シューティング・ハート ~彼は誰時 (カワタレトキ) Ⅷ  野村岳

 偶然だった。
 野村(がく)は、クラスメイト達と咲久耶市まで足を伸ばし、街に繰り出した。
 仲間と繰り出すのは久しぶりだ。
 映画を観る予定だが、普段は男所帯。運が良ければ、女の子のグループとお近づきになれればという淡い期待もどこかにあった。
 他愛のない会話の相槌を打ち、ブラブラとグループの最後尾を歩きながら、野村は頭の片隅で思い出していた。
 来週末は鷹千穂学園の文化祭だ。
 美しい女人にそれとなく問うと、
「どなたでもどうぞ」
 と言われた。
 わざわざ学生服指定ではないだろうから、身元がバレる心配はない。
 行ってみようかと思いながら、呼びかけられた会話に生返事を返した時、視界の端に見覚えのある車が横切った。
「あれは」
 あの車だ。
 貴妃と呼ばれる小山内園美と関わりがあると思われる女の乗る車。
 それが街路樹の向こうにあるホテルの地下駐車場に吸い込まれていくのを見て、野村は咄嗟に約束を反故にしてクラスメイトと別れた。
 どうも気になって仕方なかった女。その女の素性が知れるかもしれない。
 特段気負うこともなく、ホテルの中に入り、ロビーやフロント、開放的なラウンジを見渡した。
 特に悪目立ちするような服装でもない。安っぽいがジャケットにパンツ。多少動きやすいようにダボッとしているが、だらしないという程でもない。
 野村は、特に自然を装いながら廊下を歩いた。
 目当ての女は、何処へ行ったのか皆目見当もつかないが、慌てる必要はない。
 その女を探し出せなくても、このホテルの中に女に繋がる何かを探せばいい。
 ロビーの案内板を見つけて、パーティ会場などの場所を確認する素振りで、時に腕時計を見ながら人待ち顔を作る。
 幸い週末。人も多い。幾つかのイベントが予定されているようだ。
 結婚式もあるようだ。浮足立った年若い男女のグループが幾つか、ロビーや廊下で談笑している。
 最も人が集まっているガーデンパーティを遠巻きに見たが、談笑している身なりの良い一群を守るように周囲を固める数人の抜け目ない視線にたじろいで隠れた。
 ここでホテルからつまみ出されては元も子もない。


 他を確認しようと動き出して不意に、目の前を女の子が通った。
 長く伸ばした真っすぐな黒髪が目を引く。
 正確に言えば、少女を抱いた女性が足早にパーティから遠ざかろうとしている。
 女性は少し焦ったような表情だが、それでもしっかりと大切そうに腕の中の女の子を抱き締めている。
 女の子は眠っているのか、頬を女性の肩に預けるようにして目を閉じていた。
「誰か――」
 ふと、耳をかすめた。
 何気なく振り返り、遠ざかっていくその姿が気になり、追いかけようとして足を止めた。
 靴先に、何かが当たる。
 クマのブローチだ。
 拾い上げて撫でるように触れると、クマのお腹に埋め込まれた黒い石が一瞬光る。
「何だ、これ・・・」
 小さい割に作りは精巧で、可愛いクマがどこか武骨に思えた。
 今すれ違った女の子のものなのだろうか――。
 去って行った方向をぼんやりと眺めながら、野村は考えた。
「いや、俺が探してるのは、もっと可愛くない女だったんだっけ」
 自虐的に呟いて踵を返したが、――何かが気になる。
 少女の黒髪・・・白い頬・・・閉じられた瞳と長い睫毛・・・力なく下げられた小さな手・・・抱きかかえていた女の腕と手の平・・・何か呟いていたように見える女の口元・・・。
 手の平を眺めながら考え込み、立ち尽くしていると、帽子で目元を隠すようにして近付いて来る男とぶつかりそうになった。
 辛うじて避けたが、相手は特に気に留めた風もなく、脇をすり抜けていく。
 ふいに、野村は何かを見つけたように目を見開くと、すれ違った男を振り返った。
「今のヤツ・・・」
 何か、持っている。
 左腕が総毛立つのを抑えつけるように右手で押さえ、一拍おいて追う背中を定めた。
 それは、少女を抱いた女が向かった先だ。
 指先がピリピリと痺れている。
 野村は不自然にならないよう近くの柱の陰に隠れると、男の背中を凝視して何かを感じるように五感を研ぎ澄ました。
 人相はよくわからなかったが、細面で頬がこけ、青白い肌をしていたように思う。
 室内でも取らない帽子、トレンチコート、その下は白いTシャツと汚れたジーンズにスニーカー。
 高級ホテルでは場違いと言えば場違いだろうが、そんな格好を良しとする奴もいるだろう。
 しかし、男から感じ取れるものは、そんな見た目ではなかった。
 予感は、おそらく間違いない。
 野村自身招かれざる客だ。
 周囲に気を遣いながらも、その男に気付かれないように後をつけた。
 遠く賑やかなガーデンパーティや、イベントの喧騒。行きかう来客たち。
 フロア全体を見れば人の気配は充分濃い。
 だが、野村の進む方向は、一足ごとに、人の気配が徐々に薄まっていった。
 男が向かっていくフロアの奥まった場所には、幾つかの応接セットや、こじんまりとした会議ができる程の個室の扉だ。重厚感のある設えだ。
 男は形ばかり周囲を確認すると、一つの扉へ入って行った。
 その時、その男の右手の先に見えた微かな鈍い光を、野村は見逃さなかった。
 咄嗟に周囲を見回した。
 誰もいないが、後方遠くから誰かが追って来る気配はあった。
「間に合わないか――」
 おそらく、何かを察して動いた者がいるのだろう。
 遥か背後から焦るような足音と切迫した息遣いが感じられる。
 だが、野村は待たなかった。
 素早くジャケットを脱いで右腕に巻くと、大きく息を吸って頭の中で三つ数えた。
「一、二の三っと」
 身軽にダッシュすると、男の入って行った扉を開けて中に飛び込んだ。
 あまり広くはない部屋の端には、会議用の椅子が幾つも重ねて置いてあった。
 その暗がりの中央で、女の背と何かに覆いかぶさろうとしている男の足元に長い黒髪が床を這うように流れている。
 振り上げられた男の手に光る何かが見えた。

 野村は身を屈めて加速をつけた。

 少女に覆いかぶさろうとしている男の顔めがけて、ジャケットを叩きつけるように拳を振るい、怯んだところを男の右手を蹴り上げるようにして自分の右足を振り切ると、間髪入れず野村は吹き飛ばした男目掛けて突進し、男の右手を鷲掴みにすると背に回して、身動きが取れないように床に組み敷いた。
 思った通りだ。
 男の右手には、何か薬を注入するような用具が握られている。
 特殊なものだ。
 裏付けるように、男の右手からも体臭からも嫌な臭いがしている。
 野村が顔を上げると、先程小さな女の子を抱き締めていた女が床に座り込んで茫然としている。
 突然現れた野村の存在を、はっきりと認識していないようにも見える。
 その膝元には、力なく四肢を投げ出すようにして横たわる少女がいた。
 この状況で目覚めないところを見ると、何かで眠らされているのかもしれない。
 薄暗い光でも分かる見事な長い黒髪がうねるようにして床に流れ、白く細い腕がその上に投げ出されている。


 正直、野村には状況がよくわからなかったが、とにかく自分が『女の子を助けた』んだろうことはわかった。
「何だかわからないけど――」
 一先ず、組み敷いている男を捕らえておかなければならない。
 野村の力をはねのけようと、何か叫びながら男が下から突き上げようともがいている。
 思った通りだった。
 誰かが近づいて来る。
 野村は組み敷いている男を押さえる手に力を込めて戸口を見た。
 間髪入れずに飛び込んで来た女は、少女を追って来たのだ。
 尋常ではない様子に顔を歪めながら、暗がりに目を凝らして明かりをつける。
 部屋が明るくなると、野村の視界もはっきりと色を帯びた。
 床に座り込んだ女は反応できない様子で、野村に組み敷かれている男を見ている。
 後から来た女もパーティの出席者だろうか。薄っすらと化粧を施し、髪を一つにまとめ、綺麗な淡いピンクのワンピースだ。
 走り寄り横たわる少女の体を抱き上げ、生きているのを確認すると胸にしっかりと抱き寄せ、真っ先に野村の存在に集中した。
 一見して高価な身形と分かるが、その双眸は鋭く、殺気さえ感じられる。
「お前は誰だ。何故、ここにいる」
 女・・・鷹沢綾は、野村を見つめた。
 その瞳は、不思議な光を帯びている。
 野村は即答できず、唾を飲んだ。
 綾はそう問いながら、すぐ後ろにうずくまっている葵の無事を確認した。
 葵は、少女を抱きしめる綾の後ろで震えていた。
「お前は、誰だ」
 再度、綾は問うた。
 一瞬、右手を自分の腰の後ろに回したが、いつものポーチはつけておらず、丸腰だと確認して顔を歪めた。
 胸に抱いた少女を一層強く抱きしめる。
 野村は少しとぼけたような表情を見せた。
「そう訊かれても仕方ないけど、まず問題はこの状況だと思うんだけどな」
 故意に軽口を言うように上体を起こした時、一瞬、信じられない光景に目を見張った。
 一瞬のことだ。
 気を取られた一瞬、野村の手の力が削がれ、組み敷いていた男の咆哮が部屋に響いた。
 男は、野村を押し退けるようにして逃れると、綾の腕の中にいる少女目掛けて突進し、右手を振り上げ襲い掛かった。
「危ない!!!」
 野村は叫んだ。
 叫んで即座に男を追った。
 ほんの数メートルしかないと思われる距離が、絶望的に遠く感じられた。
 だが、怯んでいる暇はない。
 少女を抱き寄せて、向かって来る男に構えを取る綾に、野村は声を張り上げた。
「違う!!! 後ろだ!!!」
 野村の切迫した声が響いたが、綾は咄嗟に何を言われたのか分からなかった。
 次の瞬間だ。
 その一撃は避けようがなかった。
 葵の振り上げたナイフが、綾の背後に振り下ろされた。
 綾は反射的に少女を抱え込み、庇うように伏せた。
 その無防備の背中を、焼け付くような感覚が走る。
 鋭利なナイフが背中を這い、大きく斜めに走り、絹が裂かれるような鈍い音が響いた。
 火をあてられたような激痛が右肩から背中を斜めに走り、左脇に達した。
 何が起こったのか、分からなかった。
 ただ、胸に抱いた少女の身体を守るように抱きしめた。
「くそっっっ!!!」
 野村は間に合わなかった歯がゆさを噛み締めながら、咄嗟に自分の腰のベルトを取り、狂った咆哮を上げる男の右手を背後から掴んで捻り上げると、勢いが削がれた所を左手も取って合わせてベルトで括り上げてしまい、気合一声、渾身の力を込めて男の身体を持ち上げ、遠く壁際目掛けて放り投げてしまった。
 片隅に積み上げられた椅子が、大きな音を立てて崩れる。
 だが、それで終わらない。
「やめろぉぉぉぉぉ!!!」
 野村の切迫した声が、響いた。
 背中に受けた激痛に耐えながら襲撃の方向を確認しようとする綾の目の端に、鈍い色を発するナイフを振り上げる葵が映った。
「葵・・・何故・・・」
 葵の顔は苦痛に歪んでいたが、振り上げたナイフは止まらなかった。
 庇うように少女を抱きしめ、切り裂かれた背中を向けるしかなかった綾の髪が解けてその背を覆った。
 葵の表情は、苦悶に歪んでいた。
 まるでナイフを振り下ろす行為自体に嫌悪を感じているようだ。
 だが、ナイフは振り下ろされた。
 野村は、すり抜けるようにして綾の背後に滑り込むと、立ちはだかるように綾と葵の間に割って入った。
 振り下ろされたナイフが鼻先を通って右頬をかすめ、捕らえようとして右の二の腕を切り裂いたが、その傷をものともせず、野村は葵の両手を拘束するように鷲掴みにすると、微動だにせずその目を睨んだ。
「やめてくださいって、言ってるんですけど――」
 怒気を含んだ静かな声が、一瞬だけ葵の動きを止めた。
 投げ飛ばした男は、まだ獣の咆哮を上げながら、身を悶えて縛りを解こうとしている。
 葵はその声に急かされるように、ナイフを持つ手に力を込めた。
「放しなさい。邪魔をしないで!!!」
 怒鳴る葵に、野村が怒鳴り返した。
「邪魔しますよ、当たり前でしょう!!! こんな事、黙って見ている訳がない!!!」
 抗う力をねじ伏せるように握りしめて、野村は葵の眼を真っ直ぐに見つめた。
 正論をぶつけ、青ざめた女の前に膝をつき、その右手を掴んで力を込めた。
 虚しい音を立てて、ナイフが床に落ちる。
 だが、それでもなお、野村は手を放す訳にはいかなかった。


「大丈夫ですか。誰かを呼ばないと――」
 葵の手首を掴んだまま、野村は背後にうずくまる綾に声をかける。
 短く大丈夫だと答える綾が、弾かれたように顔を上げた。
 壁際の暗がりで妖気が蠢いた。
 狂った咆哮。澱んだ空気。ねじ曲がった凶器が動いた。
 野村に放り投げられた男は、しかし、後ろ手に縛られながらも立ち上がり、間髪入れず襲ってきた。
「くそっっ!!!」
 野村は迷った。
 今掴んでいる手を放せば、確実に誰かが傷つく。
 掴んでいる葵の手を放せないまま、なんとか庇おうと身体を寄せると、その動きを制するように一瞬背中に細い指先を感じた。
 遠く、廊下の向こうから足音が複数聞こえる。
 綾は、少女を右腕で抱きしめて向かって来る男から隠すように身体をひねると、背中の痛みを感じながら左手で目の前に転がっているクマのブローチを掴み、男の顔面めがけて投げつけた。
 無理な体勢からのささやかな反撃だ。
 ダメージは皆無だ。狂気に満ちた濁った眼が、目前に迫る。
 だが、その一瞬で十分だった。
 綾の眼前に迫った男の顔に、銀色の閃光が重なった。
 綾の左側に現れた桜が正拳突きで男の顔面を捉えると、右側から蛍が糸のようなもので男の足をがんじがらめに縛る。
 のけぞった男の身体が一瞬、床から浮いた。
「なに、してくれてんのよ」
 低く唸るように呟きながら、桜が回し蹴りで男を部屋の端まで吹き飛ばした。
「大丈夫ですか、お嬢様。お怪我を・・・」
 蛍が跪いて、崩れかけた綾の身体を支えた。
 腕には少女を抱えたまま、解けた長い髪が床を這い、露わになった背中は右肩から左脇を真っ直ぐ刃が通った痕が生々しく、鮮血が流れていた。


 異変に気付いて駆けつけた者たちが見たのは、一種異様な光景だった。
 部屋の隅から両腕を背中で縛り上げられジタバタと蠢く男の咆哮が響く中、葵の両手首を掴んで何かを制止している野村がいる。
 そして、少女を抱えたままうずくまる綾の背中に蒼白となった。
 野村は、次々と駆け付ける人の波を目で追いながら、少なくともこれ以上、背後の二人は危険ではないことを覚った。
「良かった、間に合った。動けなくて、どうしようかと思ってたんです、俺――」
 葵の両手首を握りしめ、同じ姿勢を取り続けながら、野村は安堵の表情を見せて、肩口に見える蛍に声をかけた。
 一先ず最大の危険は回避できたと思った野村は、しかし次の瞬間呻いて硬直する。
「お前、その手を放しなさい。首をへし折るわよ」
 桜が野村の背後に立ち、銀の籠手をはめた腕を首に回して締め上げる。
 鷹沢士音は、娘の傍に膝をつき、上着を脱いで娘の背中からかけ、眠っている幼子に手を伸ばした。
「綾、――を離しなさい。お前の傷も早く手当てをしなければ――」
 だが、綾は頑なに幼子を抱き締めて離さない。
 士音は、幼子を抱いたままの娘を上着でくるむようにして包むと、片膝を立てて支えた。
「とうさま・・・」
 綾の擦れた声を聞き取るように士音が娘を引き寄せた時、背後で叫び声が上がった。
 葵のようだ。
 驚いて肩口から後ろを確認すると、桜に締め上げられる自分の首を庇うこともせず、ひたすら葵の両手首を握りしめて硬直している野村がいた。
 そして葵は叫びながらも、掴まれている手首を振り払おうと必死であるが、その表情もまた絶望的なまでに悲哀が滲んでいる。
 野村は必死に、葵の手を掴み続けた。
「しぶといわね。さっさとその人を放しなさい」
 桜は一層締め上げるように野村の首にかけている腕に力を込めた。
 野村はエビぞりさながらにのけぞりながらも抗った。
「ちょっと、待った!」
「待てないわね。さっさと手を放しなさい」
 桜がすごんだ。容赦はない。
 野村が焦る。
「待って、待って、待ってください。今、俺が手を放したら彼女、死にますよ!!!」
 野村の大声に・・・というよりは、その切羽詰まった口調に、桜の、そしてその周囲で彼から葵を引き離そうとしていた者たちの動きを止めた。
「俺がこの手を放す前に、彼女から刃物を取り上げてください。全部!!!」
 士音は耳元に届く娘の言葉をはっきりと受け取っていた。
「中津、会場警備を徹底しろ。狙いはこちらではないかもしれない」
 正面に立つ中津守弘に指示をしたが、反応がない。
 中津は、士音が抱えている綾の青ざめた横顔以上に蒼白となり、呆然と立ち尽くしていた。
 見咎めて、士音が周囲を憚りながらも低く唸るように抑えながら、眼光鋭く射抜いた。
「守弘、お前が狼狽えてどうする!!」
 臓腑に響く声に、やっと我に返ったような中津に、背後から部下が声をかける。
「御前の側には桔梗がおります。我らにお任せください」
 角刈りにサングラスの男は、手短にそれだけ言うと、中津に頷き、士音に向かって一礼すると数名を引き連れて出て行った。
 残っている数名も、戸口に群がる野次馬を遠ざけるように追い払ったり、ホテル関係者に指示をするなど慌ただしく動いている。
 それを横目に染井英夫は、取り押さえられている葵を見下ろしながら中津の傍に立った。
「中津くん、頼みがある。会長――」
 染井の視線を察して、士音が頷く。
 染井は中津の腕を引き、何かを耳打ちした。
 一瞬、驚いたような顔を見せた中津が、足元の葵の横顔を確認し、士音と視線を合わせて静かにうなずいた。
「わかりました。すぐ、確認いたします」
 残る部下や警備に指示を残し、中津は急いでその場を離れた。
「海堂」
 と、士音が側近を呼ぶ。
 目尻にシワが目立つ初老の男が低く身をかがめながらにじり寄り、指示を余さず聞き取ると、小さく承知し、染井を見て促すようにお辞儀をした。
「頼むぞ」
 と念を押すように言い終えた士音に一礼し、先に立った染井の後ろに続く。
 部屋の隅に転がる男を捕らえる者達が、力任せにやっと抑えつけている。
「柊」
 士音は背後に向かって、控えているメタルフレームの眼鏡をかけた色白で細身の青年を呼んだ。
「柊、葵を」
 短い指示に応えると、この喧騒の中で、柊は、まるで存在を感じさせないたたずまいで、葵から刃物を取り上げると、そのまま自分の懐に収め、野村に小さく声をかけ、葵の両腕を取って背部に回した。
 一瞬、葵がパッと顔を上げて柊を見つめ、暫し微動だにしなかったが、柊が一言耳元で囁くと、先程までの興奮したような状態が嘘のように、柊の膝元にうずくまり、ただ茫然と視線を床に向けて脱力する。
 柊は、そのまま特に力を入れている風もなく端然とその姿のままとどまった。


「桜、彼を放しなさい」
 士音は静かにそう命じ、視線を野村に合わせた。
 野村は、渋々放す桜に申し訳なさそうにヘコヘコと頭を下げながら、首をさすり、息を整えた。
 周囲が慌ただしい中で、野村を取り巻く極限られた空間だけは静かだ。
 中でも、紳士の持つ雰囲気は、別格だ。
 少女と、少女を抱えたままの綾は、姉妹に見えなくもない。同じように真っ直ぐ伸ばした美しい髪は、まるで質も色も違って見える。
 だが、目前の紳士と綾が父子だということは、野村にも分かった。
 光に映える栗色の髪の質もそうだが、その瞳の奥の光は間違いなく遺伝だ。
 周囲を右往左往している者達は、明らかにこの三人を守るように動いている。
 部屋には入らず、外から覗き込むように見ている野次馬とはまったく別だ。
 一瞬、野次馬の中に探していた女がいたような気がしたが、はっきりとはしなかった。
「キミは、誰だね」
 静かだが、よく通る声で問われる。
「やっぱ、そこ、訊かれますよね」
 冗談でしのげればと思って軽く流すが、その口調とは裏腹に目前の紳士の視線は厳しい。
「キミが助けてくれたと娘が言っている。本当に助かった。ありがとう。それで、キミは誰だね」
 やはり親子なのだと得心しながら、野村は答えに窮した。
 あくまでも、
「ただの通りすがりの高校生です」
 と誤魔化そうとするが、さすがにこれで逃れられる様子ではなかった。
「本当に、偶然、通りかかっただけなのかね」
 士音が重ねて問う。
 咎めているという口調ではない。
 ただ、状況がわからないだけに、一先ずそう問うしかないのだろう。
 野村は恐縮したように、ヘコヘコと頭を下げた。
「そうです。偶然通りかかったものなんで、これで――」
「怪我をしているのか」
 士音が、野村の右頬と右腕に気付いた。
 野村は、その指摘でやっと自分が怪我をしていることに気付いたようだ。
 特に痛みは感じない。
「あ、お構いなく。こんなのかすり傷ですので」
 笑顔で手を振って見せたが、放っておいてはもらえなかった。
 蛍が無言で桜にハンカチを渡し、桜はそれを渋々止血するように野村の腕に巻いた。
 また締め上げられてはたまらないので、ジッと大人しくされるままに腕を出し、野村は目の前の光景をただ見つめた。
 葵は気が抜けたようにその場に座り込み項垂れている。
 手足を縛り上げられて、数人の背広姿に引き起こされている男を見ると、どうも正気とは思えない目つきで、士音の腕の中の長い黒髪を凝視しているように思えた。
「気を付けた方がいいですよ。まともな感覚とは思えないので」
 野村が士音に声をかけると、士音が頷くよりも早く、警備の数人が加勢に加わり連れて行った。

シューティング・ハート ~彼は誰時 (カワタレトキ) Ⅷ  野村岳

シューティング・ハート ~彼は誰時 (カワタレトキ) Ⅷ  野村岳

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-14

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著作権法内での利用のみを許可します。

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