ショートショート5

ドアが開いた音がする。小さいただいまが聞こえた。
それから足音は聞こえない。たぶんまだ靴を脱げていないのだろう。
わたしは持っていた歌舞伎揚げの袋を置いて、玄関へ向かう。
彼女は靴を履いたまま、その場にしゃがみ込み膝を抱えていた。無造作に落ちた鞄を、持っているのも限界だったのだろう。つま先立ちの足からパンプスでかかとが擦れているのが見える。
「おかえり、今日は泣いてないんだね」
その鞄を拾い上げて、丁寧に置きなおす。彼女はうんともすんとも言わない。小さく縮こまっている。
わたしはその形のままの彼女を、上から抱きしめる。親鳥が卵を温めるように、壊れないようにそっと。こういう時はどんなセリフも役に立たないと藤くんが言っていた。わたしはしばらくそうしていた。彼女のからだの震えが収まるまでと思ったが、時間が経過するごとにそれはひどくなっていくのがわかった。
「やめて」
こぼれるような声。
「わたしのことなんて、放っておいて」
彼女は毎度そう言って、わたしを突き放そうとする。時には喚き散らしてわたしに物をぶつけることもある。
わたしは、そんな言葉聞いてあげない。更に強く抱きしめる。彼女の中心からすすり泣く声が聞こえてくる。鼓動の音が聞こえるくらい、強く自分のからだを押し当てる。
ぺたんと、地面に座り込んだ彼女の、靴を脱がせて手を引く。そうしてろくに歩けもしない彼女をリビングへと運ぶ。目が虚ろで表情筋は死んでいる。ソファーに座らせてノンカフェインの紅茶を出してやる。ミルクいっぱい砂糖いっぱいが彼女のお気に入り、今日は気持ち多め。
カップを持つ気配もない彼女。ただ、「電気を消して」と言う。わたしは「そうだ、ごめん」と言って、部屋中の電気を消してキャンドルに火を灯す。手元が見えるくらいのちょうどいい明るさ。あまり明るすぎると、彼女はここにいられなくなってしまう。
その状態になって、ようやく彼女は紅茶に手を付け一口飲んだ。そんなに重くないはずのカップを、すごく大変そうに持ち上げている。
「今日はどんな一日だった」
わたしは歌舞伎揚げを食べるのを再開しながら問う。彼女は油ものを夜取らないと知っているので勧めない。
ガシャン、と音を立ててカップを置いた。何も言わない、でもそれは無視ではないのだ。彼女の頭の中では今日のプレイバックが流れていて、重要な個所を洗い出している。わたしは彼女の隣に座って、そっと肩を抱いた。しばらくして彼女はやっと口を開いた。
「駅には人がたくさんいた。会社にもそこそこ人がいた。みんな楽しそうに笑ってた。北原さんにコピーを取ってくれと言われた。2部必要なのに1部しかしなくて二度手間になった。洗ってたら来賓用のガラスコップを2個割った。お昼はいつも通りトイレに入って一人で食べた。帰ってきたらみんな通販でどのおせんべいを頼むかって話で盛り上がってた。来客対応してたら、わたしの説明が伝わらなくて、先輩にフォローに入ってもらった。資料を会議室に運ぶだけなのに途中で廊下にぶちまけた。終業してみんな帰っていくのにわたしだけ仕事が終わらなくて、北原さんにまた明日にしようって帰宅を促された。駅には人がたくさんいた。最寄りの駅にはあまりいなかった」
彼女はその日起きたことを、感情を切り取って淡々と喋った。彼女は当たり前なことを言う。駅に人がいっぱいいるのは駅だからだ。そのことについて、彼女は毎日驚いている。
わたしは、今日は比較的なにもなかったんだなと思った。これまでもっとひどい日もいっぱいあった。
「お疲れ様」
彼女は二回大きく頷いた。それが、生死ギリギリの今の彼女にとって精一杯のありがとうの気持ちだと知っていた。
彼女はわたしに向かって両手を広げた。わたしはソファーから立ち上がると彼女の前に行って、そのからだをぎゅっと抱きしめた。彼女は毎晩そうされることを望んでいた。その時間が、一生続けばいいと思っていた。
「帰りにローソンに寄った。ブランパンを買おうと思って。わたしが仕事を終えても、コンビニで働いている人がいた。その人はいつも笑っている。そんなに面白いこともないのに、仕事だから笑っている」
「うん」
「店を出たら、涙が出た」
そう言いながら彼女は泣いていた。彼らの笑顔を思い出したのだろうと思った。「ほんとうにえらい」そう言って、彼女はその涙を流したままにしていた。
彼女はどんな人のこともえらいと言う。それが自分自身に対する肯定感の低さから来るものだと知っている。だから、そのえらいには頷いてあげられない。そっと、からだを近づける。
からだが離れるというのは寂しいものだ。それまでくっついていたのに急に他人になってしまったような気分になる。わたしは、どこまでいっても彼女にはなれない。彼女の気持ちを100で理解してあげられない。彼女もそうだ。わたしのことを100で理解できない。でもわたしたちは、理解しようという気がある。両手を広げて、異物を受け入れ、育んでいこうという気がある。それだけで、わたしたちの関係がどれだけ信頼関係の上に成り立っているかということは、わたしたちのこれまでを知らない人でも理解できよう。
彼女は、わたしが近くにいると嬉しいと言う。そして、ごめんねと言う。その比率は、1:4くらい。彼女はなにがなくても謝っている。おおよそ、自分の存在についてだと理解している。
たまの休みに彼女をドライブに連れていくと、彼女は助手席ですごく楽しそうにしている。今の彼女からは考えられないくらい明るく、よく笑い、わたしを揶揄う。わたしはその時間が好きだ。くだらない話をして、彼女が笑って、赤信号になったら見えないところで手を繋ぐその時間が。わたしは最初、その彼女を本当の彼女だと思ってきた。だから、なるべく彼女が本当の彼女でいられるように、元気でいられるようにと思ってきた。でも、一緒に暮らしてみて、今日のような彼女を知って、それはわたしの願望でしかなかったのだと、今なら。わたし“が”彼女に元気でいてほしかったのだ。その方が、面倒でないから。彼女だって、わたしに迷惑をかけようと思って今の状況になっているわけないというのに。
彼女はどんな状態の時だって、ただいまを忘れない。眠る前に必ず、ありがとうと言う。わたしが彼女と同じ状態だったら、そんなことが言えただろうか。もしかしたら、この家にすら帰ってきていないかもしれない。
わたしは、彼女に、元気になってほしいと思う。でも、蹲ってしまう彼女も、よく見ておきたい。好きでありたい。わたしを必要としてくれることも、誰かの役に立てているという感覚も。
でも、わたしが注意しなければならないのは、彼女はわたしがいなければなにもできないわけではないということだ。客観視してもわたしが彼女をサポートしている状態にある今を、通り過ぎてしまった時、わたしはいらなくなる。その日は、いつか来る。それは彼女が会社を辞めた時かもしれないし、会社に馴染んだ時かもしれないし、もっといい支えになる人が現れた時かもしれないし、遠いどこかへ行ってしまった時かもしれないし。
その時でも、彼女はわたしに両手を広げてくれるだろうか。わたしは、素直に彼女を包み込むことができるだろうか。ここまでくると願いでしかない。元気になってと、変わらないでがせめぎ合っている。
彼女は大きく三回頷いた。わたしは、彼女をそっとソファーに押し倒す。彼女は「キスして」と言った。わたしは、そんな言葉聞いてあげない。

ショートショート5

最後まで読んでくれてありがとうございました。

ショートショート5

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-09

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