DESTINY~財布から始まる恋~[連載中]
カクヨムで不発弾であまり評価されなかったのでこちらにも投稿しました。カクヨムとは少し内容が異なります。ルビは著作者以外の転載防止の為、そのまま星空文庫のルビ設定はしてません。カクヨムでのルビの《》の仕方にしています。画像は作品とは関係ないです。最初の部分、カクヨムより少し省略しています。財布からの彼との出会いからの方がより楽しめるかと考えたからです。
序幕
季節は春のこと。
「俺と付き合って下さい」
桜が舞う会社の途中の桜通りでハッキリと言われた。
私、如月此葉は大手デザイン会社に勤めていた。
告白されたのは人生初のことだった。
告白された事がない為、どうしたらいいか分からなくなった。
(傷つけたらどうしよう……断り方が分からない。断りたくない、意識した事もあったし。)
そして、口から出た答えがこれだった。
「考えさせて下さい。たくさんのお時間を要するかと思います。辛抱強く待って下さると嬉しいです」
桜が頭の上に一枚落ちた。それを先輩は片手で掬ってみせた。
「分かった。君の返事を長くいつまでも待ってるよ、今日もお仕事頑張ってね」
(こんな人が行き交う中、告白だなんて恥ずかしい……それに先輩の言葉がどれも軽い言葉にしか聞こえない)と私は思った。
「こちらこそ。先輩もお仕事頑張って下さい」と言って手を振った。
同僚や上司にも恋渕先輩に告白された事をやたらと聞かれたり、話を振られたりした。
私に告白してきた上司は上のフロアに所属していて、私より4年先輩だった。年は2歳差だ。
髪色はピンク色でスーツが似合う整ったイケメン上司だった。その先輩にはメールで“俺が作った服を着てほしい”とか
“その服、君が一番似合うから、着てみて”など以前からアプローチはされてきた。
前から先輩の気持ちには気付いていたけれど、なかなか勇気が出せなかった。先輩の事を意識する事だってあった。
だけど先輩の気持ちが分からない。噂によれば、女性にすごくモテていたらしいけど、全て振っていたらしい。
なぜ私を選ぶのかも分からない。部署も違うのに。
私は告白された事が無かった。何故なら中学からは女子校だったからだ。小学校の頃はいじめられっ子だった。
その時、救ってくれた男の子に片思いしてた時期もあったが片思いで終わってしまった。
恋愛をした事は1度だけあった。大学生の時の事。告白もお互いせずに自然の流れでそういう関係になったが、一週間で別れた。
デートも2回した。喫茶店と遊園地。楽しかった。だけど幸せは長くは続かなかった。彼は浮気をしていた。私の容姿が駄目だって。服がダサいって。顔も可愛くないって。
だから整形もした。服の勉強をする為に大学を中退してまで、専門学校にも通った。誰かの為に尽くし過ぎだってよく言われる。
分かってる。それくらい。そして、念願の第一志望の大手デザイン会社に一発で採用されて入社した。正直、彼には見返してやろうと思った。
次の日、私は二日酔いで会社を休んだ。
もう日が沈む。
「おやすみ」とストラップに向かって言う。このストラップは初めて出来た彼氏と一緒に遊園地に行った時に買った物だった。
そうして、眠りに就いた。
第一節 運命の出会い
あれは確か雨の日のことだった。その日は終電を逃したので、歩いて帰ることにした。雨に濡れて桜が水たまりの中で散っていた。桜の花先が茶色くなっていた。
人混みの中、早足で歩いていると、“パサッ”何かが落ちた予感がした。
「あの」振り返ると茶髪の私より若そうな青年がいた。高校生くらいだろうか。
にしても私、バッグのチャック開けっ放しだったなんて。恥ずかしい。誰かとぶつかった感じもした。財布を落としたのか。ベージュの柄で閉じる場所に硬いプラスチックのリボンが付いている。何ともチャーミーな財布だ。お気に入りの財布だった。
「それ、私の財布です。拾って下さり、ありがとうございます」
財布を拾ってもらっただけなのに、ときめいてしまった。顔を上げると恋渕先輩より遥かに感じの良い草食系っぽいイケメンだった。お淑やかで大人しそうな。茶髪で髪も整えられている。
そう言って立ち去ろうとした。が、その青年は傘を差していなかった。ザアザア降りなのに……。
「あの、もし良かったらお礼として、傘に入れてあげましょうか?」
「あ、はい」
しばらくは無言の間が続いた。水玉の赤い傘に男女が2人。ザアザアと打ちつける雨音だけが耳に入ってくる。相合い傘なんて初めてだった。距離が近いから心拍数が上がる。それにその青年は私の手に重ねるようにして手を被せてきた。思わず、手が震えてしまう。そして肩が濡れる。春なのに寒い。
「あ、あの傘はどうされたんですか?」と私が静寂を打ち破った。
だが、青年は何も言わない。即答できない質問もあるのかと数秒待ってみた。けれど沈黙のままなので、「どうして傘差さないんですか?」とさっきより大声で聞いてみた。
すると「ビニール傘はこの前壊れた」という返答が返ってきた。
「壊れたなら新しいの買えばいいじゃないですか」
「それが金が無い」
金が無いとは一体どういう事だろうか。無いなら両親に借りればいいし、なんなら自分で稼げばいい。それなのにこの青年は何を言っているのだろうか。それに傘だから巨費が必要なわけでもない。
「事情は何となく分かりました。それじゃあ、バーにでも行きません? 私も疲れましたし」
「そうですね」
こうして、二人はバーへと入っていった。
そのバーはどこかロマンティックで洋風なお店だった。今もなお、ジャズが流れている。時を忘れてしまいそうだ。マスターは40代くらいだろう。髭を付けている。
「何か頼まれますか?」
急に聞かれたので止まってしまったが、「私はレモンサワーで」と注文した。
(年齢聞かずに同行してきちゃったけど大丈夫かな……)青年を見て思った。
「じゃあ、僕は赤ワインをお願いします」青年は迷う事もなく丁寧に注文していた。
「えっ、今いくつ?」
「22です」
22!? この見た目だと10代でも通用する。動物に例えるなら猫か狐か狸だ。
青年は慣れた手つきで赤ワインを一杯口にする。
「美味しい」
「それは良かった」マスターが微笑む。
他にも客はいるが、男女の客は私達だけだ。
「趣味は?」
「釣りかな。あとは今してないけどゲーム」
「してない? 仕事で忙しいから。とか?」
「仕事もしてないよ」
この言葉にはさほど驚かなかった。大学生かもしれない。
「じゃあ、勉強かな」
「そうだね」僕は嘘を吐いた。だって、君に真実を知られたら、離れていってしまうから。
「ファッションが趣味か。服とか好きなの? 私ね、実はデザイン会社に勤めてるんだ」
「そうなんだ」青年はまるで知られたくない事があるかのように下を見た。
「どんな服が好きなの?」
「お洒落な服かな」
青年はカジュアルな服を着こなしている。そして、スタイルも良い。登山に行く時の服装みたいだ。
「やっぱりそうだよね」
「好きな食べ物は?」
「最近、山菜と茸と焼き魚しか食べてない」
(そんなことってある? 待って、この子異常だわ)
「へーその中で好きな食べ物は?」
「無いけど寿司は好きだよ」
「美味しいもんね」
寿司は日本料理の定番だ。海外にも寿司をモデルにした料理があるらしい。刺身は新鮮な物が一番だ。海鮮丼も美味だ。寿司は食感も良い。
「私は苺パフェが好きかな」
「そうなんだ」
この青年は私に興味が無いらしい。無関心といった表情で私を見てくる。大きなリアクションも見せない。苺パフェは甘くて美味しいのに。この青年はもしかして嫌いなのか?
「付き合ってる人いる? 結婚してるの?」
(質問してくれた……! と思ったらまさかの恋愛)
「付き合ってる人はいないけど告白の返事できてない状態。結婚はしてないよ」
「そうなの。ちなみに告白されてから何日経ってるの?」
「3週間」
青年は口が開いたままだった。ありえないという顔をしている。
「それはいくら何でもマズイんじゃない? どうして決まらないの?」
その質問に私は答えるまで時間が掛かってしまった。出会ったばかりの人にペラペラ喋っていいものなのだろうか。
「それは……」一息置いた後で「怪しいと思ったから」と答えた。
「どこらへんが怪しいと思ったの?」と青年は上目遣いで聞いてきた。
だけど、これといった理由は上手く言えず、「分からない」と言った。
「だったら振っちゃえば?」と青年は言った。
私よりも決断力があった。青年の言う通りだ。
「だけど振り方が分からなくて……怖い思いもしそうで……それに女性社員からの問い詰めも面倒で機会を逃してしまうの」嫌そうに恐れ戦きつつ、身を竦めた。
「そっか」青年は気持ちが分かったという顔をして、この時は頷いた。
「そろそろ、行こっか」
「待って!」
私はそう言うと、背伸びをして斜め45°を忘れずに唇を彼の唇に軽く当てた。くっつくこと約15秒。甘くてほんのり酒の香りがする苦いキスでもあった。お互い顔を赤らめた。色っぽかった。バーの客はこちらに気付いておらず、見ていない。大人の恋愛のようだった。
「もしかして酔ってる?」
「酔ってないよ」私は苦笑いすると彼のほうをもう一度見た。
彼から伝わる温かい体温。滑らかな唇であった。
そして、バーを出た。彼はまだ現実を受け入れられてないようだ。手をパタパタさせている。私もそれは同じだった。これが人生初のファーストキスだった。勿論の事だが動じている。体の震えが止まらない。名前も詳しい事を知らない間柄の口づけ。
第二節 テント暮らし
「暗くなっちゃいましたね」
「そうだね」
雨はまだ降り続いていた。街の店は明るいが、少し離れると街灯が無い場所もちらほら出てくる。時刻は午前2時を過ぎている。
「私、終電逃して、あと3駅なんですけど。歩いて帰ろうと思ったんですけどあと何分くらいでしょう? 1時間あれば着きますかね?」と言うと、「1時間以上かかりますよ、絶対。何でそんな安直な考えに辿り着いたんですか?」と返されてしまった。
「もう、今夜は僕のとっておきの秘密基地に泊まらせてあげますよ」
一瞬ドキッとした。二人きりで一夜を共にする。現実離れしてきたようで寒気がした。
「え、いいんですか。ありがとうございます」
とは言ったものの、秘密基地という呼び名が気になる。
「こっちについてきて下さい」と彼が言うので、私はついていくことにした。20分くらいだった。
そうして、辿り着いた場所は川が目の前を流れる場所で林の中だった。葉が沢山ついている丸みを帯びている造り物の木のような所をすり抜けてきた。
彼は棒のような三脚を組み立て、シートを張った。どっからどう見てもテントだ。私用のテントも用意してくれるのかと思いきや、用意してくれなかった。
川には丸太が掛かっている。彼に聞いてみた。
「この丸太の先には何があるんですか?」そう聞くと、彼は険しい表情をして怖がった。
「熊が出るよ」
「は?」いきなりの生命危機に固まってしまった。
「だから、熊だって。僕も遭遇した事ある」
(えーっ)
「まぁ、本当に危険になったら爆発させるから」
(爆発?)
彼は手にランタンを持っている。これから、何をするのかと思って眠い目を擦り、待っていた。
すると、丸太の上にランタンを置き、釣竿を持った。そして、川の中へ。しばらくすると「釣れた!」と言い、こちらに見せてきた。一人でやってたらどれだけ痛い人か、痛感する。
焚き火の上に銀網を乗せ、釣った魚をすぐに焼いた。
3匹いたが「食べていい?」と聞くと「ダメ」と言われてしまった。そして彼が一人で完食し、テントの中へ。だが、トイレに行きたくなってしまった。
「トイレは?」
「僕はここでしてるけど」
「は? 汚っ!」
ここでしたら川汚染になるに違いない。それにトイレした川で釣った魚を食べるとは汚すぎる。想像しただけで気持ち悪い。
「もしくは、バーに戻る?」
「いや、それは。大丈夫です、我慢します」
気を紛らわす為に何か話題が無いかと思考を廻らせた。思いついたのがまだ何も知らない人同士なので、自己紹介だった。
「自己紹介まだだったからするね。私は如月此葉といいます。26才です。趣味は花と料理とファッション、それに読書と音楽鑑賞や映画鑑賞です」
何の変哲も無い一般的な自己紹介だ。
「僕は颯っていいます。名字は内緒。あとはさっき言った通りだよね。他に聞きたい事ある?」と颯は言った。
「聞きたい事かぁ……何て呼べばいい? 私は何でもいいよ。あとここ、完全にホームレスだよね。親と一緒に暮らせないの? どうしてこんな若いし、年近いのにこんな所で暮らしてるの?」詮索みたいで我ながら罪悪感を抱いたが、気になったので聞いてみた。22才でテント暮らししてる人、他にいるだろうか。親に追放でもされたのだろうか。もし、追放されてたなら可哀想で仕方ない。
「呼び方は何でもいいよ。ホームレスかもしれないけど、これでいいんだ。ここで暮らしてる理由は言えないかな。親とのことも」
じゃあ、何で聞きたい事ある?って言ったんだよ。ウェルカムっぽかったのになんか残念。気になって眠れないじゃんか!!
「分かった。颯くんって呼ぶね」
「じゃあ、僕は此葉って呼ぶから」
「おやすみ」
「おやすみ」
そう挨拶を交わし、眠りに就いた。お互いは体を密着させている。
まさか、女の人をここに泊めるとはな。寝息が当たって安心する。こんなの久しぶりだ。ストレートの栗色の髪は綺麗に整えられてて、素敵でランタンに照らされて、光輝いている。睫毛も長く、鼻も高い。肌も白くて美しい。近づくと甘い香りがする。香水だと思う。ファッションセンスもあって憧れの美人だ。顔も可愛いし。それにしてもさっきのキスは衝撃的だったな……忘れよう。ひょっとして僕のこと好きなのか?そう思い、右を向いた。静かに眠っている。考えるのをやめた。明日はどうなっているのかな……
午前4時に起きた。早朝だ。清々しい空気を吸おうとテントから出る。勿論、此葉を起こさないように。外の空気は清澄としていた。川の水を触ってみると冷たかった。何もする事がなくて暇だなーと思い、空を見上げる。早朝とはいえ、朝日が昇り始めた頃でまだ暗い。1時間はずっと布と糸とプラスチックで作られた椅子にただ、じっと座っていた。少しそこら辺を歩き回ったりはしたけれども。君が起きたのは多分、僕の1時間後で「急がなきゃ」と言っていたので話す刹那すらなかった。テントが蠢いていた。その中にいるのは君だろうと予想がついていたので恐怖とかはなかった。
ただ、寝起きの君も可愛くて、つい見|惚れてしまった。パジャマ姿ではなく、着替えがどうしても出来なかった為、昨日の服のままだが、髪のボサボサ感などが生活感があって非常に良い。服もしわくちゃになっている。すっぴんも見てみたい。今でもメイクは充分落ちているが。
「急がなきゃ」と焦っている君。僕が「何か手伝う事ない?」と聞くと「無い」と言い、「仕事?」と聞くと「そう」と答えた。
デザイン会社に勤めてると言っていた。相当、朝は早いのだろう。と思いきや、一旦家に帰るらしい。ま、そりゃ、そうだよな。
「じゃあね」
「ばいばい」
別れの言葉を交わして彼女とはさよならした。
けれど、彼女にバレないように家までついて行ってみることにした。
家についた私は仕事の準備をして、急いで着替えをして、仕事場へと向かった。
話しかけないでほしいと言ってからは彩芹とは口を利いていない。
後輩の紗椰乃から「雰囲気変わったね」と言われた。自分ではそうは思わないけど周りから見るとそうなのだろう。酔っていて記憶が曖昧な部分もあるが、昨日の事が夢だとは思えない。
トイレに行って顔を洗ってきた。顔を叩いてみる。やっぱり現実だ。
(颯くんに会いたい)そう思ってたら作業の手が止まっていた。
黄緑色で塗ってる最中、もう私は恋渕先輩じゃなくて颯くんと付き合ったほうがキスもしたんだし良いのでは? と思った。
だから、午前の仕事が終わった後、屋上に行った。恋渕先輩は上のフロアに所属している為、呼び出すのが大変だった。待ってみたが来なかった。メールで忙しいとの事だった。
午後の仕事中もずっと颯くんの事ばかり考えていた。もし、屋上に恋渕先輩が来たら“すみません。お付き合いできません”って言えるのだろうかとも。
そうして、一日の仕事が終わった。帰りは職場の最寄り駅から徒歩30分くらいのバーに寄った。だけど颯くんは見つからない。そして、昨日行ったはずの川まで行ってみた。まさか、テントとかの道具一式消えてるなんて……思いもよらなかった。(あの出来事は夢だったんじゃないか)とも一瞬思った。だけど、信じたくないという思いのほうが勝っていた。ここまで来て、歩き疲れてしまった。戻るのも往復しないと。大変だ。定時だから終電は乗り遅れてないはず。
(颯くんに会いたい)
(此葉に会いたい、早く帰ってきて)
交差する想い。
一方、その頃颯は此葉の帰りを待っていた。玄関の扉の前で。我ながらスゴいとは思ってたけど、実際来てみると想像を絶するものだなぁ……
自動ドアのサイドや手すりが金だし、清潔に管理されてるのが見て分かる。ガラスに傷や汚れもない。しかも64階。外を見るとライトアップされた夜景が楽しめる。
僕だってずっとここで待ってたわけじゃない。昼はパスタ屋さんで食べたし、マンション探索だってしたし、図書館に行ってみたりもした。マンション探索。これが意外と楽しかった。
ようやく、彼女の姿が見えた。僕は急いで階段の裏に隠れる。此葉は鍵を開けて中へと入る。僕は5分くらい待ってインターホンを鳴らした。
「はい」
ウィンドウを見ると颯くんの顔。私はびっくりした。しかも何で教えてもないのに家を知られてるのだろう。
玄関を開けると、
「僕を拾って下さい。今日からよろしくお願いします」とお辞儀をされた。
「は????」
一瞬、頭が真っ白になった。
心のどこかで自分の人生が少し狂い始めた音がした。
第三節 僕を拾って下さい
「僕を拾って下さい。今日からよろしくお願いします」
「は????」
一瞬、頭が真っ白になった。
心のどこかで自分の人生が少し狂い始めた音がした。
「なんで、ここが私の家だって知ってるの?」
「今朝さ、一旦家に帰ったじゃん? その時こっそりついて来ちゃったんだよね」
(そんな……少しも気づかなかった)
「そうだったんだ。でもストーカーはダメだよ?」
「分かった、もうしない」
「僕ね、ずっと此葉のこと待ってたんだよ」
「そうだったの。私も颯くんに会いたくてしょうがなかったんだよっ」私は待っててくれた事を知らなくて嬉しかった。そして、ありのままの想いを口にした。
「さっ、さ、早く家の中入らせてよ」
「どうしようかな……」
(少しの間だけだと思うし、いいかな。だけど一度許しちゃうと長く共同生活する事になるんだよね)
「分かった。お試しとして許可しよう」
「やったーありがとう」
甘やかし過ぎだとは身に沁みていたが、彼が家なしだという事も分かっていたので、渋々了承する事にした。しかし、だ。高級マンションという事もあってオーバーリアクションをされるのか不安だった。
事あって、招き入れた。靴置き場にきちんと揃える颯。作法が身に付いていて素晴らしいと思った。
そして、まっすぐ進んでリビングへ。
「わぁあ」思わず、声に出してしまったようだ。(こんな豪邸に来るの初めてだな)というのが今の僕の心情。これには私も予想通りの反応だと軽く受け流した。
僕は「きれー」と雄叫びを上げた。露天風呂から一望できる夜景だ。私は最初は彼のような反応だったが、途中から見慣れた風景になってしまった。彼がベッドで飛び跳ねてはしゃぎだしたので、流石に注意した。
一通り、家の案内が終わった。私の家はリビングと寝室が繋がっていて、広い空間となっている。クローゼットはリビングの右横にある。ベッドはダブルベッドでこれを1人で占領していた。廊下にはたくさんの部屋がある。8LDKといってもいいほどだ。トイレはここ、洗面所はここという形で説明していた。あとは物置になってる部屋やゲーム部屋、デザイン部屋などがあった。
露天風呂の説明をしていると急にこれから一緒に入ることもあるのではと恥ずかしくなってきた。そして、何となく今日から一緒に住むのかという実感が湧いてきた。ということはダブル大型ベッドも2人で使うことになる。隣を見れば颯くん。興奮が止まらない。キッチンと食卓は玄関に近い所にあり、窓がある為、換気もしっかりされている。
夜食は何がいいのか分からなかった。だから、無難なマカロニグラタン、ポテトサラダ、焼き魚と味噌汁にした。焼き魚は釣りもやってたし、喜んでくれるかなと。
作ってる時に鼻歌を歌っていた。そっか、今日から2人分作らなきゃいけないのか……疲れるけど楽しいなぁ……。ついに食事を餐す時間がやってきた。1人分ずつ皿を置く。
「美味しそうな匂い」そう言って彼がやってきた。美味しそうな匂いって事は成功したのかなと思いつつも緊張しながら反応を待つ。
「「いただきます」」そう唱え、箸で食材を掴む。
「美味しい」と笑顔で頬張る彼を見て、思わず微笑む。そして歓喜する。良かった、安心した。私も一口食べる。上出来だった。
お風呂はというと一緒に露天風呂に入るわけにもいかないし、1人だとしてもリビングから見られないという確実な保証もないわけだし、もう1つある鍵付きの浴室に交互に入ることになった。
寝る部屋は別室でも良かったが、布団もないこともあって、折角なので一緒に寝ることにした。ダブルベッドだし。
颯くんはパジャマ姿だった。そんな彼もかっこいい。私はネグリジェだ。僕はそんな彼女を見て「かわいい」と呟いた。返事はしてくれてないが、顔を赤くして照れている。
何故だか、お金持ってないというのに服を沢山持ってるし(トランクケースの中にいっぱい)、買い物や外食してそうだし、不思議すぎて、彼という存在自体謎めいている。これは裏があるんじゃないのか? お金持ってないという発言が嘘だったりして。なんて、考えてたらベッドに横たわった。彼も同じタイミングで横になる。
「シロツメクサの花言葉って知ってる?」
「知らない」
彼女の突然の質問に動揺した。
「それはね、幸福、約束、私を思って、それと復讐だよ」
「私達、幸せになろうね」
笑顔で僕とは別方向にごろんとした此葉を見て、救われた気がした。僕は彼女とは別方向を見たら、そこは絶景といえる夜景だった。此葉は気遣ってくれたのかな。
それから数分間、他愛ないお喋りをした。
私達はお喋りした後、静かに眠りに就いた。
(颯くんが家にいて、一緒に寝れるなんて夢みたい……テントの時のほうが至近距離だったけど)
そして、翌朝。
はぁ~っと背伸びをして、隣を向くと上半身裸の颯くん。
「朝、起きるの早いね」と言うと、颯くんは「昨日の夜は楽しかったから」と朝日を見ながらぽつりと言っていた。
(これって、もしかして……)
私達ってまさかヤっちゃってる? とふと思った。
第四節 お互いの気持ち
私たちの家にも朝が来た。
「昨日の夜は楽しかったから」
「楽しかったってどういうこと!? 何が?」
「私達ってまさか、そういうかんけー。セッ……昨日の夜に起きた出来事を私に分かるように説明して下さい」
赤面しながら言った。私の家に来た初日から性交渉するなんておかしい。どうかしてる。
「何、赤くなってんの? 楽しかったっていうのは君とのお喋りだよ。深夜まで続いて、つい夜更かししちゃった」
(あ、なんだ。良かった)ほっと胸に手を抑え、一安心する。颯くんに処女奪われるのは避けたい。未来は予測不可能だけど、もっと好きになったらいいかななんて思ってる。なんてね。
「なんだ。びっくりさせないでよ、でも何で上半身裸なの?」
彼は何のことかさっぱり分かっていないらしい。で、薄い白い掛け布団を前に退けた。出てきたのはなんとパンツ一丁の颯くんだった。
「きゃーーー」私は大声で叫喚する。
そして、廊下の方へ。
(良かった。パンツは履いてた)
「出ていっちゃった……」僕は彼女の心情が分からず、天を仰ぎ、朝日を見つめる。
服はここで着替えるかと思い、トランクケースから出したシックな服をピシッと着こなした。そして彼女がいる廊下へと向かった。
「あ、颯くん、ごめんね、騒ぎだして。お洒落な格好してるね」
「ああ。僕こそごめん。寝る時はなるべく裸でいたいんだ。でも、此葉がいるから流石に下着は着たの」
全裸で寝るのを好む颯くん。それもまた、カッコいい。女の人だとあれだけど、男の人が裸で寝るのは魅力的ではないか。
「そういう事だったんだ。事情把握して納得」
私はそう言い、キッチンへと移動した。定番の目玉やき、サラダ、ハム、牛乳、食パンのメニューできめた。彼は喜んでくれるかな。
彼の笑顔が見たくてウキウキする。
食卓に運び、彼を呼び出した。彼は気分が良さそうだ。顔から伝わる。
彼との初めての朝食。口に合えばお嫁さん候補になれるかもしれない。
今日はどんな美味しいご飯が食べれるんだろう……楽しみだなぁ、此葉が作る料理はどれも美味しい。食事が毎日食べられること自体、幸せなことなんだけどね。僕は欲張りだから美味しい料理に期待してしまうよ
二人とも違う事を考えていた。
「「いただきます」」そう声を合わせて、今日という日を迎えた。顔を洗ったり、カーテンを開けても今日が来たって分かるけど、最初の食事でもそれが味わえる。
サラダを口に運ぶ。美味しい。野菜が苦手なのに此葉が作ってくれたから、何もかもが美味しく感じる。
食器をおろす。まだ食べていたい。飽き足りない。
食器を洗っている時も鼻歌を歌っていた。彼が私が作ったぎこちない未完成な料理を食べてくれた。嬉しい。幸せとはこういう事だ。
午前中は何をしていたかというと彼女からの悩みを僕が聞いていた。しかもそれは恋愛相談だった。
「私ね、実は職場の上司から告白されてたんだ。それも3週間前のこと。桜通りの人混みの中で」
「それでさ、返事がまだ出来てないんだよね。てゆうか返事が出来ないの。どうすればいい? 颯くん、教えて」泣きそうな顔でおねだりした。
「そうだったの? 僕、キスされたよね? それ、早く言ってよ。僕、だったら拾って下さいなんて言わないよ」徐々に口調を強めて言った。
「そうだよね。普通、そうなるよね。今まで短い間だったけど、言えなくてごめん」
「まさか別れるわけないよね??」僕は不安になった。“短い間だったけど”とか言うから。
「それは無いよ」
「なんで返事が出来ないの?」
「私、告白されたの初でどう返事したらいいのか分からなくて……。それに先輩と付き合いたいのか付き合いたくないのか、まだハッキリしてなくて。ずっと後ずりずり引きずって。でもさ、これがチャンスかもしれないじゃん。だから逃しちゃいけないのかもとか頭の中いっぱいで。長々とごめんね」
「そんなに複雑になってるんだ。もう少し軽く緩い感じで考えてもいいかもよ。まあ、此葉の気持ちも分かるけど」
「もう決めたら? 返事待ってますよ、先輩」
「どうやって返事したらいいのか分からないんだよ! 傷つけちゃったらどうしようって。もし、その告白の返事で悪さされたら嫌だから」と泣きながら言った。初めて自分の気持ちを吐露した。
私は優柔不断だった。傷つくのが怖かった。だから、慎重に慎重に考えてた。だけど、颯くんの言う通りだ。告白の返事くらい軽く考えてもいいのかもしれない。それよりも早く返事したほうがいい。
「早く言うんだよ。あなたとは付き合えませんって」
「その上司っていうか先輩の名前、何て言うの?」
急に話を変えてきた。
「恋渕つかさ先輩」
「じゃあさ、僕と恋渕先輩、どっちが好きなの?」
いきなりの衝撃的な質問。私は困った。どっちもとは言えなかった。恋愛のチャンスを手放したくないから、返事するまで時間が掛かったけど、恋渕先輩を異性として意識することはなかった。頼れる上司だと思ってはいた。
颯くんはこうして一緒に生活するようになって、一緒にいて楽しいし、財布を拾ってもらった時にときめいた。なかなかのイケメンだ。銀髪に一部分青に染めた若い青年。目も涙の雫の形を横にしたような切れ目であり、横は狐の耳みたいに細くなっていってる。瞳の色は茶色だ。若いトップモデルになれるんじゃないかと言えるような整った容姿をしている。
そして、出した答えがこれだ。本人の前で恥ずかしかったけど、言う。
「颯くんが好き」
初めて自分の気持ちに気づいたような音がした。私は颯くんが好きなんだ。財布の落とし物からの関係だったけど、気づけば男女の関係なんだ。こういう事もあるんだなと改めて思った。そして、私は誓った。絶対来週の月曜日に恋渕先輩を振ろうと。もうどうなったっていい。
「嬉しい。僕も此葉のことが好きだよ」
颯くんも照れている。自分から言い出したくせに。
そして、颯くんは私のほうへと近づき、両腕を背中の方へ。抱きしめられた。温かいぬくもりだった。まるで、春風が吹くかのように。優しく、仄かに。
第五節 家での過ごし方
午後は暇だった。昼ご飯を食べた後、僕達は午睡した。何時間くらい寝ただろうか……
僕が起きると彼女は気持ち良さそうに膝の上で寝ていた。寝顔も可愛くて髪を撫でてやった。まるで猫みたいだった。起きるかなと思ったけど起きなかった。
にしても、さっきの好きって意外だったな。恋愛対象としてだろうか。久しぶりだった。元カノともあの頃は人生一度あるかないかの幸福感を味わえた。なのにあんな事になるなんて。その頃は思いもしなかった。
ようやく、彼女が起きた。
「おはよう」
「朝?」
「ううん、午後3時だよ。僕達寝ちゃったみたい」
起きてくれて良かった。午後は暇だ。暇で何もしない時間というのは人生において必要かもしれない。だけど僕は、物足りない。全てが無駄に思えて、何かで埋めたくなる。何でもいい、歩くだけでも運動するだけでも歌、歌ってるだけでもいい。とにかく息をするだけの時間が長くなると息苦しくなってくるのだ。
「坊主めくりでもしない?」
「坊主めくり?」
意外にも地味すぎてびっくりした。カードゲームが好きなのか、此葉は。
そして、坊主めくりで遊んだ。順番に捲っていく。此葉はすごく強かった。2回やったが、2回とも此葉が勝った。正直、勝ちたかった。
「次は何しよっか」
「ゲームとかは無いの?DSとかプレステとか」
「うちには無いかな」
「じゃあ、スマホのゲームやるかな」そう言って僕はスマホをリュックから取り出した。
そして遊び始めた。颯くんは本当に一人ぼっちで家から追い出されちゃったのかな……何年間リュックとトランクケース持ち歩いてるんだろう。そう私は思った。
本当に謎だった。トランクケースに大量に入った服。何着あるんだろうと思ったが、軽く10着は越えるだろう。もしかしたらモデルさんだったとか服を売ったりする人なのかもしれない。職業は何をしているのだろう。気になってしまう。颯くんという人そのものにミステリアスな魅力を感じ、好きになってしまった。もっと颯くんのことが知りたい。
「あー負けちゃった」
嘆く彼。どうやら負けて悔しいらしい。私との勝負にも負けて、スマホのゲームでも負けるとは。人間相手なのだろうか、それとも機械で設定された敵に負けたのだろうか。分からない。一人で遊んで寂しくないのかな。要らぬお節介かもしれない。
「私とババ抜きしない? 負けて悔しいなら、私と勝負して勝てるまで対戦してあげるよ」
ババ抜きは心理勝負だ。心理的に謎が多く素性を知られないようにしてる颯のほうが有利では。
「じゃあ、お願いします」
「分かった。トランプ持ってくるね」
そう告げて彼女は奥の部屋へと消えていった。
この幸せがあと何年持つのだろう。考えるだけで寒気がした。一線を超えてはいけない。そんなの、分かってる。さっきのハグは見逃してくれるよね。君が僕のことを好きだと言うから。でも、告白されてたなんて知らなかった。これは浮気に入るのかな。彼女が? それとも僕が?
彼女がトランプを持って戻ってきた。
「じゃ、始めよっか」
そう言うと、彼女は上手い手捌きでトランプを交ぜ始めた。
私だってこういうのは慣れてるからね。お兄ちゃんや弟達と遊んできたもん。良い所見せたい。良い所見せられたかな。
二人で何度も勝負してきた。僕は負けてばかりいた。
でも、そんな時チャンスが巡ってきた。
彼女の持ってる手札のハートの7を引けば僕の勝ちだ。
彼女はポーカーフェイスになっていた。本当に分からない。
だけど、迷ってるばかりじゃ良くない。引かなきゃ。
そして引いたカードはハートの7だった。やったー! 勝った。ようやく勝てた。彼女も喜んでいる。負けたのに。清々しい。惑わせられなかったというより、心を読んでもらえて嬉しいというのが本心のようだ。
「勝てて良かったね。おめでとう」
「ありがとう」
そう言って私は夜食の準備へと取りかかった。もう遊んでいたら夜に近い夕方だ。
夜食を食べている時に、
「明日、デートに行かない?」と私が誘い、彼女に僕は誘われた。
「いいけど、えっ!」
2人でどこか出かけるのか。現実味を帯びてなくて、驚きが隠せなかった。
「折角の休日だしさ」
「いいけど」
どこに行こうか、悩む。2人の思いは同じだった。春のデートスポットと言えばお花見、川でボートに乗る、食べ歩き、喫茶店(猫カフェ)、図書館、遊園地、水族館など沢山ある。
「場所、どこにしよっか」
「喫茶店とかお花見とか遊園地とか図書館とか。どうかな」
「喫茶店と遊園地は苦い思い出があるんだよね」
「苦い思い出って? 言いたくないなら言わなくていいよ」
「付き合ってた彼氏がさぁ、浮気したんだよね。その時一週間しか続かない恋愛だったんだけど、その一週間で行ったデート場所が喫茶店と遊園地だったんだ」
「そうだったんだ。なんかごめんね」
誰にだって苦い思い出くらい一つや二つくらいある。浮気だって世の中至るところでされてる。彼女にとっては嫌だっただろう。浮気がバレて、たった一週間で別れたのかは分からない。だけど触れてはいけない内情だ。
「じゃあ、お花見と図書館でどう?」
「図書館は買って読んでる本があるんだよね。だから無理かな」
そう、今まさに私は仕事で忙しい中 合間に読んでいる本がある。だから難しい。
「でもお花見だけじゃつまらないよね」
「そうだよね。なら、動物園か水族館か博物館は?」
「水族館行きたい! でも1日で周れるかな……」
水族館を1日で全部周るのは無理かもしれない。だけど日帰りでも行けるし、問題ないと思う。
「不安な気持ちも分かるけど、きっと大丈夫だよ。近くにあるし」
「じゃあ、決定ね」
こうして、明日のデートプランは立てられたのだった。
交代交代でお風呂に入り、あっという間に寝る時間がやってきた。
(明日のデート、楽しみだなぁ)そう思って、眠りに就いた。此葉は先輩に断るって約束してくれたし。これで安心かな。
第六節 デート1
私達は出かける準備をした。朝も勿論、早く起きた。颯くんは今日も早起きで、準備万端という格好をしていた。
「朝ご飯は家で食べるんだよ」と私が催促すると焦った様子で荷物を置いて玄関から食卓へ戻ってきた。
今日の朝ご飯はいつもより豪華にしてみた。ランチパックと卵の盛り付けを豪華にしたサラダとパンケーキ。少ないから苺ミルクも足した。
颯くんは「わぁーお」とリアクションして席に着いた。いつも美味しいと言ってくれる。そして、すぐに食べ終え、デートの仕度をした。
私は準備に割と時間が掛かるんだ。彼は「まだー?」と叫んでくる。服はどれにしようか。悩む。ファッション系の仕事をしているから痛いほど分かる。彼に褒められたい。認められたい。その一心で選びに選び抜いた。そうして、その服に着替えた。白のフリル、レース付きブラウスに後ろをリボンで結んだピンクのスカート、そしてお洒落な模様付きのカーディガン。まさにお姫様って感じの服装だ。彼もまたお洒落な軽装を綺麗に着こなしている。彼はスタイルがいいから、どの服を着ても似合う。ちなみに高身長だ。
「それじゃ、行こっか」
「うん」
こうして日帰りデートに出かけた。歩いてすぐの所の川沿いの桜が咲いてる所に来た。颯くんのテントの場所じゃない所のだ。ただ、桜が散ってしまってもう見頃じゃない。
ここは東京だから、北海道とかに行かないともう見れない。4月も、もう終わりだ。
それでも颯くんは「桜、綺麗だね」とぼそっと呟いた。
私も「残ってる桜だけでも充分楽しめるよね」と話を合わせた。
蕾が残っているのもある。川に流れてる花びらも美しい。
(会社の前の桜通りの桜も颯くんに見せてあげたいな……)と思い、「あと3駅、先だけど私の会社の近くの桜も見ていく?」と言った。
だが、「時間的に厳しいと思う。それより先に1駅先のアクアミュージアム行こうよ。それで時間余ってたらにしよ」と言われた。
「そうだね」と私は改札口を通った。
が、彼は改札口の前で立ち往生している。状況を判断した私は「定期券持ってる?」と聞いた。
「持ってない」予想通りの返事が返ってきた。
「お金、1円も持ってないんだっけ?」
「うん」
だったら先に言ってよ! と思った。仕方なく私は広い改札口の前で財布を投げた。彼が拾ってくれたあの時の物と同じのだ。僕は気づいた瞬間にキャッチした。
「切符の買い方、分かる?」
「分からない」
私ははぁ、と溜め息を吐いた。大丈夫かなと心配にもなった。それで彼の姿が見えたため、通るかじっくり見ていた。
“通った”
通ったので良かったと思うと、彼から切符を見せてもらった。
「合ってる」その言葉に彼は頷いた。
「一番安いのが良いと思ったからね」
どうやら、そういう理由だったらしい。つまり、運次第ということだ。もし、間違えたらどうしてくれるんだ。
2人は電車に揺られ、水族館に着いた。
水族館はとても大きくて、こんな場所に男女2人で来てしまったのかと思い知らされた。
「広ーい! すご、わーい。やばい」
颯くん(22才)が一人はしゃいでいるが、家族でこういう所来たことないのか? 語彙力はないがワクワクテンションが上がっている。この場所で良かったと思う。他の場所でもこういうふうにオーバーリアクションしてたとは思うけど。
虹のアーチが館前にあった。今日は休日だから人通りが多かった。混んでいると言ってもいい。子供連れもいて、私達みたいに男女で来ている人も一人で来てそうな人もいた。私達の関係はカップルといっていいのだろうか。
水族館の壁には海の生き物のモチーフが装飾されていた。私達は緊張しながら虹のアーチを少しだけくぐった。
「虹のアーチなんてロマンチックだね」
「ほんとだよね」
そう言って水族館の中に入っていった。
水族館は当たり前だが暗くて、人が多かった。どこから回るとか事前に決めていなかった。最初に見たのは一般的な魚達で、熱帯魚とかカクレクマノミなどだった。
彼は「これ、釣った魚だー」と言って興奮していた。
色々な種類の魚がいて、どの魚も華麗に泳いでいた。私もこの魚達のように自由に泳いでいたいと思った。でも、自由はいいけど自由過ぎるのもな~と思った。だって、彼は私のことなど見ずに1人で魚を見てるんだもん。私のことも見てよって思った。年下だからかな。もっとリードして欲しい。
「こっち行こ」と私が言った。
彼は私の後ろを付いてきた。
地図を見て、この場所かなと思い、立ち止まった。少しだけ遠い場所にあったので、颯くんは「疲れた」と息を切らしていた。
「ここがどうしたの? 大きなジンベイザメだね」
そこは広いコーナーでジンベイザメやエイ、鮮やかな鱗が特徴的な魚の群れがぶつからないように泳いでいた。一体感がある。巨大な魚は迫力があった。
「そうだね」
私は彼に物悲しげに反応した。
僕は此葉のことを本当の意味で好きではなかった。好きって言われたから好きって答えただけで本当は……本当は。異性として意識することは出来るけど、それはまだ怖い。僕は此葉の事は軽いプロフィールと僕みたいな人にも優しくしてくれる一部しか知らない。仕事ができるオフィスレディーで家も豪華な彼女と僕が釣り合うのだろうか。此葉は僕の全てを受け入れてくれるわけじゃない。そうだったら、誰でも受け入れてしまうだろう。
酔ってキス、あれは心底驚いたな。急だったし。気さくに話しかけてくる人だというのは雰囲気からして分かっていたけど、心の準備が出来てなかった。
あれは彼女のほうからだから罪に問われないよね。僕が通報して、被害届を出したら彼女は捕まるだろうけど、他人の人生を棒に振るような真似はしたくない。それに証拠がバーのマスターが証人になってくれればいいけど。しかもお金ほしいわけじゃないしね。だけど、彼女が無職の僕を一生養ってくれるなら それに甘えたい。僕の貯金もまだあるけど。いずれ尽きるから。
僕が心をみつめて、此葉のことを考えながら巨大魚を見ていたら……。
「手」と言ってきた。
「左手、貸して」と此葉は言った。
左手に何かあるのかと思った。僕はフェンスに両手を握っていた。
何で気づいてくれないの? と私は思った。本当に恋愛に関して無頓着で鈍感な人だ。そもそも恋愛に積極的じゃない。
「手、はい。どうぞ」と僕が言った途端、彼女に手を握られた。大きな水槽の前で手を繋いでいる。
まさかここで手を繋がないと思ってた僕は、茫然としてしまった。しばらくは空中を見上げていた。
「此葉って何才だっけ?」
「26才。前も言ったよね? 忘れちゃった?」彼女は不機嫌な様子をあからさまに示している。
それに対し、彼は「本当に? 身分証か保険証見せて?」と言った。
(なんで? 私ってもしかして信用されてないの? 手を繋いだだけなのに……)
嫌々ながらも学生時代に使っていた古びた身分証を見せ、生年月日を見てもらう事にした。
「本当だったんだ。なら、安心した。ありがとう、見せてくれて。ごめんね。お手数かけて」そう言って、僕は胸を撫で下ろした。
「もしかして、私のこと信用してくれてないの? 好きだったんじゃなかったの!」と私はありのままの心の鬱憤を全て放った。
彼は黙ってしまった。
そして、「もういいよ。手、離して!!」と言い捨て、手を離した。
「ごめんなさい」と泣きそうな顔で彼は謝った。
そして、ブルーで険悪なムードの中、水族館内にある一味違うと噂のレストランに向かった。
第七節 デート2
レストランに着いた。このレストランは洋食屋さんでパスタやピザ、カルパッチョなどが有名だった。店の雰囲気も明るくてガヤガヤしていた。巨大なワインの形をした飾り物があったり、一般庶民には馴染みのない、入ると一瞬でその雰囲気に呑み込まれそうな感じもあった。
私がどれにしようかメニュー表を見て悩んでいると、お店の人がお冷を持ってきてくれた。
(にしても、さっき手を繋いだ時のぬくもりは忘れられない……何で年齢の事なんか聞いたんだろう)
私は別に怒っているわけではない。傍から見たら、怒ってるように見えるかもしれない。ただ、颯くんのKYな言動にはイラっときてる。
メニュー表には美味しそうな料理が沢山あった。迷いがいがある。一生に数えられるくらいしか食べれない料理だと思う。またこの水族館に来るとは限らない。
決まった。イタリアン・トマトパスタにすることにした。熟成トマト配合。店長おすすめ。この文字が決め手となった。
颯くんはずっと黙ったままだった。私が少し言い過ぎてしまったのかもしれないと心配になった。傷つけちゃったのかな……何も喋らないし、無表情。何を考えているのかも分からない。
「注文、して、いい?」
僕はコクりと頷いた。
すいませーんと言い、店の人を呼んだ。
「私はパスタとデザートに季節限定パフェとドリンクはメロンソーダでお願いします」
「僕はイタリアンドレッシングのサラダとミニチキン1つで。ドリンクは要りません」
あのちょっとした喧嘩(?)のすれ違い以来、初めて口を開いた。さすがに注文の時くらい喋るよね。
でも、それだけなんて。少食だ。さっきのぎくしゃくが影響しているに違いない。
その後の料理が運ばれるまでも無言が続いていた。
気まずい空気が漂う。待ってる間、暇だ。携帯を開くと彩芹と絵梨花からLIMEの受信がきていた。絵梨花からは振れたの? との事。そして、仕事の新しいデザインの発注の内容だった。彩芹からは今日暇だからどこか遊びに行かないとの事だった。あ、すっかり確認するの忘れてたんだった。デートの事で頭の中はそれだけだったから。颯くんとの事がバレたらどうしよう……恥ずかしいなぁ。えっと今日は確定申告を出さなきゃいけなくて忙しいからとそれと花の生け花教室があるからとの理由で断った。私は嘘が苦手だけど確定申告の時期は今だから。
僕は暇な時間が嫌いだ。タオルで汗を何度も拭いていた。指先にセーターの毛玉を乗せて息を吹きかけて遊んでいた。これだけでも何もしていないより充実した時間が味わえる。
食前にメロンソーダが届いた。
しゅわしゅわしてておいしいー
メロンが甘くてさいこー
「おいしい」と笑顔を見せても彼は自分だけの時間に集中してて、こちらを見向きもしなかった。
そうして長い間待った後、ようやく料理が持ち運ばれてきた。これだけ待ったんだから最高にデリシャスに違いない。とっても丹精込めて作られたと期待している。
パスタは出来たてほやほやだった。
颯くんのご飯も運ばれてきた。だけど、彼は食べようとしなかった。
パスタは熱いので冷めるまで待っていた。口に一口入れる。ちょっと大人な独特な味で私の口にはちょっと合わなかった。
彼に一言、言った。
「食べていいんだよ、ほら」
「お口あーんでもする?」
と問いかけたら彼の目に涙が出てきた。
「僕のこと、嫌いになったの?」
涙目で訴えかけてくる。さっきの身分証見せないと信じてくれないのは気に食わなかったし、気になったけどそれだけで嫌いになったりなんかしない。でも、普通そこまでの行動はしない。手を繋いだだけで、そういう行動をするのは空気が読めない。何か過去を抱えてるか事情があるのではないかと私は気づいた。
とその時、見覚えのある顔の人が横を通り過ぎていった。
「如月じゃん! こんな所でどしたの? 偶然だね」その声は間違いなく恋渕先輩だった。
今日は何故だかチャラい格好をしている。1人のようだ。
「恋渕先輩、こんにちは。お元気ですか? 今日はプライベートで来られたのですか」
「こんちはープライベートでっす。そこにいるのまさか彼氏だったりしないよな」
いつもの恋渕先輩の雰囲気じゃない。できるクールな男感がしない。
「彼氏じゃなく、弟です」
いきなり颯くんが喋り出した。
そして、一気にさっきまでの表情から真面目な表情に変わった。
(この人って誰?)小声で聞いてきた。
(会社の人)
(もしかして告白してきた人?)
私は頷く。
「弟さんか~よろしくねー」
「よろしくお願いします」
颯くん、すごく演技が上手い。助かる。雰囲気諸ともガラリと変わった。
「あの、こないだの告白の件なんですが、……」私は切り出した。
言わなきゃ、ここでチャンスを逃してはいけない……!
振ってくれるかな……ここに僕って居ていいの? 僕は思った。ちょっとだけ期待している。
「もしかして振りに来たの?」どうやら先輩は気づいていたようだ。
だってあんなに待たせたんだもん、当たり前だよね。でも、すごく悩むほど僅かに好きな気持ちがあったのかもと思われてる可能性もある。
「はい。恋渕先輩とは残念ながら付き合えません。ただ、好きな気持ちもありました。ですが、別に恋渕先輩より好きな人がいるので今回は遠慮させて頂きます。またご縁があればその時は。さようなら」
(えっ、その言葉本当? 嬉しい)僕は心の中で微かに感じた。
「そっか。じゃまた今度」
「残念だな」
ぼそっと最後そういう風に呟いていた。私は聞き逃さなかった。そうして、恋渕先輩は後ろへと姿を消した。
恋渕先輩が消えた後、彼はお冷をちょっと飲んだ。
(良かった。飲んでくれた……!)
そして、サラダ1口、ミニチキン1口を口へと運んだ。
(食べてる……)
食べてくれる事がこんなにも嬉しいなんて。私、幸せ。ずっとあのままだったらどうしようと心|許無かったから。さっきの恋渕先輩の登場が気分転換にでもなったのかな……
そんなことを思っていると、
「何、人が食べてるとこ、ジロジロ見てるの? やめてくれない?」と言われてしまった。
「あ、ごめん」私は目を逸らした。
「さっきは驚かせちゃったよね、びっくりしたでしょ」
と言うと、
「演技代払ってよ」と不機嫌そうに文句を言われた。
そして、再来した無言のまま食事を終えた。
悲愴感の後にあの真面目な演技で、その後不機嫌そうな顔をして怒ってる。謎だ。気分の変動が激しい人なのか、これは虚像の颯くんなのか。感情のジェットコースターについていけず、分からなかった。
かなり遅くなっちゃって、「帰りにクラゲでも見てから帰らない?」と私が言い出し、クラゲを最後に見ていくことになった。
水の箱の中にいるクラゲは暗い水族館を照らす電光灯のようで、優雅に泳いでいる姿がとても美しかった。
「綺麗だね」
「僕達もクラゲみたいに綺麗な関係でいれたらいいのにね」
私はクラゲに見惚れて気を取られていて、“僕達も綺麗だったらいいのにね”にしか聞き取れなかった。
「私の事、前にバーかテントで綺麗だねって言ってくれなかったっけ? それに颯くん綺麗だよ」
彼は、はてな顔をして上を向いている。見当違いだったと言わんばかりの態度を示している。
「此葉は綺麗だよ。僕が汚いの、分かる?」
私は正直、彼の言っている事が分からなかった。さっきから意味不明な事ばかり口ずさんでいる。
「ありがとう。もう疲れたよね、帰ろっか」
そう言って、颯くんの手を取った。颯くんは安心したのか笑顔を取り戻している。
(水族館、終わっちゃったか。また来たいな。此葉の手、温かい)
そして、水族館デートが終わった。色々な事があったけど、これでも充実したほうだ。
帰りはファミレスに寄った。食事をして、彼は疲れているのかソファー椅子で横になっている。
「疲れちゃったのか、私が自由自在に歩き続けてごめんね」
「いいよ。疲れてなんか、ない」
ファミレスを出た。
靴のコツコツ音が響く。外は暗い。雨が降っている。帰りは降ると予想されていた。傘は彼女が持ってたから相合い傘した。この雨はあの財布を拾った時を思い出させる。
3分くらい歩いてのことだった。
いきなり、此葉が
「なんでそんなに躊躇っているの? もっと教えてほしいの、颯くんのこと」と言ってきた。
帰りのお話はその言葉だけで、僕はその返事をしなかった。だって、知られたくないから……
家に着けば急いで交代制で風呂に入って、彼女は髪を乾かしてた。
そして気づけばベッドだ。
「楽しかったね」
「怖かったかな。でもいつかキミとまた行きたい」
「そうだよね。でも、またいつか行こうね、おやすみ」
「おやすみ」
そうして長い夜へと誘われていった。休日は終わり、翌日からは此葉の勤務日だ。
第八節 恋渕先輩の裏の顔
今日は出勤日だ。私はいつも通り、オフィスへと向かった。いつもの光景が広がっている。彩芹はしつこく聞いてこなくなった。というか話しかけてくれなくなった。
だからこういう時は自分から話し掛けにいく。今は仕事で聞きたいことがあるから尚更だ。
「このデザインってこの色で合ってますか? あと沢山資料頂いてるんですけど、全部靴のデザインですよね」
「そんなの自分で確認したり他の人に聞けば? あたしに聞く必要ないでしょ。もう友達じゃないんだから」
“友達じゃない”いつの間にそんな話になっているのだろう。私には分からなかった。恋渕先輩を振ったことがもう漏れ出しているのだろうか。そんな簡単に縁というものは切れてしまうのか。こんな短期間で……。彩芹の当たりが前より強く、棘が刺さってくるみたいだ。
「もういいです。自分で確認する」
何もかもがどうでもよくなってしまった。今から上司に電話で確認する。電話で確認するのは実に面倒くさい。何なら同僚に聞いた方が楽だ。
上司に確認したところ、色が間違ってたようだ。靴のデザインは合っている。
部署内の目が変わっている気がする。みな、私の事を睨んでいる。何かしたかな。颯くんのこと、バラされたんじゃ……。私は不安になった。急いで恋渕先輩に言わないと。それか恋渕先輩の告白の返事が遅くなったからかな……でも皆には関係ないはず。
急いで午前の仕事を終わらせた。だから暇だ。やることがないからパソコンのトランプゲーム・ソリティアをやった。全勝だ。面白くない。はぁと息をしてオフィスチェアに両腕をもたれかける。早昼にしようかと思ったが職務時間だ。何か手伝わないと。
「これ手伝いましょうか?」と手伝いの提案を申し出るが、いつもなら「やってくれるの? ありがとう」と受け入れてくれるのだが、今日は誰も無視して見向きもしてくれなかった。
今は11:35分。12時で職務終了だ。それまで暇な時間を過ごさなきゃいけないのか。他の部署にも行ってみよう。
他の部署にも行ったがそこでも私を見る視線が怖かった。睨んでいる。そんなに悪いことしたっけ? 絵梨花にも話しかけてみる。
そしたら「恋渕先輩、やっとの思いで振った挙句、別に好きな人がいるだって。だったらとっとと振れたじゃない。どういう思考回路してるのよ。もしかしてその弟さんが好きな人だったりしないわよねぇ。顔もイケメンらしいじゃない。それに此葉、弟いたっけ?」と言われた。
「違うよ。なんでそんなに噂が広まってるの? どうしてそうなるの? 弟の事はもういいから」
「あっそ。でももう、此葉は会社内全員から嫌われてるよ。もう遅い」
チクチクする言葉だった。何か刃物に刺された感じがした。息が苦しくなった。そして自分の部署の階に戻った。自動販売機でピーチジュースを買った。冷たかった。そしたらいきなり知らない社員に水をかけられた。
突然の事だったから驚いた。服を着替えないとと思い、更衣室に向かった。だが、予備のレディースが消えていた。
もうどうでもよくなった。
部署に戻って1人昼ご飯を食べる。幸いにして弁当箱は消えてなかった。
昼食をしてすぐ、上司に呼ばれた。メールの方はブロックされていて電話からだった。
「話があるから屋上に来い」
私は逆らっても逃げてもいけないと思い、屋上へと急いだ。
「ようやく来たか、如月。」
「ずっと待って下さったんですか? それで話とは何でしょうか?」
「話って何だか分かるよな? 昨日のことだよ」
昨日のこと。すなわち、颯くんとのデートでのレストランで振ったことだ。それが何だっていうんだ。そんなに悪い振り方したかな、私。そう不安に思っていた。
「別にお前が良いならいいんだ。俺を振った理由が他に好きな人がいるってどういう事だよ。それはお前の付き人なのか? 昨日の人は明らかに弟ではないよな、そんなの態度で分かる」
「確かにその子は私の実の弟ではありません。他に好きな人がいたっていいじゃないですか。返事が遅くなったのはすみません、騙すつもりもありませんでした。でも、もうあの子の事は誰にも言わないで下さい、お願いします」そう一礼した。
「もう分かった。だが、俺を振ると厄介な事になる。社内からは当然嫌われる。それでもいいんだな? 俺を以前振ってきた人はみな社内の人々からは疎遠されている。分かるだろ、もう」と先輩は乱暴に丁寧に説明してきた。裏の顔がこんなにも怖い人だったなんて。付き合わなくてよかった。
「いいです。先輩に嫌われたって、社内の人々に嫌われたっていいです。だから先輩とは付き合えません」
これから嫌われ者になる宣言をしてまで先輩を完全に振った。
「本当にいいんだな? 後悔しても知らないから」
「だけど、何でそんな事をするんですか? 理由を教えて下さい。やる意味ないじゃないですか」
先輩は地面を見下ろし、何か考え込むような様子を見せた。
「それは、俺がこんなにカッコよくて何一つ粗が無くて完璧なのにモテないからだ。告白されることは何度もある。だけど付き合ってから皆、俺を嫌う。どうしてか理由が分からない。だから俺を嫌う奴は皆嫌われてしまえばいい。そういうことだ」
話は以上の事だった。だけど私には腑に落ちなかった。だから思い切って言った。
「それは先輩の問題であって私達には関係ないじゃないですか! そういう先輩は嫌いです、性格悪いです。直したほうがいいと思います。頼りになる優しい先輩だったのに恋愛になるとこうも違うんですね、さよなら」
そう言って屋上から立ち去った。
デスクに着いても社員達の目は怖かった。それでもよかった。だって、颯くんが好きという気持ちに変わりはないもん。会社を辞めようかとも考えた。だけど、我慢すればきっと良い事が来る。そう信じていた。誰かに嫌われても仕事内容は楽しい。やりがいがある。嫌われても無視し続ければいつかは止む。止まない雨は無い。女の粘着質で意地汚い攻撃は抵抗したり、気にしなければ治まる。そういう摂理になっている。
それに会社内で1人でも私には颯くんがいる。1人じゃない。
第九節 颯くんの秘密1
一方で僕は部屋を物色していた。僕に因む情報を削除する為だ。部屋を荒らすかのように探っていた。雑誌見て、ここには無い、ここには無いと。次から次へと調べていった。
「あ!」僕はページに写っている1人の人物に注目した。間違いない。
あの超有名Topモデル・雲霧靄だった。
「こんな奴、消えてしまえばいいのに」
そう呟き、鋏で顔と体を切り取っていった。
丁寧に写真の周りだけを切り取っていく。粉々にそうシュレッダーのようにバラバラになった紙くずを僕は見つめていた。
(さすがにこのページだけじゃ気づかれないよね……)
そういえば此葉、デザイン会社に所属してるんだっけ? デザイン専門だからこういう服のサンプルやアイデアが必要なのか、、
そう僕は思った。
どこのデザイン会社に勤めているのだろうと思い、引き出しから1枚の名刺を取った。「flower makes」間違いない。僕が活動していた時の衣装の担当だった会社だ。雑誌にも協力という欄にその会社名が記されてあった。これは大変な危機だ。いち早く僕の情報を消さなきゃ。
紙くずをごみ箱に捨てに行った。そして戻ってきて雑誌を見たら横には雲霧靄のかつてのライバル・近藤来夢の姿があった。懐かしいな…… よーく見ると雲霧靄の写真があった所の横にメッセージが添えられていた。
“いつも笑顔でクールビューティーなもやくんが大好きでした! 服も高身長でオシャレに着こなしててカッコよかったです。世間からの批判に負けないで下さい。今でも応援しています。また芸能界やモデル界に戻ってこれる日を楽しみに待ってます”
ピンクのサインペンで書かれていて、所々にハートマークが書かれていた。それを見た颯くんの目には涙が……。ポタリ、ポタリと零れ落ちる涙。それを止める事はできない。
(なんだよ、これ。今でも《《犯罪者》》のファンがいたのかよ。ちくしょう。こんな惨めな奴を今でも応援してるなんて……ありがとう)
此葉は僕―雲霧靄―の唯一のファンだ。だから無下にしてはいけない。今日は帰ったら抱きしめてやろう。キスもしよう。夜は裸で2人で……風呂も今日は一緒に入りたい。今でも僕のことをそんなふうに思ってくれる人、此葉以外にいるのかな……いてくれたら嬉しいな。
嬉しくて涙が止まらない。これは嘘涙じゃない。水族館の時はやや演技だった。僕は子供のようにワンワン声を出して泣き続けた。なんで切り裂いたんだろう。捨てちゃったんだろう。後になって後悔した。だけどバレてはいけない。それがたとえ僕のファンであったとしても。
「グスン」涙声が漏れる。昼間になって太陽が消えてしまった。
こんな運命、もう一度やり直したい。そう切に願った。変えられない未来だったとしても、それが今の僕より幸せであるのなら。
此葉は僕が芸能界に戻ったら本当に喜んでくれるのかな……だけど僕はもうあの世界には行きたくない。今みたいに陰で隠居生活送ってるほうがマシだ。
嬉しすぎて涙が止まらずに流れ続けた。何時間経っただろうか。涙は渇いていて僕は過呼吸になっていた。苦しくてしょうがなかった。嬉しみ故の苦しみ。
「けほけほ、ごほっ」咳をしながら雑誌を元に戻す。喉に手を当てて。
僕は呼吸器不全症候群を患っていた。そのせいでストレスとかちょっとした事で過呼吸になる。彼女には迷惑かけないようにしなきゃ。
テレビにも僕が出演してたやつ、あるのかな。そう思ってテレビの録画欄を見る。大体の番組名は覚えている。どれどれ。
「あ、あった」複数あったので見つけた範囲内で消去していった。
今でも僕のことを見てくれてるなんて嬉しいな。幸せ者だった。もう今、死んでもいい。
懐かしながらも番組を見ては消していった。僕が出ていた番組は全てお気に入りに入っていた。嬉しかった。だけど消さなきゃいけない。これは哀しい使命だった。僕の声、今とだいぶ変わってるな。子役モデルの頃のだから声変わりしてなかった頃か。懐かしすぎる。
そうこうしているうちに昼があっという間に過ぎていた。昼ご飯は食べていない。いいや。
午後は暇だった。ずっと露天風呂から見える景色ばかりを見ていた。ゲーム機でも買おうかと考えていた。此葉から盗んだ置いてある本を読んでいたら、夕方になった。僕は悲しいことに料理が作れない。だから君を待っていた。ずっと、まだ帰ってこないかなーって。待ち続けていたら此葉がようやく帰ってきた。夜だった。珍しい。
「おかえり」
「ただいま」
いつもの光景になっていた。だけどいつもと違うことがある。此葉は悲しそうな目をしていた。暗く、俯いている。
ご飯をいつものように作ってくれた。美味しかった。
「お皿は自分で洗うよ、お疲れ様」と言うと此葉はありがとうとぼそっと言った。
夜、ベッドでの事。
僕はパジャマを脱いだ。そして、君が寝ているベッドへ。
床ドンをした。君をもう、離さない。僕だけの物にしたい。
「いい?」
(何が……)と思っていると、いきなり首すじと耳をゆっくりと舐められた。颯くんからの“それ”は気持ちよかった。全てが解放されるような感じがした。
さらには颯くんが私のパジャマを脱がそうとしたので、「それはやめて」と制止した。
「今日は積極的だね」と私が言った。その通りだ。颯くんはいつも待ってばかりでアプローチの1つもしてこない。颯くんがここまでしてくるなんて珍しい。
「何かあったの?」
「今日はね、嬉しい事があった」
「そうなんだ。私は悲しい出来事があって憂鬱な日だった」
「相対的だね」
本当にそうだ。此葉は会社で恋渕先輩に嫌われるように仕向けられ、実際いじめにも似た被害にあった。颯は雑誌を見つけて、最初は過去の自分を見つけたから嫌だったけど此葉からの応援メッセージを見つけて此葉のことがもっと好きになった。
今日は最悪でもあり、最高な1日だった。
「会社で何かあったら僕に必ず言うんだよ。僕が解決してあげるから」そう言って得意げな笑みを浮かべた。
「分かった」
彼の目を強く見た。
彼との顔の距離は近い。
「どこかで……颯くんの顔、見た事ある気がするんだよね……どこだっけ? 颯くんって誰?」
「え?」
今にも秘密がバレそうな気がして寒気がした。知られてはいけない。僕が雲霧靄だって事を。隠さないと君に嫌われてしまう。殺されてしまう。驚かせてもいけない。社会からの敵意を向けられた僕は新たな人生を歩みたかった。隠し通さないと。
「僕は僕だよ。颯だよ」
「名字は?」
「僕の名字を知ったら、君はこの家から出ていってもらう」
(え?? は???)
そうして2人はゆっくりと眠りに就いた。
第十節 料理は今日から僕が作る!
(私がこの家を出る? こんなに頑張って働いて貯めたお給料で買った家なのに!? 空耳じゃないわよね……)
「おはよう、此葉」
「おはよう。って前よりひどい格好なんですけど!!」
颯くんは全裸だった。私が止めなければそれ以上の事もやったのだろうか。
「だって……君が僕を好きにさせるからいけないんだよ。嬉しすぎて昨日、泣いちゃった」
(寝たから忘れてくれたか)と僕は安堵した。
泣かせるくらいのことって昨日したっけと頭を巡らせてみた。だけど心当たりが無かった。嬉しすぎて泣く? 何の事だろう……でも颯くんが私のことをより好きになってくれたのは嬉しい。
私はそうしてキッチンへと足を運んだ。今日の朝は肉じゃがと焼き魚とご飯でいいやと思っていた。普通に今から調理する。すると、何やら興味深そうに彼が来た。
「君っていつも料理自分で作ってるよね? 忙しいのに大変そう」
「あら。心配してくれてるの」
「分かった! 今日から料理、手伝うよ。今日の晩ご飯から僕が作るね。それでいい?」
「料理作れるの?」
その言葉に一瞬、固まってしまった。勿論の事だが、僕は料理が作れない。それなのに自分で料理を作るって言ってしまった自分が恥ずかしい。
「作れない」
ありのままを曝け出した。
だったらなんで料理手伝うなんて言ったのと聞かれそうだったが、彼女は素直に頷いてくれた。気持ちだけでも嬉しいというものなのか?
此葉は忙しいのに僕の分まで作ってくれる。今朝もそうだ。肉じゃがも焼き魚も美味しい。「ごちそうさま」と言って食べ終わる。
そして彼女は「行ってきます」と言って出て行ってしまう。そして今日も僕は一人だ。寂しいなんて感情はどこかへ置き忘れた。
今日は外食せずに家で食べた。自炊だ。オムライスを作ろうとして卵をふわとろにできず、失敗してライスはパラパラになってしまった。こんな物、食べれた物じゃない。そう思うが、責任持って食べなきゃ此葉に怒られる。初めての料理はこうして失敗に終わるのだった。初めから上手くできる人なんてそうそういない。彼女だって最初から出来たわけじゃないだろう。
彼女が帰ってきた。今日は味噌汁を作るらしい。手伝うとしよう。最初は野菜やこんにゃく、豆腐を切る。
「こう切るんじゃなくて、こうだよ」言われた通りにした。
「分かった」
「あと右手は丸くして、指切らないようにして」
「分かった」
僕は左利きだ。小さい頃からそうで、矯正されたけど結局治らなかった。
此葉は右利きだ。
「あ」血が出た。
「止血しないと」
「こんなの、平気だよ」と言ったが、間髪入れずそのまま此葉が水を流し、手の血を流した。かなり深く切れている。それなのに僕は大したこと無いと思っている。おかしい。
次にお湯を沸騰させ、煮る。お味噌汁の具を混ぜている。丁度いい感じの所で彼女が止めて、味噌を入れ始めた。僕はそのまま言われた通りに混ぜていった。
そして完成だ。美味しく出来たっぽい。あとは此葉が煮物を作って、ご飯を炊こうとしたのだが、「ちょっと来て」と言われたので、向かった。
「昼、何か作らなかった?」
バレた。バレるのが速い。どうやらふちに付いていたらしい。
「オムライス作ってみたけど失敗しちゃった」
「そうだったんだ。よく頑張ったね、えらいえらい」なんか褒められた。怒られるのかと思った。
それから2人で出来上がった料理を食べた。味噌汁は此葉の指導の下だから美味しく出来上がった。食器洗いは僕の担当だ。
お風呂の時間だ。「一緒に入らない?」と誘ったが「嫌だ」と言われてしまった。嫌だと言われてしまったのだ。
まあ、いい。露天風呂に入ってみたくて、許可を貰って初めての露天風呂に入った。夜景は言葉を失うほど、綺麗だった。君とも見たかったなと。初めての露天風呂は此葉とがよかった。いつか一緒に入りたい。
湯船にお湯が溢れ出すくらいに浸かった。気持ちよかった。
パジャマに着替え、今日は着崩ししないようにボタンを留めた。
そしていつものように眠りに就く。
明日も此葉の出勤日だ。君のために料理が作れるようになりたい。
翌朝。
「今日はちゃんと着てるんだね」
「まあね」軽返事をする。だってどんなに誘っても振り向いてくれないから。
午前と午後は此葉から貰った料理本を読む日々だ。それが毎日続くようになった。料理をしていくうちに腕が上がってきた。上達は早かった。
昼ご飯はローストビーフとサーモンのカルパッチョとコーンポタージュを作った。失敗せずに作れた。日を重ねるごとに料理が格段と上手くなっていった。
次の日も次の日も彼女は悲しそうな目をして、会社から帰ってきた。何か理由があるのだと思ったが、なかなか聞き出すことができなかった。泣いて帰ってくる日もあった。
「大丈夫?」と僕が聞くといつも「大丈夫」と返してくる。こういう場合の大丈夫は大丈夫じゃない。
今夜は成功したとっておきのオムライスを作ってケチャップで“大好きだよ”、“元気出して”というメッセージを書いて此葉の席に皿を置いた。そしたら此葉はボロボロと泣き出した。終いには僕のポロシャツの袖で涙を拭いた。
涙声で「ありがとう」と。そう言い、食器をカウンターに置いた。泣いている彼女をぎゅっと抱き締めた。それが男の役目だと思った。
そしたら、此葉は話してくれた。恋渕先輩に嫌われるように仕向けられてること、嫌がらせの例とか……。
「僕が何とかするよ」
そう言ったら此葉の笑顔が戻ってきた。手を繋ぎ、ゆらゆらと揺らした。
第十一節 彼女の悩み
何故か気付くと彼女はフェンスに身を乗り出していた。振り返り、僕の目を見つめながら。手を振るような仕草も見せた。
「さよなら」
彼女は憂いを帯びた目をして最期の言葉を告げた。
それを止めるようにして僕は「待って!」と言い、彼女の手を取った。
「なにがあったの?」と聞いても、
「私が死んでも悲しまないでしょ」としか言わなかった。
「そんなの嫌だよ! 悲しむし、辛くなる。君と出会えて本当に良かった」
そしたら大粒の涙が彼女の目から大量に地面へと零れ落ちた。とその時、手が離れてしまった。僕は焦った。だってここはマンションの64階。落ちたら確実に死ぬ。
怖々と下を見ると彼女は居なかった。あれ?
はっと気付くと夜の2時だった。起きたら隣に彼女がいる。よかった。ほっと胸を撫で下ろした。これは夢だ。
それから眠れなくなった。ずっと彼女が自殺する夢を見るんじゃないかと考えていた。そして寝れない夜が過ぎ、朝が来た。朝日が窓を突き抜け、僕と彼女のベッドを照らす。僕は朝起きて最初に此葉を抱き締めた。彼女は驚いたような表情を見せたが強く、強く抱き締めた。
今日は有給を取った。会社に行っても面白くないし。颯くんは勉強をしてると前に言っていた。学生さんかなと思っていた。そしたら彼は何もしてなかった。信じられなかった。
「なんで勉強してないの?」
僕はその質問には答えなかった。しばらくしたら此葉にビンタされた。それでもなお、答えなかった。
「この嘘つき!」
「ごめんね」
「ごめんね、じゃないよ! 薄々、そうなのかなと思ってたけどそう思いたくなかった……」
ニートだとあっさりバレて、求人募集の冊子が机の上に置かれた。でも、中身を見ようとはしなかった。だって、僕の名前と履歴書を見て、採用したいという会社は無いと思うから。無駄な努力はしたくない。
「颯くんって秘密主義者だよね」
「そうかな」
「そうだよ。何か隠したい過去でもあるの?」
不意を突かれたので焦り顔をし、慌てふためいた。
だがそれも刹那、「別に」とさらっと返答した。本当はあるけど。
「大学は?」
「中退した」
大学を中退する理由は色々ある。勉強が苦になった、金銭不足、事件を起こした等様々だ。僕は強制退学することになった。波乱万丈な人生だ。もっと勉強したかった。Topモデルとして輝いていたかった。大学に通い続けていればもっと有名になれたのかもしれない。でも、運命がそうさせなかった。
「そうなんだ」
「それより、恋渕先輩の件、解決しようね」
「恋渕先輩は自分を嫌う人を不利な立場にしようという考えの人なんだよね」
「うん」
「多分、皆に脅迫めいたことを言って、従わせてるんだと思うよ」
「えっ!」彼の推理に驚きが隠せなかった。
「まあ、落ち着いて」
「これはあくまで仮定だから」
「絶対、此葉を救ってみせるから」
笑顔で目を見て、ゲーム部屋へと颯くんは向かった。
昼ご飯も夜ご飯も彼が作ってくれた。ゲーム部屋にはカセットやビデオゲームの本体など沢山あった。テレビまである。それもこれも颯くんが用意したのだ。お金持ってないというのは嘘だったのか。
ひたすら、僕は午後はずっとゲームをしていた。
夜ご飯を食べている最中、私は颯くんに悩みを吐露した。
「同僚に無視されるの」
「水、かけられた」
「恋渕先輩の目が怖い」
「それはつらいよね」と僕は同情した。
此葉が会社で酷い目に遭っているのを見過ごせなかった。僕だってつらい思いをするし、正直我慢できない。だから、電話した。会社の相談窓口に。そして、ある人に頼んだ。
(どこに電話してるんだろう……)
かなりの長電話だった。
今晩はベッドで抱きついてから寝た。
「死なないでね」
「なんで? 死なないよ。絶対死なないから大丈夫」そう言って笑ってみせた。
今日の朝ご飯も僕が作った。あれからというもの、颯くんが作ってくれている。ありがたい。空いた時間にも仕事をする。
今日も仕事へ行く。気が重い。颯くんは何とかすると言っていた。
何故か今日はハラスメントのアンケートが全員に配られた。そして上司に提出した。さらに、恋渕先輩の暴言や部下への厳しい命令や押し付けの証拠が見つかり、来月に懲戒免職が言い渡された。
これは颯くんの仕業だろうか。本当にすごい。どうやってこういうふうな流れになったんだろう……
帰ってきてすぐに颯くんに抱きついた。
「何かしたでしょ? 本当にありがとう。大好き」
「僕は何にもしてないよ」と颯くんは平気な顔をした。
今日も料理を作ってくれる。バリエーションが豊かになった。
今宵のマカロニグラタンは熱くて美味しかった。何でそんなに料理の上達スピードも早いんだろうと疑問に思う。
食器洗いも颯くんがしてくれた。本当に颯くんは謎な存在だった。いつか仕事も紹介しなきゃと思った。颯くんも私と同じ会社に入ったら、どうなるのかな。悩みは一瞬のようにして消えた。来月が待ち遠しい。彩芹や絵梨花は前と変わらず、接してくれるのだろうか。
颯くんの体にそっと触れた。生温かかった。華奢な体に秘めた秘密を知りたいと思ってしまった。だけど、颯くんはそれを拒んでいる。知ったら一緒に暮らせなくなるのだろうか。
なんで会社の電話番号、知ってるんだろう。あ、もしかして――
第十二節 初めての喧嘩1
バッと布団を押し退けた。怖かった。横に居る颯くんが。私のことを探り始めてる気がして……。全てを見透かされてるような予感。教えてもないのに知られているのがストーカーみたいで、怖じ気づいて寒気がした。
「颯くん、なんで私の会社の電話番号、知ってるの?」
「え……」
「教えて無かったよね」
彼は戸惑っていた。何か隠そうと頭をぐしゃぐしゃした。そして、頬を掻いた。
「それは……内緒」
スマホの電話番号の履歴で分かったと言っても第一ロックされてるし、勝手に見たと怒られるだけなのではぐらかした。駆け足でトイレへと逃げ込んだ。私は追わなかった。だけど、不信感や不快感だけが心に残って、どうしようもなかった。
朝ご飯を作った。何も考えずにすらすら作った。そして朝ご飯を食べた。
無言の間がひたすら続いた。颯くんは私の手をずっと見てる。何を考えているのか分からない顔で。目玉焼きもサラダもパンもいつもより美味しくなく感じる。全部、颯くんのせいだ。
唐突に颯くんが口を開いた。
「ねぇ、さ、職場の上司から助けてあげたんだからいいじゃん。その為に必要だったんだよ。何も考えないで。気にすることはないよ」
「そういう問題じゃない」私は真面目な顔をして言い放った。
食器を洗いながら考えた。何故、私の会社の電話番号を知っているのかと。
スマホを渡した覚えもない。雑誌にも本にも電話番号は書いてないはず。ましてや、会社名を教えた事もない。デザイン会社に勤めてるとは言ったけど。となると……名刺だ。沢山あるから棚に仕舞ってあるはず。私はよりにもよって部長だった。優秀だと社長に褒められたこともある。
名刺が入ってる棚の引き出しを開けてみた。そしたら名刺の位置が変わっており、前より乱雑になっていた。これは彼の仕業としか考えられない。
「勝手にお留守番中、弄ったよね?」棚の中がぐちゃぐちゃになっていることに苛立ちを隠せなかった。
「ごめんなさい。僕がやりました」
正直に言ったけど彼女の目が怖い。彼女はゆっくりと近づいてきた。
「どうしてこんなことするの!! 直すの大変なんだから! 早く直して!」と私は激怒した。
怒られた。布巾で拭いたフライパンを持ちながら。フライパンで叩かれるのかと思ってひやひやした。
「他にも荒らしてないでしょうねー」
目がつりあがっている。僕は頷いた。
それから午前は暇だった。此葉とお話がしたかったけどすごくダークなムードを感じる。話しかけてはいけないと思った。
僕は散歩に出かけた。桜は散ってしまってもう新緑の季節だった。だけど名残惜しくて、君とデートした日が忘れられなくて会いたくなってしまった。だけど川が流れる柵越しにただじっと川を見ていた。ベンチに腰かけ、一時も無駄にしなかった。彼女に素性がバレたくない気持ちと彼女といつまでも一緒にいたい気持ちが頭の中を駆け巡っていた。ずっとそればっかりで頭を潰したくなった。
その頃、私は本を読んでいた。颯くんに会いたいとは思えなかった。このまま1人生活を満喫してもいいんじゃないかと思えるくらいだった。
彼が出かけて1時間くらい経った頃。インターホンが鳴った。颯くんかと思ったけど宅急便だった。通販で頼んだ商品が届いた。それに続くように颯くんが帰ってきた。
「ただいま」
返事はしなかった。帰ってきてほしくないからだ。
昼ご飯は彼はおにぎりを外で買って食べたというので、私1人で食べた。外で食べるなら言ってくれればいいのにと思った。帰ってきてほしくなかったけど一応作っておいたのだ。
テレビをつけた。お笑い番組の下らない裸芸がやっていたので速攻で違うチャンネルに変えた。私の好きなファッションやスイーツ番組がやってない。食べてる番組ならお昼時だからやっていたのでそれにした。だけど、スイーツじゃないと私の興味をそそらない。
颯くんは窓の方を見ていた。露天風呂じゃないもう1つの場所には下を見下ろせるベランダがある。60階以上だから高いだろう。なのに怖がる様子を見せない。高い所、平気なのか。私とは違う。
しばらくして彼がベランダから出てきた。こっちに来てと手を仰いでいる。私は高所恐怖症なのだ。
「私、高いとこ無理だから」
「僕と一緒ならへーきだよ」と颯くんは、はにかんで見せた。
「じゃあ」と言って颯くんの隣に並んだ。
ここから一望できる景色はとっても綺麗だった。今までは1人だったからここに来るのを躊躇っていた。唯一、1度だけ不動産探しでマンション見学の時に見たくらいだ。夜だったらもっと綺麗だろう。彼と一緒に見てみたい。そう思っていた。昼間の景色も高層ビルが立ち並んでいて、遠くの山も見渡せるほどだった。雲が流れていくのが分かる。時が進んでいるんだなぁと感じた。そろそろ行こっかと彼が言うので部屋に戻った。思えば、誰かと一緒なら怖くない。そう感じたのでまた来たいと心に強く刻み込んだ。
部屋に戻ったら、颯くんが「ゲームしよ」と誘ってくれた。僕はゲームをする事で気を晴らしてほしいと思っていた。
最初にやったゲームはレースゲームで速さを競うゲームだ。専用の機器を左右に動かすことで、曲がる。真っ直ぐ進む時はスピードを出す時のボタンで加速するが、加速し過ぎるとレーンにぶつかってしまうので注意が必要だった。速度をあげる時はブレーキのボタンが鍵になってくる。
遊び方を僕が教えたが、なかなか覚えてくれなかった。此葉はカードゲームやかるたしかやった事がなくて、兄弟と遊んだ事が少しあるくらいだった。だけど、男兄弟しかいなかったから疎外感を感じていたらしい。
「じゃあ、始めるよ」
「うん」
「よーい、スタート!」
始めは順調だったが、此葉が途中でレーンにぶつかり、悶えていた。
「大丈夫?」と声をかける。
ここはこうして、これがこうでと一から一まで丁寧に教えていた。
当然ながらハンデを課せていた。だから此葉が止まった所で止まったままだった。だって本気出すとすぐに勝ってしまうから。ようやく、此葉が体勢を取り戻した。
結局、レースゲームは僕の圧勝だった。5回やったが、5回とも僕が勝った。
次にやったのが走りながらコインを集めていくゲームだった。これが意外と此葉が強くてびっくりした。
操作方法や遊び方を僕が教えたんだけれど、すぐに覚えてしまい、楽しいと口にしていた。
一緒にやったけど、僕のスピードにもついてこれていて始めたばかりなのに上級者だなと思った。
一度もゲームオーバーにならなかったのは協力プレイが上手くいったおかげだろう。コインのゲット数も此葉の方が多かった。何度も何度もやった。楽しかったからだ。このゲームが今日やったゲームの中で一番此葉が楽しそうにしていた。笑顔が垣間見れて、僕は安心した。だって、泣いてる顔や怒ってる顔しか最近、見れてなかったから。
最後にやったゲームはアジトに潜入して、ゾンビを倒して宝がある目的地まで行けば勝利というゲームだった。
これにはさすがの此葉も怖いと言っていた。まあそうなるだろうなという予測は立てていた。
「なんでこんな怖いゲーム持ってるの?」と此葉は弱々しそうに今にも泣きそうな小さな声で言った。
「あはは。面白いし、怖いのがまたいいんだよ」
ゆっくりと奥へと進んでいった。ゾンビが増えてきた。銃を持ってゾンビを倒すのだが、此葉は使い慣れていないらしい。あろうことか僕に銃を向けてきた。
「違う、違うよ。こっちじゃない」
銃の方向を直したが、ゾンビの攻撃を受けてしまった。襲いかかってきた。
ライフが1減っただけなのだが、「ひゃっ!」と思わず彼女は声を上げた。
「大丈夫だよ」と励まし、安心させようとする。
「画面からこっちに来そう……怖いよぉ」そう言って僕のシャツの袖を掴む。
「画面から出てくることはないから」
なんとかライフギリギリで目的地まで辿り着く事が出来た。僕が彼女を守るかたちで何体もゾンビを倒しまくった。僕がリードしたと言っても過言ではない。少しは男っぽいとこ見せられただろうか。
「やったよ~良かったね。勝ったよ、僕たち」
「怖かったぁー心臓止まるかと思った。守ってくれてありがとう、颯くん」
最後の一言で思わず照れた。頼りにされてるというのはこんなにも嬉しいことだと改めて思った。こんなの言われたら照れるだろ……しかも笑みを浮かべながら。太陽のように眩しかった。この笑顔を忘れないでほしい。
そしてゲームを終えた後にお風呂に入った。2人で入れる日はくるのだろうか。ノリ気なのは僕だけだった。此葉は男性不信であり、恋愛に慣れていなかった。だけど恋愛に興味はあり、彼氏が欲しいと思っていた。
夜ご飯を食べ終え、寝床へとついた。私は本を読んでいた。雑誌もちょっとだけ読んでいた。先週の今日はデート日前日だった。
(なんか気になるんだよねーモヤモヤする)と此葉は心の奥底で1人悩んでいた。颯くんに謎が多いのは最初から分かってはいたけど、隠し事をされているみたいで存在自体に不信感を覚える。その秘密を知りたいけど知ったら今の関係でいられなくなる気がして、怖かった。嫌いになったわけじゃない。だけど出会った当初より好きじゃなくなって、心のモヤモヤが現れはじめた。誰かに愚痴を聞いてほしい。でも、誰も職場に聞いてくれる人はいない。私って一人ぼっち? って思い始めた。
そんなことは露知らず、颯くんは別のことを考えていた。
此葉はゲームで気晴らしできたかな。今の心の調子は良さそうだ。これで安心して眠れる。
第十三節 初めての喧嘩2
そうして、このマンションに朝が来た。今日は颯くんより私のほうが早く起きた。今日が楽しみにしていた新しい雑誌の発売日だったからだ。通販で先行予約しておいた。デザインの参考にもなる。
待ち遠しく、胸を弾ませていた。そしたら8時過ぎにインターホンが鳴った。嬉しくて駆け出していくと頼んでいた雑誌だった。「ありがとうございます」と言い、受け取った。
リビングのソファーへと進んで行き、座って読んでいると苦い顔でこちらを見てきた。何か悪いことでもしたかな……と不安になった。
(あれか、透明な机の下に沢山積まれていた雑誌は。いつか捨てよう)
秘かにそう企んでいた。
雑誌には可愛い服やかっこいい服が沢山掲載されていた。中でも今、応援している若手の男性モデルに目が行った。その人は爽やかで綺麗に着こなしていて、とてもかっこよかった。黒い服など寒色系のコーデを着ていた。春なのに。でもそれがまた、良かった。他にも私はこういう人になりた~いという女性モデルもいた。背が高くて、自分よりサイズの大きい服を着ていて、憧れた。ファッションに夢中になってると「朝ご飯まだー」という彼の声が聞こえた。
「待って、もうすぐ作るからね!」と威勢のいい声で返事をした。
その雑誌にはお洒落な衣装が盛りだくさんあった。ご飯食べ終わってからも見ようと意気込んでいた。
朝ご飯を食べ終え、雑誌のページを捲る。あれ? なんか誰かが読んだ形跡が……そういえば今日の皿洗いは此葉がやってと言われた。それじゃ、その間に……でもなんで見る必要が? おかしい。それに見たいなら見たいって素直に言ってくれればいいのに……ファッションに颯くんも興味があるのかなあ……。そんなことを読みながら考えていた。
あっという間に午前が過ぎた。腕時計を見ると午前11時58分を指していた。お昼ご飯作らなきゃ。
急いでキッチンへ向かうと颯くんが居た。うずくまっていた。
「どうしたの?」と声を掛けた。
そしたら「僕が作る」と言ってきた。
断ったのだが積極的に作ると連呼してきたので、渋々キッチンを譲ってあげた。だが、食材が無かったので急遽、冷凍食品になった。
そして食卓に昼ご飯が並んだ。今日のメニューはパスタだった。きのことほうれん草のやつだ。美味しそうな料理だった。いい匂いが漂ってきた。だが、この時は予想だにしない出来事が訪れるとは思わなかった。いつもの食事タイムで午後は雑誌が読めると思っていた。
最初の会話はこれだった。
「今日届いた雑誌っておもしろい?」不機嫌そうな表情で聞かれた。
(え、何、急に……)
「お洒落な服とか載ってて参考になるよ。読んでて楽しい」と普通に答えた。
「そうなんだ」淡々としたトーンだった。
私がテレビの電源を付けた。
そしたらきつい怒ったような面持ちで「食事中に“ながら”はよくないよ」と注意された。
「別にいいじゃん」
そう告げ、バラエティー番組にチャンネルを変えた。今日はファッションのコーナーがやっていた。パリコレの様子が流れていた。おお……思わず私は感激した。そこには背の高い女性人気モデルが歩いている姿が映っていた。女性が多かったが男性も少数いた。
何故か目の前にいる彼は視線を逸らしている。そして目を塞ぐ仕草なども見受けられる。なんでだろう……
テレビには世に出回っていないようなお洒落な服を着て、胸を張って歩いているのに。
彼に「大丈夫?」と話しかけた。
すると、「チャンネル変えるか、消さない?」と低い声で怒り口調に言われた。
「食べる気、失せるんだけど」
「え?」
「そんなに変な番組だっけ? これ。普通のファッション番組だよ」
「いいから、早く消して!!」
彼は何故か涙を流し、怒鳴っている。
逆鱗に触れたのだろうか。私にはそれが分からなかった。彼の地雷も心の傷も何もかも。
「昨日から僕を傷つけたり、怒らせる言動ばっかり! そういうの本当にやめて! 嫌」泣き崩れるような動作だった。涙がポロポロと零れている。
「気に入ってる番組なんだよ」と傷口に塩を塗るような発言をした。
その言葉には僕は無視した。
強引にリモコンを奪い、テレビを消した。その後は静寂が食卓を流れていた。
午後はとっても憂鬱だった。お互い。食器洗いも颯くんは嫌と言い、私がやることになった。
颯くんは消えてしまった。と思ったら、ゲーム部屋へ行ったようだ。何故か物置き部屋だったのが今ではゲームのソフトや大画面のテレビが置かれ、今ではゲーム部屋へと化している。全て彼の自費だ。物置き部屋がゲーム部屋になるとは思いもよらなかった。部屋は広々としている。
私はというと気分が落ち込み、怒りとかではなく、ただ無気力で離人感が湧き出てきて、ぼーっとしていた。そしてベッドに体を預けた。寝たら忘れるって言うし。寝て忘れよう、そう思っていた。でもなんで颯くん怒ってたんだろう……考えるのはやめよう。何も考えず、寝ようとした。だが、なかなか寝つけなかった。
寝ること3時間。気づけば夕日が沈む頃だった。ベッドからガラス越しに観る夕景は綺麗だった。ここからも高い所から色々な建物などが観れる。ガラスの外は露天風呂だ。
だけど、忘れられなかった。沢山寝たはずなのに……夜ご飯作らなきゃ。もう作ってくれないだろうな。ゲームに夢中だし、不機嫌だし。颯くんとは一緒にご飯食べたくない。顔も合わせたくない。ゲーム部屋の扉を開くと彼は疲れたような様子でクッションに横たわり、寝ていた。私と同じだ。ゲームで遊んでいるかと思えば寝ていたのだ。その光景に驚いた。目には涙を浮かべている。眠いからかな、そう思っていた。
夜ご飯を作り終わり、食卓に皿を並べた。(颯くんを起こさないと)と思ったが、起こさない事にした。今日は1人で食べたい。昼ご飯の時の残像が蘇ってしまう。目の前の皿が3皿、誰にも食べられないまま、完成形を保っている。こういうのって見てると切なくなってくる。悲しくて、物寂しい音が聞こえてくる。捨てられるのは嫌だなぁ……頑張って作ったのに……
私は食べ終わり、颯くんを呼びに行った。起こすのに時間が掛かった。体を左右にゆらゆらと揺らす。揺すってみても起きない。今度は叩いてみた。そして、「起きて」と大きな声で言った。そしたら、うむっと可愛い声を出し、起き上がった。
「夜ご飯の時間だよ」
「作ってくれたの? でも、いい。食欲無いから」そう吐き捨てるように言い、また寝ようとした。
この場合は捨てるパターンだ。最も、避けていた事態が既に起き始めようとしている。何とかして阻止せねば。
だから「お風呂はどうするの?」と促し、寝かせないようにした。
彼は思い出したような目をし、ゲーム部屋から気力を失い、やる気のなさそうに一歩、一歩、すたり、すたりと歩き出した。
私は夜ご飯の片付けと食器洗いをした。幸いにして、颯くん用に作っていたご飯は明日の朝に持ち越すことにした。まだ持つし。片付けながら思った。相当、昼の出来事がショックだったんだろうなぁ……と。でも何がショックなのかは分からなかった。
僕は風呂に浸かりながら、思考を巡らせていた。嫌な夢だったなぁ……僕は悪夢を見た。過去の嫌な出来事が夢になったといってもいい。テレビや新聞で淫行報道が報じられ、新聞には性的暴行と大きな見出しで掲載されていた。逮捕までされた。手錠を掛けられた。それがすごく重く感じた。その時から社会が怖くなった。隠れてひっそりと暮らしたいと強く思った。恥ずかしかった。嫌で嫌でしょうがなかった。でもそれは、僕じゃない。僕のふりをした別人だ。
風呂から戻り、彼が寝室へと帰ってきた。今日は颯くんとは一緒に寝たくないと思った。入れ代わるかたちで私は「また後でね」と言い、廊下に向かった。
「ちょっと待って!」と颯くん。
「寝室なら僕が譲るよ」
「いいよ。そこで寝て、おやすみ」と私は言った。
別に廊下で寝ても大丈夫。寒くても我慢する。私は彼を傷つけたからと遠慮していた。
「女の子が地べたで寝たら冷えるし、よくないよ」
変な所で優しく気遣ってくれた。そういう所が嫌いだった。憎めなくて、嫌いになれなくて……嫌いだったら嫌い、好きだったら好きになりたい。それなのに中途半端な優しさに憤怒してしまう自分がいる。
「私の気持ちなんて何一つ分かってないくせに!!」暴言を吐いてしまった。思わず、彼の顔を窺う。彼は頷き、無表情で分かったというような顔をしていた。
「うん。ごめんね、僕の要らない優しさだったよね……」そう言って布団を被った。
「あ、おやすみ」
「おやすみ」目を合わせて言った。
私は結局、廊下で寝ることとなった。布団は奥部屋から持ってきて、敷いて寝た。
久しぶりの廊下寝も悪くはなかった。
翌朝。
朝が来たことを知らせる太陽の無い廊下で私は寝返りを打っていた。唯一、朝が来たことを知らせるのが人の声だった。
そろりと気配のない足音がこちらに近づいてくるのが分かった。
「起きて、おはよう。朝だよ」颯くんの声だ。
まさか彼に起こされるとは思ってなかった。
「おはよう」朝の挨拶くらいはする。
「ご飯、どっちが作る?」いつもこうゆう話し合いをする。
「颯くんが作って」そう指示して、彼はキッチンへと消えていった。
着替えなきゃと思い、衣装室へと向かった。デザイン関係の仕事をしているので、沢山お洒落な服は持っている。雑誌にあった服も頻繁に買い溜めている。着替えた。
食卓に向かうと、まだ朝ご飯はできていないようだった。だからひたすら待った。暇だから雑誌を読もうと机の下から1冊取った。あれ? 手にしたのは去年の10月号だった。おかしい。昨日届いた雑誌が無い。しかも順番がばらばらになっているのを今気づいた。ひょっとして颯くんに荒らされてる? と同時に思った。昨日の雑誌はどこだろうと色々な場所を探してみたが見つからない。おかしい。昨日の雑誌は机の下に置いたはずなのに……
憂鬱な気持ちのまま、食卓に就いた。食欲不振で颯くんに嫌疑がかかっている。
食事をし、カウンターに皿を置いた。
そして、日課であるゴミ出しと新聞取りに行くため、玄関を出た。今、パッとゴミ袋を確認がてら見て、驚いた。驚いた理由というのがあの昨日届いた雑誌が袋に入っていたのだ。これは驚くしかないだろう。なんで……? どうして……涙が出てきた。私、いじめられてるの。そう疑問に感じた。颯くんの仕業だ。イジワル、サイテー。汚れているからもう取り返しがつかない。しかも生ゴミと一緒に袋に入ってる所から悪意を感じる。
涙を浮かべながら玄関を抜け、リビングに帰ってきた。
「どうしたの?」
「どうしたの? じゃないでしょ。分かるよねえ?」私は悔し涙を流しながら怒りを露にした。この確信犯。絶対、自分のやった事を分かっているはず。覚えてないなんて言わせない。
でも、また変えるし、怒って悲しんでいるだけじゃ済まなかった。問題は“どうして捨てられたか”だ。何か理由があるに違いない。
徹底的に調べ上げた。携帯で名前を検索する。そして過去の雑誌も見る。だいぶ、減っていた。“颯”だけだと沢山の人の名前が出てきて、合致するものが出てこなかった。数分は調べていた。パソコンでも調べた。
(でも、誰か知ってる人の顔に似てるんだよねー)
「何で僕の名前なんか調べてるの?」
デスクでパソコンを開き、Googleで検索「颯 モデル 昔(〇〇年)」と調べていたら横から口を挟んできた。
(何でと言われても答えられない……思い当たる人はいるけど、知られたくない。知られたらまた隠されるに決まっている)
「颯くんには関係ないよ。教えない」そう口を閉ざした。
だが、「関係あるよ。僕の事でしょ」と全てを知っているかのように言った。
「だって……謎な行動ばかりだし、何も自分の事を話したがらないし、教えてすらくれないし。もう、うんざりなの!! 名字すら教えてくれないのは卑怯だよ」
それには僕は言い返せなかった。僕が雲霧靄だってバレたらこの関係でいられなくなる。それは受け入れられず、僕にとって苦しい選択だった。
「僕は君のことが本当に好きだよ。どんなに君が嫌な気持ちになる事が起きても、好きな気持ちに変わりはない」
「本当は嫌いなんでしょ。だからこんな意地悪……」
「好きだって言ってるじゃんか! 嫌な気持ちにさせてごめんね。雑誌捨てたのは僕だよ」と颯くんは暴露した。
「謝ってない! 雑誌、颯くんの自腹でまた買ってね」
「何でそういうこと言うの? 此葉のことは何でも分かってるよ。でも今の此葉は嫌い。もういいよ。僕が消えるから」
颯くんは今にも泣きそうな目をしていた。結ばれてはいけない恋だったのかもしれない。でもこう出会わせたのは1つの財布だった。
「私のことなんか何も分かってないくせに!!」
テレビは消されるし、好きな雑誌なんかは翌日に捨てられる始末だった。その現実を分かったと受け入れる事は出来なかった。嫌だった。これじゃあ、憂鬱な毎日がいつまでも続くだけだ。そんなの許せなかった。だから彼にこう言った。
「颯くん、この家から出てって! 一生この家には上がらせないから。颯くんのことなんて嫌い! 大嫌い! さようなら!!!」そう叫んだ。
本当は心の中では颯くんが嫌いになんてなれなかった。そういう気持ちになりたくなかった。でも、彼がそうさせたのだ。
もう会えなくなっちゃうのかな……そんな思いを胸に颯くんを追い出した。
第十四節 喧嘩したアト
僕は呆気なく、追い出されてしまった。これからどうしよう……そんなことを考えながら、ただひたすらに歩いた。
歩いてすぐにコンビニに寄った。また路上生活者になるのかと内心思っていたからだ。コンビニで軽い食事と水は確保した。
私は颯くんがいなくなって少し落ち着いてくるとテレビを付けた。テレビには私の好きなスイーツ番組やファッション、動物、絶景など、休日のお昼時だから流れていた。でもなんか楽しめない。物足りない。彼との喧嘩から嫌な記憶が思い出される。彼がいなくても大丈夫……最初はそう思っていた。彼の束縛からの解放感。一人で好きなことができるという楽しさ。その気持ちが今は強かった。
それから昼ご飯は自分で作り、彼がいた時は彼が作っていたけど自分1人だから好きな食べ物を作ったり、店で売ってるスープ等を用意して食べた。彼が使用していた食器。仕舞おうか迷っていた。使えなかった。捨てられなかった。まだ気持ちの整理ができていないのである。気持ちの整理ができたら、雑誌を買って戻って謝ってくれたら許し、抱き締めてあげられるに違いない。でも今はそれができない。
午後もずっと暇だった。途中から話し相手がいない部屋に無言の空気が充満した。
朝やってた調べ物の続きをしようと思い、パソコンを開くと何故か設定していないパスワード画面が表示された。颯くん、周到すぎる。流石だ! 用心深い。そっちに気がいってしまった。
今度は山積みに積まれた雑誌の整理整頓をした。1ページ1ページ読むがそれらしい情報は入ってこなかった。写真に撮ってから捨てる雑誌と保存する雑誌を分けた。もう流行りじゃない衣装デザインもある。過去のヒットコーデはメモだけして頭に残す。
気付いたのが切られているページだった。1ページだけだが雲霧靄の写真が無くなっている。もしかして颯くんがもやくん? と一瞬気付きそうになった。でも確信では無く、候補は沢山いた。理由なく辞めた山坂梁くん。この人は今年の1月辞めた人で、借金があり、今はニートと噂が立ってた。私は噂を信じやすい。他にもそのように辞めたモデルがいた。顔も颯くんと似ている人も何人かいる。
もやくんの応援メッセージも切られていた。(颯くんもこの人知ってて、犯罪者が雑誌載ってるの嫌だったのかな……)と冷静に判断した。
夜が来た。
僕はやけくそに走った。ネットカフェが駅近くにあるはず……と。悔しさと少しの罪悪感で自然と涙が流れていた。午後を前みたいに1人で過ごしたら、どうでもよくなった。しばらく全速力で走って気付けばネカフェの前にいた。此葉から貰っていたお小遣いを使ってしまった。使える範囲内で使おうと思ってた。
そして今日から僕のネカフェ生活が始まったのだった。
その頃、私は露天風呂に浸かっていた。1人だしいっかと思って。久しぶりだった。露天風呂から見える景色は相変わらず綺麗で、彼と一緒に入りたいとは真逆の感情があった。というか男性と入りたくない。私1人でいい。綺麗な景色は1人で満喫したい。
寝よう。タイミングが偶然にして同じだった。違う場所で夜が更けていった。横を見ても彼がいない。出会う前と同じなのに同棲してたから新鮮さを感じた。だけど、同棲っぽいことはしてこなかった。恋愛に関して未熟だなとふと思う。確かだが、上手ではない。どちらも上手じゃないから何も進展しない。あれ以来キスをしてない。セックスはタイミングが分からなかった。1度だけしそうになった事があった。でも私が止めたのだ。急に私が脱いだらビックリするだろうし。出来るなら自分から脱ぎたい。無理やりは嫌。露天風呂はまだかなと思い、躊躇していた。だからデートしかしてない。手は繋いだ。私、頑張った。ゲームもした。だが、あれだけ夜を共にしているのに進んでなさに我ながら反省した。颯くんも悪いけど。
翌朝の事。食事がし終わり、彼のコップや皿を捨てようかと考えた。彼が戻らなければ必要ない。今更、人が使用した物が汚いと思うようになった。洗ったはずなのに……
会社に行っても彼のことばかり考えていた。これは恋じゃんと気付いたのは2分後。このデザインも彼が着たらかっこいいだろうなとか草食系で目立たない服装で似合いそうだなーとばかりパソコンと睨めっこしながら思っていた。今月のデザインがいかにもミステリアスな物や落ち着いた服ばかりだった。これは仕方ない。
家に帰っても1人だった。彼が玄関前で大人しく子犬のように待っている。なんてことはなかった。彼だったらしそうなのに。
一方で僕は絵を描いていた。彼女との絵だ。記念にデートスポットで写真を撮ってあった。道歩きの持ち物であるスケッチブックと絵画の筆記用具を手に絵を忠実に描いていった。僕は小さい頃から絵が上手かった。風景画などが得意だ。人物画も自信がある。
なのに気に食わない事がある。どうしても上手く描けないのである。実物の方が可愛くてオシャレなのには変わらない。何度も何度も納得がいかず、破り捨てた。
「此葉はもっと可愛い」自然と口ずさんでいた。
(上手く描けたかな……)と思った所でやめた。同時に彼女にプレゼントしたいとも思った。自分的には今までで一番の上出来だった。
家のドアを開け、手を洗い、すぐに記念写真を見た。捨てようかなと思ったけど捨てられなかった。デートの時は嫌なこともあったけど楽しかったと思い出を巡らせた。颯くんがいたから恋渕先輩を振る事ができた。感謝しかない。元カレの写真も1枚だけ取ってある。だから1枚だけ取っておけばいいやと思ったけどそう簡単にはいかなかった。だって、笑顔なんだもん。ずるいよ、その顔……。
今日も会社から帰ってきてすぐに寝た。でも癖で隣を見てしまう。彼の横顔が見たくて。でもそれは叶わなくて。
僕はその頃、ゲームをしていた。もう少しで勝てるという所だった。油断したら負けてしまった。勝てたら嬉しかったのか? そう自問自答した。答えは嬉しくないだった。勝ったのに嬉しくも楽しくもなかった。なんでゲームをしてるのに僕は楽しくないんだろう。そんな気持ちが数日続いた。
(久しぶりだったなぁ……女の子と過ごすの。戻ってこないかな、幸せ。あの手を繋いだ時の温もり。忘れない。今でも覚えているよ。正体バレても一緒にいたい。受けいれてほしい)そう思った。
テントで1人暮らしだったのが彼女と出会い、颯自身が変わったのだ。僕はまだそれに気づいていないが。彼女も変わっただろう。
彼女に会いたい。これって寂しいってことなのか。寂しくて夜も眠れなかった。
最寄りから2駅遠いネカフェにいるなんて事を彼女は知る由も無く、迎えになんて来てもらえず……一夜が過ぎた。
第十五節 仲直り
朝が来た。私は一人ぼっちか。そう思いながらカーテンを開ける。陽ざしが部屋を照りつける。朝が来ると何故だか憂鬱になる。もういっそのこと夜でいいと思ってしまう。活動したくない……消極的なそんな気分だった。
(颯くんに会いたいよ……)
そう思うようになってきた。少しは気持ちの整理が出来てきたのだろう。今なら許せる気がする。怒りが落ち着いてきた。
(帰ったら探しに行こっかな)
朝ご飯を食べ、出勤する準備をし、家を出た。そして今日の仕事が終わり、帰り際寄ることにした。
帰り道、こんな事を思い、考えていた。
心にぽっかり穴が空いたようなこの感じ。何だろう……ちょっとやそっとで崩れ落ちる幸せは幸せとは言わない。それに信頼とも言えない。偽りの幸せはほんの少しの束の間で、騙されて後に喪失感が残る。でも颯くんと見た景色は幸せだったはず。そう思っていたのは私だけだったんだろうか。私たちは信頼し合ってた、はず。いや、信頼し合ってた。でも彼側が秘密を抱えていて、1人で苦しんでて。私には教えてくれなくて。彼も《《私に会いたい》》って思っててくれたらいいなぁ……そんなことを考えていたら、涙が零れてきた。
まずはテントがあるか調べた。なのに跡形も無く、何も置いてなかった。どこ行ったの? これじゃあ、家出だよ。違う、私が追い出したんだ。一方的に責めて、傷つけて、私も傷ついて……もう何も感じなくなった。空が黒色に染まるまで探し続けた。川がある林のような場所だから遠くまで探した。颯くんの落し物がないか地面の大きな石の隙間まで見て歩いてた。だけど、どこにも彼がいるはずもなく、無駄な体力消費にしかならなかった。
あ、そうだ! バーにならいるかもしれない。でもキスした思い出の場所であってそこにいるとは限らない。でも行ってみよう。
いないかなーと思いながら店内を覗いてみたけどいなかった。だけど、これだけじゃ物足りないので何か頼む事にした。
「レモンサワーを1つ」
「はいよー」とバーテンダーは大きな声で注文を承った。
レモンサワーが手元まできて、一口飲んだ。あの時の味。忘れられない。ここで沢山喋ったっけ。楽しかったなぁ……表情が緩む。また彼とキスしたい。なんて1人で妄想してたら、数分が経過してしまった。
バーを出て、一旦肩掛けカバンの中を探してみる。残される手がかりはGPSか電話かメールだ。急いで携帯電話を弄る。だが、GPSは繋がっていない。残すは電話とメールだ。あれ。連絡先交換したっけ。思いだしてみたが、それっぽい会話は交わしてない。なんで連絡先交換してなかったんだろう……
この時思い知った。私達、恋愛不器用だ。彼は自分のことを知られたくないからそういう話、振ってこなかったのかな。
仕方なく渋々家に帰ることにした。玄関のドア開けて、ベッドに直行した。蹲って気持ちの整理をした。しばらくして寂しくて泣いていた。ご飯の準備をして、帰ってこないって分かってるのに颯くんの分まで作った。そして1人ご飯。彼の分は片付けなかった。ご飯の臭いが部屋中に充満する。窓開けて空気の循環だけさせておいた。神様に捧げるお供え物みたいになった。
1人露天風呂は空しいので普通に風呂に入った。お風呂あがり、記念に撮ったデートでの写真を見ていた。
「会いたいよ……颯くん」啜り声が漏れる。
もう会えないなんて思いたくなかった。彼のお陰で恋渕先輩を振る事ができた。あんな凶暴な彼氏欲しくなかった。彼がハラスメントから守ってくれた。良い思い出もできて、もう離れない恋人ができたと思ったのに……
結婚はまだ考えてないけど顔もいいし、性格も穏和だし。ミステリアスな所がまたいい。将来、結婚してもいいかなと心のどこかで思ってた。でもちょっとしたすれ違いで喧嘩になって離れていくなんて。私にもダメな所があるのかな……恋愛になると失敗だらけ。この性格直したい。上手く生きていけてる方だと思ってたのに。
「ごめんね、あんなこと言って。だから帰ってきて、お願い。私はいつまでも待ってるよ」そう言って用意しているご飯とベッドを見ていた。
ネグリジェに着替え、「もう会えないんだ。颯くんはどうだか分からないけど、私は一緒に過ごせて楽しかったよ」と呟き、1人きりの夜に沈んでいった。
2日後。僕はもう此葉のことは忘れようと諦めた。だって迎えに来ないから。僕って草食系で受け身だよね。そんなの自分で分かってる。だけど、僕の人生は《《途中で終わってる》》から。やり直したって取り返しがつかない。もうどうなってもいいってあの時思った。だから此葉との時間も夢だったってことで。ネカフェの代金もあと少しで底をつくし。「テントに戻りますか、懐かしのあの場所」。そう言って、戻る準備をした。
私はショッピングモールのビルへ買い物に行く為、駅に向かった。お洒落な服を着て。
僕は重いリュックサックとトランクケースを持って、テントに向かった。ロッカーに仕舞いこんでいたのだ。トランクケースは此葉の家にも持っていってた。テントに向かう道中、此葉らしき人がこっちに向かってくるのが分かった。すかさず、フードで顔を隠す。すれ違った。
「あ!」
僕は急ぎ足で逃げた。
「待って!!」
肩をぎゅっと掴まれた。
「颯くんでしょ、会いたかったの」
「知らない人です。見間違いでは?」僕はすかさず誤魔化して、平然とした態度を示した。
だけど、此葉には見破られてしまった。
「それは嘘だよね。だって雨の日に傘を差さないのは颯くんだけだもん」見事な推理だった。
他にも傘を差してない人はいたが、大半の人は傘を差していた。それに声でもバレた。優しい、大人しそうな声だったから。
「そうだよ。正解。でも何の用? あの時は大切な雑誌捨てちゃったり、怒らせたりしてごめんね」
「いいよ。もう何しても許す。だから帰ってきて」そう強く私は懇願した。
だが僕は「それは無理。僕はテント戻るから」と吐き捨てた。
「え? 何で? 私はこれから買い物に行くから、もし良かったら一緒についていく?」とまたあの時のように傘を彼の頭の上に差し出した。相合い傘できるかなと心の奥底で期待していた。
なのに、返事は予想外のものだった。
「もう此葉のこと、好きじゃなくなったから」
(え、そうなの? そんな短期間で……でも言い過ぎちゃったもんね。仕方ないか)
「そっか。言い過ぎちゃったもんね、それに颯くんは色々抱えてるもんね。さよなら、ありがと」と言って笑ってみせた。
そして、2人は行路を別れた。カップル崩壊でもある。
今日の夜。深夜にインターホンが鳴った。こんな夜遅くに誰だろうと思った。恐る恐る画面越しに確認してみるとフードを被った怪しい男性だった。そして、何か雑誌のようなものを持っている。
これは見過ごせないと思ったのか包丁を持って玄関のドアを開けた。
そしたら「きゃっ、あ」と聞こえるのも一瞬、見覚えのある顔だったので包丁を引き戻した。
「颯、くん?」
「これで許して」今にも泣きそうな顔をして体を震わせながら消え入りそうな声で謝られた。
「それ、捨てられた雑誌……まさか買って弁償してくれたの?」私は嬉しかった。事情があるのにも関わらず、雑誌を新しく買ってきてくれたなんて……予想もしてなかった。
「一度好きになった人を好きじゃなくなるなんて簡単な事じゃないよ。まだ間に合うかなって。だからもう1度一緒に暮らそう」
「ダメ、かな……」
「いいに決まってるじゃん! 私こそ待ってたよ。だから入って」と私は招いた。
「だけど、今日はテントで。荷物や着替えの服もあっちにあるから。明日、また来るね」にっこり笑っていた。
「うん、待ってるね」と手を振った。
彼も手を振り返してくれた。
そして次の日の朝。いつものトランクケースを持って家の前に立っていた。
また2人での暮らしが再開する音がした。
第十六節 バー以来のキス
「おかえり」と私は微笑んだ。
「ただいま」
帰ってきてくれるのが夢みたいであの5日間が幻のように感じられた。でも、あの5日間も一種の思い出だった。私は颯くんを抱きしめた。雑誌を買ってきてくれた事も嬉しくて堪らなかった。もう会えないと思ってたから懐かしさや存在感をとても感じる事ができた。
「何、急にどうしたの? 僕、外から帰ってきたから汚いよ」
「そんなことない。温もりを感じていたくて……」
「じゃあ、僕、着替えるね」と言って彼は遠くへ行ってしまった。
その後ろ姿がまたどこかへ行ってしまうような気がして寒気がした。
数分後、戻ってきた。
「朝ご飯は食べた?」と確認する。
「食べてない。普段、僕は朝と夜は食べないの。此葉の家に来てから変わるようになったけど」
(そんな……)と思った。お金が無いのか分からないけど可哀想に思えた。
というわけで朝ご飯を作った。いつものように食卓に置いた。
「懐かしい味」颯くんがちょろっと呟いた。それに耳を傾けた。
「あの、あの時急に追い出しちゃってごめんね」私は誠心誠意謝った。
僕はそれに続くようにして「謝るのは僕のほうだよ」と言った。
「だって雑誌捨てたのは僕だし、詮索されるのは嫌だったけど此葉を怒らせるような言動ばかりしてた。ごめんなさい」
深々と頭を下げてする謝罪だった。何か報道陣に謝ったことのあるような謝罪だった。そんなに謝らなくても弁償してもらったからいいのにと思った。
「あと、此葉のことは忘れようとしてごめんなさい」
「それは私も同じ。もう会えないと思ってたから」
そう言って颯くんが食べてるのを見て、食べ終わった所で食器を片付け、食器洗いも此葉がした。
午前は2人で話し合った。喧嘩の仲直りもした。
「私ね、雑誌わざわざ買ってきてくれて嬉しかったんだよ」
「そうだったの。それなら良かった」と僕は精一杯の笑顔を見せた。
それから午前が過ぎ、昼の時間がやってきた。
昼ご飯を食べ終わった私達は、映画を見ることにした。
「何の映画見たい?」と聞いてみる。
映画のジャンルといえば色々ある。アクション、恋愛、ホラー、ヒューマン、サスペンスなど。彼はどんな映画が見たいんだろうと少し興味を持った。
僕は「何でもいいよ」と答えた。
「じゃあ、恋愛映画にするね」と言って、ディスクを入れた。刺激の強いものじゃないから大丈夫だろうと思った。
映画が始まってすぐに、学園で起こる恋愛だけど、彼の方に“好き”っていう感情が芽ばえた。そしてそのまま3週間が過ぎて、やっとのことで告白をした。だけど告白は失敗した。好きという感情が分からない彼女だった。だからそれをそのまま口にした。そしたら彼は「俺がお前を好きにさせてやる」と言い、廊下から立ち去った。そんなこんなで好き同士ではないが、付き合うことになり、しばらくしてから初めて彼女に“好き”っていう感情が出てくるようになった。だが、その気持ちを抱えるのに苦しんでおり、どうすることもできず、支え、見守るしかない彼だった。保健室でキスをするシーンが登場した。
これに颯くんが口を開き、「此葉とこんなキスしてみたいな」と余韻が残るかのように言葉にした。
「えっ!」動揺が隠せなかった。
「今、する?」と提案した。
((映画の途中なのに……))2人同じ思いだった。
だけど、僕は此葉の顔を自分に近づけた。そしていい? と確認してから顔を傾けて唇を軽く当てた。それでも此葉は物足りないらしく舌を絡めてきた。此葉って肉食だよなと思っていると激しいキスに僕は硬直するしかなかった。
「んっ」此葉の嫌らしい声が漏れる。
映画はキスの間でも進んでおり、内容が全く入ってこなかった。唾液がぬるぬるしてて気持ちが良かった。此葉からの甘い香りも堪能できた。
顔が近いと颯くんのかっこいい顔がアップで見れるんだよね。まつ毛も長いし、茶髪の髪が恋しい。颯くんの頬っぺたにもキスをした。
キスが終わり、離れようとするともう1回と言われ、なかなか止めさせてくれず、キスの繰り返しだった。今回は僕からのキスだった。前は此葉からのキスだったけど。キスをしてたら映画がすごく先に進んでしまっていた。
「戻らなきゃ」と焦る様子の彼女。とても可愛かった。
僕は本当は映画の内容に興味は無く、此葉とのキスの時間が至福の一時だった。
彼女の手に触れていたくて、右手は握ったままでいる。温かさが指先から伝わる。
映画の結果は結ばれただった。高校卒業後、同じ大学に進学したらしい。
それから夜ご飯を僕が久しぶりに作り、美味しく食べた。
「今まで忘れてたけど連絡先交換しない?」
はっとしたような顔を見せ、「そういえばしてなかったね。ごめん」と僕は言った。
そうして、連絡先交換した。
夜、寝る時に「一緒に寝てもいい?」と一応聞いた。
此葉は当たり前のように「いいに決まってるじゃん!」と賛同してきた。
そして寝る時にネグリジェを脱ぎ、下着姿で布団を被っていた。
「今日は、いい、よ」
「えっ、いいの?」
久しぶりの共寝。まさかこんな展開になるとは思ってなかった。
僕は此葉のほうに寄り、此葉を抱きしめた。僕は首と耳を舐めるのが好きで、それをした。そしたら此葉は「ひゃん」とか言って、僕の笑いを誘った。くすぐったいのだろうか。
胸を下着越しに揉んだ。柔らかかった。下着の中に手を入れちゃダメって言うからそれはやめてあげた。
此葉が「キスがしたい」と言った。のでキスもした。下着の彼女とパジャマの僕。なんか悪い気がして脱ぎ、上半身裸になった。そしたら此葉が乳首を愛撫してくれた。
「もうどこにも行かないでね」
「分かってる。行くわけないじゃん。いつまでも此葉のそばにいるよ」
それから甘いキスをした。蕩けるような滑らかな舌触り。柔らかな感触。性的な擬音。全てが一瞬に包まれた。
「もういい?」
「いいよ、颯くんとのキスは楽しいし、官能的」
「難しい言葉を使うね。それと颯でいいよ、もう呼び捨てする仲なんだから」
僕の言葉に彼女は戸惑った。
だけど一瞬迷ったような顔をしてから「分かった。これからは呼び捨てにするね」と笑って見せた。彼女の笑顔には何か魔法的な効果がある。魅力的だし、許された気持ちになるし、暗い気持ちをとりはらってくれる。
甘いキスをしてから眠気に誘われた。
第十七節 颯くんの秘密2 誕生日
今は新緑の季節。段々、暖かくなってくる頃だ。桜はもう散ってしまい、緑色の葉がそよ風と共に揺れている。そんな気温の中、コーンポタージュを作る颯がいた。フランスパンと一緒に食べると美味しいのだ。
食卓に運ばれる朝ご飯に私は感激していた。
手を合わせて挨拶したら食事に口を付けた。
「美味しいね」
「ありがと」
笑顔でコーンポタージュを掬う。その笑顔を見ていると癒される。この前の喧嘩を忘れてしまいそうだ。数日前のキスは気持ちよくて良かったなと考えていると……
「今日ね、僕の誕生日なんだ」いきなり打ち明けられた。
(えっ)と私は思った。早く教えてくれればよかったのに……そしたらプレゼント用意できたのに………
「今から買いに行くよ」
私は朝ご飯を早く食べ、買い物に行く準備をした。
「何か欲しい物ある?」と聞いた。
颯ならゲームか服かなと思っていると、「何も要らない」と言ってきた。
「えっ、本当に欲しい物無いの?」と再確認した。
「此葉が選んで決めて。ゲームは全部揃えたから」と見送られた。
何にしようか迷っていると、いつも颯は傘を差していない事に気づいた。これは傘だ! と思い、傘売り場まで行った。青いビニール傘を買い、帰り道を歩いた。何で彼は傘を差さないんだろうと思った。何か理由があるのかもしれないが、傘が無いと不便なので傘に決めた。
「ただいま」
そう言って傘入れに傘に紛れて隠しておいた。
翌日。5月1日。世はゴールデンウィークに突入している。私の会社は昨日から休みだった。5月1日、語呂合わせで恋の日。それに颯は気づいているのかな。
午後、昼ご飯を食べ終えた後、ケーキを用意した。昨日のうちに買っておいたのだ。蝋燭を点灯すると「わあぁ」と興奮した様子を見せた。電気を暗くして、カーテンを閉めた。雰囲気作りは大事だ。
「お誕生日おめでとう、颯」にっこり笑って抱きしめた。蝋燭を吹いて消すと何故だか颯は嬉し涙を流していた。
「嬉しすぎて……祝ってもらうの、初めてで……。僕、こんなに幸せでいいのかな」
それに肯定するようにして「いいんだよ。幸せで」と言葉を投げかけた。
ケーキを食べた後に傘をプレゼントする予定だった。ケーキを食べようとしようにも涙で何も見えない。
僕は母親と双子の兄がいる。父親は生まれてすぐに仕事中に他界した。だからシングルマザーだ。生まれた時から差別されてきた。優秀な兄と比べられ、認めてもらえず、裕福に暮らせなかった。服もみすぼらしい物ばかり渡された。誕生日は一緒だから祝ってもらえたけど、僕は少し分けてもらうだけだった。当然、チョコの名前も書いては貰えなかった。兄より成績も運動神経も悪かった僕は平手打ちされてばかりいた。兄も僕のことを良く思ってはおらず、罵っていた。学校も同じだったが兄だけ人気者で僕はいじめられはしなかったが、陰にひっそりと隠れている、そんな子供だった。ずっとそのような毎日が続き、誕生日は祝いの言葉も貰えず、とにかく暗かった。そんな時、中学に上がった頃、モデルの仕事の案内のチラシが届き、親に内緒で応募した。そしたらオーディションで通り、一発合格した。モデルに昇格した僕は漸くそこで親に認めてもらえた。そしたら手のひら返しだ。あれだけ怖くて絶対服従だった母親も応援するようになった。いらないというくらいのお洒落な服を大量に買いつけてきて、逆の意味で困っていた。兄はそんな僕を良く思っていなかった。祝福もせず、淡々としていた。
高校1年の頃にTopモデルになったら母親は何故か一人暮らしのアパートまで用意してくれた。これには感謝したが、そのお金はどこから来てるんだろうと思うほどだった。だが、人生はそんなに甘くはなかった。20歳の頃、17歳の女性ファンを部屋に連れ込み、行為に及んだ。その時は未成年と知らなかった。騙されたのだ。結局、示談金目的だった。そして性的暴行、淫行報道がされると世間や家族の敵になった。母親は包丁を持って殺しにきてたし、兄はお前のせいで酷い目に遭ってるんだぞと言われ、蹴られ、心も体もボロボロになった。その女性は身分証も偽造してた。だからお酒も飲んだ事がある。世間からはキモい、淫乱、消えろなど言われ、ネット中傷なんかは今でもある。僕が騙されていたことなど取り上げられる事などあるはずがなく、世界中の悪者になった。アパートは売り払われ、ホームレスとなった。そして今に至る。
ケーキをフォークで刺して一口食べた。甘くて美味しかった。
「美味しいね」
「そうだね。泣くほど嬉しかったんだ」
「うん。ありがとう、祝ってくれて」
涙が止まらないけど出来る限り、笑ってみせた。泣き笑顔というやつだ。本当に此葉には感謝しかなかった。感謝してもしきれない。
「こちらこそ」と私は余裕の顔を見せる。
今日が一番最高な誕生日になった。家族は「生まれてくるな」とか「お前なんか生まれてこなければよかった」とか「子供は1人でよかった」とかいう悪口ばかりだったから。此葉だけが僕を1人の人間として見てくれる。生まれてくれてありがとうと思っている。
ケーキが食べ終わり、傘を渡された。僕が傘を持たない人間だったからか。
「ありがとう」と僕は礼を言った。
「でも、レインコートならあるよ」
「傘あったほうが便利だよ」と私は言った。
だけど「でも、もう相合い傘できなくなっちゃうね……」と心細そうに僕は嘆いた。
確かに2つ傘があるなら相合い傘はできない。でも1つを2人で使えば出来るのでは? と感じる。
「出来るよ」と私は宣言した。
「1つの傘に2人入ればいいでしょ」
「確かに」
その心配はいらなかった。
そんなこんなで午後を過ごし、誕生日会は終わった。
ああ、疲れたと溜息を吐いているとある事に気づいた。5月1日ってもやくんの誕生日と一緒じゃなかったっけ? 急いでスマホを調べる。Wikipediaの情報によると5月1日だった。ビンゴだ! でも誕生日が一緒ってだけで決めつけるのはよくない。偶然かもしれない。
「颯、23歳になったんだね」
「うん」
何だか嬉しそうではなかった。
4歳差は変わらないかと思いながら、私は夜ご飯の準備に向かった。
第十八節 確信
今日は雨が降っていた。雨の音が室内に響く。まだゴールデンウィーク中だ。だけど、こんな雨だからどこにも行けない。颯にプレゼントした傘を思い出した。
「今日、雨だからこそ、あの傘で駅前のショッピングモール行かない?」
「いいね」
朝ご飯を食べてすぐ、買い物に行く準備を進めた。勿論、相合い傘は出来ないけど。
玄関を出て、マンションから出て、彼は戸惑っていた。
「どうやって差せばいいの?」
「えっ!?」
まさか傘の差し方が分からないなんて。
「ずっと差してなかったから……」
「こうやってこう持つんだよ」と教えてあげた。
物覚えがいいのかすぐに理解してくれた。
ショッピングモールで服や小物を買い、帰った。今日は休日ということもあって、人が混んでいた。
帰り道。ザアザアと傘に落ちる音の中、彼の口が動いた。
「僕は………だ、よ。だから駄目……の……別れ……」
「へ?」
「なんでもない」
正直、雨音で何も聞こえなかった。
家に帰ってすぐに颯からスケッチブックを見せられた。
「あげる」
「え、いいの?」
そこには桜の木の下での私たち、水族館での私たち。どれも美しく、輝かしい立派な絵だった。颯は絵が上手いのか。しかもその絵の2人は笑顔だった。悲しみや苦しみを忘れさせてくれる。まさに幸せを絵に描いたような絵だった。
「喧嘩中に描いたの、ネットカフェで」
颯はネットカフェに居たのか。だからテントに行っても居なかったのか。
「ありがとう」
こんな素晴らしい絵をくれるなんて。しかもスケッチブックには余白が残ってるのに。もう他に描くことないのか――
と思ってたら、これ、もやくんのサイン。どうして? まさか颯がもやくん!? いいよ、それでも。サイン、かっこいい。こんな近くにかつてのTopモデルがいるなんて……
私が黙って驚いて立ち止まっていたら、颯が
「どうしたの?」と心配そうに言ってきた。
「大丈夫、気にしないで!」と私は平静を取り戻した。
本当はもやくんのサインはずっと昔に貰っていた。サイン会に行ったのだ。もや(颯)は15歳だった。あの頃は少年って感じだった。爽やかで茶髪で好少年だった。サイン会に行く前からファンだった。サインを貰って握手もした。サイン会は長蛇の列だった。写真付き色紙でそこにサインを書いてもらった。今でも大切に仕舞ってある。
それを8年越しに貰うなんて夢にも思わなかった。
僕は実は此葉に一度会ったことがある。あれは確か、8年前の事だった。暑い夏の日で。僕はまだ幼くて。サインと挨拶と握手だからすぐに覚えた。作業のようにこなしていた。僕は幼年の頃から人見知りで、すぐに緊張してしまう。それを彼女は明るい笑顔で、「いつも陰から応援しています。大好きです、会えて嬉しいです。こんなに人いるのにお疲れ様です。頑張って下さい」って励ましてくれて、救われた。それから風の流れのように楽に思えてきた。サイン会はいつもより充実してて、何より楽しかった。
昼ご飯の時はずっと無言だった。午後は本を読んでいた。心理学の本だった。颯は相変わらずゲームをしていた。
颯の風呂を待っている間、ずっとスケッチブックを眺めていた。描いてくれてたんだ、喧嘩中も私のことを思ってくれていた。泣きそう、泣く。なんでこんなに人思いの人が逮捕されなきゃいけなかったんだろう……
ご飯を食べ終わったらすぐに寝ようとした。隣にいる人がもやくんだと思いたくない。それは憧れ、頂点にいる理想の人という意味で。
隣を見る。颯が横になっている。こちらを見てる。
颯くんはもやくん。その事実に変わりはない。私は気づいてしまった。
テレビを嫌うのも過去にたくさん批判されてきたから。雑誌を捨てたのも自分より輝いている人をこれ以上見たくなかったから。雲霧靄の写真を切り取ったのは過去の自分を消すため。自分のことを調べられたくないのは性犯罪者だったから。自分を知られるのが怖かった。全てが繋がった。
第十九節 初めての……
朝になっても昨日のことは忘れられなかった。今すぐにでも颯に聞きたい。だけど聞いちゃいけない気がする。
「おはよう、今日もいつものように朝を迎えられて嬉しいよ」
「おはよう。それってどういうこと?」
いつも朝というものは迎えるものだろう。朝は自然と毎日やってくる。なのにどういうことだろう……颯にとって朝は来るのが当たり前じゃないのか?
「そのままの意味だよ。君とこうやって朝を迎えられるのが嬉しい。もう長くはないから」
「えっ。それって……」まさかという驚愕の表情を浮かべた。
「そんなに気にしないで」僕は笑ってみせた。今日の朝ご飯は僕が作るという気合を入れて、キッチンへと向かった。
もやくんとのご飯。Topモデルはニートホームレスへと降格したのか。でも明るさと優しさと素直さは残っている。食パンを齧る彼。あどけなさがあって見てて心地いい。可愛い。それにしてもさっきの言葉何だったんだろう……引っかかる。もう長くはないって。病気なのか?
「さっきの長くはないってどういう意味?」
「ああ。布団のことだよ。僕の布団って短いじゃん? 背も少し伸びたし」
僕は最大限、誤魔化した。知られたら、悲しむから。
「そういうことか! 主語言ってくれないと分からないよ」
なんか彼女が天然ということもあって上手く誤魔化せたようだ。
午前と午後は一緒にゲームをして過ごした。
そして彼から誘われた。
「今宵は一緒に露天風呂、入らない?」
「……」私は言葉を失ってしまった。あのモデルと一緒にお風呂!? ふざけているのではないか? 颯がもやだと分かっただけでびっくりしてるのに、さらにびっくりさせるの?
「いいけど」
正直恥ずかしかった。男の人とお風呂。考えただけで赤面して鳥肌が立つ。恋愛経験乏しくて、不器用だから。
服をリビングで脱ぐ。それだけで異常なのだが。この家がこうだから仕方ない。恥ずかしがってても意味がない。颯はもう一糸纏わぬ姿だ。
「きゃーあ!!」
「これから一緒に入るんだよ」颯は毅然とした振る舞いをしている。
「そうですよねーもうどうこうしたって意味ないって分かってます」
「なんで急に敬語っ?」
言われてみれば自然と敬語を喋っていた。緊張からかもしれない。
露天風呂のガラスを開ける。今は18時だ。辺りは暗くなってきている。浴槽に浸かろうとする。
「こっち見ないでね」警告を告げた。
「分かってるよ。此葉じゃなくて、絶景を見てる」
露天風呂から一望できる景色は絶景だった。街がライトアップされていて、夜だから見れる景色だった。いつか2人で見ようと思っていた景色だった。マンション64階。高い所から何でも見れる。遠くの山も星も建物も見れる。
シャワーを此葉が使ってる時にずっと体ばかり見てた。僕はなんて破廉恥なんだ。僕は素早く洗い終わった。彼女はすごく華奢だ。そして胸が大きい。陰毛はすべて剃られている。彼女は何を目指しているんだ? 分からなくなった。洗い終わってまた浴槽に浸かった。
「こっち見ないでね」
「また?」
「さっきシャワー中見てたでしょ。視線を感じたの」
肩がぶつかりあっていてすごく興奮する。彼の体は筋肉が凄かった。胸筋も厚くて、触ると硬かった。細身でモデル体型だ。というか、元モデルだ。元Topモデルとこんなことしていいのかな……
いつもより長い入浴が終わったらすぐに着替えた。僕はパジャマに、此葉はネグリジェに。ネグリジェはワンピースパジャマの事だ。なんで此葉は高級衣服、高級品ばかり持っているんだろう。親が金持ちなのか、今の給料が高いのか。
ベッドに寝転がる彼女を見て、ある事を考えた。このままヤっちゃわないか?
「ねえ、僕とセックスしない?」
あまりの衝撃で言葉を失ってしまった。まさかこの誘いが来るとは思っても見なかった。
「えっと……どゆこと? 私、処女だよ。痛くしないでね………」
「分かった」
彼はどや顔を見せている。手慣れているようだ。
「僕は首筋を舐めたい」
「その謎の性癖何なの」
確かに言われてみればそうだ。彼は首筋と耳を舐めるのが好きなのだ。
彼がブラジャーのホックを外していく。颯は上半身裸だ。強く抱きしめられる。あたたかな温もりを感じる。少し気持ちよさも交じる。
「パンツ脱いで」
「パンツは無理! パンツは無理! 死にたい」
そんな簡単な事で死にたいと口にするのかという顔を彼はしている。さっき見られてたではないか。
仕方なくパンツを強引に脱がす。
「ちょ、やめて。やめてって」
元Topモデルとセックスするなんて気が知れてる。
私のニップルを舐め始める。指先で転がすように動かされるのがこそばゆい。
彼はパンツを脱ぎ、ぺニスを出してきた。思いの外、小さかった。
「触って。舐めて」
(は? 無理無理無理。変態じゃん! しかも当時ファンだったもやくんのでしょ、怖いよ)
「何、止まってるの?」
「ああ、ごめんね……私、こういうの得意じゃないの」
分かってる。本当は彼女にこういうのさせたくない。だけど、欲が上回って、彼女が大好きで、こうするしかなかった。
私は優しく彼のソレを触った。
「痛くない? 大丈夫?」と上目遣いで心配する。
「大丈夫だよ。舐めるのは嫌だったらしなくていいから」
コクりと頷いた。
此葉の股に顔を近づける。此葉は後ろに引き下がった。
(え、無理。恥ずかしい……)
クリトリスをゆっくりと舐めた。彼女は喘ぎ声を上げている。
そしてヴァギナにぺニスを近づけた。
「えっ、怖い怖い怖いよ~」
「小さいから多分、大丈夫」
彼女にしてみれば、そういう問題じゃないのだ。
「多分って何! 痛いって」
当たり前だが、処女だから血が出ている。でも、セックスは痛みだけではない。前後運動を続けていくうちに痛みも消えて、気持ちよさに変わっていった。
「中だしはしないでね」
「処女なのに専門用語知ってるんだな」
彼女の言うように膣内射精はしないであげた。
「あっ、イく……!」
「んんっあっ、やぁやっ」
外に出して、今日は終わった。街中では23時の鐘が鳴り響いている。今日は気持ち良かった。まさかTopモデルとセックスしてしまうなんて。幸せすぎる。ただヴァギナが痛い。チクチクと痛む。最後は頬にキスをされて眠りに就いた。
「今日は本当に楽しかったね」
「そうだね」
そう今日という1日を振り返る。
「露天風呂も一緒に入れたし、セックスも出来たし、こうして今日、一緒に寝ることが出来るし」
「初めてが颯でよかった」
「ありがとう」
目配せをした。
「おやすみ」そうお互い言って布団を被る。
「僕ね、秘密を抱えてるんだ。言っちゃっていい? それはね――僕の芸名は」
此葉は今日のセックスで疲れたらしく、もう眠ってしまっていた。
第二十節 颯くんの正体
颯との初めてを終えた朝は清々しかった。いつもよりアソコが痛いけど気にしなければ平気だ。伸びをして、辺りを見回す。いつも通り颯は私より先に起きている。何故か分からない。そして今日はペットボトルの水を飲んでいた。この理由に特に気にすることはなかったが、後々重要になってくる。
朝ご飯を食べている時、ずっと彼は無表情で重い雰囲気が漂っていた。冷や汗が出ている。重い雰囲気だった。何か、昨日悪い事したかなと考えを巡らせる。だが、これといって悪い事をした覚えがない。彼は肩を震わせていた。
「大丈夫?」と声を掛ける。
颯は頭を下に下げた。
朝ご飯を食べ終わり、食器の片づけをした。手伝うよと言われたので手伝ってもらった。だがフラフラしている。フラッと後ろに倒れそうになったので、私が支えた。
「無理しないで。やらなくていいから、休んでて」
「僕が悪いの。心配かけてごめんね」泣きそうな表情をしていた。
颯はソファーで休んでいた。片づけが終わり、此葉が戻ってきた。
「昨日のあれで疲れちゃった?」と聞く。
すごくつらそうな様子をしている。貧血のような顔だ。息切れも酷い。ぜーぜーはーはーと息をしている。過呼吸だろうか。
「そうじゃない。大丈夫だから」とこちらに顔を向けてきた。
だけど大丈夫じゃないのは見て分かる。背中を擦ってあげた。
テレビを付けても颯の嫌そうなのしかやってなかった。だから録画してある動物番組を見させてあげた。だけど颯の症状は治まることはなかった。
午後が過ぎ、夕方になった。颯には吐き気はない? と聞いた。そしたら無いと言ってた。だから夜ご飯の準備もした。
何故か颯は泣いていた。
「もう最後のご飯になっちゃうんだね」ボソリと呟いた。
「え、どういうこと?」思わず、動じてしまった。
「いいから食べよ」
そう言ってパスタをくるくると回す。スープも美味しく頂く。だけど涙は川の流れのように止まることなく、流れ続ける。美味しいはずなのにそれすら感じられなくなって、心が無になる。静寂が食卓を流れる。
「どうしちゃったの?」
それには答えられなかった。
夜ご飯をカウンターに戻し、ベッドで一息。
ベッドに戻ってきて言われたのは予想外の言葉だった。
「此葉、もう僕たち別れよう」
「え、なんで?」何か悪いことをしたかと言わんばかりの顔をする。
「僕、ずっと隠してきたんだ。分かるでしょ、それの為に君を傷つけたり、自分を傷つけたりしてきた」
それには心当たりがあった。だけど探ってはいけない秘密なんだと封印してきた。
「分かってる。だけどなんで今、それを言うの? 何か抱えてるのは勿論、知ってるよ。だから何でも受け入れてあげるから信じて」覚悟たる目だった。
「僕はね……はぁはぁ」苦しそうにしている。
「苦しいなら無理して言わなくていいよ」と勇気づけ、安心させた。
「僕の本名は碓氷颯で芸名は雲霧靄なんだ。だから今日で君とは別れなければいけない」真面目な顔して、ナイフをこちらに向けて秘密を告白してきた。
「知ってたよ。途中から気づいてた」
「え」心にあるどす黒い闇が振り払われたような驚きを見せた。私に対して異常だという目をしていた。
「驚くのは当然かもしれないけど私だって過去に罪を犯したことがある。でもね、反省してもうしなければいいの。だけど1つだけ不明なことがある。どうして雲霧靄だからって別れなきゃいけないの? 私と育んできた愛はその程度のものだったの? 私、悲しいよ。そんなちょっとしたことで別れなきゃいけないなんて……」どうしようもない悲しみやなんで? の顔をしていた。
僕は分からなかった。どうして自分が許されるのか。確か、彼女は僕のファンだった気がする。だけど僕を完全にして受け入れたわけじゃないだろう。
「此葉を苦しませてごめんね……僕は罪人だから別れなきゃいけない。僕のこと、嫌いでしょっ!」
「嫌いじゃないよ。勿論好きだよ。颯にはまだ優しさが残ってる。それをこれからも大事にしてね」と言って、優しく抱きしめた。
そしたらナイフから僕は手を放し、ナイフが地面へと落ちた。カタンという音が聞こえた。
「なんで僕をまた、君は泣かせるの?」
此葉は僕が雲霧でも性犯罪者でも無差別に嫌ったりしなかった。僕の事をちゃんと見てくれてた。
「僕は君と愛を確かめたかった。行為が終わったら、別れるつもりだ……った。だけど君が……はぁ、僕を認めてくれるなら、別れるつもりは……ない。僕の事は………誰にも言わな、い、、で……ね………」そう言い残し、僕は倒れた。
「誰にも言わないよ」
ベッドに彼を横たわらせて、私も寝た。
次の日が来た。カーテンから朝日が射し込んでくる。
「おはよう」と笑顔で言うが、彼は反応を示さない。
午前のこと。
「僕は犯罪を犯した。強姦罪になった。20歳の頃だった。僕は騙されてたんだ……合意の上だったはずなのに無理やりと言われ、困った。それに20歳以上って言われたのに実は17歳で、捕まるのも報道されるのも怖くて、たまらなかった。それから愛することを拒絶し、時に女性を怖い目で見て、人生が終わった。それで偶然君に会って、財布を拾って人生が変わった。だけど僕は僕のままで性犯罪者なんだよ。此葉はこんな僕でいいの? 僕と付き合って、結婚でもしたらつらい目に遭うかもしれないんだよ。分かってる?」確認するように告げられた。
「いいよ、それでも」迷いなく答えた。
僕は近藤来夢に潰される為に騙されたんだ。女を紹介されて、全員取り巻きで逃げ道がなかった。
颯は自分が雲霧靄だと暴露した日から体調を崩しがちだった。原因不明の過呼吸と空咳が続き、はぁはぁと息をしていた。ビニール袋を用意してあげて、そこに息をするように促した。呼吸をするのが苦しそうで、ぐあっ、がっ等の苦しみの声をあげるようにもなった。僕のことを見ないでと言われた。だけど気になって仕方がなかった。
食べ物も食べれなくなった。ずっと蹲り、体を丸くする。
「僕はもうすぐ死ぬのかもしれない」
「そんなこと、言わないで」涙が零れ落ちる。彼の頬をふんわりと撫でた。柔らかくて気持ちいい。
夜が沈み、朝が来た。カーテンを開ける。朝日が射し込んでくる。
「おはよう」
返事がない。
テーブルを見ると手紙が置かれていた。
“今までありがとう 楽しかったよ”
第二十一節 病院編1 此葉のいない生活
目を開ける。白い天井があるのが見える。換気扇のような四角い装置が大きく1つ。息を吸う音が聞こえる。僕はまだ生きてるんだ……ここはっ、って此葉の家じゃない! となると考えられるのは病院。あれ、酸素マスク? されてるっ? 息が苦しい。そうだ、自分から病院に足を運んだんだ。でも、その時意識が薄れてる状態で朦朧としてたんだ。それで意識を失って……。
「碓氷様、意識を取り戻しました」と大きな声で看護師長が全員に伝えた。
しかも様付けで。
目を開けただけで騒がれる。意味も分からなく囲まれる。僕は女性が極度に怖かった。トラウマがあるからだ。此葉は男慣れしてなくて、雰囲気からして純粋だったからまだ良かった。でも、最初は怖かった。
それなのに大勢で体を擦る為だからとはいえ、近づいてこられたら怖いに決まってる。
「きゃああああっっ!!」奇声を上げた。
そしたらナースステーションにコールを掛けられた。僕は怯えていた。体を震わせて、背中側の壁にずれていった。
「怯えていますね。この呼吸器障害もストレス性のものと思われます」
「大丈夫だからねぇ」頭を撫でられた。何もかもが怖かった。なでなでされるのは久しぶりだ。それをするのは此葉だけでいい。
「はぁはぁっはぁ」呼吸が乱れてくる。僕は何のために病院にいるんだろう。女の人がいるのは分かってた。だけど、死んだら此葉が悲しむから看護師さんのことも嫌々ながらに受け入れた。
背中を擦られ、少し落ち着いた。女の人が怖いと頼んだら4人に減らしてくれた。
起き上がると点滴されていることに気づいた。点滴に文字が書いてある。ずっと文字ばかりを見ていた。入院中は暇だ。やることがない。僕は暇な時間が嫌いだった。だから暇つぶしなら何でもよかった。何で点滴されてるんだろう……?
点滴されている理由を少しばかり考えていると最近ご飯を食べていないことに気づいた。それか、と思った。
しばらくしてから昼ご飯がテーブルに置かれた。
「食べれる?」
ゆっくりと「はい」と答えた。酸素マスクを外すと一気に苦しさが増してきた。はぁはぁ、げほげほ、けほっ。苦しくて、目の前にあるご飯にまで手は届かなかった。
再び酸素マスクを着けられ、もう一度眠りに就いた。
一方、その頃。此葉宅。このメモってもしかして死んじゃったの? 何も言わず、出ていくなんて酷いよ、悲しいよ。最低。どこ行ったの?
最後の砦として颯宛にメールを打った。無事に届くといいなぁ……
水族館デートの帰りに買ったイルカのストラップを見ていた。颯は生きてたんだよね。これが生きていた証。
目を覚ますとまた病院だった。これは何度やっても病院にいることは変わらない。変わらないけど願ってしまう。此葉のもとにいたい。あの幸せを取り戻したい。僕の不幸から救ってくれた彼女。
1つだけ変わったことがあった。携帯の通知ランプが点滅している。間違いない、これは彼女からのメールだ。
上体を起こし、荷物置き場まで手を伸ばすが、届かない。ナースコールを押した。怖かったけど。
「携帯、取って下さい」そう頼んだ。
そしたら、「ご飯食べられない患者さんに携帯を渡すことはできない」と断言された。
しょうがないから立ち上がって取りに行こうとした。ふらついていて危ない状態だった。ガタッと右に倒れた。衝撃音で看護師にバレた。
「何やってるの!」
すごく怒られた。
それからまた横たわるだけの暇タイム。遠くの雲が流れていくのを見ていた。
しばらくしてトイレに行きたくなって看護師に言った。
「トイレに行きたいです」
そしたら、両脇に看護師さんがついて、トイレの中まで付き添われた。意味が分からない。トイレの中まではやめて下さいと言ったが、倒れたら取り返しがつかないと論破されてしまった。一応、用を足してる時は後ろを向いてもらった。
そしてまたベッドへと戻った。
看護師が居ない時間を見計らって、携帯を取りに行った。栄養失調気味で危ないのだが、点滴してるから緩和されている。
ふらつきながら何とか携帯の場所まで辿り着くことができた。
画面を見て、やっぱり此葉かと思った。でも文面を見てびっくりした。
『大丈夫? 生きてる? どこにいるの? 私も颯と過ごせて楽しかったよ、ありがとう』
『大丈夫だよ。生きてるよ。病院にいる。心配かけてごめんね』
メール送信が終わり、ベッドに就き、寝返りで右を向いた。
此葉がメールに気づくのは18時を過ぎてのことだった。
酸素マスクは外せない。食事もままならない。トイレも1人で行けない。最悪だ。どこをどう人生狂えばこうなってしまうのだろうか。僕の正体を明かさなければよかった。そしたらこうならなかったのに……
横を見ながら妄想が続いていた。僕は暇が嫌いで何かしてないと気が済まないのだ。妄想といっても自分は登場せず、架空キャラの妄想だった。
夜ご飯は食べれるかなぁ……そんなことも考えていた。
僕の診断名はストレス性慢性呼吸不全症候群だ。一定以上のストレスがかかると息苦しくなってしまう。此葉と付き合う前から診断されていた。
夜ご飯が運ばれてきた。だが、食べれなかった。点滴の量を増やされた。
僕の部屋は個室だった。しかもVIP室。みんな看護師さんは僕が元モデルだということも知っている。身分証やデータで発覚する。他の入院患者さんはどうだろうか。部屋は静かで落ち着いている。ただ暇でしょうがない。それだけが難だ。
此葉がメールに気づいた。颯からだ! すぐさま返信した。
『どこの病院? お見舞いに行くから』
此葉からのメールに気づいたが、今日は返信せず、寝ようと思った。
が、19時を過ぎるとまた看護師が来た。
「着替えの時間ですよー」
「ずっと着替えできなかったからねー」
確かに言われてみればずっと着替えておらず、病院に来た日から着替えていない。トランクケースを持つ体力も無く、置いてきたままだった。
「今、異性の患者さんの服を着替えさせるとセクハラで訴えられちゃうから、無理だったの。ごめんなさいね」
なんで一緒にトイレについていくのは有りで着替えは無しなの?
まあいい。
普通の匂いも無臭の甚平のようでパジャマみたいな病院服を渡された。すぐにその服に着替え、眠る準備をした。風呂に入れないので濡れたタオルで体を拭くように言われた。
それが終わると薬の時間がやってきた。点滴に入れられた。重症らしく、チューブごと取り替えられた。
それで電気を消され、夜がやってきた。窓は暗い。もう病院から出られないのかなぁなど暗いことばかり頭の中に浮かんだ。夜になると寝れなくなった。此葉のことや暗いことばかり考えてしまって、寝れなくなった。メール画面を何度も見る。だけど返信は明日にしよう。いつ、お見舞い来てくれるんだろう……
第二十二節 病院編2 ご飯の美味しさ
朝、起きた。何度起きても、此葉は居らず、一人ぼっちだ。居るのは常に看護師と医師だけだ。幸いにして、主治医が男性だったことには救われた。ただ、僕のことを色眼鏡で見てくるのが苦だった。
朝ご飯が運ばれてきたが、また食べられなかった。このご飯達は捨てられちゃうのかななんて道徳的に考える。看護師に無理しなくていいからねと心を押してもらえる。お陰で少しだけ女性恐怖症が和らいできた。
此葉からのメールの返信がまだだったと焦った。携帯はそれからというもの、手元に置いてある。
『どこの病院? お見舞いに行くから』と言われた。でも、お見舞いには来てほしいけど、僕の弱い部分や苦しんでいる部分を見せたくなかった。僕って我儘だ。けれど、苦しんでる様子やつらい様子を見せると心配されるのはごもっともだ。できるだけ、心配を掛けたくないというのが本心だった。勝手に家を出て、何も言わず、消えていっただけで心配されてるのに。これ以上増やしたくない。
『教えたくない。都内だけど。病気と闘ってる姿を見せたくないから。だから来ないで。あとメールも、もうしてこなくていいから。看護師さんに怒られるの』と打った。本音をそのまま文字にした。
『そんなこと言わないで。颯の全てを受け入れるってあの時、誓ったじゃん』
『病気と闘ってる姿もすごいよ。頑張ってるよ。だから自己否定だけはしないで。あとメールもこれから送りあいたい。どうしても嫌ならやめてもいいよ』
すぐに返信がきた。そんなこと思ってくれてたなんて。全てを受け入れてくれる。それだけで安心できる。病気と闘ってるだけですごくて、頑張ってる。そう認めてくれて涙が溢れそうだった。
『じゃあ、分かった。此葉の気持ちを尊重する。雀ヶ谷南総合病院の501病室に入院してる。お見舞い待ってるからね。あとメールは出来る時に送るから』と送って、眠りに就こうとした。
眠ろうとしても寝つけない。ご飯を食べていないから空腹だ。食べたら吐くとかじゃないけど、息苦しくて死にそうになる。今日は晴れている。窓の側までいった。フラフラしながら。手すりに掴まらないと立っているだけで危うい。窓から見る景色は此葉の家から見える景色よりは劣るが、満足いく景色だった。駅も見れて、電車が走ってる線路も見える。今は新緑の春だから、葉っぱが緑色に染まっているが、秋になると紅葉に変わるんだろうなと思うと、とても待ち遠しくなる。広場みたいな所にはベンチと砂場とすべり台とブランコがある。とても子供向けレジャーには充実している。僕もあそこ行きたいなーと思った。でも、まだ歩けないから行けないや。
腕時計を見ると10時40分。暇だ。暇暇暇ー。酸素マスク、外してみようかな。ナースコールを押した。
「酸素マスク、試しに外していいですか?」
「苦しくないならいいです」
外してみた。そしたら、はぁはぁはぁと息切れはしたが、数日前と比べれば苦しみは軽減された。少し過呼吸にもなって、看護師に擦られた。だが、「大丈夫、です」と伝え、酸素マスクを着けようとする看護師を止めた。
仰向けになって様子を見た。苦しかったけど耐えた。拳を強く握って、息を止めるようにして、15分が経過した。過呼吸はだいぶ落ち着いた。息切れはまだ少しある。
「大丈夫そうですね」
「はい、何とか」
やりとりを交わして、時間が過ぎ、あっという間に昼ご飯がやってきた。食べれるかなと不安になったが、
スプーンでお粥をパクリ。味が無い。ほうれん草の煮物を一口。銀鱈の焼き魚を一口食べた。やっぱり食事は此葉が作ってくれた方が美味しい。早く此葉の家に帰れないかなぁ。なんて思うけどご飯が食べられるのは当たり前じゃなく、幸せなのだと誰かから教わった。
久しぶりに味わった昼ご飯はどこか新鮮で、生きた心地がして美味しかった。と思いたいだけで本当は味がしなくて、病院食って感じでパサパサしていてシンプルでまずかった。だけど生きた心地がしたのは本当だ。生き返ったような気がする。栄養が蓄えられて、パワーアップした気がする。
「ごちそうさま。美味しかったです」と僕はまた嘘を吐き、笑顔でトレイを看護師に渡した。
「食べれて良かったよ。これでまた少し元気になったね。カルテにも記載するし、お医者様にも伝えておくからね」と手を振って、看護師はいなくなった。
此葉に『ご飯、食べれるようになったよ』とメールで伝えた。
そしたら14時過ぎた頃に『ご飯食べれなかったの?』と顔文字付きでさらに心配させ、不安を募らせてしまった。
『そうだけど。今は大丈夫だから、安心して』とカバーした。
『良かった。良くなって嬉しいよ。嬉しすぎて泣いてる』と返信された。
泣くほど喜んでるのか。僕の事を真剣に心配して、見守ってくれる人が1人でもいれば、それはとても嬉しいことだ。これからも病状報告は徹底的にこまめにしようと思った。
午後は相変わらず暇だった。ゲームも出来ない。本当は携帯も禁止されている。入院生活での約束事というプリントにはこう書いてある。ゲーム、音楽機器、携帯電話禁止。禁止のことを僕たちはやっているのだ。
ずっと遠くの空ばかり見ていた。暇な時間というのは1秒が長く感じられて、退屈で仕方ない。宗教の仏教に入った気持ちになって解放される時をただひたすらと待っていた。
点滴に書いてある文字やベッドに書いてある文字を見るようにもなった。今なら全文覚えられそうだ。
午後が過ぎ、夕方になった。看護師に酸素マスクはもう外していいよと言われたが、外さなかった。
夜ご飯が並べられた。昼ご飯食べれたから食べれるかなと思っていた。思い通り、食べられた。豆腐の味噌汁とその他だった。豆腐は味付けされてないからそのままだった。無味無臭な食べ物を虚無な気持ちで完食していく。やっぱり僕が調理したり、此葉が調理した物の方が断然美味しい。酸素マスクをしてないから苦しみもあるが、我慢できる範囲になってきた。
ご飯がまずいのは嫌だが、今日食べれるようになったのは大きな回復であり、ご飯が食べられるという当たり前に感謝をした。
普通に片付けてもらい、薬を手渡された。普通に口に入れて飲むんだと我に返った。
飲んだらまた暇タイム。はぁと溜息。
ふらつかず歩けるようになったら病院探索したいなーとか考えていた。
そうだ! 此葉にメールしなきゃ。そう思い立って、携帯を手に持った。
色々とメールで話し合った。病院のこと、此葉の再度1人になった孤独感、今の近況など語り合うことで理解を深めた。
夜になり、気づけば消灯時間になり、照明が消された。その後までメールのやりとりは続いた。
『会いたいよ。会えなくて寂しい。会って抱きしめたい』と僕が打った。
此葉も『会いたいのは同じだよ。寂しくて毎日泣いてる』と言った。
『会いに来てくれない?』と僕は招待した。
『さっき、メールした所でいいんだよね? メモしたから明日行ってみるわ』と返された。
という事で、急遽此葉が明日、お見舞いに来てくれることになった。僕は楽しみで仕方がなかった。でも弱っている姿を見せるのは少々不安だった。だけど此葉なら驚かずに受け入れてくれると信じていた。
『服持ってきてね』
今は病院服だけどお洒落がしたい。だからそう頼んだ。
『分かった。とっておきの見舞い品も持っていくから楽しみに待っててね』
その言葉でメールは終わった。此葉が来てくれることが楽しみで、いつもより眠るまで時間が掛かった。
第二十三節 病院編3 お見舞いに来ました
此葉が見舞いに来ると言っていた日の朝、僕は背伸びをして朝日を見つめた。入院してからも早起きは変わらなかった。それは当然ながら意識が戻ってからだ。此葉が来てくれるのを楽しみにして、スタンバイして待っていた。
朝ご飯を食べた。まだ食べづらさはある。酸素マスクを外すとどうしても息苦しさが残る。いつものように片付けてもらってご飯の時間は終わった。
此葉のメールによると10時40分頃に来る予定とのことだった。それまでの間、荷物の整理などをしていた。窓の外を見るのが日課のようになってしまった。ここから此葉が見れるのかなとかいう空想を繰り広げていた。でも、位置が違うから、なわけないよなと正気に返る。
一方、此葉は病院にお見舞いに行く準備をしていた。大事な物を高級バッグに仕舞いこんで。あの思い出の品を。私は颯が今どんな姿なのか知りたくて急いでいた。ご飯がやっと食べれるくらいというのは心配な出来事だった。あんなに元気だったのに……あんなに笑ってたのに……。今は会いたくてしょうがなかった。
病院の場所、ここで合ってるよね? Googleマップで確かめながら、右往左往しながら進んだ。なにせ、私は方向音痴なのだ。だから地図が必須になる。地図も頼りにならなかったら直感で動くしかない。
病院に着いた。総合病院だからエントランスが広い。センターだけで広く、人が沢山いる。病人が殆どを占めているので、うつらないよう気をつけなくてはいけない。
約束の時間まで僕は歩く練習をしたり、外や空を眺めていた。前よりはふらついていないが、少しふらつきとめまいがある。立った時にがたっと周りの風景が歪み、クラクラとする。倒れそうなところを足で力強く支えて、何とか保てている。
約束の時間になっても此葉は現れなかった。今や時刻は12時を過ぎている。これはおかしいと思った。此葉にメールしないと……携帯を取る。メールする。それなのに既読が付かない。まだ帰っていないのか……?
数時間前のこと。
総合病院だから迷路のようで階が9階まであって、しかも科ごとに分かれていて訳が分からなくなって、迷ってしまった。
その迷子で約束の時間に来れなかったわけじゃない。僕は迷子でもして、遅れてるのかなとも思っていた。
颯は過呼吸や息切れが酷かったから呼吸器科だと思い、呼吸器科の5階まで辿り着いた。ナースステーション、スタッフセンターが角を曲がってすぐにあった。
担当の病院スタッフに声を掛けた。
「あの面会に来たんですけど」少し緊張した様子で言った。
「ご家族様以外の面会は禁止されています。あなたは碓氷様の何ですか?」と現実を告げられた。
「彼女です」私たちは確かにカレカノ同士なはずだ。同棲もしてたし、誰に何と言われてもこの関係性に変わりはない。結婚してたら面会できてたってことか? その少しの違いだけで区分されるなんて。結婚しとけばよかった。
「あのぅ、過去のモデルだった雲霧靄、本名碓氷颯様にもう新たな彼女が出来ていらっしゃったんですねー彼は今、VIP室で安静に治療されてますよ。でも、こればっかりは病院のルールなので、もう帰って下さい。会えなくて残念でしたねぇぇ……」と嫌味に言われた。表情もかなりドン引きしている。あの不祥事を起こした過去の芸能人に彼女が出来てるなんて信じられないと言わぬばかりに。
そのスタッフの態度に心底、憤慨した。颯をあんな人間関係の悪い所におきざりにされるのは嫌だと感じた。
「ここで争っても仕方ないって分かっていますけど、その言葉遣いどうにかして下さいませんか?」怒りに身を任せた発言だと思い、後悔した。
「はい。申し訳ありません。以後、改めます」まさかのお辞儀をして謝られた。
そんなあっさり謝れてもとは思ったが、まあいいと許し、最後の想いを託した。
「あの……これ、渡して頂けませんか?」そう頼み、あの、あの時の中身のない財布を手渡した。高級なブランド品の財布だ。金色のワンポイントの装飾も施されている。
「これは貴重品ですね。大切に管理させて頂きます。ですが、財布を届けるのに何の意味が? 与えて元気になるとは限りませんよ」
「いいんです。彼に絶対、届けて下さい」
病院スタッフは軽く頷き、私は立ち去った。
そうして今、昼ご飯がテーブルに置かれている。僕は食べれなかった。此葉が来てくれなくて、裏切られた気持ちで。期待していた分が重かったから、その反動は著しかった。フォークとスプーンの手が止まる。目から涙が止まらない。喧嘩の時は5日間会えなかっただけで、その時は嫌いの気持ちもあったから受け入れられた。だけど今回は引き離されたという思いが強く、心に沁みる。会って抱きしめられたかった。なのに……それは叶わなかった。
「ごちそうさまでした」と看護師に告げ、僕は俯いた。
“どうしたの”とか“体調悪いの”とか“ご飯を食べるのを敢えてサボっちゃ駄目でしょ!”とか怒られて、僕の気持ちの少しも察してはくれなかった。そしてご飯が下げられた。どうせ、捨てられてしまうのだ。そんなことはどうでもいい。
13時過ぎてから、僕は死にたくて仕方がなかった。僕は騙されて淫行してからもう、死んでいるのだ。死んだように生きている。常に生きた実感が無い。いつ死んでもよかった。此葉がいるから死ねないけど、会えないなら死んでもいい。死んでもいいけど彼女の泣く姿は見たくない。此葉がいるから自殺はできない。それは絶対に無理だ。だからこの不条理に恨むしかなかった。僕は此葉を恨んだ。何故だか、そうするしかなかった。
病気は苦しい。こんな僕が生きてることも苦しい。僕の死に悲しんでくれるのは此葉だけだ。1人いるだけで嬉しいことなのかなぁ……
そんなことを考えていたら時間が過ぎてしまった。そんな時、2人の看護師が来た。財布を持ってきた。
差し出すように僕の手に届けられた。まるでプレゼントのように。
「これ、僕の財布じゃないです。他の人と間違えてませんか?」
そう正すように言うと、
「彼女さんから、渡すよう頼まれたんです」と一言。
(これか。とっておきのお見舞い品って。此葉、やっぱり来てくれたんだ……)
「ありがとうございます」と泣きながら喜んで受け取った。
そのまま看護師は病室から出ていった。
僕は午後、ずっと財布を手にしていた。魔法がかかったかのように手放さなかった。窓の外を見て、鳥を眺めて。
そんなことをしていたら、今更ながらあることに気づいた。この財布ってただの僕へのプレゼントでも此葉の財布でもなくて、此葉と出会ったあの日、僕が拾った財布なんだと気づかされた。
そして財布を開けたらこのように書かれたメモが入っていた。
『私のことを忘れそうになったら、この財布で私の顔を思い浮かべてみて』
親切だなぁと思った。僕の性格や気持ちを完全に理解している。見透かされている。分かったと心の中で思った。でも、財布無くて不便じゃないのかなとも思った。しかし、これ以外の財布はまだあるのかと安堵した。
その日の夜、メールが届いた。
『会えなくてごめんね。会いに行こうとしたんだけど断られちゃった』
『いいよ。財布ありがとう』これ以上ない感謝を述べた。
『会いたかったなぁ……颯がどんな様子なのか知りたかった』私はそのままの気持ちを表した。病院まで行って、病院内の景色も見て、こんな所に入院してるのかと新たに知ることができて、良かった。少し心配にはなった。
『僕も会いたかったよぉ』文面から強い思いが感じられる。会いたいって思うと涙が出て、悲しくなるから言葉にも気持ちにもしたくない。
『VIP病室に入院してるんだって? 驚いちゃった。こんなにも颯という存在が知れ渡ってるんだね』
『そうだね。言う通りだよ。普通病室が良かった。君にも見せたかったよ、壁や手すりが金箔でね……』
そんなやりとりをしてると会いたい気持ちが倍増し、眠くなった。
第二十四節 病院編4 久しぶりの外
此葉がお見舞いに来れなかった日から数週間が経過し、食欲も有り、体調も安定してきた。まさかこんな言葉を言い聞かされるとは。
「点滴、大丈夫そうなので外しましょうか」
「えっ、いいんですか? ありがとうございます」
そうして今まで通されてきた、針と管が外された。なんだか解放された感じだ。このまま退院できるのかなと心の中で思っていた。その時はそう思っていた。この先に待ち受ける難儀があるとは露知らず。
点滴を外され、今まで通り3食、食べられてる。点滴を外されたら、次は外に行って歩く練習をしてきなさいと言われた。だけど、僕は誰かに指示や命令されるのが苦手で、行きたい時に病院内の広場や公園(遊び場)に足を踏み入れたかった。苦しくなったら、看護師を呼びなさいとも言われた。
朝食を食べ終え、すぐに外に行こうとした。本当に外に出たかったのだ。窓から見える空はいつも綺麗でその下にいたかった。広場の子供たちはいつもはしゃいでいて、親子連れもいたり、大人が1人立ちつくしていたり、座れるとこに座って本や携帯を手にしていたりした。
その中に僕が混じっていいのだろうか。正直、不安だった。病室の外に出たら、どんな目されるんだろう。僕のことを知っている人はどれくらい居るのだろう……
恐る恐る引き戸をスライドさせてみた。ここに来た時は倒れる寸前だったから、あんまり覚えていない。こうなってたのか。エレガントな病院になっている。病室が少なく、VIPは10以下しかない。全て個室だ。もう全てが金と透明でホテルのようだった。でも、僕はこういうの好きじゃない。普通の病院でいい。少ししたら鎖の柵で封鎖されており、どうしたらいいのか分からなくなった。
飛び越えていいのだと思い、足で飛び越えた。そしたら普通のナースステーションが目に見えて、普通の病室もあるのが分かった。
僕と目が合った女性の入院患者さんがいて、目が合った途端、急に機嫌が悪そうにして睨まれて顔を逸らされた。僕のことを知っているのか――それとも顔が嫌だったり?
たったこれだけで僕は生きる自信を無くした。悲しくなった。そしてやり直せないことを思い知った。一度人生で失敗した人はもう信頼度や好感度、支持率を取り戻せないということも痛いほど分かった。
僕は怖いから下を向いて俯き加減で歩くことにした。もう誰も此葉以外とは関わりたくない。此葉だけが僕を世界で受け入れてくれるただ1人だ。そういう人を失ってはいけない。
エレベーターだと密集してるからバレる率高いなと思って階段を使うことにした。ガタッ、倒れそうになった。足が段差があるから余計にふらつく。こういうの勘弁してほしい。倒れて階段から落ちたら大変なことになる。
なんとか外に出れて、外の空気を吸った。久しぶりの外の空気は澄んでいて、気持ちが良かった。少し冷たい風が吹く。そういう風が春の暑さを緩和させ、丁度いい気温を作ってくれる。ここから見える景色も美しいものだった。僕は景色を見たり、人間観察をするのが好きでよく見ている。怖かったけど、ここにいて居心地がよかった。子供の遊ぶ姿や声を聞くだけで此葉と子供作りたいななんて思ってしまう。思ってボーっとしていると後からくる恥じらいがやってきて、1人で恥じらってしまった。でも幸せな家庭を築きたい。まだ結婚していなかったのだ。
なんて立ちつくしていると、小言が聞こえてきた。まさか俯いているし、雲霧靄だとバレないだろうなと思ってたら、僕に関する話題だった。変装してないし、化粧もしてない。此葉と出会う前はノーメイクで変装をしてバレないようにしていた。モデルで活躍していた時代は化粧をしていたから、少し今のほうがバレにくい。あまり変わらないとよく言われる。
「雲霧靄ってここの病院、入院してきたらしいよ」
怖い。
「誰、そいつ?」
「性的暴行で捕まったあのTop1位か2位を一昨年争ってたモデルだよーテレビにも出てたでしょ」と若い女性が告げ口した。
「あー思い出した。ずっと前の事だから忘れちまったよ。そうか、そんな奴いたなー」
思い出された。思い出さないでよ。僕の罪や存在は記憶の彼方にいっていい。
「捕まって精神科入りっ? 笑える。ざまあ」
怖い。怖い。
「そうみたいだね」
そうじゃない。デマが流れている。ストレスによるものだけど、そういうふうに言われるのが嫌だった。そしてとても怖かった。近くにいるのに正体がバレないこの距離。そして言い返せない悔しさや自分への憤り。悪口なんて小さい頃から聞きなれてきた。輝いていたのは一瞬だった。なのに悲しくなる。悪口は言われるだけで暗い気持ちになる。息苦しい。医療を提供されるのは平等なはずなのに、雲霧靄ってだけで差別や偏見で攻撃される。
その人達から離れた。『外に出れたよ』ってメールしたいのにそれすらできない。するはずだったのに。もう限界みたいだ。はぁはぁはぁ、息ができない。倒れそうになった所に看護師が駆けつけた。
「大丈夫?」
返答できなかった。
「何か嫌なことがあったんだね。だから注意して行動しなきゃいけないんだよ。外に行って歩く練習しなねとは言ったけど」
僕はそのまま倒れた。そのまま車椅子で病室へと運ばれた。
ベッドから目覚めたのは午前11時頃のこと。怖い怖いと言い、過呼吸になった。ガタガタと体は小刻みに震え、はぁはぁはぁはぁと息苦しさが続いた。看護師はそこら辺に数人いた為、処置が行われた。
外された点滴も酸素マスクも付けられ、落ち着いたが病状が悪化した。息ができなくなるのが続いた。
食事が出来なくなり、昼ご飯は食べられず、仰向けで目を開けていた。その目からは涙が一軸となり、頬を伝った。
それから数日後。
僕はすっかりと外が怖くなった。此葉にもメールで出来る日に『外出れたよ』と送信した。これ以上、心配させないように余計なことは打たなかった。そしたら、また一歩元気になって良かったねと返事された。本当は悪くなってるのに……
「また外で陽だまりにあたりたい」
そう呟くのだった。
「酷くなってるんだから、無理しないように。理想呟いてても仕方ないわよ」と看護師は言った。
食事も食べれるようになり、また数週間前の状態に戻った。点滴は打たれてるが。
(会いたいし、普通の生活に戻りたいよぉ……ゲームしたい。ごめんなさい)
僕の涙とリンクするように雨が降り出した。もう季節は6月だ。
第二十五節 病院編5 迷子の女の子
窓を見ると水滴が付いていた。窓一面に付いている。透明の雨筒、雨粒が地面に強く打ちつけていた。透明の雨の線が落下しているみたいだ。僕はもうこんな季節になってしまったのだと哀れんでいた。5月で一緒に過ごせたのは最初の第1週だけ。それ以外は病院にいたり、発作が起こる日々だった。僕は此葉といたからいけなかったんだ。自分が悪いんだ。と悲観的に自分を責めていた。だけど、此葉との時間は幸せだったと我思う。
でも此葉と出会ったから呼吸器症候群が発症したのも一理ある。正体や過去がバレたくなくて、心に傷を負っているのは本当だからだ。一番可愛そうなのは此葉だ。いつまでも僕の帰りを待ってるだろうに。財布まで届けてくれて、こんなにも尽くしてくれて。頼んだ服は? 流石に届けられなかったのかな。出入り禁止みたいになってるのがすごく悲しい。
雨を見るたびに思う。僕の気持ちはいつも雨だ。晴れたのは一瞬で光が射した。だけどその後、黒い雲に覆われて雷が落ち、ゲリラ豪雨になった。それからずっと僕の心の中では雨が降っていた。此葉に出会ってから、狐の嫁入りみたいになって少し心に彩が合わさった。本当に心の中の憂鬱を表しているのだと思う。憂鬱を取り払ってくれないかなといつも思う。雨になると憂鬱になる。気分が下がる。
朝起きたら雨だった。外が暗かったから、すぐに分かった。もう外には行きたくないなーと思う。こんな雨だし、前みたいな陰口を聞かされたくないし。もうあんな目に遭いたくない、病状を酷くさせたくない。
此葉はどうしてるかなとつくづく気になる。メールだけでは伝わらない。他の男と恋仲になってないだろうか。そこが一番気になる所だった。此葉がまさかそんなことするはずないよねって分かってても不審に思ってしまう。あとは体調。僕は悪いけど、彼女は無理していないだろうか。自分の体調より此葉の体調のほうが心配だった。
朝ご飯を課せられた習慣のように食べ、味のしない食物をすばやく何事もなかったかのように片付けさせ、何もない無頓着な日々が過ぎゆく。
そして病室の外に出る決意をした。何かこの暇な毎日を楽しませる物が見つかるんじゃないかと。雨だし、室内だからできることは限られる。僕という存在がバレなければ平和なのだ。
引き戸を開け、少し歩き、鎖の柵を飛び越えた。相変わらず僕を見つめる他人の視線はどこか冷たいものを感じ、同じ患者なのに隔絶されているように感じる。僕に直接、暴力を振るう人はいないが嫌な目で見られることはしょっちゅうだ。
何か談話室みたいな場所を設けていたが、人がいたので遠慮した。本や絵本、新聞、そして僕の嫌いな雑誌やぬいぐるみ、子供向けの玩具などがあった。
階段を下りた。4階だ。階段を下りると、1人の小さい女の子が立っていた。手すりを握って、ただ立っていた。5階と4階の踊り場で遠目で女の子をただ見ていた。変態に見えるかもしれない。だけど、変態じゃない。ずっと立ってじっとしたままだから、興味深かった。何してるのだろうと気になってしまった。
がた、がたっと点滴を片手で持ちながら下りる。こちらの気配に気づいてるだろうか。振り向こうとはしない。
「どうしたの? こんな所で立ち止まって」優しく声をかけた。心配する大人の雰囲気をなるべく意識した。
そしたら小さくか細い声で「迷子、迷子なの」とその子は言った。
迷子かぁと思い、どうしようかと僕のほうこそ迷っていた。まずは色々聞き出そうと考えた。あとはナースセンターやインフォメーションに直接伝えるのが妥当だと思ったのだが、それは良くなかった。
「迷子だったら大人のスタッフが沢山いるナースセンターに一緒に行かない?」と提案したのだが、
「いや」と言い固められてしまったのだ。
それでも子供心が分からない僕は「迷子だと親御さんとか看護師さんとか心配するよ」と言い、センターがある方に手で誘導したら今度は癇癪を起こしてしまい、騒ぎ立てられた。これは困ったと思い、ポケットから黄色いレモンキャンディーを取り出した。多分、立ち止まってるだけで動こうとしなさそうだったから、最終手段でもあった。
子供の世話は本当に自信ない。きっと子供が産まれたら此葉に懐くんだろうなという予想はついている。話し上手じゃないから物理手段のほうが適していると判断した。
「これ、あげる」
レモンキャンディーを差し出した。キャンディーは多く補充してある。つまり、沢山持っている。甘くて美味しいのだ。これを舐めるだけで元気が出るし、病気も治る気がする。キャンディーの魔法的な。モデルだった頃から常に持っていた。
「ほんとにいいの? お兄ちゃん、なんか怖い」
「怖くないよ」と何故か傍から見れば悪魔のように微笑んだ。そんなつもりはないのだけれど。
すぐその子は開封した。そして見る瞬間すら奪われるくらい早く、気づいたら食べてた。
「おいしい」
「それは良かった」
これは誘導できそうだなと感心した。飴で操るなんて、なんて鬼なんだと感じてしまう。でも好都合だった。飴が少し溶けている頃合いに第2の迷子攻略をした。
「ここから離れない?」
「ずっとここにいたいの」
「それでもずっとここに居ると周りの人に心配されちゃうし、違う場所に行くと楽しいかもよ」
現に談話室は賑やかで絵本やおもちゃがあり、遊び甲斐がある。僕は人がいるから怖いけれど。外は雨だから、今日は遊べない。明日も土がドロッとしてるだろう。
談話室まで僕が案内した。そしたらその子は玩具で遊ぼうとはせず、僕の隣で座るだけだった。可愛いなー
その子はストレートの長い黒髪とサイドにツインテールにしている。子供用の可愛い髪ゴムで結わいてある。笑顔で小顔で可愛い。笑うとえくぼが出来て、柔らかそうな頬が際立つ。将来モデルになれるんじゃないかと元モデルが思うほど凄かった。7歳くらいの女の子だった。
「名前は? 僕は碓氷颯です」
さすがに知らないだろうなと思って言った。見た目7歳でもっと下だったら赤子に近いだろう。7歳にしても5歳だから認知されてない。それにこんなに小さい子がファッションモデルに興味持つか?
「うういはあて……分かった。わたしは《《イオ》》だお」
分かってないでしょ。でもそういう所が可愛い。子供だとたまらなく愛おしくなる。碓氷颯って漢字の羅列だけだとシャキッとしてキリっとしていてカッコいいと、自分で思ってたんだけど、子供に言われるとこんなにもキューティクルになるんだと改めて思った。あと、イオは絶対違うと思ってリオに脳内変換した。
「リオちゃんね。リオちゃんは何で入院してるの?」
あまりにも立ち入った質問で暗い、嫌な内容だったかと聞いてすぐに反省した。
「そーだよ! 何でってお兄ちゃんは何で入院してるの? 心の病気なの、それとも癌とか」
やっぱり。子供はなかなかしぶとい。自分に対して聞かれた質問を質問返しするとは。驚きで感激する。心の病気って。いくらなんでも失礼すぎだよ。それにこの年齢で癌を知ってるのはすごい。
「簡単に言うと呼吸が苦しくなる病気かなー」
「そうなんだ」
全然心配したり、気遣ったりするような口ぶりではなく、ストンと冷静に受け止めるような口調だった。今、僕が明日死ぬんだよと言っても分かったとリオちゃんは言ってしまいそうだ。死に対して恐怖心は無いのか。
「リオちゃんは何の病気なの?」
「……」
黙って暗い顔をして俯いてしまった。これはダメだと思って話題を変えた。
第二十六節 病院編6 病気の女の子と仲良くなって
「リオちゃんは何の病気なの?」
そこから悲劇は始まった。聞いてはいけない質問だったらしい。それから、すっかり黙りこんでしまった。
俯いて無表情にさせてしまったので、絵本を持ってきた。
「ほら、ゾウさんだよー。ぱおーん」僕は本当にこういうのに向いていない。自分でやっていて恥ずかしくなってくる。子供ができたらどうするんだ。此葉に頼むしかない。此葉は上手そうだなーって考えていると思い出して、泣きそうになってきた。やめよう。
「ブレーメンの音楽隊はどうかな? 色々な動物たちが出てくるねえ」
絵本で指差し、動物に目がいくようにした。楽しませるつもりだった。
なのに、それが無意味だったことに数秒後、気づく。
「お兄ちゃん、無理しなくていいよ。わたしを励まそうとしてるんでしょ」
何が理由かは分からないが、突然とリオちゃんは泣き出した。
うぅっ、ぐすっ、わああぁんっ
僕の袖で顔を拭く。何か地雷を踏んでしまって、触れてはいけない場所に触れてしまった。結果的に僕が泣かせたんだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」これは僕じゃなくて、リオちゃんの台詞だ。本当は僕が謝らなきゃいけないのに。
「僕のほうこそ、ごめんね」
「そうじゃないの、わたし、病気のことで、もう泣かないって決めたのに……病気の事は思い出したくなかった。治療から逃げてきたの、本当は迷子なんかじゃなかった、悪い子でしょ。バカだなって思うでしょ」
迷子だと信じ切っていたが、そうじゃなかったのか。こんな小さな子が病気と闘ってて、逃げたくなる気持ちも分かる。でも、逃げるのは良くない。悪化したら死んでしまうかもしれない。リオちゃんは悪い子でもバカでもない。普通の女の子だ。
「リオちゃんは悪い子でもバカでもないよ。痛い治療とか怖いのとか嫌だよね。その気持ちは分かるよ。だけど、逃げてたら何も進まらないよ。一緒に乗り越えていこう」そう励ました。
そしたら笑ってくれた。笑顔を取り戻してくれた。
「もう病気の話はしないから」ときっちり約束をした。
まずは趣味や好きな物の話題から始めるかと思い、さっそく話を始めた。
「好きな物とかある?」
「好きなものはディズニーとさくらんぼかな。あとジェットコースターに乗ってみたい」
ディズニーとさくらんぼか。さくらんぼは歌の方か? ディズニーで好きなプリンセスとかいるのかな……
「ディズニーでは好きなプリンセスとかいるの? 僕はあんまり詳しくないけど。さくらんぼは歌の方? それとも食べ物?」
「シンデレラとベルかな。あとさくらんぼは食べ物だよ。さくらんぼの歌って何?」
知らないのか、まあそうだよね。シンデレラとベルか……名前聞いてもしっくり来ない。
「シンデレラはあんまり境遇が好きじゃないんだよね。ベルは美女と野獣がどういう話か忘れちゃったっ! ごめんね、知らなくて」
「また否定! お兄ちゃん否定ばっか。美女と野獣は野獣になった王子様をベルが助けて幸せになるお話だよー」
「そんなに否定したっけ。そうなんだ。さくらんぼの歌は何でもないよ。さくらんぼ甘酸っぱくて、美味しいもんね」
それに対し、リオちゃんは一瞬困惑顔を見せたがすぐに満面の笑みを浮かべた。
「さくらんぼおいしーさくらんぼの歌が気になるなぁ……」と元気一杯な様子を見せた。
「さくらんぼの歌は本当に何でもないよ」僕は忘れてほしいと話を逸らそうとした。
「さくらんぼ、病院の食事で出たんだよね! すっごく嬉しかった!!」
病院食? 一体いつのことだろう。入院してきたばっかりだから知らないや。リオちゃんはいつから入院してるんだろう……これは聞いちゃ駄目か。
「僕も食べてみたいなー」と口ずさんだ。
ちょっと話を変えてみようと思った。
「リオちゃんは退院したら行きたい場所とかあるの?」
「ディズニーランドと海外と東京タワーと北海道」
「そっか」
「でも、退院できないけどね。最期くらい、昔見たひまわり畑みたいなぁ……」
えっ、退院できない? だと?? 最期ってどういうことだろう……ディズニーランドと海外と東京タワーと北海道、行きたい場所というなら良い場所ではないか。僕も海外旅行してみたい。それ以外のリオちゃんが言った場所は行ったことある。
「退院できないってどういうこと? リオちゃんならきっと早いうちに退院できるよ」
リオちゃんは悲しい顔をしながら、「お兄ちゃんのさくらんぼの歌と同じくらい何でもないよ。退院はせんせーが退院できないって言ってた。お兄ちゃん、冗談だけどわたしの余命があと1年って言ったら、びっくりする? 悲しむ? もしわたしが死んだらお墓のそばにいて、見送ってくれる?」と上目遣いで不安そうに言った。手が小刻みに震えている。
「退院できないって先生に言われたの? そっか、重い病気なんだね。余命があと1年だったら悲しむし、驚くよ。そりゃあ。でも、嘘だよね……。それでも、その1年をリオちゃんと大切な時間にして過ごすよ。死んだら見送るよ。僕が死んでもよろしくね」
リオちゃんからの言葉はこういう状況だからか、どこか重く、切なく聞こえるのだった。だから、冗談を言ってても素直に聞き入れた。
「お兄ちゃんは退院したら行きたい場所あるの?」
「行きたい場所かぁ、此葉とデートした時の水族館かな。あと、リオちゃんが言ってた昔見たひまわり畑が気になる」
ちょっと個人情報言い過ぎちゃったかなと後悔したが、まあこれも良しとするかと考えた。ツッコんでくるかと思ったら、案の定ツッコんできた。
「デートってことは彼女いるの? 此葉って誰?」控えめに言ってバカなようだ。さっき、バカじゃないと言ったが訂正しよう。
「此葉は僕の彼女だよ」
数年間は彼女がいない日々だったけど、財布を拾っただけで、久しぶりに彼女ができた。不祥事を起こす前は沢山彼女がいた。あ、浮気してたわけじゃないからね。すごくモテてたという意味。僕の周りにいる女性はみんな彼女だ。そう脳内変換している。結婚を迫られたこともあった。だけど、すぐに断った。10代の頃だったから。今は此葉と結婚したい。あまり未来のことを考えない僕だけど。
「えぇーっ。彼女いたの? わたしと結婚するはずだったのに。今度、その此葉さんとも会いたいな。デートに行けるとか羨ましい」
出た、私や俺と結婚するはずだったのに。勝手な妄想なのに。ということは、リオちゃんは僕のこと、好きなのかもしれない。だけど、結婚とか恋愛の意味を本当に分かっているのだろうか……。
「リオちゃん、僕のこと好きなの?」
「好きだよ。好きに決まってるじゃん!」
無邪気だ。でもそれは恋愛の意味じゃないとすぐに分かった。
「それで、ひまわり畑っていうのは?」
「それはねえー病院の外にあるんだよ。散歩道を抜けるとその奥にひまわりがたくさん咲いてるの」
「そうなんだ、今度行ってみたいな。リオちゃんはこの病院の事、詳しいんだね」
リオちゃんに教えてもらったひまわり畑に行ってみたいと思った。夏になると太陽に照らされて、生き生きとしてるんだろうな。此葉と手繋いで歩いてみたいな。
とはいえ、ここの病院広くないか? 総合病院だからこのスケールは普通なのかもしれないけど。広場もあるし、公園みたいな所もあるし、ひまわり畑もあって、それで……病院内も広くて迷子になりそうだし、9階まであるし。VIP病室と一般病室に分かれてるから、尚更広い。
そう僕が思っている頃、リオちゃんはもう2年もこの病院にいるからねと思っていた。
リオちゃんがもう病室帰らなきゃと言ったので、ここで別れた。
第二十七節 病院編7 病気の女の子は友達なのか?
お兄ちゃんが過ぎ去ってもリオちゃんは病室に戻ろうとしなかった。手術を受けたくないからだ。どうせ、今サボっても手術が免れないことはリオちゃんも分かっている。だけど、痛いのはもう嫌なのだ。体が傷つくのも嫌だ。病室に戻ったら注射されるに決まってる。重い足を病室へと向かわせる。
僕は病室に戻って、今日の行動を振り返った。一般患者としかも小さい女の子と普通にお喋りしてもよかったのか? けど、お喋りは楽しかったし、特別扱いもされず、すごく楽しかった。これがいつまで続くのだろうか――。幸せは一瞬しか訪れないことは痛いほど分かってきた。だから、リオちゃんとのやりとりもいつかは終わりがくる。
僕の名前がまだ言えてない事やディズニーランドの話、好きな食べ物の話、プライベートの事などが面白かった。あんなにも子供って純粋無垢なのが今日再確認できた。
もう16時を過ぎていた。こんな時間かと溜息を吐く。病院食が来るのが億劫に感じる。早く家帰って料理作りたい。夜が来るのは楽しみだ。時間の中で一番好きなのは夜だ。夕焼けも好きだけど。病んでからはずっと夜ばかり好むようになった。此葉はどうなんだろ、メールしてみよ。
『朝と昼と夜、どれが一番好き?』
返信が来るのには時間が掛かる。
夜ご飯を食べて、配薬までの時間を待った。その間にメールに既読がついているかを見た。が、何のアクションも無かった。
今日の日程が全て終わり、ベッドに就いた頃、携帯に既読ランプが点滅。急いで内容を確認した。
『昼』
『なんで?』理由を聞かないと気が済まない。
『一番活動してる時間帯で人間らしくいられるから』
なんかすっごいまともな回答が返ってきた!
『僕は夜だよ。一番落ち着くの』
『そっか』
『そういえばさ、女の子と午後ずっと喋ってたんだよね』
『えっ』彼女は驚きを露にした。
『小学校低学年くらいの小さい女の子でね……』
『それ先に言ってよ!』
『ごめんごめん』
『なんかいつもより雰囲気違うと思ったら! ひょっとしてロリコンなの?』
は? どこからその思考回路になるんだ??
『どこで雰囲気違うって分かるの? あとロリコンじゃありません』
ちゃんと断言した。それじゃあ、迷子の女の子を助けただけでロリコンになってしまうじゃんか。それだけは避けたい。
『絵文字とか顔文字でなんとなく』
『そんなので分かるんだ、すごいね』
『あと他の大人の女の子と喋ったり、目を合わせたら浮気と認定して殺すからね』
怖い。メールの距離なのに伝わってくる隣に居るかのような恐怖感。いつでも襲ってきそうな躍動感。目を合わせただけで?
『どしたの? じゃ、切るね。おやすみ』
『おやすみ』と送り、僕は眠りに就いた。
僕の夜はまだ始まったばかり。世界が闇へと包まれる。
起きた。朝起きても此葉がいないことは分かってる。分かってるのに神頼みしてしまう自分がいる。隣をふと見てしまう癖、寝返りを打ってしまう癖、全て同棲中についた癖だ。今も拭えずにいる。
朝ご飯を食べて、顔を洗って部屋を出ようとした。顔を洗ってる時に僕って不細工になったなーと思い始める。そして、太ったのだという事も。だが、部屋を出ようとしたら、看護師に止められた。顔でバレたらどうすんの! この前みたいに倒れられたら困るんだけど、と。トイレに行くだけという言い訳もここでは通用しなかった。
僕はまた空を眺める。本当はリオちゃんと会うことすら許されない。許されない関係を築いているのだ。リオちゃんは友達か? 僕は友達だと思ってる。リオちゃんは友達だと思っているのだろうか。リオちゃんは僕といて楽しいのだろうか。一時限りの友達。僕が誰とも関わってはいけないと言われても、それは寂しすぎる。誰かに縋っていたい。
看護師の目を盗み、病室を出た。病室は最高級の換気がされているが、外の空気を吸いたい。僕が飛び降りたくなるから、それには反対する人が多いだろう。小さい頃は空は飛べると信じてた。
病棟は迷路みたいに一本道が多い。どこまでも続くんじゃないかと思われるほどに。場所は覚えている。談話室はどこの階にもある。リオちゃんと話したのは4階の談話室だ。その場所に行ってもリオちゃんはいなかった。ずっと待っても来なかった。もしかして、看護師や医師に知られてこの人とは会わないでねみたいな事を言われてるのかな。僕のせいだ。リオちゃんまで巻き込んでごめん。
リオちゃんと会えるのは次の日になってのことだった。その日もまた雨の日でリオちゃんは違う服を着ていた。僕だけ服を持ってきてくれる人がいないから、同じ病院服だ。毎日違う服を着たいなぁ……風呂はちゃんと入っている。
「こんにちは」とお互い挨拶を交わした。
「あのー久しぶりだね」
「あ、わたしの手術のせいで会えなくってごめんね」
手術? こんな小さい子が手術? 痛かっただろう。先週のことだろうか。よく頑張った。よく耐えた。偉い。僕なんて手術受けた事も無いし、入院したのはこれが初なのに。
「よく頑張ったね、すごいよ。ご褒美にこれをあげよう」なんか上から目線なのは自分でも気づいてたし、否めないけどまあいいか。こうして飴をあげた。今度はイチゴ味。
「わあーい、やったー!!」
喜んでいる。
「お兄ちゃんってろーていなの?」
突飛な質問にびっくりしてしまった。え、は? 何だって? 僕の聞き間違いなのか。童貞? いや、まさか知ってるはずないよな。どっちにしろ、ろーていでも童貞でもない。
「え、あーちょ。えー」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
僕の挙動不審さに過敏に反応する。僕のことをジロジロ見てくる。上を見上げるように自然と上目遣いになってて、可愛かった。
「もう1回ゆっくり言ってみて」僕は諦めなかった。
「家はごうていなの?」あ、そういうことか。でも、何でだろう……
「あーでも何で?」
すると、リオちゃんは何やら僕の手の方に目をやった。
「お洒落な財布持ってるから」
ああ。えっ! あ、癖で此葉から借りてる財布持ってきちゃったんだ。そっか、これはブランド品だな。
「あーごめんね。変な物見せて。これは彼女から一時的に貰ってるの。すごいお洒落だよね」
「いいなーわたしも欲しい」とリオちゃんは欲を募らせた。
「お兄ちゃんってかっこいいよね、顔」
え?
「そうかな?」
「スタイルも良いし、モデルさんみたい」
図星をついた彼女の発言に声が出せなくなってしまった。探偵なら一流だろう。本当に元モデルだ。まさかこんな所で言い当てられるなんて思いもよらなかった。リオちゃん世代は雲霧靄は知らないだろうな。
僕がまた呆然としていると、どうしたの? と上目遣いで聞いてくる。その様子を悪戯だと思った。
「ありがとう」
「えへへー。お兄ちゃんみたいな顔になりたいなー」
「それはどうかな。女の子だよね?」
こんな風にお喋りをしているとある事を思い出した。今日、リオちゃんに会うのはその為だったんだ。忘れてたー
「……今日でお兄ちゃんとは“さよなら”しないといけないんだ」
「えっ、何で?」目を丸くしている。そりゃ、そうだよな。
「えっと、お兄ちゃんは元犯罪者なんだ。僕と一緒に居ても悪い影響しか受けないと思う」
リオちゃんは一瞬、困惑顔をしたがすぐに次のように言った。
「それでもいいよ。わたしは良い影響しか受けてない。犯罪者ってことは昔に人殺しっちゃったってこと?」
えっ……犯罪者という単語にもっと驚くかと思った。
「そーゆうことかな。女性の心を殺したも同然」
「看護師さんから言われてなかった? 僕と一緒にいちゃダメって」
「言われてないよ」
「そっか」バレてないということには納得した。だけど、一緒にいちゃダメなのだ。この事実にはどう対処もできない。きっとリオちゃんの親かお互いの看護師に見つかったら、引き離されるに決まってる。
「わたしはお兄ちゃんと喋れて、とっても楽しいよ」
純粋無垢な笑顔に思わず、癒される。黒い心がパッと晴れたようだ。僕もリオちゃんと喋れて楽しい。そんな風に思っててくれたなんて嬉しい。涙が出そうだ。
「友達なんだからそんな簡単に“さよなら”なんて言わないで」
「友達……?」
友達という言葉に引っかかった。考えてた時間もあった。リオちゃんも友達だと思ってたんだ。僕も友達だと思ってた。2人の思いが重なった。
「友達だね」
「ともだち、ともだちー」
手を揺らし合った。此葉の時と同じように。
「お兄ちゃんが昔犯罪者だったとしても、今が良ければいいじゃん。忘れればいいじゃん。今のお兄ちゃんは犯罪者じゃないよ」
認められた。名言が次々と生まれる。
「励ましてくれてありがとう」
「励まされたのはわたしもそうだよ。お兄ちゃんがいてくれたから手術頑張れた」
そうだったんだ。
「リオちゃんは朝と昼と夜どれが好き?」
「夜かな。ずっと眠っていたい」
僕にはまだそれが死にたいという意味だとは思ってもいなかった。
「僕と同じだね」
それと同時にお互い笑い合った。
第二十八節 病院編8 悪意のない差別
それからいっぱいお喋りをし、仲を深めた。毎日のように会うようになった。時にはお花の髪飾りを作ったり、絵本やぬいぐるみで遊んだ。子供と接するのは初めてのことだったが、楽しかった。
今日という日が始まり、目覚め、背伸びをする。此葉はいないけど寂しくはなかった。会いたい気持ちも忘れるほど、リオちゃんと過ごす時間はかけがえのない時間だった。寂しくないのもリオちゃんのお陰だ。窓を見る。やっぱり雨は降っていた。外では遊べない。インドア派だったから別にいい。子供の頃は外で遊んでいたが、今はそんなにヤンチャじゃない。絵を描きたいがスケッチブックが無い。だから諦めよう。
今日は病院内でかくれんぼをすることになった。リオちゃんが鬼だ。4階だけでかくれんぼ。隠れる場所といった所が殆ど無い。病室やナースセンター、テラス等があるが、どれも隠れられない。そして奥に進むと病院関係者以外立ち入り禁止の文字。ここに入るか? といえば罪悪感が生まれる。あとは階段付近か死角になっている場所、リオちゃんより低い場所。それくらいだ。トイレも流石に駄目だろう。リオちゃんより低い場所が見つからなかった為、階段の壁の縁に隠れることにした。これは死角になっている。踊り場に出ないと見えない造りだ。
「いっくよー」
リオちゃんは談話室にいる。見つからないかなーと思っていたら、案外見つからなかった。15分が経過した。待っていたその時、「見いつけたあ」の声。僕は壁に顔と手を付けて見えないようにしてた。声で振り向くとリオちゃんの満足げな顔があった。
「見つけるの遅かったねー」と言うと、
「そんなことないよ」との声。
かなり待っていた。
「思い出の場所だね」
「ね、出会った場所」
そう、ここはリオちゃんが治療が嫌だから迷子のふりをしている所に僕が声を掛けた場所だ。あれから数週間は過ぎた。夏の暑さも雨の憂鬱も振り払ってくれるくらいリオちゃんに僕への影響力がある事も証明されている。
それから数日間が経過した今日この頃。今日も変わらず、いつものように話していた。
「わたしを幸せにしてくれますか? いつになったら幸せになれますか? あとどれぐらい治療すればわたしの病気はな、お、り……」
すすり泣くリオちゃんの姿に僕は我慢が出来ず、抱きしめてしまった。頭を撫でた。絵本を読んでいたら、いつしか自分と重ね合わせて自分の話になった。
「また手術するんだって。点滴の量も増やされた。いつになったら治るの?」上目遣いで涙を浮かべる様子は見苦しいものだった。いつになったら病気が治るか、考えても答えは出ない。何でこんなに小さい子が苦しい病と闘っているのか、神に問いたい。
「僕には分からない。いつか治るといいね」それしか言葉が出なかった。
「リオちゃんって今何歳?」
「7歳。お兄ちゃんは?」
やっぱり。それくらいの年頃だと思った。
「23歳だよ」
「そうなんだ。大学は?」
お互い秘密を抱えている。嘘を吐くしかなかった。
「休学中。リオちゃんの学校は?」
「入学式にも出られなかった」
そうだったんだ。残念だったね。
「出たかったよね。つらいこと聞いてごめん」
「いいよ」
「わたしは先天性の心臓病だから、もう治らないって言ってた。治療をどんなに頑張っても無意味なんだって。いつ死んでもおかしくないって。こんなにつらくて苦しい治療なら早く死んでしまいたい」悲痛な叫びだった。
心臓病、だったら2階じゃ。なんでいつも4階にいるんだろう……これも治療が嫌だからか? 7歳の子に死んでしまいたいって言わせるほど、神や運命は卑劣なのか。どれも重く深みのある言葉だった。先天性心疾患。治せる方法はないのか。きっとあるに決まってる。だって、今や医療は発展しているのだから。
「2階にいるはずなのに治療が嫌だから、迷いこんで来たんだ。治療は無意味じゃないよ。リオちゃんが頑張ってきた証はちゃんと目に見えてる。僕が意味のあるものだと認めてるから。死んじゃいたいなんて言わないで、僕も悲しくなってくる」と力強く言った。
「何で病気の身体で生まれてきたんだろうね……ママもパパも悲しんでる。神様はいない。最初からいないって分かってるのに……」
リオちゃんは僕の袖で涙を拭いた。病気の身体で生まれてきた子供は沢山いる。救われない未来だって見てきた。せめて、この子だけは救ってほしい。
「神様はほんと意地悪だよね。だけど諦めないで、諦めなければいつか救われる日が来るから」と元気づけた。
「余命1年は本当だったんだよ。嘘吐いてごめんね。お兄ちゃんが動揺すると思ったんだ」
えっ。それでもこうして言ってくれたことが嬉しかった。僕のことも考えてくれてたとは。
「それじゃあ、その1年を後悔のないように一緒に過ごそう」そう決意した。
リオちゃんは目を仰天させている。動揺しなかったから驚いているのだろうか。
「分かった」とリオちゃんは笑みを浮かべた。
丁度その時、30代くらいの女性が近づいてきた。談話室に何の用だろうと思っていたら、「ママー!」とリオちゃんが言った。
茶髪にパーマをかけたようなウェーブに陽気な顔、大きな胸が特徴的で肩にバッグを掛けている。
「初めまして」と言われ、顔を見られる。
僕は「あ」と言い、止まってしまった。
(初めましての顔じゃないわね……どこかで見たことあるような……)とリオちゃんの母は僕の顔を見やる。
「お兄ちゃんがどうかしたの?」とリオちゃんは母の顔を見る。三角関係みたいだ。
「あなた、くもぎりもやじゃない。娘に何か、手ぇ出したんじゃないでしょうね」と嫌らしい目で見られる。こういうのは大概にしたい。何度も同じような目に遭ってきた。
バレてしまった。どうか、リオちゃんにだけは知らさないでほしい。
それでも、リオちゃんのそばを離れようとはしなかった。
「人違いでは?」平静を装った。
「人違いなわけないわよ」それでもリオちゃんの母は否定した。
「娘から離れなさい! このロリコン野郎!!」
「くもぎりもやって何? ロリコン?」リオちゃんは分からないのかきょとんとしている。
「知らなくていいのよ」
「お兄ちゃんは優しくて、飴くれて仲良しなの! お兄ちゃんは悪い人じゃないよ」
こういう庇ってくれる所が非常に嬉しいし、自信が持てる。
「こんな人が良い人なわけないでしょ。この犯罪者が!」
「リオも離れなさい!」
無理やり手を引き剝がそうとする。もうお終いなんだと諦める。
「嫌だ! お兄ちゃんともっとお喋りしたい!」
リオちゃんの素直な思いが聞き取れる。
(お兄ちゃんも自分のことを犯罪者って言ってたけど、ママもその事知ってるんだ)とリオちゃんは思った。
僕はリオちゃんから離れる。スタスタと躊躇ない無機質な足で歩く。
「待って!」とリオちゃんが叫ぶ。その最後の声をこの耳に大切に刻んだ。
「ありがとう。リオちゃんは僕とは離れなきゃいけないんだよ。会えなくなるね……」
遠くから手を振った。
「今度、娘に一度でも話しかけたら許さないからね。リオもあのお兄ちゃんには二度と話しかけないで。分かった?」
その声も聞き取れた。リオちゃんは泣いている。頷いていた。僕が泣かせたんだ。やっぱり僕らはイケナイ関係だったんだ。
それからは病室から一歩も出なかった。僕が誰かと仲良くしたら怒られるから。迷惑掛けるから。最初から分かってた。だから、今回は過呼吸にもならなかったし、そんなに傷つくこともなかった。ただ、1人引き籠ってしまった。
窓から見える雨は見たくないし、ご飯も1人だし、1人は寂しい。これからどうしよう……と考えていた。
第二十九節 病院編9 電話での声
朝起きても薄暗かった。カーテンが少しだけ開いている。雨は止んでいるようだ。腕時計を見ても4時ちょっとすぎ。早朝だ。こーゆー暇時間が僕は嫌いだ。そういえば音楽プレーヤーもスケッチブックも家に置きっぱなしだったわ。本は読まない派。読むにしても暗すぎて見えないだろう。音楽プレーヤーとスケッチブックは此葉に取ってきてもらおう。といっても、音楽機器は使用禁止なんだけどね。
7時を過ぎたところで、一度此葉にメールした。
『おはよう。今日は早く起きちゃった。女の子とは距離を置かなきゃいけなくなった、だから寂しい』
早く起きすぎたのは寝れなかったから。朝ご飯は8時からだから、まだのんびりしてて平気だ。
病室外に出てもリオちゃんには会えない。他の子供と喋っていても同じ事の繰り返しだ。親に見つかったら、あのようなことになる。大人と喋るにしても僕と喋りたい人など居るか居ないか程度のものだろう。
朝ご飯を食べ、検温の後に看護師にあるお願いをした。
「ここって公衆電話ありますよね?」
「はい。1階にあります」
1階か……やっぱりあるんだ。良かった。
「テレフォンカード下さい」
「お金かかりますが」
お金は持ってない。これは空の財布だ。
そしたら残る手順は1つ。
「じゃあ後払いで」
「分かりました。1枚でいいですね?」
軽く頷いた。
今至急じゃないのに小走りで看護師は病室を出た。
しばらくするとテレフォンカードを手にして、戻ってきた。
「はい、カードです」と差し出され、僕はお礼をした。
公衆電話の場所、案内しなくていいですか? と聞かれたが、結構ですと答えた。僕は探索をするのが大好きだからだ。RPGみたいで迷路のような前人未到の地を進みたいのだ。午前中の間に公衆電話のある場所には辿り着けなかった。この病院は広いのである。何せ、総合病院で科が沢山あり、それだけでも迷いそうなのだ。僕は一度行った場所はすぐに記憶し、地図にも自信があるほうだった。それなのにこの一苦労。1階に行くのでさえ、足が疲れた。エレベーターはあるが、運動の為、階段を使いたい。
昼ご飯を食べる前に此葉から返信があり、『女の子と何かやらかしたんじゃないでしょうねぇー』と来た。
此葉の勘は的中している。女の勘は鋭いとよく言われる。此葉は一緒に暮らしてた時から鋭く、敏感だった。対して僕は、此葉の気持ちになかなか気づけずにいた。だから、反省して次に活かしたい。
『その通り。女の子のお母さんに僕の正体がバレて怒られちゃった。だけど、僕は大丈夫だよ』
『予想の範疇。何が大丈夫なの?』
『え、大丈夫って心は大丈夫ってことだよ。此葉は大丈夫じゃないの?』
『颯嫌い!』
いきなり嫌いと言われてしまった。
『それと何時に起きたの?』
『朝の4時』
『相変わらず早起きだねー』
案外早く返信が来た。
『まあね』
そこでやりとりは途絶えた。
午後はまた公衆電話探しに出た。点滴を持ち、僕だとバレないように。こういう時にフードがあれば便利なんだけど此葉に持ってきては貰えてない。此葉の家に初めて行った時までは伊達メガネとマスクとフード付きジャンパーは必須だった。整形はしてないからすっぴんで誤魔化すしかない。今もすっぴんでいる。モデル時代はバリバリメイクしてた。すっぴんの僕を好いてくれてるなんて嬉しい限りだ。
公衆電話はやはり見つからなかった。総合病院だからエントランスホールの近くには何も無かった。続いてこの病院の殆どは高級なリニューアルされたような塗装なのだが、古びた一角があった。壁も黒い汚れた部分もあり、ここだけ何もされていなそうだった。四角が沢山ある壁だ。
通り過ぎた道を振り向いてみると、壁に囲まれた所に公衆電話があった。
「あった!」思わず声に出してしまった。
でも遠いな……
ここまで来るのにすごく時間が掛かった。道はある程度覚えたので問題ないが、夜来るとなるとお風呂の後に来た場合、薬の時間と被るなとか、ちょっと薄暗くて怖いかもとか考えてしまった。
そして、すぐそこにコンビニみたいな所があった。そこで何か買えるかもと思ったが、生憎お金を持っていなかった。自動販売機もあった。買いたいのがポカリスエットとコーヒーとカルピスソーダ。買えないけどね。
コンビニでうろうろしてた。知らないお菓子とかもあって、思わず凝視してしまった。
偵察は予定通り上手くいった。呪いの公衆電話とかじゃありませんようにと電話の前で手合わせしてしまったりしたけど見つかって良かった。後の時間は病院探索にまわした。本来歩く派の人だけどエスカレーターを使ってみた。病院のエスカレーターってそこら中を見渡せていいなーと思っていた。
リオちゃんがいるはずの2階にも行ってみた。病室の名札にリオちゃんの名前も書いてあって、さすがに中には入れないだろうと戻った。一般病室はこんな感じなんだと知ることもできた。
自分の病室に戻り、ベッドに寝転んだ。天井を見つめて、必ずお風呂終わったら公衆電話掛けると決めた。
風呂に入った。許可があるから入れるのだが、点滴が無いとどうもクラクラする。そしてムッとした蒸し暑い空気に包まれる。人が沢山いた。年上の人ばかりだった。雲霧靄だとバレなければ変な目で見られないのだが、僕だけが知ってるから浮いていてポツンとした疎外感に襲われる。そして鏡を見ると自分の裸。僕は自分のことが嫌いだ。あの一件以降自分の裸体が更に気持ち悪く感じるようになった。此葉だけが大切に思ってくれてるけど、気持ち悪いに越したことはない。別に皆気にしてないと思うのに洗ってる所を見られたくない。風呂は1人で入りたい。温かいお湯に浸かった。心も体も癒される。そして、風呂場から出た。お待ちかねの公衆電話だ!
一旦病室に戻り、点滴を付けてもらい、薬を飲んでから行くことにした。点滴が無いと不安だ。
暗い廊下を只管歩き、エスカレーターも使わずに目的地へと着いた。
受話器を取り、プルルルルの音を待つ。もう寝ちゃってるかなと思ったが、出てくれた。
「もしもし」と僕が言う。
「もしもし」
「此葉、僕だよ。碓氷颯です、急にごめんね」
久しぶりの此葉の声に感動しながら、電話を続けた。
頼みたい物を伝え、来るように言ったのだが来れないらしい。来るとしても遅くなるとの事だった。でも、電話ができて声が聞けて安心した。
「じゃあね、颯の声が聞けてよかった。元気そうで何より」
「僕もだよ、じゃあね」
そこで電話を切った。テレフォンカードに残りがあるそうでまた電話ができるらしい。
元気そう? 元気なのかな、今の僕は。こうやって小さい事に考え込んでしまうのが僕の悪い癖だ。
まあいい。此葉の声はいつもと変わらない明るい声だった。最後に聞いたのいつだったかな……
電話越しに話すとメールと違って、遠くにいるのに近くにいるような気がする。
此葉の声を頭の中で巡らせながら眠りに入っていった。
第三十節 病院編10 看護師からの攻撃
もう6月が終わりそうだ。梅雨明けまであと少しのところか。雨はまだ降っているが、もうそんな季節になってしまったのだと実感させられる。此葉と離ればなれになってしまってから2ヶ月が経とうとしている。
短くもあり、長くもあった2ヶ月だった。会いたい気持ちは今でも勿論ある。此葉も会いたがっているだろう。
何で退院できないんだろう……と思う事がしょっちゅうあった。呼吸不全で入院生活が長くなるのはおかしいと感じ取った。ストレスだから精神科関係も絡んでくるのかなと考察した。点滴を外しても平気だし、酸素マスクも外せた。だけど、ちょっとしたストレスで、過呼吸になったり、倒れたり、呼吸困難になったりするのは死に至る事もあるから重症だ。なるべくストレスの無いように生きたい。
いつものように朝ご飯を待ってると、「今日でここ辞めるから。看護師は辞めないけど。今までよく頑張ったね」と告げられた。
そして「はい」と朝ご飯をテーブルに置かれた。
「僕のほうこそ今までありがとうございました」お礼を会釈して述べる。
その看護師は任務が終わると去っていった。
他の看護師にも聞くとそのかたは別の科に移るらしい。
沢山いる呼吸器科の看護師の中のメイン看護師が変わるらしい。全部で4人だが、1人抜けるから新しい人が加わる。
今の看護師はまだ僕のことを空気のように接したり、淡々と無表情で世話してくれるだけなので偏見で見られる事はないが、新しい看護師はどうだろう。そこが心配だった。
「いつ替わるんですか?」
「近いうちに替わります!」
今答えた看護師はきゃぴきゃぴしてて、小柄で可愛らしい看護師だ。ただ、それ故に魅惑的になり、看護師として働けてるかが問題だった。僕はつられて声が甘くなったり、性を逸脱したりしないが、他の人だとつられる人もいるだろう。
でも聞けて良かった。
それから3日が過ぎた。
看護師が女なのが嫌だったが、あと少しの辛抱だと思って耐えることにした。
その日の昼頃。ご飯を食べる少し前、新しい看護師を紹介された。
「この人が新たに加わる看護師さんよー」との掛け声の下、手で紹介された。
「よろしくねぇ、颯くぅーん」規律を逸脱した喋り方でいきなり抱きついてきた。意味が分からない。
「ちょっと、大枝さん。それはやり過ぎです」ともう一人の看護師に注意される。
それはそうだ。でも、2人きりになったらどうしよう。止めてくれる人がいない。
この看護師は最初に入院してきて意識が戻った時に見た最も苦手な看護師だった。(何でこんな時に)と思った。
よろしくと言われたので「よろしくお願いします」とだけストーンと返事した。
すっかり食欲が失せてしまった。全部あの看護師のせいだ。その嫌な看護師はすぐ隣にいる。
「あー食べてる。口の中に食べ物が運ばれていくよ」
「可愛いぃ~」
とこんな事をほざいて、更にはカメラを向けてきた。当たり前の事を言ってるだけで何が楽しいのだろう。言葉は無視した。だが、カメラは許せなかった。いくら僕がVIPだろうと病院のルールを破った行為は見てみぬふりはできない。
「やめてください」僕がカメラを奪おうとすると抵抗してきた。
どうせ僕の食べてる姿を動画に収めたいだけだろう。
ナースコールを押し、助けを求めた。その最中にこんなやりとりになった。
「強姦された愛衣莉ちゃんもやめて欲しかったと思うよ」上から見下ろすように言ってきて、この人に言われる必要無いと強く思った。
「それは……関係ないじゃないですか!」
それに何で被害者の名前まで出回っているのだと疑問に思った。
はぁはぁはぁと呼吸が苦しくなる。その苦しくなったタイミングでナースコールに反応して駆けつけた看護師が現れる。大丈夫? と聞かれる。
「この人。この人変えて下さい。食欲無いです」
昼ご飯は途中で食べれなくなった。この看護師のせいでご飯が無駄になると思うと胸が痛い。
「何もしてないでしょぅーっ」平然といつもの態度で接するこの女。腹ただしい。
看護師が僕の嫌いな看護師が持ってるカメラに気づいた。
「何もしてないってこれ、何ですか。カメラは持ち込み禁止です」
そうして、いやはやカメラは没収された。
「何か嫌な事あったらいつでも言ってね」と誘掖され、嫌いな看護師を連れて去っていった。
午後はずっと嫌なことばかり考えていた。その看護師辞めてくれないかなとか。此葉のことは頭に無かった。何故、そういう気持ちの時は楽しい事や嬉しい事が思い浮かばないんだろうと不思議に思う。
此葉はいつ来てくれるのだろうかなんて事は今の颯の脳内には無かったけど、もっと後になると思える。
今日は診察の日だった。酸素マスク付ける程ではなかったが、かなり息苦しかった。
主治医の先生が来た。男の先生だ。病室まで来てくれる。診察によって退院出来るかが決まるんだ。僕の目的、目標は1つ、退院して此葉と幸せな日々を送ることだ。
主治医は一息吐いてからこのように話を始めた。
「こんにちは。体調はどうですか? 息苦しさはありますか?」
「息苦しくないです、大丈夫です」と嘘を吐いたが、反応はどうだろうか。見破られてしまうかなと思った。
「それは違うよね、息もはぁはぁしてるし、ゼーゼーいってるし。酸素マスク付ける?」
全て見透かされていた。酸素マスクは付けたくない。これ以上、悪くなるのは避けたい。
「ごめんなさい。嘘吐きました。でも酸素マスクは付けないで下さい、お願いします」
「すぐそうやって嘘を吐く癖。皆に嫌われるよ。昼食残したんだって?」刺々しい言葉を投げかけてくる。そういうのやめてほしい。
自分の気持ち、ちゃんと言わなきゃ。息苦しさを交えながら、振り絞った。
「昼ご飯食べれなかったのはあの新しく来た看護師のせいです。モラハラとかセクハラとかするから」
主治医はびっくりして目を丸くした。看護師から伝わってないのか。そこに疑問が生じる。
「証拠もない、あなたが以前不祥事を起こしたのだから、少しくらいのしがらみはある。我慢しなさい。もしよっぽど精神的に苦痛になるくらいなら言いなさい」
「精神的に苦しいです」
「でも、看護師はついさっき入ってきたばかりでしょう」
妥協はできないらしい。病院は融通が利かないなとつくづく思う。
「そうですけど……」
「外の広場でも誰かから聞いた陰口が幻聴のように聞こえ、発作。小さい患者の親から受けた言葉でヘコむ。看護師とのいざこざ。全てあなたの問題でしょう」
は? 何を言ってるんだ。この人は。全部僕のせい? 外出たのは悪かったと思っているが、軽率な行動で引き起こしているとでも言いたいのか。僕が犯罪を犯したから、全てはそこから始まっている。いや、その前の生まれ、育ちからかもしれない。
僕が黙っていると
「だからあれ程病室から出るなと言ったでしょ。看護師の問題はこちら側が悪いかもしれないけど。必要時以外、もう病室から出るの禁止」と通告された。
入院中ずっと引き籠れというのか。
気づいたら泣いていた。
「うぅっ、うっ……ぐすん………」
主治医の先生はどうしたらいいのかと固まってしまった。
「大丈夫ですか? 落ち着いて下さい。立派な大人の男性なんだから、ちょっとした事で泣かない。本当に心が弱いですね」
心が弱いだなんてひどい。つらい時に性別や年齢だけで区別され、泣いたらいけないなんて酷すぎる。
「誰かと話したりするのは好きなんです」
主治医は僕のセリフを無視し、呼吸のチェックに赴いた。
「心臓の音聞かせて下さい」
「脈失礼しますね」
「熱は無いですね」
「息を袋に吸って吐いて下さい」
「はい、ありがとうございます」
そして、診察が終わり、帰ろうとした。
「待って。看護師、替えて下さい」
一度振り向き、「検討します」とだけ言って今度こそ帰っていった。
検討するの言葉だけで少し安心できた。いつか替えてくれるかもしれない。
主治医の教え通り、午後はずっと病室の中にいた。1人は寂しい。窓を見ることしかできない。本は談話室にあるのかな。花瓶が気になる。花を持ってきてくれる人はいないかな。此葉が持ってきてくれると嬉しいな。
夜ご飯は例の看護師が運んでこなかったから完食し、電話はテレフォンカードは温存することにした。
真夜中、嫌いな看護師がやってきた。着替えの時もやってきた。
カーテンから覗かれる。
「そんなことしたらバレちゃいますってー」と小声で看護師が言った。
きゃぴきゃぴしてる看護師だから当てにならない。もう聞こえてきてるし覗かれてることもバレてるし。
僕が寝てる最中、頭を撫でてきた。体も触られた。
バッと布団を押し退ける。居ない。これはホラーか? でもさっき触られたはず。
気にせず寝る事にした。もう何も気にしない。心を無にした。
朝起きて上体を起こすと嫌いな看護師が寝ていた。叫び声さえ出せなかった。
病室を出ようとすると看護師がむにゃと起きた。
「何でいるんですか」
「颯くんが寝ているの見守るの大変だったんだよぉ」
定期的に見るのは常識だがずっと見る必要はないだろう。
「仲良くしよ?」
「何で僕の嫌なことばかりするんですか。僕は看護師さんが一番嫌いです」
「名前で呼んでよ」
「まあいいや。服脱いで。愛衣莉ちゃんにした事、私にもしてよ。Topモデルなんでしょ。私たちの雲霧靄だよ」
なんか看護師は看護服を脱ぎだした。病室の鍵は掛けられないはずだ。見つかったらどうするのだろう。
ナースコール押したくても押せなかった。
「僕はそういうこと一切しません」自分のことは自分で守らなきゃ。僕は丸くなって蹲って必死に堪えた。
助けて! って思った瞬間、看護師から意外な言葉が口から零れた。
「私ももやくんのファンだったんだよ! プライベートだけど。あっさり突然にファンの支持を裏切って、雲隠れして。許せないの。だからこうして近くにいるから嫌がってる顔や恥ずかしがってる顔を見たい」
すごく歪んだ思いだが、気持ちは分かる。言ってる事は正しいと思った。
「ファンのあなたに嫌な思いをさせてごめんなさい」深々と頭を下げた。
「謝っただけじゃ駄目なの! 社会全体に謝れ。何で私がこんなに傷つかなきゃいけないの! あなたが好きだから愛してるから……」
「今、体で償って」
DESTINY~財布から始まる恋~[連載中]
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