ひとりごと
「無駄なこと」に関する意味の論
「文系学問」ことさら哲学や社会学などと言った実学から遊離した学問を学ぶ意味を否定する言説が多くなっている気がする。まあ実学を重視したくなる傾向というのは古代エジプトの時代から既に存在していたようなのでこれ自体は人間の性というか、どうしようもないものなんだと思う。
でも改めて社会学であったり哲学であったりの学ぶ意味を考えると、言葉に詰まってしまう。実学でない以上は経済学であったり科学や生物学とかと比べて現実へのコミットメントというのは小さい。だから現実に役に立つということを根拠薄弱にアピールしてもたぶん説得力がない。これらの文系学問を学ぶということで、なにかしらが自分にとって血となり肉となり人生を豊かにしてくれるのだという確信はあっても、その「何かしら」がなんなのか分からなければ誰もこれを信じてはくれない。
最も、これらの学問分野が法学であったり政治学であったりに影響を与えて現実社会の変革を支えていたりするわけだから、社会への影響力が全くないわけではない。ただ、この影響力というのはあくまでも間接的だし、これをことさらに強調しすぎるのは「自分に都合の良い言説を作って自分に都合の良い社会を目指す営為」がこれらの学問という誤った帰結をもたらしてしまうだろう。社会学であれなんであれ、真理への到達というのが(たとえそれがバカバカしいほどに見えないものであっても)根本命題なわけだから、それを放棄した言説というのは格に値しない。
あれこれ考えてみたけれども、「僕が哲学であったり社会学を好き好んでかじってる理由がなんなのか」という内向きの問いに至った時、至極単純に楽しいからだと思った。じゃあこの楽しさはどこから来るのか?そこに実学としての側面を見出していないからではないか!
実学という「役割」を付与された学問は実際に役に立つように「勉強する」という一種の強制を生み出す。強制は楽しいものではない。少なくとも僕はこれまで多くの学問を無駄だと認識してきたし、その認識に従ってきたおかげで学問を楽しんできた。無駄だからこそ楽しいのだ。無駄であることに「意味」がある。意味がないことに意味がある。しかし、これらの学問に「意味」が付与された瞬間、これらは色褪せて見える。
腰振りというシンボル
Pornhubが止められたせいで、世の中の多くの男たちは新たな性処理動画を求めて路頭を彷徨うこととなった。私は以前からyoutubeの中に腰振りダンスという動画の存在を感知していたため、そこに向かった。
youtubeに上がっている腰振りダンスの多くは他のアプリ(名を言わずともわかることだろう)からの転載であり、焼き直された、おそらく登場している彼女たちにとって今後デジタルタトゥーとなりうる動画である。彼女たちにとって私が今晩行ったような使途は本来想定していたものとは異なるだろうし、それは「キモさ」を持つべきものだといえよう。
もともと彼女たちは「大人」のような行為として「腰振り」をシンボル的に捉えていたに過ぎない。多くの場合、画面の向こう側にいるくだらない男たちに奉仕する目的でそれを踊ったわけではなかろう。具体的にこの動作が実際の性交渉の場面でどのように作用するのか正確に理解しているわけではなくとも、「腰振り」は大人という単語と結合状態にある。そして私はそのシンボル化された「腰振り」をキャッチし、それを性交渉の具体的な光景に読み替えた上で私の行為をする。
この一連の動作には、腰振りの提供者側がシンボル化された「抽象」を示し、それを私が「具体」に読み替えるというプロセスが存在しているわけである。そして立ち現れた「具体」はどこかの知らない女性の窪みであり、私は自らの体液をそこに向かって放出するわけである。
ひとりごと