不良の要素。
(1)(2)
こりゃもう無理だ、このままでは俺は死ぬ、と思ったのは、横井のパンチが綺麗に俺の左頬に入り、2m吹っ飛んだ時の事だった。
(1)
最初に異変を感じたのは、学校の昇降口にある掲示板に貼られた、生徒会選挙のポスターを見た時だ。ポスターには選挙の立候補者の一覧が載っていたが、立候補者の名前がうっすらぼやけて読み取れない。視力2.0の俺が、たかだか数m先のポスターのでかい字を読み取れないなんて、今までありえない事だった。目をこらしても、ぱちぱちさせても、どうやっても読めないのである。
「おい、キンタ。
お前、いつになったら髪染めるんだ。」
俺が選挙ポスターの字に目をこらして、下駄箱の前でつったっていたら担任の山崎が話しかけてきた。どうやら山崎は、朝の挨拶運動に参加していたらしい。朝の挨拶運動とは、生徒会と生徒会顧問が昇降口に並んで、登校してくる生徒に挨拶をするだけの、くだらない学校の生活習慣である。
俺は、近寄ってきた山崎の首にかかっていたネームプレートを見つめた。「山崎文治」という名前こそ読み取れるものの、その上の小さなフリガナがぼやけて見えなかった。文治ってなんて読むんだ。ブンナオか。変な名前だな。
「おい聞いてんのか?」
ネームプレートの他の文字は読めるのに、小さいフリガナだけがどうしてもぼやける。
「おい、キンタ!」
「あ?
ああ、山崎はよっす。」
「何も聞いてなかっただろ……って、俺も間違ってたな。
そうかそうか。まずは挨拶だな。おはよう。」
「おう。じゃあな。」
「じゃあな、じゃないんだよ。
お前、いつになったら髪黒く戻すんだ。」
俺の金髪を指差しながら、山崎は若干あきれ顔で聞いてきた。
「地毛なんだよ。」
「眉毛真っ黒なやつが何ほざいてんだ。」
「髪はパパ似、眉毛はママ似、ミーのパパはアメリカ人。」
「それ本当か。」
いや信じてんなよ山崎。嘘に決まってんだろうが。いかにも人の良さそうな、好青年的な外見を裏切らない中身を持った教師である。
「じゃあな、俺もう教室行くわ。」
「おう。廊下は走るなよ。」
まあ、これも嘘なんだけど。
(2)
「キンタさん、何見てるんすか?」
俺の目線の先を追いながら、林藤が尋ねてきた。堂々と授業をサボり、屋上でタバコをふかしながらつるんでいる金髪2人は、誰がどう見ても不良である。不良2人で屋上の柵にもたれかかり、学校の回りに立ち並ぶビルをボーッと眺めている。
いや、正確には、俺はビルの看板を眺めていた。
「林藤、お前あの赤い看板の字読めるか?」
「え~ッと、……あの、低いビルの隣のビルの看板っすかね。カクタセイメイって書いてありますけど。」
「読めるのか……。」
「読めないんすか?
キンタさん、あ、あれ、小学校で習う漢字っすけど……。」
「馬鹿か。
漢字が読めないんじゃねえよ。」
俺を馬鹿扱いした林藤をぶん殴ろうかと思ったが、そんな気力がないくらい俺はショックを受けていた。
何故、急に視力が落ちているのか。最近、毎晩、電気を消した暗い部屋でゲームをやっていたからか。それとも、この前隣駅の南高のやつらと喧嘩した時に、無様に目つぶしをまともにくらってしまったせいか。まあ、目つぶしされようが喧嘩には勝てたから良いんだけど。
「いつもなら殴られるのに」と不審に思ったのか、林藤がやや心配そうにこちらを見ている。林藤のチワワみたいな目で見つめられると、無性にイライラしてきたので、俺はタバコを揉み消して屋上に寝っ転がった。
「何イライラしてるんすか。」
こいつ、頭は悪いしチビだし喧嘩は弱いし、俺の金魚の糞のくせして、やたら鋭い時がある。
「別に……。
南高のやつら、やり返してくっかな、と思って。」
「ああ、この前の……目つぶし使ってきた卑怯なやつらっすね?」
「そういや、お前もまともにくらってたな。」
と、いうことは、視力の低下は目つぶしのせいではなく、ゲームが原因か。
「そういや知ってますか?
南高に最近転入してきた横井ってやつが、今南高のアタマらしいっすよ。
なんかめちゃくちゃヤバイやつらしくて。」
「横井だって?」
横井直樹。
横井と聞いて、真っ先にそいつの名前が浮かんだ。
「キンタさん、知り合いなんすか?」
「よくある名字だから、わかんねえな。」
「あ、そうっすよね、横井なんていっぱいいるし。
とにかく、その横井が強いやつらしくて、電柱とか普通に折るらしいんすよ。」
「そりゃやべえな。」
「そう、そしてこの前南高のやつらとやり合った俺らもやばいっす。」
「横井に狙われるな。」
「そうなんすよね。
キンタさん、どうしますか。」
「お前が代表で謝ってこい。
文章は俺が考えてやるから。」
「いけにえじゃないっすか……。」
林藤は横井の強さを想像して半泣きになり、どんどんチワワにそっくりになっていった。俺は強いので、横井が強かろうがヤバかろうがどうでも良かったが、南高の横井がもしあの、横井直樹だったらと思うと、はらわた煮え繰り返る思いである。
横井には恨みがあるのだ。
(3)(4)
(3)
黒板の文字が読みづらくなってきたのは、生徒会選挙が終わった頃である。6月半ば、半袖を着ても汗が滲むし、雨はよく降るし嫌な季節だ。
俺は不良ではあったが、最低限の成績はキープして留年しないようにしていたため、最低限の出席日数は確保し、授業も聞いていた。と、いっても、授業をなんとなく聞いて問題も解くが、ノートをとったりはしないので、黒板の字が読めなくても問題はなかった。
ノートは問題ないが、視力に問題があるのだ。
確実に、少しずつ視力が落ちている。夜中のゲームをやめ、毎日ブルーベリーヨーグルトを飲み、お陰で便秘が解消しても、視力は戻るどころか落ちる一方であった。ゲームの時間帯を夜中から昼間に変えただけでは、意味がないのだろうか。
「センセ―。
質問あんだけど。」
授業を進めていた、若い女の教師が一瞬ビクッとし、チョークをこぼしつつ黒板を背に振り返る。
「金田くん、かな。質問どうぞ。」
手を挙げていた俺に、ビクビクしながら質問を促してきた。金髪、長身、目つきの悪さ、態度の悪さ、つまり不良な俺に対して教師は2パターンの態度をとる。
この女教師のように怯えるか、諦めて無視するか。
いや、3パターン目もいたな。担任の山崎は特殊パターンだ。
「目ってなんで悪くなんの?」
「えっ、え? 目?」
「黒板の字、読めねえんだけど。」
「あ、ごめんなさい。
字を大きく書いてほしいって事かな?」
「それはどっちでも良いんだけど、目が悪くなる原因ってわかんない?
思い当たる原因ねえんだよ。」
クラスのやつらも女教師もポカンとしていたが、俺に正面から「関係ない質問で授業を止めるな」などと言う度胸があるやつがいないことは、わかっていた。
そうねえ、と言いながら女教師は少し考え、
「スマホやゲーム、テレビの観すぎとか……。
遺伝で目が悪くなることもあるわよね。」
「遺伝?」
「ええ、親が目が悪いと遺伝する。
私も小さい頃から目が悪くて、多分父の遺伝なのね。」
かけていたメガネをくいっと上げて、女教師は困ったように笑った。
俺が何も答えなかったので、続きは無いと判断されたのか、そのまま授業は再開された。
遺伝なんて、俺にはどうしようもないし、絶望的である。母親の目が悪くないことは知っているが、父親に関しては不明だ。
ポツポツと音がしたので、窓の外に目をやると、雨が降り始めていた。すぐにザーザー降りになり、うるせえなと思いながら、いっそ視力じゃなくて聴力が落ちてくれた方がマシだな……などと考える。
そんな願いも虚しく、俺の完璧な聴力は、どんどん強くなる雨の音をとらえて離さないので、ふて寝すらできなかった。
(4)
「おい……どうしたんだ、その怪我……。」
雨が放課後まで全然止まないので、林藤に傘を持ってこさせるために、昇降口で待ち合わせしていた時の事である。昇降口の掲示板に貼ってあった生徒会選挙のポスターはいつの間にか、当選結果のポスターに貼り代えられていて、俺は相変わらず当選結果の名前がぼやけて読めない。どこまで近づけば読めるのかと、少しずつポスターににじり寄っていたところに、ボロボロの林藤が現れたのだった。
「お前、その傷……。」
「へへ……。昨日の帰りに待ち伏せされて、やられちまいました……。」
近づいてきた林藤の顔と腕には、大量の切り傷があった。
三本線の。
「猫じゃねえか。」
「猫っすね。」
「なんで猫が待ち伏せすんだよ。」
「冗談っす。飼ってる猫のしっぽ踏んづけちまって、バリバリにやられただけっす。」
驚かせやがって。
遠目から見た林藤がぼやけていて、絆創膏や赤いカサブタがなんとなく見えただけだったので、一瞬、南高の横井にやられたのかと思ってしまった。
「ところでキンタさん、何見てたんすか?」
林藤が生徒会の当選ポスターに目をやった。
「生徒会~?キンタさん、なんでこんなん見てるんすか。」
「別に興味はねえよ。」
「ふ~ん……、あ、俺こいつめっちゃ嫌いなんすよね。」
林藤が指差した名前に、顔を近づけて読んでみる。
当選 生徒会長 柳澤 玲央
「こいつ、同じクラスなんすけど、めっちゃうるさいんすよ。
髪黒く戻せ~だの、ピアス外せ~だの絡んできて、しつけえんだよって。
こいつみたいな、くそ真面目なメガネキャラって受け付けないんすよね、もう本能的に!」
「おい、くそチワワ。」
「く、くそチワワ?それ俺の事っすか、キンタさん。」
「てめえ以外に誰がいんだよ。傘出せ。帰るぞ。帰って犬猫仲良くキャンキャンやってろ。」
林藤が用意した俺の分の傘を差し、相変わらずザーザー降りの雨の中を歩き始めた。お気に入りのアディオスのスニーカーが湿ってきて、気持ちが悪い。
黙って歩く俺の横で、林藤が変に気を使いどうでもいい話をベラベラと喋っていたが、そんな話は頭に入らなかった。
雨で滲む視界を見渡すと、雨でぼやけているのか俺の目のせいでぼやけているのかわからない。歩道橋も青信号も、輪郭がはっきりしない。
俺の視力は今どれくらいなんだ。
(5)
(5)
もうだめかもしれない、と思ったのは、お気に入りのアディオスのスニーカーが犬の糞を真上から踏みつけ、ぐにょっとした感触が、俺の背筋をゾワッとさせた時だ。
前を向いて歩いていた。それなのに、この俺が犬の糞に気づかずそのまま歩き続けるなんて、人生で一度も無かったことである。
隣を歩いていた林藤が、立ち止まった俺の足元を見て、眉毛をしかめつつ気の毒そうな顔をした。
「や……やっちゃいましたね……。」
「おい。お前道端にくそしてんじゃねえよ。」
「え!?お、俺じゃないっすよ。犬っすよ。」
「つまりお前じゃねえか。」
「キンタさんは俺をなんだと思ってるんすか。」
実は、こんなことは一度や二度ではない。
犬の糞以外にも、廊下に落ちているビニール袋に気づかず、踏んづけてすっ転んだり、体育では卓球の玉が見えず、顔面ショットをくらったりしていた。俺の目の悪さは、確実に俺を追いつめている。
「キンタさん、もしかして目悪くなったんじゃ……。」
こいつ、またしても鋭い。林藤のくせに。
「ああ、悪くなってるな。」
「眼科行ったらどうっすか?」
「お前は馬鹿か。眼科なんて行ったらどうなると思う。」
「え、どうなるって……薬とかもらえるんすかね?」
こいつは本物の馬鹿だった。
目の悪さは治らない。薬で治るなら、どんなにいいか。
猫の引っ掻き傷でできたカサブタが痒いのか、林藤は顔をポリポリと掻いていた。
仕方ないので、アディオスのスニーカーを捨てて、ノーブランドの安い靴を駅で買ってから登校した。授業に出る気もしなかったので、屋上で一人、ボーッとタバコをふかしながら寝そべっていた。
もう真夏なんじゃないか、というくらいの日差しが、まぶたの上から俺の目を焼いてくる。こんなに日当たりの良いところに寝ていたら暑いし、目にも悪そうだと思いつつ、何もかもどうでもよくなってきた。どうせ、俺の視力はもう戻らない。
風が出てきたあたりで、涼しさと暖かさが混ざってなんだか気持ちよくなり、うとうとしていた。
その時である。
ガチャリ。
屋上のドアを開ける音がした。林藤が来たのか?
かつてはカップルのイチャつき場所として使われていた屋上だが、俺が出入りするようになってからは林藤以外、来ないのである。
しかし、林藤の下品ながに股歩きのドスドスした足音とは違い、軽やかな足音が近づいてきた。
そして、そいつは俺の真横に立ち、俺を見下ろしているようだ。
うっすら目を開けたが、逆光で顔は全く見えず、そいつの目元で何かが太陽の光を反射している事しかわからなかった。
「未成年はタバコは禁止、見つかったら退学よ。」
低めの落ち着いた声で、そう言ったそいつは、俺の口からタバコをそっと奪った。
「あんたには関係ねえよ。」
「そうかもね。私はただ、あなたみたいな不良が嫌いで、口をださずにはいられないの。」
「嫌いならチクって退学にしたら?」
眩しくて目を閉じていたので、そいつがどんな表情をしていたのか分からなかったが、変な間が空いたので一瞬ひるんだようだった。
「……嫌いというわけではないかもね。あなたみたいな不良が、堂々と学校でタバコを吸っているのが許せないのよ。」
「ふーん。あんた授業サボってるみたいだけど、それはいいんだ?」
「私のクラスは今、自習時間なの。」
タバコを床に落とし、その上にポケットティッシュを一枚被せてから丁寧に上履きで火をもみ消して、そいつは続けた。
「あと、その髪は校則違反よ。黒く戻しなさい。」
「あんたもしかして、生徒会長?」
「ええ、そうよ。知らなかったの?」
「眩しくて顔なんか見えねえよ。つーか顔見えたって、選挙なんか見てねえから顔覚えてねえし……。
……ん?」
今、なんか違和感があったような。
「今、なんつった?」
「その髪は校則違反だから、黒く戻しなさい。」
「ちげえよ、その前だよ。」
「え?えっと……私のクラスは自習時間なの。」
林藤は確か、同じクラスにこいつがいるって言ってたような。朝、靴を買いに俺だけ駅まで行ったから、学校まで一緒に来たわけではないが、林藤は学校に来ているはずである。林藤の行動パターンは授業に出るか、サボるかの二択で、自習なんかあれば大抵、屋上に来ているはずだ。
あいつ、俺とわかれた後に学校さぼったのか。それとも、自習時間に真面目に勉強するように……なっているはずがないな。
「あんたのクラスに林藤っているだろ。今日来てた?」
「林藤くんは、今日はいなかったような気がする。」
やっぱりさぼったのか。一人でさぼるような奴じゃない気がするが、まあどうでもいいか。
「で、髪はちゃんと戻すのよ。いい?」
「はいはい。」
適当に答えると、生徒会長はすたすたと屋上の日陰を目指して歩いていき、やがて見えなくなった。参考書らしきものを持っていたので、勉強するのだろう。
かろうじて見えた後ろ姿は、姿勢がよく、長いまっすぐな黒髪が揺れていて、いかにも優等生であった。林藤が苦手だというのもうなずける。
風がまだそよそよと吹いていて、俺はまたうとうとしてきたので、そのまま寝ることにした。けっこう喋ったのに、生徒会長の顔が全然わからなかったな、なんて考えながら。
(6)
(6)
俺の家は、学校から徒歩15分の距離にある。学校を出て、昼間より夜の方が活気のある古びた居酒屋ばかりの商店街を抜け、住宅街をちょちょいと歩けば家に着く。ゲーセンやパチンコなど、寄り道できる場所なんかないド田舎だから、遊ぼうと思ったら電車に乗らねばならない。
ここ最近は、俺と林藤は寄り道する気にもなれず、放課後はまっすぐ家に帰っていた。
俺は自分の目のことばかり気にしていたし、林藤は南高の横井に出くわすことを恐れていたからである。おまけに、俺は今朝、お気に入りのアディオスのスニーカーを失ったばかりだったので、さらに気落ちしていて遊ぶ気分にはなれなかった。
「電柱を折る、ねえ……。」
閑散とした商店街。電柱の前で立ち止まる俺。なんだ。俺は何をやろうとしているんだ。やめとけ。どうせ骨折して終わりに決まってる。大体、南高の横井が電柱を折れるからって、なんで俺が張り合う必要があるんだ。第一、人間が電柱を折れるわけがないだろ……。
ガンッッ!!
目の前の電柱が大きく揺れた。電柱を乱暴に蹴ったのだった。しかし、蹴ったのは俺ではない。
「よォ。」
電柱を蹴った主の顔を見ると、そこには……誰だ……知らない奴が立っていた。もう一人後ろに立っていたが、そいつも知らない。南高の制服である。
「誰だよ。」
「忘れたとは言わせねえぜ。」
「忘れたんじゃねえ、そもそも知らねえんだよ。誰だお前。」
話しかけてきたそいつは、俺の顔を睨み付けながら、鼻をふくらませ顔を真っ赤にしていった。どうやら、怒っているようである。
「……てめえが殴ったおかげでな、俺は二本も差し歯になったんだぜ。」
あ。
思い出した。
こいつら、林藤と一緒にゲーセンで遊んでる時に、カツアゲ目的で絡んできたから殴ったら、目つぶしで逃げようとした卑怯なやつらだ。
「お前ら南高だろ。なんでこんなとこにいんだよ。」
まあ、聞かなくても答えはわかってるけど。
「てめえを探してたんだよ。」
「また殴られたいのか?」
「おっと、ここではやり合う気はねえんだ。
この前お前と一緒にいた、金髪のチビな、今うちで預かってんだよ。言ってる意味は分かるな?」
あいつ、今朝は学校さぼったんじゃなくて、こいつらにさらわれてたってわけか。
「ああ、南高ってペットホテルだったのか。ちょうどよかった、一週間くらい頼むわ。つれて歩くとキャンキャンうるせえんだよ。じゃ、そゆことで。」
くるりと踵を返して、そいつらに背を向けてすたこら歩き去ろうとする俺を、すんなり見逃してくれるわけがない。
「おい、なめてんじゃ……!」
差し歯野郎が俺の左肩を掴んで引き戻そうとした瞬間、俺はそいつの死角から右の拳を思いっきり顔面に激突させた。
プツッッ
差し歯野郎の鼻血と、差し歯だか本物の歯だかわからない歯が顔面から飛び出た。
「……へ、へめぇ……。」
「お前らな、よく聞けよ。
まず第一に、俺は不躾に触られんのが大嫌いだ。
次に、目つぶしだの人質だの、卑怯な手を使って喧嘩するやつはもっと嫌いだ。」
差し歯野郎は俺が殴った衝撃で尻餅をつき、立ち上がろうとしていたが、既にフラフラでとても立てなかった。後ろにいたもう一人は、はなから俺にやり返す気はないようだ。その場から一向に動かず、ハラハラと俺と差し歯野郎を見ている。情けない。
差し歯野郎は、フラフラになりながらも、俺に対する喧嘩姿勢を崩さなかった。
「……ほまえなんか、な。よこいひゃんが、あっという、まに……。」
やっぱり、横井が俺を探しているのか。
「おい、そこの弱虫。」
俺は差し歯野郎の後ろにいた、なよなよした茶髪に声をかけた。
「な、なんだよ……。」
「横井とうちのチワワはどこにいる。」
「だから、その場所に今から俺らが、てめえを連れて……。」
「お前は馬鹿か。
この差し歯野郎が歩けると思ってんのか。さっさと病院でも連れてけ。俺一人で行く。」
「……南高から10分歩いたところに、◯✕ビルって廃墟ビルがあんだよ。そこで横井さんが、お前を待ってるんだ……。」
俺は再び電柱の前に立った。どう見ても、俺の拳では折れそうにない。それでも俺が行くのは、別に林藤のためではない。
南高の横井。
もしも横井直樹だったら、絶対殴ってやる。
(7)(8)
(7)
「ンンンンンッッ!!」
◯✕ビルにたどり着き、壊れた自動ドアをむりやりこじ開け、中へ進んだところにあるロビーに、林藤と横井はいた。
先ほどの間抜けな声の主は、林藤である。おそらく、「キンタさんッッ!!」と言ったのだろう。口にガムテープを貼られ、手足もガムテープで縛られていた。
「林藤……お前、何アッサリさらわれてんだよ。」
「ンンンン、ンンンンンンンン、ンンンンンンンン……!」
「あーあー、わかった。もういい。なに言ってるかわかんねえよ。」
ジタバタしながら何かを訴える林藤は、一応無傷のようだった。おそらく、南高のやつらに捕まった時に俺が傍にいなかったため、相手にびびって抵抗しなかったのだろう。
不良の風上にもおけないやつだ。なんで俺は、こんなやつとつるんでるんだろうか。
「うちのに手を出したのは、このチビじゃねえよな。お前だろ?金田。」
錆びたパイプ椅子に腰かけ、ピコピコゲームをやっていた横井が、画面から目を話さずにつぶやいた。俺は改めて、横井をまじまじと見つめた。
髪型や体格は変わっているものの、間違いなく、あの横井直樹である。
髪を短くしており、両サイドは刈り上げていて、俺と同じくらいだった身長は15cm以上伸びたのではないだろうか、肩幅もなんだかムキムキしていて随分とごつい男になっていた。
ただ、目付きの悪さは中学の時と全く変わっていなかった。
「久しぶりだな、横井。」
俺は横井の目を睨み付けた。ふつふつとよみがえる、あの時の横井への恨みを思い出しながら。
「横井。お前は相変わらず卑怯なやつだよ。
俺が見ていないところで、そうやって盗むんだろ?あの時みたいによ。」
「金田……あん時は確かに俺が悪かったかもしれねえ。この場で謝ろうじゃねえか。」
「今さら謝ったってもう遅いんだよ。」
「それなら仕方ねえ。
だがな、今回はお前が悪いんだぜ、金田。
南高の生徒に手を出すって事はな、つまり俺に喧嘩を売るってことなんだ。わかるか?」
「その前に、昔てめえが俺に売った喧嘩を買ってやろうじゃねえか。」
俺は思い出す。
中学時代、横井とつるんでいた時の事を。
(8)
俺と横井は、中学で出会った。
田舎だから、小学校は近くに1つしか無かったし、一学年に90人くらいしか生徒はいなかった。私立に行った生徒はほとんどいないし、もちろん遠くの小学校からわざわざ通いに来る奴もいない。ほとんどの生徒が同じ中学に上がったので、代わり映えしない顔ぶれの中、素敵な出会いや青春を期待している奴なんか一人もいなかっただろう。
中学入学時、俺は色々とこじらせていた。
ゲーセンも無いような田舎で退屈していた俺は、喧嘩腰の下級生をいじめたり、駄菓子屋で万引きをして店のおっちゃんにしこたま怒られたり、自転車で近くの山を越えようとしてタイヤをパンクさせたりしていた。近所では単なる悪ガキとして有名だったが、そんなちっぽけな肩書きでは、俺の自尊心は満たされなかった。
何をやっても無駄なんだ。
こんな小さな田舎では。
かといって、母を置いて都会へ飛び出す度胸なんかない。
中学に入学する頃にはすっかりひねていて、入学式に合わせて思い付きで金髪にしてみたが、それも何の刺激にもならなかった。ただ、教育指導の教師にひっぱたかれて痛い思いをしただけである。
「殴り返せよ。」
教師にひっぱたかれた頬を赤く腫らして、職員室の前で突っ立っていた俺に話しかけてきたのが、横井直樹だった。
「誰だお前。」
「殴り返せって言ってんだよ。」
俺の質問に答えない横井にイラッとした。ジャージ姿にほぼオレンジ色の茶髪をしていて、目付きが悪く、いかにもヤンキーという感じの男であった。見慣れない顔だったので、横井が地元の奴でないことはすぐにわかった。
「……殴っても殴り返されるに決まってんだろ。それに、教師を殴ったら停学だぞ。」
「やられっぱなしで黙ってるなんて、てめえそれでも不良かよ。」
「不良?」
どうやら、俺の金髪を見て勝手に不良だと判断したらしい。この男、目付きは悪いがまっすぐ俺の目を見て喋っている。
「お前は不良なのか?」
「お前じゃねえ、横井だ。」
「さっき答えとけよ。横井、てめえは不良なのか?」
「そんなん、本人に聞くか普通?」
俺と横井の会話は、キャッチボールではなくてドッジボールのようだった。お互いの言っている事にほとんど答えていない。それなのに、不思議と会話が続いた。
これが、俺と横井の出会いだった。
(9)
(9)
「視力おかしいだろ。」
俺の体力測定の結果を覗き込んで、横井が呟いた。俺の視力は2.0だった。俺に気味悪そうな目を向け、首を傾げながら横井が続ける。
「そもそも、学校の視力検査で2.0まで測れんのか?これ間違ってんじゃねえの?」
「知らねえよ。」
「金田、午後はフケようぜ。ボケたジジイがやってるタバコ屋があって、私服で行けば俺らでも売ってくれんだよ。」
中学入学と同時に引っ越してきた横井は、俺以外の奴とつるもうとしなかった。俺と横井は、なんとなくいつもつるむようになって、気づけばクラスからも、学校からも孤立していた。しかし、それを不満に思ったことは一度もない。
横井といると、退屈しないのである。
「喧嘩ってのはな、相手にびびってっから負けるんだよ。」
「ピアスなんて、ただチャラ男がつけてるくそ飾りだろ。不良はあんなもんつけねえんだよ。」
「チャリなんか乗ったら痔になるだけだぜ。」
「俺はジャージ好きなんだけどよ、ジャージで外歩いてたらなめられっからなあ。」
横井には、横井なりの不良の定義があった。俺にはそれが新鮮で、しかも意味不明な部分が余計に面白く、ついつい耳を傾けてしまうのであった。喧嘩もタバコも、不良の定義も、横井が俺に与えた影響はとても大きく、気づけば俺は、誰の目から見ても立派な不良となっていた。
近くの高校に通う高校生と喧嘩したり、学校をフケて隣町へ遊びに行ったり、夜中のコンビニでたむろしたり、くだらない日常ではあったが、横井といれば退屈しない。ついには、地元も悪くないと思ったほどである。
そんな俺たちの不良生活に終止符が打たれたのは、横井と出会って半年後、冬の手前の秋だった。
「金田はスキー行くのか?」
肌寒く、セーターに加えてそろそろマフラーも欲しいと感じるくらいの、ヒンヤリとした空気の朝。学校までの道のりで、横井が俺に尋ねた。スキーとは、一年生の集団遠足の事で、日帰りで隣の県のスキー場まで赴き、スキー体験をしようというものである。ほとんどの生徒が参加するが、強制ではなく、一応希望制となっていた。
横井が学校行事に興味を持つこと自体、珍しかったので、この時から俺は妙な違和感を感じていた。
「めんどくせえけど、こういうのはあんまサボれねえんだ、俺は。横井はどうせ行かねえだろ。」
「行くわけねえだろ。」
「だったら何で聞いたんだよ。」
「別に……ったく、こんなさみぃ中、体育でさえ出たくねえってのによ。」
その言葉の通り、その日の体育を横井はサボった。
俺の、集団遠足代15000円を盗むために。
体育の後、教室に戻っても横井はいなかった。しかし、横井が何も言わずに学校をフケる事はしょっちゅうだったし、その時は特段気に留めなかった。帰りのHRで、集団遠足の代金を集金する際、カバンを開けたら金が無くなっていたのである。俺以外に盗まれた奴はいないようだったし、俺は直感的に、横井が盗んだんだと分かった。俺と横井の間に、「疑わない」という信頼関係は構築されていなかったのだ。
あいつならやる、そう思った。
その日、家に帰って母に謝った。集団遠足は欠席する、友達に金を盗まれたらしい、ごめん、と。
母は俺の事も、横井の事も責めなかった。
ただ一言、「つきあう友達はよく選びなさいよ。」と言っただけだった。俺がスキーをしている写真を見たいから、カメラにちゃんと入ってよ、と微笑みながら渡してくれた集団遠足の費用だった。
一方、横井とはその日から連絡がつかなくなり、チャットはブロックされ、着拒されているようだった。「俺が盗みました」と言っているようなものだった。次、学校に来たら絶対殴ってやると思っていたのに、横井はなかなか学校に来ず、2週間が経った。
そして、ある日の朝のHRで担任が、横井が転校した事を告げたのであった。
元々、転勤族なのは知っていたから、いつかは転校するかもしれないと思っていたが、このタイミングで消えるのは卑怯なんじゃないか。横井は俺に転校の事を黙っていて、金を盗み、あっさり消えてしまった。
悪い奴だと、卑怯な奴だとは知っていた。
それでも、俺は横井を友達だと思っていたのだ。
母に、横井が転校してしまい行方がわからないので、金を取り返せない事を告げた。
母は何も言わず、ただ諦めたように、寂しそうに微笑むだけだった。
(10)(11)
(10)
「あん時は……、俺にも事情があったんだ。結局、あの金は騙されて取られただけだった。」
横井がぽつりと言った。
だから何なんだ、俺にはそんなの関係ない。
「知るかよ。」
俺は一歩一歩、ゆっくりと横井に近づいて行った。慎重なのは、横井の強さを恐れていたからではない。ビルの中が薄暗く、足元に何か落ちていたとしても俺の今の視力では気づかないと思ったからだ。一歩ずつ床を踏みしめるたび、砂の音がザリザリと響いた。
「俺は、金田なら許してくれると思ってたんだ。」
横井が立ち上がる。
思ったより背が高くなっていた。横井が座っていたパイプ椅子に置いたゲームから、ゲームオーバーを告げる情けないメロディが流れている。
「金田、お前がどう思ってたかは知らねえが。」
俺と横井の距離は、2m程まで近づいた。
俺は立ち止まった。
どう思っていたか、だと。
何が言いたい。
「少なくとも俺は、お前をダチだと思ってたんだぜ。」
「それを、てめえが裏切ったんだろうが!」
俺は横井に殴りかかった。
俺と横井は、喧嘩をしたことがなかった。互いに相手にするのは他校の不良ばかりだったから、どちらが強いかを知らなかった。しかし、お互いの癖をなんとなく把握してしまっているので、次に何をするか、どちらの拳で殴るか、利き足はどちらか、わかってしまう。
避け続けの喧嘩が続いた。
しかし、横井が予測できない動きをした瞬間、あっさり勝負は決まった。
俺には、横井の動きがはっきりと見えていなかったからである。少し前までは、どんなに速い動作もしっかり捉えることができた。今、俺の悪くなった目は横井の動きを捉えることができず、横井のパンチは綺麗にきまった。
俺は2m程ふっとんだ。
林藤の「ンンンンンッ!!!」という声が、遠のく意識の中で聞こえた。
まだギリギリ、意識があるかないか、というところで、床に倒れている俺に横井が近づいてきて、ささやいた。
「金田……。
昔のよしみだ。今日はこれで勘弁してやるよ。
次はねえと思え。」
その声を聞いた後、俺の意識は飛んだ。
(11)
「キンタさん!!
大丈夫っすか!?」
目を開けると、白い背景と真っ赤な顔の林藤がぼんやり見えた。ここはどこだ。横井はどこへ行ったんだ。俺、あいつからあの時盗まれた集団遠足代、取り返すつもりだったんだ。
「横井は、どこに……。」
「何寝ぼけてるんすか、キンタさん。ここ、病院っすよ。頭大丈夫っすか?」
「死にてえ、のか……。」
口がうまく動かない。
「あ、いや、頭大丈夫っすかって言うのは、横井に殴られて脳しんとう起こしたから、心配してるんすよ。」
「林藤、お前、どうしたんだ、その傷……。」
よく見ると、林藤の顔は赤くパンパンに腫れ、右手はギプスをつけていた。この前できた猫の引っ掻き傷がちんけな傷に見えた。
「えっと……キンタさんが横井に負けた後、やっぱりというかなんというか、俺も横井に殴られたんで……。
次、南校のやつらに関わったら、多分死にますよ、俺ら。」
「そうか……。」
横井に負けた。
林藤のその言葉が、ズキズキする頭にやたら響いた。
そうだ、俺は横井に負けたのだ。昔の恨みも果たせなかった。
敗因は、俺の視力だ。
どんどん悪くなるこの目のせいで、俺は負けた。
相手が悪かったら、当たりどころが悪かったら、死んでいたかもしれないのだ。もう意地を張っている場合ではない。
「林藤。」
「なんすか。キンタさん起きたんで、今看護師呼びましたよ。」
「悪かったな。」
「へ!?な、何がっすか。キンタさんが悪いんじゃないっすよ。なんていうか……そう、運が悪かったんすよ!」
違う。
俺の目が悪かったんだ。
退院後、俺は眼科の予約を入れ、受診した。視力は0.1も無かった。案の定、メガネかコンタクトレンズをしましょうという話になり、迷いに迷った挙げ句、メガネを作る事にした。
本音を言えば、メガネをかけないでいられるなら、コンタクトの方が100万倍マシである。しかし、異物を目に入れるという動作をどうしても受け入れられず、やむなくメガネを選んでしまった。
俺が、自分の目の悪さを受け入れられなかった理由はここにある。メガネをかけたくないのだ。
一体、どこの世界にメガネをかけた不良がいるというのか。いや、実際にはいるかもしれないが、俺には到底考えられない。喧嘩の時に相手の拳がメガネに当たったら、レンズが割れて目が潰れるかもしれないし、第一とにかくダサい。
林藤が、生徒会長の事を「くそ真面目なメガネキャラ」と言っていた。そうなのだ、メガネは本来、ガリ勉がつける物なのだ。
ガリ勉に必要な要素であって、俺には必要ないのである。
そんな主張をかましたところで、俺の目は良くならないので、諦めてメガネが自宅に届くのを待った。
なんの変哲もない、黒淵の四角いメガネ。
購入後、2週間経って自宅に届いた。
横井に殴られてパンパンに腫れていた顔もだいぶ元通りになり、痛みもひいていた。
月曜の朝、制服に着替えた後、家の洗面台の前に立ち、鏡を見ながら、しぶしぶメガネをかけた。
メガネを
かけた
はず だった。
それまでぼやけていた俺の視界が、レンズ越しに明るくクリアになった時。
横井に殴られた時のような衝撃が走り
再び、俺の意識は飛んだのである。
(11)(12)
(11)
「ちょっとぉ、アニキ。遅刻しちゃうじゃん。
早くどいてよ、髪結びたいんだから。」
洗面台の鏡を見ながら顔中の湿布を取り替えていたら、妹の涼香が迷惑そうな顔で背中をこづいてきた。ギプスのついた右手を涼香に見せながら、俺は言い返した。
「あ・の・な。
見ての通り、俺は右手骨折してんの。時間かかるに決まってんだろ。なんなら、お前に湿布替えて欲しいくらいだね。」
「げーッ。アニキの顔触るとかマジ無理。
つーかさ、怪我したのけっこう前じゃん。なんでいまだに湿布貼ってるわけ?」
「うるせえなあ。」
なかなか洗面台をあけない俺にぶつぶつ文句を言いながら、涼香は自分の部屋に戻っていった。部屋に鏡があるのだから、最初からそっちで髪を結べばいいのだ。
湿布を替え終えて、玄関まで行くと、我が家で飼っている三毛猫のミケが珍しく顔を洗っていた。
「なんだあ、ミケ。今日は雨なのか~?」
猫が顔を洗うと雨が降るなんて迷信かと思われがちだが、これが意外と当たるのである。天気予報なんてめんどくさくて見ないから、俺はミケが顔を洗ったら学校に傘を2本持っていくことにしている。
1本は自分用、もう1本はキンタさん用だ。
あの人、天気予報見るくせに自分で傘を持ち歩かないんだ。その理由を一度聞いたら、「どこの世界に傘を持ち歩く不良がいんだよ。」だってさ。俺は、傘なくてずぶ濡れの不良の方がかっこわるいと思ったから、それを伝えたんだ。そしたら、「じゃあお前が俺の分も持ってこい。」って、何様だよ。
そう思いつつ、結局言うこと聞いてる俺もなんなんだ。
ドアを開けると、日差しが眩しくて目が焼けそうだった。こんな天気の良い日に雨が降るなんて到底思えないが、ミケのお天気占いを俺は信じてるぜ。
俺の名前は林藤勇太、キンタさんの親友である。
と、思っているのは俺だけで、キンタさん曰く、俺はキンタさんの金魚の糞である。
(12)
今日はかなりの真夏日で、教室に着く頃にはシャツが汗でビショビショになっていた。右手のギプスの中も蒸れ蒸れで、その不快感に加えて猛烈な悪臭がしたので、耐えきれずギプスを剥ぎ取ってしまった。まだ骨折は完治していなかったが、そんな事気にしていられない。案の定、ギプスを外すとまだ痛みが残っていたが、動かさなければなんとか耐えられる痛みだった。
「ちょっと……何してるのよ。」
俺の席に近寄ってきたのは、生徒会長の柳澤である。俺の机の上に広げられたギプスを怪訝そうな顔で見つめている。
「くせぇって言うんだろ。安心しろよ、今捨ててくっから。」
「違うわよ。自分でギプス外すなんて、馬鹿なの?」
「うるせえなあ。」
「保健室行ってきたら?」
ほんと、おせっかいというか、くそ真面目というか、苦手なタイプだぜ。ちょっと美人で頭が良いからって調子にのんなよ。
「もうほとんど治ってっから、ほっとけよ。」
俺の悪態に愛想をつかしたのか、ため息をついて柳澤は自分の席に戻っていった。
全く……ため息をつきたいのは、俺のほうだ。朝から、家では妹に生意気な口を聞かれるし、教室では生徒会長に絡まれるし。おまけに今朝は、キンタさんを家に迎えに行ったら、俺を置いて先に学校行っちゃってたし。1人で2本の傘持って学校まで歩いてきて、そりゃもう恥ずかしかったんだぜ。
外したギプスを外のごみ箱に捨てるために廊下に出たら、廊下の向こうから見慣れた金髪が歩いてきた。キンタさんだ。
よ、
な……?
俺は向こう側からやってくる金髪に、目をぱちくりさせた。
開いた口が閉じられない。
あの出で立ち、間違いなくキンタさんだよな。
なんで単語帳なんか見ながら歩いてんだ?
そしてなんでそんなに足閉じて、背筋伸ばして歩いてんだ??
そしてなんなんだ、その異様に似合わない黒淵眼鏡は。
「キ、キンタさん…?」
俺はその、おそらくキンタさんと思われる金髪に声をかけた。
が、無視された。
金髪は俺をスルーしてぶつぶつ英単語を呟きながら、スタスタと歩いていく。俺はアタマにきた。
「っおいっ!!キンタさん!!」
金髪の肩を思いっきり掴んで引き留めると、金髪はびっくりしてこちらを向いた。
「な……なんだい、君は。何か用かい?」
黄身?……あ、君!?
俺の事、君って言ったのか!?
「何ねぼけてんすか。横井に殴られた後遺症が今頃出てきたんすか?」
「横井って誰だい。」
やっぱり人違いか。こんなお坊っちゃまみたいな喋り方でくねくねした歩き方の気色悪い優等生が、キンタさんなわけがない。
「おおぅい。キンタ!」
俺の背後から、キンタさんの担任の山崎がとことこやってきた。
「あ、山崎。こいつキンタさんそっくりだけどキンタさんじゃねえよ。」
「その通りです、山崎先生。僕は金田です。」
「つまりキンタだろ。」
「おい、お前、キンタさんのコスプレしてんじゃねえよ。名前も一緒とかふざけてんのか。」
「君こそ、その校則違反の金髪とピアスはふざけているのかい。」
「キンタ、言いにくいがお前も金髪だぞ。林藤の事言えないぞ。」
「先生、僕のは地毛なんです。」
「それ本当なのか?」
「本当なわきゃねえだろ。こいつ眉毛真っ黒じゃねえか。」
「いえ、地毛です。僕は不良が大嫌いなのに、金髪になんてするわけないじゃないですか。つまり、生まれつきとしか思えません。」
「キンタ……なんだか雰囲気変わったなあ。俺に敬語を使うなんて、お前らしくないぞ。良いことなんだがなあ……。」
山崎は頭をひねりながら、どこかへ行ってしまった。あいつ、キンタさんに何の用があったんだろう。
「おい、てめえ。キンタさんのコスプレすんなら、そのくそださい眼鏡外しやがれ。中途半端なんだよ、ったくよ。」
俺はその金髪から眼鏡を無理矢理奪った。
眼鏡の下に隠れていたのは、いつもの見慣れた鋭い目つき……。
やっぱり、キンタさんだった。
「キンタさん……。
なんで優等生のフリしてるんすか……。」
「何の話をしてるんだい、さっきから。人違いだよ。僕に君のような不良の友人がいるわけないだろう。」
そう言いながら、キンタさんは俺から眼鏡を奪い返し、単語帳を見てぶつぶつ言いながら去っていった。俺は放心状態で、追いかけることもできなかった。
ただ1人、キンタさんの背中を見つめてぼーっと呟く。
「キンタさん、頭おかしくなっちまった……。」
今日はきっと雪が降る。
廊下の窓から降り注ぐ真夏の日差しを受けながら、予鈴が鳴っても俺は廊下に立ち尽くしていた。
不良の要素。