教科書に載ってない
おはなし会が終わるとミュリエルはさっと立ち上がり、のそのそしている周りの子たちを置いてその場を後にした。母に結われた上品なリボンが、頭の後ろで揺れるのが邪魔で思いっきり引っ張ってやったけど、失くすと煩いからスカートのポケットに仕舞い込んだ。生まれ持った巻き髪は無遠慮に、そして無造作に元の形に戻ろうとする。ああ、早く一等席を取りに行かなくちゃ! 競うように、ミュリエルは走り出した。
図書館を飛び出すと、陽の当たる広大な芝生に放り出される。正面遠くにある並木の、ちょうど真ん中あたり。そこがミュリエルの一等席だった。駆け抜けたときに踏んだ落ち葉があげた声は、スタッカートを奏でて消えた。勢い余って転んだとき、図書館の赤煉瓦とどこまでも青い空の境目がミュリエルの目を一瞬掠った。
「宇宙の涯になにがあると思う? わたしはね、まっしろであかるい世界があると思うのよ。そのあかるい世界でいつか、宇宙で出逢った、わたしと瓜二つの友だちとお菓子の交換こをするの。わたしは可愛いキャンディを、あの子は可憐なブラウニーを。」
ミュリエルは眼前に拡がるただの青を長いこと見つめて、いよいよ太陽の熱に耐えかねて起き上がった。上体を起こしたミュリエルの白いカーディガンには、ミュリエルが、そして他の誰かが踏んで散り散りにした落ち葉の破片がたくさんついていた。母に怒られることを予兆する声がミュリエルの頭の中を執拗に攻撃する。しかし、はっきり言って、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
だれか、いる。一等席に。
ミュリエルは毅然と、ゆっくりとした足取りで、いつもの木陰を目指した。自分だけの場所だった木陰は、今や別の少年のもの。「ねえ。」と、少年に声をかける。少年は顔を上げた。ミュリエルは険しい顔のまま、無言で少年を見下ろしていた。少年はこんがらがったミュリエルの思惑を、解くように、或いは包むように思慮の深い眼差しをミュリエルに向けた。そうして、口を開いた。
「金星探索の話は、面白かったね。きみもあのおはなし会に居たろう? 最近の科学の進歩は目を瞠るものがあるよ。宇宙飛行士は、近いうちに冥王星まで行っちゃうんじゃないかな。」
ミュリエルは口を結んだままであったが、「冥王星なんて甘いわ。あと五年で、もっと遠くよ。涯の、涯よ。」少年の切り出した話題が自分の感情を揺さぶるものだったので、考えるより先に、つい口が動いた。
「そう。でも、考えてもみてよ。行くのに何億光年も時間がかかる遠くなんてさ、帰って来る頃には友人も誰も居なくなってる。」
「そんなの、大した壁ではないわ。距離を飛び越えていける方法が発見されたもの。昨日は地球で、明日は木星、明後日は地球、みたいなことが、理論上可能なんだから。」
上級生の教科書に載っていた通りのことを、ミュリエルはそっくりそのまま少年に言いのけた。秀才肌のミュリエルは自分の学年の勉強には飽き飽きしており、図書館でもっと先の勉強をするのが好きなのである。少年は手帳を閉じる(ミュリエルが来る直前まで、彼は何か書き物をしていた)と、ポケットからリボンを出した。ミュリエルのリボンだった。驚いたミュリエルは自分のポケットに手を入れるが、そこには何も無かった。
「さっき、図書館の入口で拾ったんだけど。」
少年の手から奪うように、ミュリエルはリボンを取り返した。いつの間に、このリボンはこんな不可思議な長旅をしていたのだろう。きっとミュリエルが図書館から這い出たときに落ちて、ミュリエルの夢が宇宙に行っている間に少年に拾われ、知らぬうちに持ち主をも追い越し、その身だけで目的地に辿り着いたのだ。まるで、宇宙船から切り離された探索機みたいに。
「月はあんなに近いのに、まだ誰も行ったことがない。」
ミュリエルの気持ちなんて置いてけぼりにして、少年は続けた。ミュリエルは躊躇いながらも、少年の目を見つめ続けた。「どうしてだろうね。あと五年もしたら、宇宙の涯にでも行ける僕たちなのにね。」
知らない、とミュリエルは言った。だって、そんなこと上級生の教科書にも載っていなかった。空は依然として何処までも青かった。リボンは、平然と風に揺れている。少年は立ち上がり、自分の名前をリュカと名乗って、その場を後にした。
教科書に載ってない