王平伝②
時は西暦218年。定軍山は陥落し、王平は劉備軍の捕虜となる。そこで句扶と再会した王平は、また軍人としての道を歩み出す。
人物紹介
魏延(ぎえん)・・・劉備軍漢中都督。豪胆な性格の男。
諸葛亮(しょかつりょう)・・・蜀の宰相。魏討伐の志を劉備から受け継ぐ。
蔣琬(しょうえん)・・・蜀の文官。酒と女が好きな能吏。
費禕(ひい)・・・蜀の文官で、蔣琬の友人。ばくち好き。
馬謖(ばしょく)・・・諸葛亮の右腕。蜀の未来の宰相と目される男。
張達(ちょうたつ)・・・張飛軍の一兵士。兄弟を張飛に殺される。
范彊(はんきょう)・・・張飛軍の一兵士。張達の同僚。同じく兄弟を張飛に殺される。
1.王訓誕生
ないはずの左腕が、焼けるように痛い。王双が行く道の背後で、真っ赤な夕日が山の谷間に落ちて行こうとしている。黒々とした木々の影が、前方に向かって長く不気味に伸びている。辟邪隊の向かった陣では将軍が討ち取られ、辟邪隊の行方もわからなくなっていた。恐らく、そこで全滅させられたのだろう。
負けて、失った。辟邪隊も、左腕も、隊長殿も全て失った。あるのは、身につけている具足の下に着ていたぼろ切れのみである。定軍山は陥落し、その至る所に劉の旗が翻っている。
魏軍敗残兵は東の漢中の陣へと向かっているのだろうが、王双はもう戦場に戻る気はなかった。妹の夫を守ることができなかった。気づいた時には既に王双がいた陣にも混乱が波及しており、そこから脱出することで精一杯だったのだ。漢川のほとりに顔を突っ込み、水を飲んだ。陣中で飲んでいた水に比べればうまいようでもあり、どこか苦々しくもあった。水を飲むとその場に座り込んだ。敗残兵狩りの眼を避けるために具足は捨てておいたが、いつ襲われるとも知れなかった。来るなら来い。そう思ってしばらくそこに佇んでいたが、誰も来なかった。いっそここで見つかり、殺された方が楽なのかもしれない。ここから洛陽までの長い道のりが、限りなく長いように感じられた。殺されてしまいたいと思っても、敗残兵狩りの兵はおろかその川辺に訪れる者は誰一人としていない。
数日間、洛陽に向かって歩いた。帰れるということが、嬉しいことだとは思えなかった。王平のことを妹にどう話せばいいのだ。それに辟邪隊の仲間達はもういない。洛陽に帰ったところで、そこに俺がいる場所があるのか。
何が辟邪だ。何が守り神だ。壊滅させられた今となってはただの負け犬ではないか。そして自分だけが生き残った。一人で静かな街道を歩いていると、耳の奥で部下達が倒れていく声が聞こえる気がした。王双はその度にその場にしゃがみこみ、耳を押さえてその声が去るのを待った。
こんな時になっても、歩くと腹は減った。兎を二羽も捕って近くの農家に持っていくと喜ばれ、代わりに王双は少しの粥とその日の寝床を頼んだ。貧困そうな農家でも家族が揃っているところは一人一人に元気があるように見えた。こんな家族を、妹にも持たせてやりたかった。厳しくも優しい王平は、妹の夫にぴったりだと思えた。子供が生まれると聞いた時は、それは自分のことかのように嬉しくなった。しかし、その王平はもういない。左腕が無いからなんだ。命をかけてでも王平のことを守り、自分が代わりに死ぬべきではなかったのか。そう思っても仕方のないことだった。仕方がなかったとしても、仕方がないという言葉で済ませたくなかった。
洛陽の城壁が見えてきた。相変わらず門の脇には、前と変わらない二頭の辟邪ずっしりと構えている。唾を吐きかけてやりたかった。何の力もない辟邪ではないか。
久しぶりの我が家の戸は、とても重く感じられた。ぼろ切れ一枚を纏って一人で帰ってきた王双を見て、妹は全てを悟ったようだった。腹を大きくした妹は顔を赤くさせて、兄さんだけでも帰ってきてくれて嬉しいと言ってくれた。その言葉は、王双には痛々しいものにしか感じることができなかった。
戦のことについては、何も聞かれはしなかった。ただ疲れを労う言葉を、繰り返しかけてくるだけだった。定軍山から洛陽への道中に世話になったいくつかの農家とは違い、王双の家は誰も住んでいないのかと思える程に静かだった。
「心配するな、歓。隊長殿はきっとどこかで生きている」
気休めに過ぎない。妹もそれを分かっているのか、固い笑顔をつくって頷くだけだった。
それから静かな日々が続いた。一日に交わす言葉は、残された腕の指で数えることができるくらいに、静かだった。明るい内は山野に出て、口に糊するため獣を捕って洛陽の商人に雀の涙をどの値で買い取ってもらった。妹とその子のためとはいえ、王双には自分がしていることの全てが空しく感じられた。
家に帰ると歓は壁に向かって何かをぶつぶつと呟いており、声をかけるとはっとしてこちらを振り向き、また固い笑顔をつくって見せた。
何とかしなくては。王双はこんな時に何もできない自分の武骨さを呪った。何か、気の利いたことはないか。ふと王双は、歓が昔、王平と川に葉の舟を浮かべていた時のことを思い出した。
「そうだ、歓。隊長殿が言っていたんだがな、隊長殿は木の葉で船を作るのが得意だったろう? その葉の船に願い事を書いて流すと、その願い事は叶うって言ってたぞ」
「本当?」
嘘である。
「本当だとも。明日から、葉の船を作って流そう。俺は作り方を知らないから、歓が教えてくれ」
「うん、わかった」
その力無い顔に、少し笑顔が戻った気がした。いつもの固い笑顔でなく、本当の笑顔である。腹が膨れた妹の代わりに、なるべく大きな葉を探して家に持って帰った。願い事は妹が書いた。何枚も、何枚も書いた。山ほど作った葉の船を籠に入れ、二人で川へと持って行った。それを、一つずつ流した。自分の作った船は妹の作ったそれと比べ、長くは浮かんでいられなかった。一つだけ、いつまでも浮かんでいる船があった。妹は、手に力を込めてじっとその船を見つめていた。帰ってくるかな。船が見えなくなると、小さくそう呟いたのが悲しかった
だが王平は、いつまでも戻ってくることはなかった。
歓の腹はどんどん大きくなるが食は日に日に細くなり、腹はどんどん大きくなるが、頬は目に見えて削げ落ちてきた。王双が何を買ってきても王歓は食おうとせず、食べろと強く言うことで、ようやく口に運んだ。することがない時は、狂ったように黙々と葉に願い事を書き続け、舟をつくって川に流した。そんな妹の姿は、見ていてとても辛かった。
臨月がきた。妹の顔は、悲愴なまでに痩せこけていた。こんな体で出産して大丈夫か。王双は心配になったが、できることなど何もなかった。産気づき始めると、近所に住む老婆に頼んで出産を手伝ってもらった。家の外に苦痛に耐える妹の声がしばらく聞こえ続けた。やがて、苦しみの声が産声に変わった。男子だった。王平と王歓の子であり、自分の甥だ。よくがんばった。そう声をかけたが、王歓は目を閉じたままだった。
「どうしたのだ、歓。元気な男子だぞ。お前と、隊長殿の子だ」
言うと、歓は薄く眼を開けた。
「今までありがとう、兄さん」
そして、また眼を閉じた。
「おい、何を言っている。俺は何も礼を言われるようなことなどないぞ」
「私は、もうだめみたい」
その声は怖いほどにか細かった。
「馬鹿を言うな。これからお前は、この子を育てていくんじゃないのか。親父の代わりなら、俺がしてやる。だから、そんなことは言わないでくれ」
「名は、『訓』として。川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますようにと」
すっと、妹の顔から生の色が消えていった。隣にいた老婆が王双の手を取り、悲しみの顔を横に振った。王双はその手を全力で振り払った。
「歓、歓、頼むから目を覚ましてくれ。お前まで俺のことを独りにしようと言うのか」
しかしその言葉に帰ってくる言葉はもうなかった。苦しみから逃れられる喜びか、子を生したという充足感からか、妹のもう覚めることのない寝顔は安らかであった。生まれたばかりの王訓が、大きな声で泣いていた。王双はもう動かないその体を抱き締めながら、それよりも大きな声で泣いた。
2.漢中での労役
そこでは多くの人が働いていた。崖に穴を穿ってそこに木材をはめ込み、渡しを造っていく。この渡しが、後に蜀軍が北へと進攻するための足がかりとなるのだ。王平もそこでの労役者として、頼りない縄に身をまかせて岩壁にしがみついていた。それは自分の情けない命にしがみついているようであった。このまま谷底に落ちてしまえば楽になれるのだろうか。幾度そう思おうともそうはならず、生きていた。洛陽にあるべき自分の生活がいずれまた来るのだと本気で考える時もあるのだ。
二年間の労役だった。定軍山で捕らわれた兵はこの仕事を課せられ、期日が来れば劉備軍に兵として組み入れられるのだという。始めは永遠とも感じられた二年間だったが、今ではもうその半分以上が過ぎていた。その間に周りで死んでいった者達は少なくない。足を滑らせて体を結ぶ縄が切れて谷底に落ちていく者が第一に多く、重労働で体を壊してそのまま死んでいく者もいた。わずかな食料を奪い合って殺し合う者もいる。
死んでいく者が、羨ましく思えた。少しの恐怖や苦しみと引き換えに、あらゆる煩雑とした苦悩から解放されることができるのだ。死ぬ者を目の当たりにする度、また俺ではなかった、と思った。生きることに執着してはいない。単純に、死ぬ瞬間が恐いだけなのだ。こんな俺でも飯を食えばうまいと思うし、女を目にすれば体の内から猛るものが湧き上がる。自分は何なのだ。浅ましい、獣のようなものではないか。
定軍山で死んだと思ったが、生きていた。気を失う直前に見た顔はやはり句扶だったのだ。夏侯栄は殺され、辟邪隊は全滅させられた。王双も恐らく定軍山の陣で死んだのだろう。洛陽の妻の元へと返してやれるものは、結局何一つなかった。ただ自分の身一つがおめおめとここで生きながらえている。
眼を覚ますと獄につながれていて、こうして王平も漢中から北へと伸びる足場の工事に参加させられることとなったのだった。ここで自分だけ悠々と生き延びて、王双に、夏侯栄に、そして王歓にどのような顔向けができるというのだ。ただ黙然と自分の身を危険に晒しながら橋を造る。それがもう会えなくなった仲間達への償いなのか。
労役中、今日も遠くで誰かが落ちていく声が聞こえた。そしてそれは、また自分ではなかった。そう考えていると、突然自分を吊るす縄が音を立てて切れた。王平は咄嗟に縄を掴んで落下から免れた。それは自分の意思ではなく体が反射的に動いたのだ。そんなものなのだろう、と王平は思った。
そこで、周りの誰とも仲良くする気はなかった。夕飯時にもなると火を囲んだ労役者が至る所で騒いでいたが、それは王平にとっては煩わしいものでしかない。洛陽へは戻れず、仲間は死に、このような辺境の地で橋を造らされ、楽しいことなど一つもありはしないのだ。もう生まれているはずの子と妻の歓。二人のことを考えると、身が捩れるほどに叫び狂いたくなり、己の無力さと呪った。それでも、生きていれば必ず戻れると自分に何度も言い聞かせた。それと同時に、死んでしまえば楽になれるという思いも湧いてくるのだ。
仕事は黙々としてやった。この橋の完成が一刻でも早まれば、自分が洛陽へと帰れる可能性が少しでも高まるかもしれないからだ。危険な仕事も進んでやった。何かの拍子で死んでしまえば、それはそれでいいと思えたからだ。ある日、そんな態度が上の者から評価されたのか、足場づくりから穀倉番へと仕事場が移された。
穀倉番の仕事は橋を造る作業に比べれば幾分も楽であり、真面目に働けば楽な仕事へ回してやるぞという労働者に見せつける意図もあるようだった。非番の日には漢中の街にできた軍市に出かけることも許された。だが楽な仕事である分、嫌なことを思い出して考え込んでしまう時間も多くなった。今では、兵糧庫で張嶷と出会ったばかりの頃が胸に痛いほど懐かしく感じられる。
「おい。いつも暗い顔しているお前、ちょっとこい」
そんな自分を見かねたのか、そこでの先輩が声をかけてきた。
「いいもんがあるんだ。今晩、少しつきあえよ」
それが何のことかは分からなかった。人と関わるのは極力避けてきた王平だったが断るのも悪いと思い、日が暮れるとその先輩のところに出向いた。その幕舎の中は、嗅ぎ慣れない不思議な香りが籠っていた。
「おう、きたか」
中では目を赤くさせた先輩が、竹細工を手に半笑いで王平を出迎えた。
「用とは、何ですか」
「昨日な、橋を造ってる奴等の中で麻を隠し持ってたのがいてな。そいつは捕縛されて、押収されたものがここに保管されてるんだ。それをちょっとばかり拝借させてもらったってわけよ」
麻は官営に指定されている植物である。その用途は麻沸散という麻酔薬の原料として使われ、勝手に採取して使用すれば罪に問われることとなる。王平は麻のことより過去に張嶷が言っていた男色家のことを思い出し、この男にその心配はないと知って胸を撫で下ろした。
「しかし、これを勝手に使っては」
「固いことは言いっこなしだぜ。こんな寂しい所じゃ、これでもやってなきゃ死んじまう」
と、竹の筒を渡された。筒の先に麻の塊を詰め、言われるままにそこに火を点けて吸った。王平は喉に痛みを感じてむせ込んだ。辺りに、独特の匂いが広がった。
不思議な感覚だった。いつも通りであるはずの自分が、自分でなくなっていく。それが怖くもあり心地よくもある。
「なんだお前、これをやるのは初めてか。なに、すぐに慣れるさ」
その次の日も、そこに呼ばれて二人で吸った。はじめは慣れなかった麻だったが、吸うにつれて何が気持ち良いのかが分かってきた。麻がもたらしてくれる心地よさは、色々な悩みを忘れさせてくれた。
休みの日には二人で街に出かけ、物影に隠れて麻を吸い、道端で女を買った。王歓以外の女を抱くのは初めてだった。それも、自分を売ることでその日を凌いでいる小汚い女の体だ。しかし女なら誰でもよかった。他の女を抱くという歓に対する罪悪感も、麻が忘れさせてくれた。事が終わるとその場に座り、女に金を渡して青空の下に寝転んだ。自然と、頬に涙がこぼれてきた。自分は何をしているのだ。こんなことで辛さを紛らわしている自分が情けなく、歯がゆい。こうやって人は堕落していくのか。体の芯から湧き上がってくる黒々としたものに王平は頭を抱え込まされ、身悶えた。しかしどうすることもできなくて、さっき飛び散らせた己の精すらも憎悪した。
それからすぐ、王平に麻をくれていた者が捕縛された。先日買った女が僅かな恩賞を目当てに麻のことを密告したのだ。それに対して何も驚きはしなかった。ああ、俺も捕縛され、死ぬのか。そう思っただけだ。すぐに王平のところにも兵がやってきて、手に縄をかけられ役所まで連れて行かれた。自分は死罪となるのだろうか。殺されるのは怖いが、別に嫌ではない。
目の前に出てきたのは王双くらい体のでかい男だった。肩から隆々とした筋肉をむき出したその男は、王平の姿を見ると熊のような顔をぐっと近づけて耳打ちをした。
「死にたくなけりゃ、知りませんとだけ言っておけ」
その息は臭かった。
「よいか? 分かったら返事しろ」
「は、はい」
何だか分からないまま、王平は返事をした。
その大男の後をついていくと、広場に首が一つ晒されていた。麻をくれていたその人の首であった。役人らしき数人が並んでその中心に大男が立ち、手に縄をかけられたまま王平は地面に座らされた。
「その者は、自分が管理すべきものを横領した罪で斬首に処された。お前もそれに関わっていたか」
「知りません」
言われた通りに答えた。
「ある女がお前が麻を吸っているところを見たと言っている。心当たりはあるか」
「知りません」
「そうか、なら行ってよし」
手から縄が解かれた。そして周囲は何事もなかったかのように動き始め、衛兵に早く行けと促された。帰ろうとしていると、さっきの大男がやってきてこっちに手招きをしている。
「今日のことは、言うんじゃねえぞ」
と、大男がまた臭い息を吐きながら耳打ちしてきた。
「助けていただいて、有難う御座います」
「ふん、こんなところで働かされてりゃ麻の一つでも吸いたくなるだろう。だが一応ここにも規律があるからあいつの首は斬った。だがな、本当は一つの首だって斬りたくねえんだ」
そう言って大男はその場に座ったので、王平も座った。
「お前、山岳民族だろう」
「混血ですが」
「そうか。じゃあ南に成都って街があるのは分かるだろ? 今度な、そこから役人の親玉が漢中を視察しに来るのよ。規律が乱れていりゃ、俺の首が斬られちまう」
「はい」
「あの首の持ち主には悪いが、俺だって斬られたくねえからな。しかしお前は肝が据わっているな。縄につながれて連れてこられただけで小便漏らす奴もいるってのに」
息は臭かったが、嫌な感じがする男ではなかった。王双の時もそうだが、自分はこんな感じの男と縁があるのかもしれない。
「俺はな、ここでの将軍よ」
大男は自慢げに鼻を鳴らして言った。
「俺の兵になれよ。お前の胆力はなかなかのものだ。俺は、お前のような兵が欲しい」
返事はせず、ただ笑ってみせた。そんな反応が、この男は嫌いではないらしい。大きな手が、王平の背を叩いた。
「字は、読めるか?」
「いいえ、読めません」
「俺も大して読めないがな、こうやって人の上で働かせてもらっている。劉備軍はなかなかいいところだぞ。俺のような無学者でもな、頑張れば引き立ててもらえる。名前は王平っていったかな」
「はい」
「俺は魏延という。ここで困ったことがあれば俺のところに言ってきな」
それから二人はしばらく話した。魏延が一方的に喋り、王平はそれに相槌をうちながら聞くという具合であった。
「よし、じゃあお前は今日から俺の兵の一人だ。後で誰かに呼びに行かせるから、それまで穀倉で番をしていてくれ。それとな、麻はもうやめておけ。やるなら酒だけにしときな。いいな?」
「わかりました」
頷くと、魏延は満足そうな笑みを浮かべて大きな背を向けそこを後にした。
また当然のように、自分に近い者が死んだ。そしてどうやら、自分はまだ死ねないらしい。それが果たして良いことなのかどうか、王平には分からなかった。晒された首を前にしてみた。見開かれたその眼はまばたきすることなくじっとこちらを見つめている。その苦痛に歪んだ顔が、王平の眼には羨ましく見えた。また遠くから、誰かが落ちていく声が聞こえた。
3-1.諸葛孔明①
漢中を制圧し、劉備軍は益州全土を手中にしたこととなった。それは、また自分の人生に一つ律するものを結びつけたのだ、と諸葛亮は感じていた、
ほんの数年前までは、荊州新野の田舎で土を耕していた。その地で高名だった司馬徽に師事し、時を忘れてあらゆる書物を読みふけった。特に戦について書かれた書が好きだった。燕の楽毅。この名将のことを語らせたら一晩中でも喋っていられる自身が今でもある。
ある時、司馬徽と楽毅のことについて口論となった。ある戦場において、籠城するべきか野戦をするべきかという、振り返って考えてみれば下らないことでの口論である。火牛計によって田単に敗れた楽毅には大局観がなかったという諸葛亮に対し、司馬徽はそういった奇計に敗れる時は華々しく敗れればいいのだという。
敗れていい戦などあるはずがない、考え直してほしい。諸葛亮はそう言った。しかし司馬徽はその考えを曲げなかった。そういった貴重な逸話が後世に残る、それでいいではないか。諸葛亮には、そんな考え方は受け入れられなかった。学問とはその場で楽しむものではなく、未来をつくっていくための道具であるべきなのだ。口論の末、つまらないことで言い争うことはやめようと言われ、完全に血が昇ってしまった。学問のあり方を論じることの、何がつまらないのだ。そう言い残し、その勢いで司馬徽の門下を抜けた。
そもそも不満は以前からあったのだ。知識があろうともそれを世のために生かそうとせず、田舎の片隅で仲間内だけで不毛な議論を繰り返す。そんな生ぬるい馴れ合いが嫌だったのだ。書を読む毎に戦場を頭に思い描き、自分ならこの時はこうする、こういう戦の時ならこう動く、ということをよく考えた。だがそんな話をしても自分の話に乗ってくれる者はおらず、ぞれどころか反論されることすらなく、ただ逃げるように薄ら笑いを返してくるだけだった。結局、与えられることしかできない者の集まりだったのだ。知識があろうとも毎日やることと言えば門下生達との井戸端会議。まるで女のようではないか。
門下生を辞めてから、食い扶持を得るために村の子供に学問を教えることにした。これは意外と面白かった。自分の知識を幼い者に与える。それは畑に種を植えていくことに似ていると思えた。だがそんな生活の中にいても、いつかは天下にこの知識を役に立てたいという想いは消えることなく、むしろそれは時が流れるにつれて徐々に膨らんでいっていた。
門下生の中で唯一話ができたのは、徐庶という者だけだった。特に仲が良かったというわけではないが、お互いに何か特別なものを感じていた。ものの考え方が同じだからというわけではなく、どこか周りに対して超然としているという意味で同種の人間だと感じていたのだ。
その徐庶が、何かを侮辱されて人を殺した。そして殺人の罪を負い、村から逃亡していった。村に住む者は徐庶のことを悪く言ったが、諸葛亮は密かに心の中で徐庶のことを喝采していた。いくら学問ができようと、例え生まれ育った地から追い出されようと男は自分への侮辱を許してはいけないのだ。それは、知識を装飾品のように思っている他の門下生達にはない人の美しさである。
知とは、力なのだ。憎める者と対した時、その者を打ち砕こうとする気概のないものが知を得たところでそれが何になるというのだ。周りに見せびらかすだけの知なら、そんなものは無い方がいい。
それから何の沙汰もなかった徐庶だったが、一年程するとひょっこり顔を見せに来た。もちろん、役人にばれないようこっそりとだ。人があまり好きではない諸葛亮であったが、徐庶が身を潜める場所として自分の庵を選んで訪ねてきてくれたことは嬉しいことだった。そして徐庶は泊めてくれるお礼と言って、色々なことを話して聞かせてくれた。
北では袁家という名族を降した曹操が、北方民族と壮絶な騎馬戦を繰り広げていること。東ではまだ若い孫権が山越族を討伐し、長江を利用して交易を盛んにして国を富ませていること。西では五斗米道という宗教集団が国と呼べる程までに膨張し、益州の勢力と対立し始めたということ。諸葛亮には、その話のどれもが魅力的な話に聞こえた。まるで今まで読んで憧れていた書の中だけの世界が、目の前にまで迫ってきているようではないか。
それからもしばしば、徐庶は新野に帰ってくると諸葛亮の庵へ遊びに来た。どこかに仕官するとしたらどこか、という話を会う度にした。栄達を望むということではなく、己の力を活かせる場所を得る、という意味での仕官だ。そういう場所を見つけることは容易なことではない、と徐庶は言った。北には人が多くて人材に欠くことはなく、地元荊州の主、劉表は民政をよくやるが明らかに乱世向きの男ではない。益州の劉璋も同じ理由で魅力がないらしい。強いて仕官したい所といえば東の孫権なのだが、揚州は一勢力というより幾つもの小さな国が集まった連合体という色が強い。孫権はどこの馬の骨とも知らぬ者より身内を大事にするだろうと思えた。宗教が武力を持った漢中の五斗米道などは鼻から眼中にない。一昔前、宗教の集団性を利用した黄巾党は闇雲に人を集めて反乱を起こしたが、より数の少ない戦を知る者に潰された。それに黄巾党という戦を知らない弱者は、さらに弱い者を見つけ出し、奪おうとするだけだった。諸葛亮の家族も、その弱い黄巾党によって奪われ、殺された。そう考えると、五斗米道軍と小競り合いを繰り返している劉璋の益州軍に参陣して手柄を狙ってみるのは面白いかもしれないと思えた。
教師を辞めて徐庶と一緒に諸国を放浪してみよう、と心に決めた。自分はもう二十四であり、もうすぐ人生の半分を終えることとなるのだ。書見だけでなく、実際に色々なものを見ておきたかった。そうしている内に、どこかで人の縁も生まれるだろう。
徐庶が仕官先を決めたのは、諸葛亮がそう決心した矢先のことだった。主は、劉備。劉表の食客として新野に駐在している人物だと名だけは聞いたことあるが、徐庶ともあろう者が何故そんな小さな所に仕官しようと思ったのか、諸葛亮にとって謎だった。
「何が君の心を動かしたというのだ?」
訪ねてきた徐庶に酒を注いでやりながら聞いた。
「馬鹿なのだ、たった数千の兵で、中華全土を制覇して漢王室を復興させることを夢見ている。あの人は形の上では官職をもらっているからそう言っているのかと思ったのだが、無関心な顔をする俺の前で、漢王室の大切さを涙も鼻水も流しながら切々と説くんだ。俺にとっちゃ漢王室なんてどうでもいいが、こんな人の下で働けば面白いかなって思ったんだよ。あの時の顔は思い出しただけでも吹いてしまう。お前にも見せてやりたいほどだ」
徐庶はにやにやしながら、旨そうに酒を流しこんだ。
「劉備といえばもう中年の男だろう。それが子供のようではないか」
諸葛亮にはいまいち理解できなかった。そんなものでいいのか、と。
「そうだ。普段は中年のおっさんらしく礼儀正しいし、謙虚でもある。それが俺の前で漢王室のことを話すとなると、子供のようにはしゃぎ、泣くのだ。思い返してみればそれも俺の気を引こうとする演技だったのかもしれないが、あれくらいの演技ができる男なんてそうそういないし、そこまでして俺が欲しいというのならくれてやってもいいという気もする」
「お前がそこまで言うか」
「働くのなら、生真面目な奴の下より、そんな馬鹿みたいな人の方が面白いんじゃないか。例えば北で仕事を得て、無言の中で功を奪い合うような人生を送るよりはずっとましだと思うぜ」
「しかし、現実を見ればもうすぐ南下してくる曹操に潰されるんじゃないか?」
「俺がそれを救ってやるんだ。劉備軍には武勇に長けた将はいるが、知を武器とする者がいない。俺が、その役を受け持ってやる」
そして夜更けまで、劉備軍内のことと、劉備軍が取るべき今後の戦略について語り明かした。そして明け方になってからようやく眠り、夕刻に起きると徐庶は劉備の元へと帰って行った。あんなに嬉しそうな徐庶は初めてだった。人のことをこれほど褒めたことも見たことがなかった。
そして主を見つけた徐庶を羨んだ。徐庶と比べれば自分には何もない。知識を装飾のようにしている者達の前で、知とは何だと散々言っていたが、自分はその知識を何に生かすこともなくこの田舎で老いていくだけなのか。
徐庶を軍師とした劉備軍が、その倍である曹操軍を討ち払ったという報を聞いたのはそれからすぐだった。曹操軍の八門金鎖の陣を、徐庶の策が破ったのだという。この陣については徐庶と何度か話合ったことがある。もしそこにいたのが徐庶ではなく自分であれば、曹操軍を追い返していたのは自分だったのだろう。それは昔から夢に見ていた、自分の最高の働きの場でもある。だがそんなことは、考えても仕方のないことだった。劉備軍の軍師は徐庶であり、自分はただ晴耕雨読をこなすことだけが取り柄の一人の匹夫に過ぎない。
ここでの生活が嫌いなわけではない。書見は好きだし、子供も好きだ。しかしそれは、自分が本当にやりたいことではない。世にでたい。そしてできれば、その中心に立ちたい。
3-2.諸葛孔明②
その人は、二人の供を連れて待っていた。勉強を終えて帰ろうとする子供が、それを教えてくれたのだ。ずっと来るのを待っていたが、その唐突さに諸葛亮は驚いた。来るのなら、使いの一人でもよこしてから来るのが普通ではないか。
「ここは良いところですね。帰って行く子供達が、本当にいい笑顔をしていた」
名乗り合うことはなかった。それも非常識なことであった。しかし名を言わずとも、お互いに誰だかもう知っているのだ。その人は、不思議と初めて会うという気がせず、以前から知っている友のように思えた。その容貌は確かに初老の男そのままだが、どこかに力漲る幼さを残していた。その見え隠れする幼さが、諸葛亮の興味をそそった。
来る前に行ってくれれば、などというつまらないことを言うのはよすことにした。ただ相手の笑みに笑みで答え、その来訪をただそうやって歓迎した。
「いきなり来てしまって、お邪魔ではありませんでしたかな」
「お邪魔などと、とんでもない」
供の二人にも中に入るようにと勧めたが、自分達は外でいいと断られた。諸葛亮はその初老の男だけを中に招き入れ、囲炉裏に火を入れた。
不思議な雰囲気を纏っていた。自分のことを知りに来たのだろうがそうは見えず、その様子はまるで友人がちょっと遊びに来たという感じであった。しばらく言葉なく湯を啜った。緊張感が言葉を失わせているのではない。むしろ生ぬるい湯にでも浸かっているくらいに心地よい。
「徐庶が、私のことを言っていたようで」
先に口を開いた。
「臥竜と言っていました。水鏡先生も、同じようなことを。だから会ってみたくなりました」
「お恥ずかしい限りです。私は知識を頭の中に貯め込むばかりで、十分世の中の役に立とうとする努力すらしていない」
「そんなことはないでしょう。子供達に物事を教えるということは、世の中に立っていると言えるでしょう。それと、表の畑もよく手入れされている」
「子供に教えることと、作物を育てることは似ています。そういう生活が、私は好きでして」
「良い暮らしだと思います。私も昔は、母と一緒に筵を織って暮らしていました。今は私を慕ってくれる者がたくさんいてくれますが、そんな中で昔の穏やかな暮らしが懐かしく思えることがあります」
「それでは何故、昔の暮らしをお捨てになったのですか?」
は、は、は、と劉備は笑った。
「私も男だったということです。そして若かった。世の中に出て、羽ばたきたいと思ったのですよ。徐庶を見ていると、昔の自分を見ているようで微笑ましくなりますよ」
「分かる気がします。人とは手元にないものに憧れをもつものなのでしょう。しかし、本当に必要なものとは意外と身近にあるのかもしれないとも思えます」
「先生も、手元にないものに憧れるものなのですか?」
「それは、私も男ですから」
言いながら、諸葛亮は何となく顔を俯けた。
「それならどうして、どこかに仕官しようとしないのですか」
「どうしてでしょうか。それは自分でも考える時があります。確かに私は自分の知識に自信があります。自信があるだけに、傲慢になってしまっているのかもしれません」
「学を修めるとは、どういうことだとお考えでしょうか?」
「それは私のような若造なんかより、あなた様の方がよくお解りではないでしょうか」
「知識を無駄にひけらかそうという者は、世に五万といます。そんな者を見る度に、何故人は学を修めるのだろうかと考えさせられます」
「わかります。学を身につけることにより、まるで装飾品を身につけるように、学で自らを飾っている者はたくさんいます。全く下らないことだと思います。知とは道具のようなものであり、例えば畑を耕すための鍬、敵を倒すための剣や戟のようなものです。それは決して自らを大きく見せるためのものではなく、学とは道具そのものだと私は考えています。それは、自分の大切なものを守るための道具です。武人が剣の稽古をする如く、人は書を読むべきだと思います」
言って、諸葛亮は遠い昔のことを思い出した。忘れようとも忘れられない、自分の大切なものを守れなかったという記憶だ。目の前の男は、諸葛亮の眼をじっと見つめていた。その顔からは、既に笑顔が消えていた。
「さすがに、卓抜なお考えをお持ちでおられる。知は力で、剣を振ることと書見をすることは同じことだという発想はなかった。私には、学を積むということをどこかで軽んじているところがありました」
そう言い、皺が入り始めた初老の顔を苦笑させた。家臣になれ、という話になるかと思ったが、目の前の男は腰を上げた。
「厠ですか?」
「いや、そろそろ帰ろうかと思って」
拍子抜けした諸葛亮は、そうですか、と言って玄関まで送った。外では、供の二人が直立不動の姿勢で待っていた。
「どうもお邪魔しました」
「いえ、お邪魔などと」
そして三人は、それぞれの馬に乗った。
「また、遊びにきてもいいですか」
「それはもう、いつでも」
本当に行ってしまうのか。一体、この人は何しに来たのだ。そう思いながらも、見送る諸葛亮の心にはまだこの人には帰ってもらいたくないという気持ちがあった。
不思議な人だった。自分のことを登用しに来たのかと思ったが、少し世間話をしただけで帰ってしまった。あの人は、本当に劉備玄徳だったのだろうか。お互いに名乗ることもなく、囲炉裏の前に座って話し始めたのだ。家の中で一人になると、さっきまでここで会話していたことが夢の中の出来事だったように思えてきた。一緒に学を修めていた門下生との会話とは違った。そして、村人達と交わしていた会話とも違った。自分は、知ろうとされたのだろうか。あの男の態度こそは謙虚であったが、その言葉は自分のことを包んでくるようだった。なせ徐庶があの人に付いて行ったのか、諸葛亮にはわかる気がした。
また遊びに来ると言っていたが、彼はなかなか現れなかった。自分はあの時の会話で見限られてしまったのだろうか、としばしば思った。それならそれで仕方がない。あの人と自分は、縁がなかったということなのだろう。それでも気付けば、囲炉裏で話した時の情景が諸葛亮の頭に何度も甦った。
仕えるとは何なのか。主の益となることをして、それお相応のものを貰う。そういう関係を築くことかと思っていたが、それだけの関係ではないような気がしてきた。好きな男の下で働く。徐庶はそういうことに喜びを見出したのかもしれない。書を読んでいるだけでは、決して見つけることのできない喜びだ。
秋が過ぎ、冬がきた。収穫を終えた畑に糞尿と獣の骨を砕いたものを撒いて鍬を入れた。これを繰り返すことで、来年はまたここで野菜が育つ。
鍬を入れる腕を休めて一息つこうと顔を上げると、そこにいた。また予告もなく、前と同じく二人の供を連れ、馬上からこちらに笑顔で一礼していた。
「劉備様」
諸葛亮は思わず声を上げた。すぐに家の方へ案内し、手足を洗って囲炉裏に火を入れた。
「またお邪魔してしまいました」
「そのようなことはありません。次はいつ遊びに来てくれるのかと、心待ちにしておりました」
「土を耕しておられましたね。やはり私には、そういう生活が羨ましく思います」
「肥やしを撒いていたので、少し臭うかもしれませんが」
「構いませんよ。畑仕事のにおいは、嫌いではありません」
諸葛亮はここで育った野菜を切って串に刺し、囲炉裏に立てて焼いた。焼いた野菜に少し塩を振りかけて食う。酒も出そうとしたが、劉備はそれを断った。ただ遊びに来ただけではない、と言われたようだった。
「やはり劉備様は、部下に囲まれているよりこのような庶民の暮らしが良いと思われますか」
「私が部下に囲まれているのは、大義があるからです。しかしこの世のことを知っていけばいく程、自分が非力だということがよくわかる。私は今まで何人もの兵を殺しました。それも、大義のためと思えば割り切ることができる。しかしその大義を成せないのなら、このような生活に身を沈めておくべきだったのではないかと思うこともあるのです」
「そういう考え方は御立派だと思います。世に棲む人の上に立つ者は、当たり前のように、自分のために人を殺します。劉備様の大義については徐庶から聞いたことがあります。そのためには多くの人の力と命が必要なのでしょう。一人や二人でどうにかなるというものではないですから」
「一人の力でも、子供に教え、作物を育てることができる。そうやって一人できることが、多くの人が集まってできることと比べて劣っているとは私は思えません」
「それは、そもそも比べることなどできないものでしょう。そこに優劣などはないと思います」
「そこだ、諸葛亮先生。それでは何故、私はこうも漢王室にこだわってしまうのだろうか。何故、一人の筵織りではだめなのだろうか」
「それは前に言っていた通り、男だからでしょう。夢をでかく持ち、それを叶えようとするのが男です」
「先生から、そんな言葉が聞けるとは」
「私も男なのです。私が書を読むのは、その中にいる人が抱いた夢に接することで自分を満足させているのです。私には、実際に己の夢と接していられる徐庶や劉備様がとても羨ましく思えます」
「水鏡先生が、あなたのことを臥竜と言っていた理由がわかるような気がします。穏やかに見えて、実は心の中には猛々しいものをお持ちのようだ」
「お恥ずかしい限りです。私はつまらない理由で門下を抜けました。嫌われていたと思っていましたが、まさかそんな評価を受けているとは」
「牛や羊とは違い、竜とは誰にも飼い慣らせないものなのかもしれませんね」
「なるほど、そんな皮肉も込められていたのかもしれません」
言って、お互いに笑った。笑いながらも、その言葉にひっかかった。飼い慣らせない竜。それは、臣下として不適当だという意味ではないのか。
「見たところ、妻帯はしていないようで。好きな女などはいないのですか?」
意外なことを聞かれ、諸葛亮は戸惑った。
「女より、書が好きだという男です」
女の話は嫌いだった。どうしても、思い出したくないものを思い出してしまう。
「そうですか」
そう言って、もう冷たくなった野菜を食ってしまうと帰り支度を始めた。それを見て諸葛亮は寂しくなったが、庵から出て行く劉備と供の二人を丁重に見送った。
「次はいつ来て下さるのですか」
言ったその言葉は、自分でも驚く程に小さな声だった。劉備は何かと聞き返してきたが、何でもないです、と答えた。
見限られた。劉備が帰った庵ではっきりとそう思った。一体、自分の何がいけなかったというのか。徐庶にできることなら、自分もできるはずだ。それでも、自分は人材として不適格と判断されたのだ。突然、周りが暗くなった気がした。広い世の中で、自分だけがここにぽつりと残されてしまったような気がした。所詮、自分の学は独りよがりのものだったのか。他人の眼から見ればありふれたものであり、扱い難いものであるのだろうか。司馬徽門下の頃は、自分が一番だと思っていた。先生よりも、自分の方が優れていると思うこともあった。しかし今は、徐庶が軍師をやり、自分はここで糞尿を撒いているだけだ。
劉備が帰ってから諸葛亮の体はあまり食物を欲しなくなった。食べなくてはいけないと思い、何か口に入れてもすぐに吐いてしまう。自分は何のために学を積んできたのか。口に糊するために子供に教え、野菜を育てる。そんな狭い自分の世界を守るためだけに身につけた知の力だったのか。今まで賢いと思っていた自分は、実は大馬鹿者だったのではないか。だとしたら、これまで歩んできた自分の二十五年間は何だったのか。これから羽ばたきたいと思っていた自分は、ただの道化だったのではないか。身を包んだ寝床が、いつもより寒く感じられた。降ってくる雪も、戸を揺らす冷たい風も全てが煩わしく感じられた。書を読んでもその内容は頭に入ってこず、誰かに会うことすら面倒になってきた。子供達にも顔が恐いと囁かれるようになり、近づかれなくなった。自分は何のためにいるのだ。劉備に自分の存在を否定されてから、そんなことばかりを考え続けた。それは答えのないことだと分かっていたが、冬が終わろうという時になってもずっとその問いから抜け出すことができなかった。
3-3.諸葛孔明③
眼を閉じていても、開けていても暗闇しかなかった。この豊富に知識を貯め込んだ私ですら、一農民として老いていき、死んでいくのか。周りの人間にとってはそれが普通の一生であり、彼らはそれに対して疑問を抱くはずもない。だが、私は違う。行き場のない力ほど空しく、もどかしいものはない。知があるだけに、その知を無駄にすることが辛く苦しいのだ。
学友である徐庶は、その知の使い所を最高の場所で揮うこととなった。だがその最高の人は、私のことを見限った。自分のことを優秀だと今まで思っていた。それは全て自分の一人よがりだったのだ。劉備という男は、好きになれそうなおやじだった。相対して話していると、それだけで温かい何かに包まれているような気がした。その劉備が、自分のことを不必要だと判断したのだ。誰から見ても欲される知力を持っていると自負していたが、他人の眼から見れば自分の能力は二流以下の男だったということなのか。
床に寝転び外を眺めていると、いつものように空は青く小鳥が遊び、遠くから村人の声が微かに聞こえた。その全てが、諸葛亮には残酷なものにしか見えなかった。青い空も小鳥や村人の声も、自分とは関わりのない遠くのものにしか感じられなかった。
誰かが近づいて来た。荒んだ家の中にある、腐った食い残しが腐臭を放つ寝台からそれを見ていた。劉備玄徳。前に会った時から半年以上が過ぎていた。今更何をしにきたというのか。諸葛亮の心の中には、劉備を憎悪する心と、また会いに来てくれたことに対する喜びが同時に湧いてきた。
どういう顔をして出迎えればいいのか、諸葛亮は戸惑った。このまま居留守をつかってしまおうか。そうすればもう傷つくこともなく、恥をかくこともない。
「孔明」
戸の前に立った劉備が大声で叫び、それに尻を叩かれたかのように飛び起きて戸を開いた。諸葛亮の体は臭く、髭はだらしなく伸びきっていたが、劉備はそんな諸葛亮を見て不敵な笑みを浮かべながら言った。
「良い顔になったではないか、孔明」
不意を突く言葉を吐かれ、諸葛亮は言葉を失った。劉備はそのままずかずかと中に入ってきて、前と同じように囲炉裏の前にどっしり座った。
「では孔明、聞かせてみろ」
「え?」
何を聞かれているかは分かる。しかし、こんな問われ方をされたのは初めてであった。
「お前の頭の中を、全て私にぶちまけてみろと言うのだ」
「は、はい」
さっきまでの倦怠感が嘘のように吹き飛び、体中に力が漲ってきた。そして喋った。言う必要のないことから、言っても安易に理解し難いことまで、その全てに劉備は相槌を打ちながら聞いてくれた。そして天下三分の計。突拍子過ぎて馬鹿にされると思い、学友にも言ったことのないことだった。曹操が有している中華の北方一帯は人口が多くて国力も大きい。それに対抗するために南西にある益州を取り、中華の東南に国を持つ孫権と手を組む。こうして中華を大きく三つに分け、その一国を持つことで天下を狙うことができるようになる。兵役のことから物品の流れまで、湧き出でる言葉を口から矢を発する如く劉備にぶつけた。話し始めた時は中天にあった陽はいつの間にか大きく傾き、黒い影と紅い光の中で、それでも劉備は強い眼差しを変えることなくうんうんと諸葛亮の言葉を受け止め続けた。
暗くなり始めるとさすがに疲れてきた。疲れを感じると、笑いがこみあげてきた。私は、何をこんなにもむきになっているのか。
「何がおかしい、孔明」
耳に心地良い声だった。
「そりゃあ、おかしいでしょう。大して世間も知らず、頭の中でしか物事を動かせない弱々しい男がこんな大言を吐いているのですから」
「大言を大言だと思わぬ者と比べればましだ、と私は思うがね」
「大言は、大言です。前に劉備様がここを辞された時から、私は様々なことを考えました。私がこれまで得てきた知識は何だったのかと。いくら書を読もうと国のことを考えようと、何も成すことができなければ私はその辺にいる野良犬と同じだ。私の知識は野良犬のように吠えるためにあるのか。そう考えると、こんな滑稽な男が私以外にいるのかって、笑うしかないじゃないですか」
「では孔明は、何のために知を得ようとしたのだ」
知を求めた理由。それを聞かれて諸葛亮は一瞬全身の血が逆流したような気がして身震いした。
「強く、なりたかったからです」
「ほう、なぜだ」
外で大きな鳥が一つ鳴いた。座った劉備の体には大きな影が落ちていて、その背後には格子の模った紅の四角が整列していた。高鳴った心の臓は徐々に落ち着きを取り戻していく。思い出したくもないことである。しかし、言ってしまいたい。この人なら、真正面から聞いてくれるかもしれない。
「惚れた女がいました」
言い始めると、頭の中で何かが切れた。
「もう十年以上も前のことです。私には惚れていた女がいました。同じ農村の、同じ年の娘でした。特に美人ではなかったのですが笑顔のかわいい人でした。私はその人のことを目にするだけで幸せな気持ちになれたのです。一緒に畑の手入れをしたり、飯を食ったりしました。たまにその人の手が私の手に触れようものなら、それだけで私の心は満たされました。笑うかもしれませんが、本気でそう思えたのです」
劉備の顔は変わらない。諸葛亮の眼からはいつの間にか涙が零れ始めていた。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。
「ある日、二人で道を歩いていました。街の市場からの帰りで、二人きりで歩いていたんだ。突然、後ろから強い力で殴られた。わけも分からずその場に倒れ込んで、振り返ると三人の黄色い巾をつけた男がその娘の体を担いで木が茂る山の中へと消えていった。ほんの一瞬のことだった。木々に遮られた向こうから、ただその人の声が聞こえた。助けて、孔明、と。私は腰が抜けていた。その声が遠ざかって聞こえなくなるまで、私は何もできなかった。その後、その人のことを探した。泣きながら探したんだ。手が触れただけで嬉しかったその体に何をされているのか。考えただけで身が内から張り裂けるくらい苦しかった。辛くて、辛くて、死にたいとまで思ったが、その人を見つけるまでは死ねないと思った。でも、見つからなかったんだ。今でもそのことを思い出すだけで私の耳の中でその人の助けてと叫ぶ声が甦るんだ。辛いんだ」
諸葛亮は頭を抱え込んだまま、体を折って泣いた。目の前に、まだ劉備がいるのかどうかすら分からなかった。
「私は強くなろうと思った。強くなることが、その人に対するせめてもの償いになると思ったからだ。武器を使うのは苦手だから、知の力をつけようと思った。本をたくさん読んで、学友達と色んなことを論じた。しかし、それは何の役にも立たないことだったのか。結局それは、自慰のようなものでしかなかったというのか。こんな男の生に、何の意味があるというんだ」
膝に埋めた暗くて四角い瞼の前で、諸葛亮は言葉を吐き出し続けた。それは誰に対して言っているのかさえ分からなくなってきた。
暗闇が、不意に温かいものになった。何かに上から包みこまれた。劉備の体である。諸葛亮は顔を上げた。暗い部屋の中で、紅の光を受けた劉備の顔がそこにあった。
「分かった、孔明。辛かったのだな」
諸葛亮の眼頭はただ熱くなるばかりだった。子供のように泣いた。こんな話を人前でしたのは初めてだった。回された手が、ぽんぽんと優しく背中を叩いた。劉備玄徳の腕は意外と長い。一頻り涙を流すとそんなことを感じる余裕もでき、そんな自分がやけに面白く感じた。
「劉備様、私も行きたいです」
居住まいを正した劉備が、一つ力強く頷いた。
「では、行こう」
静かな夕暮れの中に、劉備の太い声。その声に促されて諸葛亮は劉備と共に外へ出た。
外では、劉備の供が直立したまま待っていた。この二人にも聞かれたか。そう思うと恥ずかしさが込み上げてきたが、こちらに礼をしてくる二人の眼は赤く濡れていた。この人達となら、上手くやっていけると思った。
4.王平と諸葛亮
血に塗れた手を見ても、句扶はもう何も感じなくなっていた。戦時は山岳部隊の一員として働く句扶であったが、平時の仕事は領内に潜む反劉備勢力を人に知られることなく駆逐していくことであった。要は、暗殺である。
山中に潜む技がそのまま暗殺の技として使えると観たのは、劉備の右腕である諸葛亮という男だった。山岳民族は暗殺を卑怯なこととして忌み嫌っているが、句扶にはそういった抵抗感はなかった。人を殺すことが好きだというわけではない。強い力に挑むことが勇気だと勘違いし、その勘違いの螺旋が乱世を生み出し無辜の人達を殺しているということを理解できない者が嫌いなのだ。そういうこの世の害悪的人間この手で葬れるのなら、それを断る理由などどこにもない。そんな句扶の性格を、諸葛亮という男はよく見抜いた。
句扶の暗殺部隊は五人で一組であり、情報を集めて工作するのが四人でその中には女も一人いる。そして直接手を下すのは句扶の役目で、その役柄上、句扶は自然とその中の隊長格となっていた。諸葛亮からの任務は、商人や農民の格好をした者から句扶の元へと隠密に運ばれてくる。
一人を殺すのに、句扶は一月を費やし確実に殺した。部下に標的の行動基準を徹底的に調べさせ、確実に一人となる時に誰にも知られないように消す。それは決して表沙汰になることではなく、誰からも称賛される仕事というわけでもなかったが、この暗殺のために益州の治安は急速に良くなっているという実感はあった。句扶にとっては、その事実だけ
で充分であった。
蜀の国都である成都周辺での仕事が粗方終わると遠くまで出向くことが多くなった。成都から離れた地で仕事を終えると、成都に帰ることなくその場で次の任務を与えられることとなる。今回は、痩せに痩せた乞食の身なりをした者がそれを伝えてきた。
今度の任務は、諸葛亮の漢中視察団の護衛であった。その内容を聞いて句扶は胸を明るくさせた。漢中には、自分の義兄である王平がいるはずである。漢中での労役は過酷であり死ぬ者を少なくないと聞いているが、王平なら必ず生きていると句扶は信じていた。
句扶が勤める護衛とは弓や刀剣を持って諸葛亮の近くに侍ることではなく、諸葛亮が通る道を目に見えない脅威から守ることである。成都から漢中へと通じる街道周辺のいかがわしい豪族は全て暗殺している。その暗殺を行ったのは、他でもない句扶である。それだけに、成都から漢中までの道に危険はないということを句扶は知っていた。しかし諸葛亮は慎重であった。益州には山林が多く、どこから魏の刺客が飛び出してくるかも分からないからだ。
漢中は天然の要塞だった。周りは高い山々に囲まれ、漢川を主軸とした水路がその山々に深い切り込みを入れ、あたかも幾筋もの堀が外からの侵入者を拒んでいるかのようである。だがそれは益州から劉備軍が北へと侵攻する際の障害ともなる。そこに蜀軍兵の通行を容易ならしめるための工事がされていて、そこを視察しに行こうというのだ。
漢王室の復興が劉備軍の持つ大義である。北の魏を倒し、今や曹操が形骸化させた漢の帝を擁して中華を再統一することを目標とする軍だ。漢中から北へ行くと古都である長安があり、そこから東へ進むと洛陽、そのさらに先に帝のいる許昌がある。先ずはこの山脈を越えることが蜀軍の課題となる。
諸葛亮の視察団は何事もなく漢中に到着した。漢中ではたくさんの人が働いており、たくさんの物資が運び込まれている。周辺には富の匂いを嗅ぎつけた商人がこぞって集まり、そこでの労働者を相手に商いをして、そのため市場を中心とした簡素な村が点々とでき始め、またそこへと人が集まってきている。
無事に諸葛亮を送り届けると、句扶は王平を探した。ここでの監督をしている魏延の元で働いている王平の姿を見つけるのに、さほど時間はかからなかった。王平に会うことを楽しみにしていた句扶であったが、彼に対する暗澹とした後ろめたさがないわけではない。いや、その気持ちは句扶の中に多分にあった。
「兄者」
成都から届いた物資の積み降ろしをしていると、肩越しから細い声が聞こえた。顔を見るまでもなく分かる声だった。王平の胸に、一つ大きな鼓動が打ち鳴らされた。
句扶に会えばどんな顔をすればよいのか。死ぬことばかり考えていた合間に、そんなことも考えていた。自らの手で育ててきた辟邪隊を壊滅させたのは、この男なのだ。それは句扶の意思でのことでないとは分かっている。戦だったのだ。だが戦だったからと言って、辟邪隊を壊滅させた者と親しくして、死んでいった仲間達に面目が立つというのか。
声がした方を向いて句扶の顔を見たが、やはり何も言葉はでてこなかった。
「兄者、よくぞお元気で」
王平は、天を仰いだ。如何なる言葉も用意してはいなかった。
「なぜ殺さなかったんだ」
答えることのできない質問だ、とは分かっていた。しかし言わずにはいられなかった。句扶は何を答えることもなく、押し黙っていた。その表情は、悲しんでいるのかどうかも分からない、軍人の顔であった。
「どうした王平、知り合いか?」
具足が擦れる音を立てながら魏延がやってきた。王平は、無理矢理笑みをつくって小さく頷いた。
「なんだ、意外と顔が広いんだな。俺はこれから諸葛亮殿と話をしてくるから、その間だけなら休憩しててもいいぜ」
「ありがとうございます」
魏延は馬鹿でかい声で休息の号令をかけ、のしのしと歩いていった。周りの人夫が働く手を止め一息つき始め、王平と句扶だけがその場に残された。目の前の友に言ってやりたいことは山ほどある。しかしその口からは何一つとして言葉が出てこなかった。草むらで鳴く虫の声が、やけに耳障りだった。
気付くと、泣いていた。自分でも驚くほど、それは唐突なものだった。一度溢れた涙は止めれるものではなく、王平は膝を折って手で顔を覆った。
憎めるものなど何もない。憎めるものがあれば自分はこんなにも悩み苦しむことはなく、こうやって女のように泣くことだってない。ならばこの気持ちは、どこに向かってぶつければいいというのか。
「俺のことを、殺しますか」
それはとても穏やかな声であった。
「違う。そうじゃないのだ、句扶。俺は」
俺は、何だ。仲間を守れず、女一人幸せにできなかった負け犬ではないか。殺されるべきは自分の方ではないのか。何を言っていいか分からなくなり、句扶もただ黙然としていた。体を丸めた王平の目蓋の裏には限りない暗闇が広がっていた。優しい言葉が欲しかった。何でもいい。瞳を閉じて暗闇の中にいると、暗闇の向こうから王歓の声が聞こえてくるような気がした。しかし、気がするだけで何も聞こえない。暗闇の中に、自分だけがぽつんと残されていた。何故、句扶は俺の仲間を殺さなければならなかったのか。何故、俺が句扶を殺さなければいけないのか。何故、俺は俺のことを殺すことができないのか。
「おい」
野太い声がして、王平は我に返って顔を上げた。するともうそこに句扶の姿はなく、代わりに魏延の大きな体があった。
「何やってんだ、お前。泣いてやがるのか?」
王平ははっとしてその場を取り繕うとした。
「いえ、目に砂が入っただけです」
王平は直立して答えた。
「おかしな奴だな。まあいい。諸葛亮殿がお前のことを呼んでいたぞ。今からすぐに行ってこい」
「えっ」
「要件はよく知らん。まさかお前、また隠れて麻でも吸ったんじゃないだろうな。ともかく、早く行ってこい。失礼な態度だけはとらないようにな」
魏延の大きな両手が王平の肩をつかんだ。
「わかりました」
魏延があっちだという方へ行き、見張りの衛士に案内してもらい、『蜀』と大きく書かれた旗がはためく幕舎の中へと通された。そこは、意外なほどに豪奢さがなかった。壁にはこの辺り一帯の大きな地図がかけられており、羽でできた扇を手にした背の高い男がその地図をじっと見つめていた。虎髭将軍や魏延とは違う、体の細い、しかし眼光の鋭い男だ。この人が、諸葛亮だ。魏延が益州内の民政の元締めをしていると言っていた人だ。どこかで見たことがある、と王平は思った。羽の扇を見て、朴胡と劉備軍を見物しに行った時に見たあの人だ、と思いだした。
じっとこちらを見つめてくる諸葛亮の眼には、異様な迫力があった。それは、曹操が持っていた恐怖を感じさせるそれとは全く違う種のものである。王平は曹操と対面した時と同じように拝礼し、名乗った。
「お前は、辟邪隊という山岳部隊を率いていた隊長であるな」
「はい」
やはり罰せられるのか。そう思うと、恐怖が胸の内から湧いてきた。その心の内を読み取ったのか、諸葛亮は小さな笑みを見せながら続けた。
「我等は益州に蜀という国をつくり、新しい軍を編成している。その軍に、お前も加わってみる気はないか」
意外なことを言われ、王平は耳を疑った。
「私は蜀軍の敵でありました」
そんなことは分かっている、とでも言うように諸葛亮は首を振った。
「句扶という者を知っているな。お前を推薦してきたのは、お前の友人である句扶だ。下弁で我が軍をかく乱した手並み、見事であった」
言葉では褒めてくれてはいるが眼は笑ってはいない。曹操に褒められた時は嬉しかったが、やはりこの男は曹操とは違うようだ。
諸葛亮の冷たい眼が答えを待っている。答えによれば殺されるかもしれない。軍人として扱われるということは、つまりはそういうことなのだ。洛陽に残している家族のためにも、まだ死ぬわけにはいかない。
「有難き御言葉に御座います。私のような者を取り立てて下さるというのなら、粉骨砕身のつもりでこの身を捧げます」
洛陽で覚えたこんな言葉使いも、もう慣れたものだった。
「そうか。そう言ってくれると助かる」
その時、後ろから誰かが慌しく入ってきた。その男は、王平の背中を押しのけながら言
った。
「先生、このような下賤の者と、一人きりで会ってはなりません」
「私が誰に会おうと、私の勝手であろう」
「どんな不測の事態があるやもわかりません。先生の御身は既に先生だけのものではなく、蜀国のものでもあるのです」
王平より幾らか年が上に見えるその男は、いからせた眼を王平に向けてきた。
「お前はいつも大袈裟過ぎるのだ、馬謖」
王平は直立したまま、そのやりとりを聞いていた。
「ところで王平、お前はその軍学をどこで身につけた」
「洛陽近郊の森の中で調練を積み、そこで様々なことを試しながら身につけました」
馬謖と呼ばれた男は、諸葛亮の隣に座った。そしてあからさまに警戒の眼をこちらに向けている。
「独学か。それはたいしたものだ」
「それと、史記を少しばかり知っております」
「ほう、史記か」
歓に読んで聞かせてもらったことを少しでも役立たせたかった。それは何に対してでもいい。歓がしてくれたことは無駄ではなかったのだと、どこかで証明したかった。
「私は文字が読めませんが、私に親しい者にそれを読んでもらい、学びました。中でも楽毅という人物が好きです」
それを聞いた諸葛亮の口元が少し笑ったように見えた。
「楽毅なら私もよく知っている。楽毅のどんなところが好きか、言ってみろ」
しばらく、二人は楽毅のことで話し込んだ。さすが諸葛亮は一国の高官だけあり深い知識を持っており、王平が知っていることから知らぬことまでこんこんと話し続けた。いつの間にか、諸葛亮の眼から冷たさが消えていることに王平は気付いた。高い身分にあるが故、下の者に対する態度を演じていたのではないか、と王平は思った。
「先生、そろそろ」
隣で黙って話を聞いていた馬謖が口を挟んだ。
「少し長く話し過ぎたかな」
はっとした諸葛亮は居住まいを正し、話に一区切り打った。この人は悪い人ではない、と王平は思った。
「成都へ来い、王平。句扶と同じく、しばらく私の下で働くのだ」
王平は恭しく礼をして幕舎を出た。おかしなことになってきた。漢中で人夫として死ぬのかと思っていたが、まだまだ軍人として生きていかなければいけないらしい。歓に読んで聞かせてもらったことが役に立ったのだろうか。
幕舎を出ると心配そうな顔をした魏延が待っていた。
「おい、何を言われてきたんだ」
「蜀軍の一兵士になれと言われました。漢中戦で私が山岳部隊を率いていたことを、あの御方は評価してくれていたようでして」
王平は苦笑しながら言った。
「そうか、そりゃよかったじゃねえか。それにしてもお前はおかしな奴だな。なんでもっと喜ばねえんだ。まあこないだまで敵だった軍で働けって言われりゃそんな顔にもなるのかな」
言われて、王平は無理矢理に笑顔を作って魏延に向けた。
「お前を他の軍に取られるのはちょっと惜しい気がするが、北へと進攻する時はお前と協力することもあるのかもな。その時はよろしく頼むぜ」
「私のような者にそうやって好意をかけてくれて本当にありがとうございます。私はここで死ぬことになるのだろうと思っていましたが、もう少し頑張ってみます」
「お前は運がいい。戦場ではな、お前のような強運の持ち主が強かったりするんだ」
運がいいことなどあるものか。王平は心の中でそう呟いた。
5.東征と内治
人材が、明らかに足りなかった。
益州に入る前の劉備軍は傭兵軍団として中華の大陸各地の権力者の元を転々としていた。人から養われる流浪の軍団に人物が集まるはずもなく、またその必要もなかった。だが今となっては、その軍団が国を持つに至ったのだ。諸葛亮は劉備と吟じて劉璋の配下を登用して適所に配し、登用に漏れた者の中で反逆心を持つ者は句扶を隊長とする暗殺部隊に排除させた。そして益州の東には元劉璋配下の李厳を、魏国と接する北方漢中には劉備の信任篤い猛将魏延を、南へは老練な施政官向朗を置いて益州内の体制を整えた。戸籍の整理、法の確立、治安維持、そしていずれくるだろう魏軍との戦いに備えた軍の増強と編成、やるべきことは山ほどある中、法の確立に心血を注いだ法正と劉巴が死んだ。長きに渡って劉備に仕えてきた孫乾、簡擁、伊籍らも益州の風土が合わなかったのだろうか、死んだ。皆、多くの経験を積んだ優秀な文官達であった。
蜀にとっての不幸は続いた。益州の東隣に位置する荊州が呉に攻められ、そこを治めていた劉備の義兄弟であった関羽が討死し、その地を奪われた。劉備軍が益州を手に入れてからというもの、荊州の地はその所有権をめぐって呉との小競り合いが絶えることがなかった。また劉備と諸葛亮も多忙のため荊州にまで手が回らなかったのだが、その結果は最悪のものであった。ただ荊州の地を失ったというだけでなく、関羽をはじめとする多くの優秀な人材を失うこととなったのだ。
諸葛量は苛立った。荊州の敗戦を分析してみると、その原因は荊州劉備軍内での内部分裂にあることがわかった。関羽の権力者に対する峻烈な気質を、諸葛亮は知っていた。その気質は裏返して言ってみれば民に対する仁徳であったが、そういった性格が味方の感情をこじらせて一州を失わせるまでに至るとまでは思わなかったのだ。いや、その危惧はあった。しかし関羽は、今や一国の主となった劉備の片腕であり、その我が主の体の一部が一州を治めることを反対することなどどうしてできただろうか。
「もし自分が荊州にいたならば」眠れぬ夜に何度そのことを考えただろうか。だが自分が益州にいなければ、益州内の体制はこれほど早く整うことはなかっただろう。せめて自分の代わりになる者がもう一人でもいれば、そう思わずにはいられなかった。
山積みとなった仕事の中で書簡に目を通していると、外から足音が聞こえてきた。この足音は、蔣琬。そう思った直後、蔣琬がその姿を見せていた。
「王平という者、どうだ」
「洛陽の家族に想いを残しているようですが、その想いは蜀への恨みとはなっておりません」
蔣琬はまだ若く女も酒も好きであったが、仕事を与えるとこちらの意を十分に汲んだ上でそつなくこなしてくれる。才気のある、蜀にとっての良い人材だと諸葛亮は見ていた。
「軍内ではどうだ」
「軍での勤務も怠りなく、最近は弩の練習をよくしております」
「よろしい。ではいずれ、直接見に行ってみよう。ところでお前、そろそろ新しい仕事をしてみないか?」
蔣琬の眼が輝いた。
「軍事のことでしたら、喜んで」
「馬鹿者、軍の上に立つ者は先ず国政を知らねばならぬと何度言わせるのだ」
「おっとそうでした。また田舎に飛ばされたらたまりませんので、もう言いません」
国府での会話であったが、その口調は流浪時代のそれとなんら変わってはいなかった。諸葛亮はそんな態度を咎めることなくむしろ楽しんでいたが、いずれは変えていかねばならない、と思っていた。
「呉と戦をするのですか、先生?」
「お前ならどうする、蔣琬」
「蜀がこれ以上戦を続けるのは、無謀な気がします」
「その通りだ。今は国内に力を溜め込まなくてはならない。この戦を止めることは、国政を担う我々の務めだ」
「しかし、張飛将軍は今にも呉へと飛びだしていきそうですよ」
「全く、あの方は困ったもんだ」
張飛将軍は蛮勇一擲の人であった。流浪の時にはその蛮勇が大いに力を発揮した。まだ地盤を持たなかった劉備軍に今日があるのは、張飛や関羽の持った蛮勇によるところが大きい。だが今の劉備軍はもう流浪の軍ではなく、国に属する軍なのだ。義兄弟を殺された怨みという私情に駆られた蛮勇は、益州に住む民の心を離し、金を浪費し、国を底から傾かせかねない。
「だがそんなことは、まだ若造のお前が気にすることではない。それより法をやれ、蔣琬。法正殿や劉巴殿がつくった法を、お前らが受け継ぎ守っていくのだ」
「俺みたいな飲んだくれが、法ですか」
「飲んだくれだから分かるということもある。やるべきことは、既に費禕に伝えてある」
「費禕とですか。俺がいうのはなんですが、あの博打好きが法なんかできるもんですかね」
そういうが、蔣琬と費禕は仲が良い。組ませれば、お互い切磋琢磨してくれるだろう。
「もし費禕がおかしな仕事をすれば、いつでも首を落としてやろう。もちろん、お前もな。分かったらさっさと行け」
苦笑いして蔣琬は退出して行った。
いたずらに頭の固い男より、人の喜びを知る者こそが法を司るべきだと諸葛亮は思っていた。そしていくら遊びが好きとはいえ、蔣琬と費禕にはしっかりとした責任感が心の中に備わっているということは、時に兄や父のように彼らに接してきた諸葛亮が誰よりも知っている。
蜀の民政を整えることが諸葛亮に与えられた使命であり、その仕事の中には後進を育てるということも含まれている。平たい言い方をすれば、民政に関してはある程度のところまで諸葛亮の好きにできるのだ。手が届かないのが、軍部である。そしてその軍部が、蜀にとって困った存在になりそうであった。兵権の大部分は張飛将軍に掌握されており、今回の呉討伐への準備も張飛を中心にして展開され始めていた。だがそれには明瞭な勝ちへの見通しがあるわけでなく、義兄弟の仇討ちと言ってはいるが、その根幹には取られたものは取り返すべしという子供染みた思考しかないのだ。それも国を傾ける程の大戦である。益州攻略戦、漢中奪還戦と続けてきた蜀ができるはずもない戦だった。
軍権は文官の元にあるべきである。戦のために国があるのではなく、国のために戦はあるべきなのだ。いくらそう訴えようと、仇討ちの話を出されると諸葛亮は黙るしかなかった。仇討ちを否定することは義と忠を否定することと取られ、下手をすれば自分が今の位置から追い落とされかねない。故郷を取り戻したいという荊州出身者の声も小さくなく、無視できるものではなかった。
何としても、大軍の東進は止めなくてはならない。劉備自身は関羽の死を嘆くも諸葛亮の意見に同意しているが、しかし同時に張飛の憤りと荊州出身者の声も大きくこれを無視すれば蜀は内部から崩壊しかねない。そんな中で、魏の主である曹丕が漢の帝をその座から追い、自らが帝位に就いたという情報が入った。諸葛亮は爆発寸前にある蜀軍の目を北に向けようと画策した。漢の臣であった曹丕の不忠を詰り、漢の帝、劉協は曹丕の手によって殺されたと宣伝した(実際に劉協は殺されておらず、山陽候に封じられていた)。そして劉備に蜀の皇帝になるよう勧めてその通りにさせ、その祝賀のため呉討伐の話は先送りとさせた。こうして時が経てば東進の気勢葉徐々に熾火となっていくだろうと目論んでいた諸葛亮だったが、その火はおさまるどころか劉備が帝位に就くと意気はさらに上がり、手のつけようもなくなってきた。
ふざけるな。諸葛亮はそう叫んでやりたかった。諸葛亮を中心とする文官の努力によりようやく蜀はここまでまとまってきたのだ。それを無教養で無謀な軍人のために全て失おうとしようとしている。それに戦があれば、人が死ぬ。ただでさえ人材が不足しているというのにだ。そんな諸葛亮の危惧を尻目に張飛の口ぶりは、文官は軍人のために働けばいいと言わんがばかりである。
夜、夕食をすませた諸葛亮はいつものように自室に戻った。そして、虚空に言葉を投げた。
「いるか」
部屋の隅の陰が起き上がり、人の形となって諸葛亮の前に膝まづいた。
句扶である。入蜀後の国内平定時に見つけて拾った山岳民族だ。体が小さく俊敏で、その眼は全てのことに対し何も期待していないという冷徹さがある。諸葛亮はそこが気に入った。無口で何を考えているのか分からないところがあったが、句扶の義母に財物を送ってやると驚くほど忠実に従うようになった。彼にやらせたのが、暗殺である。始めの数人は諸葛亮の助言によく従い落ち度なく殺し、今では標的の名を知らせるだけで難なく殺してくるようになっていた。蜀内が安定してきたのは、彼によるところが大きいと言っても過言ではない。
「将軍、張飛だ」
諸葛亮は独り言の如く呟いた。
「将軍、張飛」
句扶はいつもと同じように標的の名を復唱すると、音もなく姿を消した。
悩みに悩みぬいた決断だった。あの男を消すということは、義兄弟である劉備に対する大きな不忠である。しかし自分はもう流浪軍の策略家ではなく、一国の宰相なのだ。一人の感情により万民が苦しまなければならないというのなら、それを全力で以って止めるのが己の役目であるはずだ。無能な者が人の上に立てば、それはもうそれだけで罪なことなのだ。
汚れてしまえ。汚れずして良い仕事ができるはずもないのだ。諸葛亮は寝具に身を包み、眠れない体を無理矢理漆黒の意識の底へと落した。
6.蔣琬
成都城郭内は洛陽内とずいぶん様相が違っていた。同じ中華でありながら中原からこれだけ離れていると、文化自体が違うのである。人々の活気は盛んで、洛陽と比べればむしろ成都の方が盛んであるとも思えた。街を歩いてみると洛陽では目にしたことのない珍妙な格好の偶像などが露店に並べられており、王平の眼を引いた。洛陽へと連れて行かれる前の王平は成都から近い巴西に住んでいたが、成都に来たのはこれが初めてだった。そして街中の至る所に
「曹家、帝を弑す」と書かれた立て札があった。
句扶の口利きにより、蜀の軍人として働くこととなった。他の者ならば喜ぶところなのだろうが、王平の胸中には、また妻のいる洛陽から遠ざかってしまったという想いがあるだけだった。
軍営内の小汚い小屋にでも入れられるだろうと思っていたが、意外にも豪壮な建物が立ち並ぶ中の一室に通され、今日からここで起居しろ、と言われた。広くはないが全く不潔さのない部屋であった。
王平を案内したのは口から微かに酒の臭いを漂わせる蔣琬という年が同じくらいの男だった。蔣琬は新興国の文官らしく、意気揚々としていた。
「この国はまだできたばかりでな、今は有能な人材を広く集めているのだ。でも使えない人材だと判断されればばっさりと切られることもあるからな。油断はしないほうがいいぞ」
憎まれ口を言うが、嫌な感じのする男ではなかった。蔣琬に連れられ政庁、宮殿と見て周り、軍営へと行った。やはり軍営内の空気は洛陽のそれと同じような緊張感があり、王平の気持ちを引き締めさせた。
「鄧芝殿」
「おう、蔣琬か」
将軍の風体をした、小柄な男だった。
「お前は今日からこちらの鄧芝殿の下で働くのだ」
王平は、頷いた。
「お前が王平か。森の中で兵を上手く使うらしいな。しかしここでは、原野戦のイロハを学んでもらうぞ。軍の命運を担う大事な仕事だ。覚悟しておけ」
そこで行われている調練は、辟邪隊がしていたような小規模なものでなく、兵を何百何千と並べて行う壮大なものだった。王平は先ずその中の一小隊長として入れられ、太鼓や旗による合図の仕方を徹底して覚えさせられた。兵を動かすことは、合図さえ覚えてしまえばさほど難しいことではないと思えた。これまで森の中で、姿の見えない部下達に指示を出していたのだ。それが原野戦では、見える。ただ兵数が多いため、指揮官の一つの誤りで大軍が混乱に陥る危険が常にある。難しくはあるが、面白い、と王平は感じた。
夜になると、王平はよく一人で星を眺めた。遠く離れている洛陽の歓も同じ星を眺めているのではないかと思うと、それが自分への慰めにもなった。
自分は幸運なのだ。定軍山の喚声の中で失っていてもおかしくい命であった。それが、こうしてまだ生きながらえている。生きてさえいれば、希望は幾らでもあるのだ。漢中での使役中には死ぬことばかり考えていたが、成都の活気は王平をそんな風に力付けた。
句扶には自ら会いに行った。どうすればいいか分からないといった顔をしていた句扶であったが、笑顔を見せるとすぐに昔のように戻ることができた。
調練は、五日続けて一日休む。最初の休暇に、王平は久しぶりの生家に帰ってみようかと思った。北へ連れていかれたので、実に五年ぶりの帰宅である。
だがそれを句扶に言うと、句扶は急に困ったような顔をした。
「なんだ句扶、なぜそんな顔をする」
句扶は、昔のように口の中で何かもごもごと言った。五年間である。その間に何か自分に会えなくなる理由が母にできたのか、と王平は思った。それでも王平は生家のある懐かしい村へと句扶を伴って行った。
母は、見知らぬ男と暮らしていた。そしてその男との間に生まれたのか、まだ小さな赤子をその手に抱いていた。悔しさのような嫌な感情は湧いてこなかった。あの人には、あの人の幸せがあるのだ。王平はしばらくそんな母の姿を眺め、何も言うことなくその場を後にした。
「人とは変わるものだな、句扶」
句扶は黙ったままだった。何と返していいのか分からないのだろう。
「お前も変わった。昔は何も喋らず困らされたものだが、ずいぶんとやりやすくなった」
「母者は、兄者のことを忘れているわけではありません」
「いいのだ、句扶。もう死んでいてもおかしくない俺が、またここに帰ってこられたというだけで良しとしよう。昔はこの辺で友達とよく駆け回った。あの木を見てみろ、傷だらけだろう。戦に行く前に、木でできた剣で打った時の傷だ」
「あの家の奥では、もう寝たきりとなった婆様がおられます」
「そうか。婆さんもまだ生きていたか。俺が顔を見せたら、驚いてぽっくり逝ってしまうかもしれんな」
言って、王平は笑った。いつになく口数が多い自分に気づき、それに対しても笑った。
「俺はもう何平ではなく、王平なのだ。それを忘れていたわ。これでようやく、心の芯まで王平になれる」
王平が属する蜀軍は、北の魏軍と戦うための軍である。何平の故郷は、もうない。王平の故郷がある洛陽へ帰りたければ、魏軍を討ち果たせばいいだけのことだ。
繰る日も繰る日も、王平は調練に励んだ。今の自分にとっては、軍を率いて洛陽へ帰るという目標だけが今を生きる糧となっている。弩の扱いも、鄧芝に教えてもらって学んだ。一抱えほどある的を置き、暇さえあればそれに向かって矢を放った。母のように、洛陽で王歓は見知らぬ男に抱かれているのだろうか。それが男を失った女の唯一の生きる道だったとしても、そんなことを考えただけで王平の胸は締め付けられた。弩を構えて的の中心に全神経を集中している時は、そんな想いからわずかながらも開放された。
とある休日、その日も弩の練習に行こうとしていると、珍しい客がやってきた。
「よう、ここでの生活はどうだい」
蔣琬である。
「悪くないですよ」
「それは結構。今日は休みなんだろ? 俺も休みだからちょっと付き合えよ。たまには羽を広げて遊ばないとな」
普段は政庁で働いているこの男は、魏で見た偉そうな文官とは違って気さくであった。
青い晴天の下、二人で街中を闊歩した。成都城郭内の賑やかさは嫌でも洛陽のそれを思い出させるため、王平はなるべくこの辺りには来ないようにしていた。しかし嫌いではない。ある飯店の前で、蔣琬は足を止めた。
「ここの肉料理は旨いんだ。香辛料の扱い方が手練れてやがる」
中に入り、卓を挟んで二人は座った。
「政庁で働く高官も、こんな所で食事をするのですね」
「何を言う。民政をする者が民の生活を知らずしてどうする。しかしまあ、高官といっても俺は雑用程度のことしかさせてもらってないんだがね。この間まで田舎町の長をやっていたんだが、仕事もしないで酒を飲んでいるところを劉備様に見つかってこっぴどく怒られちまってな。そのお陰で片田舎から中央に戻ってくることができたんだが」
料理が運ばれてきた。焼かれた羊の肉に野菜が添えられている。肉は何か固いもので覆われており、かじってみると中は柔らかい肉だった。
「なんですかこれは、辛い」
外側の殻をかじると、口の中が燃えるように熱くなった。
「はっはっは。そんなにいきなり食ったらいかんよ。少しずつ食わないと。口の中が辛くなったら、野菜を食うんだ」
言われたとおりに野菜を口に入れ、しばらくの間咀嚼した。いきなりの辛さに驚きはしたが、この辛味は少しずつ食えばなるほど旨いと思えた。
「成都は暑いだろ? だからここの民はこうやって香辛料を使って食いものを保存しているのだ」
「蔣琬殿も人が悪い。それならそうと言って下されば良いものを」
「はっはっは、悪いな。しかしお前さんの面白い顔が見れた。でも、旨いだろ?」
「確かに、これは旨いですよ」
「そうだろ。休みの日には旨いものを食って、心身ともに休める。俺の師匠がよくそう言っていたものだ。もっとも俺は、休み過ぎて処罰されそうになったがな」
と言って、蔣琬は香辛料のついた歯を見せながら笑った。
「師匠とは、諸葛亮様のことですか?」
「あの方のことではない。いや、あの方も俺の師匠ではあるのだが、劉備様に昔から付き従っている簡擁って人がいてな、前に日照りが続いて旱魃になった時に禁酒令が出されたんだ。そこで酒を造るための道具を所持することも罰すべきかどうかで議論となった。そしたらあの人、こう言うんだ。『私は今日、街中で二人の男女を見ました。私はどうしてこの二人が処罰されないのかが不思議でたまりませんでした』その場にいた全員がきょとんとした。すると続けて『二人は淫らな道具を持っているではありませんか。それは酒を造る道具を所持することと何が違うのでしょう』ってさ」
「ふむ。それで、どうなったんですか?」
「一番笑ったのが劉備様でね。それは仕方のないことだって道具を持つだけなら罪にはならないということになったんだ。俺は、そういう冗談を言えてこそ本当に良い仕事ができるのだと思う。まだその人の面白い話はあるぞ」
酒も回り始め、しばらく二人は談笑した。蔣琬の話は面白く聞いていて飽きず、王平はここしばらくなかった心地良さに包まれていた。
かなり長い時間が過ぎ、日もずいぶん暮れてくると二人はそこを後にした。
「じゃあ女でも抱きに行くか、王平」
「女、ですか」
楽しくはあったが、王平は素直にそれに乗ることができなかった。
「なんだお前、女を知らんのか」
「そうではありません」
からかうように言う蔣琬を、王平は否定した。
「では何だと言うのだ」
「私には、その、妻がいまして」
「お前は洛陽から来たばかりではないか」
「その洛陽に、妻がいます。だから、女遊びは気が引けるといいますか」
「ふうん、真面目なんだな。じゃあついてくるだけならいいだろ? 一人っきりじゃ寂しいしよ」
「じゃあ、ついていくだけなら」
体が女を求めないわけではない。求めようにも、それ以上の罪悪感が心の底から湧いてくるのだ。それは歓に対してであり、戦場で死んでいった者に対してである。
蔣琬はよくここに来ているのか、妓楼宿の主人は満面の笑みで迎え入れてくれた。そして、二人は奥の一室へと通された。
「王平、これをやったことはあるか」
蔣琬は懐から包みを取り出し、それを王平に開いて見せた。乾燥された植物だった。
「麻、ですか」
「そうだ。よく知ってるじゃないか」
「漢中で、これを勝手に吸っていた者が首を落とされていました」
「麻は官営だからな。塩や鉄と同じで、許可なく使えば処罰される。この麻や塩や鉄が金に変わって国庫に入り、お前さんら軍人の武器や具足を買うのだ。軍人なら。おぼえておくべきことだな」
宿の主人が筒を二つ持ってきて、二人に渡した。筒の片方に麻を詰めて火を点け、もう片方に口をつけて吸う。蔣琬は手馴れた吸いっぷりで、ふうっとうまそうに煙を吐いた。薄暗い宿の中で、蔣琬の長くも短くもない髭が妖しく揺れた。
「心配することはないぞ。これはちゃんと金を出した買ったものだ。これを吸ったからといって、お前が見た某のように首を斬られることはない」
早くも眼をとろんとさせた蔣琬が楽しそうに言うので、王平も麻に火を点け煙を吸った。それを見届けた蔣琬は満足そうな顔をして、
「じゃあ、俺は行ってくるからな」
と、宿の奥へと消えていった。
酔いが回ってくると、ここには微かながらも良い匂いがすることに王平は気づいた。その匂いは、とても居心地の良いものであった。今日は楽しい一日であった。しかし楽しいことがあれば、必ず思い出すことがある。王双や辟邪隊の皆や、洛陽の歓のことだ。特に歓は今この瞬間も苦しみながら生きているのではないか。そしてもう生まれているはずである俺の子は、どうしているのか。俺にこのような楽しい思いをする資格があるのか。王平は滾々と湧いてくる苦悩に頭を抱えさせられ、こんな所で何をしているのだ、早く洛陽に帰らなければと地面を見つめながら何度も呟いた。今日はもう帰ろう。そう思うと同時に、声をかけられた。
「どうされましたか」
いつも間にか、隣に女が座っていた。女は妖艶な笑みを浮かべながら、王平の太腿に手を当ててきた。王平の体は、自分の意思とは関係なしに力強くそれに反応した。歓。いや違う。歓は洛陽にいるはずだ。しかし、ああもうこいつが歓でいいではないか。上手く考えることもできず、体が求めるままに両腕でその女を抱き寄せ、その口を吸った。女の唇はまるで他の生き物のように絡み合い、気づけば誰もいない暗い一室に身を移していた。女の手に弄ばれた王平は、そのまま強かに精を放った。精を放つと、歓の顔が頭の中に浮かんできた。すまん。そう口の中で呟くも、王平の内側からは悲しいほどにこんこんと女への欲が湧き上がってくるばかりだった。女を押し倒した時、王平は自分が泣いていることに気がついた。女が、どうして、という顔をしていたからだ。王平は眼をつむって女の中に入った。目蓋の裏には、歓の顔があった。温もりも柔らかさも歓とは違うと分かっていながら、王平は何度も歓の名を叫んだ。そして、その偽りの歓の中に精を放った。
気づけば既に朝で、窓からは差し込む穏やかな光が王平の寝顔を照らしていた。女はもうそこにはおらず、昨晩の酔いの名残りとほどよい気だるさをまとい、知らぬ間に昇っていた階段を下りた。下の卓には蔣琬がいて、はつらつとした顔で旨そうに粥を啜っていた。
「おう、王平。昨晩はよく眠れたかい。
「蔣琬殿、こうなると分かっていてここに連れてきましたね」
「はっはっは、そう難しい顔をするな。この妓楼で一番いい女を抱かせてやったというのに。お前があまりに気張った顔をしていたから、息抜きをさせてやろうと思っただけよ」
王平も卓につくと。すぐに温かい粥がだされた。粥を口の中に入れると体の内から染み込み、うまかった。
「しかし、夜中に叫び声を上げるのはちと野暮だったな。歓さんってのは、洛陽にいる妻のことかい?」
言われて、王平は赤面した。あれだけ叫んだのだ。聞こえていたのは蔣琬だけではなかっただろう。
「まあ良いではないか。いきなり成都まで連れてこられて、たまっていたものが無いという方がおかしいのだ」
そう言い繕ってくれる蔣琬の顔は、少しも笑っていなかった。
「叫び声のことは気にするな。声は聞こえていても顔までは分からんよ。知っているのは俺とこの主人くらいだよ」
水を運んできた主人が、心配するなという眼を王平に向けていた。
「女など全て同じだと思えるようになればどれだけ楽になれるだろうって、たまに思いますよ。でも一人にこれほど縛られる馬鹿な男も、この世にはいるのです。全く、私にはあなたが羨ましい。皮肉じゃなくて、本当に心からそう思いますよ」
「ほほう、なかなか喋るようになったじゃないか。お前はそう言うが、俺だってお前のことが羨ましいんだぞ」
「何がです?」
「それだけ一人の女に惚れることができることよ。俺にも妻はいるが、ただ口うるさいだけの女だ。お前のようにはなれん」
「融通がきかない性格だ、というだけのことですよ」
「それともう一つ、女のことではないがな」
蔣琬は器に残った粥を口の中にかきこんだ。
「お前は兵を上手く指揮する。俺も男だ。男は戦場で戦うものだろう。しかしどうも俺はそっちには向かないようでな」
「兵を指揮するということは、部下を殺すということですよ。それを分かって言っているのですか?」
「分かっている。いや、本当のところでは分かっていないのかもしれんな。諸葛先生は俺のそんなところを見透かしているのかもしれん。ただ、男は戦場で潔く死ねばよいとは本気で思っているよ。いくら諸葛先生にそれを言っても相手にもしてくれん。あんまりしつこく言っていたら、田舎に飛ばされてしまった」
「それは、俺が女のことで悩んでいることとは種類の違うことです」
「男は大なり小なり、自分に劣等感を持っているってことよ。そしてそれが、時に男に良い仕事をさせる。これも先生の受け売りだけどね。俺はお前の劣等感を知った。だから俺も自分の劣等感を話した」
「そうですか。そんなに悩むことでもないと思いますが」
「まあ人の劣等感なんて他人にとってはそんなものだ」
俺の悩みも他人にとっては小さなことなのだろうか。王平はそう思った。
「そういえば、昨日の麻の代金がまだでした」
「なんの。欲しくなったらいつでも言いに来い。政庁にいる王連という人のところに行けば買うこともできる。頭の固いおやじさんだが、金を払えば黙って渡してくれるだろうさ」
宿の外が騒がしくなってきた。この街は、朝から元気が溢れている。それも、蔣琬ら文官の働きのおかげなのだろう。
「ところで、そのかしこまった話し方はなんとかならんか。俺らは歳もそう離れていないし、もっと気楽な仲になろうや」
蔣琬が、窓の外の喧騒さに眼をやりながら言った。
「・・・わかった、蔣琬。これから呼び捨てにさせてもらうが、後で文句は言うなよ」
「はっはっは、そんなことは言わんよ。ところで王平、今朝の調練はいつからなのだ」
すっかり、そのことを忘れていた。
「いかん、もう調練が始まっている時間だ。早く行かなくては」
王平は器を傾けて残った粥を飲み干し、腰を上げた。
「鄧芝殿には俺から上手く言っておこう。俺が引きとめたのだとな」
王平は口に粥を入れたまま頷き、宿を飛び出し軍営へと走った。走りながら、自分は麻の金どころか宿の代金まで払っていないことにきづいた。しかし蔣琬は、快く払っておいてくれるのだろう。次に会うときにはそのことでいびられるのかもしれない。それも悪くはないかもしれない、と王平は思った。
7.張飛暗殺
外の空気を吸おうと窓から顔を出すと、陽は既に中天に差しかかっていた。雲一つない晴天の下を、子供達のはしゃいだ声が通り過ぎて行った。句扶は薄暗い女郎部屋の中で、裸の体を大の字に寝かせて考え込んだ。
次の標的は、将軍張飛。今まではあくまで成都の政府に反逆心を持つ者を消してきたが、張飛は益州平定に活躍した、いわば身内である。だが暗殺家は、何故、という疑問を抱いてはならない。それが暗殺家である。
暗殺によって得た金で女を買い、その女の中に精を放つとそんな疑問はどうでもよくなった。そんなことより、どうやればあの一騎当千の武人を殺すことができるのか。逆にこちらが捕らえられれば最高最悪の拷問に処されるだろう。死ぬことは恐ろしくない。恐ろしいのは、その苦痛に耐えきれずにその黒幕の正体を喋ってしまうことだ。どんな強靭な精神を持っている者でも最後まで何も喋らないという者は少ない。平常時の自分と、拷問時の自分は全くの別人なのだ。それは、自らの手で拷問をしてきた句扶が一番よく知っている。いくら喋らないと心に決めた自分ですら、死の淵で体を焼かれ体を削られれば、何も言わないと断言することはできない。義母、つまり王平の母に対して諸葛亮は本当に良くしてくれた。その恩に対して仇を返すようなことだけは、どうしてもしたくないのだ。義理固いとかそういうことではなく、誰も相手にしてくれなかった自分のことを優しくしてくれた人に良くしてくれたということに、単純に感謝しているだけである。死ぬ時が来れば、自らの手で死ねばいい。そう思い定めた句扶は、五人の部下を使って計画を立てることをした。
暗殺の基本は、標的の行動を熟知することである。張飛は成都の郊外の平地に自分専用の調練場を持ち、普段はそこで兵士と共に起居している。十日に一度は休み、その時は一日中館の中にいて酒肉を喰らって女を抱く。魏や呉からの刺客への備えは厚く、息子の張苞を筆頭とする親衛隊が常に張飛の周りを固めているのが厄介だ。
句扶は部下と交代で張飛を四六時中監視した。そして監視を続けて一月が過ぎた頃、句扶は部下と協議した。
「部下への虐待」
句扶がそう言うと、部下は静かに頷いた。
張飛の性格は、高貴な身分に謙り、下の者に偉ぶる。調練中の駆け足に付いてこられない者を鞭で打ち、模擬戦に負けた指揮官を足蹴にし、時には命令を聞き返しただけで立つこともできないくらい打ちのめされる者もいた。対呉戦に向けて気が荒れているのか最近の暴虐ぶりは特に酷く、句扶が監視している時で四人の兵卒が張飛の手によって殺されていた。
「殺された者の親族を調べてこい」
命令すると、部下は静かに消えて行った。
張達と范彊。部下が調べてきた、張飛に兄弟を殺された兵卒の名前である。句扶は張飛軍の具足を手に入れ軍内に潜り込み、その二人との接触を試みた。嫌な雰囲気の軍だった。調練をこなす兵卒の顔には苦痛の色しかなく、兵卒どうしの会話が極端に少ない。ただ上官から言われたことを黙々とこなすためだけの集団である。こういった軍は、あるいは戦場では強いのかもしれない。しかし句扶は、こういった空気が嫌いであった。その一番上に立つ者を殺すことで、この集団を潰す。そう思うと句扶の血はふつふつと沸き上がってきた。
夕刻、調練が終わると兵達は多少の明るさを取り戻して各々に兵舎へと戻って行くが、一人木陰に腰を下していつまでも動かない兵がいた。部下が知らせてきた、張達という兵である。句扶はその方へじっと視線を向けると、張達は句扶の視線に気付いていそいそと兵舎の陰へと姿を隠した。
「そんなに悔しいのか」
その後をつけた句扶は、泣きべそをかく張達の背中に優しく語りかけた。張達ははっとして体をこちらに向けた。隠そうとはしていたが、顔は涙と鼻水ですっかり汚れていた。
「ほっといてくれよ」
張達は逃げるようにその場を離れようとした。
「そうやって泣き続けることこそ、兄貴に対する最高の弔いになるのかな」
句扶は張達に近づき、その背にぽんと手を置いた。
「だから何だって言うんだ。悔やんだって俺等には何もできねえ。ただ、こうやって泣くことしかできねえんだ」
「そうか。しかし男に生まれながらそうやって泣くだけとは、情けないことだ」
「お前に何が分かる。俺の唯一の家族だったんだぞ」
暗殺家といえど、心はある。張達のその言葉は句扶の心を動かしそうになったが、句扶は鼻から大きく息をつくことでそれを抑えた。
「俺も、将軍に弟を殺された。お前と同じ、たった一人の家族だった」
張達の顔に、少しだけ興味の色が生まれた。句扶はそれを見て内心にやりとした。
「もし仇討ちをする気があるんなら誘おうかと思ったんだが、これはとんだ期待はずれだったかな」
今度は、句扶が背を向けようとした。
「待て、待ってくれ。そんなこと、俺に漏らしちゃってもいいのかい」
「あんたは、兄の仇に俺を売ろうというのか?」
「そんなことは言ってねえ。いや、そんなことするはずもねえ。ただそういうことは用心を重ねてするものだろう」
句扶はそれに不適な笑みを見せることで答えた。張達は近付き、句扶の耳に口を寄せて言った。
「仇討ちと言っても、どうするんだ」
食いついた。
「簡単なことだ。この剣で、あの首を胴から切り離してやればいいのだ」
「でも将軍の周囲には、いつも息子の張苞が警護している」
「失敗したらそこまで。どうせ生きていても仕方のない命よ。まあ、臆病者のお前には分からんことだろうがな」
そう言い捨て、句扶はその場を離れようとした。
「俺もやる」
「何?」
句扶は振り返った。
「俺もやるって言ってるんだ。一人より、二人の方がいいだろ? どうせ俺だって、人知れず戦場で死んでいくだけの男だ。それを悲しんでくれる人だってもういない」
「少しは根性があるみたいだな」
「根性じゃねえ。どうせ生きてたって面白いことなんてないんだ。だったら兄の仇に、一矢報いて死にたい」
句扶は黙り、少し考える顔をして見せた。無論、演技である。
「いいだろう。ならその命、俺に預けろ」
二人はそれから、具体的に張飛の首をどう狙うか話し合った。そして偶然を装って范彊にも接触した。范彊は心が不安定になっているのか、こちらが話しかけてもへらへらとして取りとめなく句扶を失望させかけたが、仇討ちの話を始めると顔色を変えていきり立ち、句扶と張達を驚かせた。
暗殺には、この二人を使う。もし失敗しても、この二人がいることで単なる仇討ちが目的だったと相手は思うはずだ。やるのは早い方がいい。事が遅れれば遅れるほど、相手に露見する危険が高まるからだ。
指令を受けてから二月近くが経とうとした時、部下が諸葛亮の言葉を持ってきた。どうやら調査に時間を費やしている間に、荊州へと兵を出す日が決定されたらしい。やるならすぐに殺せ。無理ならすみやかに帰還せよ。とのことだった。
句扶はその命令に不快感を覚えた。もう計画を実行に移すまでの段階まできているのだ。帰還する理由などどこにもない。句扶は部下を全員呼び集め、指示を与えた。出兵を祝して張飛の館で酒宴が開かれる。その日が、張飛を暗殺する日である。
句扶は張達と范彊にもそのことを伝えた。
「酒宴で酔いつぶれたところを狙う。俺が張苞を引きつけておくから、その隙にお前らが張飛の首を取ってくるのだ」
こんな大仕事は自分の手で仕上げたかったが、張飛の暗殺はあくまで部下の反乱だと見せなくてはならない。
「俺なんかに、あんなおっかねえ将軍を殺せるんだろうか」
范彊は句扶の話を聞いて足を震わせた。隣では、張達が顔を真っ青にして手を震わせている。
「恐ろしいならやめておけ。今までと同じように死んだように生きればいい。そして、どこかで野たれ死ね。それでお前らの兄弟が喜ぶとは思わんがな」
兄弟と聞いて、張達の指の震えが止まった。
「いいや、俺はやるよ。俺の兄は虫けらのように殺されたんだ。このまま何もしなくても、あんたの言うように俺はどこかで虫けらのように死ぬんだろう。それなら、ここで兄のために死ねばいい」
「おい。何も俺達は死にに行こうってわけじゃないぞ」
悲痛な顔をする張達に、句扶はほほえみかけた。いつしか、こんな顔もできるようになっていた。
「張達がやるなら、お、俺もやるよ。あんな虎髭野郎、俺がこ、殺してやるんだ」
三人は打ち合わせをした。張飛の周りを警護する張苞は句扶が引きつけ、その間に張達と范彊が張飛の館に走り、その首を取る。決行時には句扶の部下が館に火をかける手はずとなっているが、それは秘密にした。
暗殺決行直前は、いつも眠ることができなかった。眠れずとも、それで体の動きが悪くなるということはなく、むしろ体のきれは増す。句扶は誰もいない隠れ家の中で、暗闇に身を潜めてただ時間がくるのを待った。暗闇と同化していると、様々なことが頭に浮かんでくる。張飛将軍の横暴により、張達と范彊の兄弟は殺された。もし王平が殺されていれば、自分もあの二人のように怒ることができるのだろうか。怒るのかもしれないとは思うが、それは実際に起こってみないと分からないとも思えた。だから、兄弟を殺されてあれだけ苦しむことができる二人が、句扶には少し羨ましく感じられた。そんなことを考えている内に陽は昇り始め、そして傾き、また暗くなり始めた頃に部下が酒宴の始まりを告げに来た。
張飛の館にはたくさんの篝火が並べられ、賑やかな声が遠くまで響いている。警護の手が明らかに緩慢になっているのを句扶は見て取った。恐らく、張苞もその酒宴に加わっているのだろう。これなら、いけるはずだ。句扶、張達、范彊の三人は館から少し離れた岩陰で落ち合い、お互いにその覚悟を確かめ合った。
「絶対殺してやる、絶対殺してやる、絶対・・・」
思いつめた顔をした范彊が、口の中で何度もそう呟いていた。その様子を見て張達は心配そうにしていたが、こういう者の方が下手に強がる者よりよほど信頼できることを句扶は知っていた。
三人は館の裏手にある雑木林に身を潜めた。部下が火の手を上げれば、脇目もふらずに張飛の元へと走る。もし失敗すれば、二人を見捨ててこの場を去る。簡単な仕事である。
数刻待った。句扶は緊張で恐慌状態に陥りそうになる范彊を何度も宥めて落ち着かせた。月明かりのない暗闇と、篝火に浮かぶ将軍の館。酒宴は終わり、辺りから喧騒さが消えていく。何の前触れもなく、館の方々から一斉に轟音と火柱が上がった。
「行くぞ」
句扶の言葉を合図に、三人は飛び出した。范彊は狂ったように奇声を上げながら走っている。塀を乗り越えると、張苞が混乱をまとめようと怒声を上げて指示している。だがその足元は、明らかにおぼついていない。まともに動けるのはこの館に数人いるかどうか。そう読んだ句扶は真っ直ぐに張苞へと走った。
「行け、お前ら」
火は急速に燃え広がっている。早くせねば、火と煙のせいで張飛を逃しかねない。
「きぃやぁぁぁぁぁぁ」
眼を獣のようにした范彊が一目散に館の奥へと走り、子供のような泣き顔をしている張達がそれに続いた。
張苞。ふらつきながら矛を突きだす。それをかわして懐に飛び込み、さっと短剣を薙いだ。腹が裂け、鮮やかな赤がそこからこぼれた。張苞は信じられないという顔でその場に座り込み、へらへらと笑い始めた。左右からの敵。右に飛び、喉を突く。左の敵は張苞の姿を眼にすると、武器を捨てて逃げ去った。標的はどうなった。自分も奥へと走るべきか。
「やったぞ。やったぞ」
奥から張達の声が聞こえた。炎上する館の中、糞尿で足を汚した范彊が生首を手に雄叫びを上げながら出てきた。確かに張飛の首であった。句扶はそれを確認すると、張達と范彊を残して素早くそこを離脱した。追手は、いない。部下は一人も欠けることなく集合地点に来ていた。作戦は大成功である。張達と范彊は恐らく、捕らえられて散々に拷問を受けた末に死んでいくだろう。それは、仕方のないことである。
蜀軍の東進は中止となった。張飛を暗殺することで、何千何万の命を救い、国の疲弊を防いだのだ。しかし句扶にとってそんなことはどうでもよかった。暗殺後に欲するのは、安息できる場での睡眠だけである。
8.暗殺後
暗殺は成功した。張飛の死は兵士の反逆によるものだということで世に知られることとなった。これで蜀国の命運は後先を顧みない蛮勇の男に引きずられるということはなくなった。張飛は蜀の帝である劉備が若かったころから付き従っていた義兄弟であり、益州攻めの時は諸葛亮とも連携して荊州から攻めあがった盟友であった。だが今の自分は一国の宰相なのだ。蜀を乱す者は誰であろうと許すわけにはいかない。そこにはどんな私心も挟んでいい理由などないのだ。
軍の東進は中止された。これで蜀軍に注がれるはずであった蜀国の財は守られることとなった。その分、蜀を富ませる余裕ができ、あとは呉との関係を修復して同盟を結べば巨大な魏に対抗することができる。武官はその中心に趙雲という、昔から劉備の身辺を守ってきた者が就き、その下では馬謖、王平、陳式という若者が育ってきている。中でも、諸葛亮は馬謖という才気をかわいがっていた。
馬謖は荊州出身の名士で、諸葛亮を兄と敬慕する馬良の弟であった。大人しい兄に比べて多少言葉数の多い男であったが、その気質は文官よりも武官に向いていると見て、いずれは大軍を指揮する武将に育ててやろうと思っていた。
「荊州に攻め入れなくて残念か、馬謖」
馬謖は東進論者であったが、諸葛亮はそれを口にすることを禁じていた。
「荊州は私の生まれた故郷です。それを回復させたいと思うことは、人として当然のことではありませんか。先生は荊州に帰れなくて寂しいとは思われないのですか」
「寂しい寂しくないで政治をするのではない。私心に捕らわれ天下を乱すようなことをしてはならんのだ」
同じような問答はこれまで何度もした。馬謖はその都度不満な顔をしたが、民政こそ今の大事だと兄にも諭され渋々従った。
諸葛亮は馬謖に千の兵を預けていた。益州出身の精鋭、東州兵の千である。これから徐々に数を増やし、いつかは馬謖を軍団長とした諸葛亮直属の軍をつくり、それを蜀軍の主力にしようと計画していた。張飛のように暴走することのない、諸葛亮の理性により手足となって動く軍である。
益州から戦のにおいは薄れていき、武官は平時の軍務を、文官は民を富ませるための努力に精を出し始めた。
法は経験豊富な張裔の下に蔣琬と費禕を配して任せ、諸葛亮は新田の開発や貨幣鋳造に関する仕事を取り仕切った。
張飛が死んでからというもの劉備の顔からは覇気を失せ、老人のようになってしまっていた。政庁に顔を出すこともなく後宮に篭って誰とも会うことを拒むのだった。
不思議な人であった。張飛が死んだという報が入ってきたのは、劉備が諸葛亮と食事をしている時だった。注進の者が政庁へと入りその場の空気ががらりと変わると、まだその報も聞いていないのに
「張飛が死んだか」
と呟き、悲しみに溢れた眼を諸葛亮に向けてきた。
「突然、何を申されますか」
平静を装っていた諸葛亮であったが背中に冷たいものが走り、その毛穴から一斉に汗が吹き出た。
劉備は食事も途中に箸を置き、そのまま無言で奥へと入っていった。諸葛亮は、そんな劉備に何も言葉をかけることができなかった。
しばらく誰も近づけなかった劉備が久しぶりに後宮から出てくると、誰よりも先に諸葛亮に会い、軍を東と向ける旨を告げた。その眼には怒りも悲しみもなかった。しかし益州や漢中を攻めた時の力強さもなく、例えるなら望みもないのに愛しい人に想いを告げに行く、周りの見えなくなった男のようであった。諸葛亮は、呉攻めを止めることを諦めた。
結局、この人にとって漢王室などどうでもよかったのかもしれない。心で結ばれた三人で何か大きなことを成し遂げたかったのだ。それがたまたま蜀という一国家を持つという結果に収まったが、二人の義兄弟が死んでしまえば、あとはもう何がどうあろうとよくなったのかもしれない。劉備が篭り続けていた間につくった民政案も、劉備の耳には既に入らなくなっていた。もうこの人にとっては、蜀という国すら無意味なものでしかないようであった。
そういった義侠心が下らないものだとは思わない。しかしそのために、一体どれほどの人が死んでいったと思っているのだ。今まで我々のために死んでいった数多の命のためにも、蜀を栄えさせ、魏を討つことに力を入れるべきではないのか。そう思おうとも、それはもうおくびにも出せることではなかった。
諸葛亮は東進に付いていくことを辞退した。いや、劉備が無言の圧力で、諸葛亮に成都残ることを強いたのだ。参謀には諸葛亮の代わりに馬良が付随することとなった。
隆中より出でて劉備に従い、赤壁で曹操軍を破って南荊州を得て、そこを足がかりに益州を奪って漢中で再度曹操軍を退けた。その間に度重なる進言をし、あらゆる難局を共に切り抜けてきたが、ここまで心が通じ合わなくなったのはこれが初めてであった。通じ合わなくなったといっても、憎しみあっているわけではない。互いの心の中にある一番大事なものが食い違っているのだ。劉備にとって大事であったのは侠の心であり、諸葛亮にとってのそれとは国に住む民の豊かさであった。いくら自分が劉備の臣といえども、蜀に住む多数の命と財産を失わせてでも戦を優先させて良いなど、どう考えても肯んずることができない。
兵が、少しずつ成都の城門から出て行き始めた。総勢四万の大軍であり、長い列をつくった蜀の兵が東へ向かって行進していく。その光景を諸葛亮は、蔣琬をはじめとする部下と共に呆然と見送った。できることなら今すぐにでも止めたい。劉備だけのためにあるこの東進は、蜀とそこに住む民にとって不幸でしかないのだ。しかし一方で、劉備が賭けるこの東進を批判しきれない自分もいる。張飛を殺した自分自身をも肯定しきれない自分もいる。
「蔣琬、お前は陣頭で指揮を執ってみたいと言っていたな」
「はい」
「お前はこの軍を指揮したいと思うか?」
「・・・・・・思いません。この者達の中で、一体何人がここに帰ってくることができましょうか」
「戦をする者は、国の外側だけでなく、内側も見ておかなくてはならないのだ」
「この行列を見ていると、分かる気がします」
「しかし男とは面倒なものだな。それが分かっていながら、このように戦いに行くことを否定しきれんのだ」
「簡擁様が言っておられました。どんな力を持っていても、どうすることもできないこともあるのだ。それは、自らの心に対してもそうなのだ、と」
「ならばそうなってしまった主のために、我々は懸命に働くしかないのかな」
「これは先生らしくない弱気なお言葉。蜀軍は、勝ちますよ。そう願いましょう」
願うようになったら終わりだ。そう出かかった言葉を諸葛亮は飲み込んだ。劉備は、この戦で死ぬつもりなのだろう。死ぬ時は一緒と決めた義兄弟が死んでしまったことで、自分も華々しく散ろうと思っているのだ。それこそが劉備という男であり、自分はこの男のそんなところに惚れたのではなかったのか。絶えることなく進んでいく兵を見ていると、この男にもっと最上の死に場所を用意してやるべきではなかったのか、という胸を刺すような想いは湧いてきた。諸葛亮は周りの文官の誰よりも前に進み出て、その列を見送った。
今思えば、最初から止められるはずがなかったのだ。生き方の違う劉備と二人の義兄弟にとって、これから蜀という若い国で生きて行く若い諸葛亮の言葉など陳腐なものでしかなかったのかもしれない。
一際大きく豪華な兵車に乗った劉備が姿を現し、諸葛亮らはそれに拝礼した。心中、穏やかでいれるはずがなかった。反対したといっても、劉備のことを嫌悪しているわけではない。また劉備も自分のことを憎んでいるわけでもない。若い時に負った、誰にも言えなかった心の傷を理解してくれたことがとにかく嬉しかった。強くなった自分を認めてくれ、その力に最高の活躍の場を与えてくれたことには感謝してもしきれない。その劉備が、死に向かっているのだ。諸葛亮は拝礼した頭をはっと上げた。兵車上の劉備はとても穏やかな表情でこちらを見ていた。周囲の音は何も聞こえなかった。聞こえないということにすら、気づかなかった。劉備は優しい笑みをこちらに向け、目の前から遠ざかっていった。自分の好きな男が、死に行く。劉備の周りを囲む荊州兵が、劉備を黄泉へと連れて行く悪鬼に見えた。ここで飛び出していき、劉備の体を何としてでも止めたいという衝動を諸葛亮は懸命に堪えた。私はまた、自分の好きな人を助けることができないのか。劉備が東の彼方に消えていくまで、諸葛亮はそれを見つめ続けた。これが、若い時に望んだ地位のある者のあるべき姿なのか。
9.悪童
東で蜀軍が大敗を喫したという報せを聞いたのは、いつものように弩の練習をしている時だった。王平はまだ軍に入って間もないため、呉攻めの軍へと編入されることはなかった。だが本当は、勝ちを見越すことのできない戦に若い者を行かせたくないという諸葛亮の意思がそこにあるのだと、蔣琬がこっそりと教えてくれた。東進軍のほとんどは荊州から従ってきた兵で編成されており、東州兵と呼ばれる益州出身の兵は成都に残り、王平はその若い東州兵達の調練を任されていた。
これから、東の呉との関係を修復しなくてはならない、とも蔣琬は言っていた。ならば何故呉と戦をしたのか、とは王平は聞かなかった。それは恐らく言葉では説明し難いことなのだろう、となんとなく思っただけだ。
間もなく劉備が遠征先で没し、その後を息子の劉禅が継いで、諸葛亮は蜀の丞相となった。丞相と聞き、王平は曹操の顔を思い出した。曹操は体中から覇気を発しているような男で、その覇気は敵に恐怖を与え、味方には信頼感を与えた。そして自らよく動き、王平の調練を直に見に来たこともあるほどである。悪童をそのまま大人にしたような丞相だ。王平は蜀の臣から曹操のことを聞かれると、しばしば悪童という言葉を使ってその男のことを説明した。しかしなかなか自分の言いたいことが上手く伝わらず、ほとんどの者がそれを聞いて、今は亡き曹操のことをあざ笑った。
諸葛亮は、そんな曹操とは全く別種の男であった。
「どう違うというのだ?」
王平の話に興味を持った蔣琬が聞いてきた。丞相府と呼ばれるようになった政庁内の一室である。文官仲間の費禕も一緒にその話を聞いていた。
「曹操は、その力を外へと発しているように見えた。諸葛丞相はその逆で、力を内へと向けておられるように見える」
諸葛亮は丞相となり、周りからもそう呼ばれるようになった。蔣琬も今では先生ではなく、丞相と呼んでいる。
「確かに丞相は内政に関しては天才的だ。だからこそ、俺達もあの方に従っている。しかし、戦に関しては張飛将軍や関羽将軍には遠くおよばない。力を内に向けるとは、そういうことか」
「その通りです、費禕殿」
「殿はいらん。蔣琬と同じように接してくれ」
費禕が鼻を鳴らしながら言ったので、王平もそれに鼻で笑って答えた。
「そうか、曹操は悪童の親玉であったか。その悪童仲間が魏をつくったのだな。なるほど乱世向けの男達が揃っていたのだ。なあ費禕、それなら俺らも悪童の素質を持っているじゃないか。丞相は、俺らのそんなところを買ってくれているのかもしれないな」
蔣琬が嬉しそうに言った。この二人は博打を通して仲良くなったのだという。王平は、費禕とはどういう男かと気構えしていたが、話してみると小気味良く、仲良くなれそうな男だと思えた。
「その曹操は、もうこの世にはいない」
王平が小さく言った。
「そうだ。その跡継ぎである曹丕は大した男ではなく、我欲を抑えることもできず自らが帝になりやがった。これは味方からもかなり反発されているようだぜ」
「そして蜀に、魏へと攻め込む口実を与えた。そこで王平、お前に活躍してもらうのよ」
なるほどこの二人の調子は悪童だ、と王平は思った。
「では、北に兵を向けることとなるのだな」
「そういきたいところだがな、なかなかそうもいかん。先ずは呉に頭を下げて同盟を結ばねばならん。鄧芝のおやじさんが外交目的で呉に向かったことは聞いているな」
「聞いている。あの人は、文官の仕事もするのだな」
「はは、それだけ蜀に人が不足しているということよ。俺らの先輩である馬良さんも、東進軍の中で死んだ」
費禕が吐き捨てるように言った。
「そうだ王平、馬謖という男がいるだろう。あいつは馬良さんの弟なのだが、上手く兵を動かせるのか?」
馬謖も成都の近郊で兵の調練をしており、王平もたまにそれを目にすることがあった。しかし王平と一緒に調練をすることはなく、趙雲や鄧芝のような老練な武将と行動を共にしていた。自分のような新参者は避けられているのかもしれないと思えたが、それを口にすることはなく、むしろそんなことは王平にとってどうでもいいことであった。
それより王平は、蔣琬が馬謖のことをあいつ呼ばわりしたことに興味をそそられた。
「あまり俺とは関わりのない人だが、軍学は身につけておられると思う。戦ぶりだけは、実戦を見てみなければわからんがな」
「あいつは口ばかりの奴だよ。前に馬謖は南の越崔で太守をやっていたんだが、そこで反乱が起こっても軍議ばかりでろくに功績も上げられなかった。あいつは何故か年上によく可愛がられているが、劉備様だけはあいつのことを認めていなかったな。そこは、流石は劉備様よ」
「生まれた家がいいから、功に貪欲さがないと言えるのかもしれん。俺や蔣琬とは違ってな」
貪欲さがないとは聞こえはいいが、費禕の口調はそのようではない。
「馬謖は丞相と違い、は力を外へと向ける気質があると思う。丞相は、あの人のそんなところを使おうとしているのではないか」
「なるほど、それは言えてるかもしれんな。しかし下の者にとっては、あいつはやりづらい」
蔣琬が嫌な顔をしながら言った。もしかしたら、馬謖が軍人になることに対して多少の嫉妬があるのかもしれない、と王平は思った。
「あいつは南方の情勢に詳しい。そうだ、王平。呉との同盟が成れば、蜀軍は南へと遠征するぞ」
「南へ? 何でまた」
「今回の東進で蜀の国庫が乏しくなったのを、南からの物資で補おうというのだ。向こうでは劉備様が亡くなられてから小さな反乱が続発している。それを鎮めるためでもあるんだがな。俺もそれに従軍したいが、多分成都で補給係をやらされるだろうな」
蔣琬は苦笑いをした。
「そうか、北ではなく、南か」
「恐らく、お前も行くことになるだろう。俺も恐らく蔣琬と一緒に成都にいることになるだろう。お前の腹は俺達がしっかりと満たしてやる」
「それよりな、費禕。王平は洛陽に家族を残してきているんだ。南より、早く北へと行きたいのさ」
「そうだったのか。俺達も荊州という故郷を失った。互いに頑張らねばならんな」
「そうだな。しかし当面は南だ。そちらに先ず全力を尽くすことにしよう」
もう洛陽を離れて三年が経とうとしている。歓への想いはまだ変わらないが、それを誤魔化して振舞えるようにはなってきた。それが、良いことなのか悪いことなのか、王平には分からなかった。
「南征の前に、大規模な軍事演習があるだろう。もし馬謖の野郎と対することがあったら、あの鼻っ柱を折ってやってくれ」
蔣琬が、筋肉波打つ王平の肩を叩いて言った。
「俺も口だけだと言われないようにしなくてはな」
「なんの。お前はそんな男ではないよ」
馬謖という男は、確かに気に食わないところがあった。諸葛亮を交えて初めて会った時の態度が、まるで魏の高官のように高慢であったからだ。そういう嫌な奴がいるということは組織の中にいる限り仕方のないことだと思っていたが、蔣琬らも同じことを考えているのだと知ると王平は嬉しくあり、また不思議な感じもした。国と国が争い、またその中でも人と人との争いがある。人の営みとは、実は本当に下らないものなのかもしれない。
10.劉備の死
雨が濡らす永安の森から西へと伸びる寂しい街道を、諸葛亮は己が身を成都へと運ばせていた。その雨は暑さのために湿気となって人の肌へとまとわりつき、その体からはじわりと汗が滲み出ている。
劉備が死んだ。筵売りから身を起こし、一国の皇帝とまでなった巨人であった。
蜀から呉への国境を越えた夷陵という地で、蜀軍は大敗した。初めは順調に呉の小城を攻め陥としていった蜀軍であったが、伸びに伸びきった兵站を横激され、後方を遮断された。そして蜀軍は呉の大軍に包囲殲滅させられたのだった。そしてその中で、諸葛亮の義兄弟である馬良が死んだ。関羽、張飛が劉備軍の象徴であったように、諸葛亮、馬良といえば蜀の文治そのものであった。
かろうじて虎口を脱した劉備は永安の白帝城まで落ち延びた。
その報を受け、諸葛亮はすぐに白帝城へと急いで向かった。報せによると劉備は憔悴しきり、明日をも知れぬ命なのだという。
白帝城に着いた諸葛亮は、劉備の顔を見て息を呑まずにはいられなかった。成都を出た時にほほえんでいた面影は消え、頬は痩せこけ目はくぼみ、まるで十年も二十年も齢を得たようであった。たった一年足らずで人はこうも変われるものなのか。
「孔明か。悪いな、忙しいところを」
劉備は、隣町のおやじが碁でも打ちにきたかのように言った。それは久しく見なかった、益州を奪う前の劉備の姿だと思えた。
諸葛亮は、深く息を吸い込み、吐いた。
「だから言ったではありませんか。呉攻めは無謀であると」
「そうであったな。全く、孔明の言う通りであった」
「早く養生なさいませ。蜀の国内は私が首尾よく整えております。国力を早々に回復させ」
「よい、孔明」
劉備の言葉が遮った。その言葉に鋭さはなく、むしろ悲しい程に優しかった。
「もう、ここらでいい。夜になるとな、関羽と張飛がそこに立つのだ。よくやってくれた。さすが俺らの兄貴だと、誉めてくれるのだ」
諸葛亮は言葉もなく、ただ頷いた。劉備のこういう言葉を聞いていると、国を富ますことに没頭していた自分があまりに小さく見えてくる。劉備は一国という己の財産を投げ捨て、友人との義に走ったのだ。文官が自分の国を栄えさせようとすることが下らないはずがない。だが劉備の言葉がこうして心の内を震わせるのは、自分が文官である前に一人の男として劉備らと共通したものを持っているからである。
「お前がいてくれるおかげで、こうして死ぬ間際になっても安心していられる。お前はただの文官ではない。わしのような男を理解してくれ、最後までつきあってくれた、優秀な文官だ」
「何を弱気なことを言われます。成都へ帰還なさいませ。そして漢王朝を再興するというお志を」
今度は、諸葛亮が自ら言葉を止めた。劉備がそれを鼻で笑ったからだ。
「分かっておるのだろう、孔明。そんなことはどうでもいいのだ。わしは昔から中山靖王劉勝の子孫だと言っていたが、あんなものは口からの出任せに過ぎん。ただ、人の風下に立ちたくなかった。この世にはびこる、己の信念も持たず、飼われるように生きる人間の一人となりたくなかったのだ。わしは自分の正しいと思うことを曲げずに生きてきた。そして気付けば、一国の皇帝となってしまっていた」
劉備が咳き込んだ。もう休むようにという側近を手で制し、続けた。
「数千の上に立つ頭領がわしには調度良かったのだ。一国の民を抱えるには、器の小さな男であった。いつ死んでもおかしくなかった命が今日まで生き長らえた、運がいいだけの男であった。しかしそれは、多くの人たちにとっての不運であったのかもしれない」
「そのようなことはございません。今でも蜀の万民は、劉備様のことを慕っております」
「いいや孔明、わしには分かっているその慕ってくれるものたちの多くの命を、この呉攻めで失わせてしまった。しかしわしがわしであるためには、我侭だと言われようとこうする他はなかったのだ。そしてそのために命を落としていった者のためにも、わしはここで幕を引かねばならぬ」
劉備がまた咳き込んだ。しかし彼の言葉を止めることができる者は、もういなかった。
「後のことは孔明、お前に全て任す。残ったことは、全てお前に任せたいのだ。最後まで民のことを想い、呉攻めを本気で止めようとしてくれたのはお前一人だったという気がする。お前のようなものが、国の頭となるのが一番良い。国政も軍事も、お前が取り仕切れ。これをお前への、最後の贈り物とさせてくれ」
諸葛亮は、眼を閉じた。そして乱れそうになる心を必死に抑えた。乱れさせてしまえば、この男の声が聞こえなくなるではないか。
「もしあの世というものがあるのならば、孔明、お前には最高の酒と肉を向こうで用意して待っていよう。そしてお前が好きだったという女には、何かしらの爵位を与えてやろうではないか」
妙なことを憶えている。そう思うと同時に目尻から零れる一滴を、諸葛亮は止めることができなかった。
「こんな時に、何を馬鹿なことを」
「ほう、一国の主に、お前は馬鹿だと言うのか」
骨と皮だけになった顔が、ふっと笑った。諸葛亮は、触れれば折れてしまうのではないかというその手を取って言った。
「馬鹿です。大馬鹿者です。もっと他に色々と言っておくべきことがあるでしょうが。後継のこととか、その下で働く人材のこととか」
「そんなことは、死にゆくわしにとってもうどうでもいい。それも全て、お前の好きにやってくれ。わしがやるよりも、その方がいいという気もする」
そして劉備は少し眠らせてくれと言い、そのまま眼を覚ますことのない人となった。最後の力を、諸葛亮への言葉に費やしたのだった。
雨の中、御車の上で諸葛亮は自分の中で何かが変わっていくのを感じていた。
死んだ後のことはどうでもいいと言いながら、その遺言はきちんとした文章として残されていた。恐らく、東へと進む軍の中でそれは作られたのであろう。それは孤独な作業だったに違いない。それを想うと、諸葛亮の胸はただ熱くなった。
歴史の真っ直中に立ってみたかった。それは、蜀を建国した中心人物の一人となることで果たされた夢であった。しかしそれは本当に自分が心から望んでいたことだったのだろうか。劉備が死んだという大きな喪失感が、諸葛亮にそう思わせた。
これから自分は、どのように生きて行けばいいのだ。国を富ませればいいのか。軍を養い魏国に攻め込めばいいのか。蜀のような小国が魏を討てるとは到底思えなかった。魏を討つどころか、蜀国内の情勢すらまだ安定していないのだ。
劉備は漢皇室のことを第一義とし、それを私物のように扱う曹操を最大の敵として転戦を重ねてきた。その意志の集大成が、蜀という国である。ちっぽけな一人の筵売りが多くの人を動かし、ここまでに至ったのだ。それはどう考えても、信じられない程の偉業であった。そして自分は、そんな信じられない国を任せられたのだ。
この死んでいった巨人のために生きていく。魏という大国を倒し劉備という男がいたことを後世まで伝えていかなければならないのだ。昔は、知の力によって自分の名を世に轟かせたいとばかり思っていた。今となっては、それは本当にちっぽけなことなのだと思える。金や権力のためでなく、自分の好きな人のために働く。それが男としての最高の生き方なのだと、劉備はこの世を去ってからも教えてくれているようであった。
11.王平と馬謖
南征軍を編成するための、大規模軍事演習の日がやってきた。
王平が率いる軍は、蔣琬らが言っていた通り馬謖軍と相対することとなった。もしかしたらあの二人が裏で何か手回しをしたのかもしれない。が、相手が誰であろうとやることは同じだ。兵力はお互い、同数の五千である。丈夫な具足と刃のない武器で武装させた兵を、王平は起伏の少ない平地を進んでいた。原野での遭遇戦を想定した演習である。不意の戦闘であるため綿密な作戦を立てることができず、指揮する武将の力量が試されることとなる。
双方共、互いの位置は聞かされていない。王平は四方に斥候を放ち、唯一諸葛亮から指令として与えられている目的地までゆっくりと進軍させていた。どこか遠くの小高い丘陵からは、諸葛亮がこの戦場一面を、蔣琬や費禕らの若い文官を従えて観戦しているはずだ。
王平はその観戦者ら文官の眼を一切無視しろと、それぞれの部隊長の通達した。人の眼を気にしていて、戦ができるはずがないのだ。
馬謖の軍も、この仮想戦場のどこかを進軍しているはずだ。当然、その軍はどこからどこへ向かっているかは分からない。進発は日の出より始まり、今や陽は中天に差し掛かろうとしていた。目的地までは、およそ六十里(約三十キロ)。ここで兵に食を摂らせるか、兵を急がせ空腹のまま日が没する前に目的地へと向かわせるか、選択の余地がある。王平は、兵を急がすことを選んだ。
伝令が、炊煙を発見したと知らせてきた。王平は一旦全軍を止め、迷うことなく進路を変更させて炊煙の方へと軍を走らせた。誘われている。不意の遭遇戦を想定しているとはいえ、どこかでぶつかることはお互いに分かっているのだ。恐らく、この王平軍の動きは既に馬謖軍の斥候により探知されているであろう。次々と、王平の元に伝令が戻ってくる。馬謖軍は平地に水煙を上げるだけ挙げて、軍そのものは小高い丘の上に陣を組んでいるという。互いの距離は、既に六里を切ろうとしている。
王平は歯軋りさせた。馬謖は明らかに自分からこちらに軍を向ける意志はない。王平軍を自軍に有利な場所におびきよせようとしている。何が遭遇戦だ。始めから、馬謖は進軍するつもりなどないではないか。自軍に有利な場所を探し出し、亀の様に構えて敵軍を待つ。それは確かに、地の利を得るという意味で軍学に適っている。だがそういった行動は、敵軍が近づいていると頭から分かっているから取れる手段であり、最初から馬謖には遭遇戦などやる気などなかったのであろう。ただ形振り構わず演習で勝ちという結果を得たいのだと、伝令からの報告でありありと見て取れた。
これ以上進むと危険である。王平は再度軍を止め、陣を組んだ。そして馬謖軍とは逆方向の、目的地の方へと斥候を飛ばした。五里をおいて、両軍は対峙した。馬謖軍は騎馬隊を五百ずつ両翼に置き、いつ攻めてこられても迎撃できる態勢を整えている。しかし、そこからは攻め込んでくる意思は見えてこない。あくまでこちらから攻め込ませるつもりなのであろう。しかしこちらから攻め込むわけにはいかない。攻め込めば、馬謖の思う壺である。
後方に放った斥候が戻ってきた。目的地までは一面の平野であり、馬謖軍の別働隊もいない。王平は旗を振り、鼓を鳴らして軍を目的地に向かって後退させた。先ずは千の騎馬隊からである。そしてゆっくりと、四千の歩兵を退がらせた。それぞれの部隊長には、いつでも振り返って戦闘ができるようにと通達した。この遭遇戦では当然、矛を交えて相手を敗走させれば勝ちである。しかし矛を交えることがなければ、先に目的地に入った方が勝ちだと蜀の臣に印象付けることができる。当然、馬謖はそれを嫌がるはずだ。
王平の思惑通り、馬謖は丘の上から降り、王平軍を急追してきた。軍学でいえば、後退する軍を攻めることは常道であるのだ。王平は内心ほくそ笑んだ。王平軍は何もない平地の真ん中を進んでいた。そして陽は既に、中天と地平線の中間まで落ちてきていた。急追してくる軍は、騎馬隊の千。残り四千の歩兵はその後ろを走ってきている。王平は鼓を鳴らし、歩兵を反転させた。森の中とは違い、その命令が伝わっていくのを眼の辺りにすることができる。思っていた以上に迅速的確に歩兵が陣を組み直し、前面に長槍が並べられた。その歩兵の背からは、赤々と輝く太陽が敵兵に向かって後光を発しているはずだ。
王平はすかさず二つに分けた騎馬隊を走らせ、相手の騎馬隊を後方から包み込むように動かした。交戦が始まった。馬上の王平はそれを眺めながら再度鼓を鳴らし、陣を組んだ歩兵に前進を命じて敵の騎馬隊に圧力をかけた。すると互角だった騎馬戦がにわかに有利となり始め、敵が馬上からぽろぽろと落ち出した。それを見て王平は、全軍突撃の合図を出した。旗が轟と鳴って翻り、鼓が激しく打ち鳴らされた。敵騎馬の後方からは歩兵が追い付いてきた。
これ以上の小細工は互いにできず、両軍が正面からぶつかった。小細工はできないが、王平軍の背後にある太陽が馬謖軍の眼を眩ましているはずだ。
「押せ、押すのだ」
王平は馬を右に左に走らせ、兵を叱咤した。戦況は騎馬戦を制した王平軍が主導権を握り、やがて両軍が入り乱れ、乱戦となった。敵軍の後方では、『馬』の旗が揺れている。
王平は自分の鞍に備えてあった弩を手にした。それには、布を丸めて絞ったものが鏃の代わりとなっている矢がつけられている。王平は乱戦の外側から歩兵の援護をしていた騎馬隊に紛れ、その中から五十騎を率いて疾駆させた。乱戦の中に突っ込んだ。唐突な突撃に敵歩兵は驚き、道が開けた。
目指すは、『馬』の旗。まだ遠い。しかし馬謖もそう思っているはずである。かまわず王平は馬を走らせた。みるみる内に、『馬』の旗が近づいてくる。その旗の下に、ようやく動揺が走った。だが遅い。既に王平は、馬謖の顔が見える位置まで来ている。背後から付き従っている騎馬を、馬謖の周りを固める兵に突っ込ませた。あまりに不意のことだったのか、あっさりと王平の前に空間ができた。
王平は馬を止めた。歪む馬謖の顔。その顔は、いつも射ている的と同じ距離である。弩を素早く、静かに構えた。いつもと同じである。集中すると、周りの音が全て地と空に吸い込まれていった。気付くと、馬謖が落馬していた。当たったのだ。王平はすかさず引き上げの命令を下した。五十だった騎馬は、既に十余りに減っていた。王平は弩を投げ捨て戟を持ち替え、「敵将馬謖、討ち取った」と叫びに叫んだ。武器を投げ捨てる馬謖軍歩兵の中を、王平は駆け抜けた。
演習後、王平は諸葛亮の待つ丞相府に向かった。勝った、という充足感が王平の中に満ちていた。
中では既に左頬を青く腫らせている馬謖が諸葛亮と相対して床机に腰を下ろしていた。こちらには、一瞥もしてこない。王平はその隣に静かに座った。蔣琬と費禕も同席していた。蔣琬が、口元を緩ませながらこちらに目配せをしていた。
「ひどき戦であった」
諸葛亮が、蔣琬の態度を制するように語調を強く言った。その様子は、勝った王平を評価する気はさらさら無いようである。
「遭遇戦をやれと言ったのだ、馬謖。何故、あのような陣取りをした」
馬謖は、言葉もなく俯いた。
「それと王平」
「はい」
「軍を動かし、馬謖をおびき寄せたところまでは良い。しかし、五千の指揮官であるお前がたった数十を連れただけで敵の只中に突っ込むとは何事であるか。あれは兵法でなく、ただの博打である。軍の指揮官は、博打をしてはならぬ。そのようなことをしなくとも、勝てていたであろう」
「はい」
言い返したいことはあった。戦の中にいて、初めて分かることもあるのだ。だが国の頂点に立つ者に対する畏怖が、それを止めた。
「この勝負に、勝者はいない。引き分けとする」
王平は、胸に何か刺さる物を感じた。何故だ。誰がどう見ても、あれは俺の勝ちではないか。
「北へ行け、王平。南征を終えるまで、少なくとも一年はかかる。それまでの間に蜀国内を見聞し、南征が終わる頃には漢中にいろ」
「私では、南征軍に加わるには力不足でございましょうか」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「そうは言っておらん。まだお前には、得るところが多いと言っているのだ」
「わかりました」
勝ちを認めてもらえない不満が、王平の頭の中に渦巻いた。そしてそんな自分を、必死に殺した。
「馬謖、お前は南だ。私の近くで働き、学べ。そして二度とこのような戦はいたすな」
「はい」
俯いていた馬謖の顔に、微かに明るみが浮いた。
「勘違いするな。南に行くからと良い。北へ行くから悪いと言っているのではない。各々で、各々が学ぶべきことを学ぶのだ」
それでその場の者は帰された。思っていたより、ずっと短い評定だった。評定を終えて丞相府からの長い廊下を帰っていると、後ろから蔣琬が走って追ってきた。
「見事な采配だったぞ、王平。とても初めての野戦とは思えなかった」
「しかし俺は、丞相に叱られてしまった」
そう言うも、蔣琬に誉められて王平は強張っていた頬を少し緩ませた。
「確かに、最後の突っ込みはまずかった。丞相はこれ以上、蜀で働く者を失いたくはないのだ。だがあの突っ込みは、演習前にお前を煽った俺のせいでもある」
「そうだ、お前のせいだ。それで俺は、馬謖殿に一泡吹かせてやろうと思ったのだ」
友と呼べる者と接することができ、王平の肩から力が抜けた。力が抜けると、皮肉の一つや二つを言ってやろうという気が湧いてきた。
「見ていて小気味良かった。ああいう男は、一度鼻を折っておいた方が後々良い」
「そんなことをわざわざ言いに来たのか?」
「勝ったはずなのに引き分けと言われた。軍人にとってこれほど不名誉なことはない。しかしな、よく聞け王平」
「さっきから、ちゃんと聞いているよ」
必死な顔をして蔣琬は言葉を並べ始めた。この男には、こんな優しさがある。
「今回の演習はな、決して単純なものではないのだ。特に国の中心にいる丞相にとってはな」
「蜀軍主力を統率しようかという人物が負けたとなると、軍全体の威信に関わる。そういうことだろ」
「なんだ、よく分かっているではないか」
「お前のおかしな顔を見ていたら、そう思えてきたよ。軍の中にいれば、こういうことも仕方のないことなのかな」
「ここだけの話だがな、俺はお前が勝ったと思っているよ」
「そうか」
友が、そう言ってくれている。多分、費禕もそう思ってくれるはずだ。ここはそれで、よしとするべきなのだろう。
「丞相は、俺が負けると思っていたのか」
「お前が負けるというより、馬謖が勝つと思っていたと言った方が正確かもしれん。まさか、あんな臆病な戦い方をするとは丞相も思っていなかったのだろう」
「何故、丞相はあんな男を起用するのだ」
さすがに王平は声を潜め、蔣琬に耳打ちするようにして言った。
「馬良という人がいた。昨年の呉攻めで命を落としてしまったのだが、有能な人であった。その人は丞相と義兄弟の契りを結んでいてな、その弟が馬謖というわけなのだ」
「義兄弟の弟というだけで、軍の中心に据えられるのか」
「それが政治というものでもある。お前には、下らないことだと思われてしまうかもしれんがな」
ふと、王双のことを思い出した。自分が丞相と同じ立場で王双に弟がいたならば、同じことをしたであろうか。もしかしたら、したかもしれない。
「まあいい。今回のことは、納得することにするよ。気を遣わせて悪かった」
「いや、お前が謝ることはない」
蔣琬がほっとした顔を見せた。蔣琬は文官として、自分とは違うところで緊張を感じていたのだろう。
「それで、北へ行けばいいのだな」
「そうだ。南が静かになれば、次はいよいよ北の魏軍だ。そしてその魏軍と戦うのは、他でもないお前であるのだ」
魏軍とか、蜀軍とか、自分にとってはどうでもよかった。ただ気付くと自分は蜀軍にいて、魏軍の敵となっていた。洛陽に帰りたい。胸にあるのは、その想いだけだ。
「早く、家族のところへ帰れるといいな」
胸中を見抜かれたようで、王平ははっとした。しかし、蔣琬の顔には皮肉を言ってやったという色はなかった。
王平伝②
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