優れたとある国語教師
さっき三島先生がその三島さんが、、ここで先生という言葉を思わず使っちゃったの若干問題があるんですけど、少なくとも学校の教師よりはと全共闘は言ったのだが
高校という過程において優れた教師はなかなかいないと私は考える
言葉には力がある。
私は、その人を先生と呼び師事している。私はその先生から教わる生徒である、先生は見識が広い。いろいろな国へ行き、いろいろなことを学び、人生は学びの連続であると教えてくれたのも先生だった。授業以外でのかかわりというとk大の小論文を見てもらっているくらいである。先生が赴任されてきた4月のころから小論文を提出しては添削を受けるということをただ繰り返している。先生と話すと私は受験から来る恐怖というものを知る。私は確かに長い時間勉強をして結果もそれなりにでているがどうしても先生の前では、受験生の初心に還る。これはとてもよいことである、人は初心を忘れたころから崩れていくため、初心は忘れてはならない。初心を忘れて調子に乗った人間は消えていくならば私は消えないように努力するだけである。受験生時代の先生は英語ができなかったというが先生のできなかったは当てにならない、あんなに教え方がうまく技量の高い学習をこなせる人間ができなかったなど嘘ではないかと疑ってしまう。私の英語の復習法は全て英文を訳すことだ解釈が違えば答えなど当たるわけがないのだからすべて訳したほうが効率が良いのである。先生は過去問を一年分も解かずにとある大学に受かったという流石に一年分も解かずに受かるのは化け物だと思う。しかし先生は、教師になったことを少し後悔していたようにも見えた。けれども私から見れば先生ほど教鞭を執るのが似合う先生はいない、短い時間でも話をさせたらしっかりと時間内に終えることができるのである。そして飽きることがないのである、先生の面白さや良さを理解できない生徒は先生を嘲笑うが私から見れば愚かなのはその良さに気づくことのできない可哀想な頭を持った生徒である。この高校生という思春期に先生の良さを理解できないのは近代の問題点を顕著化している。先生は、言葉を味わいまたどのような言葉を相手に送れば相手がいちばん傷つくかを理解している。私も相手を傷つけたりするのは得意だが先生ほどセンスの高い人はいない。授業中に意外と先生は生徒を煽った行動をとるがそれに気づけない生徒たちは、わかりませんとすぐに発する。私はいつも思う、自らが煽られていることにも気づけず言語理解能力の欠如した人間の形をしたテンプレ模型は現代文の授業は出ても意味がないと思う、決して私が高いということではないがテンプレしか反せないモブよりは主体性もあると思う。なぜなら私は煽られたことに気づき、先生のセンスの高さにいつも笑いが隠せないのである。例えば自分がしたい事を推す場合先生はまことの我で返してくる。キスシーンを前にしてうるさくなり始めた生徒に対しそんなに興奮しないでくださいと放った。考え方が変わっている人なのだ全ての事象を鑑みて発言をしているというよりは瞬発的に出てくるセンスの高いワードに私は惚れている。
私は先生のような教師はなかなかいない
逆にいても言葉が飛びあって賑やかになる気がする
優れたとある国語教師
私はテンプレートで煽り構文が使える。
人を煽る時、一番相手が嫌がる事を言葉にするのではなく一番相手から嫌われる言葉を発すると煽りは上手くなる。