ふたりの歌声
なだらかな彎曲を描く丘の頂に、掠れた声で歌いつづける一人の少女がいました。
手には褪色した楽譜が握られていたのだけれど、少女は楽譜には一度も目もくれず、紺碧の空に歌声をおくりつづけるのでした。
その目はたしかに空に向いているはずなのだけれど、わたしには、この世ではないどこかを捉えているような気がしてなりませんでした。
まるで半分、死んでいるかのような瞳でした。
わたしが聴いたこともない旋律を、少女の薄紅色の唇は途切れることなく奏でます。
わたしはすこし離れたところから、彼女の横顔と歌声を、取り憑かれたように眺めていたのでした。
声が掠れているのは、彼女自身にもわからないほど膨大な時間歌いつづけていたことの証でしょう。
わたしは胸が締めつけられるような心地になりました。
いったいいつから彼女はここで歌っていたんだろう。
気づけばわたしは、大粒の涙を流しているのでした。
丘でひとり歌いつづける少女の存在を知ってからというものの、わたしは来る日も来る日も、そこに通いつづけるのでした。
それでもわたしは、彼女に声をかけるまでの勇気はありませんでした。
彼女に気づかれないように、斜め後ろから見守るかたちで、彼女の歌声に耳を澄ませているのでした。
ある日の夕暮れどき、その日もわたしは少女の独唱姿を観るために丘に向かいました。
ところが頂上付近に来ても、歌声は聞こえてきません。
わたしは嫌な予感に駆られて、頂上まで急ぎました。
すると、青白い顔をした少女が体躯を撓らせて倒れていたのです。
わたしはそれを認めると、居ても立ってもいられなくなり、彼女の傍まで駆けつけ、頬に手を添わせました。
少女の薄い皮膚は、恐ろしいほど冷たかったのです。
少女の瞳はまぶたに隠され、手にはいつものように楽譜が握られていました。
その腕を通る細く青白い血管が、わたしの理性を容赦なく乱しました。
わたしは硝子細工に触れるように慎重に、彼女の肩を揺さぶりました。
生きてるよね。ねえ。生きてるよね。
心の中で何度も祈りながら、管を繋いで栄養を与えるかのように体躯を揺らします。
すると、少女のまぶたが微かに動いたのがわかりました。
わたしはふたたび胸が締めつけられるような心地になり、乱れる理性と呼吸に抗うように、少女がずっと歌っていた旋律をなぞるように、彼女の耳元で泣きながら歌いました。
嗚咽まじりの歌声が、夕暮れの空と少女の体躯に、緩やかに熔けていきました。
何度なぞったのかわからなくなってきた頃、彼女の双眸が、時期を迎えて開く花のように、彼女自身の力によって、ゆっくりと押し広げられました。
わたしは堪らなくなり、少女を強く抱きしめました。
少女は抵抗することなく、蔽い被さるわたしの中で樹々のように、しずかに呼吸をしていました。
わたしの心臓に近いところで、わたしとべつの人間の、彼女の心臓が鼓動しているのがたしかに伝わってきました。
少女からそうっと離れると、彼女はぼんやりと不思議そうな顔をして、それから童話に出てくるいとけない女の子のように、あたたかい笑顔を見せてくれました。
わたしはそのときはじめて、彼女の笑った顔を見たのでした。
そして、また堰が切れたように涙が溢れてきたのでした。
すると今度は彼女がわたしに蔽い被さるようなかたちになり、華奢な親指の腹でわたしの涙を丁寧に拭ってくれました。
それから、おもむろに瞳を閉じ、何度も何度も、何度も聴いてきた歌をその儚げな唇で、掠れた声で、彼女は奏でるのでした。
わたしも重ねるように、彼女の旋律を弱々しい声で追い始めると、彼女は目を見開いて、すこし驚いたような顔をし、それからまた満面の笑みをその白磁のような顔に浮かべるのでした。
歌が名残惜しく終わり、わたしがやっとの思いで彼女に言ったことばは、友達になろう、という、なんだか恥ずかしくなってしまうようなことばでしたが、その中にはたしかに、ことばでは言い表せないほどの、彼女に対する特別な思いが込められていました。
彼女はまたぽかんとした表情を浮かべるや否や、食物を丁寧に咀嚼して嚥下するかのような具合で、首をゆっくりと上下させ、それから恥ずかしそうに笑うのでした。
わたしはふたたび彼女の背中に手をまわし、幸福を噛みしめるような気持ちで、彼女の痩躯の胸のあたりに、湖の底に沈んでいくように、顔を埋めたのでした。
彼女に名前を訊かれるとわたしはじぶんの名前を応え、わたしも訊き返すと、彼女も躊躇うことなく、わたしに名前をおしえてくれました。
わたしには、それまで、友達がひとりもいなかったのです。
すっかり日が暮れて夜の紗幕に蔽われた空に向かって、わたしたちはまた歌いました、歌いつづけました。
その日から来る日も来る日も、わたしたちはお互いの名前を呼び合い、お互いの体躯を抱きしめあい、色の緩やかに移りゆく空に向かって、飽きることなく、途切れることなく、同じ旋律を、ふたりで、いつまでも歌っているのでした。
ふたりの歌声