わたしの中のわたし ~ヨンジェ編(番外編その1)

nanamame

わたしの中のわたし ~ヨンジェ編(番外編その1)
  1. 1 あの頃の僕は
  2. 2 何も知らなかった
  3. 3 何も知ろうとしていなかった
  4. 4 夢とか希望とか
  5. 5 別に必要はないけれど
  6. 6 与えられるものならば
  7. 7 何かと引き換えにでも
  8. 8 許されるだろうか

このお話は、現在まだUPできていない「わたしの中のわたし」という書きかけのお話の番外編になります。
本編をUPしてから番外編をUPするのが普通なんですが、時代や身分、設定がわかりやすいかな、と言うことと、単純に先に書けてしまったので先にUPしようかな、と思いました。このお話だけでも楽しんでいただけるのではないかと思います。2youngも好きです。
本編の方も書きたくて書いているものなので、いつになるか例の如くわかりませんが、期待せず気長にお待ちいただければと思います。
質問等ございましたら、Twitterでもメールでも、いつでもどうぞ。

1 あの頃の僕は

ヨンジェの幼い頃の最初の記憶は、暗い荷馬車の中で1人お腹を空かせて寝転がっているもの。目に見えない外では、音楽が派手に鳴り、人々の歓声や話す声が響き渡り、夜だと言うのにうるさいくらい賑やかだ。
少し寒い。お腹が空いた。だけど、随分前に与えられたヨンジェが食べる分はもうなくなった。

ヨンジェは南国で旅芸人の一座に生まれた。子供から年寄りまで親族ばかり総勢15人の一座は小さい規模であり、旅の途中で立ち寄った各所で芸能を披露できるのは10人。芸を披露して得るお金だけではとても暮らせないから、女も男も身体を売る。それができるのは女が5人と若い男だけ1人だけ。
そうした生活で生まれたヨンジェや他の子供たちも、父親は誰も知らない。祖父にあたる座長がみんなの父親のようなものだ。



ヨンジェは楽器と歌が得意だ。踊りも、それを得意とする者に比べたら見劣りするが、ある程度はできる。よく通る声だと、座長にもお客にも褒められて、声変わりを経ても実力が落ちないように頑張った。
10歳からは身体を売り始めた。辛くはない。みんな同じようにしているし、そうしなければ家族が餓えてしまう。女の身体は年をとっても売れるが、男は若くなければ売れない。20歳を超えた従兄は不細工という程ではないが、余程の物好きでなければ声をかけられなくなった。

旅芸人や芸妓、役者などと言う芸能を生業にする者たちは、歌なら歌だけ、踊りなら踊りだけ、それぞれ1種類の技に特化していることが多いが、ヨンジェは楽器を演奏しながら歌を歌うのが好きだ。笛だと歌えないが、弦楽器を演奏しながら歌を歌う、あるいは踊りながら歌を歌うというスタイルで、ヨンジェの芸はどこへ行っても注目され、器用だと褒められた。褒められたら、やはり嬉しくて、より一層精進した。それが夜の仕事にも繋がるから。そしたら、芸を披露するだけよりもっとお金がもらえるから。

一座ではだいたい5・6才くらいから舞台に上がりはじめ、10歳前後から、女の子なら初潮が始まってから、客へ酌をし始める。お酌をするということは即ち、閨に呼べるということだ。子供の頃は1・2曲だけ披露して、すぐに裏に下がる。たまに子供をほしがる客がいても、よほどのお金を積まれなければ座長は許可しなかった。
座長は家長としても、一座のみんなを大事にしてくれていたと思う。だからこそ、みんなが座長の意向に従い行動して、仕事をして、それぞれの技量を磨くことに努めていた。


この頃、南国が西国へ併合された。戦争によってではなく、吸収合併されたそうだ。座長から一座みんなに話があったのだが、聞いてもよくわからなかった。南国は全体に貧しく、どこへ行っても祭の時でも稼ぎが良いと思えたことがなかったから、豊かだと言われている西国の一部になったのは良かったのかもしれない。座長はそう言って、南国を出て、西国へ向かうことを決めた。

今までの移動の比ではない、長い旅が始まった。
10歳以下の子供だったなら、歩き疲れたら荷馬車に乗せてもらえただろうが、ヨンジェはその年を超えていた。一日中歩き続けて、村や街に立ち寄って夜を過ごす場所を得て、芸や身を売って日銭を稼ぐ。小さな村は一晩で通り過ぎるだけ、大きな街では稼ぎも良く、数ヶ月滞在することもあった。



12歳の時、8歳の妹が死んだ。祭で浮かれた男たちに犯され、身体を壊したのだ。まだ身体を売る年ではなかった。初潮もまだの8歳の少女に、大人の男たち十数人が寄ってたかって犯し続けた。誰も止められなかった。母もヨンジェも他の女たちも、何人もを一度に相手をさせられていた。話が違うと割って入り、止めようとした座長は、殴られて大怪我をしてしまった。
その晩の内に、疲れた身体をおして、その町を離れた。8歳の子供を差し出すのにお金はもらっていたが、こんなことになるとは誰もおもっていなかった。心も身体も壊れた妹に、薬さえ買ってやれず、誰も何もできなかった。死にゆくのを見ているしかできなかった。

寂しかったけれど、悲しくはなかった。僕らの身体や命なんて、この程度なのだと、諦めがあったのかもしれない。お金と引き換えに、自分のものではなくなる身体。嫌でもしんどくても、断れない。
ヨンジェの母親は、長年の身売りと4度の出産で、すでに身体を壊していた。まだ40歳にもまだなっていないはずなのに、もうおむつをしている。頻繁に体液が流れ出て、尿漏れも酷く、手放せないのだ。母だけでなくおば達もそうだ。
自分もきっとそうなるだろう。徐々に壊れていく身体。妹は運が悪かったのかな。

何にもない街道沿いの、森の中に少し入った場所に、一座の皆で妹を埋めて、そこら辺に咲いていた花を供える。それで終わりだ。いつか自分も、こんな何の目印もない場所に埋められて、終わりになるのだろうと、ヨンジェは思った。

泣いている母と手を繋いで、ヨンジェは歩き始めた。一座の西国への旅はまだ途中だった。

2 何も知らなかった

いくつもの街を経由して、西国の王都に入った時、ヨンジェは16歳になっていた。

西国は大きな国だ。それまでさまざまな街を巡っていたのだが、王都に来ることになったのは、西国の王子さまが、正式に世子と定められたという話を聞いたからだ。
世子様となったお祝いで王都全体が祭のような状態だった。大きな街で、身なりの良い人も多い。座長は、「ここで稼ぐぞ!」と意気込んでいた。世子となった次は、ご成婚、その次はお子様のご誕生と、お祝い事が続くことが予想される。稼げる祭はたくさんあるはずだ。

だが王都で稼ぐのは簡単ではなかった。芝居小屋や劇場などがたくさんあり、道端も川沿いも、勝手に興行して良い場所はなかった。必ずその場所や土地を仕切る一座や人物がいて、場所を借りるためにお金を払わなければならないのだ。夜の客を取ろうと思っても同じだ。場所代を払わずに余所者が仕事をしていると、見回りに雇われている素浪人がやってきて暴行される。下手をすると二度と仕事ができない身体にされてしまう。
役人が出す興行許可証を得るだけで大金をはたいているのに、場所代にもまた大金が必要で、小さな一座ではとても払えなかった。人があまり来ないような、街外れの貧しい者たちが暮らすような、そんな区域でしか興行できなかった。夜の稼ぎも、ばれないように大通りで隠れて客を捕まえるか、安い値段で平民や農民を相手にするかだ。
目論見どおり、稼げているとは言えない。それでも街の外に出るという選択肢はなかった。



座長の読み通り、翌年、世子様のご成婚が発表された。さらなるお祝い事に街中が湧いている。世子となった時のお祝いよりも、より盛大で、身分問わず、祝辞や贈り物を出すことができるそうだ。裕福な者たちは、娘を着飾らせ、財力と美貌を貴族たちに見せびらかし、商売をしている者たちは、この機会により多く稼ぐことを目指し、貧しい者たちは、より良い仕事に就くための算段をつける。
芸能を生業とする者にとってはより、立身出世の機会となる。王宮内や各貴族の館などに舞台が設けられ、興行許可証を持っていれば、誰でも芸を披露できる。王族でなくても、貴族でも、芸や容姿を見初められれば、この不自由で貧しい生活から脱出できるかもしれない、という夢がある。誰もが、より裕福で身分の高い者に見初められよう、気に入られようと、芸や美に磨きをかけていた。

座長には特に期待していることがあった。1年程、王都で暮らしていて知ったことだが、世子様は男好きだと言う。19歳でのご成婚は、世子としても王族としても遅すぎると誰もが感じる。その原因は、世子様の性癖に他ならない。世子様がとうとう諦めたのだ、という声が街中で交わされる程、それは有名だった。
国王様は無類の女好きで有名で、その子の世子様は女には目もくれない男好き。名君と名高く人気のある国王様で、世子様も優れた容姿と頭脳の持ち主だと評判だが、好色も見事に受け継がれてしまったらしい。

「ヨンジェ、何としても王宮内での舞台を勝ち取るぞ。お前のかわいい顔なら、十分期待できる。よくよく練習しておくんだぞ。失敗は許されないからな!」

自分の結婚式のお祝いの時に、新しいお妃様もいるのに、わざわざ芸人風情を呼ぶかな? とヨンジェは疑問だったが、座長には口答えせずにいた。名声が上がれば、貴族や富豪との繋がりができれば、王都での興行がやりやすくなるだろうと思う。王宮内の舞台を見るのは、王族だけではない。貴族も富豪もいる。その誰かに、一座の誰かが見初められたらいい。ヨンジェより少し年上の従姉妹2人にも、座長の期待が大きくかかっていた。



1ヶ月以上にも渡って行われるご成婚を祝う祭が始まった。座長は王都中を駆け回って、より良い舞台の確保に全力を尽くした。その甲斐あって、ヨンジェには幸運にも、世子様が臨席する舞台で、芸を披露することになった。

当日、一座中の期待がヨンジェに集まっていた。一番上等な黄色い女物の衣装を着せてもらう。母が丁寧に化粧を施してくれる。

「もっと濃くしないと。遠目に良く見えないよ」
「ヨンジェはあまり濃い化粧は似合わないわ。これくらいで十分よ」
「髪を伸ばしておくべきだったな。結えなくて、上等な髪飾りがつけられない」
「この指輪は一座の家宝だ。絶対失くすんじゃないぞ」
「いつもは楽器と歌なのに、今回は舞と歌だろ? 大丈夫か?」

一世一代の大舞台にこれでも緊張しているのに、四方八方から口々に言われて、ヨンジェは頭が痛くなる。

「わかったから、もー! ちょっと静かにして!」

今まで立ってきた舞台と比べて、一番大きくてきれいな舞台だった。観客数も桁違いに多い。貴族のように身なりのよい人、同じ芸人だろうと思われる衣装の人々、そして建物の内に座る、今まで見たことのない美しい男女。遠目だが目立つのでよく見える。衣装だけではなく、その容姿も姿勢も、庶民とは生まれが違うのだと見せつけられているようだ。
世子様の名前はジニョンと言うらしい。料理を食べる箸使いも、盃を傾ける手付きも、優雅で上品だ。大きな目と白い肌も魅力的だ。なんてきれいな人だろう、とヨンジェは見惚れる。あの人が、男を抱くなんて、とても信じられない。だけど、あのようなきれいな人に抱かれたら、きっと夢のように気持ちいいかもしれない。身分の高い人は総じて自分勝手で乱暴で、田舎出身の芸人の身体を気遣ってくれる人などいないけれど、それでも許せるかもしれない、と思うほど、世子様は美しい人だった。

世子様が美しすぎたから、ヨンジェは逆に諦めがついた。僕なんかを見初めてくださるはずがない。変な期待はせず、せめて自慢の歌をお届けしようと気持ちを落ち着かせることができた。

ヨンジェの出番だ。披露できるのはたった1曲だけ。一族総出で演奏して、ヨンジェが1人舞台の中心で、歌い踊る。出来得る限り優雅に上品に丁寧に、心をすべて預けて歌い踊る。

幸いにも失敗なく終わることができた。喉の調子もよく気持ちよく歌えたし、人生で一番の舞だったと言ってもいい。舞台を降りるまで優雅さを忘れず、ヨンジェは舞台裏に回って初めて深い息を吐いた。
一座の皆が褒めてくれるから、それもとても嬉しかった。その時は、誰かに見初められたらという希望は、忘れていた。楽器を片付け、帰る準備をしていると、次の曲が聞こえてくる。自分の舞台がもう終わってしまったことを寂しいと思ったことは初めてのことだった。

3 何も知ろうとしていなかった


王宮内に入れることなど滅多に無いから、せっかくなので、少し滞在していくことにする。ヨンジェと母以外、座長や他のみんなは次の舞台のために移動して行った。
特別に開かれていると言っても、庶民が歩き回れる範囲はそれほど広くない。それでも、建物の装飾や草木の1本ずつ、振る舞い酒や料理、立ち働く女官たち宦官たちの衣装さえ、経験したことのない豪華さだ。
ヨンジェは振る舞い酒と料理をつまみつつ、母と一緒に、他の人の舞台を見ていた。趣向が凝らされた演出や、本当に上手だなと感嘆する舞が続いて、見ているのも勉強になる。母も久しぶりに楽しそうだ。

「これ、そこの。ケナリ色の衣装の少年」

ケナリは黄色い春の花だ。ヨンジェは黄色い衣装を着ているのが自分だけではないのを、周りを見回して確認したが、少年は自分だけだと思い至る。声をかけてきた役人を見て、その人が確かに自分を指差していることを確信した。
観客席の後ろの人気のない場所で、ヨンジェと母と役人と、3人で向かい合う。

「先程、歌と舞を披露していた者だな? 君を見初めた方がいる。悪いようにはしないので、とりあえず着いて来なさい」

ヨンジェと母は目を見合わせる。驚いているのが、お互いに分かる。まさか。まさか?

「女は後見人か? 母親か。ご子息を2・3日借り受ける。これは前金というか、賃料だ。受け取りなさい」

すべてにおいて命令口調だが、仕方がないと思う。それよりも前金として出された札束は今まで見たこともないほど分厚くて、1ヶ月の売上、それ以上になるかもしれない。相手が世子様でなくてもいい。これだけお金をもらえるなら、どこでも着いて行くと決めた。
少し心配そうな母に、笑顔で言った。

「座長によろしく。僕、行くね。2・3日らしいから、心配しないで、待ってて」



大人しく役人に着いて行く。
建物に入る前に、身体検査をされる。武器など怪しいものを持っていないか、その役人に身体の隅々まで触られたり、懐を探られたりしたが、ヨンジェはこの時、持ち物らしいものを何1つもっていなかった。名前、年齢、出身地とを聞かれて素直に答える。その後、役人から、女官に引き渡された。

「2人目の候補者だ。ケナリと呼ぶことになる」
「ご成婚の宴だと言うのに、本当に困ったこと。受け継がれた好色は一生治らないわね」
「そう言うな。今更言っても詮無いことだ」

ヨンジェには、2人の会話が良くわからなかった。名前は伝えたが、ケナリと呼ばれるようになるらしい。今着ている衣装が、黄色いからだろう。安直だが、あだ名としてはわかりやすいかもしれない。
女官に着いて行くと、ある部屋に通された。そこには1人の少年がいて、食事をしていた。ヨンジェを見て驚いた後、きつく睨まれた。

「食事をしなさい。終わったら鈴を鳴らして。次は湯浴みをしますからね」
「はい」

初対面で睨みつけてくる人と一緒に食事をするのは気が進まないが、豪華な食事を見たらお腹が空いてきたので、気にせず、遠慮せず、食べ始める。とてもおいしい。庭で誰にでも振舞われていた料理と似た物もあったが、種類と量がとても多い。こんなにたくさん食べてもいいのかな、と思うほど、2人分とは思えないほどあった。

「田舎臭い、お前のような者が候補者など、世子様はどのような審美眼をされているのだ?」

口いっぱい頬張りながら、赤い唇が印象的な少年が憎らしげに言う。やはり呼んでくださったのは世子様らしい。田舎臭い、と言われたことより、そっちの方が嬉しくて、ヨンジェはニコニコ笑う。南国という西国から見たら田舎出身だし、腹は立たない。

「僕はヨンジェ。でも、ここではケナリって呼ばれるみたい。君は、なんて呼ばれているの? やはり芸能の人?」
「俺はザクロという渾名になっている。狎鴎亭劇団を知っているだろう。俺はそこの看板女形だ」
「へぇ~、すごいねぇ」

狎鴎亭劇団は、富豪通りとも呼ばれる街にある大きな常設劇場だ。そこの看板ともなれば有名なのだろう。偉そうなだけある、とヨンジェは思った。ヨンジェより年上のようだが、とてもきれいな顔立ちをしている。輪郭も鼻筋も男性らしい精悍さがあるが、大きな眼と長い睫毛、何より赤く色づいたふっくらとした唇がとても魅力的な青年だった。彼ならば、世子様に見初められるのも納得である。
本名も聞いたが、ザクロで覚えていたらいい。どうせ、2・3日の縁だ。

お腹いっぱい食べて、鈴を鳴らす。先程の女官がやってきて、浴室に連れて行ってくれた。

「恐れ多くも、世子様にお目通りするのですからね。きれいに身なりを整えなさい。衣装もこちらで用意しました。そのお粗末な服は捨てますよ」
「捨てないでください! 持って帰るので、置いといてください。お願いします」

ヨンジェは慌てた。一座が持つ一番上等な衣装をここで捨てられた困る。洗ってもらえなくてもいいので、置いておくようにお願いする。それ以外、こちらから要求することはない。
たっぷりのお湯と珍しい香りの石鹸で、身体をきれいに洗う。後肛もきれいに洗って、指を入れてほぐしていく。客を取る前にいつもしていることだ。一度ほぐしておかないと、痛い目を見るのは自分だ。無理矢理挿入されたら、男も女も、身体が壊れてしまうのだ。それを、ヨンジェは良く知っている。
浴室から出ると、宦官が1人いた。衣装を着せてくれるらしい。武器を持ち込んでいないことは確認されているが、念を入れて確かめているのだろう。用意された衣装も黄色いものだった。少し大きいが、きれいだから良い。さっきまで着ていたものを粗末と言われた理由が良く分かる。絹の滑らかさと光沢、着心地の良さは桁違いだ。もしもこの衣装をもらえるのなら、捨てられてもよかったかな、と思ったが、上等な衣装は何着もあった方がいい。

女官によって、王宮の中を案内される。あのきれいな人に会うのだと思うと心が高鳴る。抱かれるのだと思うと、柄にもなく頬が赤くなる。仕事だ、仕事、と自分に言い聞かせる。候補というのが何なのか知らないが、2・3日の縁だと思っていた方がいい。期待は過度にしてはいけない。あの人に会えるというだけで、期待以上なのだから。

「粗相のないように。余計なことを言わないこと。言われたことには逆らわないこと。いいですね」
「はい」

ある部屋の前でひれ伏すよう言われる。額を床に付ける。礼儀作法など、習ったことがないのに、これから会うのが世子様だなんて、どうすればいいのか分からなくて、今更ながら汗が流れる。

「ケナリをお連れ致しました」
「入りなさい」

扉の内側から、穏やかな低い声が聞こえた。

4 夢とか希望とか

扉が開いて、入るよう促されても、ヨンジェは顔を上げることができなかった。今までこれほど身分の高い人に会うことがなくて、どうしていいのかわからない。粗相がないように、と言われても、どんな言動も粗相にしかならない気がして怖い。
頭を下げたまま、下だけを見て、部屋に入る。背後で扉が閉まる音がする。目の前に人がいる気配がする。とても静かだ。風に葉が揺れる音さえ聞こえる。

「もっと近くへおいで。そんなに、緊張しなくてもいいよ」

低くて、優しい声だと思った。少し力を抜いて、膝を前に進める。まだ平身低頭している。

「顔を見せて」

その言葉を聞いて初めて、ヨンジェはゆっくりと顔を上げる。世子様に顔を見せるだけでなく、ヨンジェも世子様の顔を間近で見る。
遠目に見ても、とてもきれいな人だと思ったが、間近で見るとより美しいと思った。薄暗い部屋の中、揺らめく行灯の光が、世子様の顔により高貴で近寄りがたい陰影をつける。大きなきらめく目が印象的だ。少し微笑む姿は、少年のようでもあり、成熟した青年とも感じさせる。これほど落ち着いた、静かな印象の人物は初めてだ。それなのに、瞳はヨンジェに対する興味で溢れている。不思議な人だと思った。

手招きされて、もっと近づく。手が届く距離。ドキドキする。仕事だと思っても、こんなにきれいな人に会ったことがないから、それだけで気持ちが違う。自分に自信があったザクロだったら、もっと美しく堂々と振る舞えるのだろうな、と思って、ヨンジェはちょっとだけ落ち込んだ。

「緊張しているの? かわいいね」

肩を抱かれる。かわいいと言ってくれたことが嬉しくて、ヨンジェも微笑む。頬を軽くつままれる。今の世子様の笑顔は、いたずらっ子みたいだ。なんだか掴めない人だ。だけど、目的は分かっているから、戸惑いや緊張はあっても、迷いはない。

「僕、かわいいですか?」
「かわいいよ。17歳って聞いたけど、それより幼く見えるね」

それはよく言われることだ。仕事をする上で、童顔で得をしていることは多い。

「何をするか、分かる?」
「…はい」

少し躊躇い、ヨンジェから口づける。そうしたら、積極的に返ってきた。それが嬉しくて、躊躇いを捨てて舌を絡めていく。ヨンジェは着たばかりの服を脱いでいく。角度を変えて口づけながら、裸になって、次に世子様の服を脱がしていく。その手を止められて、ヨンジェは何か失敗してしまったのかと思ったが、寝台の上に移動するだけだった。

「続けて」

顕になった世子様の白い肌に手を這わせ、口づける。首から胸、胸の突起は念入りに丁寧に舐める。鍛えられた腹の筋肉は羨ましい形をしている。そのさらに下、男の象徴を目にして、ヨンジェは目眩がしそうだった。太くて大きい。口に含むと、喉の奥まで詰まって息苦しい。口淫をすると、さらに太くなった。これがこの後、自分の中に挿入されるのだと思うと、怖いのと期待と、負担とが感じられる。
気持ちよくなってもらわなくちゃ。たくさん前金をもらった。その分でも、頑張ってご奉仕しなければ。

「君の中に入りたい」

そう言われて、達しそうな程膨らんだ中心から口を離す。うつ伏せになって、腰だけを上げる。尻の谷間を広げて、穴に少し指を入れる。ここだよ、と言うように、すでにほぐれている場所を示す。

「入れてください。お情けを僕にください」

長い指が奥まで入ってきて、ぐるりと中を撫で回す。

「ちゃんと準備ができているね。ケナリはいい子だ」

耳元で囁かれて、ぞくぞくと背中が泡立つ。先端があてがわれ、焦れったい程ゆっくりと入ってくる。一気に入れてもいいのに、と思う。乱暴に扱われることには慣れている。身分が高い人程、乱暴なことが多いのだが、世子様は全然違う。とても優しく触れてくれる。一番奥まで、全部入るまでもゆっくりで、動き出すのもゆっくりと優しい。
激しくしてもいい。これくらいでは、僕は壊れたりしない。

「あ、あぁ、もっと…、大丈夫ですから、好きなようにしてください」
「もっと激しいのが好きなんだね」

世子様の動きが早くなる。それに合わせるように、ヨンジェも興奮した自分の中心をしごく。こんなに気持ちいいのは久しぶりだ。ヨンジェが気持ちのいい所まで、それよりも奥深くまで届いている。声も我慢しなくてもいい。世子様は男が好きなのだそうだ。女の代わりを求めているのではなく、男である自分を求めている。

若い、幼い女より、ヨンジェの値段は安い。年重の男女よりは高くても、一番いい女を買えなかった客が代わりに若いヨンジェを買うことがあるのだが、そういう時は声を出さず、仰向けになってもいけない。身体を売ることが、生活の為に仕方がないと思っていても、そういう客に当たってしまうと、どうしてこんなことをしているのだろうと、つい思ってしまう。

世子様は今までの客とは全然違う。身分や容姿だけではない、仕草や行為そのものが、優雅で優しい。
繋がったまま仰向けにされても、痛くもなんともない。ただ彼の姿が眩しく、全身が気持ちよさに震えている。腕を伸ばして、背中に手を回し、引き寄せる。足を腰に絡ませる。もっと、もっと欲しい。そうまで思うのは、生まれて初めてのことだった。



夢心地のまま、精根尽き果てる。
「下がれ」と言われたので、適当に服を着て、最初と同じように床に額を付けて、静かに部屋を出た。浴室で身体をきれいにして、またしても用意されていた寝間着に着替える。宦官の案内で、元の部屋に戻る。ザクロの少年はすでに寝ているようだ。

部屋の隅っこに静かに蒲団を敷いて、横になる。
ふかふかの温かいきれいな蒲団だ。春だから、藁でも、へたれた薄い蒲団でも全然平気だけど、分厚い清潔な蒲団に包まって眠るのは格別だ。ご飯もたくさん食べられたし、呼ばれてよかったなぁ、と思いながら、幸せな気分でヨンジェは眠りについた。

5 別に必要はないけれど

翌朝、女官に起こされる。朝食が用意されている。お粥とおかず、キムチくらいだが、たっぷり量がある。またヨンジェはお腹いっぱい食べた。王宮に来て初めて“満腹”ということを知ったのだが、これを続けていると、数日でぷくぷく太ってしまいそうだ。
着て来た衣装は、部屋の隅に畳んで置いてあったので安心した。昨夜着ていた衣装も畳んで置いてある。今着ているのは、まだ寝間着だ。これも、普段来ているものよりも上等だが、とりあえず元々着ていた衣装に着替える。
その後は、やることがない。身1つで来たので、荷物もなにもない。
ザクロは横笛を吹いている。とても上手だ。褒めると「当たり前だ」と言う返事だった。何だか嫌われているような気がするが、気にしないことにする。楽器の1つでも持ってくればよかったと思いながら、歌を歌うことにする。ザクロは午後は舞の練習をしているので、邪魔をしないように、廊下に出て、小さな声で歌う。

そうしていると、女官が1人の少年というか青年を連れてきた。3人目らしい。彼はサクラと呼ばれるそうだ。背が高く、全体的に細身で、少し化粧が濃いように感じる。化粧が映える容姿なのか、着飾ったサクラの少年はとてもきれいに見えた。ザクロはサクラにもつっけんどんに接して、地味で取り柄もないやつだとけなしている。サクラは物静かな感じだが、悪口を直接言われても、ツンと無視しているので、ただ大人しいだけではなさそうだ。

「世子様に選ばれるのは俺に決まっている」
「ねぇ、僕たち、何の候補者なの?」

ヨンジェは素直な疑問を呈しただけだったが、ザクロもサクラも、なんでわからないのかと変な顔をされた。

「世子様が、俺たちのような芸人を召し上げるのは、愛妾を選ぶために決まっているだろ」
「世子様は国王様との間で、自由に愛妾を決めてもいいという約束をされたと聞いています。そのために今回、誰でも身分や立場に関係なく舞台に上がれるのです」

ザクロとサクラが説明してくれて、ヨンジェは納得した。2人とも有名な劇団の看板女形なので、そういう事情も理解しているらしい。田舎出身のお金と地道なコネで勝ち取った1曲分だけの舞台で声がかかるヨンジェは、思った以上に幸運だったようだ。

今夜はサクラが呼ばれる。
明日もまた新しい人が来るのかな、と思いながら、眠りにつく。暇なので、さっさと寝るに限る。興行もしなくていいし、夜の仕事もしなくていいし、美味しいご飯はいっぱい食べられるし、蒲団はあったかいし、ここは言うことがないくらい幸せな場所だ。



次にやってきた候補者は2人いた。アヤメとスミレと呼ばれる。アヤメはヨンジェと同じ年で髪も長く女性のように見える。口数は少ないが、気位は高そうだ。スミレは年下だ。こちらも女の子のような見た目だが、気が強く、全員に敵愾心をむき出しにしている。どちらかが呼ばれるのだろうと思っていたら、2人一緒に連れられて行った。

その翌日は、ヨンジェとザクロがまとめて呼ばれた。どういう趣向だろうと出向いたら、「2人で交われ」と言われた。世子様は酒を飲みながらそれを眺めるらしい。世子様の隣には、細面のとてもきれいな青年が座っていて、世子様にお酌をしている。優雅な趣味だな、とヨンジェは感心したが、ザクロは顔をひきつらせている。だからアヤメもスミレも話をしたがらなかったんだな、と思った。
世子様は美しい笑顔で、言った。

「聞こえなかったのか? 早く見せておくれ」

命令なら仕方ないな、とヨンジェはザクロの手を引いて寝台に向かう。押し倒して服を脱がしていく。

「お、お前、何を…。やめろ!」
「自分で脱ぐ? あ、僕が先に女役やろうか?」
「はぁ?」

すばやく順応したヨンジェをザクロは理解できないでいるらしい。高圧的にいろいろ言われるのは面倒なので、ヨンジェはさっさと2人分の衣装を剥いで、裸になる。ザクロを押し倒して、化粧もしていないのに真っ赤な唇に口づける。彼がザクロなのは、その唇の色からなのだろうと思う。とても印象的だから。口づけたくなる。

最初にヨンジェが、その次にザクロが挿入する役をした。交互にしたのは、女の客を抱く機会はあっても、男の同業者を抱くことなどこの先もないだろうと思ったので、ヨンジェがやってみたかったのだ。なんだかリズムが合わなくて、とことん相性が良くないんだな、と思う。世子様の時とは比べ物にならないが、それなりに気持ちよかったのでまぁいいやと思う。

ふぅ、と一息ついて、ちらりと世子様の方を見ると、2人は顔を寄せ合い小声で話をしていた。ヨンジェの視線に青年の方が気づいて、にっこりと笑う。やはりとてもきれいな人だ。

「2人とも下がりなさい。おやすみ」

ちゃんと見てくれていたのか、楽しんでくれたのか、よく分からないまま、2人とも素早く服を着て部屋を出た。女官に先導されて、身体を清めて、元の部屋に戻る途中、ザクロは「くそっ」と何度も悪態をついていた。



部屋に入ると、アヤメとスミレが、取っ組み合いの喧嘩をしていた。サクラは我関せずと楽器の手入れをしている。なぜ喧嘩をしているのか聞こうと思ったその前に、ザクロに胸ぐらを掴まれて、平手打ちされた。サクラにぶつかりそうになるが、彼は迷惑そうに一瞥しただけで、何も言わない。

「よくも俺をコケにしてくれたな! 田舎者のくせに、好き勝手やりやがって!」
「田舎は関係ないでしょ。それより、君だけ随分と楽しんでいたみたいだけど?」
「なっ?! そ、それは、お前が乱暴だっただけだ!」

コケにしたつもりもない。2人でやれと言われたから、その通りにしただけだ。ヨンジェとしては最大限に気を使ってあげたのに残念だ。

「へぇ、お前、この田舎者に遊ばれたのか? 偉そうにしているくせに、大したことないんだな」

いつの間にかアヤメとスミレの喧嘩は終わっていて、今度はスミレがザクロに突っかかって、2人の喧嘩が始まる。

きれいな少年ばかり集められて、その中から誰が愛妾に選ばれるのか、牽制し合い、腹を探り合い、競い合う。きれいな世子様に見初められて、とても嬉しいと思ったけれど、愛妾になれると思っていないヨンジェは気が滅入りそうだ。

ヨンジェは珍しく母と座長が恋しくなってきた。2・3日と言っていたのに、もう6日にもなる。帰ってこなくて心配しているかな。気に入られたと思って、喜んでいるかな。離れたいと思ったことはあっても、会いたいと思ったことはなかったのに、今はとても会いたい。親族ばかり、気心の知れた仲間内で育ったヨンジェには、この部屋はだいぶ居心地が悪かった。

6 与えられるものならば


翌日、朝食の後、いつも案内してくれる女官が来て、サクラに荷物をまとめるように伝えた。平静を装っているが、出ていくことになって悔しそうな顔をしている。ヨンジェ以外の3人は、サクラに嫌味を言って追い出した。こうやって、世子様のお気に召さなかった候補者は追い出されていくのだろう。
夜はアヤメが1人呼ばれる。だが、その翌日、アヤメも部屋から出された。勝ち誇ったスミレが憎まれ口を叩き、2人はまた喧嘩になった。その夜はスミレが1人呼ばれた。

「僕が一番きれいなんだから。絶対、負けないわ」

扉が閉まると同時に、ザクロが悪態をつく。

「いつも気持ち悪い話し方をしやがって。あんな奴に負けたくねぇ」

ヨンジェにはそういう気持ちがないから、選ばれたいと強く思っている2人に感心する。ここへ連れてこられた目的も知らなかった自分は、そんな資格すらないのではないかと思っていた。



次の日、朝食を終えると、またいつもの女官がやってきた。ヨンジェに声をかける。

「ケナリ、ついてきなさい」

ああ、次は僕が追い出されるのだな、と思った。スミレは勝ち誇った笑顔で嫌味を言い、ザクロはツンと他所を向いている。唯一の荷物である、ここに着てきた衣装を持ったら、それは置いていけと言われた。今着ているものの方が余程上等で高価なのでまぁいいか、と思う。

「さよなら。元気でね」

2人に笑顔で声をかけたけれど、無視された。仕方がない。
王宮の外に行くのかと思ったけれど、何故か世子様のお部屋に連れて行かれた。お別れの挨拶でもしてくれるのだろうか。優しい人だな、と思う。

「ケナリをお連れ致しました」
「入れ」

平身低頭したまま部屋に入る。許可を得て顔を上げると、世子様と、その隣にはこの前に見た細面の青年がいた。2人とも優しく微笑んでいる。

「ケナリ、いや、ヨンジェ。ここでの生活はどうだい?」
「とても幸せに過ごしています。おいしいご飯をお腹いっぱい食べられて、毎日お風呂に入れるし、分厚いお蒲団ときれいな服をもらって、とてもいい暮らしをさせていただきました。短い間でしたが、一生の思い出にします。ありがとうございました!」

予想外の質問だったが、にこにこはきはきヨンジェは言う。世子様は微笑んだまま、こてと首をかしげる。

「ここを出たいの?」
「え? いいえ。そう言う訳ではないですが…。お別れの挨拶の場ではないのですか?」

ヨンジェもこてと首を傾げる。
世子様と青年が目を合わせて、2人ともくすくす笑う。

「試すために連れてきて、気に入らないから追い出すのに、わざわざ別れの挨拶などする訳ないだろう? わたしは君が気に入った。それを伝えるために来てもらったのだ」

ヨンジェは驚きに目を瞠る。では今頃、出て行くように言われているのはあの2人なのか。
でも、いいのかな? 僕でいいのかな、と不安になる。2人にさんざん田舎者とか礼儀がないとかけなされていたし、それが事実だったから、自分が選ばれるはずがないと思いこんでいた。
なのに、気に入ったと言ってくれた。それが本当に嬉しいけれど、戸惑ってしまう。

「おいで」

手招きされて、遠慮がちに側に寄る。頬をうにっとつままれる。痛くはない。反応で遊ばれている感じがする。

「ヨンジェはとてもかわいい。抱き心地もいい。気に入った。これからここで、わたしに仕えなさい」

ヨンジェでも分かるくらい直接的な表現で言われる。命令されるように言われることも、何だか嬉しい。泣きそうな程嬉しい。

「でも、僕、田舎者だし…、スミレみたいにきれいじゃないし、ザクロ程上品じゃないし…」
「たかが芸人風情に礼儀作法など期待していないよ。それに、わたしは女の代わりに男を抱くのではない。女のような男は必要ない」

肩を抱き寄せられ、より顔が近づく。
足の間に手が入ってきて、奥まで伸ばされる。腰を少し浮かすと、服の上から後肛を撫でられる。くすぐったいような興奮が、背筋を伝う。耳元に唇が寄せられ、低く囁く。

「君はとてもかわいい。抱かれるのに慣れているのに、ここは柔軟にうごめいて、わたしのものを深く受け入れる。積極的にわたしに奉仕してくれる姿勢は、他の誰よりもわたしを満足させてくれた。わたしに仕えるなら、生涯面倒を見てあげると約束するよ」

背筋がぞくぞくする。これ以上触れられたら、勃ってしまう。ぎゅっと目を瞑る。手が離れて、背中に回る。世子様の胸に頬を寄せる。
泣きそうというより、実際に少し涙が浮いていたかもしれない。
今までモノのようにしか扱われなかった自分の身体を、世子様は満足した、心地よいと褒めてくれた。女の代わりだったり、誰でもいいと言われたり、自分の身体はただ無闇に消費されるだけだと思っていた。消費され続けて、身体を壊して、母のようにおむつもして、妹のように道端に埋められて終わる。そんな人生だと思っていたのに、この幸運は現実だろうか。夢ではないのだろうか。

「ヨンジェ、わたしの妾になりなさい」
「―――はい、喜んで」

7 何かと引き換えにでも

こうしてヨンジェは、ジニョンの愛妾に選ばれた。
ジニョンの隣にいた細面の青年は、マークという名前だ。大陸出身で、1年前から文官兼愛妾となっていたそうだが、外国語に通じているため、今後は文官として世子様を支えるそうだ。唯一と言ってもいい愛妾が専属の文官となるので、新しい専属の愛妾が欲しかったそうだ。街の噂通り、国王が決めた相手との結婚と、子供を2人以上(男子必須)という条件と引き換えに、愛妾や男色は好きにしていいと、国王と約束したそうだ。マークが教えてくれた。

王族の妻には“妃”“夫人”“妾”の3つの位がある。
妃は正妻の立場であり、1人だけ選ばれる。政治的な発言権もあり、妃の生んだ王子が王位継承権が優先される。ジニョンはこの妃との間に2人以上の子を設けるという義務がある。夫人も、その子も王族に数えられる。夫人に政治的立場はないが、運が良ければ国王にもなれる子が生まれるので、娘を夫人にしたい貴族は多い。妾は愛妾とも言われ、妻ではあるが、本人もその子も王族にはなれない。王族が気に入った女官や平民などを妻にするためにある位である。それでも、身分の低い者にとっては、とんでもない出世である。
ジニョンの場合、妃を迎えるのは必要最低限として、男色を貫く場合、愛妾を増やすしかない。過去、国王が男を愛妾にした例は1人だけいる、とマークが確認している。

こういう、今まで知らなかった身分の仕組みや、今後の王宮での生活のことも、必要なことはマークが教えてくれることになるそうだ。
“妾”という王族の妻の1人という正式な位を戴くため、家族との最後の別れもしなければならない。旅芸人の一座は、身分としては平民や農民より下になる。定住していないので、税金を納める先がないためだ。世子の愛妾として確かな立場が与えられたら、身分は決定的に違ってしまう。王宮での暮らしに慣れたら、家族が王都に定住するにしても、また旅をするにしても、もう一座の元に戻ることもないだろう。



後日、呼び出された座長と母に会う。マークと一緒だ。ヨンジェの身なりは、もう彼らと一緒ではない。この場所が、家族と一緒に、家族として過ごす最後の時間だ。

「ヨンジェの私物をもってくるように、と手紙に書いたのですが、とても身軽ですね」
「マークさん、僕の私物なんて無いですよ。服も小物も、皆で共有しているものばかりですから」
「あ、そうだったの?」

自分だけのものなど1つもない。生活や仕事に必要ないものを買う余裕などない。
だけど、母はヨンジェに贈り物を持ってきてくれていた。

「家族みんなで作りました。みすぼらしく恥ずかしいですが、ヨンジェの門出に幸運のお守りを贈りたいです」
「母さん…」

ヨンジェも以前、作ったことがある。一座の誰かが、求められ嫁ぐ時、一座を離れ独り立ちする時、染めた糸を紡いで編んで、みんなでお守りを作るのだ。今回も、それを作ってくれたのだ。
受け取って、じっくりと眺める。みすぼらしくなんてない。色とりどりの美しい、幸運を呼び込んでくれる大切なお守りだ。

ヨンジェは、代わりにはならないが、来る時に着ていた衣装と、ここで最初にもらった衣装を風呂敷で包んだものを、座長に手渡す。

「衣装に使って。いつか、人生がかかったような舞台に立つ家族のために」
「わかった。ありがとう…」

風呂敷の上に、家宝と言っていた指輪を置く。

「これも返すよ」
「…いや、これはヨンジェが持っていなさい」

少し躊躇い、また指輪を付ける。家族の思い出に、指輪とお守りを両手のひらに握りこむ。
家族のことを、懐かしく思い出す日が来るだろうか。自分だけ誰よりも良い場所へ行くのに、家族は同じ貧しさのまま。妹のようになる子がいたり、母のように年よりも老けておむつをしないといけなかったり、従兄のように物好きや変態にばかり安く買われるようになったり、そういうことが続くのかもしれない。

「ヨンジェ」

母に抱きしめられる。そういうことは初めてで驚いてしまう。「よかった」と心から喜んでくれているようだ。
母は誰よりも喜んでいた。彼女が生んだ子供4人の内、大人になったのはヨンジェだけだ。最初と2番目の男の子は病気で死んだ。3番目の子がヨンジェで、末の女の子は幼すぎる年で男たちに弄ばれ死んだ。ただ1人残ったヨンジェが、望みうる中で最大の幸運に恵まれ、貧しさから抜け出し、誰かに愛される生き方を得られたことに、誰よりも喜びがあった。

「よく仕えるんだよ。誰よりかわいいヨンジェ。本当によかった。よかった…」

涙ぐんだ声に、ヨンジェは自分で思っていたよりも、母に愛されていたのかと感じた。風呂敷を置いた座長も、ヨンジェを抱きしめ、髪がくしゃくしゃになるくらい撫でてくれる。「お前ならできると言っただろ」と笑顔だ。

「母さん…、おじいちゃん…。ありがとう」

別れを終えると、マークが座長にお金を渡す。帯封のついた、2つの札束に、座長の手が少し震える。芸能と身売りで得る分の2年分か、3年分か、金額が多すぎてよくわからない。

「10日近くも借りたままだったこと、ヨンジェは稼ぎ頭だと聞いたこと、それと手切れ金として、これを渡す。今後、ヨンジェはあなた達とは血縁ではない。ヨンジェがあなた達に便宜を図ることもない」
「かしこまりました」

王族の私生活に一番近い存在となるヨンジェは、本人の意思と関係なく、権力と影響力を持つことになる。誰かに利用されないように、本人や関係者が悪用しないように、交友関係は厳格に管理される。元々の身分が低い程、知識がない分、管理は厳格にならざるを得ない。貧しい旅芸人の家族に、毎度たかられるのは迷惑になる。そのための手切れ金だ。
そのお金で、少しは生活がマシになるだろうか。なればいいなと願う。

「さようなら。元気で」

去り際のヨンジェの言葉に、座長と母は、平身低頭の姿で返事はなかった。

8 許されるだろうか

正式に愛妾となって、広い部屋を賜り、最初は苦労の連続だった。元々が南国出身の貧しい旅芸人のヨンジェである。女官や宦官が、何も言うことを聞いてくれない。ベルを鳴らして、人を呼んで、何でも頼まなければならないらしいけれど、無視されるのだ。
元の身分が身分だしな、とヨンジェは特に怒ることはなかった。今まで人に頼んでしてもらったことなどないのだから、してくれないならば、自分ですれば良い。厨房の場所も探検で見つけて、井戸の場所も分かるし、繕い物や洗濯も自分でできる。何でも自分でやっていたら、ある日を境に、「わたしたちがやりますから!」と女官に怒られた。そこからは嫌がらせなども減って、より快適な王宮生活になった。ジニョン様の計らいで、王宮楽士団で楽器や舞の練習を続けることもできた。
そして、それまでできなかった読み書きと礼儀作法も教えてもらえた。
生活にしても、勉強にしても、慣れない内は大変だったけれど、半年も経てば順応することができた。身に着けることがない指輪とお守りを見る度に、家族がどうしているか気になったけれど、もらったあれだけの大金を無駄に使う座長ではない、と自分に言い聞かせていた。寂しさはあまりなかった。何より、かわいがってくれるジニョン様と、親身になってくれるマークヒョンがいたから。



2年後。ジニョン様のお子様が生まれたことが公表され、久方ぶりに王都の至る所で宴が開かれた。
王宮内で、かつてヨンジェがジニョンに見初められた場所と同じところに設置された舞台で、近頃巷で話題になっているというソナム一座の舞台が披露された。世子夫妻が臨席し、ヨンジェも建物内の隅で、舞台を見ていた。
舞台上で歌い踊る2人の女性は、ヨンジェの従姉妹たちだった。美しく舞う2人と、背後で演奏する男女の姿を見て、思わず涙がこぼれた。
隣にいたマークが「どうしたの?」と聞いてくる。

「…僕の家族です。とても元気そうで、嬉しくて…」

楽しそうに舞う姿に、血色の良い肌色に、かつては一着しかなかった上等な衣装を全員が着ていたことに、ヨンジェは心の底から安堵した。こんな場面が訪れるなんて思ってもいなかった。
常設の劇場を持ち、無理して身体を売らなくても人並みの生活が送れるようになったのだ。あのお金を有効に使うことができたのだろう。

「家族か…。よかったね、ヨンジェ」
「はい…」

マークの背に隠れて、ジニョンに見つからないように泣いた。



さらにその1年後、1年半続いた北国との戦争に勝利したことで、西国は歓喜に湧いた。捕虜を引き連れて大通りを練り歩くジニョンは、若く美しく、国民の誰もが認める世子の姿そのものだった。貴族の観客に紛れて観覧していたヨンジェも、あの方が自分が仕える主なのだと、とても誇らしかった。

「ヨンジェに1つお願いがあるんだけど」
「なんですか? 僕にできることなら、なんなりと」

ジニョン、マーク、ヨンジェの3人で夕食をともにしていた時、とても珍しくジニョンがヨンジェにお願いをしてきた。閨でして欲しいことを言う以外で、お願いをされたことは初めてではないかと思う。

「北国の捕虜の中で、気に入った1人をもらうことにしたんだ。愛妾にしたいと思っているのだけど、多分男を相手にしたことがないと思うから、彼が怪我をしないように、わたしが気持ちよくなれるように、彼を導いて欲しいと思っている。お願いしてもいいかな?」

新しく愛妾にしたい男を見つけたらしい。よりによって北国の捕虜の中から。だがヨンジェにとって、それが誰でも関係ない。“お願い”されたことが嬉しいから、言われた通りにしたいと思うだけだ。

「分かりました。喜んで承ります。ジニョン様が楽しんでいただけるように、僕がその方にいろいろと教えて差し上げます」



元敵国出身の人間なんて、こちらの言うことに従わず、教えるのは大変かな、と思ったが、相手は思ったよりも冷静で配慮のある人物だった。

「はじめまして、イム・ジェボムさん。僕はヨンジェです。よろしくお願いします」
「西国はこんなに手厚く捕虜を扱う習慣があるのか?」

疑い深い相手に、だが自分が愛妾になるなど微塵も感じていない相手に、ヨンジェはにこやかに答える。

「あなたは選ばれたのです」

北国の兵士から捕虜、それから愛妾になるのは、立場の変遷が大きく戸惑いも大きいだろうが、他の誰でもない、この国の未来そのものである世子、ジニョン様に選ばれたのだ。その喜びと、幸福を感じてもらいたい。決して悪い立場ではない。
僕があなたのために、気持ちよく抱かれる方法を教えてあげようと思う。

「ジェボムさん、僕が教えて差し上げます。力を抜いて、身を任せてください」



End.

わたしの中のわたし ~ヨンジェ編(番外編その1)

最後まで読んでくださってありがとうございます。
「わたしの中のわたし」というお話の本編は、ジニョンくんとジェボムくんのお話です。一番最後で名前が出てきますね。本編ではヨンジェは脇役なのですが、裏設定というか生い立ちに関しても、本編では割とキーになるんじゃないかと思っておりまして、ここで先に明かしておきます。
まえがきでも書きましたが、本編の方はいつになるかまだ分かりませんが、書いている途中ですので、期待せず気長にお待ちいただけたらと思います。

わたしの中のわたし ~ヨンジェ編(番外編その1)

GOT7、ジニョンくんとヨンジェくんのお話。BL、FF、妄想小説。

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更新日
登録日 2020-11-19

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