琥珀色した海に漂う熱帯魚-1-
その日は、いつもと違った朝だった。
何が違うのか、と聞かれると、明確な言葉は出てこない。だけど、確かにその朝はいつもの朝と違っていたのだ。
「おはよう、和也君」
「あ、おっはよ~!」
自転車でいつもの通勤ルートを通れば、事務所近くにお店を構えるおばちゃんに声をかけられる。
これは、いつもと変わらぬ朝の風景だ。
鼻歌を歌いながら、朝の空気を吸い込みながら、見慣れた街並みを走り抜けていた和也は、フトある場所で自転車のブレーキをかけた。
「・・・あれ?」
立ち止まったのは、先ほどのお店から3軒先。首をかしげ、和也はそれを見上げた。
「・・・カフェ・・・ピス・・・チェス・・・?」
店先に置かれた看板に書かれていた文字は『Cafe Pisces』。昨日までは、なかったものだ。
新しくオープンした店なのだろう。メニュー等がないが、カフェというからには、コーヒーや紅茶、軽食を扱っているのだろう。
「ま、いっか・・・」
たいして気にもせず、そのまま自転車を走らせようとしたとき、いきなり店の陰から人影が飛び出してきた。
「うわぁ!!」
「キャ・・・!!!」
避けようとハンドルを動かすが、間に合わず・・・和也は彼女と激突してしまった。
「イッテェ・・・!」
「だ・・・大丈夫ですか!!?」
「う・・・ん・・・」
駆け寄ってきた女性は、自分も痛いだろうに、慌てて和也に声をかけてきた。
「あぁ・・・! どうしよう!! ちょっと待っててください、救急箱・・・」
「いえ! 大丈夫です! あの・・・たいしたことない・・・」
「でも・・・!!」
心配そうな表情の彼女が視界に飛び込んでくる。その瞬間・・・和也は言葉を失った。
「・・・あの・・・?」
なんだろう、これは。なんとも言えない感情が和也の心を支配する。心配そうな表情のまま、彼女が和也の顔を覗き込んできて・・・。
途端に、カァ~・・・と顔が熱くなるのを感じ、慌ててバッと立ち上がった。
「だ・・・大丈夫なんでっ! その・・・し、心配しないでくださいっ!」
「でも・・・」
「そ、それより・・・あなたの方が・・・! うわっ!! 肘! すりむいてる!!!」
「え? あ・・・ホントだ・・・」
「ど、どうしよう! オレがケガさせちゃったのに、オレが心配かけちゃってるし! あ~! オレ、マジで最悪!! 最低だよ!」
「・・・・・・」
「どうしよう・・・どうしよう・・・あぁ~!!」
「・・・・・・」
あまりにも大げさにパニックを起こす和也の様子に、彼女は目を丸くして・・・。
「あの! オレの事務所、すぐそこなんで! お手当てします!」
「いえ、大丈夫です。私のお店、そこですし・・・」
「え? あ・・・このカフェ?」
視線を店に向け、彼女に視線を戻せば、ニッコリ微笑んで彼女がうなずいた。
「じゃ・・・じゃあ、オレ、コーヒー! コーヒー飲んでいきます!」
「え・・・ありがとうございます」
少しだけ、時間大丈夫かな?という考えが過ぎったが、今さら断ることもできない。
倒れた自転車を起こし、店の前に停め、和也は彼女の後に続いて店に入った。
「・・・へぇ~」
店内をグルリと見回す。お世辞にも広いとは言えない。カウンター席が5つと、テーブル席が3つしかない。
「一人でやってんの?」
「はい」
「そうなんだ・・・。大変だね」
「まだ今日オープンだから大変かどうかは、わからないけどね」
「あ、そっか・・・」
キョロキョロと店内を見回し、明らかに様子のおかしい和也。だが、彼女はオープンしたてのお店がめずらしいのだろう、程度にしか思わなかった。
「どうぞ」
「わ・・・いただき・・・」
「こぉらぁ!! 黄月っ!!!」
「ブッ!!!」
いざ、コーヒーをいただこう・・・としたその瞬間、いきなり背中から聞こえてきた怒鳴り声。和也は思わず口に含んだコーヒーを吐き出しかかった。
「ったく! いつまで経っても出社しないと思ったら、こんなところで何遊んでんのよっ!!!」
「・・・サリーちゃん、おはよ」
「“おはよ”じゃないわよっ! 所長が呆れてたわよ! あんた、サボリグセがありすぎんのよ! つーか、朝っぱらから・・・!!」
「サリーちゃん、ここお店・・・」
和也の言葉に、ようやく新手の女が落ち着いたようだ。
いきなり店に入ってきて、ギャンギャン喚いた女に、彼女は目を丸くしていて・・・。
「あら、ごめんなさい・・・。八百屋のウタコさんが黄月がここに入って行った、って教えてくれたもんだから」
「ハァ・・・」
「いいにおいね~。あたしにもコーヒー1つください」
「はい、ありがとうございます」
さっきまでの騒動はどこへやら。落ち着いた様子で何事もなかったように席に着いた。
「あのね!」
「はい?」
和也が声をかけると、カウンターの向こうにいた彼女が顔をあげた。
「オレ、黄月。黄月 和也」
「はい」
「お名前、なんていうんですか?」
「・・・二宮 奈月です」
「奈月ちゃん・・・」
ポー・・・とした表情を浮かべる和也に、傍らに座っていた女がオホン!と咳払い。
「なぁにポーっとしてんのよっ! まったく・・・。所長が怒ってたって言って・・・」
「黄月君、サリちゃん・・・! 2人とも、何やってんの!」
「あ・・・」
「所長!」
そこへ新たにやって来る男性。オープン早々にぎやかだ。
「サリちゃんが黄月君を探しに行ったはずなのに、なかなか戻ってこないんだもんなぁ」
「ごめんなさい・・・。でも、聞いてくださいよ、所長! 黄月君ってば、仕事も来ないでここで油売ってたんですよ! しかも、ナンパまでして!」
「まあまあ、黄月君がナンパするなんて、めずらしいこともあるもんだね」
コーヒーを淹れながら、奈月は出来るだけ聞いていないフリをした。にぎやかなこの3人は、もしかしなくても会社の同僚なのだろう。
「いやぁ・・・でも、事務所の近くにこんなオシャレなカフェが出来たんだね。お姉さん、うお座なの?」
「はい」
「え? 所長、なんでわかったの??」
「店の名前だよ。カフェ・ピスケス」
「・・・ピスケス? ピスケスって何??」
「「「・・・・・・」」」
「ん?」
一同の視線がジーッと和也に向けられ・・・サリがハァ~とため息をついた。
「黄月君って、本当に大学出てるわけ?」
「え? なんで??」
「ピスケスの意味も知らないなんて・・・ハァ・・・」
「知るわけないじゃん。そんなの。あ! それより!! 奈月ちゃんもうお座なんだね! オレもうお座!」
パァ!と表情を明るくし、奈月に詰め寄るように身を乗り出す和也。奈月は体を引かせ「そ、そうですか・・・」と苦笑い。
「・・・黄月君、彼女引いてる」
「ねぇねぇ! 誕生日いつ?? オレはね、3月の10日! うお座のO型ね!」
「聞けよ、人の話」
和也とサリのやり取りに、所長が笑いをこらえ、奈月は心底困った表情だ。
「黄月君、さては一目惚れしたな?」
「え・・・」
所長に図星を指され、和也は言葉に詰まり・・・照れくさそうに視線を落とす。その和也の隣で、サリが明らかに不貞腐れたような表情だ。
「コーヒー3つ、どうぞ」
「あ・・・」
その空気を壊すかのように、奈月がコーヒーを3つカウンターテーブルに置いた。
「あ・・・おいしい~!」
「本当ですか? ありがとうございます」
「うん、香りもいいね」
「ありがとうございます」
サリと所長が言葉をかけ、和也も一口。
「あ、うまい」
ボソッとつぶやかれた言葉。チラッと和也が視線を上げれば、奈月もこちらを見ていて・・・ニッコリ微笑まれ、和也は思わず視線を落とした。
「皆さんの事務所はここから近いんですか?」
「うん。ここから歩いて5分もないところよ」
「へぇ・・・。じゃあご近所さんですね。今日から、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる彼女に、3人も頭を下げた。悪い子ではない。というか、確実に和也は彼女が気に入っている。というか、一目惚れだ。
「さて・・・! じゃあ、おいしいコーヒーもいただいたことだし、今日も一日がんばって仕事しますか!」
「はい!」
「・・・調子いいんだから」
所長の言葉に、和也が元気よく答え、サリが呆れた・・・というように、肩をすくめた。
店を出ようとしたが、和也は奈月を振り返った。
カウンターの向こうにいた奈月が、和也と視線がぶつかり、ニコッと微笑んだ。
「・・・!!」
和也には、それだけで十分だった。
今の笑顔だけで、十分に奈月に恋することができる。
これはけして、ふざけ半分なんかじゃない。本気の恋なのだ。
「また、来てくださいね」
「はい! もちろん! 毎朝だって通います!! 奈月ちゃんに会うためにっ!!」
「・・・はぁ」
「黄月君、彼女、迷惑してるから」
手を握り締めそうな勢いの和也。完全に奈月は引いている。
だが、恋する乙女・・・ではなく、男にはそんなことは関係ない。けして、和也に悪気はない。彼は一生懸命なだけなのだから。
「ほらほら、行くよ、2人とも」
「は~い!」
所長に再び声をかけられ、和也は笑顔で奈月に手を振って店を出て行った。
「・・・なんだか、ものすごい所に来ちゃったみたい?」
嵐が過ぎ去ったあとのように、カフェ・ピスケスには静寂が訪れていた。
琥珀色した海に漂う熱帯魚-1-