雪の降る日に、いつかの君と。
ほろ苦い甘味が、口内を潤した。
温かい水分が喉を抜けて体の芯まで落ちる。凍えるような寒風に晒されていた体が、ゆっくり、温もりを取り戻し始めた。
冷え切った手に、カップの温度を感じた。温かい。喫茶店で飲むこの一杯が、今の彼をもっとも落ち着かせてくれる。
「こんな日まで、ここに来なくていいでしょ?」
離れたカウンターから、ふと声をかけられた。
見れば、洗ったカップを拭いている女性が一人。髪を後ろで括った姿はまだ若く、少し呆れた感じを表情に含ませていた。ここ――喫茶店リアンの、オーナーだ。
彼は軽く笑って、手持ちの鞄の中を漁った。
「はは、悪いね。今、ちょうど新作を書こうとしているところなんだ。編集から、書いてもいいよって言われてさ」
万年筆を一本。
そして、原稿用紙の束を机の上に載せる。
うぅ、とまだ冷える体を震わせて、カップを手に取った。
「寒いけど、ここに来なくちゃ気分が出ないからね」
ずず、とコーヒーを飲む。
窓の外では、ちらつくように雪が降っていた。少しいきおいもあって、先に積もっている仲間の上にどんどんと被さっていく。
「へぇ。どんなの書いているのかしら」
手に持ったカップを置いて、彼女はまた一つ、新しいカップを手に取った。拭く手を止めずに、こちらさえも見ない。けれどその表情は、少しだけ笑っているように見えた。
「そうだね、まだ中身は書いてないんだけど、冬の、とある喫茶店を舞台にした短編だよ。粉雪の舞う中、一人の男の子がコーヒーを飲んでいる……何かいい雰囲気だろ?」
「あら、奇遇ね。わたし、そういう喫茶店を一つ、知っているわ。綺麗なオーナーが、コーヒーを淹れてくれるお店なんだけど?」
皿を拭きながら、彼女は楽しそうに微笑んだ。
彼も軽く笑ってから、コーヒーを飲んで、万年筆をしっかりと握る。外にいた時とは違う。体の芯から温もりが滲み出してきて、使い慣れた万年筆を片手に、真っ新な原稿用紙を見つめた。
「それは、甘い、甘い物語なのかしら」
集中し始めた中、ふとそう聞かれて、彼は意識を緩めた。やはり皿を拭いたまま、こちらを見ないで、彼女が答えを待っている。
その横顔は、ただいつもと変わらないようにも見えるけれど、これから書く物語を期待してくれているような、そんな感じもした。
初めて彼の小説を読んでくれたのは、彼女だった。
その頃を思い出して、彼の口元がほころぶ。今も昔も何一つ変わらない、彼の書いた小説を楽しみにしてくれている初めての読者は、今もここで、ずっと見守ってくれているのだ。
彼は彼女の横顔を見つめて、今一度万年筆を握り直した。
「そうさ。一人の少年と少女が紡ぐ、甘い、甘い恋物語だよ」
そうして、彼は初めの一文を綴っていく。
それはきっと、どこかにいるだろう二人の、優しい雪の日の恋物語。
――雪の降る日に、少年は歩いていた。一つの喫茶店の扉を開け、一杯のコーヒーを注文する。
右手に持った万年筆で、原稿用紙の升目を埋めた。一文字、一文字、丁寧に。ただ静かな喫茶店の中、時計の音だけを耳に流して。
カラン、コロン。
不意に音がして、少年は万年筆を置いた。外には雪が降っている。こんな寒い日に、自分以外に来る客がいるのか、そう思った。
靴の音が響く。現れた彼女が、白い吐息を手に吹きかけた。その光景を見て、少年は驚く。知っていたのだ。
少女と目が合う。クラスメイトの彼女は、意外そうな瞳で、彼を見つめた。
驚いた様子で、でも、静かに。
「今日、寒いね」
万年筆を置いた横で、カップの中のコーヒーがかすかな波紋を立てた。
外には雪が降っている。
こんこんと、ただ二人の出会いを見守るように。
雪の降る日に、いつかの君と。