bloom wonder 7

bloom wonder 7

イラストは森見修です。

一過

 唐突に繰り広げられ唐突に終わった、差し当たって修羅場(しゅらば)といって差し(つか)えはないんではないかという出来事に、果たしてどういう態度を取るべきかと、迷った。
 だけど女の子が痴漢に遭ったというわけでもないのだし、ここでへんに気遣うというのも気が引け、結局適当な案など何もないままドアノブに手をかけた。
「あいつ、帰りましたよ」
 (つと)めて何の感情も込もらないように言うと、キヨセが出て行った数分前と寸分変わらぬ場所にぼんやりと突っ立っていた七原が声に反応し、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
 思った通りというか、すでにあらかたの動揺はかき消えて、じっとこちらを見詰め返すばかりの()に、「ホラな、こういうことだよ」と内心で嘆息する。わずかに見えたと思った、あの(もろ)さは一体なんだったのか。こいつ、本当に可愛げねーよなと思ってから、いやいや30男に可愛げは要らないかと重ね重ねため息をつく。それにしたって、毎日のように顔を合わせている人間にあんな場面を見られて、こんなに涼しい顔をしてられる意味がわからない。
 こっちにしても「いやー、大変でしたね。俺もかなりいい迷惑でしたけど」くらいの嫌味は言ってやってもいいはずなのに、なぜだかそれが言えない。
 下手(したて)に出ろとは言わない。だけどせめて、何か言えよと思う。志村も言っていた通り、仕事に関すること以外の七原は、本当に、ポンコツとしか言いようがない。すべては勝手にやったと言われればそれまでだが、ここへきての、七原の他人事(ひとごと)みたいな態度には、さすがにウンザリとする。悪いが、次は誰に何と言われようと、こんな茶番に付き合う気はない。
 ”セバスチャン”は今回限りで廃業だ。
「もう───」
 「帰りましょうか」と言いかけたところで、定まっていたと思っていたかに見えた視線の焦点が合っていないことに気が付いた。ぐらぐらと、うねる波に呑まれるかのように、目の前の重心が揺らいだ。
「悪い、……」
 かすれる声が途切れるより、目の前で結ばれた糸がほどけるような感覚に、大きく前に踏み出していた。
「七原さん…!」  
 倒れる前に腕をとってなんとか上体を支えた。立った状態で意識を失う人間を見たのは、中学のころ以来かもしれない。
 口元に(かざ)した手のひらに息がかかる。貧血かとも思ったが、声をかけた際の反応の無さと触れた頰の冷たさに、ぞわっとした。
 壁の時計を見ると、すでに21時近い。昼間の、人がいる時間帯ならばともかくとして、ひとりで対処するのかと思っただけで、一挙に途方に暮れる。店の風評と近隣の迷惑を考えれば、安易に救急車を呼ぶことはためらわれる。となると、タクシーを呼ぶしかないのか。そう思いながら、自分自身の使えなさに、舌打ちが出そうになる。
 完全に脱力し、ずり下がりそうになる体を抱え直して、顔を上げた。
「あえ?おまえら何してんの?」
 志村…………こいつ、居たのか。
 通りすがりに物音に気付いたのか、ノックもなしにドアを開けた志村が、コンビニ袋を片手に緊張感に欠けた表情で立っていた。歯ブラシ?……いや、違う。口の中にチュッパチャプスらしきものを転がしているせいで、緊迫も滑舌もあったもんじゃないのか。……で、なんでチュッパチャプスなのか?
 いや、そんなことはどうでもいい。そのタイミングに、軽く息を飲みながらも告げる。
「いや、…あの、…七原さんが急に倒れてですね」
 普通はコレを見てなんかおかしいとか「どうした七原!?」みたいな流れになるもんじゃないのか。なんでこいつはまったく焦らないのか。
 見たままのことを説明するという間の抜けた展開に、思わず目が泳ぐ。
「ほー。で、清瀬はどうした?」
 ”ほー”って……。コレあんたん(とこ)の従業員だろ?そのへんに落ちていた拾得物とかじゃないことはちゃんと理解しているよな?
「キヨセは、………あいつは、帰りました。いやもうそんなことより、七原さん、意識が無いみたいなんですけど!?」
 いやもう、皆まで言うようなことじゃないと思うんだけど。……おかしいな。なんだか、だんだん情けなくなってきた。
「”あいつ”、ねぇ。…で、何だ?ナナハラはまた、清瀬になんかされたのか?」
 うぐっと勢い込んだ言葉が喉に詰まる。
 なんで、この女はまったく動じない?しかも、”また”って何だよ。
 言い方がものすごくひっかかるけど、なぜかわかってしまう。こいつはきっと、”衝撃の真相はCMのあと!”と冒頭から引っ張るだけ張っておいて、最終的に”また来週〜!”みたいな悪ふざけを、平気で延々とやり続けるような奴だ。
 ここで現れてくれたことだけは心底ありがたく思うが、考えてみればキヨセに負けず劣らずのふざけた性質の女なのだった。「キヨセに嫌われている」とか何とかほざいていたが、そういうのっていわゆる同族嫌悪の典型パターンというやつなんじゃないのか?
 ふう、と深呼吸する。とにかく一旦落ち着こう。
「いや、何か、…ていうか、」
 説明をしようとしたところで思わず口ごもる。考えてみれば具体的に話に進捗(しんちょく)があったわけでもなし、業務にかかわる内容かといえば、そうでもない。
 となると、(本人が気にするかどうかはともかくとして)七原の沽券(こけん)にも関わることなので、何と言うべきか迷う。自分だったらあんなことは、きっと絶対に誰にも漏らされたくないと思う。
「えっと。……何も無かったってことはないですけど、そんな、こんな風になる程のことは……」
 今や腕の中でぐったりと虚脱した体躯(たいく)をちらりと見遣(みや)り、「なんで俺はこんな目に遭ってるんだっけ?」と考えながらも、ぐずぐずと煮え切らないような、何とも言えない気持ちになる。
 確かに、抱擁(ほうよう)は多少強めだっただろうが、まったく抵抗にもならなかったのは、不自由のない利き手を拘束されたことと、体勢が極端に不利だったせいで、キヨセは別に、それほど屈強な男でもない。それにこれまで一緒に働いてきて、七原のことは細身だとは思っても、虚弱だとか神経質だとか、そんな風に思ったことはない。
 ”触られるのが苦手”だからといって、いくらなんでも失神するほどのもんじゃないだろう。と、思うんだけど。
 万が一あんなことをされたのが自分であったらと考えた場合、失神するどころか全力で阻止したうえで、馬鹿な気を起こしたことをゆめゆめ忘れることのなきよう、念入りに、徹底的に、きっちりと因果(いんが)を含めさせてもらう。
 それを思うと、不可抗力であんな目にあったうえ、自己表現力が壊滅的に欠落しているばかりに、俺にまで同意があったんじゃないかと疑われるなんて、あまりにも不憫(ふびん)だった。あんなふうに物分かりのいいふりなんてしていないで、七原にかわって何発かぶん殴ってやればよかったかと今さらになって思うが、あとの祭りだ。
 もしかしたらもともとの体調もあまり良くなかったりしたのかもしれない。そういえばこいつは今日、昼もあんまり食ってなかったかも。というか七原はいつだって考えられないくらいに少食なのだ。たったあれだけの量では、生命を維持するだけで精一杯なんじゃないだろうかと思いながら、なにげなく目に入った七原の食事内容が細切れにフラッシュバックされる。
 俺なら確実に3日以内に倒れる。
「……おまえ、そんな死にかけの犬を見るみたいな目で、自分の先輩を見てんじゃないよ。失礼だろ」
 志村が異様に無邪気な眼光で、俺の顔を覗き込む。
「うう……だって」
 ごはんが。ごはんで。
「まあいいや。……よし、じゃーとりあえず、みんなを呼んどくか」
 いや、医療班呼ぶか的な感じで言われても。ここにいるのはスイーツと接客の専門職であって、いくら雁首(がんくび)を揃えたところで、役立つようには思えない。ツインズと宮蔵(みやくら)に至ってはきっぱりと、邪魔以外の何者でもないと断言できる。信永さんなんて夜8時頃には礼儀正しく床に入っていそうだし。そもそもみんなとっくに帰ってんだろって話だ。
 何言ってんだよコイツと思うのに、強く反駁(はんばく)することが出来ないのは、心のどこかで最終的に、人と話をしているのに口からチュッパチャプスを出しもしないようなこの女の判断を当てにしている自分がいるせいなのではないかと、ただでさえもの悲しい気分がさらに増す。
 が、予想に反し、その3分ほど後には、呼び寄せられてわらわらと集まった面々がこちらを取り囲み、口々に好きなことを言い始めていた。

「えー…、なにコレ。どした?」(バリスタ担当・森見修(もりみ しゅう)
「寝てんじゃね?ビヨンセは?ビヨンセ帰ったん?」(パティシエ見習い・新名兄・すばる)
「あれは清瀬という、前にここで働いていた(やから)で、ビヨンセは来日もしてねぇ。いいかすばる。ビヨンセは女子、キヨセは男子だ。わかったか」(同じく・新名妹・あきら)
「だって会ったことないし、俺ぜったいビヨンセって聞こえた。あいつぜったいビヨンセ言ってた」
「したらうちら全員オールスタンディングだわなー。つーか医者行けよすばる。おまえが失くしたっていうイヤホン全部、耳の穴から出てくるから、一回ほじくってもらえって」
「わあ。…よく寝てますねえ」(業務見習い・御曹司・藤村蓮樹(ふじむら れんじゅ)
「うおー!ナナハラさん寝てるとこなんて俺、初めて見んですけど!」(パティシエ・宮蔵青(みやくらあお)
「うん。おまえは本当にどこでもよく寝てるけどな。さっきも起こされるまで、ずっとししゃもをくわえたまま寝ていたよね」(森見)
「っす!起きた時口になんか入っててびびったっす」(宮蔵)
「おや…。本当だ。ああ、これはまた可愛らしい寝顔ですね」(F・M(フロアマネージャー)信永(のぶなが)
「………」(パティシエ・久慈継穂(くじつぐほ)
「ははっ……!なにこの顔。赤ちゃんみたい。どんだけ無防備なんだよ」(森見)
「超貴重映像ですね。『緊急☆特別記念祭』と銘打って、ブログに上げときますか────ってア”ー〜ッ!何すんっっすか!」(K・A(キッチンアシスタント)兼仕入れ兼広報担当・武蔵野糸鶴(むさしのしず)

 キヨセに気付かれないように、どこでどう待機していたのかはわからないが、どうやら帰ると言っていたのは、はじめから嘘だったらしい。
 日頃から誠実さと人徳を(たた)え『paigue(ペイジュ)の良心』と並び(しょう)される2人まで………信永さんの笑みはいつにも増して慈悲深く後光が差すかのようで、無口な久慈くんのつぶらな()は、心なし潤んでいるようにも見えるが、もしかしてドライアイだろうか。さらには、気怠(けだる)い色気が売りのバリスタも、心なしテンションが高いような。……なんで?
 最後に七原の顔に向けて撮影しようとしたシズの携帯は、構えた隙に蹴り上げて、落下したところを床に滑らせるように蹴飛ばした。
「修さん!三島が私の携帯でフットサルかましました!なんなんすかこいつ。足クセ最悪なんですけど!?ぶっとばしてもいいですか!?」
 うるせーな馬鹿シズ。見りゃわかんだろ。手が塞がってんだよ。
「いやもう、ふざけないでくださいって……」
 だいたい何なんだよこの人たちは。この時間まで残ってたのもそうだけど、わざわざ寄ってたかって悪ふざけでもないだろう。怒りを超えて、ほとほと情けない気持ちになる。
「いや別に、誰もふざけてなんてないし。というか、おまえはなにをひとりでムキになっているんだろう。こんなん、このまま寝かしときゃいいだけじゃないの」
 額にかかる髪をかきあげながら、のうのうと森見が言う。
「寝かし……って、だって、七原さんは、さっき急に倒れて…!」
 ムキにと言われて苛ついた。あんたらはぶっ倒れるのを見ていないから、そんな風に適当なことを言っていられるんだと歯がゆかった。
 森見が目を細め、”静かに”というジェスチャーで口元の、手入れのゆき届いた指先をくるりと下方へ向け、ちょいちょいと指し示す。つまり、七原を見ろ、と。
 むっと()めつけたい気持ちを(こら)え、言われた通りに下を見た。そのまましばし、無言になる。 
 ………あれ?
「これ、寝てるんですか?本当に?」
 指摘された通り、落ち着いて見ると、確かに倒れる前後は浅く頼りなくなっていた息が今は落ち着いていて、呼吸と同じリズムで胸がゆったり上下する様子も、なんだか穏やかそのもののように見えてくる。
「だから、さっきからそう言ってるじゃない。なんならおまえの方がよっぽど青い顔してるから、鏡見てみれば?まあ、何がどうしてこういう状況になったのかはわかんないけどさ。俺もびっくりだよ。だって、三島が七原を横抱きとか、オモシロすぎでしょ」
「そ……そうですか?」
 青い顔、と言われて自分の頬を触れてみるが、触ったところで何がわかるわけでもなかった。そしてちょっと恥ずかしい。
「まあ、よっぽど驚いたんだろうけど」
 自身もびっくりしたと言うわりに、まったく動じていなさそうな森見の目元が、新月のようになごやかに細まる。七原とは別の意味で、この人も何を考えているのか、まったくわからない人だと思う。
「どっからどう見ても快適安眠だわっ、このっ、くそたわけ。愚か者っ、ばかちんが!」
 飛び付くように拾った携帯を、数年ぶりに戻ってきた愛犬を(いたわ)る手付きで(せわ)しく愛でながら、シズがぎゃんぎゃん吠える。なのに、寝ている七原への配慮もあるのか、声のボリュームが若干(じゃっかん)抑えられていることがおかしい。シズ以外の連中は、微笑ましいものを見るような、憐れむような不思議な目つきで、俺を見ている。
 なんだこれ。
 なんだこの、温度差というか微妙な疎外感というか、感覚のズレは。
「三島。その子ずっと持ってんのも、さすがに疲れるだろ。宮蔵(あお)、布団持って来て敷いてあげてよ」
「あいあーい」
 言われた宮蔵が跳ねるような足取りで、繁忙期(はんぼうき)などの泊まり込み用の寝具一式の置いてある2階へ向かう。
 いくらなんでも三十路(みそじ)も近いような男を捕まえて、その子呼ばわりもないだろうと、皮肉まじりに目線を落とすと、そこにあるのは普段の薄らぼんやりとした無表情が抜け落ちて、あどけないまでに無防備な眠り顔だった。
 閉じた(まぶた)を、睫毛(まつげ)が縁取っている。見慣れたつもりでいたこの目が、開いている時は一重だったのか、二重だったのかも定かでないことに今さら気付いた。
 輪郭。眉。鼻。口。くどいところのほとんどない、シンプルな顔だちだと思う。眠っているという、それだけのことで、すべてのフィルターが外れてしまったかのようで、あらためて七原はこんな顔をしていたのかと、変に感心していた。
 七原は、起きてれば起きてるで見えないバリアーでも張っているように人を寄せ付けないし、喜怒哀楽や考えていることもわかりづらい。打算的だったり、人を見下しているようにも見えないかわり、誰に対している時も、何の温度も感じさせない。それだけのことが、ここまでに人の印象を曖昧(あいまい)にさせるのか。
 わりと長く一緒にいるつもりでいたのに、それも目の前にいるのに、目を閉じる(そば)から記憶の風化が始まってしまいそうに、印象が心もとない。
 こんな風に目を閉じていると、ちゃんと息をしているのかどうかを、確かめたくなる。
 なにしろ感情の入り混じったコミュニケーションの成立が、恐ろしいくらいに困難な相手だ。うっかりこんなものを好きになってしまう人間が、気の毒に思えてしまうくらいに。
 そうこうしている間にも、宮蔵がどたどたと階段を登り降りし、布団の準備が整えられた。腰を下ろした状態であったとはいえ、抱える腕がだるかったのも確かなので、起こさないようになるべくそっと体を横たえると、その上へ宮蔵が掛け布団をかけた。壁の時計を確認すると、21時を20分過ぎている。
 そこでようやく、みんな帰りはどうするのかと気になりはじめた。
「あの……せっかく布団引いたけど、とりあえず一旦(いったん)、起こした方がいいですかね?」
 七原の家は徒歩圏内と聞いているので、帰りの心配はない。
 見上げて問うと、「それなんだけど」と男前のバリスタが、女の子をあしらうのに似た意味深な笑顔を浮かべたので、嫌な予感が()ぎる。
 そもそも、『断られないこと』を前提に話す人のお願いごとというものは、十中八九ろくでもないことに決まっている。
「今度ロイヤルミルクティーでも何でも、好きなドリンクを好きなだけ俺の奢りで作ってあげるから、今日のところはそれ(・・)は三島に任せて、俺たちはこのまま帰ってもいいかな?」
「えっ?……え、えっ?」
 耳から入る言語を撥水加工されたかのように次々と脳が弾くため、指と、それが指し示す先にあるものを、きょときょとと交互に見る。
 ”それ”って、もしかして”これ”のことか?まさか、七原のことを言っているわけ?
 ……まじで言ってんの?
「異議なしですね。じゃ、今日はノー残業デーってことで」
「それがよいね」
「うん、よいわー」
 この場で決まった同意というよりも、予定調和めいた怠惰さで、シズとツインズが追随(ついずい)する。ノー残業も何も、あんたらは今までどこで何をしていたんだって話だ。
「う〜ん…。確かに、みんなでここに揃って居残っても仕方がないし。それは、七原くんにとっても、あまり本意ではないような気がするねぇ」
 と、信永さんが自らの説に頷きながら言うのを、森見が訂正する。
「信永さん。違うよ。あまりっていうより、こんなん俺らに見られたって知ったら、こいつ屈辱すぎて舌を噛むよ。じゃなかったら、今度こそ永遠に心を閉ざすか」
 は?嘘だろ。現段階より閉じるなんて、可能なの?
「なんと、それはいけない」
「ファウインサポタボー!」
「ノー・モー・スプラッタ!ノー・モー・ティアーズ!エニィ・ギヴン・サンデー!」
「イエス!ファイントゥデー!」
 信永さんが完全に棒読みだ。双子も相変わらず何を言っているのかはわからないが通じ合ってはいるらしく、ハイタッチを決めている。宮蔵は静かに壁に寄りかかったまま、うっすら白目を()いていた。
 とりあえず自分に拒否権はなさそうな流れであることだけはわかった。ていうか、みんなして木槌を渡し合い、手に手を取って梯子(はしご)の足場を叩き落としていくような協力体制が分かりやすくて逆にすごい。
「てことで、帰ろうか」
「ですね」
 人が絶句している間にも、話がどんどん進んでいく。
 そうか。おまえらはそうやって俺を取り残して、みんなで船に乗り込むつもりか。
 「いや……普通に今起こせばいいんじゃ」と俺が言いかけたのを、「何言ってんすかあんた!」と、唐突な舌鋒(ぜっぽう)でシズが(さえぎ)る。
「あれを見て、なんとも思わないわけ?」
 ビシッとさされた指の先には、すっぽりと布団に埋もれる七原がいた。しかし非難するように言われることの意味がまったくわからないために、無言で眉を(ひそ)めるにとどめる。
「見なさいよ。……ね。あんなによく寝てる」
 「ね。」じゃねえよ。それは、見ればわかる。むしろこの場にいる全員が入ってきた直後から理解している。とりあえずその頭の悪そうな自己演出をやめたらどうだろうと思ったが、もはやこいつのために口を開くのも億劫(おっくう)だった。
「結局、…ね。なにもかもが、自業自得なんですよ」
 え。シズ、何が?どこらへんが?
 おまえは何かと言うとそうやって遠い目をしてまとめのセリフにかかろうとするけど、ほぼ意味伝わってこねぇからな。しかもこの状況でさらに俺を逆撫でしようとは、いい度胸だ。
「えっと………すみません。じゃ、そういうことで」
 見当違いな(たま)を誰も拾う気配がないことにいたたまれなくなったか、穏健派・藤村が、おずおずと口を開く。
 藤村さん。俺、あんたのことは特にどうも思ってなかったけど、そういう自分だけ気遣いっぽいものをチラ見せさせておきながら、実際には年がら年中長いものにぐるぐる巻かれっぱなし・波風立てないおまかせ主義的なところには、正直なところ、たまにイラっときているよ。
「………」(ぺこり)
 え。久慈くんも?
 有無を言わさないような成り行きに黙るしかない耳のすぐ横で、ジャラッと金属同士の鳴る音がし、にわかに錆び付いた歯車になったかのような首をぎりぎりと回し、音のした方向を振り仰ぐ。
「よし。決まったか。じゃあこれ、店の鍵。戸締り頼むな。もちろんナナハラが起きたら帰ってもいいけど、寝るんなら2階(うえ)にまだ布団もあるし、風呂はユニットバスで十分だろう」
 志村。こいつ、冒頭から姿が見えないと思ってたら、裏で帰り支度を整えていやがったのか。
「そうだ、三島にお土産があるんだった」
「えッ……おみやげ!?」
 ガソゴソという音と、ある意味タイムリーすぎた”お土産”というワードに、反射的にぎくっとなる。
 が、森見の手に掲げられたビニール袋が形作るシルエットと、ほわっと漂ってきた香ばしい匂いから、『()(どころ) 叉多八(またはち)』特製の唐揚げに違いないとピンときた。
『めし食べにいってた』
『マタハチに行った』
 双子の二重音声が、予想が正解であることを裏付ける。
「はいこれ。『叉多八』の唐揚げ。テイクアウトで包んでくれるようにお願いしたんだけど、話してたら店長さんが唐揚げをたくさんオマケして、お弁当仕様にしてくれたんだ。ラッキーだね?」
「修さん……!」
 ぱぁっと胸を吹き抜ける爽やかな感動とともに、この笑顔に気持ちよくたらし込まれ、嬉々としてオマケを増やしていったのであろう大将の様子が、目に浮かんだ。
 森見にはどんな人間でも3分もあればほぼたらし込むめるという、稀有(けう)な才能があった。
 森見修のプライベートは謎に包まれているが、この人はべつに働かなくたってクラウドファンディングよろしく、出資の名乗りをあげる人はいくらだっていそうだ。なんならヒモ業一本で今より高い水準の生活ができそうなのに、なんでフツーに働いているのか理解に苦しむくらいだ。
「修さん。……俺、修さんのこと愛しちゃったかもしんないです」
「オッケー。順番待ちだから、5年待ってくれたら考えるね」
「了解です。ちなみに抱くのは俺な感じでも大丈夫ですか」
「あ、そうなの?じゃあちょっと無理かな。おまえとはやっていけそうにないから、これでさよならしようか」
「残念です……。じゃ、お弁当いただきますね?」
「どうぞ。今日はお疲れ様だったからいっぱい食べて」
 お茶もあるよ、と差し出されたペットボトルをありがたく受け取る。15秒で振られたけど、これからもいい関係でいられそうな気がする。
「三島、まじでそういう下ネタやめてよ。あんたの下品に修さんを巻き込まないでくれる?」
 全国下ネタ嫌い連合組合、略して”全下嫌連(ぜんげけんれん)”構成員のシズが口を挟む。今の流れで俺だけに全責任を押し付けようとする構えには、いささか公正さに問題がある。
 下ネタを省けだと?アホじゃないか。森見修をなんと心得ているのか。そもそもが、エロ抜きで森見修を(あが)(たてまつ)ろうという感性は、すでにどうかしているとしか思えない。今すぐその細っそい目ん玉をかっぽじって現実をよく見てみろと言ってやりたい。
 そういえばこいつはさっき、キヨセなんかにへろへろになっていたのだった。
 前々から感じていたことだが、こいつの根拠不明の上から目線と、心身ともの感性のふし穴加減には、もはや苛つきを通り越して同情を禁じ得なかった。
「シズ……」
 静かに目を据えただけで、相手は怯むようにさっと両手を前に構える。
 どうでもいいけどミトンでもしたみたいに丸まった手で殴りかかられたところで、おまえが手首を痛めるだけなんだが。
「何っ。なんか文句でもあるわけ?」
「バカ」
 言いたいことはそれなりにあったが、最短で済ませる。
 こっちは叉多八特製唐揚げ弁当も後まわしにしているというのに、シズの相手をするくらいなら、梅雨時の夜空を見上げて星でも探している方が数段マシなように思われた。
「信永さ〜〜ん!三島の性格が悪いですよ〜!」
 迷うことなく信永さんに駆け寄る。森見は全人類に対してまんべんなく優しいが争いごとに興味がないため、味方につけようとしたところで無駄とわかってのことだろうが、自分の正当性をアピールするあまり、声に無駄なエフェクトがかかっていて、非常に五月蝿(うるさ)い。
「これこれ、武蔵野さん、あまり大きい声を出すと七原くんが目を覚ましてしまいます。三島くんも、女の子にはもう少し優しくしないと」
 泣きつくシズの頭を撫で撫で、信永さんが(たしな)める。宮蔵、双子、藤村がささやかな同調を示すが、さっき紳士を廃業したばかりなのでそんなことはまるで気にならなかった。
「残念です。俺の言葉に裏打ちされた思いやりが、シズには伝わらなくて」
「バカの裏に?」
 森見が聞き返しながら、いたずらっぽく苦笑する。”子供たち”の争いごとにはノータッチ。万年不戦領域という姿勢(スタンス)を取ってはいても、こういう時にまったく部外者のような顔をしない森見には、好感を持っている。
「バカの裏にです。それを越えて来てくれない限り、俺はこれからも心を鬼にしてバカと言い続けるでしょうね」
「三島さ。もしかして、適当に言ってない?」
「そうかもですね。他に気になることがあるんで」
「唐揚げ弁当よりも?」
「そうですね」
「そう。……たとえば、清瀬のこととか?」
「そうですね」
 やんわりとした質疑で焦点をすり合わせられているうちに、自分が思ったよりもムカつていることに気付く。”ムキになっている”と言われたが、確かに自分はムキになっているのかもしれなかった。
 誰がどこまでのことを把握しているのかも知れない中で、自分も関わったこの件が、こんな風に宙ぶらりんのままで手打ちにされようとしていることが、納得できなかった。
 説明が欲しい。たとえ聞いたところで、納得はできなかったのだとしても。だけどそれを求めるには、言葉と相手を選ぶ必要がある。
 シズに宮蔵、双子と藤村が、中心円より一定外にいるのだろうということは、見ていてわかった。
 久慈と信永さんはグレー。だけどある程度のことは察していたのだとしても、性格的に、能動的(のうどうてき)に関わっているとも思えない。
「なんだよおまえ。弁当で一本釣り出来るんじゃなかったのか?」
 それまで静観を決め込んでいた志村にかったるそうに話を振られた森見が、呆れたようなため息をつく。
「あ・の・さぁ、共犯者みたく言わないでくれる?あんたが、勝手に三島を巻き込んだんだろう。こっちは事後報告もいいところで、俺も信永さんも、久慈だって、2人を心配してただけだ。仕事面であんたが有能なのは重々承知だけど、なんでもかんでも達観して、すべてが自分の思い通りになるだなんて思うんじゃないよ、このワンマンプレイヤー」
 言葉の辛辣さに反し、森見の口調は静かだった。そして言われた方の志村は意にも介さないように、綺麗に切り整えられた爪先に息を吹きかけている。
 普段みんなと混じるようにさりげない会話を交わすことはあっても、森見がこんな風に表立って意見を言うことも珍しい。2人の関係性は、謎だ。
「……話が、見えないんですけど」
 目上である森見を相手に、声に剣呑(けんのん)さが込もるのはわかったが、止まらない。これ以上他人の思惑で割り振られた役割を演じるのは御免だった。
「悪かったね、三島。たしかに、フェアじゃなかったと思う」
 志村からこちらへ、そして眠っている七原の方をちらりと流し見てから、もう一度こっちへ視線を戻す。
「とりあえずこの場で、清瀬と七原の話がどうなったかだけ教えてくれないかな。それで今日のところはお開きにして、あとは飯でも食いながらあっちでお茶でも飲もう。俺もコーヒーが飲みたい気分だったから、付き合う」
 種を蒔いた張本人はなにを物好きなとばかりに肩を(すく)めてみせているが、こんな態度は今に始まった事ではない。
 能力の有無とは別に、自己回収というものが出来ない、もしくはそれは自分ではない誰かの役目と割り切っているような人種は、どこにでもいるものだ。
「七原さんは、今回キヨセのオファーを断りました。ただ、本人に会って直接言おうと思っただけで、七原さんの方は初めからそのつもりだったみたいです」
 それだけ言うと、誰からともなくふっと緩んだような空気が流れ出す。
「……そうでしたか。では、明日も早いですし、(わたくし)どもはそろそろお(いとま)をしましょうか。申し訳ありませんが、すばるくんとあきらさんも、一緒に付いて来ていただけませんか。こう暗いと、バス停までの足元が覚束(おぼつか)なくて。さ。宮蔵さんに武蔵野さんも、帰り支度をしましょうか」
「りょっ」「おけ」「へーい」「わっかりましたぁー」
 各自、異口同音に声を揃える。
 森見と信永。両者ともに、さりげなく言葉を選んでいるのがわかる。ヘタに好奇心を刺激をすれば、宵っ張りの双子達は自分たちも残ると騒ぎだしかねないだろうし、シズや宮蔵もまた然りだ。そして『和を()って(とうと)しとなす』を地でいく御曹司(おんぞうし)藤村は、みんなが帰れば自動的に帰るという寸法だ。さすがは『paigue(ペイジュ)接客(フロア)の双璧。あっという間に子供たちを大人しく寝床へ帰す算段を整えてしまった。まるでプロの羊飼いのような手際の良さだ。
 後ろで一連の流れに耳を傾けていた久慈も、その場にすくりと立ち上がる。これで万一宮蔵が持ち前の好奇心をむき出して、「やっぱ俺戻って様子見てくるわ!」など取って返そうとした場合でも、久慈に首根っこを掴まれて安全確実に強制送還されることだろう。

 再度照明をつけたカフェスペースで志村を含めた全員に機嫌よく手を振った後、森見が切り出した。
「───さてと。それじゃ、どこから話そうか」

crossword

 せっかくだからとペットボトルを下げさせて俺に緑茶を、自分にはコーヒーを淹れてくれた。物慣れた所作で淹れられたお茶をひと口飲んで、緑茶って美味いものなんだなと初めて思った。
 向かいに頬杖をついた格好で腰掛けた森見が、カウンターに放置したままのレジ袋を指さす。
「お腹が鳴ってたみたいだけど、せっかくだし温かいうちにあれ、食べたら?」
 当初はキヨセとの”面談”の前に適当にその辺にあるものを腹に入れておこうかと思っていたが、妙な外野たちに気を取られたり、バタバタしているうちになんとなく食べそびれてしまっていた。そもそもこんなに遅くなることも、この展開も、大誤算だった。
「いや……大丈夫です。話が終わってから食べるんで」
「そう…」
 森見に食ってかかるような態度を取ってしまった手前、それをくれた本人の前で美味しく弁当を食しながらこれから先多少込み入ったことになるかもしれない話をするというのはバツが悪かった。こうなったらとっとと話を聞いて、今日1日の面倒ごとににひとまずの決着をつけてしまいたい。だけど昼からずっと燃料供給をされないまま放ったらかしにされていた腹の虫たちが、今にも盛大なシュプレヒコールを上げての一斉蜂起をしそうだった。
 胃袋を絞り上げるような空腹を茶で紛らわそうと、目の前のカップへ手を伸ばす。
────クルルルルル……クルックポー。
 しんと静まりかえった店内で唐突に鳴り響く、恐ろしいくらいに間の抜けた音に、伸ばしかけていた手が止まる。
 この空間には現役で動いているアンティーク調の柱時計がひとつ置いてあるが、そこから鳩の仕掛けのようながものが飛び出すところは、これまでに一度も見たことがなかった。感覚的には今の音と自分の胃腸の蠕動(ぜんどう)がシンクロしていたかのように思えたのだが、気のせいだろうか。というか、気のせいだと言って欲しい。
 うーん………一体どうなっているのか、俺の腹。
 内心の動揺を隠しつつ森見の方をちらっと見ると、彼はコーヒーのカップを傾けたまま、ゆったりと背もたれに体を預ける格好で窓の方を向いていた。
 その表情には今の出来事に対する動揺はまったく現れておらず、理知的で落ち着きのある佇まいには、日常の空間ごとラグジュアリーなものに押し上げてしまいそうな、大人としての余裕と、男の色香が漂っている。
 さすがは森見と言いたい。他人の失態を針小棒大に騒ぎ立て、マンモスの肉を発見した北京原人のように、見事なまでに人の殺意を駆り立てる小躍りを繰り広げる宮蔵(みやくら)やシズなどとは、貴公子とプラナリアくらいに生き物としての格が違う。
 ……いや。もしかしたら森見には何も聞こえていなかったのか?
 今の出来事は、ひょっとすると空腹と疲れのせいで栄養が十分に行き届かなくなった脳が見せた幻覚のようなものだったのかもしれない。……だんだんとそんな風に思えてきた。きっとそうだ。でなければ、人間の腹からあんなトンチキな音がするわけがない。
 自分のことを棚に置き、世の中の大抵のものに対して斜に構え、どんなに見た目の秀でた芸能人だろうがめったに格好いいなんて感想は抱かない俺にも、程よく力の抜けた森見のニュートラルさは文句なしに格好いい。見た目にこれだけの説得力があったら、もう怖いものなんて何もないんじゃないかとさえ思う。
 俺と森見の年の差は、およそ10歳。その間にどれだけのミラクルが起これば、このような人としての圧倒的な差が埋め合わせられるのかと思わずにはいられない。……しかし考えてみれば10年も経てば今ある細胞なんて全部入れ替わっている。つまり、今とはまったくの別人に生まれ変わっている可能性だって絶対にないとは言い切れないということだ。
 ……………………。
 (うな)れ、俺のDNA!───などと、アホな論法にふけっているうちに森見の肩先のあたりがカタカタと震え出したかと思うと、飲みかけのコーヒーをブシュッと吹き出し、テーブルに突っ伏してそのまま動かなくなってしまった。
 俺は黙って立ち上がり、カウンター内から持ってきたタオルをテーブルの上にそっと差し出して、森見の復調を待った。そのような状態になった人間にどう対処したらいいのかもわからず、時計のたてる秒針の音を聞いていた。
 5分後。
「ふう……死ぬかと思ったよ。おまえはあんな特殊技能を、どこで身に付けたの?面白かったとは思うけど、いきなりやるのはちょっと危険だから、これからは少し気を付けた方がいいかもね」
 顔面コーヒーまみれになりながら、一時は自発呼吸も危ぶまれるんじゃないかという災厄に見舞われながらもなんとか持ち直した森見の口調はあくまでソフトだった。
「いや。技能、とかでは…ないんですけど」
「…えっ?どういうこと?じゃあなに?仕込み?もしかして着信音だったりとか?」
 脈絡なく唐突に披露(ひろう)された芸にさすがに引きつつも、タネと仕掛けが気になるといった様子で森見が聞いてくるが、まったくの誤解だった。笑えることは好きでも、身を(てい)してまで笑いを取りたいと思ったことは、これまで一度もない。それは自分ではない誰かの役割だと思っているからだ。
「携帯なんて隠し持ってないですよ。(自分でも信じられないけど)本当にただお腹が鳴っただけなんですって!……ってかこの話、もうよくないですか?」
 とてつもなく恥ずかしいうえに、話がちっとも進まないが、原因が自分にある上に逆ギレなどという暴挙に及べようはずもなく、弱気な陳情(ちんじょう)をするに(とど)める。こんなにいたたまれない思いをするのなら、とっとと弁当を食っておけばよかった。
「だけど三島ってなんでか、ちょいちょいそういうミラクルを起こすんだよね」
「はあ…」
 …………はあ?
「あの…。ミラクルって……?」
 断定された物言いのように聞こえたが、さっぱり意味がわからなかった。
「あれ。まさかの自覚なしだったり?」
「だから、なんのことですか」
「あー、そっかそっか。……ごめん。なんでもない。今のは忘れて」
 と、取り(つくろ)いかけた顔はすぐ崩れ、(こら)えきれなくなったようにくつくつと笑いはじめる。
 何かを思い出しているようにも見えるが、思い出し笑いをされるほど、しかも「ちょいちょい」と言われるような頻度で何かをしでかしていたような心当たりはない。今、失笑を買った原因については100%自分が作ったものに他ならないのだから仕方がないのだとしても、森見のなかでの自分のイメージがどういうことになっているのかと考えるともやもやする。まさかとは思うが、居酒屋でししゃもをくわえながら居眠りをする宮蔵と同類項にあるんだとしたら、さすがに切なすぎる。
「そうだ三島、お弁当の件なんだけど」
「あっ、はい?なんでしょう?」
 演出用に顔を整え、まさにイメージの軌道修正を図ろうとしていたところで、急に別の話になった。
「七原に悪いと思って、あとで分けようとか考えているようなら、心配しなくてもあいつの分は他にちゃんと取ってあるから大丈夫だよ。……というより、七原はああいうがっつり肉系とかはあんまり食べないんだよね」
「はあ」
 森見の意図がつかめず、気の抜けるような内容と何とも言えない含みを感じさせる言い方に、たった今組み上げかけていた算段の骨子がパラパラと崩れていく。
「七原はねぇ。……今日みたいに倒れちゃうのって、精神的な要因もあったのかもしれないけど、日頃の食事内容を(かんが)みる限り、基礎体力なんかにも問題があるように俺は思うんだけど、三島はどう思う?」
 よっぽど気にかかっているのか、森見はため息混じりだ。
「……まあ、確かに」
 七原の持参してくる弁当の内容は、僧侶もびっくりのストイックなラインナップだ。端的に表すと草だ。肉らしきものが見当たらない。そんなもんでどうやって1日分のやる気が保持できるというのか。何を食おうが個人の自由であるとはいえ、まったくもって気が知れない。
「でしょ?だからさ、周りに心配をかけないためにも、もう少し栄養価の高いものを摂るように心がけてくれると助かるんだけど。……って、三島からもよく言っておいてくれない?」
 なんでそれを俺に頼むのかは疑問だったが、言っていることが間違っているわけでもなく、わざわざ横槍を入れるほどのことでもないかと思い、適当に返事をする。
 志村といい森見といい、どうも最近本人に直接言えばいいようなことをやたらと言伝(ことづ)てされる気がするが、俺は七原の保護者や付き人になった覚えはない。
 そう言う森見は、案じるようにも揶揄(やゆ)するようにも取れる雰囲気で、頬杖をついた指の先で、自分のこめかみのあたりをひたひたと叩いている。先刻俺に突っかかられたことなどは、気にもしていない様子だった。
 森見のベースはあたりがソフトな笑い顔だが、そこに心情が映っているかどうかとなると、また別問題だ。
「なんだろう。……三島って、わりと複雑だよね。見た目ほど淡白じゃないっていうか。今回の件も、自分から名乗り出たらしいじゃない。なんでなのか、聞いてもいい?」
「なんでって言われても、別に。志村マネージャーから七原さんに引き抜きの話があるって聞かされて、その時の言い方がムカついたってだけで。……俺、あの人、苦手なんですよ」
 普段ならあえて言うつもりはない言葉が、するりと口をつく。さきほど森見が切った志村への啖呵(たんか)を小気味良く思ったことも、いくらかは影響しているのかも知れない。
 一介の、中小企業の経営者としてはありえないほど尊大で、金輪際誰かに(へつら)うことなど無いのではないかというような、生まれ持っての女王のごとき傲岸(ごうがん)さを発揮する志村に対し、あんな口を聞く者などほとんどいない。
「売り言葉に買い言葉ってやつ?志村に噛み付くなんて、案外気が強いな」
 お互い様だと言ってしまいたくなるようなことをぬけぬけと言い、困ったように微笑む森見は、そのくせどこか愉快そうだった。
「志村のことだから、大体の言いようの想像はつくかな。俺が言うようなことじゃないかもだけど、今回のことは三島にはいろいろと面倒をかけたとは思ってる。悪かったね」
「いや、……そもそもやるって言ったのは自分なんですけど」
 結果としてはまんまと乗せられたのだろうが、強制をされたわけじゃない。志村からの謝罪ならともかく、先手を取るように森見に謝られてしまうと、きまりが悪かった。
「なんで、俺だったんでしょう」
 キヨセの執着をなんとかするためだったのなら、俺より内情を知っていて、人あしらいもうまい森見の方がよほど適役だったんじゃないかと、今だって思っている。そうじゃなかったのだとしても、ほかにもやり方はいくらだってあったはずだ。俺に志村の考えなどわかるはずもないが、森見はどう見ているのかを知りたかった。手順や建前はいい。本音はどこにあるのか。
 少し考えるようにしてから、森見が口を開く。
「答えになるかどうかわからないけど、もしもこれがほかの誰か……例えば、宮蔵(あお)や藤村だったなら、こんな風に丸投げするような真似はしなかったと思う。というか、出来なかったんじゃないかな。それは俺だけじゃなくて、信永(のぶなが)さんも、多分久慈(くじ)も。……今そんなことを言ったって言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、みんなが志村の意見をそのまま丸呑みしたというわけじゃないんだ」
「それは、俺がほかの人よりも長い時間七原さんと一緒に仕事をしているからってことですか」
「う〜ん……それは、どうなんだろう」
 と、首を(すく)める仕草をする。森見の返答は要領を得ず、志村の言動に引き続くかのように曖昧だ。
 ()()に及んで。
 そんな考えが頭を過ると、一旦鎮まりかけていた反発心がぶり返す。
「……そもそも、七原さんとキヨセの関係ってなんなんですか。仕事の話し合いのために来たとか言って、あいつ、部屋から俺を締め出して、中から鍵まで掛けたんですよ?だいぶおかしいでしょ」
 「中から鍵」という言葉に反応したように、わずかに目を(すが)めるような表情をしたのが、チリッと胸に引っかかる。
「もしあの時、キヨセが七原さんに危害でも加えるようなつもりだったら、どうするつもりだったんですか」
 そもそもの不信の(みなもと)は、キヨセというより、そのことを知った上で目を伏せるような真似をした、森見や志村に対するものだった。
 もし自分があのまま締め出された状態で中に入れなかった場合、どうなっていたのか。そのことを考えると腹立ちというよりも、自分が少しずつ折りあげた折り紙を、横合いから伸びてきた手にいきなり握り潰されたような、そんな悔しさがあった。丸め込もうとするにしたって、もう少しまともな言い訳をしてみろよと言いたかった。
 残念なことに、志村も含め、俺はこの店の”大人たち”をいつの間にやら信用していたようだった。だけど、俺が一から作り上げたものを台無しにするような権利は、たとえ当人たちにだってありはしない。こんな不信を抱えたままでは、今までのような気持ちで店にいることは難しく、笑うことも苦痛になるだろう。そう思うと、見えない重しをつけられたように、心が無様に沈んでいく。
「それなんだけど。おまえから見て清瀬は、七原に対してなにか危害を与えるような真似をしたか?三島には、あいつがどう見えた?」
 森見は、自分にも向けられている猜疑(さいぎ)などものともせず、ゆったりと問いかけてくる。その問いに、あっさりと攻守が交代したかのようにこっちが怯んだ。
 「何かをしたか」と問われれば、もちろんした。「あれが危害に当たるか」と言われれば、それはもちろんそうだろう。たとえ愛情表現であろうが、合意もなしに一方的になされるものは暴力になりうる。……いや。俺から見れば、あれは確かに”暴力”と言えた。だが単にあの場に居合わせて、傍観していたのに過ぎない自分には、七原があれをどう感じていたかなんてわからない。
 今の自分の立場で、誰に何を、どう切り出すべきなのか。それ以前に、どの程度自分は踏み込むべきなのか。あるいは距離を置くべきなのか。
 自分の心も煮え切らず、判断材料も少なすぎる。
「……俺が入って行った時、話を断られたキヨセは、七原さんに詰め寄っている感じでした」
 物陰に隠れていたので実際にはそれを目にしていないし、あの場ではよくわからないまま聞き流してしまっていたが、キヨセは震えていたという七原の手を、「あの時俺が殴ったせいか」と、自分でも口にしていた。
 その間も腹の奥の方でざわつくものを感じつつ、努めて淡々と聞こえるよう喋る。
「……志村さんは始めからわかっている風だったけど、キヨセの目的は技術提携(ぎじゅつていけい)なんかじゃなくて、もともと七原さん個人の引き抜きが目当てだったんですよね?だけどそれを断られて、”金じゃないなら何で動くんだ”って。……ちょっと物々しい会話っぽかったけど、別に掴みかかったとかそういうんじゃなくて、ただ……」
「ただ、何だった?」
「七原さんが。……あの人、なんていうか、人に触られるのがダメみたいで。俺は、そんなことは、……あそこまで過剰反応するだなんてことは、知らなかったんですけど」
 自分の口から出てくる言葉が、水に投げた石のようにひらひらと沈んでいく。
 俺はどこかで、七原のことを感情の無い人間のように思っていなかったか。七原の中にある感情や心の反応を、根本的に自分とは違う動物であるかのように、軽く見てはいなかったか。そのことを改めて今考えていた。
「ああ。まあそうだね。あれは潔癖(けっぺき)というよりも、接触拒否(せっしょくきょひ)というのに近いんだろうけど。もしかすると、七原のは、結構重度なのかもね。以前は今より一人仕事が多かったし、基本的に人を寄せ付けないから、仕事をしていて()(つか)えるようなことも少なくて済んだんだと思うけど」
 聞いていて、自分の眉間がぴくっと動くのがわかった。
 やっぱり、森見はそのことは知っていたのか。
「それで、詰め寄られた時に腕か何かを掴まれた七原が動転して、あんな風になったということ?」
「まあ。だいたい、そんな感じです」
「……そう」
 森見は静かに何かを考えているようだった。俺もキヨセのことを考えていた。
 社交的なポーズを前面に出してはいても、(はら)の中では絶えず相手の心中と互いの力関係を()(はか)っている。感情よりも打算と利害が優先。目的のためなら心にもない言葉も平気で吐き、その場その場で下手(したて)に出ることは厭わなくても、最終的なイニシアチブは自分に置く。プライドが高く、他者に舐められたままでいるのが何よりも我慢ならない。そんなタイプだ。
 自分の会社と家庭もある。20代半ばにしてそれだけのものを手にしているのなら、十分以上の成功者と言える。正直なところ、自分がやる気を出したところで、今のキヨセが持つようなステイタスを手に入れられる気は、全然しない。というより、そこまでのものを得ようというモチベーション自体が、自分の中に見つからないのだが。
 わからないのは、どうしてそういう人間があそこまで七原のような人間に入れ込むのか、ということだ。
 キヨセの七原への執着の度合いが尋常でないことはわかる。ただ、本当にあれが色恋かどうかと考えると、俺にはよくわからない。3年も会わないでいた人間に未練を引きずり続けるという感覚自体、俺には未知(と言うより不毛)だし、好意の対象が同性であるということ自体に偏見を持つつもりはなくとも、それをキヨセに当てはめようとすると、種類の違うピースの混じったパズルを渡されたかのように、釈然(しゃくぜん)としないものがあった。
 むしろ七原には本人も知らない莫大な遺産の相続権があって、どこからかその事実を嗅ぎつけたキヨセがそれを狙っているという現実離れした筋書きの方がよっぽどしっくりくるくらいだったが、あれがもし芝居だったとしたなら、それはそれでびっくりする。
「修さん。キヨセって、入った時からあんな感じだったんですか?」
「ん?あんなって、どんな?」
「あ。……いや、えーと」
 疑問点ばかりが先立ってぽろっと口に出してしまったが、”思い余って襲いかかっちゃうくらい、七原のことを大好きな感じ”とストレートに言うのは(はばか)られ、手持ちのカードを並べるように、咄嗟にいくらかの詭弁のバリエーションを思い浮かべる。
「ああ。”好き好き七原”?」
 すぐに思い至ったらしい森見に、(かわ)すような暇もなくあっさりと核心に触れられる。
「……知ってたんですか?」
「知ってたも何も。隠そうなんて気はさらさら無かったと思うけど。七原を誰にも奪われないことが至上命題って感じで、俺もけっこうアグレッシブに牽制(けんせい)されていたし」
 そう言って、その当時を思い出したように苦笑する。まあ、確かに、森見のように、他意はなくとも居るだけでフェロモンを垂れ流している人間に本命の(そば)をうろうろされたのでは、キヨセのように攻撃的な人間でなくとも、気が気でなくなるのはわかる気がする。森見にしても、その手の鞘当てじみた理不尽な仕打ちには、慣れているのではないかと思う。
 うちの店は、女性同士や単独利用の客に比べ、カップルの利用率が極端に少ない。以前いかにも初々しい高校生くらいのカップルがきゃっきゃとはしゃぎながら入ってきて、店を出るときには末期的に気まずいムードを漂わせていたのを見たことがある。デストロイヤーは間違いなく森見であったことはおそらくそ場にいた誰もが理解していたが、そのことについて、誰も何も突っ込まなかった。要はそういうことなのだ。
 森見を店の顔として配することでもたらされるメリットとデメリットの差はあまりに歴然としており、俺から見てもそのような些事にとらわれて彼のような人材を裏方に回すことは本末転倒に近く、愚の骨頂と言える。安全性ばかりにとらわれて、更地と化した児童公園のようなものだ。
 猛犬注意の張り紙じゃあるまいし、『当店フェロモン高めのバリスタがおります旨ご了承ください』とお断りしておくわけにもいかない。言ってみれば『paigue(ペイジュ)』利用者の登竜門のようなものであり、暗黙の共通認識とも言える。近隣の学校で、デートで来てはいけない破局の名所のひとつと言われているとかいないとか、そんなジョークも内輪であるくらいだ。
「……修さんはそれ、なんとも思わなかったんですか?」
「ん〜?面白いっちゃ面白かったけど、たまに業務に差し障りかねないような時もあったから、本音を言えば少しは迷惑だったかな。だって俺は七原のことをそういう風には見ていないわけだし、反応のしようがないというか、絡んだところで無駄でしょ」
「いや。……いや、そういうことじゃなく……男同士じゃないですか」
 一番の問題点であろうことをあまりに誰もがスルーしてくれるので、こんなことをわざわざ口に出す自分の感覚の方がおかしいような気さえしてくる。
「ああ、そういうこと?お互いさえ良いのなら、別にいいんじゃない?」
 レンズの向こうの重たげな二重を(しばた)かせながらも、あっけらかんと言い放つ。
「……リベラルなんですね」
「う〜ん……というより、人を好きになるのってほとんど脊髄反射というか
、もうどうしようもない部分もあるじゃない?相手の背景や条件に惹かれるのであれば、それは情動というよりも、エゴを満たしたいという欲求になるよね。(いず)れにしても恋愛は基本的に個人同士の自由裁量だと思っているし、決まった形があるとも思わない。……ただ、極論を言えば、俺は最終的に七原が幸せな気持ちになれるなら、すごくいいなぁとは思ってる」
「……なんで修さんは、そんなに」
 そこまで言って、はたと口を(つぐ)む。
「ん〜?……なんで俺が、七原に肩入れをするのかって?」
 言葉の続きを引き取った森見のまなざしが、トーンを落とした照明の光を受けてゆらめく。
「……」
 その通りだった。それはなんとなくではあるけれど、ずっと胸に引っかかったまま聞けずにいたことでもあった。
 森見は親切で優しいが、それは知る限り、いつでも誰に対しても均等に与えられる種類のものだった。だけど七原に関しては、宮蔵や他の誰かに対する時のように、気軽に構ったりしない。常に一定以上の距離を置くようにしながら、けれど、嗜好や行動の癖のようなものは把握している。裏を返せばどこか”特別なもの”を感じさせる放任であるように、俺には思えていた。
「きっと見たいからだろうね。先頭争いに加わりもしない馬に、意固地になって賭け続けるような感じかも。すごく酔狂に、無責任に、派手な一発逆転なんかを期待して」
 ……競馬?また、抽象的なことを。
「それって、何かに負けていたから、勝つところを見てみたいってことですか?」
「いいや?ただのカタルシス的欲求、野次馬根性だよ。想像がつかないことって、見てみたくなるじゃない?」
「たとえば、馬券じゃなくて、馬を買おうっていう気にはならないんですか?」
「俺にそんな甲斐性あると思う?それに、自分に懐かないものに手を出すほど俺だって酔狂じゃないよ」
 微かに笑いを漏らした森見が、掲げたグラスの向こう側からこちらを透かし見るように首を傾ける。動揺なんてものがあるわけもなく、見ようによっては人の悪い笑顔にも見える。
「ですね」
 はぐらかされたような気がして、つい踏み入ったことを聞いてしまったが、答える価値もないくだらない比喩、下衆な勘ぐりだ。森見だから軽く受け流したが、自分だったら確実に気を悪くしそうな質問だったと思い密かに反省した。
「まあ、清瀬はほとんど初対面と言っていいくらいの頃から、相当わかりやすく七原にからんでいたと思うけど、得意だったはずの分野のことであまりにも反応が得られなかったものだから、なおさらムキになったっていうのもあるかもね。人の行動の意味や、そこに根差したものを(おもんぱか)れるような心の隙き間は、今も昔もあの子にはないから」
「………」
 それは、とてもよくわかる気がする。
 ひとりだけ、ぶ厚いガラスの向こう側にでもいるような、別世界の人間を見ているようだと思うことは、これまでにもよくあった。悪意や非情さとはまったく異なった、欠陥のような心のなさが七原にはある。誰のどんな気持ちであろうが、七原が人間らしい共感をもって、他者の感情を汲み取るとは思えない。
 メカニズムが理解できるぶんだけ、悪意の方がまだマシなんじゃないかというくらいに、七原の感情は底が見えない。同じ尺度でものを考えることなど期待するだけ無駄。……そんな感じだ。
「客観的な評価として、清瀬は嫌な奴なのかもしれないけど、正直なところ俺は、清瀬のことを嫌いじゃない。少なくともあいつの自分の欲しいと思うものに対して正直で、リスクや代償を惜しまない姿勢は、尊敬に値するものだと思ってる。俺にはとても真似できそうにないことだからね。……だけどそれと同じくらいに、馬鹿だなと思っているよ」
「……」
 森見の評価は、俺の分析とは好対照と言って良いほどにかけ離れた、正反対の意見に思えたけれど、そのどちらもが矛盾することなく、鏡を挟み映しだされた景色のように同時に両立している。少なくとも、森見の言っていることがわかるような気がしてしまう。
 ”馬鹿だな……好きになるならもっと楽なやつを選べばいいのに”
 そういうことなんじゃないだろうか。”脊髄反射”という言葉。そういうものなんだろうかとも思う。正直なところ、俺にはピンとこなかった。
 自分が黙っていたところで、森見や志村のような人間には何があったのか簡単に察しがついてしまうのかもしれないし、くだらない中傷のネタにされるような心配もないのだろうが、やはり”キス”のことは、この場で言う必要もないだろうと、改めて思う。
 今後もし蒸し返す必要に迫られた場合でも、第三者を介して問題を拡散させるのではなく、自分も含んだ当事者たちのみで、可能な限りミニマムにことを収めたい。今夜はもう疲れたし、腹も減っている。というより、もうごちゃごちゃとした理屈などはどうでもよくて、ただただあのクソみたいな出来事について口に出すのも嫌だった。
 ふと、森見の視線がいつの間にやらこちらに向いていることに気付いた。顔前で指を交差するように組み、しげしげと興味深げに。
 志村のように威圧的なまでに整った容貌というわけではないが、レンズ越しの眠そうにも見えるやわらかな眼差しにじっと覗き込まれると、後ろ暗いことがあるつもりはなくとも、なにかどぎまぎしてしまう。
「あの、なにか……?」
「三島ってさ、七原が笑うところを見たことはある?」
 七原の笑顔?……なんで今、そんな話が出てくるんだ?
「そりゃあの人、愛想がなくてとっつきにくいけど。まったく面白みがないってわけでもないし……」
 そこまで言ってから、あれ?と首を(ひね)った。
「修さん」
「なに?」
「よく考えたら見たことがなかったかもです。七原さんが笑ったところ」
「おまえは、今そのことに気が付いたの?」 
 頷くと、森見が軽く吹き出す。
 自分としては適当に答えたつもりはなかったのだが、当然中身の入っているものと思っていた貯金箱をある時逆さまに振ってみたら、小銭一枚出てこなかったというのに近い心境だった。
「だって、結構最近気付いたんですけど、あの人って天然っていうか、なにげに面白くないですか?」
 七原が大真面目にとんちきなことばかり言うために、俺が笑わされたことは数知れない。帰りの電車や、家に帰っても思い出し笑いをしていたほどだ。が、記憶の中を手探りしても七原が笑っていたという覚えがなかったことに、自分でも不思議なくらいに気が付いていなかった。
「……ふっ。面白いって?七原が?」
 たいした根拠もなく、森見なら軽く同意してくれるものと思っていたが、そうでもなかったらしい。しかし鼻白みつつも興味はそそられたようで、テーブル越しにやや前屈みになる。
「いや、だって……」
 いったいどういう経緯(いきさつ)でそうなったのかはわからないが、七原という人間は、およそユーモアというものからはかけ離れているようでありながら、本人が自分の言動に吹き出さずにいられることが不思議なくらいに面白い仕上がりになっていると、俺は思っている。それは、人間の歓心を買おうという観念のない野生動物の仕草や行動がやけに面白かったりすることと、似ているかもしれない。本人が無心であるために、どうしてそういうことになるんだろうかと、行動の原理を観察したくなるような。
 手始めに、「携帯電話を持っていない」という七原本人の言質によるエピソードについて、「ガラケー所持者という意味ですらないんですよ?今どき携帯端末そのものを持っていないって、すごくないですか?」と説明していたところで、自分がどこか覚えのあるような生ぬるい目で見られていることに気付き、ふと(いぶか)しさを覚えた。
「あの……なにか?」
「いやいや。三島は七原のことを、ずいぶん楽しそうに話すんだなと思って」
「……はあ」
 楽しそうと言われても、俺はただあった事実を述べただけで、それほど楽しそうなつもりはなかったのだが。しかも「楽しそう」と言うわりに、眩しいものでも見るように眉根のあたりが複雑に寄せられていることがますます怪訝(けげん)で、首をかしげる。
「修さん。口調がなんか、実家の近所の年寄りみたいですよ…」
 おしぼりをテーブルの上で弄びながら、唇を突き出して思ったまでのことを言う。
 うちの実家の近所のじじばばたちは、かつて若かったことがあるなんて思えないくらいに俺がものごころついた時からすでに立派なじじいとばばあだったが、彼らは今でも帰省して顔を合わせるたび、「カズ坊は、でっかくなったなー」「このお菓子をカズ坊が作ったのかい。すごいねぇ」とお決まりのフレーズをしみじみと言う。なんなら10分おきくらいに繰り返す。
 ガキの頃は平均以下のチビだった身長が成長期に伸びに伸び、中一の頃には周囲の大人の身長をあらかた抜き去っていて、近隣で自分より背の高い人物を見つける方が難しかったくらいだったにもかかわらずだ。
 おそらく彼らは寄る年波のせいで海馬の機能が滞ってうまく更新されないのだろう。次に会った時には俺が誰だかわからなっているかもしれないが、すべては自然の摂理と思えば仕方がない。
「年寄りって、三島ったら……酷いなぁ」
 などと言いつつも森見は傷つくどころかむしろニコニコとして、楽しそうだった。規定数値を超えるフェロモン垂れ流しの色男。しかし時々ちょっと変な人だと思う。
 と、斜めになったことで頭の中のピタゴラ的な装置が作動し、コロコロと転がった玉がコトンと音を立ててある結論へ着地する。
「あっ。ちょっと修さん?俺たちは今そんな話がしたくて居残っているわけじゃないですよね!?何、話をそらしてんですか」
 「って、いきなり切れられても。え〜……今のって全部俺のせいなの?」と、半笑いの抗弁(こうべん)を繰り出す森見に、「だから、そんなこと、今はどうでもいいんですってば!」と、拳でテーブルを叩くと、「はいはいごめんごめん。俺が悪かったよ」と、あきらかにおざなりの、困ったクレーマーをいなすかようなあしらいを受け、さすがにカチンときた。
「ちょっと。ちょっと、待って。わかったから、三島。うふふふふ……ふふ……ふはは。……いや、悪気はないんだけど、そのしゃくれた口を何とかしてくれないと、話ができないよ」
 誰がしゃくれか。失敬な。
 笑いながらテーブルをタップされ、憮然としながらも指摘された部位を手で整える。そうしている間にも、体を折るようにして低く笑い続ける森見の笑いの波がじわじわとこちらの顔筋まで侵食してくるために、意思表示のための表情の維持が難しく、やりにくいことこの上なかった。
「そうだ。三島、飲み物のおかわりは?」
 どうにか笑いの波をやり過ごした森見が、空になった俺のカップへと目をやって、おもむろに聞いてくる。見え透いた餌付けに鼻白むも、「試作中のメニューなんだけど、味見してくれない?」とにっこり微笑まれ、「いただきます」としぶしぶ答える。この顔でこの声で「待ってて。すぐに作るから」なんてことを言われて、一ミリもキュンとしない女がいるなら見てみたい。(あ。志村か)
 銃弾飛びかう交戦区域で「お茶の用意ができたよ」などと言われたら、その場で全員が武器を下ろしていったんティータイムに入るんではないかというくらいの、抗おうなどと考えること自体が不毛に思えるような、言葉よりも威力のある無敵の微笑みだ。
 思えば、目をハートにした女子たちの数多(あまた)の追及の手を、風に流れる柳のように躱し続けてきた男だ。やんわりと受け流しつつも客の心証を損ねることもなく、吸引仕事率は1Paたりとも下げないところがうちのバリスタの真骨頂であり、小面憎(こづらにく)いところでもあった。
 森見は小鍋を出したり冷蔵庫を開けたりとカウンター内でしばらく立ち動いていたが、甘い匂いが漂ってきたかと思うと、動き初めてからものの3分ほどで、「どうぞ」とほわほわと湯気の立つ大きめのマグカップがテーブルの上に置かれた。濃いチョコレート色の液体のなかにマシュマロが溶けている。見た目の美しさもさることながら、空腹に染み入るようないい匂いだ。
「…これって、普通のココアとは違うんですか?」
「粉じゃなくてチョコレートから作った、チョコレートドリンクだよ」
 不審がるというよりもついクセで、記憶の中にある見知ったものと照らし合わせるようにふんふん匂いを嗅いでいると「知り合いのうちの犬にそっくり」と言いながらふふっと笑われた。勝手なイメージで、そこはかとないセレブ臭がする交友関係を想像しつつ、カップに口をつける。
 マシュマロの甘みが口に広がり、重みのある濃厚なチョコレートの風味のあとに、かすかなスパイスの香りと舌先に感じるピリッとした刺激が、絶妙にあとをひく。チョコレートとはまた別の甘みに加え、酸味とフルーツのような芳香が強くなり、沈殿したチョコレートにまみれて底の方に沈んでいたものをスプーンでつつきながら、その正体を聞く。
「それは、干し林檎の蜜漬け。シズが引っ張ってきたリンゴ農家さんから去年の秋にいただいたものを保存しておいたんだ」
「へえ…」
 すごい。
 旬の林檎が一度タイムカプセルに閉じ込められ、さらなる熟成により原石から宝石へと変容を遂げたかのようにキラキラとした透明感のある香りが、チョコレートとの濃厚な味わいとともにくっきりとした輪郭(りんかく)を結び、かすかな花のような芳香とスパイスの香りが鼻腔を抜けていく。
 森見は一見さりげなく作っている風に見えるけど、味わうほどに感じられるバランスの繊細さに体の芯がピリピリする。たとえ同じ材料を揃えられたところで、このバランスに仕上げることは、簡単なことではないのだろう。一流の店のシェフが、自分のオリジナルレシピを惜しむことなく公開する理由として、業界の発展を願うという意味合いのほかにも、公開したところで自分と同じクオリティーのものは決して誰にも作れないという自負があるからだという話を聞いたことがある。
 ”カリスマ”なんて、遠い世界の、実態のあやふやなおとぎ話のようなものだとばかり思っていたけれど、今はこうして目の当たりにするたびに、つくづく魔法の手なんだなあと思わずにいられない。
 森見にしろ、七原にしろ。彼らには純然たる技術とセンスがあって、そのあとに望む望まぬにかかわらないもろもろの付加価値が、ある種の呪いのように付いて回るのだろうと思う。想像だけど、人より抜きん出て恵まれていることが、良いことばかりとも思えないのだ。
「……うまいですね。天才ですか」
 じわじわと湧き上がる興奮を抑え、辛うじて控えめにそれだけ言うが、もともと自分の語彙力など、その程度のものだった。地団駄をこらえる足とカップを持つ手ががたがたと音を立てている。
「ありがとう。林檎もチョコレートも、同じバラ科同士の組み合わせだから相性がいいのかもね。林檎は、発酵の過程で苺だとか花を思わせる華やかな香りが出てきたから、それがすごく面白いなって思ったんだ。それに、チョコレートと林檎といえば、童話の世界でも”魔法のアイテム”ってイメージがあって、ロマンティックな感じがするよね」
 まるで自分の思考とリンクしたかのようないくらかの符合に目を見開きつつ、俺が言ったら確実に無傷では済まないセリフだとも思った。世の中には選ばれし一握りの人間にしか口にすることが許されない言葉というものが、確実に存在する。
「これって新メニューですか?」
「いや、これはだめなやつ」
「うっそでしょ。どこが?こんなに美味いのに?」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、実際値段とコストの折り合いがつかないからねー。完成度と商品化は別問題ってことだね」
「残念ですね……けど絶対もったいないですよこれ」
「でもないよ。形としての成果はなくとも、試行錯誤したことは必ずどこかで生かせるものだし、どちらかというと俺は完成させるよりもインスピレーションで遊んでる段階の方が楽しいから、白紙に戻すのはそれほど苦じゃないんだよね。それに三島は舌がいいから、こっちが思った以上のものを拾ってくれる感じがするし、すごく美味しそうに飲んでくれるから、それだけでも作った甲斐があるよ」
「そぉうですかぁ〜?」
 確かに俺は作るよりも食べる方が得意だが、舌がいいと言わたところで森見や七原ほどではない。
 というか、これだけのものをなんでお蔵入りにするのか全然理解できない。と、俺がゴネたところでどうなるわけでもないことはわかるけど。
「……余韻で酒が飲みたくなる感じですね」
 デザートやソフトドリンク感覚で飲むものというよりも嗜好品に近くて、どっしりとして後を引く複雑な味であるために、軽い味の酒が欲しくなる。
「そう?簡単なカクテルでよければ作れるけど」
「あるんですか?」
 流れでなんとなく言っただけ。期待していたわけじゃなかったが、あると言われればテンションが上がる。
「まあね。夜とか、たまにここで飲んだりもするし」
「誰か連れ込んだり?」
「まさか。本を読んだり考え事をしたり、ただゆっくりしてるってだけ。ここが一番静かなのに、面倒なものを持ち込みたくないよ」
「へぇ…」
 意外にも地味めな一面を見た思いだったが、森見の場合はそれすらもモテ要素の補強にしかならない気もした。
 森見は手元に何か足りないものでもあったのか「ちょっと待ってて」と言い置いてバックヤードに引っ込んでしまったが、3分ほどして次に現れた時にはカウンターに置いたまま存在を忘れていたはずの袋をひょいと掲げた。
「はい。やっぱり空きっ腹にアルコールはよくないから。お酒作ってる間に食べてなよ」
「あー、……ありがとうございます…」
 持って行ったことにも気付かなかったが、電子レンジで温めてくれたらしい。嫌味のない気遣いが、引っ込みがつかなくなっていたというだけの無意味な意固地さをなし崩しにしてしまう。カウンターへ移動して食べた、温め直した叉多八(またはち)特製鳥唐揚げは、地団駄を踏むほど旨かった。3分で完食した。
 特にレシピはなくある材料で適当に作っていると言いながら次々と出してくれる林檎とジンジャーシロップのカクテルも、その次に出てきたカルアミルクも美味しくて、グラスを空ける度に嫌な顔をするでもなく、さりげなく次のカクテルが供される。
 森見が自身のことを話すことはあまりないが、ここへ来る以前にアルバイトをしながら各国を転々としていたという話は少し耳にしている。当然日本語以外の言語に通じていたりもするのだろうことを思えば、普段働いている限りはそうそう披露される機会もないであろうものも含めて、このポテンシャルはズルいと思わずにはいられない。
 腹が落ち着いたところでキヨセのことをどう切り出そうか、と思ったところでふふっと声が聞こえて顔を上げた。
「そういえば、”アル中で入院”だったっけ?三島の武勇伝。気持ちよく飲むからどんどん出しちゃったけど、そんなに飲んで大丈夫なの?」
「俺、ざる(・・)とかワク(・・)ってやつらしくて、飲んでも素面(しらふ)とあんま変わんないですよ。それに、あれはただの栄養失調です。在学中に普通に金がなくて生活費を稼ぐために入ったバイト先で酒を主食にするような生活をしてたら、入院が親バレして殴り殺されそうになっただけ───ってこれ武勇伝じゃなくて俺の黒歴史ですね」
 聞かなくてもわかる。どうせ宮蔵がべらべらと喋ったんだろう。先日一緒に行った飲み屋でたまたま専学時代の友人に会って、初対面なのにやけに意気投合していた時点でもっときっちり警戒しておくべきだった。あの時に連絡先を交換していたのだろう。
「ふふ。栄養失調にアル中容疑でボコボコにされたけど、滑り込みで二十歳を超えてたから、推定無罪で前科がつくには至らなかったんだよね。……でも、仕送り差し止めが発動されて、バイト先の店長の家に転がり込んだっていうあとの話が面白かった」
「……」
 自分の顔がちゃんと笑えているかどうか、自信がない。
 若干二十歳にして、俺は実の母親の手によって警察署に引き渡されるところだった。母親が「遠慮なくぶち込んでくれ」と息巻くのを職員になんとかなだめられて、しぶしぶ引き返したというような顛末だった。その先はさらに耳を覆ってわーわーするよりほかない展開なのだが、果たして俺の人生の汚点のどこからどこまでが流出したのか。
 ……あいつら一体なにしてくれてんだ。(殺す)
「ちょっと抹消し忘れただけなんで忘れてください」
 そうだ。今度帰る時、なるべく早く忘れられるように夜道で後ろからそっと宮蔵を絞め落としてあげよう。
「なんで。だって楽しそうじゃない。俺なんて友達も全然いなくて、鬱屈した青春しか送ってこなかったから、三島のことがすごく羨ましいよ」
 王子と乞食じゃあるまいし。俺が森見に勝てる点なんて、身長くらいなものだ。この男相手じゃ若さですら何の武器にもならない。
「何言ってんですか。嫌味でしょ。修さんなんて生まれた瞬間から唯我独尊に誰彼構わずキラッキラにモテまくってたに決まってんでしょうが」
 俺だったらもうその容姿でその声で生まれついた時点で人生楽勝ムードに浮き足立って浮かれまくって、二度とは地上に戻ってこないことだろう。
 羨ましいとか言う以前に、精神がスペックに追いつけず、スタート早々に破綻しそうだ。
「うーん。いや。まあ……モテるモテないで言えばモテていたのかもしれないけど。俺、物心ついてから結構大人になるまでずいぶん主体性のないヒトだったし、……今よりは全然楽しくなかったよ。」
「はいはい。ファンタジスタゆえの苦悩と葛藤というやつですね。もはや恵まれてることが普通すぎてすべてのことが虚しいわ、人々の嫉妬と好奇と無責任に満ちた眼差しが四六時中突き刺ささって面倒くせーわ、なんでこんなたいして親しくもない何者かもわからんようなやつに好き勝手言われちゃってんだっけ俺。なんだろうこのもやもや。この理不尽感。つーか本当おまえ誰なんよ?……というようなね。わかります。わかりますよ。だけど世の中には、人の関心を引くことに涙ぐましいまでの努力をしながらもまったくこれっぽっちも報われないやつらだっているんですよ。むしろそんなのがほとんどですよ。我々貧しい庶民は、パンが無いからといってケーキを食してやり過ごすというわけにはいかないですからね。常にマイナスからのスタートですよ。生き抜くために必死なんですよ。なんなら生まれた瞬間からすでに泥まみれ、汚泥まみれですよ正味な話」
「えーと。ちょっと何言ってるかわかんないんだけど、よくそれを舌を噛まずに言えるね。……というか、三島は背も高いし楽しいし、モテそうだと思うよ?本当、面白いし。…………あの、なんかやさぐれてない?大丈夫?」
「ふ。何言ってんですか。俺の取り柄なんてものは、湯水のごとく無駄口を叩くことと、鴨居(かもい)にへこみ跡をつけられる石頭と、浴びるほどアルコールを摂取しても壊れない頑丈な肝臓くらいなもんですよ。まあ、どうでもいいんですけどね。そんなことより今は、キヨセの話ですよ修さん」
「ああ、……うん。清瀬は3年前に辞める際にも七原を誘っていたらしい。結局、話はもの別れに終わったようだけど」
「それっぽいことはさっき本人も言ってました」
 カーテンの陰から盗み聞いたんだけど。
「その時も今回と似たような時間帯で、2人でロッカールームで話していたらしい。……なんて、こんな風に出来事を並べると、なんだか因縁っぽいんだけど。3年前の時はたまたまそこへ久慈が居合わせた。それで、その翌日に清瀬から店に『辞める』って電話がかかってきて、それっきり」
 ほとんどは間接的な情報で、あとづけのつぎはぎで補足したものであるという旨をあらかじめ断ったうえで、森見が話しはじめる。
「事前の相談も辞表もなしで、いきなり辞めたんですか?」
「そうだね。翌日から普通に来なかったから」
 なんて自由なやつなんだ。
「事情が事情だったから、顔を出し辛かったっていうのもあったのかもしれないけど、清瀬の場合は七原のほかには何の未練もなかったという感じだね。初めから、長く居る気はなかったんだと思うよ。ロッカーに荷物というほどのものも残ってなかったし、着信は拒否状態。給料の振込のことなんかもあったから、連絡を取ろうと思えば、まあ取れないこともなかったんだけど。志村は『本人の希望通り、残りの金を振り込んで契約終了で問題ないだろ。あとの私物はゴミの日に全部捨てとけ。それで文句があるようなら、その時は自分が遊んでやる』なんてことを言っていたけど、そういうわけにもいかなくて。当時はそれなりに困った覚えがある」
 ”暴君”志村と自己都合優先のキヨセが相手では、常識人としての割りを食うしかなかったであろう森見は、鼻にしわを寄せて苦笑する。それにしても、そんな辞め方をした上で今回のような話を持ちかけてきたのだとすれば、キヨセは思った以上のツラの皮だ。
 入社早々「辞めたかったら早めに言え」などという嫌味ったらしいセリフを志村に言われたのがキヨセのせいだったのかと思うとムカッ腹が立つが、そんなことを今さら蒸し返しても仕方がなかった。それがなかったとしても遅かれ早かれ俺は志村のことを嫌っていたのだろから、どっちにしたって大差はない。……ということにしておく。
 そもそも今回だってはじめからそもっともらしい御託など並べていないで、森見に吐いた偉そうな宣言通り、キヨセと2人、心ゆくまで『遊んで』やればよかったのだ。そうすれば今回起きた面倒ごとのほとんどは回避できたはずだし、七原だってあんな目に遭わされずに済んだ。
 あの女、何から何までふざけている。経営者ならば、自分の吐いたマニュフェストをきっちり守れよと言いたい。おおかた自分の言ったことなどその場で忘れたか、あるいはもっと楽しい暇潰しのために、そんな手間暇を割く気が失せたとか、そんなところなんだろうが。こらえた舌打ちの代わりにため息をつく。
「それで。……具体的にはなにがあったんですか?」
 「殴った」と、キヨセ本人は言っていた。つまりはそのような暴力沙汰に、実際にキヨセが及んでいたということなのだろうか?個人的な反感や、キヨセの人間性はさておいて、少なくともあいつが七原に対し、力に訴えるような暴力を振るうとは思えなかったが、いずれにしろ、本人を含めた周りが『暴力』と認めたようなことが既成事実としてあった上で、今回のような面談が成立するものなのか?
 結果を聞かない限りぐるぐるとどこまでもループしていきそうな物思いは、森見の意外な言葉でいったん打ち切られた。
「それが、具体的なことは結局何もわからず終いのままなんだ。なにしろ当事者のたちの口が固くて。……ごめんね?」
 困った顔で首を傾けられ、思わず「はァ!?」と声が出る。そんなオチを言うために、ここまで長々と話を引っ張ったのか。結局何も知らないだなんて、拍子抜けにもほどがある。
 不満が前面に顔に出ていたのだろう。森見がため息を吐くような調子で言葉を続ける。
「……まあね。とりあえず、ヘタな憶測・推論は抜きで話をまとめると、ロッカー室から清瀬が出て来たのは久慈が入るのとほぼ入れ違いで、久慈が入った時には、七原は鼻血を出した状態でロッカーに(もた)れてた。気絶こそしていなかったけど、声をかけてもほとんど無反応のような状態で。しかもこれは、久慈に呼ばれて駆けつけた志村の話。尋常でないことは様子からして明らかだったから、その場で詳しく追求しようとしたけど、我にかえってからの七原はあくまでも『たまたま手が当たっただけ』の一点張りで、途中まで慌てた様子もあった久慈の方も、七原の態度に義理立てでもするみたいに、最終的にはすっかり口が重たくなってしまった。志村は、『あいつらにくだらない策を(ろう)する能力が備わっていたこと自体が驚きだったけど、2人をすぐ隔離(かくり)せずに、無駄に考える暇を与えてしまったのが、自分の犯した最大のミスだった』と言ってひどく後悔していたよ」
 仮にも従業員を束ねる身として、もっと他に反省点はなかったのかと思うが、志村らしいと言えばこれ以上ないくらいに志村らしい言い草だ。
「……で、結局わかったことはと言えば、七原の(つたな)い説明で、清瀬から新しい仕事に一緒に来ないかと誘われたけど断ったっていうことだけ。七原はともかくとして、唯一の目撃者である久慈は、あの志村に詰め寄られても口を割らないんだから、たいしたもんだよ。久慈がもしあと百年二百年早く生まれていたら、忠義だとか信義のために立派に果てたりてしちゃってたと思わない?」
「あー。久慈くんは、そうですね」
 ほとんど考えるまでもなくそう答えると、森見が悲哀のような同調のこもった笑みを浮かべた。
 久慈は、黙っていれば古式武道でも(たしな)んでいそうな硬派な面持ちで、欲得もなく損な役回りを黙々と引き受けてしまうようなキャラクターだ。
 ジャンケン勝負で一番に勝ったとしても、勝者の権利をあっさりと次席以下に譲り渡すようなことはしょっちゅうで、宮蔵(みやくら)やシズに至っては、久慈が勝つと勝者の権利は自分のものとばかりに、ガッツポーズを取るようなあり様だ。
 とはいえ、久慈が自己犠牲的な行為になにがしかの美学を見出しているのかといえばそうでもなく、例えるなら魚が魚であるように、犬が犬であるように、久慈は久慈としての本分を(まっと)うしているだけといった風で、「ちょっとは欲を出したらどうなんだ」と言たところで余計なお世話でしかないような気もする。
 そもそもがシズや宮蔵なんかを喜ばせたところで何が楽しいのか俺には理解しかねるが、久慈は自分のことよりも、人が喜ぶほうが喜びを実感として感じられる性質(たち)なのかもしれない。まったくもって共感はできないが。
「だけどそれって、久慈くんがキヨセを(かば)ったってことなんですかね?」
 どういう経緯があったにせよ、不器用で実直な性格の久慈が志村に逆らってまでキヨセの味方をしたのかと思うと、不可解を超えた不愉快さが心中に立ち込めてくる。
 なんと言っても、キヨセは妻子ある身でありながら臆面もなく元同僚である七原を口説き、「おまえ以外のことなんてどうだっていい」などと言い切ってしまう大ボケ野郎だ。百歩譲って結婚は自立した大人同士の自己責任としても、ガキまで作っておいて何言ってんだよって話だ。情熱的と言えば聞こえはいいが、それ以前にヒトを使い捨てのコマか何かと勘違いしているとしか思えない。
「さあ。庇うっていうのとは少し違うと思うけど。配慮とか、尊重をしたことは確かだと思うよ」
「尊重って、何を?」
 笑ってしまう。尊重だ?馬鹿らしいな。
 通すべき義理なんて、あいつにあるのか?久慈に直接そう問い(ただ)したい気分だ。
()えて言うなら”人の気持ちに”ってところかな。ところで三島。おまえも俺に言わないでいることがあるよね?」
 久慈の実直さや、値しないものに支払われている尊重や配慮のことに気をとられていたために、思わぬ方向からの指摘に動揺した。
 特に表情を動かしたつもりはない。が、森見の目が猫のように細まるわずかな仕草から、自分が背もたれへ軽く身を引いてしまっていたことに気付く。
「……ま。いいんだけど、言わなくても」
 と、いっそ無関心とも思えるほどに割り切った静かな表情のまま、水滴の浮いたグラスの中身をひと口飲んだ。
「いいんですか、言わなくて」
「尋問をしているわけじゃないんだし。さしあたり俺は、おまえの尊重しようとしていることを尊重しようとは思ってる」
 そう言う森見は、数年前の久慈に対しても、同じようなことを思っていたのだろうか。
「……修さんは、俺が尊重しようとしてることがなんだか分かるんですか?」
 ちなみに俺もよくわかっていないのだが、それを森見がわかっているんだとしたら、一応聞いておくべきだろうか。
「分かるわけないじゃない。超能力者じゃないんだから」
「まあ、そうですよね」
 あっさりとした否定に安堵のようなものを覚え、すぐさま乗っかったが、「おまえね、そんな純真なことばっかり言ってると、悪徳詐欺やなんかに付け入られるよ」と一笑に伏されてしまう。が、俺は久慈とは違い、純真なんて柄じゃないのだ。
 ただ、全体像を捉えているのではなくても、森見は人の機微にも(さと)く、七原について、少なくとも俺よりもずっと多くの事実の断片を持っている。知っていることのすべてを明かしているわけじゃなく、今この瞬間だって、開示するべきこととそうでないことの区別は、絶えず頭の中で試算していることだろう。
 七原とキヨセは、人格と資質的な問題でヒアリングの相手としては問題外だし、どういう筋を通しているのかは知らないが、だんまりを決め込んだ久慈もダメ、だったら当面は森見の判断に乗っかっておいた方が手っ取り早いと思ってしまったのも事実だった。
 キヨセや志村のような人間に丸め込まれるなんて真っ平だが、森見に乗せられるのであればそう悪くない気がすると思うのは、大きな間違いなのか。
「そもそも信用していなきゃ志村だって、うちの大事なパティシエを任せたりはしないわけだし、俺だってその点では意見が一致している」
 これまで一度として聞いたことのないセリフが耳に滑り込んできたことに不意を突かれ、思わず顔を上げる。いつもの軽口かと思いきや、スコンと漂白されたようなその表情には、日ごろカウンター内で大盤振る舞いしている、シロップのようなリップサービスの気配が感じられない。
 ……”うちの大事なパティシエ”というのが当然七原であることはわかるが、あとがわからない。
「信用って、……キヨセを、ですか?」
 話の流れ的にはあまりしっくりとくる結論とも思えないが、消去法でそうなる。自分が信用と呼ばれるほどのものを勝ち得ていると思えるほど、思い上がることはできなかった。
 キヨセには俺の知らない、俺よりも長い期間のうちに(きず)かれた、キャリアと関係性がある。それはあとから現れた余所者(よそもの)である自分の抱いているネガティブな期待とは、いっさい関係がないことだ。
「おまえね……何とぼけたことを言ってんの。三島のことに決まってんでしょ」
「俺は、……俺は別に信用なんてされてないです。ただ単に立会人としてはそこそこ手頃だっていう理由でいいように丸め込まれたってだけで。志村マネージャーも『丁度良かった』って言ってましたし」
 何かに突出しない代わり、何事に対しても良過ぎもせず悪過ぎもしないような、多少の”使い勝手の良さ”があることは認める。全力でがんばる前に開き直るクセのあるいい加減なところも、誰に指摘されるまでもなく、どう誤魔化そうとしたところで否定はできない。卑屈になるつもりはないが、劣等感に近い感情は持っていた。
 相手の心証を思いやって常にやわらかいものの言いかたを選ぶ森見の声より、胸ぐらを掴んで事実をつきつけるような、露悪的なまでに率直な志村の態度の方が、自分への評価としてははるかに正しいことのように思う。
「三島、おまえはなんてかわいいことを言うんだ。ギュってしてあげるから、こっちへ来てごらん」
 手先のスナップだけで手招きをされたが「大丈夫なんで、いいです」と答えると、森見は「あーあーあ、”いいです”とか”大丈夫です”とか、そういういかにも日本人的な持って回った表現、俺は好きじゃないなー」と、ぞんざいな動作で組んでいた足を投げ出し、ふてくされたようにバースツールの背もたれに身を(もた)せ、ぐるんと1回転した。
「あのねぇ三島。対外交渉が骨の髄まで染み込んでる志村みたいな人間が、本音なんてそうそう言うわけがないじゃない。あんなのは、猛獣(もうじゅう)にじゃれられてるようなもんだよ。無防備なまま相手にしてたら、心臓がいくつあったって足りないでしょ?辛辣(しんらつ)なぶんだけ自分が見込まれてるとでも思っておけばいいんだって」
「……」
 すべては受け取り方次第、心の持ちようだというのなら、そんな風にして自分を納得させることだってありだろう。
 だけど、週明けの街の路上に放置されたゴミでも見るように冷めきった目で見られて、自分が信用されているだなんて思える人間がいたなら、それはポジティブを通り越して、ただのアホだ。
 それに志村はキヨセの能力を買っていると言うかたわらで、”本人の自由意志”という名分のもと、七原を切り捨てることも構わない───そう取られて当然のことを平然と言った。もしもあれが本音じゃなかったのだとしても、人を利用するために手段を選ばないという点だけでも嫌悪する。
 あの女と友好的な関係を築きたいなんてことは、金輪際思わない。だからといって職場での余計な軋轢(あつれき)を好むわけもなく、自分から反抗的な態度をとったことは一度もなかったつもりだ。にもかかわらず、毎度下からすくい上げるかのように挑発的な態度に出られることの意味がわからなくて、いい加減うんざりしていた。万が一森見の言うように、見込んだ人間にああいった露悪的な態度をとるのがあの女の趣味なのだとしたら尚のこと、そんなもんに有り難く付き合うような義理はない。
「うーん。参ったな。こんなこと言うとかえって誤解されそうだから、怒らないで聞いて欲しいんだけど、志村は、三島が七原のために感情的になることが、嬉しかったりするんじゃないのかな」
「………………………」
「もしもし三島、生きてる?」
「………………かはっ!」
 「生きてるか」と問われ、思考停止とともに息をするのを忘れていたことに気付き、あやういところで自発呼吸を取り戻した。
「はあっ?はああ〜!?なんですか、それは!?」
 森見の言葉は、当初から自分の抱いていた、志村が自分の反応を見て面白がっているだけなんじゃないかという疑いをさらに強固にするような内容であり、これで気分を害するなという方が無理な注文だった。
 ”見込まれている”だ?
 どこがだよ。ふざけるのもたいがいにしないと、俺だって怒るんだぞって話だ。
「いやいやだから、そう目を吊り上げないで聞いてくれって。第一、それに関して言ったら志村だけじゃなくて、久慈も信永(のぶなが)さんも、俺だって同罪なんだから」
「……なんなんですかそれ?みんなで面白がってたっていうことですか?」
 そんな言葉が口をついたが、久慈も信永さんも同罪と言われ、水の雫をかけられたように気持ちにブレーキがかかる。
 志村や森見の行動原理や道徳観なんかが、俺の理解の範疇(はんちゅう)に収まるものではないにしても、久慈や信永さんは、どう悪く考えようとしたところで、他人の窮地(きゅうち)や動揺する様を笑って楽しめるような人たちではなかった。
「違うよ。そうじゃなくて、本当に嬉しかったんだって。三島は俺たちとは違うから」
 ”俺たち”というのは、森見と志村、それに信永さんや久慈のことなのだろうか。
 いつも独特の余裕を(まと)っている森見とは思えない苦笑に戸惑いを感じ、「俺と修さんたちが同じなわけがないじゃないですか」という自嘲的な切り返しは、喉から出る前に蒸発する。代わりに雪やホコリのようにふわふわと体積の感じられない、得体の知れないなにかが胸のなかに降り積もっていくような気がした。
「別に人より多くを知ったからって、そのすべてが強みになるとは限らないだろう?むしろ余計なしがらみや常識が増えるぶんだけ、自由な行動や発想が制限されることだって、たくさんあるんじゃないかな」
 自分の内側にある苦いものを噛みしめるように、森見が言う。
「おおきな挫折(ざせつ)や成功の記憶が、次へ踏み出すための恐怖の引き金になることだってあるだろうし、自分とは直接の関係が無かったのだとしても、仮に目に見えるような痛みが存在しなかったんだとしても、人は、”出来事”にまるっきり影響を受けずにいることは難しい。一度恐怖を知った人がどうなるか、三島にはわかる?」
「どうって、……危なそうな所にはもう近付かないんじゃないですか?」
 理性と分別のある生き物なら大抵そうなんじゃないか。単純に、思ったままを言う。
「……うん。そうだよ。だけどたまに、雷に打たれたみたいに思い出すことがある。どんなに目を伏せてもどれだけ遠くへ行っても、記憶までは消せないから」
 プライベートと同様つかみ所がなく、内情をあらわすこと自体ほとんどない森見の口から出る吐露に、足元がぬかるんでずぶずぶと沈んでゆくような、自分でもよくわからない不思議なショックを受けていた。
「俺、わかんないですよ、修さん」
 たまに頭にくるようなことがあったのだとしても、いつも強気な人間は強気なままで、飄々(ひょうひょう)としている人は飄々としていてくれないと、調子が狂ってしまう。そんな風に頼りない顔をされてしまったら、自分はどうしていいかわからなくなる。
「だからさ。そこが良いんだ。ごめんね。身勝手でふがいない大人ばっかりで」
「今言ったこと、七原さんの腕の傷となにか関係があったりするんですか」
 迷ったが、口に出す。自分の中ではほとんど断定的で、確信とも言える質問だった。それでも、瘡蓋(かさぶた)()がれて血が流れ出すような、得体の知れない痛みがこちらにまで伝わってきそうで、大きくは踏み出せない。
「……あるよ。でも悪いけどそれ以上は言いたくない。それに、俺が勝手に話していいようなことでもないと思ってる。だからどうしても知りたくなったら、その時はおまえから七原に直接聞いてみてよ」
 薄い笑顔でそんなことを言いながら、森見は俺がそこを掘り起こすことはないと初めから高をくくっているように見えた。けれど、実際自分でもそう思う。
 誰しも人に言いたくない、触れられたくないことはあると思う。『すべてを共有したい』なんて、俺には強迫じみたスローガンのようにしか思えない。
「それに」と森見が付け加える。「仏像みたいに無表情な七原の横で、三島と宮蔵(あお)がものすごく無邪気な掛け合いをしているっていう、あのシュールな風景が、今や俺にとっては『paigue』の平和の象徴とも呼ぶべき、大切でかけがえのないオアシスなんだよね……出来ることなら失いたくはないよ」
 しみじみとなにか良いことを言っている風ではあるが、微妙におかしなことを森見が言う。まさかカウンターの向こう側からそんな生ぬるい眼差しで見られていたとは思ってもみなかった。
 たしかに俺は、宮蔵に絡まれて(まれ)にはそのような醜態を演じてはいたかもしれない。いや、もしかしたらチラホラという程度には。なにしろ相手は人の都合もTPOもわきまえずきゃっきゃと鱗粉(りんぷん)をまき散らしてはやりたい放題の妖精さんだ。ファンタジーの形をとった災害なのだ。たまには未然に防げても、すべてを避け切れるものではない。
 それに、今の森見の言い方では、まるで俺が宮蔵と同じテンションでそんなアホなことを繰り広げていたかのようだ。あたかも宮蔵とワンセットであるかのようなもの言いには、形容しがたい抵抗を感じる。
「そうやって宮蔵と同類項にされてることが、俺にとってはなにげに大打撃だったりするんですけど」
「え、着眼点そこ?だって君らすごく仲がいいし、楽しそうにしているから…」
「ちょっと、待ってください」
 重ね重ねの認識の食い違いと屈辱からくる脳の軋みに、どこから訂正したものかと眉間の辺りを指で揉む。
「もしかしたら傍目じゃ和気あいあいに見えているかも知れませんけど、俺は常に宮蔵のせいでアイデンティティが崩壊しかねないような危機的状況に瀕していて、心の底から迷惑しているんです。本当ならあのバカを、すぐにでもしかるべき夢の国に送還してやりたいくらいなんですけど、あいつは記憶が3分もたないうえに動きが異常なまでに素早いので、自分の犯した間違いが何だったのかを理解させるどころか、現行犯で捕まえることすら常人にはほぼ不可能なんですよ。修さんは、俺たちがいつも見ているのが宮蔵の本体じゃなくて残像だったってことに気付いていましたか?」
「あ、いや。……はは。そうなの?三島、もしかしてちょっと酔ってる?」
「は?酔ってなんかいませんよ?」
「そう?なんかすごい棒読みだし目も死んだ魚みたいになっているけど、そんなに前のめりに力一杯訴えなくても。……三島って本当、感情表現が独特だよね。こんなにドキドキするのは、海外で路地裏に連れ込まれてナイフを突きつけられた時以来かもしれないよ俺は……」
 カウンターの向こうでこちらを見上げる格好になった森見が、ぶつぶつなにか言っていたが、思考が微細に横すべりし続けているようで、あまり頭には入ってこなかった。
「……修さん」 
「はいはい、何でしょう?」
「そういうことを言われたって、責任とか俺、取れないんですけど」
「責任って、何が?宮蔵(あお)のこと?」
「は?何を言ってんですか。宮蔵のことなんてどうでもいいですよ」
「あ。もうどうでもいいんだ。切り替えが早いね」
「七原さんのことですけど。信用とかなんとか言われたところで、俺はこれまで通り普通にしか出来ないですよ。あの人の過去とか、俺は知らないし、俺はそんなの関係ないですから」
 念を押すように言うと、森見がテーブルに乗り出す格好になった俺を見上げ、ぱちぱちと目を(しばた)かせた。薄情と思われているのかもしれないが、その場のノリだけで責任も持てないことを()()うようなことを言うよりはマシだと思っていた。
「……いや。それで十分。誰も、そこまでの役割を君に押し付けようなんて思っていないから、大丈夫。うん。これからも普通にしてくれていると、すごく助かる。……それに、三島は知らないかもしれないけれど、責任っていうのは常に任せた側にあるものだし」
「それって、”裏切られても信じた方が悪い”とか、そういう理屈とちょっと似てますよね。”運転の責任は全部負う”と言われたところで、事故った時の痛みまで誰かが肩代わりしてくれるわけじゃないですよね。そんなの無条件には飲み込めないですよ」
「……参ったね。何でそういうことをパッと思いつくんだか」
 森見が呆れたように、くるりと天井を仰ぐ。
「母親にはへそ曲がりだとか、口が減らないとはよく言われますけど」
 悪いとは思わない。自分の頭を使う労力すら払わずに、聞いたような理屈や建前だけで人を黙らそうなどと思う方がよっぽどどうかしている。人を丸め込むにもそれなりの礼儀は必要じゃないかと俺は思う。
「適当なことを言っているつもりじゃなかったけど、確かにそうだね。接客仕事を長くやっていると、テンプレートみたいな”模範解答”が勝手に出てくるのかも。考えてみるとおかしいよな。言葉に気を付けなきゃいけない職種の人間のはずが、当たり障りのないことを言うことが習い性になって、自分の使う言葉に対して鈍感になっているなんて」
「そういう言い方をされると、俺が修さんに説教してるみたいじゃないですか?」
「違うの?」
 言って、唇の端をクッと引き上げる。その人の悪そうな笑みが、俺は嫌いじゃなかった。
「まさか。そんなことしたら修さんの信奉者たちに袋叩きにされちゃいますよ」
 森見自身はまったりゆったり構えていても、ファン層は独特というか、等距離間の笑顔の下で強烈な静電気が散っているかのようなバチバチの牽制圧力のようなものがあって、敵に回したら恐ろしげなことは事実だ。皆一様に感じよく優しかったりするのだが、要は『将を射んと欲すれば〜』的なアレで、雑兵に塩をまくパフォーマンス以上の意味はない。
 白々しいとも取れる俺の発言に、森見がくすくすと笑う。重くなった空気を削るように、しばしカウンター越しに肴がわりの繰り言の応酬をする。
「……そういえば三島、今日は珍しく機嫌が悪かったね。シズちゃんに当たってなかった?」
「あー……、……実はプライベートでちょっと」
「そっか」
 自分でも思いもよらない指摘だったが、言われてみればたしかにそうだったかもしれないと自分でも気が付いた。思い起こす限り、カマをかけているのではなく確信をもとに聞いている森見相手に否定したところで意味はないと感じ認めると、それ以上は追求されなかった。
 森見は人並み以上に観察眼に優れているが、あっさりと触れることはあっても首を突っ込むことをしない。いちいち説教めいたことも言わない。中立主義というよりは、ただ単にそうしたことに興味がないのだと思う。
「三島は、面白いね。達観しているようでいて意外に自己評価にムラがあったり、抜け目がなさそうで変なところで妙に抜けているっていうギャップも。隙があって逆に構えづらくなったりするんだろうな。面白いなぁー。……う〜ん。なんか、わかる気がする」
「なんですそれ。……どういう意味ですか」
「んー?いろいろ。こっちの話。いいなぁ、そのバランス感覚。好きだなーと思って」
 森見は両手で顔を挟むように頬杖をついて、眠そうともうっとりとも取れる表情だ。どうせ褒めちゃいないんだろうと言いたいところだったが、それも手応えは得られそうにない気がしてやめた。
 思わせぶりな言葉は森見の日常言語だ。接客トーク同様、9割がたは聞き流しておくのがベストだ。それを介さないような危なげな相手に、森見はそんなことを言わない。嫌味なく、さっと溶けるほどよい甘さで、必要以上の余韻を舌に残さない。残すべき印象や期待感の量を、相手に合わせて加減している。
「両想いにはなれませんけどね。修さんの相手なんかしてたら、成層圏外(せいそうけんがい)まで振り回されそうだし」
「そう?俺はわりといつも、振り回される側なんだけどな」
 対面で抜け抜けと森見が言う。
「修さんの場合、そういうトークが板につきすぎてるせいで、いざという時に本気にされないんじゃないですか?」
「言うね」
 森見のモテっぷりからすれば完全に負け惜しみで以外の何ものでもない発言だったが、滅多にされない邪険な返しが愉快なのか、森見はくしゃくしゃと顔を崩すように笑う。
「まあ、俺も詰めの甘さについては最近重々自覚したところなんで、いいんですけどね、別に」
「うん?それは何の話だろう」
「こっちの話ですよ。とりあえず、七原さんのことはもう任せてくれて構わないんで、あとひとつだけ確認したいんですが」
「はいはいどうぞ。今なら俺のスリーサイズから門外不出の黒歴史まで、何だって答えるよ」
「どうせ聞くたびに違う真実が出てくるんじゃないですか。そういうのは売り上げに貢献するように、勤務中効果的に小出しにしてくださいよ」
「了〜解。じゃあ、聞きたいことっていうのは、何なんだろう?」
 時間はすでに日を跨ごうとしている。七原が起き出してくる気配もないまま長々と続いた会話のひとまずの落としどころが見え、森見もさすがに疲れたのか、普段なら細部まで神経の行き届いているはずの表情が、今は作ること自体にやや()んでいるようにも見えた。と言っても、森見の地がどんなものなのかは知らないが。
「キヨセは、さっき言っていた”トラウマ”の話……七原さんの怪我とは、関係が無いんですよね」
 自分でもある程度は想像のついている内容の確認を取る。だけどこれがひっくり返るようならば、ここで築いてきたことのほとんどが無価値に等しくなる程度には意味のある質問だった。その場合、俺は茶番の舞台ごとすべてを投げてもいいと思っていた。
「そうだね。あれは、清瀬が来るより前のものだから、彼とはまったく関係のないことだ」
「そうなんですか。なら、いいです」
「本当に、それだけでいいの?今日は散々だっただろうに、報酬が残業代と唐揚げ弁当だけじゃ、割りに合わなくない?」
「いいですよ。ドリンクの奢りさえ忘れないでくれれば」
 今さらなことを聞いてくる森見に、自分でも意外なくらいにさっぱりとした気持ちで答えていた。
「なんで三島くんは、そんなに思い切りがいいんだろう?」と森見がニヤニヤする。当初のぶしつけな態度からすれば自分でも現金だとは思う。だけど、相手の出方や事情によっては、意見なんて180度でも360度でも変わってしまう。
 少し面倒ではあったが、気分としか言いようのなかった変転を頭の中で整理する。
「考えたんですけど、聞いたところでどうせ頭が追いつかないようなことを無理に聞いたって仕方なくないですか?だって、要は今んとこは志村マネージャーでも対処不能ってことでしょう?修さんの言う通り、人の事情に好奇心で首を突っ込んだ挙句(あげく)、野次馬的関心とか変な同情心とか、余計なもの抱えて仕事でヘマしてたら目も当てられませんしね。だったらもう、今日のところは余計なことを考えるのはやめて寝ます。七原さんのことは任せて帰っていいんで、修さんは最後にお茶を淹れて貰ってもいいですか?俺、ペットボトル派だから日本茶の淹れ方ってよくわかんないんで」
「なんだろ。……おまえってたまに、びっくりするほど男前だよね」
 そりゃどうも。
「そんな取ってつけたみたいに言わなくても、七原さんのことを置いて逃げたりしないから安心してくださいよ」
「おまえがそんなことするなんて思ってないよ。はああ〜、どうしよ。三島が格好よくて惚れるんだけど」
 乙女のように両手を頬に添えて小芝居をされても、比較するのもバカらしいくらいの男前にそのような言われたところで、付き合うリアクションを取る気にすらならない。
「別に、そうでもないですよ。七原さんのことだって、途中までは放り出す気満々だったし。本気で一人だったら、対応出来てたかどうかもわかんないです。頭に来てたんで色々失礼なことも言ったかもだけど、みんなが居てくれて助かりました。それと、今日はみんな定時で帰って、俺だけしか同席してなかったってことでいいんですよね?修さんは明日までに口裏合わせの周知徹底をお願いします。特に、宮蔵。あいつはまじで、度肝を抜かすほどの生粋のアホなんで、腰を据えて念入りに説明頼みます。あいつからバレて七原さんに恨まれるとか、これ以上の面倒ごとはマジで勘弁ですよ俺は」
「ぶっ…。七原が三島に怒るなんてことはまずないだろうけど。……いいよ。まかせて。いやもう三島があんまり頼りになりすぎて、俺は泣いちゃいそうだよ」
 たしかに。さっき見た七原の寝顔を思い浮かべながら、好悪にしろ喜怒哀楽にしろ、七原が誰か特定の人間に向け執着を持つところなどまったく想像ができないと思った。
「吹き出しながらなに言ってんですか。さすがに七原さん起きるかもしんないし、とりあえずお茶だけ、忘れないようお願いしますよ」
「それはいいんだけど。でも、本当に帰っていいわけ?居残った時点で残るつもりだったから、俺はもうどっちでも構わないんだけど」
 そう言われてまた少し考える。
 自分の知らない場所で全員で結託して厄介ごとを押し付けられているようにしか思えなかった時点では果てしなく気分が悪く、反感しか湧いてこなかった。森見と話をする前なら、嬉々として申し出を飲んでいただろう。だけど今は、腹の中にあるものに近い言葉を、天井付近を見ながら探している。
「多分俺、本気で嫌だったら口車に乗せられたってなんだって、断ってると思うんですよね。でもなんだかんだ言ったって、引き受けたのは自分だし、最初からそういうことに文句があったわけじゃなくて。修さんたちは、ある程度事情みたいなものを踏まえて、その上でって感じだったから、”じゃあ、なんでなんだよ?”って、思ってしまったからで。でも、喋ってスッキリしたんで、もういいです」
「と言っても、とても説明に足りていたとは思えないんだけど?」
 窺うようにこちらを見る目が少し笑っている。別に、森見の浮かべる好奇心を満たせるほどの何があるとも思えないが、今後のことを考えればある程度の情報は共有しておいた方がいいだろうと思い、補足のためにも口を開く。
「……形式どうこうより、俺の気が済むかどうかの方が大事なんで。それに万が一、七原さんに口とか心を閉ざされたとして、実質的被害が一番でかそうなのって俺じゃないですか。なので、事後回収は最小限で済むようにしておきたいです。志村さんが深夜残業待遇の特別手当をポケットマネーから出してくれるらしいし、この際貰えるもんはきっちり貰っておきますよ」
 悪びれもせずチュッパチャプスを舐めていた顔が頭をよぎる。
 金銭が、絶対にわかり合えそうにない相手との唯一の共通価値だ。悲しいが、俺があいつから引き出せそうなものなんて、それくらいしかなかった。
「あと、対処法もちょっとわかっただけ、ある意味キヨセにも会えて良かったですし。あいつ、七原さんのことを諦める気はないらしいから、また来るかもしれないですよ」
「清瀬が?それはまあいいけど、……対処法っておまえ。あいつに何かしたわけじゃないよね?」
 お茶を淹れるためのケトルをセットしていた森見が、(いぶか)しげな表情でこちらを振り返る。
 どうやら今回はこっちが一方的にやり込められた、もしくは話すだけ話させて、どうにかこうにかお引き取りいただいたくらいに思われているようだ。
「たいしたことはしてないんですけど。足技が決まってあの人が畳にひっくり返ってたくらいで」
 その時のキヨセのぽかんとした顔を思い返してからもう一度焦点を戻すと、あまり見たことのない表情の森見が目を見張ったていた。
「……まじで?」
「はい」
「どうやって?」
「どうって、普通に足払いをかけましたけど」
「”普通に”って。……あいつ、今は社交家風に振る舞ってるみたいだけど、ケンカっ早いし、多分強いよ?」
「あ、そうなんですか。じゃあ、手を抜いてくれてたのかもしれないですね」
 へえ、とは思ったが、過ぎたことなのでもうどうでもよかった。
「そうなんですかって、三島。……おまえ、格闘技でもやってたの?」
「まさか。やりませんよそんなの。気合いとか根性とかゼッタイ無理ですもん俺。時間取られるのも金がかかるのも嫌だったから、小中高とも帰宅部でしたよ。ただ、中学の時に流行った『カポエイラごっこ』って遊びがあって、油断してると()に何十回とアホみたいに床に転がって天井を拝む羽目になるんで、ほぼ3年間、ずっと気が抜けなかったから、反射神経はそんなに悪くないかもしれないですけど」
 もしかしたら投げ飛ばしたり投げ飛ばされている間の滞空時間の方が長かったんじゃないかと錯覚してしまうほどのバトルロワイヤルな日々が、懐かしく(よみがえ)る。
 クラスのほとんどの男たちが神経を研ぎ澄まし、より多くの相手を床に転がすかということに、ありあまっていた情熱と体力を注いだ。そして俺はやる気がない割にはけっこう負けず嫌いだった。しかし、『カポエイラ』なるものが実際にどんな競技であるかについては、未だによくわかっていない。
「あ。でも頭部分はフォローして、相手には絶対怪我を負わせないっていう、担任(格闘マニア)のレクチャーがあったんで。やったのは久しぶりだったけど、キヨセもわりと平気そうにはしてましたよ?手を貸さないでも立ち上がれてましたし」
 どれほどいけすかない招かれざる客でも、客は客。そして今日の俺の対応は、近年まれに見るほどに紳士的だったと自負している。
 なにしろ志村にこれ以上ムカつくことを言われたくないので、万全の布石は打っておこう考えてのアピールだったが、椅子の背もたれにすがりつき、腹を抱えながら笑っている森見の耳には届いていないようだった。
 リクエストしたお茶を真空ポットに移し終えたあと「清瀬にしたっていうタイキックのこと、志村には話してもいい?」と聞かれたが、(俺の技はタイキックではないし、そもそもカポエイラですらないということはさておき)直接だろうが間接的だろうが、志村に絡むことにとてつもなくやる気を感じなかったため、「えー……」と不本意であることを示すと、「でも、あの人絶対大ウケすると思うんだけどなー……絶対にダメ?」と言い(つの)られ、渋々(しぶしぶ)ながらも了承してしまった。そのあたり、自分も多分にもれず森見の”お願い”には弱いのだということを自覚した。ただ『腹時計』のことについては未来永劫口外NGという交換条件をとりつけることは忘れなかった。
「それじゃ、七原を頼むね」
 零時を過ぎ活気の沈んだ夜の空気は澄み切った湖の底にいるようだった。終電はとっくに終わっているが適当に帰るという森見を見送りがてら、俺はどこかしら所在ない思いで、足元にある砂利をざりざりとつま先でいじっていた。
「七原さんて、飲みとかに全然顔出さないですよね」
 『paigue』の飲みは定例のものや全員参加といった不文律もなく、カジュアルだ。大抵は宮蔵が「メシ食いに行こうよ〜」と言い出して、じゃあ行こうかという流れになるが、みんなが集まることはむしろ稀で、その時に気が向いた人間がぱらぱらと参加する。そんな中、宮蔵は何度断られても懲りることなく七原に声をかけているが、毎回すげなくお断りされている。「次はゼッタイ、ゼッタイ一緒に飲もうねー!」と言うところまでがおなじみの流れとなっていた。気になる転校生に接する小学生みたいに、普段やたらもじもじと遠巻きにしているわりに、そこだけタメ口なあたりがちびっ子宮蔵のよくわからないところだった。
「何?三島は七原と一緒に飲みたいの?」
「そういうんじゃないんですけど、なんか……」
 言いかけたところで答えが見つからず言い澱み、ふと横たわっている沈黙に疑問を感じて顔を上げると、森見が肩を揺らしながら静かに笑っていた。
「……どうかしました?」
「いや、ごめん。”なんか”っていうのに、なんかうけちゃって」
「今、笑うところなんて一個もなかったですよね」
「そう?今もさっきも、俺は今日一日が、ここ数年来で一番楽しかったような気がしてるけど」
「わかんないです」
 森見がそこまで愉快そうにすることの意味がわからず、眉を顰める。
「うん。わかってもらおうとは思ってないもの。ただ、俺が楽しかったってだけ」
 「それは良かったです」でいいのだろうか?例によって俺が無自覚で間の抜けたことを言って失笑を買われているだけなのかもしれないが。
 暗がりで森見の表情まではよく見えないが、人を疑う回線を働かそうにも疲れ過ぎていてうまく頭が回らない。でもきっと、違うんだろうな。笑い声も、話す声のトーンも、いつもの森見とは少しだけ何かが違っている。そんな気がした。
「三島、今日はありがとね。じゃあまた明日」
「もう今日ですね」
「あは、ほんとだ。じゃあ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい。気をつけて」
 おどけたように片手を握ったり開いたりする仕草をして、ふわりと踵を返す。帰りの足が気になったが、森見のことなので、どうせいらぬ心配だろう。
 酔っているのか、街燈から切り取られたシルエットは軽くステップを踏むような足取りだった。砂利を踏むリズムから舗アスファルトへと足音が変わり、それもやがて遠ざかり聞こえなくなった。

bloom wonder 7

ありがとうございました。

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《あらすじ》 三島一臣は、仕事の腕以外のいっさいの人間力を持ち合わせない先輩バティシエの七原、パワハラ上等の”美女の皮を被った野人”志村、その他個性豊かな職場の同僚たちに囲まれ日々頭を悩まされる、常識人(自称)の就職1年生。「最悪だ」と呪いのようにつぶやきつつ、七原に振り回され続けております。 ★以前アップしていた『三島日記』というタイトルの話を改題&大幅に書き直して再アップしました。心境の変化によってか(コロナ?)、三島のキャラがだいぶ変わっていますが。(改稿前はなんでそこまで?というくらいに七原にベタ惚れ・完全降伏状態でした。それはそれで楽しかった気がしますが)相変わらず……というか、さらにBL要素が薄〜くなっております。 他サイトで書いた話が進んだので、ちょっとここに残しておこうと思いました(誤消対策)。暇つぶしにご笑読いただければ幸いです。

  • 小説
  • 中編
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  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-19

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