bloom wonder 6
イラストはキヨセ。対外用の顔と、悪い顔(素)です。
違う汁にしてくれ。
「信永さんに森見さん。久慈くんも、おひさしいぶりがっこー」
と、上下にあるストッパーを外した信永さんに迎え入れられるようにして、入ってくるなりその男は言った。はじめから訪問の予定があったのだから、正面入り口のドアが開いていたはずなのにわざわざテラス側から入ってくるあたりに、なんとなく馴れ合った者同士の空気を感じる。
風体は、上から黒の野球キャップ、タイトなの黒のジャケットに、細身のグレーのスウェットパンツ。インナーは濃いめのブルー系のシャツだろうか。それなりに高そうなアイテムを着崩しているところが鼻につく。友人にも着道楽っぽいのは何人かいるけれど、なんとなくそういうのとは違う感じがする。
「参ったなー。久々にこの辺歩こうかと思ったら、途中で降ってきちゃうんだもん。知ってたらランクル回してきたんだけどな」
湧き上がりかけた失笑を、横を向いてやり過ごす。
ランクルだろうがランボルギーニだろうがどうでもいいが、いちいち口に出すところに、服装選び同様のあざとさを感じる。愛車が軽トラでも同様のことをのたまうのであれば、話は別だが。
「それは大変でしたね。傘か、タオルはご入用ですか?」
「やー、さっき降り出したばっかだし、大丈夫っす。帰りはタクシー呼ぶんで」
信永さんに答えながらぐるりと見回した視線の動きが、一瞬ぎこちなくなったような気がした。俺か、俺のとなり。もしくは森見のいるあたりか。
が、わずかに目を眇めた間に、その表情はナチュラルな笑顔にとって替わっていた。
「なーんか、……懐かしいっつーか、4年足らずでけっこー知らない顔ばっかになるもんですねー。で、もしかしてみなさん、勢ぞろいってやつですか?」
言いながら、ちょんとドロップ式の照明に触れる。気のせいか。こいつを見ていると、どんどん自分の心が狭くなっていく気がする。
「志村以外は、だね。ちょっと話してたら盛り上がっちゃってこんな時間になったんだけど。も少ししたらみんな帰るよ」
拭き終えた食器類を、飾り格子の嵌めてある吊り戸棚へ仕舞いながら、森見が応じる。
「へー。仲良っすね。何話してたんですか」
「んー?世界の汁物ナンバーワンは何だろうねーって話」
空々しさしか感じられない会話にすっかりと辟易し、よそ見をしながら頬杖をしていた手から、あご先が滑り落ちそうになる。
森見の口上が適当なのはいつものことだが、今回のこれは特にひどかった。虚言もここまでさらっと言ってのけられると清々しいというか、疑惑を口に出す方が無粋に見える。人を煙に巻く手本のような手並みに、ぐつぐつと煮えかけていた毒気が抜けるのを感じた。
ふと気付くと、さっきまで絶え間なく囀っていた双子たちが、今はぴたりと静かになっている。そういえば彼らは極端な内弁慶というか、よっぽど馴染みの客相手の時でさえも、借りて来た猫のように、首を縦に振るか横に振る以外の意思表示しかしなくなるため、客受けは悪くなくても、フロアではほとんど役立たずなのだった。瞳孔が開いたかのように微動だにもせずに鎮座している様子は、まるで未開の地の土産物屋に並べてある、置物のようである。
「あっは。この子たちは双子ちゃん?可〜愛いね」
急に水を向けられて、双子たちはシビシビと置物としての硬度を増した。今や指先でつついただけでも、2体そろってころんと後ろに転がりそうだ。
「あ、そうです。そうです。向かって左が新名すばるで、右があきら。私は武蔵野糸鶴と申しまして、フロアや配達と広報と、あとは契約農家さんとの橋渡しなどもしていますぅ」
と、ご丁寧に名前にはまる漢字までをレクチャーしている。
「シズちゃんか。よろしくね。最近美容室に行った?スモーキーピンクっていうのかな。髪の毛のグラデーション、綺麗に入ってる。いいなー、俺もそういうの一回してみたいんだけど、客先であんまり攻めた格好するのもマズいしなー」
『paigue』では、よほど清潔感を損なわないかぎり髪型や服装の制限などはされていない。
「え〜、もったいないですぅ。絶対絶対似合うと思うのに〜」
だんまりを決め込んだ新名兄妹に代わって説明を始めたシズも、珍しく緊張気味らしい。いつもならばこの流れで、面識のなさそうな人間すべての紹介を済ませてしまいそうなものなのに、流暢で後腐れもないキヨセのリップサービスに、へどもどと恥じらっている。頼むから、見ているこちらの方が気恥ずかしくなるようなリアクションはやめて欲しいものだと切に思う。
「清瀬。こっちが宮蔵、で、そっちが藤村。で、これが三島。みんな、裏方の担当」
いきなり使い物にならなくなった進行役を継いだ森見の声に合わせるように、「どうも」と頭を下げたり、各々当たり障りのないリアクションをする。紹介とは言ってもさらりと流すようなもので、覚えてもらうという意図が無さそうに見えるどころか、省きすぎて一部事実とは異なっているが、それで十分だと思った。正直なところ自分の紹介だって、山田でも太郎でも、なんでも良かったくらいだ。いつもなら人懐こいキャラの宮蔵も、シズや双子の緊張が伝播したのか、いつになく静かだった。
なんとなく異様な雰囲気だと思うのに、その異様さの原因が掴みにくい。もしかしたら自分は自分で多少テンパっているのかもしれなかったが、上滑りの状態で自己分析をしたところで仕方がないと思った。中身のない、建前上のやりとりなどはどうでも良いので、早いところ用件だけを済ませたかった。
「じゃ、そろそろ本題に移りますか。三島、飲み物淹れなおしたから持ってってくれる?」
「わかりました。ありがとうございます」
森見がカウンターにのせたトレーを受け取る。
「え?今ここで話すんじゃないんですか?」
キヨセが、意外そうな声を出す。拍子抜けしたような表情は、あながち演技というわけでもなさそうに見える。
「帰るって言ったでしょ。頭数だけ揃ってたって仕様がないんだし。話すのに残るのは、君ら当事者と、本日の管理責任者の三島だけ。あとは店側は全部閉めるから、帰りは裏口から出てね?」
俺たちにというよりもキヨセに向けて、勝手知ったる”元”職場だろう、と思っているのが伺われる手つきで、出口方向を指し示す。
「へぇー………そうなんですか」
キヨセが、ほとんど初めて俺の顔と”三島”という名称を一致させる気が起きたかのように、しげしげとこちらを見る。
知らなかった。いつの間に俺は、管理責任なんてものを負わされていたんだろうと思いかけてから、これも即興の”アドリヴ”なのかと合点する。
思うに、ジャンルは同じ”人たらし”のようでも、土台が違う。
うちのバリスタは「おぎゃあ」と産声をあげた瞬間から、人という人を軒並みたらしこんできたのに違いなく、万が一、徒党を組んだ被害者訴訟原告団により、これまで無責任にばらまいた甘言の数々への突き上げを食らったのだとしても、この顔でこの声で、
「そう?でも、ちょっと幸せじゃなかった?俺は君といて、すごく楽しかった」
なんてことを言われたら、大抵の人間は腰砕けになるような気がする。
一本の矢で十数人の胸を同時に撃ち抜く程度の離れ業くらいならなんなくやってのけそうではあるけれど、特定の相手に執心する森見というのは、ちょっと想像がつかない。
あっさりとキツネにつままれて悪酔いをしているシズは、あとで宮蔵にたっぷりからかわれることだろう。最近とあるネタでからかわれっぱなしだった自分としては、いい気味だと思わずにいられない。(そういえばキツネじゃなくてワニだった───っていうのはどうでもいいか)
そうとなればとっとと面倒なタスクを済ませるべく、キヨセへ目配せをしてから、先を促すように3人分の飲み物の載ったトレーを手に歩き出す。何にせよ今日の自分は信永さんを見ならって、ありとあらゆることを聞き流すことのプロに徹することに決めたのだから、いけすかないキヨセの言動ごときに、いちいち目くじらを立てている場合ではない。
「そういえば、結果は出たんですか?」
大人しくついて来るかに見えたキヨセが、すれ違いざま、カウンターに最接近したタイミングで聞いてくる。きょとんとした表情をした森見に向かい、すかした笑い顔で「”世界の汁物”の」という補足をする。悪意を感じる唐突さと念入りな態度に、こいつはやっぱり無粋な奴だと思う。
「ああ、それね。ほぼまとまりかけたんだけど、そこにいる三島くんが、○谷園のお茶漬け押しで、どうしても譲らなくて」
「は。なに言ってんですか。○谷園のお茶漬け、最高じゃないですか。日本の心ですよ」
口裏を合わせながらも、なんだそのひどい濡れ衣は、と思う。
「民主主義的解決によれば、トップはダントツで、ク○ールつぶコーンスープで決まりなんだけどね」
世界の汁って言ってたわりに日本企業オンリーな感じに、どうでもよさが伺える。この投げやりさが女子に受けるんだろうか。
「あんなのは、ただの粒入りの黄色いにごり汁ですよ。言ったって全部コーンなわけじゃないですか。つまんないですよ」
「クルトンは、麦だよ…」
ぽそりと久慈くんが言ったので、「ほんとですよね!」とつい同意してしまい、仮想の議論はぐだぐだのまま終決してしまった。「ふ」と声が聞こえたような気がして横を見たら、七原が平然とした顔で俺を追い越していった。
なんだったんだろうと思ったが、続き歩いて来るキヨセの吊り上がった口角を見て、俺は自分のやるべきことをきっぱりと思い出す。
そう。本日の俺は、無になるのだった。
ロッカールームに入る七原にキヨセが続き、通るには開閉幅が足りないためにトレーを持ち直そうとした鼻先で、バタンとドアが閉まった。風圧を感じるほどの勢いで閉まったドアにあっけに取られているところへ、さらにガチャリと嫌な音までしたので、さすがに自分が締め出されたのだということを理解した。
「……そういうことをするかね、普通」
怒るというよりも、たった今足を踏み出そうとしていた場所に、誰かが掘っていた落とし穴があったことに気付く感覚に近く、あいつ、賢しげなツラをして、思ってた以上にクセモノじゃねえかと、思わず感心してしまう。
「でも、鍵閉められたんじゃな……」
空いた手で頭をかいて、思案する。ドアを叩くなどして仰々しく騒ぎ立てるのは好ましくないし、万一壊したりして弁償でもさせられたら、たまったものじゃない。
というか、小学生のいたずらじゃあるまいし、いい年をした大人が人を閉め出すという大人気のカケラもない手段を使ってまで立てこもって、なにをするつもりなのか………と、想像すること自体が普通に怖い状況である。
①怨恨 ②痴情のもつれ ③ただの冗談
シャレにならないことは嫌いなので、自分としては全力で3番のセンに一点張りしたいところなのだけれど、もしもいたずらの種明かしのタイミングに鮮度があるのだとすれば、すでに腐りはじめてもいい頃合いだ。
自ら名乗り出てしまった手前、努めて根拠を考えないようにしていた、志村の意味深すぎる発言を思い出す。
「七原という人間は、自分を轢き逃げした車が、ご丁寧に戻ってきて二度轢きする段になったのだとしても、じっとその場にうずくまっているような奴だと思わないか?」
「二度轢きって……」
お肉じゃないんだから。って、それは合挽きか。
「……頭の出来の良し悪しに拘わらず、壊れたレコードのように同じことを何度も繰り返すのは、人間のクセらしい。人生なんて、親の代から続くような因縁から、たまたま頭に隕石が落ちてくるような、因果律なんてものをまるっきり無視したような災厄でさえも、誰かや、何かのせいにしていたら、何処へも進めない。結局のところ、すべてのものは自分の責任の範疇で呑み込むしかないのかも知れないと、思う時もあるんだけどな。それでも、自分の耳に届く範囲で同じノイズを聞かされ続ければ、さすがにいい迷惑だと思うよ」
意味深すぎて、なんの喩えなのかもわからない。少なくとも、今の自分に答えられるような内容とも思えなかったので、黙っていた。
志村のほうも俺の答えなど、なにも期待していなかったんじゃないかと思う。相談や、ひとに話しかけるような体で、ただ、人に話すことで自分の心の整理をつけるような類のものなのかと、最後のセリフを聞くまでは思っていた。
「自力で諦めきれないのなら、ちゃんと息の根を止めてあげないと…」
………どうしてくれんだよ、志村。こんな場合の対処法なんて、研修の中には含まれていなかっただろ。こんなんじゃ残業代どころか、特別手当を付けてもらったところで、ぜんぜん割りに合わないじゃないか。
やってられるか。なんでこんなところで締め出しをくらってまで、俺が、おまえらのわけのわからない因縁なんかに付き合わなきゃならない。
トレーを足元に置き捨て、とぼとぼと来た通路とは逆方向へ歩き出した。
ex
背後でドアが閉まる音に振り返った。三島が閉めたにしては乱暴だとは思ったが、彼は室内に入ってはおらず、こちらに背を向けた清瀬がドアを閉め、サムターンを回すところだった。
「何を、しているんだ」
なぜ、まだ三島が入っていないのに扉は閉められたのだろう。
志村には、三島立ち会いのもと3人で話をすると聞いていた。今回の話の趣旨からは三島が立ち会うことに意味は感じなかったので、清瀬と2人でもいいと伝えたのだが、取り合ってはもらえなかった。「おまえは少し、学習というものをしたらどうだ」と言われたが、あまりよく覚えていないことに、学習も復習もなかった。ただ、志村にも店の人間にも、それなりの迷惑をかけたのだろうというおぼろげな思いはあったので、言われた通り了承した。
しかし見たところ、その予定は狂ったらしかった。
「彼には悪いけど、ちょっとちあきと2人で話したかったんだ」
清瀬は言った。当初は自分もそのつもりであったし、三島が外で騒ぐような様子もなかったので、頷いて畳敷きの部屋を歩き適当な場所に座った。
「久しぶり、ちあき」
「3年と、2ヶ月」
「そういうところ、変わらないな。”3年と2ヶ月”。元気にしてた?」
元気という状態と、そうでない状態の違いを、あまり意識したことがないので、「普通」と答える。
が、なぜか笑われた。
清瀬が辞めた日付のことは覚えていたが、あまり細かいことを口にするのは一般的ではないようなので、月まででやめておいたのに、まだピントがずれているのか。仕事の用件を話すことは苦にならないが、人に合わせて調整をすることは疲れる。互いに知る意味のないことを、なぜ話し合わなければいけないのかと、まず考えてしまう。自分は、話すことに向いていない。
「仕事の用件だと、志村に聞いた」
「本当に、俺がそんなことのために来たんだと思った?」
テーブルを挟んで向かい合った清瀬が、少し前かがみに身を乗り出してくる。もし、仕事の用でないというのならば、なんなのだろう。違うというのであれば、清瀬には嘘をつく必要があったのか。
本当は、人に近付かれることはあまり得意ではない。体が、勝手に逃げそうになったり、そうでなければ頭の中が灰色になって、その時間帯のことをまるごとどこかへ捨てそうになる。
我慢する。
我慢する。
「そう、聞いた」
清瀬は、敵じゃない。
「ちあき。あの日俺が言ったことは、覚えてる?」
「覚えてない」
覚えていない。清瀬が何を言ったのか。あの時は、途中から何も耳に入ってはいなかった。
「……そう」
「仕事の話をすると、志村から聞いた」
「うん、そうだよ。あの時の話の続きをしようと思って。だから、彼には少し外で待ってもらう。だって、2人でないと話せる気がしない」
三島。
外にいる?
「ちあき、緊張してる?」
「違う。話せ」
……違う。違わなくてもいい。どっちでも。
大丈夫。俺は、誰も傷つけない。
「そっか。でもまあ、仕方がないよな。……ちあきは自分のことがわかっていないから」
前触れなく伸びてきた手が、テーブルに置いた手に触れ、びく、となる。手の甲を滑る感触に。
一瞬、息の仕方がわからなくなる。全身の毛が逆立つ感覚。塗りつぶされる。固定される。
前に……前にも、こんなことがあった。清瀬はそのことを言っている。俺は、なにをわかっていないのかがわからない。
わからない。でも、清瀬の話を聞く。俺もそのあとで清瀬に話すことがあるから。
「話。話を」
「了〜解、お仕事の話ね」
ぽんと手の甲を叩くようにして、置かれていた手が離れる。知らず、詰めていた息がゆるむ。
こういうやりとりは、以前仕事をしている時には、よくしていた。清瀬は仕事の手は早いけれど、脱線が多くて、いつもわからない話ばかりをしたがった。わからないことばかりを、聞きたがった。
自分には清瀬が何が楽しいのかが、さっぱりわからなかった。でも、いつも笑っていた。
他人の行動の意味など、考えようとしたこともなかった。なのに最近、忘れたと思っていた色々のことを急に思い出して、身動きが取れないようになる時がある。忘れていた記憶の粒が、今になってはじけているみたいに。
どうしてなのだろうか、と思う。だけど目を閉じても灰色の頭の中に、なにが見えるわけでもない。
記憶は、匂いのようだと思う。忘れたいと思うことを忘れるわけでもなく、思い出したいと思うようなことを、思い出せるわけでもない。前触れも意味もなく、ただ香ってくる。
「これ、本当は社外秘なんだけど、うちの会社の実績と最近手がけた仕事の内容、いくつか。ちあきに見てもらおうと思ってまとめた。イベントの様子なんかを動画で見てもらっても良かったけど、おまえはそういうの、あんまり見なさそうだし」
唐突な音が苦手で、一方的に動く画像は、頭に入る前にモザイクのように散らばってしまう。音か映像か、どちらかひとつならまだましな気もするのだが……。いずれにしろ、そういうことを清瀬に話した記憶はなかった。
ぱさり、とテーブルの上に資料が置かれる。こちらへ向けて、清瀬がゆっくりとページを繰る。業績とは言ったが、それは最低限と思える簡潔な内容で、写真や、推移や効果をグラフに表したようなものが多く、字数は極端に少なかった。
なぜか、絵本に似ている、と思った。
「………こども」
「そうだよ。これは、子供向けのイベントだった。わりと初期の方の顧客だな。この頃はまだ黙って待ってても仕事なんて全然来なかったから、依頼されたっていうより、こっちから売り込みに行ったんだ。ここは、金属を加工する会社で、普段は半導体の部品とか旋盤なんかの、生活ではあまり馴染みのなさそうなものを作ってる。だけど、内にこもってコツコツやるだけじゃなく、それがどういう技術なのかがひろく伝われば、もっといろんなニーズが見えてくるはずだと思ったんだ。だけどそういう趣旨は前面に出さずに、親子遠足みたいなノリの会社見学にした。大人と子供では受け取り方も違うだろうし、できるだけ形を決めない、自由度のある企画にしたかったんだ。その時のイベント用のノベルティーとして提案したキーホルダーが、あとで結構ネットなんかで話題になった。それは、初めから狙ってたんだけど」
説明に合わせてページが繰られ、指先が文字と写真をなぞる。なぞる先にある顔は、こどももおとなも、みんな笑っていた。
清瀬の顔を見る。
「”お菓子をつくるイベント”は、そのついで?」
「……そう。イメージや、実質的な利益。それまで、ルーティンでしか動いていなかった企業が”あたらしい実のなるかもしれない枝葉”を獲得するまでの、ついでだよ」
「ノベルティーで発生する利益については、契約に含んでた?」
「いや。デザインの権利なんかも、すべてあっち。謙虚っていうか、社長がやたら生真面目な人だったんで、契約を変更していくらか払いたいっていう申し出もあったけど断ったよ。俺が欲しいのは、そんなものじゃなかったから」
「なんだった」
「貴重な実績と信頼。あとはイメージかな。余波が生み出す価値すべて。ざっくりまとめると、会社としての社会的な”ハク”みたいなモンか。だってうち、笑えるくらい若造しかいないからさ、実績と評判で勝負するしかないだろ?だけどこんなクソみたいにまどろっこしい正攻法しか無いのかと思うと、夜とか酒飲みながらアタマ搔きむしりたくなるんだよ。どうすることがより手っ取り早く、この山を登るための足がかりになるのか。最短でそこに辿り着けるんなら俺は、他人の口に泥を突め込んででも、のし上がりたい。けど、下手な真似をしてバレたら即アウトだよ。わかってるのに、そんな短絡しか頭になくなる。……だって俺って、本当はいい人のふりするのなんてヘドが出るほど嫌いだし、めちゃめちゃしんどいよ。世の中の嫌われものとして、いつだって堂々と裏道を歩いていたいんだって。ちあき、………………なあ、ちあき」
「なに」
「おまえもしかして、笑ってんのか?」
「わからないけど。清瀬は全然いい人そうには見えないから、大丈夫だと思う」
「ウッソ、まじで!?ありがとうねちあき。すごい安心しちゃった」
「清瀬」
「うん?」
「家族が、できた?」
「………それ。誰かに、何か聞いた?」
「なにも。こどもの、匂いがしたから」
「俺が今の、イベントの時の話をしたからか?」
「ちがう、そうじゃなくて。ただの”匂い”」
「………俺さ、今だから言うけど、時々その目に見られてると、自分の中身全部見透かされてるみたいで怖いって思ってたよ。無機物みたいなのに、じっと見られてると、心の内側に肉薄するみたいな、怖さがあるから」
「……見なければいい」
「無理だよ、そんなの。言っただろ。俺は、ちあきが好きなんだって。他のやつのことなんて、どうだっていいんだよ。会社を立ち上げたのだって、信用を得ようとしたのだって、ちあきを引き込むための受け皿を用意するためで、それ以外の意味なんてない」
「……清瀬。俺は、行かない」
「どうして。今、ちあきがここでいくら貰ってるのか知らないけど、俺はそんなの、話にならないくらいの額を払えると思うよ。仕事の内容にしたって、おまえが馬鹿みたいに全部実務をこなすことなんてない。やり方次第で、労力は何倍にも化ける。ちあきのセンスと技能があれば、それだけでいくらでも仕事になるって、俺は言ってる。おまえには、それだけの価値があるってことなんだ」
「足りてるからいい」
「………ちあきってさぁ、もしかしてあの女に義理でもあるわけ?何か、弱みを掴まれているとか……じゃなきゃ、惚れてる?」
「そういうのは、ない」
「だったらさ、なんでちあきはそんなに、”ここ”がいいんだ?ここでしか働いたことがないからわかんないだけだって、そうは思わないか?価値観がここだけで固定化されてるってことに、気付いてないだけなんだよ。頭だけでうまく立ち回れとか、俺はそういうことを言ってるんじゃないだろ?俺はさ……ちあき。おまえと、仕事がしたいんだよ」
「……」
「なあ、金じゃなきゃ何で動くんだ?教えてくれよ」
「……」
「ちあきはそうやっていつも、都合が悪くなると黙るよな。……そんじゃあさー、たとえばの話だけど、今から俺が全力でリサーチして、この店に来るような客のニーズとがっつりかち合っちゃうような店を、この近隣でプロデュースしたとするよ。で、あえなくここが潰れました。……そうした場合、ちあきはその先どうするわけ?」
「どうもしない」
「だって稼がなきゃ、ちあきだって生活ができないだろ」
「清瀬。いいんだ、どうでも。俺はここがなくなったら、もう二度とこの仕事はしない。どこでも働かない。だからおまえがここを潰しても何をしても、意味なんてない」
「それはちあき、どういう、……」
「言いたかった。俺は自分のことしかないから、あの時も今も、人のことなんて考えられない。誰が自分のために何をやったって、俺にはなにも出来ない。理解することも、しようとも思わないから。そういうのはもっと甲斐のある、価値のある人間にした方がいい。悪かったと思ってる」
「なぁ………謝るなってちあき。俺は、おまえから離れるべきじゃなかった。ずっと、間違いだと思ってた。逃げるみたいに結婚したって、子供が出来たって、なにも変わらなかった。……もし嫌だって言うんだったら、俺はおまえに触らない。そうやって手が震えるのだって、あの時俺が殴ったからなんじゃないのか?」
「震え?どこが?」
「おまえそれ、……本当に、自分でわかってないのか?」
「?わからない。でも、だとしてもそれは清瀬のせいじゃない。人に触られるのが駄目なんだ。昔から、相手が誰でも」
「………………まじか」
────こいつは今絶対に、”じゃおまえ、童貞か!?童貞なのか!?”と、思ったのに違いない。なんでかというと、俺もそう思ったからだ。間の空き方が、ほぼ完全に一致していたので、まず間違いはないだろう。
しかしこいつら、どういうワイルドカードの切り合いだよ。言いたかないが、途中からキヨセの言ってることが、ものすごい正論に聞こえてきたんだけど、気のせいか??
なおかつ気になるのが、七原の「どうでもいい」発言だ。あれってどういう意味なんだ。もしかして実家が土地持ちのお金持ちとか?……っていやいや、にしたってどうでも良いわけはないだろう。ここは俺の職場でもあるわけだし。もう、何言ってくれちゃってんの?って感じだ。
それはそれとして。俺は今、カーテンの陰に身を潜めているのだけど、すこしばかり困っている。
会話があまりにも不穏だった場合、ここから出ようかとも思ったんだけど、なんか意外にも普通の感じで仕事の話なんかをしているものだから、ちょこっと出辛くなってしまったのだ。
なんだ、2人は普通の仲良しさんだったんじゃん。ここぞとばかりにどかんと乗り込まないでホント良かったよ。馬鹿。志村。馬鹿。
だけど一度は締め出されたからといって、気付かれないようにこっそり入って話を聞いていた場合、これはもう立派に盗み聞きになっちゃうんじゃないのかなあ……なんて、つま先の毛玉をいじりながらセンシティブに悩んでいるうちに、また話が徐々にこじれ出してきて、「店を潰す」とかどうとか、いやそれよりもキヨセが「あの女に惚れてんのか」とか、「ちあきの腕っぷしが好きだ」とか(”ちあき”って、七原のことだよな?)殴るとか殴らないとか……。
どうでもいいけど、店を壊すようなケンカなら、どっかよそでやって欲しいよ、とか思っていた矢先の、七原の童貞宣言だ。
ちょっとさ、短い時間に話が一転二転しすぎで、ボクにはついていけそうにな……。
「ってきゃあ〜!!!」
ものすごい勢いでカーテンの陰から転がり出て、はっと気が付いた時には潜んでいた地点から3メートルほど離れた壁に張り付いた格好で、密談をしていた2人に凝視されていた。
「びっくりした。おまえ、どこから湧いてきた?」
「はわわ、はわ。ゴゴゴゴ、ブ、ブリ、」
「午後?鰤?ちあき。何言ってんだ、こいつ」
「たぶん、”ゴキブリ”、と言いたいんだろう」
「アーハーン。なるほどねー」
いやいや当たってるけど大不正解だよ!?その言い回しは、むしろとても、最高に好ましくないんだって。……くそう、”ちあき”め。邪気のない目ぇして、恐ろしい単語をさらりと発しやがるぜ……。
そう思った時、立ち上がった七原が何を思ったか、俺が指差した方向へとすたすた歩き出した。
「あっ、あー〜〜っ!!!ちあきさん!!そっち行っちゃダメッ!む、むむむむしっ、むしむしが……っ!」
「これか?」
言いながら屈み込むと、七原はまるで頓着する様子もなく《《それ》》をつまみ上げた。
ふう……!掴んだ!なんてこった。こいつ、あの物体を掴んじゃったよ。思わず反転して後ろへ倒れこみそうだ。母さん……宇宙だ。天井に宇宙が見える。そして、ちあきが大変なことになっているよ……。
「ほこり?」
馬鹿馬鹿、ちあき。虫に、特にその虫に、誇りなんてもんはねーよ。あるのは人類を凌ぐ歴史と驚異の生命力だけだ。食ったことのない獲物をつかまえた動物みたいな顔なんかしてないで、今すぐその物体をどこかへ放せよ。
おまえってやつは、なんでそなもんに素手で触っちまうんだ。仮にもパティシエともあろうものが、信じらんねーよ。どうすんの、その手。
「毛玉か何かじゃねーか?汚ったねーな、ちゃんと掃除してんのかよここ。ゴミ箱あるから、これに捨てれば、ちあき」
キヨセは七原の手元を覗き込み楽観的に断じ、さくっとくずかごを差し出したりなどしているが、俺はまだびったり壁に張り付いたまま警戒していた。だって、動いたんだもん。絶対。
「けだま」
「うん。毛玉だね。ポイしようか」
仲良しトークとか!?なんか、語尾にハートが見えますけど、気のせいですか?
「おいおまえ、なんつったっけや。わかんねーけど掃除はしとけ」
うわ。……落差。すごいな。
しかもこいつ、確か七原より年下じゃなかったか?俺は、こいつの後輩でもなんでもないのに、なんなのこの俺様感。むかつくわ〜……つか毛玉って。
デジャヴ?
……まさか君は、さっきまで俺が、部屋の隅っこで毟っていたアレなのかい?
本当?
だってなんだか、君ったらいつの間にか大きくなって、急に生命を宿したみたいに動いたりするから。心臓が口からきゅぽんと飛び出したかと思っちゃったよ。
は〜……。びっくりした。寿命が3分くらい縮まったかも。
「……おまえか?」
「は?」
やっと胸のドキドキが落ち着いてきた動揺の引き際にかぶせるように、ずいと近付く。背丈だけなら俺の勝ちだが、いかんせん相手の態度が少々でかすぎた。こいつは多分、心理戦のやり方というものを心得た種類の人間なのだろう。
しかし今日の俺は(サーブするはずの飲み物も通路にぽい捨てたし、さっきはとんだ失態をしてしまったが)、あくまでも紳士らしく、どのような野卑なふるまいに対しても折り目正しく、右から来るものは左へ、左から来るものは右へと、細大漏らさず真心を込めて聞き流す所存だ。俺はやるぜ、信永さん。
しかしいかに紳士と言えど、いきなり「おまえか?」と凄まれたのでは、なんと返せば良いのやらわからない。にしても、それ以上顔を近付けるんじゃねーぜ、このボケェ。
むやみに威圧感のある一瞥をくれたかと思うと、キヨセが急に身をひるがえした。
てっきり俺は、自分の日頃の行いが良すぎるせいで、すぐさま念願が通じ、家に帰るのかと思ったが、キヨセのとった行動はまったく違っていた。
あっという間の出来事だった。
距離にして約1・5メートル先。俺が見間違えているのでなければ、キヨセは七原に覆いかぶさるようにして、”挨拶”をしていた。
挨拶といっても、日本式のお行儀の良いお辞儀などではなく、なんというか、ラテン形式の、かなりがっつりと、熱烈なタイプのやつだ。その光景に、文字通り俺はその場で棒のように突っ立ってしまった。仰天していたと言い換えてもいい。
動揺のせいか、『キス』だとわりとあっさり目なのに、『接吻。』というと、急にエロくさくなるのはどうしてだろう……。そんな、妙に能天気なことを考えていた。
で。七原はどうしているのかといえば、腰を抱かれてのけぞるという力の入りにくそうな体勢であるとはいえ、抵抗らしい抵抗をしているようには見えなかった。つまり、同意の可能性もなくはない……とか、考えていたのだ。
腰に回す手で後ろ手に、ひと纏めにされているのが右で、抵抗と呼ぶにはあまりに虚しく背中を掻いているのが、左であることに気が付くまでは。
ふっと頭が白くなりかけた。たぶん、己の馬鹿さ加減というやつに。
力の入れ方というものに、考慮する気は一切なかった。キヨセの肩を掴み、引き剥がす。
力の抜けているらしい七原は、立ち上がるのに手を貸そうすると、「いい……大丈夫。触るな」と言う。まともに立ち上がれもしないで震える唇で息を吐きながら、なにが大丈夫だというのか、俺にはわからないが。
キヨセには、剥がされてまだバランス整わないうちに、肩を掴んだまま足払いをかけた。棒を倒すように、あっけなく全身が四分の一回転する。
「ってえな、何すんだクソが」
畳の上に転がされたキヨセが、片肘で上体を支え、どうにかこうにかといった感じで悪態をつく。しゃらくさい見た目の割に、意外と丈夫だ。
「……見た目よりは、痛くはない筈なんですけど。落下系のアトラクションよりはずっとソフトな感じじゃなかったですか?」
「まあ。確かにそうでもないな。名前、なんつったよ?」
「セバスチャンですけど。言ってませんでしたっけ」
人の名を何度も聞くなよ。失礼なやつめ。
「ああ?てめえ、さっき森見が言ってたのと違うだろうが」
パフォーマンスじみた慇懃さが削げ、小気味がいいまでにガラが悪い。が、こっちのほうが気色の悪い善人ヅラよりは、いくらかマシなように思えた。
「そうでしたか?森見が言ったのは通称で、セバスチャンの方が本名なんですよ。ちなみにファミリーネームはドゴンヌです」
どうぞお見知り置きを。と、顔面ごと浮き上がるような笑顔で恭しくかがみ込んで手を貸す。と見せかけて、もう一回転ばしてやりたい気持ちをいったんやり過ごす。
執念深そうな相手なので、これ以上自分を印象付けたくないという気持ちからだったが、程よく頭を強打し直せば、ここ30分くらいの記憶ぐらいは飛ばしたりできるんじゃないかという意欲と希望的観測がせめぎ合う。
「……はっ。なんでもいいけどおまえな。喋り方と、貼り付けたようなそのツラ構えがな。……肚ん中で考えてそうなことがさー、いちいち一致しないんだよ。なんだか知んねーけど、第一印象からして超絶ムカつくんだわ」
わあ、奇遇ですね。セバスチャンめもでございますよ。
「三島さぁ。おまえ、ちあきに何かしたら抹殺するからな」
貸された手を藪の枝木を避けるように押しのけ、不遜に言い放つ。勘がいいのかこいつ、と思う。
「はは。なんかって、なんですか。面白いこと言いますね」
ふざけてんですか。おまえこそ、殺すぞ。思い切り”何か”をしたのは、おまえの方だろう。
しかも三島はニックネームで名はセバスチャンだっつてんだろ。しっかり記憶してんなら聞くんじゃねえよこのやろう。でございますよ。
「とりあえず、今日は帰る。……ちあき。謝りたくねーから謝んねーよ。俺はまだ、諦めたわけじゃないから」
俺は無視か。いいね。
こいつは、何を諦めないつもりなんだろう。仕事か、七原か、その両方か。そういえば妻帯者だとか、言ってなかったか?
……まあ、言ってたところで意味はなさそうだけど。
七原は、自分へ向けられたキヨセの声など聞こえていないようで、放心したように突っ立っている。その顔をしばらく見詰めたあとで、キヨセは持ってきたものをカバンに詰めて、ドアの方へ歩みかけてから、思い直したようにこっちを見た。
「そういやおまえ、どっから入ってきたんだ?」
どうやら自分で閉めたはずの錠が横になったままだったことで、そこに思い至ってしまったらしい。なんだかんだで抜け目のないやつだ。
いつ改装したのかはわからないが、ドア自体はアンティークに近いクラシカルなもので、きっと音もなく開閉することはそれなりに難しい。とかいう以前に、遮るものもなくひとつしかない出入り口を、ど正面から入って気付かれないこと自体がまずありえない。
あんな風に間髪入れずすっ転ばされたりした場合、取り乱すか、激昂する人間の方が結果的にはよっぽど扱いやすいものなのに、思い余った行動に出たにしては、キヨセの態度は冷静そのものに見えた。
慇懃に「社外秘ですから」と答えると、「おまえ、ほんとムカつくわ」と、存外にヘラヘラとした答えが返ってくる。少し軽率だったかと、言ってしまってから思う。どこらへんから盗み聞いていたのか、これでだいたいのアタリがつけられてしまったかも知れない。
茫然自失の七原をその場に残し、一応”管理責任者”ということで、着実なお帰りを確認するため、裏口ドアのところまで付いて行く。
「タクシーは」と聞くと、
「呼ばねーよ」と、ポケットに突っ込んでいた手を出し、中指に引っ掛けたキーホルダーを見せてきた。はいはい、これが今日は乗ってこなかったはずのランクルとやらの鍵ですか、と納得をする。場合によってはそれで目当てのものをお持ち帰りでもするつもりだったのか。胸くその悪い。
どうせならその調子で企業の話も全部虚偽だったら面白いのに。っていうか、見せたかったのは鍵じゃなく、立てた中指の方なのか。
「じゃあなザビエル。次は土産持ってくるわ」
「セバスチャンです。うちは浄土真宗だし、フランシスコでもないから。で、お土産って、七原さんにですか」
全然いらないけど。訪問も二度としなくていいし、出来たら俺の名前も存在も覚えていてくれない方が助かるんだけど一応聞く。互いにいけ好かないと分かりきった相手の厚意の裏を取ることは、苔むした庭石をひっくり返すおぞましさに似たものがある。
「いや、おまえにさ。なんだと思う?ヒントは、最初が『ご』で、最後が『ぶり』」
ビンゴかよ。
「……ひとつしか思い当たらないんですが。ちなみにもし当たっていた場合、セバスチャンは最悪おしっこを漏らしながら殴りかかる可能性があるので、本当にやめてくださいね」
「はは、変な顔。まじでダメなんだな。いいこと知ったわ」
「あんた、そんな暇があるんならさ、家族にでもなんか買ってやれば。そんで、ここへは二度と戻って来んなって」
「馬鹿じゃない三島。なに鑑別所の職員みたいなこと言ってんの。じゃーな、ばいばい」
暗がりで笑いながら遠ざかるキヨセを見送る。
わけのわからないやつだった。妻子がどうこうという以前に、どう見ても相手に不自由しそうなタイプには見えないのに。なんでよりによって七原なのかと思う。
だけど、七原に対するあの言動。あの目。
……果たして自分はあそこまで真摯な目で、誰かを見たことがあっただろうか。そして、あんな風に言われてまで、その人を好きでなんていられるものだろうかと、義理もないのに考えてしまう。
────俺はさ……ちあき。おまえと、仕事がしたいんだよ。
────言っただろ。俺は、ちあきが好きなんだって。他のやつのことなんて、どうだっていいんだよ。会社を立ち上げたのだって、信用を得ようとしたのだって、ちあきを引き込むための受け皿を用意するためで、それ以外の意味なんてない。
物陰で聞いていたキヨセのセリフが、頭の中でリフレインする。
かなりふざけたやつではあったけれど、あそこまでなりふり構わない好意を、茶化すような気持ちにはなれなかった。
あれだけの真似をしておきながら、なんで笑いながらバイバイをしているのかについては、まるで理解はできないけれど。
あいつ、本当にまた来る気なんだろうか。
そんなことを思いながら、なんともやるせない気持ちでドアを施錠した。
bloom wonder 6
ありがとうございました。