天壌の姫 一幕「君が、いるから」 四終

  第四話

「ねーマサツミ、ほんとーによかったの?」
 あどけない声が、無邪気に鼓膜を震わせた。
 ビルの屋上で佇んでいた雅積は、ただ一点を見つめたまま、声を返す。
「いいんだよ、ウサギ。全部、これで、な」
 すべては、ただ一人の少女が望んだことだ。
 雅積にとっても大切な彼女の望みは、たとえ彼がどう思おうと、決して彼には邪魔できない。
(おまえは、これでいいんだろ……?)
 被検体として。
 たった一人の少女として。
 彼女は、一人の少年を愛して、その最後に、死をもって愛を形にしようとしている。
 それを、いったい誰が責められようか。
 誰が、間違っているなどと言えようか。
 いずれは、愛する人と別れなければいけない。それはあまりに理不尽な別れだろう。
 なら、彼女が選べる道は限られている。
 それがどんなにつらいものだろうと。たとえどんなに、悲しかろうと。
「いつかは、オレもなんだよな」
 分かっていることだ。
 被検体と感染者は、遠からず必ず互いの人生を違える。
 感染者が死ぬことで、二人は別れなければいけないのだ。
 それは、誰であっても例外ではない。
(オレも、ウサギと……)
 今、あの地下にいる少女は確かに選んだ。
 彼女が望む、最後の結末を――
(……おまえは、言ったよな)
 少女に恋した少年は、何度問われても、信念を揺るがさなかった。
 挙句には、世界を敵に回してもいいと、決意して。
 その決意は、雅積から見れば、確かに歪なものだ。七年間も離れていた少女のことを思い続け、命を賭けられる少年の気持ちなど、とうてい彼には真似できない。
 本当なら、雅積はそんな少年に何かを言えるような人間ではないのだ。それは彼自身、自覚している。
 雅積は、決められていない。
 ウサギとの最後を、どう迎えるか。
 それを決めるだけの勇気を、彼は持っていなかった。
「どうしたのー? 怖いよー?」
 無邪気に、ウサギが顔を覗いてくる。
 ウサギのほころぶ口元と、柔らかい赤い瞳を見つめて、
「大丈夫、何でもないさ」
 心地のいい小さな頭を撫でて、穏やかに伝えた。
 それから、夜空を仰ぐ。
 雲一つない薄闇の中、煌々と星たちが輝いている。
「なあ、教えてくれよ」
 被検体である少女は、自らの感染者と再び出会うためにこの地に帰ってきた。
『Dストーン』を壊せるのは、その影響を受けた感染者のみだから。
 そして、愛した感染者に、自らを終わらせてほしいから。
 けれど、雅積は思う。
「おまえらは、それで幸せなのか――?」
 

「よォ、どうしたよガキ! んなンじゃァ、てめェのミカおねえちゃんは助けらンねェよなァ、ああン!?」
 とてつもない衝撃が、腹部を襲った。
 次いで、髪を思い切り掴まれては、頬を無遠慮に殴られる。
「ッ、がは――ッ!」
 逆流してくる胃液をどうにか押し留め、膝をついた体勢のまま、由貴は目の前の敵を見上げた。
 嘲笑に顔を歪めた天童爾が、確かに、彼を見下している。
 痛みで震える目で睨み付けた矢先、
「けはッ!」
 鋭い爪先で、腹を蹴られた。
 ちょうど鳩尾に入ったらしく、激痛と吐き気が込み上げる。
「弱ェ! 弱ェよガキィイイイ!」
 笑い声に鼓膜を震わされながら、ただ、かすむ視界に彼女を映すことしかできなかった。
 目の前にいる彼は感染者だというのに、これまで、一度も能力を使っていない。契約した少女(ひけんたい)もいるはずだろうに、その姿が見えないことから察すると、彼はこう判断したのだろう。
 斑由貴を止めるに、能力は必要ない。
 つまりは、侮られているのだ。由貴という人間の、存在そのものを。
(ふざ、けるな……)
 すぐそこで、彼女が声を上げて、泣いている。
 必死に心配してくれて、ぼろぼろと、涙を流している。
 そんな彼女を前にして。
 そんな大事な女性(ひと)の姿を前にして、これ以上、無様な真似は許されるはずがない。
 だが、
「ぅ、ッぐぁ」
 顔面を容赦なく蹴られて、声を漏らす。
 体は、すでにぼろぼろだった。この一方的な戦いが始まって、もう十分弱が過ぎている。体中を蹴られ、殴られ、踏みつけられ。そこら中に青紫の痣を作りながらも、この戦いが終わることは、ない。
 それは、由貴が、決して諦めないからだ。
 絶対に、諦めるわけにはいかないからだ。
「……ッ、ミカおねえちゃんは、おれが……」
 立ち上がろうとした瞬間、ぐいと髪を掴まれる。
 苦痛に顔を歪めながらも、信念を込めた視線だけは、頑なに消さなかった。
「まァだ、立ちやがるってのかァ? いい加減諦めちまったらどうだ? ああン?」
 力量の差は、歴然としている。
 互いに能力すら発現していないのに、ただの肉弾戦だけでも、由貴に勝ち目と言えるものはほとんどない。
(けど、けど、まだ……)
 そう思うも、
「ッく!」
 髪を離され、腹部を蹴飛ばされた。
 衝撃に堪え切れず、そのまま倒れ込む。
 それでもまだ立ち上がろうとすると、
「そろそろウゼェんだよ、てめェ。ただのガキがオレに勝つってか? ンなクソみてェな冗談なんざ、ぜんッぜん笑えやしねェンだよ!」 
 うんざりしたような声を、かけられた。
「ガキはガキらしく大人しく言うことでも聞いてりゃいいんだよ。だからてめェは利口じゃねェ。ただのクソだ、このクソガキが!」
 まるで吐き捨てるような、罵倒。
 だが、結局は、そんなことはどうでもいい。
 大人だから何だ?
 子供だから何だ?
 そんな区別は、ただの戯言でしかない。今、大切なことは、たった一つだけのはずなのだ。
(守りたい……!)
 その思いが、大事な思いが。
「守り、たいんだ……」
 決して潰えないこと、それこそが、最も大事なことである。
「まだ、言いやがンのか」
 呆れたように、爾が呟いた。
 ゆっくり、ゆっくりと立ち上がる由貴に、荒い音を立て、爾が近づいてくる。
「仕方ねェ、アア、仕方ねェよなァ」
 一歩、二歩と。
 歩み寄ってくる敵の顔を、真っ直ぐに見つめた。
「もう手遅れなンだよなァ、てめェはよォ。ここまで来たら、ヤッちまうしかねェじゃねーか」
 甲高い声を鳴らして。
 由貴の数歩前で足を止めると、
「だから、いっぺん死ねよ、クソガキ」
 そう吐き捨てた瞬間、

 不意に、室内の照明が光を消した。

「ンだこりゃア!」
 怒鳴るように、そんな声が上がる。
 何が起きたのかは分からない。ただ分かるのは、ここにいる誰でもない、『誰か』がこの事態を起こしたということだけだ。
 でも、それが『誰か』を考える余裕など、由貴にあるはずがない。
(今しかない!)
 思い立つや、全力で駆け出した。
 今まで彼女に近づくことすらできなかったのだ。なら、この事態(ハプニング)を利用しない手など、ありえない。
「どこだァ!? どこに行きやがった!」
 足音で分かったのだろう、すかさず、爾が怒声を上げる。
 それを無視したまま、残る力を振り絞って、ただひたすら彼女の元へ走った。
 どれくらい進んだだろう、またも不意に、天井から明かりが降ろされる。
 暗闇の中を走っていたせいで立ち位置が覚束なかったが、ようやく、自分がどこにいるかをまともに確認できた。それは爾も同じようで、こちらに気付くや、睨みつけてくる。
(もう、少し。もう少し、なんだ)
 右肩に巻かれた包帯に、血がべっとりと滲んでいる。
 さっきの爾からの攻撃(ダメージ)のせいで、体は困憊し切っていた。だからと言って、こんなところで追いつかれるのも、まして諦めるなんてことは、できない。
 彼女との距離は、残り数歩分。
 後少し踏ん張ってがんばれば、彼女に届くことができる。
「待ちやがれクソガキィ!」
 背後から、けたたましい声が聞こえた。
 だが、それを聞けるはずがない。
 ようやく、彼女の元にたどり着けるのだ。
 ようやく、彼女を助けてあげられるのだ。
 たとえここで自らが死のうとも、絶対に彼女だけは助けてみせる。由貴は初めから、そう覚悟を決めていた。
「ミカおねえちゃん!」
 叫ぶと同時、
 最後の一歩を踏み出して、彼女の頬に手を寄せた。
「ゆうくん……っ」
 涙を流しながら、彼女は答えてくれて。
「ゆうくんの本当の力を、使って……」
 その確かな声に。
 由貴は、静かに答えた。
「絶対に、ミカおねえちゃんを守るから」
 重なった二つの唇は、
 今は確かな、愛の証だった――

 柔らかな温もりが、唇からゆっくりと離れていく。
 彼の微熱を感じながら、そして傷ついたその体に涙しながら、美香は振り返った彼の背を見つめた。
 ああ、いつの間にこんなに大きくなったのだろう。
 そんなことを、場違いにも思う。出会った頃は彼女よりもずっと小さくて、けれど今は、こんなにも成長している。彼女の知らない間に、すごく頼もしく。
 ただ、どこまでも素直で、優しいところは変わっていない。
 彼女が好きになって、そして、最も恐れているその部分だけは、何一つ成長していなかった。
(ゆうくん……)
 だから、彼女の思いは、まだ複雑なまま紐解けない。
 彼の思いを利用して、彼に何も教えないまま、勝手に願いを叶えようとしているなんて。
 その幸せが一番だと考えつつ、彼に悲しみを与えてしまうと分かっていながらも、どうしようもないなんて。
(でも、わたしには、もうこれしかない)
 彼女の心臓に埋め込まれた『Dストーン』――その『石』を壊せるのは、現状、その『Dストーン』によって生み出された感染者しかいないと言われている。ただこれは、あくまで可能性の話でしかない。だからと言って、どの選択をとっても死が付き纏う被検体と感染者には、他に選べる道など、ないに等しい。
 絶望だけは見たくない。だから、自身の『幸せ』を先に希う。
 それが、風音美香の選択した道だ。
(ゆうくんが死んでしまう瞬間(とき)を見るぐらいなら、いっそ、わたしが……)
 恋をして。
 愛を知って。
 誰かを好きになったからこそ、この道を選ぶしかない。
 彼女が一人の少女として選べ得る道は、ただこの一つしか残されていなかった。
 目の前の彼の瞳には、力を発現したとき、『五芒星』ではなく『六芒星』が描かれる。彼女は、その真実を、彼に教えていなかった。わざわざ雅積にまで、協力してもらいまでして。
 本当は、過去に一度だけ、研究所の実験で『六芒星』の模様を瞳に浮かべた人物がいる。
 その彼は、被検体00と呼ばれた少女と契約を結んだ少年で。そして、感染者第一号として、一番最初にΩ暴走を起こした人間で。
 その彼がΩ暴走を起こしたその最期に、彼の瞳から今までの星の形が消え、『六芒星』が確認された。
 その形は、つまり、死の形なのだ。
 ただの一度だけ確認された、死を表す『六芒星』。
 その模様が、覚醒した初めから、彼女の愛した彼に浮かんでいた。
 初めからその星を瞳に持っているなんてことは、研究所は知らないはずだろう。だから、彼ばかりは、未だ不確定要素に満ちている。
 でも、一つだけ、彼女は直感していることがあった。
 彼の死期は、近い。
 たぶん他の感染者の誰よりも、近づいているだろう。
 根拠と言えるものは何一つなく、ただ漠然とした直感だが、それは逃れえない運命(さだめ)のように思えた。
(だから、)
 幸せを叶えるために。
 この愛を、二人を繋ぐ永遠(とわ)の絆とするために。
(わたしがゆうくんを、
 そして、ゆうくんがわたしを、

 ――殺すの)

 
 冷ややかな冷気が、頬を撫でた。
 風が吹いたわけではない。まるで纏わりつくように、肌に絡み付いていた。
「力ァ使えるようになったからっつって、てめェに勝ち目があるとか思ってンのかァ?」
 嘲るような声に、由貴は心を落ち着ける。
 ここで焦ってはいけない。冷静に、あくまで集中を一点に集めることが大切なのだ。
(頭に、思い描いて)
 想像するは、一本の槍。
 大地から聳える、鋭い武器。
 あの日、雅積から教えてもらったことを思い出す。
 一言一句違うことなく、はっきりと。
 ――力に必要なのは、想像力だ。おれたちは、おれたちの認識している何か一つのものを、自在に操ることができる。
 由貴で言えば、それはあの日作り出した『土で生み出した槍』のことだ。『認識している大地』を操ることで、一本の槍という形を作ることができる。ただそのためには先に頭の中で『何を創造するか』を想像(イメージ)しなければいけない。
『Dストーン』が感染者に与える能力は、二つだけだ。
 一つは、感染者に『自身の認識している物体』を一つだけ操らせる力。
 もう一つは、『その物体で思い描いた何か』を現実に具現化させる力。
 その能力(ちから)を上手く使うための鍵は、想像力と集中力だ。より鮮明に、より完成した『何か』を思い浮かべて、現実にその思い描いたもの(イメージ)を反映させる。脳の限界まで挑み、そして屈しない強い精神力が必要なのだ。
 だから、由貴は一つ、雅積から大事なことを教えられている。
 ――勝つことだけを考えろ。どうやれば相手を殺せるか、それだけを考えてればいいんだよ。
 自分が死ぬことなど、考えている暇などない。まして手加減をできるほどの余裕など、集中している人間にあるはずがない。
 ただ力のすべてを、一点に集中させればいいのだ。
 自分が勝てる方法を。死なないための方法を。そして、大切な人を守れるための術を。考えることなど、たったそれだけしかない。
(おれが、ミカおねえちゃんを守るために……)
 そのために必要なものは、ただ相手を倒せる力のみ。
 由貴がその手に掴む、彼だけの武器。
「具象しろ――」
 呟きとともに、地面から一本の棒が聳える。
 それは先端に鋭い鏃を備えた、決して折れることのない、強い思いの込められた槍だ。
 鈍い銀の輝きを放つそれを、しっかりと掴み、背後を振り返る。
 そこにいた彼女の瞳を見つめ、細い手足を拘束していた鎖を断ち切った。厚い鉄の輪は、けれど、まるでバターを切り裂くように、あっさりと斬れる。
「ゆうくん……」
 涙を止め、呆けたように見てくる彼女に、由貴は静かに微笑む。
 言葉はいらない。すべては、彼女を助けるためだけだ。
「ナンゆっくりしてやがんだよ、クソガキがァ。雑魚が粋がってンじゃねェぞ」
 荒い声に振り向くと、ひどく不快そうな顔つきで、爾が睨んできていた。
 だが、今なら、由貴が負けることはない。
 能力を発現した由貴が、発現していない爾に、負けるはずがないのだ。
(絶対に、助けてみせる)
 これは生きるか死ぬかを賭けた、命懸けの戦いだ。
 大切なものを守れるか否か、そのための戦いだ。
 そして、この戦いで、負けることは許されない。必ず、彼女を守らないといけないのだ。
 たとえ、自らの命に代えても。
 不意に、爾が唇を吊り上げた。
「いいぜェ。てめェの顔(ツラ)ァ、いイィ感じにキマってンじゃねェか」
 言いながら、ポケットに手を突っ込んで、何かを取り出す。
「だよなァ、やっぱ命っつーのを賭けねェと、こんなんは面白くねーよなァ」
 透明なケースから、いくつかの錠剤を取り、口に放り込む。
 それをばりぼりと噛み砕いて、飲み下した。
(何だ、あれは)
 錠剤だったところを見ると、何かの薬だろうことは分かる。
 だが、あれは何の薬だ?
 なぜ、今になって、そんなものを飲む必要がある?
 答えは、すぐに知れた。
「なっ……!」
 声を漏らすと同時に、爾の瞳から、赤い光が迸る。
 それは、確かにあの光――感染者の瞳に浮かぶ、真っ赤な五芒星の光だ。
(何、で……)
 爾の傍に、被検体はいない。
 爾はまだ、『鍵』をもらっていないはずなのだ。
 それなのに、どうして、瞳に五芒星が浮かぶのだろう。どうして被検体も傍にいないのに、力が発現するのだろう。そんなことは、間違いなく、ありえないはずだ。
「きゃはッ! きゃハハハッ! 驚いてるぜェ! めちゃくちゃ驚いてやがンじゃねェか! ンな腑抜けた顔(ツラ)しやがって、さっきの顔はどこ行きやがった!?」
 笑いながら、続ける。
「オレが力使えねェとか思ってたンだろ? ああン? はッ、ンな訳ねェだろ、クソが! 制御できねェ力の研究ッつーのはな、制御できるようにする研究すンのが当たり前なんだよ。せめて力の発現を遅れさせる薬があるっつゥことぐらい予想しとけよアホが!」
 力の発現を遅れさせる薬。
 そんなものの存在は、彼女からも、雅積からも、一言も聞いていない。
 不意に振り返ると、彼女が唖然とした表情で爾を見つめていた。どうやら、彼女はその薬のことを知らなかったらしい。すでにこの場から逃げるための算段をしていただけに、あまりに悔しくて、下唇を噛み締める。
「ンじゃあ、おっぱじめようじゃねェーか。もォ、手加減はいらねェよなァ?」
 瞬間、何かが弾けるような音がした。
 鼓膜を叩かれ、目を瞑りかける。だが、くすんだ銀の地面をとてつもない速さで駆けてくる爾の姿を視界に入れて、留めた。
(はやっ……)
 思いかけたときには、すでに目の前に爾の顔があった。
 ただ何もできないまま、胸倉を掴まれ、信じられないほどの力で爾の立っていた方へ投げ飛ばされる。
「ん、が……」
 呆気なく、彼女から離されてしまった。
 それだけではない。次いで、右の手の平をこちらに向けた爾が、
「圧縮! 圧縮圧縮圧縮圧縮圧縮圧縮ゥ――!」
 声が止まるや、目に見えない『何か』が、その手の平から飛んでくる。まだ宙に浮いている由貴に向かって、ぐんぐんと距離を縮めて。
 それが体の側面にぶつかったとき、まるで車に轢かれたような衝撃が、体を襲った。宙を浮いたまま、勢いよく吹き飛ばされて、壁にぶつかる。
「ぐ、がぁ」
 肺が圧迫されて、声すら出せない。
 後頭部と右腕、それから腹部や背中を強打し、もしかしたら右腕の骨が折れたかもしれない。それほどの痛みに襲われ、由貴は地面に落ちた。
(何、が、起き……)
 覚束ない思考を無理矢理に動かし、今起きたことを考えようとする。
 だが、
「立てよ、ほらさっさと立ちやがれよガキ! まだくたばンには早過ぎンだろが!」
 おかしそうに、楽しそうに笑い声を上げて。
 爾が、また手の平を向けてくる。
 さっき、由貴を襲った『何か』の正体は分からない。ただ、明らかに周りの空気とは違う異質なそれの大きさだけは、はっきりと見て取れた。あの『何か』は、直径が由貴の身長の半分ほどだった。つまり、決して避けられないほどの大きさではないのである。
(立た、ないと。立って、逃げないと)
 必死に、衝撃の負荷で力の抜けた足を、奮い立たせようとする。
 どうにか膝をついたときには、すでにあの『何か』が放たれていた。
「どォしたア! 避けねェと死んじまうぜェ!」
 声に急かされるように、爪先で思い切り地面を蹴ろうとする。
 だが、それはまだ勢いが足りなくて――
「カハッ!」
 再び、壁にぶつかる。
 背中をしたたかに打ちつけて、ずるずると腰を落とした。
(……ッ!)
 全身を駆け巡る激痛に、思考すらままならない。
 今まで体験したことのない苦痛に、けれど歯を食い縛って、立とうとする。
「次だ次ィ! まだ終わンじゃねェぞ!」
 やっとの思いで立ち上がったとき、また、『何か』が迫ってきた。
 それを避けようと、右に動こうとする。
 が、足がもつれて、転んだ。
 ただ、前のめりに体が倒れてくれたおかげで、直撃は免れる。
 数秒もない差で、『何か』が由貴の足を掠めていった。ドゴン! と背後から聞こえた轟音に吹き飛ばされるように、顔面を両腕で覆い(カバー)しながら、硬い地面に着地(ダイブ)する。
「……っ」
 脇腹の骨に、殊更、衝撃が響いた。
 もしかしたら、肋骨の数本かが折れているかもしれない。その痛みを我慢しながら、音のした壁に目を遣る。パラパラと、欠けた破片が落ちていた。まるで何かに抉られたように、丸い穴が、浅く空いている。
(嘘、だろ……)
 あの『何か』には、壁を穿つほどの威力がある。
 もし、もう一度あれをまともに喰らえば、生きていられる保障など、ない。
「まだだまだァ! 次行くぞガキィ!」
 考える暇など、戦慄している暇など、一瞬さえ与えてくれなかった。
 もう二度と、あの『何か』に体を撃たれてはいけない。そのためには、立ち上がって、走るしかなかった。
(立て! 立ってくれ!)
 膝をつき立て、軋む体を強引に動かす。
 不意に、にやりと爾の浮かべた気味の悪い笑みを合図に、また、手の平が向けられる。
「そうでなきゃ、面白くねェーよなア!」
 再び、周りの空気を捻じ曲げながら、『何か』が飛来してくる。
 それも、今度は、単発ではない。
 連続して撃ち放たれ、走り出した由貴を追いつめるように、壁を穿っていく。行きつ戻りつ、どうにか六発ほどのそれを避け凌いだとき、爾自身が、飛んでくる。
 弾丸と同じような速度で由貴の目と鼻の先にまで移動し、地面からわずかに足を浮かべたまま、由貴の瞳を覗いてくると、
「ちゃんと楽しンでッか? ああン?」
 そっと腹部に手を当ててきて、
 笑った。
「ッ、がぁ!」
 とてつもない衝撃が由貴の腹部を襲い、遠く、体が吹き飛ばされる。
 壁際にいた彼女の足元まで転がり、ようやく、止まった。
「ゆうくん、ゆうくんっ!」
 慌てた声を聞いて、閉じかけていた意識を叩き起こした。
 揺らぐ視界に映る彼女の泣き顔に、どうしてか、かすかな笑みが零れてしまう。
 ここで――こんなところで、終わってはいけないのだ。彼女を助けられないまま、守れないまま、無意味に死ぬなんてことは、許せない。
 涙が一粒、頬に落ちる。
 ああ、温かい……
 この温もりを失いたくは、ない。
(おれは、どうすれば……)
 彼女を守るためには、爾に勝つためには、いったいどうすればいいだろう。
 否、それ以前に。
(おれは、何をした?)
 ただ、逃げ回って。ただ、一方的に痛めつけられて。
 そんな自分が、いったい、いつ自分から拳を向けに行ったろう?
(な、い)
 今まで一度も、拳を向けられていない。すべて、爾の攻撃ばかりを受け続け、逃げ続けていた。
 彼女を守りたい気持ちはある。でも、思いだけを募らせても、彼女は守れない。立ち向かったという思い込みだけが、頭の中にあっただけなのだ。
 由貴は、そんな自分が嫌いだ。思っているだけで、行動を恐れている自分が。
 小さかったあの時だって、初めに声をかけてくれたのは、彼女だった。決して由貴ではない。たったの一度ですら、由貴は自分から声をかけたことはなかった。
 そして、今も、由貴は自分から行動できていない。
 彼女を守ると言いながら、その行動を、心ではまだ、恐れている。
 それは、自分に自信がないからだ。何より自分自身を、信じてやれていないからだ。だから、気付かないうちに、どこかで諦めてしまっている自分がいる。そんな自分を、わずかでも、受け入れてしまっている。
(それじゃ、駄目だ……!)
 変わらないといけない。
 彼女を、ちゃんと守ってあげられるほどに強くなって。
 大事な人を、絶対に、悲しませないほどに、逞しくなって。
「ミカ、おねえちゃん……」
 そっと、彼女の頬に手を伸ばす。
 泣かせては、いけないのだ。
 彼女を泣かせないために、強くならないといけないのだ。
「大丈夫……だから、泣かない、で」
 すでに限界を迎えている体を、ゆっくり、ゆっくりと起き上がらせる。
 上半身を起こし、膝をつき、くずおれそうな足で確かに地面を踏み締める。
「まだ、まだ、やれる」
 手に持った槍を、ぎゅっと握り締めて。
 ただ真っ直ぐに、立ち向かわねばらない敵を、見つめた。
 その瞬間――

 ドクン、と心臓が波打つ。

(何、だ……)
 今までにない違和感が、体を襲った。
 何かが。
 得体の知れない何かが、体の奥底から溢れてくる。
「まァだ立ちやがンのか? いいじゃねェか、ンじゃ、次で最後にしてやンぜィ!」
 鼓動に合わせて揺らぐ視界の中で、すっと、爾が両手を頭上に掲げるのを認める。
「死に土産だ。最期に、オレの能力(ちから)を教えてやる」
 爾の頭上で、ぐんぐんと『何か』の大きさが増していくのを、左手で胸を押さえながら、見つめる。
 膨らみ続けるその勢いは、由貴の身長を越してなお、止まらない。
「オレが操れるのは、オレが『認識している風』だ。言い換えれば『空気』ッつーことにもなるな。だが窒息や一酸化炭素中毒なんかはできねェ。オレの『認識している風』は、ンな細かかねーし、ンなモン想像できねェからな」
 やがて天井に届くほどの大きさになっても、『何か』は大きくなり続ける。
「風がなけりゃァ、風を起こせばいい。空気がある限り、オレはどこでだって風を操れンだよ。つまりだ、ろくろく経験すらねェてめェなんかにゃ、最初(ハナ)から勝ち目ッつーのはねェンだよ。はッ、馬鹿なてめェでも分かったか?」
 天井から鳴り始めたミシミシという音は、けれど由貴の耳には入らない。爾の声でさえ、何一つ入ってはいなかった。
 爾が惚けたように頭上を確認し、にたりと笑う。
「さァて、もういいかァ? そろそろ、てめェの命が終わっちまう時間だぜィ?」人を殺せる悦びに歓喜するように「逝(イ)っちまえよ、斑由貴ィイイイイイイイイイイ!」
 まるで炎のように唸り声を上げて。
 弾丸のように空気を切り裂きながら、それが迫り来る。
(……守ら、ないと)
 うるさい動悸の中、ただそれだけを、瞬時に思った。
 それが猛威を振るう圏内には、由貴はもちろん、彼女も十分に入っている。
(おれが、)
 そう思った瞬間、また一際強く、心臓が跳ねる。
(おれが、ミカおねえちゃんを守るんだ――!)
 すでにまともに力すら入れられない腕を、前に差し出す。
 右手に持った槍の矛先を、真っ直ぐにそれへ向けて。

《――力が、欲しいか?》

 そんな声が、どこからか聞こえた。
 鼓膜を震わせるのではない。心の中から、聞こえた。
(欲しい)
 切に、そう願う。
 たかが槍一本を生み出せる力では、彼女を守れない。
 無力なままでは、ただ後悔しかできない。
(そんなのは、もう嫌だ)
 一度、彼女を失った。
 彼女という温もりを、世界から失った。
 その絶望を、後悔を、もう二度と味わいたくない。
 だから、そのためなら、何だってできる。

《なら、従え。湧き出る力に、身を委ねろ》

 ドクン、ドクン――
 激しさを増す動悸に、全身を駆け巡る違和感と激痛に。
 由貴は、一度、強く目を見開く。
 迫り来るそれを見つめて、ただ純粋に溢れ出る力に、意識を託した。
「ぅ、あ」
 小さく、呻きを漏らし。
 そして、

「うぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 
 悲鳴を、上げた。
 それに答えるように、地面から巨大な槍が、現れる。
 その槍が、それ――高密度の空気を貫いて、さらには、天井にまで切っ先を食い込ませる。
「ンだよ、こりゃァ」
 唖然とした声は、けれど由貴の耳には届かない。
 由貴の意識は、すでにどこにもなかった。
 ただあるのは、
 うちから湧き出る際限なき力と、
 彼の頬を伝った、一筋の涙のみ。
「ようやく、これで終われる……」
 どこからか、そんな呟きが聞こえる。
「一緒に逝こう、ゆうくん」
 

 
  エピローグ ――いつか見つけた運命(しあわせ)に

 その少年を見つけたのは、週に三度だけ許された散歩の途中だった。
 人もまばらな公園で、一人、砂場で遊んでいた。砂山を作ったり、つまらなそうに、それを壊したり。散歩の度に彼を見つけるけれど、たったの一度でさえ、他の誰かと遊んでいるところを見なかった。
「ねえ、お姉ちゃんと遊ぼ?」
 そう声をかけたのは、きっと、彼が寂しそうに見えたからだけではない。
 その少年の姿が、雰囲気が、どこか自分に重なったのだ。一人ぼっちで、寂しそうで、でも、それを誰かに口にしたり、求めたりは決してしない。そうすることが、できないからだ。
 外の世界で自分から誰かに話しかけるのは、初めてだった。心底ドキドキして、緊張した。
 少年は、こう答えてくれた。
「遊んで、くれるの?」
 まるで、ずっと一人で生きてきたような瞳(め)で。
 その言葉をかけられることが、信じられないと言うように。
「うん、遊んで、くれる?」
 一目で、彼の瞳に惹かれた。どこか虚ろで、けれどそれは誰かの温もりを求めているようで。
 もしかしたら、彼女の方こそ寂しく感じていたから、そう見えたのかもしれない。本当は、彼ではなく、彼女の方こそ、温もりを求めていたのかもしれない。
 でも、それでもよかった。
 彼が温もりを求め、彼女も温もりを求め。それで互いに温もりを分かち合えたら、どんなに素晴らしいことだろう。
「お姉ちゃんは美香、風音美香って言うの。君は?」
「ぼくは、まだらゆき。ゆきだよ?」
 あどけない声で、互いを確かめ合う。
 それだけで、どこか心地いい気持ちになれた。
「そっか」
 これが、きっと運命の出会いだと信じて。
「じゃあ、ゆうくん。ゆうくんって、呼ぶね?」
「うん」
 
 その一瞬は、彼女にとって、確かに幸福な邂逅だったのかもしれない――

天壌の姫 一幕「君が、いるから」 四終

天壌の姫 一幕「君が、いるから」 四終

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted