい防戦一方となった。

「(まずい…)」

こうなってしまうと凛が戦線に復帰し彼らと肩を並べても足手まといになることはこれまでの経験上よくわかっていた。おとなしく敵に見つからぬよう出来る限り気配を殺し感づかれぬよう戦いの終わりを待つのが今までのパターンだった。

「(…今回はそれじゃあ…だめだ…)」

圧倒的実力差をもつ敵と対峙して改めて己の無力を痛感するが今回は震えて事が終わるのを待つだけではいられない。先ほどから足元で自分と同じかそれ以上に震えて狂暴化していくfEUErを窺っているもふりんを見やると彼女の視線に気がついたのか甘えるように足に擦り寄ってきた。

「(なにか…打開策は…)」

ない、というわけではなかった。戦闘中に一度だけ使用することが許された、凛にとっては少し危険な一矢が頭をよぎる。使う状況には至らぬように、けれど万が一のためにとカルクから教えられていた手順を思い出しながら、まずは腰に巻き付けていた如何なるものの侵入を決して許さないよう頑丈につくられたグローブを両手にはめた。そして戦闘用にそろえた荷物が詰められている小さなポシェットから厚手のスヌードを取り出して頭から被り口元をすっぽり覆えるよう位置を整えると、カメオにそっと触れて普段は決してあわせるところのない場所に女神の目線を合わせ音を立てぬように圧を加える。やがてそこは紫の色を帯び小さく煙が立ち込めては怪しく揺らめき始めた。
これで下準備は整えられた。あとはfEUErの視界に入らない死角となる場所をみつけるために注意深く辺りを観察する。
するとふいに足元で震えているだけだったもふりんがよじ登ってくるような感触が伝わってきた。視線をうつすと不安げな顔をしながらも勇気づけようとしているのか短い手を小刻みに動かしまるで凛を撫でるような仕草をしている。

「(自分だって…怖かろうに)」

一刻も早くこの状況を打破しようと必死に勇気づけようとしているもふりんに笑いかけながら頭をそっと撫ぜてやる。そして再び視線をあげると丁度視線の先に当たる場所に死角となりそうな瓦礫の山をみつけた。もふりんだけを安全な場所にうつして気配をとられぬようそっと立ち上がり出来る限り素早く移動する。目的の場所に辿り着き改めてfEUErの位置を確認した。


「(いけそうだな…)」

最初は全くと言っていいほどこういった索敵はできなかった凛だったが、回数を重ねようやく形になり自分が思い描いていた通りの場所に対象を捉えることが出来るようになってきている。
チャンスは一度だけ、外せばもうこれほどの好機はやってこない。自分が気付かれてしまえば全てが終わってしまう。元の世界に帰還すること叶わず。
全神経を紫の一矢に込め、ハルトとヒュリに夢中になっているfEUErの背部に狙いを定め、ひと呼吸おいて一気に放つ。

「!!」
「なんだ!?」
「fEUErが!」

命中した一矢は紫の煙をあげfEUErを包み一瞬のうちにその体を毒で蝕んだ。己の体を浸食していく不快な熱と痛みに空間を無数に裂くような叫びをあげながら藻掻き狂うfEUEr。
その背後に控えた凛の姿を捉えたハルトは素早く拘束魔法を何重にもかけさらにfEUErの動きを封じていく。それによって浮遊していたfEUErが地面に転がり落ちた。この機会を優勢に転じさせるために体制を立て直そうとするが、目のような闇の窪みがぎょろりと視線を動かし己を毒で蝕んだことが凛であることがわかるとfEUErは制限された動きの中で出来る最大限の反撃を繰り出すために再び攻撃態勢に入り始めた。

「凛ちゃん!!」

fEUErが生み出す眩い銀を帯びた炎の玉、自分に向かって一直線に向かってくると頭で理解したときにはもう反射で避けられる範囲を超えていた。衝撃を察知した際に人が出来るせめてもの抵抗は腕を顔の前で交差させることくらいだ。目を硬く瞑りやがてやってくるであろう熱に絶望する。しかし完全に視界を闇で閉ざす直前、自分と炎の間に割り込む姿を視界の端に捉え目を開くとそこには柔らかな桃色。輝くそれはまるで盾のように凛を守るよう立ちはだかる。

「きゅうっ」

短く甲高い悲鳴をあげながら衝撃には耐えられなかったのか胸に飛び込んできた桃色と共に後方へ大きく吹き飛ばされた。皮膚に触れるにはまだ耐え難い熱を仄かに残したもふりんが凛の腕の中でぐったりしている。

「も、ふ…り…」
「きゅ…」

途切れながらもいまだ呼び慣れぬ呼称で声をかけてやると弱々しいが健気にも答えるか細い声が耳に届いた。その声で自分をかばったのだと頭の理解が追いついたときにはfEUErは凛のすぐそこまで迫ってきていた。次こそは外さないという執念と気圧に押されながらこれ以上小さな命を傷つけられぬよう力いっぱい抱きしめる。

「ーーー!」

耳に未だ馴染まぬ不思議な言語が祈りのように響きわたる。瞬間、fEUErから一定距離の周囲を含めたすべての事象が緩慢になり、一部だけを切り取って透明な箱の中に空間ごと閉じ込められた。動きが鈍っている間に視界の先から前へ進むことしか知らぬ猪のようにネオが武器を構えながらこちらへ向かってくる。

「今だ!ネオ!!」
「うらああ!!!」

弱点である背後からネオの戦斧が振り下ろされ、fEUErは文字通り真っ二つに裂けた。黒く窪んだ眼のようなものと視線が交わり見開かれたとわかったときには互いに声もあげる間すら与えられずそれはまるで蝋燭の炎を吹き消すようにこの世からあっけなく消えていった。

「わりぃ!遅くなった!!」
「いや、いいタイミングだったよ。本当に助かった」
「ありがとう。ネオ」
「いいっていいって!凛、だいじょうぶ…か…」

消え去った脅威に安堵し各々声をかけあっていたが、凛がその腕に弱り切ったもふりん抱いていることに気が付くと一度穏やかになった空気にまた緊張感が奔る。

「もふりん!?どうしたんだ!?」
「私を…かばって…」
「…ヒュリくん、頼めるかい?」
「もちろんです。ハルトさんは彼らを」
「ああ、任せて」

ハルトが去り、ヒュリがもふりんに手を添える。火傷が多少あるが命はまだ繋がっているとわかるとすぐに治癒魔法をかけようと掌に力をこめた瞬間、弱っているにもかかわらずもふりんは必死に暴れ抵抗し始めた。

「ちょ、ど、どうしたの!?」
「きゅう…ぎゅいい!」
「なんだなんだ!?」
「嫌がってる…!?でも、どうして…」

その後も魔法をかけようと手に力をこめる度に暴れるもふりんを見兼ね、仕方なく持ち合わせていた救急箱で応急手当を施すとようやく落ち着いたらしく、薬湯を飲ませて安静にさせているとハルトが戻るころには眠り始めていた。

「あれ、包帯?」
「ハルトさん」
「よ、奴さんどうだった?」
「無事上に引き渡せたよ。あとはあちらがどうにかしてくれる。けど、もふりんさんはどうしたの?」
「それが…」

ヒュリが治療にあたれば傷跡が少し残るくらいで患部は完全にふさぎなおす事が出来るため普段の治療に包帯は必要ない。一連のもふりんの行動を伝えると思うところがあったのかハルトは口元に手をあて思案する。

「触診は嫌がらなかったので傷口を見てみたんですが、思ったより傷口は浅かったし酷くなかったので薬湯を飲ませるだけで治癒魔法はしませんでした…誤り、だった、でしょうか…」
「ううん、嫌がるのを無理に治療しても時間がかかるだけだからね」
「でもなんで嫌がったんだろうなー」
「最初のときは抵抗しなかったんだけれど…こればっかりは支部長に報告して一緒に考えてもらった方がよさそうかな」

目の前で交わされる言葉をほどよく聞き入れながら、凛の意識は腕の中でぐったりと眠っているもふりんに注がれていた。

「(守るために…連れてきたのに…)」

成長を感じられる場面に立ち会う度、うまくいかなければそのことに落胆することが今までいくらでもあった。しかし今日の心の沈み具合はこれまでの比でない。情けなさに締め付けられる思いで視線を落とす凛に考えがまとまった一行が遠慮がちに声をかけるまで俯いたままの彼女の意識は失意と共に思考の渦潮に囚われていた。

ーーー

視界に靄がかかったようなぼんやりとした意識が現に戻ってきたのはもふりんを寝床に置いてやってからだった。薬を飲んでからはずっと眠っているが安静にしていれば己の治癒力で元気になれるはずから時折呼吸だけは確認してほしい、とヒュリに言われていたことがふとよぎりその体にそっと手を当てると断続的に体が安らかな上下運動をしているのがわかり安堵する。

「…守るって、言ったのに…ごめんね…」

雨露が葉から零れ落ちるように自然と口から落ちたのは謝罪。いくら戦闘経験を積んでいても不測の事態に適切な対応をとることができなければその経験はなんとも無意味となってしまう。頭ではわかっていてもいざ痛感すると心が深く寒い場所へ沈んでいくのを感じた。

「きゅ…」

ふいに聞こえた声に伏せていた顔を上げる。穏やかに眠っていたもふりんが薄目をあけてこちらを見つめていた。暗闇に揺らめく瞳は終わりかけた蝋燭の炎のように頼りなさげに揺れていたがそれでも生きんとする強さは感じて取れる。短い両腕を緩く動かしこちらへ向ける動作はこの幼い生き物が抱きかかえてほしい時の合図だった。しきりに同じ動作を繰り返してこちらをみつめていたその意図を汲み取り抱いてやると首元に顔を摺り寄せてくる。一定間隔で同じ動作を繰り返すもふりんの仕草には穏やかな優しさが感じられた。

「もしかして…慰めようとしてくれているの?」
「きゅう…」

少し火照った体を懸命に動かし健気に思いを伝えてくる。その姿に応えるため背中を撫ぜてやると嬉しそうに目を細めた。人間のように細かく言語を使い分ける術を持たずとも動作のみで労りの気持ちを伝えようとする姿は美しい。そして言葉にせずとも生き物のこういった感情を汲み取り寄り添う事のできる強さに人同士の交わりだけでは決して得られぬ感情を覚える。

「君は…強い…」

自分は失った生き物がもつ根本的な強さによって沈み切ってしまっていた心は少しだけ持ち直してきた。人に諭されれば耳を塞ぐのは余計な言葉の積み重ねのせいだが、それがない生き物からの励ましは凛の中に垂直に落ち空の心満たす。

「ありがとう、もう大丈夫」

怪我をした体に無理をさせまいと声をかけると安心したのか再び眠りにつくもふりんを定位置に戻してやる。寝息を立てる小さな命を一撫ですると、眠りの世界を彩る鮮やかな星が煌めく夜空へと視線をうつした。

「…やるか」

誰にも届かぬ小さな決意を音にして、一日を終えるために眠りにつこうと窓に手をかける。しかしその手は凛の意志を無視して震えるように揺れている。先ほどまで静寂を守っていた窓枠がかすかにカタカタと揺れていることに気づき思わず後ずさった。

「じ、地震?」

最初は元居た世界でも幾度か体験のあった自然現象かと思っていたが、やがて大きくなるそれは地面が揺れているというより空間を揺らしていると表現したほうが正しく、一度は後退したが思わず周囲を確認するために窓から身を乗り出した。
そんな彼女の視界を巨大な影が包み辺りは夜よりも深い闇に囲われる。その上に鎮座し器を頂くのは葉のような形を帯びた鱗の連なり。全身に行儀よく並びいくそれは葉とは似ても似つかない強靭さをもち、色は宵闇を照らす僅かな光を反射させ暗い視界でも銀を帯びていることがわかる。空さえ覆い隠す巨体は重力を感じさせない浮遊をし、空に己の体が鎮座することを許されているのは自身がもたらす大きな翼の力強い羽ばたきによるもの。獰猛そうに見える顔つきは夜の静謐な大気の中では牙の鋭さすらそれを形作る美しさの一つにすぎず静観さの方が勝る。恐怖ではなく畏怖によって対峙した相手を圧倒するその生き物を、空想を描く物語の中でだけみたことがある。名を

「ど…うわ!?」

呼称を口にする前に再び強い風が舞い上がり彼女の体を部屋へと押し返す。慌てて体制を立て直し窓から身を乗り出し周囲を見渡すがもう姿を捉えることは出来なかった。
あまりの出来事に放心しながら、驚愕の心のまま茫然とベッドに倒れ込む。そのまま今の事象を現実として受け止める心を整えるまでに先にやってきた眠気には抗えず閉じられた瞳は太陽が再び地上へと顔を出すまで開かなかった。

ゆえに、時折傍らから聞こえるかすかな荒く熱い息遣いに凛が気づくことはなかった。

泉の国のトレーネ 番外編

本編となる泉の国のトレーネは現在制作中です。
公開まで今しばらくお待ちください。

泉の国のトレーネ 番外編

―――ホフノーグ王国。 そこは【クライノート】と呼ばれる石に宿る【魔法】と【固有の能力】をもった人々が生きる5つの島からなる小国。 小さな魔法の島国はのちにマイレンシュタインの日と呼ばれる時を境にゲシュペンストなる異形の者達が国中に蔓延り、人々はある限られた条件下でしか生きられなくなった。 彼らに対抗するため、そしていつかの平和を願い魔法を司る王直属の政府機関widdeRにより発足された公認組織・プロタクトのもとへ光の導きによりやってきたのは、 ―――特異なことはなにひとつない、いたって普通の女子高生だった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-23

CC BY-NC-ND
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