月と野原
野原では、ちいさなこどもたちが、なんらかの舞いを、おどっている。はだしで。月が、はんぶんにわれたので、そろそろ、この宇宙も、おわりなのかなぁと、きみがつぶやく。この宇宙、という、表現、この宇宙とは、はたして、どこからどこまでのことを、この宇宙と呼ぶのだろうと、ぼくは想う。はだしの、ちいさなこどもたちは、七人いて、おどりは不規則で、自由な感じだ。儀式めいているけれど、いったい、なんの儀式なのかは、わからない。豊穣だの、無病息災だの、そういったちゃんとした祭事のようにもみえるし、ぜんぜん、まったく関係のない、こどもたちの遊びの延長にも思える。
宅配ピザやさんのバイクが、アスファルトの道路を、右から左へ、まっすぐ走ってゆく。野原は、町のおおきな道路のかたわらにある。金平糖には寂しさが宿り、金環日食がもう観測できないことを嘆くのは、こどもたちを生んで育てた存在である。永遠のひと、と町では呼ばれているけれど、きみの、この宇宙、とおなじで、永遠のひととは、いったいぜんたい、なにをもって永遠なのか。寿命か。ぼくらは、無知の頃に植えつけられたものを、いつまでも信じているような気がしている。おとなになっても、なにかがおかしいと感じても、永遠のひとは、永遠のひとでしかなく、七人のこどもたちは、野原で舞いおどるこどもたちでしかない。
こどもたちの服は、いつも白い。
綿毛のようだし、ひつじのようだし、天使のようでもある。
きみが、魔法瓶に淹れてきた紅茶をふたりぶん、ステンレスのカップに注ぐ。
時間を持て余している、ぼくらは、こどもたちのおどりを観察して、月がわれたことでこれから起こりうる緊急性の高い事案を想像して、ゆうがに紅茶を飲んでいる。
月と野原