落下から始まる物語9

やっと高橋さん登場しました。
残る大物はスタイン議長です。
書き始めてから、意外に長い話だった事に気が付きました
(^_^;)

00210904ー1 「情報生命の為のアクアリウム」(ユーラシア大陸上空三万メートル)

 高橋は、ジョエルのアシスタントスタッフである。
 前大統領の下で、ジョエルが共和国警察に籍を置いていた時代からの部下でもあり、最近ではジョエルの名代で各方面に顔を出す機会も多いので、数人いるアシスタント達の中では政府内での知名度も高かった。
 その高橋が、今は機上の人となってシベリア上空を飛んでいる。
 ミュンヒェンにあるドイツ博物館へ向かい、カーペンター教授に会うためである。教授が最近発表した論文について、詳しい話を直接聞くのが目的だった。
 ちょうどヨーロッパ州方面へ往復する共和国陸軍の高速輸送機があったので、急遽搭乗員に加えてもらい、予習は移動する機内で、たった今詰め込んでいる最中だった。
「情報力学的な場の折りたたみによる圧縮の可逆性或いは非可逆性」
「系の多重化と記憶空間の構造創発」
「力学系の自発的形成に伴う意味空間の成長と多次元検索について」
 高橋は、教授の過去の論文を懸命に読み込み、彼を乗せた航空機が大気圏最上層を通過し、下降し始めるまでに、オシリスが興味をひかれたという、最新の論文にたどり着いていた。
「情報生命の為のアクアリウム」
 なるほど、これまでの論文とは明らかに異質な、人目を引く題名であり、特に自身情報生命であるオシリスに看過されることは有り得ない題名でもあった。
 内容的には、情報生命が自己を維持できる最小の情報力学場のサイズを特定しようという試みだった。
 情報力学的な場とは、情報生命の振る舞いを解析する研究の中で提唱された、情報ネットワークの複雑さを表す指標の一種だった。ネットワークが全体として取り得る状態の種類と、ある状態から別の状態へ変化する為の時間、そして、その活動の活性を指標化したものであり、それが一定の水準を超えなければ、情報生命が存在できない、と言う事くらいは高橋でも知っていた。
 とは言え、そこで取り扱われる高等数学は到底彼の手に負えるものではなかったし、この分野に精通している専門家は世界全体でも百人を越えないと言われている。高橋がこれから会おうとしているのは、その中でも最高峰の研究者の一人だった。
 論文は、想像通りの難解さで、高橋は数学的な詳細を理解することは最初から諦めていたが、それでも読み通すのに相応の努力が必要だった。しかし、意外な事に、読後の印象は悪いものではなかった。それどころか、高橋は自分が率直に感銘を受けている事に気づき、驚いてさえいた。
 殆どの天才的な思いつきがそうであるように、ここで展開されている内容も、基本となっているのは、余りにも当たり前でかえって思い付かないような問いかけだった。
曰く「どうして我々の人格が情報生命ではないと言えるのか。」
 その疑問が、脳神経系のネットワーク、個人と言う単位が結びついた社会というネットワークについて、複雑な数式によって展開されていた。
 従来、人類一個体の大脳が所有する情報について言えば、十の十五乗から十七乗のバイト数で記述が可能とされていた。高橋も、「あなたの人生全てを記憶できる」が宣伝文句の、ペタバイトオーバーの記憶領域をもつ携帯情報端末を何台か所有している。
 しかし、そのサイズの閉じた情報力学系では、情報生命が存在できないことが実験的に確かめられていた。この事実は、自然生命と情報生命の間にギャップが存在する証明として広く認められていた。
 よって、我々と彼等は違う。QED。
 しかしながら、とカーペンター教授の論文は言うのだ。
 そもそも、孤独な大脳一つがこの世界に存在したとして、それが人格を生み出すことがあり得るだろうか。
 電磁波や化学反応によるインターフェースを持ち、外世界や他の大脳と情報のやりとりをすることで、初めてそこに人格が発生するのではないのか。
 であるならば、大脳単体の情報量に、その外世界とのネットワークを含めなければ、人格を定義することは出来ないのではないか。
 これを難問にするのは、音声や視覚情報のやりとりを情報ネットワークとして定量化する方法が存在していないことだった。事実、論文の大半は、この定量化に関わる試算と、その数学的技法の妥当性の証明に充てられていた。
 いずれにしても、と高橋は考える。カーペンター教授との面談は、思ったよりも興味深い物になるかも知れない。
 問題は、彼に数学以外の言葉で一般的な概念を説明させられるか、どうかだ。
 数学を愛している人物に、それは無理な注文かも知れなかったが、高橋は敢えて楽観的に考えるよう努めていた。
 輸送機は、フランクフルト共和国軍基地へ着陸しようとしていた。

落下から始まる物語9

数学者に偏見がある訳ではありません。
あくまで高橋さんの意見ですので・・・

落下から始まる物語9

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-17

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