平凡な日常
1日目
何も疑っていなかった
本当に何も
目を開くと遠くに浅瀬が見える
あまりにも青くあまりにも赤く
今日は随分と調子が良いのだと思っていたのに
「やぁ」
当然の様に懐に入り込み脳まで移動していく蛇を、疎ましく思えない
「ソイツは重畳だ、面白い」
さして面白くも無さそうに耳元で声が揺れる
「お前のせいだ」
「いいやお前のせいさ」
何十回も何百回も何千回も、この二言を繰り返し言い合いながら歩みを進める
日差しが強すぎて身体がひりつく
氷の服でも着ているように皮膚が熱い
いつの間にか目の前には蛍光色の様な赤い海
どうやら青いのは砂の様だ
「……目が痛い」
頭がぐらぐらする
顔を背けようとするが、いつの間にか首と頭を蛇の身体で固定されて動かせない
「見えないのかい それはそれでどうかと思うがね」
やけに燥いだ様な声で蛇が言う
相変わらず嫌味しか言わない
やはり疎ましい
「行き給えよ 探しているんだろう?」
「簡単に言うな」
横暴な物言いに苛ついて反射的に声を返す
蛇は肩をすくめた様な……蛇に肩は無いが何となくそんな動作をする
身体は相変わらず頭に巻き付いていて 蛇の身じろぎで少しだけ締め付けられる
仕方なく一歩、赤い水に足を踏み入れる
予想はしていたが 簡単に骨まで足が溶けてしまった
「今更どうという事も無いだろうに」
こちらが何か言う前に間髪入れず蛇が言う
先程の仕返しだろうか
「本当にお前は煩いな」
「はて それは誰のせいかな」
面白くも可笑しいと、楽しそうに目を細める
自分のせいなのか 或いは他の誰かのせいなのか
知りたくもない、と吐き捨てて来た道を引き返そうと踵を返す
片足の肉が溶けてしまったおかげで少し身体が傾いだ
「行き給え と言ったんだがね」
つまらなそうな、落胆した様な物言いをして蛇は身体の中へ身を沈めてしまう
「明日でも良いだろ」
同じ日は来ない
「急ぐ事でも無い」
残りの時間はあと僅か
「あゝ 本当にお前は可愛い生き物だよ」
身体の中でそう言って蛇が笑い、振動でまた少しだけ身体が傾ぐ
「煩い 大人しくしてろよ 進めない」
「進む気なんてはなから無いだろう」
やけに素直な返事が返ってきたが、不思議な事でも無い
感情が伴わないのもとうに知られているのだから
本当に鬱陶しい
「もう一つ付け足すよ 煩わしい」
「それもまた重畳だ」
上機嫌で身体の中をしきりと這い回る
身体が傾いで仕方ない
暫く我慢していたが、ようやく満足したのか身体が灰の様に静かになった
「来た道を戻るんだろう お供させて貰うとしよう」
胃の中ですっかり大人しくなった蛇が言う
「いいや 別の道を通る」
見通される事に多少ムキになり、紫色の茨が敷き詰められた道へ向かって歩き出す
足に棘が刺さって、抜けて、刺さって、抜けて、動きはノロノロともたつくし、何度もよろけて倒れそうになる
多分これも知られているのだ
足元が面倒になった分だけ少し後悔した
「かわいや かわいや」
前触れもなく流暢に蛇が歌い出す あやしてるつもりなんだろうか
ただ音程が滅茶苦茶で、鼓膜のすぐ近くで歌うものだから脳味噌が荒波にでも攫われたかの様な感覚に陥る
「吐き気がする やめてくれ」
それだけでは無いけれど
「そうかい? かわいや かわいや かわいい あの子」
悪びれもせず、止める気も無いようだ
ため息を付いてまた歩き出す
肉の無い骨だけの足が蔦に絡め取られそうにながら、肉のある足が何度も茨に穿たれながら
何を感じる事も出来ないのなら、何も気にせずただ前に
「後ろを向いているのにねぇ」
いつの間にか歌うのを止めた蛇が、心の臓から顔を出す
「なぁ 頼むから大人しく沈んでいてくれ」
「頼む?頼むだって? 私にかい?」
直後に蛇が耳を劈くようなけたたましい声で高笑いをし始める
「そんなに可笑しいかな」
「いやいや 至極全うだ」
クックっと喉の奥で笑う音を隠しもせずに、間を開けて思い出したかの様にまた笑う
「……今日はいつもと違ったから」
たどり着ける気がしたんだけどな、と独り言つ
聞いているのかいないのか、蛇の笑い声が段々と黄緑色に染まっていく
黒くもなれないのなら、きっと今日もひとつの否定を積み上げるしか無い
「いつもと違うし 着ける気がする」
自分の声を真似ながら、調子を付けて蛇が茶々を入れてくる
言われなくても解ってる
「もう良い 今日はここで眠るから」
「おや そんなに拗ねた声を出して 何がそんなに楽しいんだい?」
見下した様な声で言う蛇の言葉を無視して、その場にゴロンと横になる
茨の棘が体中にに突き刺さりながら絡んでくる
身体が固定されてこれはこれで寝心地が良いかもしれない
「まぁ良いさ 今日は随分と楽しかったから」
面白くも無さそうに言いながら、蛇が自分の身体を突き抜けて地面の中へ潜っていく
別れの挨拶も無いのならこれはいつもの蛇に違いない
何も疑っていなかった
本当に何も
おやすみ、と声を出さずに唇で言の葉をなぞり目を閉じる
おはよう、と誰かが耳元で囁いた
2日目
目が覚める
顔を洗っていると、黒い影が私におやすみ、と言った
私はいつもそれにおはよう、と返す
これでようやく私に朝が来る
いいや、一度も来た事がないのだったか
まぁ、どちらでも同じ事だ
食事はまるで犬の餌の様であったけれど
私にはそれが相応しいのだといい続けるので、仕方なくそれを平らげた
外に出ると黄色い蛇が道を埋め尽くしていた
そのうちの一匹が私の内に入り込んできたが、 「変わりない」 とそれを無視した
今日はあの場所まで行かなければいけないのだから、そんな事に構ってはいられない
車が蛇を踏み潰しながら通り過ぎる
私はそれを横目で見ながら、急ぎ歩きで進んでいく
内側に入り込んだ蛇が酷く暴れまわっているのが少し気になった
「全く、慣れない事をするものじゃない」
蛇が不満げにぼやく
「今日はお前に構っている暇はないんだ」
私は蛇に言ったが
「今日は?何時だって何にも構ってやしないだろ」
私は少し腹が立ったので、その言葉を無視する事にした
すると暴れていた蛇は大人しくなり、何も言わなくなった
私は、しかし蛇が言った事も間違いではないと思い直し、後で謝っておこう、と思った
今はやはり急がなければいけないのだ
道を埋め尽くしていた黄色が、いつの間にか舗装された黒い道路に変わっていた
向こうには身の丈程もある大きな彼岸の花が咲いているのが見える
「ああ、ダメだ、私はまた道を誤ったのか」
酷い倦怠感に襲われその場に崩れ落ちた私に、それまで黙っていた蛇が口を開いた
「だから言ったんだ、お前は何にも構ってやしないと」
そうなんだろうか、と私は応えたような気がしたが、もしかしたら声が出ていなかったかもしれない
私は今日も辿り着く事が出来なかった
黒い影がおはよう、と言う
それにおやすみ、と返す
そこで私は、まだ蛇に謝っていない事に気付いた
同じ彼にはもう二度と会う事が出来ないというのに
明日も、きっとたどり着く事は出来ないだろう
目を閉じる
3日目
覚めるはずのない目が覚めた
また蛇が寄ってくる
昨日もおとついもその前も
同じなのに違う蛇だ
親しげで傲慢で卑屈に喋る
どうにも悲観的だ
どうやら今日は波長が合っていない
「昨日猫が死んだよ」
毎日死んでいるだろう
わざわざ言葉にする事でもないだろうに
「どうしようか」
どうもしない
それが一番だ
知っているくせに
ああ、今日の蛇は本当に悲観的だ
傲慢で高圧的に泣きじゃくる
鬱陶しいから消えてくれ
「また後悔するんだな」
口に出すなと言っているのに
本当に人の話を聞かない蛇だ
いつもの様にどこかへ消えていった
独りになればまた眠れる
夢の内でなら幾らでも泣けるんだ
今日も明日もあさっても
おやすみ
4日目
ずるりずるり
私の腹を通った蛇が また同じ様に私の腹を通り抜ける
ずるりずるり
いつの間にこんな穴が開いていたのだろう
ずるりずるり
もしかして蛇が食って開けたのだろうか
ずるりずるり
「楽しいのかい 君は」
行き来を繰り返す蛇に問う
ずるりずるり
「いいや 全く」
応えた蛇の口の端は上がっている
ずるりずるり
麻酔をかけられた場所を何度も擦られている様な鈍い痛み
ずるりずるり
きっともっと違う痛みがあった
ずるりずるり
蛇の所為で忘れてしまったけれど
ずるりずるり
「何時までそうしているつもりなんだい」
「うん そうだね」
ずるり
「君が其処に立っている事を忘れるまでかな」
ずるり
ああこの蛇は本当に皮肉しか言わない
ずるり
穴を塞いでやろうと両手で腹を押さえるが
意にも介さずといった涼しい顔で いとも簡単に隙間を見つけて擦り抜けた
ずるり
「君の穴は塞げない」
ずるり
「自分が一番良く 知っている筈だろう?」
ずるり
私では意味がない
蛇は私を私以上によく知っている
ずるりずるり
私はため息を付き 諦めて手元にあった読みかけの本を読む事に再度集中した
ずるりずるり
ずるりずるり
やはり蛇は笑っている様に見えた
5日目
今日は目玉焼きに雛が入っていた
良い事があるかもしれない
私の予感は大体当たるのだ
だから昨日埋めた田中さんが私の腕を持って行っても大丈夫だったし
一昨日首が拉げた佐々木さんが私の耳を持って行っても気にならなかった
今日こそ辿り着ける気がする 足取りは軽い
ああ、けどそういう時に限ってこいつは私の服の中に入り込んで来るんだ
「さっきの子供は君の足元から生えた物だ」
そんな筈はない 血抜きはしたんだから
「ぬかりは無い? 君は手で水が汲めるのかい」
相変わらず煩い蛇だ
「お前のせいで良い気分が台無しだ」
そんなに良い気分だったかね、と蛇が笑う
「ああ、これから良い事が起こる予定だったんだ」
すると蛇が頭の上からバカにしたように笑った
「なぁ君、お前、イツになったら学習するんだい」
ああ、煩い
そのうち勝手に私の内蔵にまで入り込むんじゃないだろうかこの蛇は
良い予感はとっくに足を生やして逃げてしまった
「なぁ君、お前、お前のせいで私の良い予感は外れた試しがない」
「当たらないからね」
今度は含み笑い
全く嫌な蛇だ
「これから何処へ行くんだね」
「君の居ない場所へ」
「そうかい、それは全く味気の無い話だね」
蛇が一瞬、赤い舌をちらと見せた
そうしてまた歩き出す
足元で白い花が潰れた気がした
6日目
おはようござます
「おはようございます」
横を見ると 蛇が居た
またお前か、と心底うんざりした声で言うと
「それはこっちの台詞だろ?」
そう言ってしゅるりと服の隙間から入り込む
今日こそは、と思っていたのに
コイツが居たのでは話にならない
しかし此れはそういう物なのだ という事も知っている
仕方なく起き上がり外に出る
今日は眩しい程に輝く赤色だ
「そんな事だろうと思ったよ」服の隙間から蛇が言う
一睨みすると 蛇は首をすくめて服の中へ戻っていく
何時もの事だ そう 何時もの事だ
だから今日も
それでも行かなければ
目に入った信号機の横の看板に
『青は止まれ 黄色は止まれ 赤は下へ』
ため息を着く 何度目だろうか
「そらみたことか」蛇を無視してピンクと青と紫の上を歩いて行く
只其処に在るものなのだから食さなければならないのだ
既にひしゃげた看板をナイフとフォークで切り分ける
早く 早く ハヤク …ハヤク?
遥か遠く道道の先 小高い丘の上に 巨大な人間の頭がポツリ
今日も自分は至れないのだ
胃液がこみ上げてくる度に蛇は笑う
「欺瞞だよ」そう言って何処かへ消えた
おやすみなさい
『良い夢を』
誰の為に?
7日目
赤い蛍光灯がチカチカと点滅している
何時もの見慣れた風景だ
そして何時もと変わらぬ様に、蛍光灯の隙間から蛇がぬるりと顔を出す
「今日は駄目だねぇ」
チロリ、と舌を出す
「解る筈が無いさ」
誰に言い聞かせるでもなく、呟く
「結構待ったんだろ?」
蛍光灯から這いずりだす
「離れてもいないのに」
ため息を付く
「またそうやって黙るのかい」
空いた服の間に入り込む
「今日は身動き一つもしてはいけない」
虚空を見つめる
「無理に決まってるさ」
口の中から体内へ
「今日は寒いな、暑いぐらいだ」
中を舞う羽虫を目で追う
「なんだ本当に駄目じゃないか」
腹の中をぐるぐると動き回る
「そろそろ空気が落ちてくるな」
蟻の群れが身体を登ってくる
「真っ黒だ」
文句か 罵倒か
「お開きにしよう」
目の中から蛆がぽとりぽとりと落ちていく
「今更どうにもならないがね」
耳の中からドロリと溶け出す
「ではさようなら」
蛍光灯が弾けて消える
「ではさようなら」
地面の亀裂に入り込む
相も変わらず部屋は白い
8日目
一歩前に出る
「ふぅん、今日はそれに興味があるのかい」
胸から頭を出して首に巻き付きながら蛇が言う
「まぁね、だってこれは鏡だろう」
もう一歩前に出る
足元で揺れる水面がピシリと音を立て、ひび割れが枝のように広がっていく
蛇がおかしそうにケラケラと笑いながら
「君はそんなに軽かったかな」
と身体の表面をつたい足元まで移動していく
「何度言わせるつもりなんだ」
苛ついた声で返しながら、何も映さない水面に足を踏み入れる
ああ何だ、これは本当に白い、全く何にもならない
「何時もだろう」
何でも無い事のように蛇が言う
「足元は止めてくれないか、躓きそうだ」
そう言うと、ヒハッっとひっくり返った声で蛇が笑う
何だこれは
こんな物は知らない
言われた通り今度は腕まではい戻ってきて巻き付いた
何だこれは
こんな物は知らない
「さて、その水銀は君の鏡らしいが 何か見えたかい」
腕の中に潜り込む
「私……いや僕だったか」
しゃがみこんで手を入れると、手の中に小さな針が何本も何百本も差し込まれていく
「君だったかな、お前かもしれない」
無感情にそう言いながら、腕から肺に蛇がずるりと移動する
「俺かもしれないし、妾だってあり得る」
ザラつく指先で鏡を撫でる
今日はダメだな、とため息をついて立ち上がる
「あぁ本当に、何時だってそうさ」
クスクスと笑う蛇の声が脳の端までこだまする
「わかってるんだよ、わかってるだろう」
何時だってそうだ、あぁ本当に
今日の蛇は随分とひしゃげている
「だからもう今すぐに目を閉じる事にするよ」
「なら下へ……いや趣向を変えて君の眼球でも良いかもしれない」
肺の中で蛇がチロチロと舌を出しているのが分かる
「好きにしてくれ」
何を言おうが蛇なのだから
目を瞑る
地を踏みしめていた感覚が消える
問題ない、まだ白い
「随分と悲しそうだね。まぁ君の感情になど興味は無いが」
遥か遠くから蛇の声が聞こえる
ガリガリと耳の後ろを引っ掻き回されている感じがして気が滅入る事この上ない
本当にコイツは変わらない
毎日同じでは無いけれど
もう一度、気を取り直して瞼の裏を見る
ああなんだ、そうとも
白なんてあり得ない
9日目
『おやすみ』
随分懐かしい声が何処かから響く
仕方がない、と目を開く
「何だ、何も無いじゃないか」
どちらを向いても暗闇ばかり
ため息をつく
「これじゃぁ何時もよりもっと良い」
「君は楽しいからね」
背中から腹へずるりと蛇が顔を出す
「あぁクソ、そんなわけが無かった」
「そうさ、そんなわけが無い」
チロリを舌を出した蛇の口の端が上がって
いいや見間違いだ
「いいや違うね」
「いいや違うのさ」
「ところでそれは上がるのかい、下がるのかい」
「お前には見えているだろう」
「横にだってあるさ」
「なら下へ」
下っているのか上がっているのか結局わからない
進むにつれて泥に身体が沈んでいく
泥の中への入水自殺は勘弁願いたい
「やあ君、重たそうだね。それに酷い匂いがする」
立ち止まる
確かに腐肉の匂いがする
「こんなに落としたかな」
「白くて蠢くものが全く見当たらない」
「僕の物だったからね」
「おや、釣り糸が身体の中に入り込んでいるじゃないか」
自分の落とした腐肉を釣り糸で引きずりながら
だってどうでも良い事じゃないか
「どうでも良いんだ」
「そうかい。おや、心臓にひっかかっているね」
いつの間にか自分の中を這い回っていたようだ
「お前は本当に余計な事しかしない」
「でもこれは君の塵だ」
「払っても増えるのさ」
痛いのかもしれないし苦しいのかもしれないし楽しいのかもしれないし悲しいのかもしれないし悦楽に浸っているのかもしれない
「僕はお前かな」
「私は君かな?」
だったらこれも均等に分けなきゃいけない
「限りなく近くには居るが、君では無いのさ」
「なら何も変わらないじゃないか」
腐肉を手にすくうと、サラサラとこぼれ落ちて肉になる
何の音もしない
静かに、ただ静かに引きずっていく
「君はその泥水を行くんだろう?」
「陽光が見えるかもしれない」
「ははは、砂を噛みたくは無いからね。今回は遠慮させてもらうよ」
そう言って足元からずるずると地面へ潜っていってしまう
これなら蛆の方がまだましだ
はぁ、とため息をついベタつく重たいヘドロの中をかき分ける
心臓を見つけられたからこれも重くなってしまった
「何も変わらないし何も終わらないのさ」
陽光など見えるはずも無い
平凡な日常