bloom wonder 8
イラストは七原です。
「七原、ごはん食ったか?歯ぁ磨けよ。風呂入れよ」
森見の帰った後、裏口のドアに再び施錠をし直して、差し入れとして貰ったお茶と弁当を手に、ロッカールームへと引き返した。
ロッカーから取り出した携帯の新着メッセージを確認し、眉を顰める。テーブルの上に荷物を置いて、畳敷きの床へ腰を下ろした。失神からかれこれ3時間は経っているが、七原が起きそうな気配はまだない。
健やかな────というよりも、触れたら手のひらにひんやりとした感触が残りそうに、ひっそりとした眠り顔だ。頰が少し色づいて見えるのは、もともとの色が白いからなのか。
森見にも言われていることだし、七原も昨日の昼以降まともな食事はとっていないはずなので、起きたら少しでも腹に何か入れた方がいいだろうと思い待ってはみるが、この様子では俺が起こさない限り、このまま朝まで眠っていそうだった。暇にまかせて畳の上をごろごろとしているうちに、七原の側でぱたんと横になった。
普段は取り付く島もないくらいの無表情が、眠っているとやけに幼く見えることが面白くて、好奇心につられてまじまじと顔を見る。
目を開けている時と無表情でいる時。作業中の手元へ向けられた、ひたむきとも言える伏せ目のことを思い出す。
やはり見る時々で、風に吹かれる砂だとか万華鏡みたいに、刻々と印象が変わる気がする。こうして見ればまったく特徴がない顔というわけでもないのに、目を閉じるとすぐに顔の輪郭が霧散してしまう。そんな風に、心許ない。
七原は、なんであいつに会う気になったんだろう。優柔不断というわけでもないだろうに、はじめからついて行く気がないのなら、せめてビシッと撥ねつければいいものを。相手の期待を断ち切らなかったせいで、結局は問題を無為に先延ばしにしてしまった。
あんな風に隙をついてキヨセに付け込まれたことも、また然り。森見に「人を寄せ付けない」と評されるわりには、どうにも隙があって無防備な印象のぬぐい切れない七原だが、起きていたらさすがにこうまでしげしげと観察してはいられないだろうな…と、考えているうちにいつの間にかうとうととして、意識が途切れた。
ふと、頰に何かが触れたような気がして、目が覚めた。
「……あー。起きました?」
待ちかねた相手の目がようやく開いていることがわかり、徐々に意識が覚醒する。見れば蛍光灯は煌々と灯ったままで、寝落ちた際に手元に転がった携帯を拾い画面を見ると、まだ午前2時前で、寝落ちてから1時間半ほどしか経っていなかった。眠気を引きずりながら起き上がる。七原は、いちおう身を起こしてはいるものの、そのまま布団に吸い込まれるように寝入ってしまいそうでもあった。
「…うん」
「うん」て。七原は受け答えもおぼつかず、ぼんやりとしている様子だ。よく見ると後頭部に寝ぐせがついてピヨピヨしている。七原の寝起きは、夢から現実のに戻ってくるだけのことに、とてつもないくらいの気力を消耗してしまう就学未満の子供のようだと心の中で思いながら、ぼわっとあくびをした。
伸びをした際、自分の右手がなにか不自然な重みを伴っているということに気づいて見てみると、七原が俺に掴み上げられた不可抗力によってバンザイをさせられていた。七原は、戦う筋合いもないのにリングに上げられてレフェリーに勝利のポーズを取らされた第三者のごとく、持ち上げられるままぶらんと手首のぶら下がった自分の左腕を、他人の腕のように眺めていた。
「うおっ、びっくりしたぁ」
ぎょっとして、つい握っていた手首を放り投げた。いつの間に掴んでいたのか、自分でもよくわからない。
だが、考えてみれば俺はこれまで、手近にある人の布団を奪ってミノムシのように自分の体に巻きつけていたり、起きた時に寝たのとは別の場所に移動していたり、手近な人間を締め落としかけていたりと、寝相に関して散々の不評を博していたのだった。それでもここ数年来は意識もないまま外を徘徊するようなこともなくなっていたし、すっかり改善されたものとばかり思っていたのだが、もしやアレが復活したのだろうか。
実家のように田んぼとは畑に囲まれて、家族みたいなご近所さんしかいない太平楽な田舎町ならばともかく、街中でアレをやったら良くて通報、時期によっては下手をすれば凍死でもしてしまい兼ねない。……となると、いよいよセルフで緊縛するしか道はないのだろうか。
そんな切ない取捨選択が頭をよぎり、じっと手を見る。
「あ。すみません。そういや、修さんから弁当預かってるんですけど、食べます?七原さん用にあつらえたとか言ってま───」
言ってる途中でハッとした。
「……いい」
「そうですか?じゃあ冷蔵庫に片付けておきますね……」
七原の答えにちょっとほっとしながら、いそいそと立ち上がり、給湯スペースへ持って行く。考えてみれば結構な時間テーブルの上に弁当を出しっ放しにしていたのだった。
どちらかと言えば自分は期限よりも、”見た目とひと口食ってヤバいかどうか”を重視する方なので特に気にしないが、食べものが傷みやすい時期にはまだ少し早いとはいえ、本調子とは言えない七原がこれを口にして、何かがあったらと思うといたたまれない。森見には申し訳ないがこれは一旦冷蔵庫にしまったあとで俺が美味しく頂くとしよう。多少痛んだものを口にしたところで、腹を下さない自信はあった。
冷蔵庫の扉を閉めてからふと思いついて、シンク横の戸棚を開ける。
「七原さん、お茶があるんですけど、……とりあえず口をゆすいでおきませんか?紙コップ持ってきたんで、ここにぺってすればいいですよ」
「……なんで」
焦点の合い切っていない眼差しで、目の前のなにもない空間を見つめながら七原が言う。
「なんで」って……。こっちが聞きたいくらいだよ。けど忘れてるんなら、俺からあえて言うようなことではないよな。
「あー……、お茶は飲みます?」
「……んう」
おい七原、日本語はどうした?と言いたい。
七原はまだ寝起きを拗らせているようで、手を投げ出された時とあまり変わらない姿勢で、とてつもなくぼーっとしている。というか、9割がた脳が寝ている。
あれだけディープに唇を奪われておきながら、おまえってやつは……。
いくら寝起きとはいえ、ぼーっとし過ぎじゃないのか。俺がもしあんな真似をされたなら、意識を取り戻した瞬間転がり起きて歯ブラシをひっつかんで歯茎から出血するほど念入りに歯磨きをするぞ。なんならエタノールを直で口に流し込んだっていい。さらには荒々しい海に向かって、歯ぐきから血を流しながら遠吠えをすることだろう。(※ イメージ)
……俺だったらな……!
しかしショックで一時的に記憶を失くしているのかもしれないと思うと、痛々しくてとてもそんなことは言えなかった。
せめてもの慰めに、お茶の中に含まれるカテキンにあると謳われている殺菌力に同情心を託して、ポットのお茶をコップに注ぐ。
「どうぞ」
コップを手渡すと、おぼつかないながらも両手を添えてこくこくと飲みはじめる。いつもに増して取り扱いが不明だが、今日のところはこういう動物なんだと思っておくことにする。
朝食は自分の分も含めて近くのコンビニで適当に見繕ってくるとして(もちろん必要経費としてあとで全額請求するが)時間帯も時間帯だし、本人が食わないと言っているのだから食事の無理強いまではできないが、風呂はどうするんだろうかと、ふと思う。
昨夜は結局そんな暇がなかったので、俺はみんなが出勤してくるまでにシャワーで済ませればいいやと思っていたが、特に七原は昨日一日分のあれこれを洗い流さないままで仕事をするのはさすがに気分が悪いだろう。
仕事中も汗をかいたり材料を被ってしまうようなこともあるので、シャツなどの着替えはロッカーの中に予備があるはずだ。
「お茶、もう少し飲みます?」
コップを持った手は徐々に下がっている。首がうっすら横に振れたように見て取れたので、手の中から転がり落ちる前にそっと回収する。それにしても、普段から口数が少ない男だというのに、とうとうワンセンテンスも喋らなくなってしまった。大丈夫なのだろうか、こいつは。
「七原さん。ちょっとだけ、立てます?」
倒れる前は、ぐらぐらしていて体の重心も保てないようだったが、今はどうだろう。だるそうではあるが、今からならまだ数時間は寝ていられる。立てるようなら一度シャワーを浴びてから休んだ方がいい気がするのだが……。うーん。
どうしたものかと思案してから、空中に浮かせていた視線をおもむろに元に戻した。
「って、…あれ?……七原さん?」
七原は───────
七原は、たった今まで起きていたのが幻ででもあったかのように、目を離したほんの十数秒ほどの間に、胎児の体勢でくうくうと眠っていた。
Catch it if you dare
───まくん。みしまくん。
時折り顔にかかってくる藪の枝葉を払いのけながら、森の中を、俺は息を切らせて走っていた。
さっき出会った熊が、しつこく追ってくるせいだ。
そもそもが、知り合いでもない初対面の熊から、出会い頭にまったく見覚えのない腕時計を差し出されて、
「ねえねえ。これ、落ちてたんだけど君のかなァ?」
と尋ねられたところからして警戒はしていた。即座に俺は「いいえ、そんなカシオの腕時計など知りませんが」と滑舌も良くきっぱりと答えた。すると熊は馴れ馴れしくも親しげに、えげつないまでの実用性しか感じさせない爪の生えた手の平をさらにこちらへ差し向け、
「違〜う、違〜う。よく見てよ三島くん。これはカシオじゃなくて、Gショックだよ。G」
と、顔(リアル熊)に似合わぬふざけた口調で言う。その際、差し出した腕の方じゃなく、顔を振り子のように左右に動かす仕草がマヌケっぽくて、愛嬌を感じないこともない。しかし初対面なのに俺の名前を知っているとは、どう考えても怪しすぎた。
きっと、「どれどれ」と覗き込んだところで、文字通り手の平を返し、襲いかかってくる算段に違いないと踏んだ俺は、さりげなく距離は保ったまま、フォーマルな愛想笑いを貼り付けた。
「そうですか。それじゃあ、自分のGショックがあるかどうか、急いでうちに戻って確かめてくるので、すみませんが熊さんはちょっとの間ここで待っててもらってもいいですか」
永遠にな。と、心の中だけで本音を告げて会釈をし、はじめは緩やかに、次第に歩を早めて走り出した。そうこうして3分ほども走って十分に距離も取れただろうと思えたところで、想像以上にちょろかったマヌケな熊への捨て台詞でも吐いてやろうかと振り返ろうとした瞬間、視界の端にあってはならないものを捉えてしまい、口からぽろりと心臓をとり落としそうになった。
なんと熊は、陸上選手としては理想的と言ってもいい、流れるようなフォームで、俺の斜め後方を並走していた。一見にこやかに笑っている風の顔も、口元を見るとむき出しになった歯茎に、コーティングしきれない『やる気』のようなものを感じて恐ろしかった。
「や、──やだな熊さん。待っててって言ったのに、ついて来ちゃったんですかぁ?」
風を切って走りながら、なんとか平静を装ってはみたものの、実際には埴輪のように見開いた目鼻や口、全身にある穴という穴から、余裕と余力がチョコボールのごとくポロポロと零れ落ちているんではないかというくらいに動揺し、驚愕していた。そして思っていた。「人の言うことを信じないなんて、こいつはなんて最低な熊野郎だ」と。
「あっ。あれっ!?熊さん。あれってミツバチの巣じゃないんですか?あの、木のところにある……熊さん?」
咄嗟の判断だったが、しゃべりかたが例のアレに似ていなくもなかったから、いける気がしていた。
「え〜……。蜂きら〜い。あのしましま模様とか、生理的にムリ〜」
「…………」
景色は笑顔を貼り付けたまま固まった顔面の横を次々と飛びすさり、ざしざしと土を蹴りあげる双方の走行音だけが虚しく響いていた。
「あれっ、熊さん、熊さん、もしかしてあそこにいる女子は、君のファンなんじゃないんですか?」
全力で疾走しながら、今度は遥か後方に遠ざかりつつある坂道を指差す。
「えー?嘘ぉ、どこどこ」
熊はまんざらでもなさそうな様子で、俺の指差した後方へと身をくねらせた。しかしその間もフォームは理想的なまま、まったく崩れる気配はない。
あらためて、とても嫌いなタイプだと思った。
「恥ずかしくて、隠れちゃったんじゃないのかな。まるまると太って、とってもっ、かはっ……可愛い、女の、子、だったよ」
くそったれ。息が切れてきたぜ。
「ええ〜、どうしよう。困っちゃうなぁ。だってさ僕……可愛い女の子と話すと、ドキドキしてぶつぶつが出てきちゃうんだもん。ふっふう!」
熊は完璧に俺と並んで走りながらも、器用にモジモジしている。気持ち悪い。剛毛に覆われたてめえの皮膚がどうなっていようが、知ったことじゃなかった。
しかし、でれでれしながらの骨が抜けたような走法は、フォームが崩れているのになぜかトップスピードを保ったままで、本当に気持ちが悪かった。それは以前YouTubeで見た『欽ちゃん走り』というやつに似ていて、ただでさえ息が上がってシビアな状況だというのに、油断すると吹き出して今にも全身が脱力してしまいそうだった。獲物をわざと逃がしたうえでさらに弄ぶような、これをもしも狙ってやっているのだとしたら、低俗だ。人道もとい、熊道にもとる卑劣すぎるやり口と言わざるを得ない。こいつ、死ねばいいのに。
とりあえず、そのふざけた二足歩行を今すぐ止めろ!と叫びたかった。走りながらなんとか一矢報おうと間合いを図ろうとするが、ここで足技を繰り出したところで、一発で仕留められるという保証はなく、これだけの体力・脚力を持った相手が復活した場合、単なる怒らせ損になる公算のほうがずっと高く、賭けに出るにもそれなりの覚悟が必要になる。むしろ転倒から怒涛の四足走行にギアチェンジという、鬼のような展開も考えられるわけだ。だが確実なのは、息の切れ具合からいって、こっちはもう長く保たないということだ。
……にしてもこの熊。
生態系を裏切った存在そのものより、しゃべりかたのセンスのようなものに、度し難いものがある。特定のキャラクターの成功形に乗っかって、そのおこぼれでもに預かろうという安直な根性がうかがえる。こんなあほんだらの粘着性の声の熊に殺られることだけはゴメンだった。
チャンスは一度。
親から授かったこの口先に、すべてを賭けるよりほかに道はないと悟った。
さあ、なんと言うべきか。頭に浮かんだキラーワードを口にして、相手が阿呆面を浮かべて緩んだ隙を突いて、一気に突破する。
……やるしかない。
「熊さん、熊さん」
「ええ〜ぇ?なんだい?」
その声があの、国民的長寿番組の、超有名一家の婿養子の裏声に酷似している────そう気付いた瞬間に、極度の緊張を強いられた精神と絶え間ない反復運動を強いられていた足は一瞬にして崩壊し、俺は宙を舞った。
はあ。………………終わった。
まさか自分の人生の最終到達形態が、まさかの熊のウン○だとはな……笑えるぜ。
悪いな母ちゃん。そんなわけで、借りていた金はどうやら返せそうにない。こんなことになると知ってたなら、憎まれ口ばかり聞いていないで、少しくらいは親孝行っぽいことをしても良かった気はする。
どうせだったら金だ臭いだなどとみみっちいことを気にしていないで、唐揚げでもギョウザでもステーキでも、死ぬほど食っておけば良かった。
……あと部屋。今の超絶な荒れ具合を見たら、違う意味で母ちゃんは泣くだろう。
……ま、いいや。なんだって。今さら言ったって仕方ないし。
というわけで、さらばだ。
「はうっ!?」
「あっ、起きた」
「……は。──え?……あれ?」
思わずきょときょとと周りを見るが、森も喋る熊もGショックも、跡形もない。もちろん、自分が空中を華麗にくるくる舞っていた形跡も。
まさかも何も、今や一瞬たりともあれに現実感を見出していた自分を疑いたくなる、起きた途端にすべてが納得。一件落着。これが俗に言う、かの有名な”夢オチ”というやつである。っはっは。やれやれ。
────じゃなくて。
「……なんで、宮蔵がうちにいんの?え、なに?……不法侵入?」
やっぱ妖精だから?妖精だから、ひとんちに勝手に侵入して、顔面に氷の水滴をぽたぽた垂らすとか、朝っぱらからぶん殴りたくなるようなファンシーな拷問をかますわけ?
「あーあ、三島っち。なに寝ボケてんだよ。いーい?ここは店だし、三島っちは昨日ぉ、ここで泊まったんでしょ?どおっ!?思い出しましたかっ!?どーん!」
「うるせえよ。耳の遠いジジイじゃないんだから耳元でしゃべんな。────で、七原さんは?」
「んっ?」
「”んっ?”じゃなくてさ……七原さん。シャワーでも行った?」
ボリボリと頭を搔く。畳みかけられている途中でいい加減記憶も戻っていたので耳元でがんがんしゃべる宮蔵をよそに周りを見ていたが、七原が寝たあとで俺がひいて寝ていた布団があるばかりで、七原の姿も寝ていた形跡もすでになかったので、てっきり起きて身支度でもしているのだろうと考えていた。
しかし首を傾げながら宮蔵が能天気に吐いたセリフは、少々聞き捨てならないものだった。
「いないよ?昨日のうちに帰ったんじゃなかったの?」
「…………はあ?帰った?」
「えっ、えっ?だっ、だってさ、久慈くん来た時からもういなかったって言うし、鍵開いてたって久慈くんゆってたし、…たし、あと久慈くんがもうそろそろ三島っち起こしてきたほうがいいんじゃないかってゆったから。あっ、……と来る時にお弁当買ってきてって言われてたから、買ってきたんだけど。これ…」
だんだんと尻すぼみになりながら、宮蔵がおずおずと重そうなレジ袋を差し出す。その様がぺたんと耳を伏せた子犬の姿を彷彿とさせた。
昨日は、あれからシャワーを浴びて、上から布団を下ろしてきて、寝たのは結局深夜の2時過ぎだった。
すでに薄れかけているものの、夢の中ですら疲れていた気がするし、わけのわからない起こしかたをされた上に、このたびの災厄の大元凶は、なにごともなかったかのように家に帰っているらしいという。何時の間に出て行ったのか、まったく気がつかなかった。常識的に考えて、寝ているのを起こすのが躊躇われたのであれば、せめてメモを残すなりしても良さそうなものだが、そんな発想があるわけもない。
頼んだわけでもないのに勝手に周りが右往左往して、結果的に振り回されているのを見たところで、どうせなんとも思わない。思う義務もない。言葉にすれば、ただそれだけのことだった。心にもない、思いもしない相手に感謝を要求するのは、無意味だし、無様だ。そんなものはこっちだっていらない。
たぶん我が儘とは違う。”こうあるべき”というポーズを気取っているわけでもない。徹底的に、血も涙も出ないくらいのマイペースなのだろう。あのような人間は自分史上前例がなく、少しはマシな疎通が成立し始めたかと思うたび味合わされる、この徒労感は、もはやどう言い表せばいいのかもわからなかった。
「へえー。……そっかそっか。そうなんだー」
「三島っち、……えっと。……なんか、怒ってる?」
「なんで?理由もないのに、怒るわけないだろ」
「そ、そう?」
宮蔵は何か言いたげな顔はしたものの、それ以上は突っ込んでこなかった。
七原が俺にひと言もなく帰ったと知ったところで愉快な気分になるわけもなかったが、あの男に人並みの社交モラルを求めること自体が不毛であるということは、これまでにも重々わかっていたつもりだ。ただ、それでも性懲りもなくむかっ腹を立ててしまう自分の大人げと学習能力のなさにうんざりしているだけだ。宮蔵に申し訳ない顔をさせたり、ましてお詫びに奢られるような筋合いのことでもない。
「弁当ありがとな。いくらかかったか教えて」
「ううん。それは、いいよ。俺もちょっとだけ出したけど、久慈くんがほとんど出してくれたし。三島っち、すじこのおにぎりとバナナのひと口バウム、好きだったよね?」
「好きだけど……ほんとに払うよ?言えば昨日のついでに、志村マネージャーが出してくれるかもだし」
あの女にだきゃあマジで、どれだけ払わせたところでまったく気が済む気がしないんだが。
「いんだよ、それは。だって俺たちが勝手に出したいだけだから。だから食べてよ」
「そっか?ならもらっとく。悪いな」
せっかくの厚意だ。それ以上遠慮するのも野暮だと思い、受け取る。
見た目でもわかっていたが、渡されたレジ袋の中には昼食分や、飲み物も入っているようで、ずっしりとしていた。
宮蔵にしては珍しいまでの気遣いに多少の違和感はあったし、久慈はともかくとして、宮蔵は3年前には居なかったのだからキヨセ関連のゴタゴタとは無関係のはずなのに、なにをそこまで申し訳なく思う(もしくは”恩に着る”?)のか謎だったが、今から買いに行ったんじゃゆっくり食べる時間はまずなかっただろうし、腹も減っていたので、正直すごくありがたかった。始業予定までそれほど時間もないので、早速パッケージを開けて食事にかかる。
「三島っちさぁ、今日もし良かったら……ううん、今日じゃなくてもいいから、近いうちごはん食べに行かない?」
「飯?だったら別に今日でもいいけど」
急いで帰る理由もなく、明日は休みなので軽く応じたが、そういえばこいつはあらぬところで諜報活動をしていた挙げ句、森見に余計なことをべらべらと喋っていたのだった。釘を刺しておくのにもいい機会かもしれないと思った。
いつもなら「じゃあみんなに声かけておくね!」とぱぁっと飛び立って行くはずが、いつまでも返事がないことを不思議に感じ顔を見ると、下唇を噛むようにして、気まずそうに下を向いている。これは、いよいよ様子がおかしい。
離島育ちで、気性の荒い漁師と海の荒波に揉まれて育ったせいか、宮蔵は小柄な割に肝が太く、俺が多少不機嫌な顔をしたところでビクつくようなタマじゃなかった。
「なんだよ?」
「あのね。俺さ、……俺、三島っちにちょっと話があって。それで……えっと……できたら2人がいいんだけど」
「ふうん?いいけど、給料日前だから安いとこな」
「わかった。じゃあ、またあとで」
「ああ」
どこか思い詰めたような表情を心持ち緩めて、身を翻した宮蔵が出て行ったドアを、しばらくの間デミハンバーグ弁当の目玉焼きを咀嚼しながら凝視していた。
「……いやいや、無いって」
ぼんやりと告白のシチュエーションに際しての断り文句を思い浮かべている自分に気づき、声に出して笑おうとするも冗談に昇華しきれなくて、黙々と弁当を腹に詰め込む。
……流行ってたらやだな。
誘いに乗ったのはちょっとした気晴らしのつもりで、行く店によっては今日は宮蔵のアパートに泊めてもらうのもありかと考えていたが、場合によってはそれどころじゃなくなったりもするんだろうか……。つーかあいつは、つい最近も「一緒に住むなら誰がいいか」という質問に、迷わず「ウーパールーパー」と答えていたくらいの生粋の島の住人なのに、そういう意味で島の魚介類や、動物以外の人類とお付き合いしたいという感情が湧いたことがあったんだろうか?
出がらしのような頭では、いつものようにしょうもない妄想で現状を茶化す余力も湧かなかった。ともあれ、目を瞑って待っているだけで好転するものごとなんて、経験的にはないに等しい。そして、自分が何をどのように悲観しようとも、どのように思っていようが、天変地異でも起こらない限りやるべきことはやらなければならない。というわけで、今は目前の仕事をする。
俺たちが作るのは、目に映った時、手に取った時、口に入れた時に、嬉しい気持ちになれるお菓子。実在のモノそのものの味と、そこに投影されるある種の付加価値───吹き込まれるイメージを、心でともに味わうもの……。だけど難しいことなんて考えなくたって、食べればわかる。
俺はたぶん『paigue』へ来て、……七原に会って、初めて知った。
「なんだろうなぁ〜……」
見事なまでに浮世離れしていて、社会性や常識や人間性、すべてをどこかに置き忘れてきたような七原が、仕事面では誰より”それ”を体現している。求められているものがどういうものなのかを、的確に捉えている。たとえそれが誰かにとってはどんなに皮肉だろうが、理不尽に思えようが。
たとえば俺や宮蔵や久慈が、好きという気持ちや情熱を一心に傾けて、こつこつと努力を重ねただけでは埋めきれない、ゆるがない”世界”のようなものを七原は持っている。宮蔵が、七原のチョコレートを自腹を切って食べている時の顔が、単なる”幸せ”だけでは言い表し切れないものであることを、俺は知っている。それは、どうしてなんだろう。
しばらくして聞こえたドアの開閉音とごそごそとした物音で、出勤した七原が着替えていることには気づいていたが、何も言ってこない七原にたいして、顔を上げて通り一遍のあいさつを取り繕う気にすらならなくて、始業時間ぎりぎりまでの間、ぐちゃぐちゃの頭を抱え、浜辺に打ち上げられた軟体生物のようにテーブルの上に座礁していた。
bloom wonder 8
ありがとうございました。