あこがれ
体育館で、戦争映画が流れるのを、ぼうっとして見ている。同級生たちが背をまるめて、ときどき揺れるうすい、大きなスクリーンに映される映像を、じいっと見ている。体育館の後ろのほうであたしは、それらを見ながら、なんとも言えず汗ばんだ制服をただ不快に思っている。やたらでかい音、悲鳴、映画の内容に興味を覚えて、続きはどうなるんだろうとすこし期待しながら画面に見入っていたのが数分前で、それは戦争をテーマにした映画に抱くしてはなんだか不道徳な感情であるような気がしてしまって、さらには外で鳴く蝉の声と映画のなかのそれとの判別がつかなくなってきて、いたたまれず名前の順の列を飛び出してきたのがさっきだった。
おそらく同級生たちは、こんな苦しい死に方はいやだなあ、と漠然と思いながらこれを見ているはずで、あたしも例に漏れず、さっきから、苦しくない死に方のことばっかり考えている。銃声、怒号、旋回する爆撃機の唸り、蝉の鳴き声、低くくぐもったラジオの音声、白黒の画面と、爆音、あざやかな血のいろ。こんなに血を流す死に方はしたくなくて、でも今の時代のあたしたちは平和になる努力を怠ってばっかりだとも思えて、そうなるともう、戦争がはじまってしまうのも時間の問題である気がする。かみさまなんていないのだから、だれかが調整しないと戦争も飢餓も殺人も起こるし、でもだれも、少なくともここにいる同級生のほとんどは、それを知らないから。ひとりひとりがサボった結果の戦争に巻き込まれて死ぬなんてあたしは勘弁だし、あたしは、次の戦争がはじまる前に死ぬ。ちょっとダサいかもしれないけれど、苦しくない死にかたで。
気分が悪いので、と体育館を抜けていく同級生を見ながら、そうすればよかったのか、と思う。気分が悪いので、と先程通っていった女子生徒の言葉そのまんまを借りて体育館を出ると、すずしい風がすこし吹いて、気持ちがよかった。明らかに外で鳴いているとわかる蝉の声をきいて、安心する。渡り廊下を少し歩くと、その先の自動販売機の前に、先輩の姿が見えて、そのことで、今が五時間目と六時間目の間の休み時間であることがわかった。肩につくほどのくせのある髪の毛が風に揺れて、先輩が鬱陶しそうに目を細めるのが見える。陽に照らされた先輩のやわらかな髪は、ほんとうは黒いのに茶色く透けるように見えて、汗のせいか毛先は肌にぴったりと沿って、それがあまりにも綺麗であったから、あたしは声をかけずに、ただぼうっと見入ってしまう。
「仁奈子」
先輩があたしに気がついて、にいっと口角をいっぱい持ち上げる笑いかたをした。あたしは先輩を見つめるのをやめて、駆け寄る。「先輩」「なにしてるの? 体育、じゃないよねえ」先輩は少し、語尾を伸ばすようなあまいしゃべりかたをする。本人はおそらく、それには無自覚で、でもあたしは、先輩ののんびりとした性格があらわれるその口調が、すごく好きだった。「映画、見てるんですよ」「映画? ああ」わたしも二年のとき見たなあ、あれでしょう、と先輩が言う。先輩があの映画を見て、どんな感想を抱いたのかあたしは気になったけれど、そのあとのどうでもよさそうな顔から、訊くまでもないようにも思えた。
「で、サボりなの? 仁奈子ちゃんは」
違いますよ、とあたしは言う。「気分が、悪くて」うそだあ、と先輩は笑って、その拍子に顔にかかって張りついた髪を、剥がしながらあたしを見る。まあいいけどね、と先輩はまた笑って、腕時計をちらりと見た。「戻っちゃうんですか」「わたし、仁奈子と違って、サボりじゃないからなあ」
「気分悪いならさあ、ちょっと付き合ってほしいな」
先輩が、買ったばかりのカルピスをあたしに向かって、投げる。ぎりぎりのところでそれを受け取って先輩を見ると、先輩はすでに背を向けて、歩き出していた。ペットボトルのひんやりとした感じをたのしみながら、先輩に着いていく。渡り廊下を、教室のある方角とは正反対のほうへ向けて、まっすぐ歩く。蝉の鳴き声がひときわ強くなって、日差しもやわらいだあたりで、やがて渡り廊下を逸れる。その先には、水色のフェンスに囲まれたテニスコートがあって、さらにその先へと先輩は歩いていく。あたしたちは、上履きのまんま、先日の雨が残る、ゆるい地面を踏み締めて、歩いていく。ときおり中途半端に伸びた草がくるぶしのあたりをくすぐって、先輩がはしゃぐような声をあげるのを、あたしは純粋に、たのしいと思う。
ちょうど、テニスコートを越えたあたりに、それはあった。先輩の歩みがゆるやかに減速していき、あたしの足も一緒に止まる。びっしり汗をかいたカルピスをようやく開けて、飲みながら、上の方を眺める先輩の視線をゆっくりと追う。上から、ぽた、とつめたい水滴が腕に垂れて、そのぶぶんだけが生き返るような心地がする。あたしたちの目線の先には、大きな向日葵がいくつか、あった。「こんなとこ、知らなかったです。はじめて来ました」テニスコートの裏は、ちょっとした向日葵畑のようになっていて、それは夏にはよくある風景であったけれど、午後の日差しだけでなく、先輩のあついまなざしを浴びてきらきらかがやくそれが、なによりもうつくしく神聖なものであるかのようにあたしは錯覚する。
先輩はぼうっと、あこがれるような目をして、向日葵の花弁にそっと触れる。くぼみに溜まっていた雨の残骸がつうっと先輩の指をつたって肘のあたりまで落ちていく。それから、茎、葉、根っこのほうまで、先輩は向日葵のすべてに指をすべらせて、祈りのような愛撫のようなその光景に、あたしは心から、嫉妬する。あたりはいつのまにか、ものすごく静かで、さっきまでうるさかった蝉の鳴き声もなかった。もしかしたら、かみさまはいるのかもしれない、と、とっさに思う。もしかしたら、先輩がかみさまで、世界の平和をちょっとずつ維持しようと、身を削っているのは、先輩なのかもしれない。「いいでしょう、ここ」一通り向日葵を撫でたあとで、先輩がようやく口を開く。先輩の指先は土で少し汚れていたけれど、それすらもあの行為のあとではうつくしかった。さっきカルピスを飲んだばっかりなのに、口の中は異様にからからと乾いていて、あたしはうまく返事をすることができない。「そう、ですね」しばらくして、ようやく答えると、先輩はうれしそうに笑って、蝉の鳴き声も戻ってきた。じわりと脇のあたりで汗がにじむのがわかる。
「戻ろうか」
先輩はまたいつもの笑いかたをして、あたしはそれに頷く。先輩がなんでもないふうに話しかけてきても、あたしの心臓はずっとありえないはやさでばくばく鳴っていた。それが、死ぬんなら先輩と一緒がいい、と思った最初だった。
あこがれ