夜を渡る その1
冴えない小説家、秋の夜店であの人に出会う。
午前1時。真夜中のこの時間に、今日も目が覚める。眠り始めたのはいつも通り夕方あたりだろうか。相変わらず布団に入った記憶は全くないが、しっかりと布団の中で目覚めた。ちゃぶ台の上には大量の400字詰め原稿用紙と、飲みかけのコーヒーが置いてある。カーテンの付いていない窓から差し込む街灯の灯りは、枕元のラジオカセットレコーダーを照らしている。そんないつも通りの夜だった。
まずは布団から起き、電球の紐を引っ張り部屋の電気をつける。ちゃぶ台の上に飲みかけのコーヒーの入った湯呑みがあったので、それを台所へ持っていき捨てる。そこへそのまま水を汲み、一気に飲み干す。この一連の動作をこなすと、今日も僕の一日が始まる。
ちゃぶ台の前へ座り300枚程もある原稿用紙に目を通す。正確には310枚あるその原稿用紙には、僕の書いた癖のある字がびっしりと書き込まれている。平和文庫の新人賞、「平和賞」に応募する為、初めて恋愛小説を書いてみたのだが、思わぬ長編となってしまった。しかし一応書き終えてはいるので、あとは見直して平和文庫に送るだけなのだが、どうも細かい箇所が気になり始め、なかなか投函できずにいる。それは些細な言い回しであったり細かいやり取りであったりするのだが、なんといっても新人賞、つまり僕の小説家人生が懸かっている。手を抜くことはできない。早速ペンを取り、書き直しに入った。
小一時間ほど気になる箇所の直しの作業に没頭した。直しても直してもキリがない作業ではあるが、やらねば気が済まない作業でもある。しかし欠伸などをしながらやっているうちに腹が減ってきた。たしか冷蔵庫に大家からもらった羊羹があったな、と冷蔵庫を開けてみると中には羊羹どころか何も入っていなかった。
「・・・まぁいいか」
僕はそうつぶやくと近くの夜店へ飯を食いに行くことにした。
ぼろいサンダルを履きドアを開け、暗い廊下へ出る。5年前にこの「山村荘」に引っ越してきた時からずっと廊下の電球は切れたままだ。日中でも暗い廊下は、深夜ともなると本当の闇が訪れる。築60年の木造建築ということもあって、なんともいい味を出す廊下である。
建物の外に出ると10月の秋らしい風が吹いていた。夏の茹だるようなあの暑さはどこかへ行ってしまったらしい。恨めしいあの暑い季節を懐かしんだりするのはこの時期くらいだろう。空を見れば白い月が出ていて、頬にはこんなにも心地よい風が吹いている。
「ふふ、なんだかこんな夜には良い話が書けそうじゃないか。」
僕はそうつぶやくと、夜店のある鯛江橋へと歩き出した。
橋に着くと夜店が2軒出ていた。ラーメン屋とおでん屋である。おでんの方は既に出来上がっているオヤジが3人、なにやら騒いでいる。一方ラーメン屋には客が一人もいないようなので、ラーメンを食うことにした。
「よう親父、こっちはずいぶん静かだな」
そう言いながらのれんを上げると、店主は椅子に座ってうたた寝しているところだった。
「おう親父起きろい」
割り箸で何度か頭をつついてやると店主は目を覚ました。
「ん・・・おっとねむっちまってたか、わりいな。あんまり客がこねえもんでよ。」
「なに、もうちょい寒くなったらラーメンも旨くなるさ。しょうゆ作ってくれ。」
「メンマは大盛り?」「ああ」
店主は椅子から立ち上がるとラジオをつけ、麺を湯がき始めた。ラジオからは異国の騒がしい音楽が流れだす。なぜか不思議と耳に馴染む音楽だ。しばらく聞いていると客が入ってきた。
「らっしゃい」
店主がそう言うと客は僕の隣に座った。その客は暫くメニューを見てから注文をした。
「しょうゆラーメンをメンマ大盛りでお願いします」
女性の声。それも僕のよく知る人。まさか、と思い女性客にさりげなく目を向ける。と同時に女性の方も僕の方を向いてしまい、うっかり目が合ってしまった。彼女の驚く表情が僕の目に映り、僕の驚く表情は彼女の目に映る。騒がしい異国の音楽が急に遠くなる。3秒、あるいは30秒だったか見つめ合ったのち、震える声で僕から話しかけた。
「・・・華子さん、お久しぶりです」
「・・・尚人さんも、お久しぶりです」
彼女の名前は三ツ矢加華子。僕の学生時代の先輩で、恋人だった人。実に5年ぶりの再会だった。
夜を渡る その1