寒露月恋哀歌

「寒露の井戸」

あの方の婚礼の日、私は、お屋敷の井戸に身を投げた。
井戸の周りには、満開の野菊がサワサワと微かな音を立て揺れていた。
日はすでに傾きかけ、祝宴もたけなわといったところなのだろう。
賓客たちが一人二人と席を立ち、大広間から漏れ聞こえる酔客たちの戯れる声とともに どこか忙(せわ)しない雰囲気が漂っている、
女中のひとりやふたり 姿が見えずとも、誰も気に留めやしない。
そう、私のことなど誰も。
この足元に咲く名もなき野菊のように。
いつ咲いて、いつ枯れるのか、誰も知らない。花ですらない ただの雑草。

数え年8歳で穀物を扱う商家から、このお武家様のお屋敷に奉公人として連れて来られたのだった。
毎日、桶や盥(たらい)に何度も何度も 水を汲み上げては注ぎ入れた。
つるべを落とす前の井戸の底は、鏡のように美しく、その水面にわが身を映す時だけが至福の時だった。

あの方を思い、一日に何度も、ここに来ては泣き崩れた。
それも、今日で終わる。
終わらせる。
終わらせなければ。

井戸を覗き込むと、白装束に身を包んだ女の影が、はるか下の暗い水面に映る。

慣れ親しんだつるべとともに深い闇に落ちる刹那、菊の花弁(はなびら)が、ひとひら零れ落ちるのが垣間見えた。

お屋敷で恒例の歌会が開かれた夜。
私は、茶菓の出し方について、女中頭のおよねに激しく叱責された。
賓客たちは、そんなたいしたことではないからと何度も慰めてくれたのだが、およねは許してはくれず、歌会が終わり最後の一人がお帰りになるまで、ずっと廊下で正座しているようにと言い含められた。

そんな私を見かねたのだろう。
あの方は、口惜しさと悲しさに唇をかみしめている私の耳元で、今宵は離れに泊まるから、白湯をもってきてくれないかと囁いた。
離れは、堆(うづたかく)積まれた書物と書き散らされた文の山で満たされていた。
お女中も家人ですら入ったことのない部屋に通され、私は、西洋の読本を見せられた。
ペラペラしたかわら版のような読本とは違う、どっしりとした風合いのものだった。文字はどう読めばいいのか解らなかったが、合間合間に出てくる絵柄は、煌びやかな華やかさに満たされ、白と黒の世界しか知らなかった私は、異国の文化にしばし酔いしれた。

ほう、お菊は、ここが気に入ったようだね。
― は、はい。こんなこんな き、きれいな読本みたことがないです。
いつでも、好きな時にここに来て、好きなだけ読んでいいよ。
― え、いいんですか。ほんとうに。
いいよ。ただし、誰にも見つからないようにするんだよ。
あの方はそう言って、床の間の掛け軸をそっと外した。
そこには、人ひとりが通れるだけの穴が開いており、ろうそくの灯りで照らされた先には、幅三尺ほどの細長い廊下が続いていた。
おずおずと差し伸べた私の手を、ゆっくりと引き寄せ、あの人は、暗い穴の中に招き入れた。
ひんやりとした空気と少しかび臭い匂いがあたりに漂う。
壁は漆喰でできていて、屋外の音は、全て遮断されているかのように微細な音すらしなかった。
廊下は、更に本宅と物置小屋や納戸に続くように枝分かれし、井戸の傍の台所にも出られるようになっていた。

ふと、ジョリジョリジョリという音がどこからともなく漏れ聞こえて来た。
隙間から眺めると、下僕の次郎の包丁を研ぐ後ろ姿が見える。
はっと息をのむ私の耳元で、
「そういうことだから。ね?」
あの方は、私の両肩を抱きながら、そう呟いた。
それからは、すこしでも暇ができると、私は、離れに行き、貪(むさぼ)るように書物に読みふけった。
読めない字は、飛ばして読み、後から、あの人に教えてもらった。
読めなかった文字も、難解な漢字も、少しずつだが読めるようになった。
あの人は、お菊は頭がいいなぁと言って褒めてくれた。
たくさん、褒めてほしくて。私は、毎日のように離れを訪れた。
あの人も、それを喜んでくれていると思っていた。

離れの書物は、日に日に増えて行き、迷路のような長い廊下もたやすく行き来できるようになった頃、書物には、時に、妖や魔物が宿ることを知った。
書物から想像される世界は、私の脳裏に新たな絵を創造した。
それらが醸し出す甘美なまでの艶めかしさは、かつて盗み見た春画や読本の挿絵にはないほど心を高ぶらせ、私の心身を浸食していった。
いつしか、私は、後生だから、離れではなく本宅の寝屋に招いてくれと懇願し、ある時は、自ら身体を晒し、困惑するあの人の身体にしがみ付き、耳元に噛みついてみせたりもするようになった。

花の盛りを散らしてしまうのかい。
―構いません。あなたのためなら。
ほんとうに、私でいいんだね。
今宵は、中秋の名月か。道理で、明るいと思ったよ。
―あぁ、いつまでも この夜が、この月が輝き続けていればいいのに
お菊の笑顔は、私を照らす満月のようだ。
―その言葉に、嘘偽りがないのなら。これ以上の幸せはありません。

私を抱いたあの夜。月明かりが差し込むあの部屋で、あの人は、そう呟き、私の胸に顔をうずめた。

あれから、幾夜身体を重ねただろう。
あの人に思い人が出来たことを告げられた。
悋気に苛まれ、気が狂わんばかりに求めてみたが、もうかつてのような初々しい感動も、打ち震えるような喜びもなく、離れを後にする時は、言いようのない虚しさと孤独に泣いた。
あれほど、読み漁った書物も、もう手に取ることはなくなった。
真夏の夜、井戸の前に佇むあの人から手渡された西洋の分厚い本は、を読むたびに辛くなり、何故、こんな本を読ませるのかと詰め寄った。
あの人は、ゆがんだ笑みを浮かべると、そのまま何も言わずに立ち去った。
数日後、およねの口から、婚礼の日取りが決まったと告げられた。
夏も盛りが過ぎ、寒露の時期を迎えるころになりそうだとのことだった。

月のものが来ない。
身体がだるい。
炊きあがる直前の窯の湯気を吸うたびに嘔吐(えず)くようになった頃には、もうどうにもならないところまで来てしまっていた。


いつものように、井戸で朝餉の支度をしようと水をくみ上げたとたん、下腹に差し込むような痛みに襲われ、その場にしゃがみ込んだ。
ぬるりとした生暖かいものが流れ落ち、下駄と足袋を濡らしている。
井戸の周りに咲いていた黄色い野菊が、血糊で真っ赤に染まっていた。
見ると、夥しい血糊の中に、花びらに抱かれた親指大の小さな袋が置かれている。
それは、ついさっきまで私の胎内で活きていたであろう、まだ赤子とは呼べない我が子の姿と気づき、私は袂で口元を抑えながら、声を押し殺し慟哭した。

幸い、未だ夜は明けていない。
激痛に耐えながら、狂ったように何度も何度も井戸から水をくみ上げては、その場を洗い流し、血に染まった襦袢や足袋や下駄を脱ぎ捨て、ざザバザバと頭から井戸水を浴びた。
それから、野菊に抱かれた小さな袋を手のひらに乗せると、井戸を見守るようにひっそりと佇む祠の傍に穴を掘って埋めた。
―堪忍ね。堪忍ね。産んで上がられなくて。


凍えるような怖気に身が震えた。
気が付くと、辺りは真っ暗闇で、遥か天上には、ぽっかりと見事なまでの満月が私を見下ろしていた。
頭から落ちたはずなのに、なぜ、月が見えるのだろう。
宴はもう済んだのか。
辺りは静寂に包まれ、訪れるものは誰もいない。

煌々と照らしていた月も、ぼんやりと霞みがかかり、やがて見えなくなった。



「おーい、あったぞ。見つけたぞ。」
10月下旬。いつもなら紅葉狩りで賑わうはずの旧市立図書館の跡地は、人だかりで騒然としていた。
「井戸の上に建ってたってことですか。そりゃヤバいわな。」
「まいったな。井戸だけじゃなく、中から人骨が出てくるとはなぁ。」
採掘現場の作業員が訳知り顔で呟く。
「司書の話によると、ここは、昔お武家様のお屋敷だったらしい。跡継ぎが次々他界して没落したってことなんだが。」
「ほう。いわくつきですな。人骨と関係あるんですかね。」
作業員の足元の野菊が、ふわりと揺れた。

寒露月恋哀歌

寒露月恋哀歌

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • ホラー
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2020-10-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted