三題噺①「宵張の海」

宵張の海

 道路に立つ街灯の淡白い光が窓から差し込んでいた。暗い部屋の壁に映る数本の光の筋は、卓上に並べられた小さなぬいぐるみを照らしている。夜のスポットライトを浴びて佇む小さな白と黒のブチ犬を眺め、あれは小学生の頃行った動物園でもらったのだったな、と思い出した。ひとり暮らしのこの部屋には至るところに大小様々なぬいぐるみがいる。かれらは少し離れた実家から連れてきたわたしの王国の一員だ。いつか、この部屋を見た友人は動物園のようだと笑ったが、彼らは今も昔も鑑賞の対象ではなく紛れもないわたしの友だ。きっとこれからもそうだろう。
ベッドの端では黒い猫のぬいぐるみがこちらをじっと見つめていた。まるで夜更かしばかりしている子供を諫めるような視線だ、と思うとそうとしか見えなくなるのだから不思議なものだ。金色の目をじっと見つめ返して、毛布に体を滑り込ませる。今晩は冷えるらしい。するすると熱を奪う冷たいシーツに抗うように両の素足を擦りつける。そんなわたしを無数の目が見つめている。ソファの上から、棚の上から、ベッドの脇から、籠の中から。無数の優しい獣の目が見つめている。けれど、その中に人の形をしたものの瞳はない。それに心のどこかで安堵しながら、頬を柔らかな毛布に埋める。
瞼は微睡んでいるけれど、脳裏は明瞭なまま、思考が駆けていく。夜の深邃(しんすい)に沈むのはまだ早い、と叫ぶように。

 思い出してみれば幼い頃から、人形が好きではなかった。薄橙色、ペールオレンジとも呼ばれる色のツルツルとした指感触の良いゴムの肌をした固い人形も、布で綿を包んだタイプのデフォルメされた柔らかい人形も、とにかく人の形をしたおもちゃが好きでなかった。嫌いだった、と言っても良いかもしれない。現実に寄せようと頑張っている人形は、その割に関節を曲げることはできなかったし、綺麗に見える髪はキシキシとすぐ絡まって幼いわたしを苛々させた。わたしは母の髪のように、母に似た己の髪のように、しっとりとして指通りのなめらかな髪が好きだった。綿と布で出来た人形は、関節こそ自由自在に動いたものの、やはり好きにはなれなかった。

──可愛くない。

それが幼いわたしのそれらに対する第一かつ最大の印象だった。固い人形も柔らかい人形も、わたしがいちばん嫌いだったのは体の固さでも柔らかさでも髪の質でもなく、その顔だったと思う。目があって、鼻があって、口がある。人を模したその構造が嫌いだった。柔らかい人形には鼻がなかったりもしたけれど、そういう細かい違いはどうでも良くて、主に目と口で形作られるほのかな笑みが、どうしようもなく好きになれなかった。特に固い人形は最悪だった。ハイライトの入った目を開いて、薄く色の乗った唇の端を軽く吊り上げて、笑みを浮かべる人形の顔はわたしを不快にさせた。人形遊びなんてほとんどしなかった。してもすぐに飽きてしまったし、どことなくもやもやしてしまうのでつまらなかった。動物のぬいぐるみで遊ぶ方がはるかに好きだった。動物園や水族館に遊びに連れて行ってもらってはその帰りに新しいぬいぐるみを買い求めた。その結果として、ライオンも、トラも、シロクマも、イルカも、パンダも、ユキヒョウも、イヌも、ネコも、ウサギも、わたしの王国にはありとあらゆる動物が溢れたけれど、人の形をしていたのはわたしを除いて他になかった。

 思考はまだまだ駆けていく。止まれない、まだ足りない、まだだ、と脳が主張しているように。こういう日は、思考に任せて眠れるまで走らせてしまうのが良いと知っている。ああそういえば、とわたしが一つのことを思い出せば、思考はまるで行き止まりの先に道を見出したように駆けていくのだ。

 わたしは人形が嫌いだ。今でもそう思う。小さな洋服を見るのは好きだが、それを着る人形の顔を見ると途端に不快感がお腹の奥の方から迫り上がってくる。けれど、唯一そういう不快感に襲われずに眺めることのできる人形がある。それは白くて冷たい固い肌をしていて、おおよそ関節を動かすなんてことはできない。それで遊ぶことなんて多分これからの人生ですら一度もないだろう。それは、デパートや服屋でよく目にする、ショーウィンドウの中のマネキンだった。
 おもちゃの人形に感じる不快感を覚えないという点で、わたしにとってマネキンは好ましい存在だった。マネキンの中でも瞳や唇に色が載っていたりウィッグを与えられているものはだめで、瞳も唇も真っ白に、髪の存在も捨象されたような、必要最低限の人の形を保っているようなマネキンが好きだった。どこを見ているのかわからない瞳がわたしの瞳には優しく映り、動くことのないその指を取ってその手を握りたいという気持ちに駆られたことも一度や二度の話ではない。服を飾るために店先に陳列された彼女たちの硬質な手を取ってその甲に口付けてみたらどれほど楽しかろうと考えたこともあった。繰り返し、わたしは確かに彼らを美しいと思った。美しいとは快いことで、快いとは不快でないということなのだ。
 マネキンは時に不気味なものとして扱われる。のっぺりとして表情のない無機質なその姿は時に人に不快感を与えることもあるだろう。けれどわたしはそう思ったことはなかった。無表情、というのはわたしの中でそれほど不気味なことでも不快なことでもないのだ。無表情、ということは、そこに表現されている感情がゼロということを必ずしも意味しない。時にそれはゼロではなく無限にもなり得るものだとわたしは思う。ゼロは無限に通じる。なんともありふれた陳腐な言い回し。けれど実際そうなのだ。何もないということは、何でもあるということと同義で、無限で、自由で、それゆえに美しいらしい。
 ここでわたしはミロのヴィーナスを思い出す。実際に目にしたことはないから、脳裏に浮かぶのは教科書の挿絵かネットで見た写真のそれだ。彼女には腕がない。正確に言えば元々あったであろう腕が欠けている。実際に腕が欠けている人を見たら人間は痛ましいと思うのだろうか。実際に見たことがないからわからないし、多分気にも留めないだろうと思うが、曰く、ミロのヴィーナスは腕がないからこそ美しいのだという。そこにあるべき腕を人が想像で補うために、その美しさは各々の想像の中で膨らんで、膨らんで、弾けることなくただただその美しさを磨いていくらしい。至上の美しさというものは人の想像の中で成り立つものなのだろう。だから想像の余地のあるものはきっと、そうでない他のものよりもひどく美しく映る。三島由紀夫が『金閣寺』にそんなようなことを書いていたな、と脇道に逸れた思考が呟き、戻ってきた。
 マネキンの美しさというのもとどのつまりそういうことなのだろう。真っ白な彼らは表情も視線の先も肌の色も髪の色も、その全てのくびきから自由で、想像の余地をこれでもかというほど持っている存在なのだ。だから彼らは美しい。だからわたしは彼らの手を取ってその顔を覗き込みたくなってしまう。そして人形はそうでないから──視線の先も表情も定められて想像の余地を失ってしまっているから──わたしには美しく見えないのだろう。きっと人形を美しいと思う人だってこの世にはたくさんいる。けれどわたしには彼らの気持ちはこれっぽっちもわからない。それにわかる必要もないと思う。わたしにとっては想像の余地があるということが、わからないということが、美しさに繋がる何よりのものなのだから。もしかしたら、動物という表情のわかりにくい存在を好むのもそういうことなのかもしれない……。

 急にずん、と瞼が一段落ちた。深い海に沈んでいくように体が重くなっていく。暗く静かな世界の中、目の前ではカラカラと風車の影が回っているのが見える。
ああもう眠りにつく時間か、と加速的に薄れた思考が微かに零れていく。眠る前に決まって過ぎる幻覚が今日もまた身体を包む。

わたしが水底へ沈んでいく。

淡いシーグリーンの光が小さくなって、闇に似た濃紺の水底へ、沈む、沈む。
夜の深邃へ誘われ、夢と闇の深いところへ、落ちる、落ちる。
さようなら、暫くのお別れを、と世界に告げる。

──朝日の昇ったときに、また会いましょう。


三題
・深邃:「奥深い(深くて、静かな)」意の漢語的表現。
・寝:眠ること。寝ること。
・マネキン:流行の服を陳列するときに使う等身大の人形。

三題噺①「宵張の海」

三題噺①「宵張の海」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-18

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