天壌の姫 一幕「君が、いるから」 三
第三話
二日が経った。
由貴が公園で襲われて、三日の時間が流れたことになる。
必要なものは、すべて雅積が購入してきてくれていた。由貴はもはや指名手配されているが、雅積は違うのである。
雅積は研究所から脱走したと言ったが、どうやら由貴のように広く探されているわけではなく、あくまで秘密裏に追われているらしい。
話に聞けば、雅積は後ろにスポンサーがいて金には困らないそうなのだが、やはりそれだけを聞いても、由貴は釈然としなかった。けれど、そのスポンサーについて尋ねても雅積は何も教えてくれない。
他にも、この二日間、たとえば由貴が公園で襲われた時に聞こえたあの爆発音は、雅積があの黒ずくめの連中の乗ってきた車両を破壊したからだとか、次の引っ越しまで後三日しか残っていないとかも聞いた。
中でも、由貴は一つ腑に落ちないことがあった。
由貴自身の、力についてである。
被検体01――風音美香の感染者としての力。
雅積に聞けば、特に変わったところは見られないのだという――たった一つを、除けば。
そのたった一つというのは、力が発現した時の、由貴の瞳である。
感染者は力が発現する時、必ず、ある紋様が瞳に浮かび上がる。
五芒星。
五つの点を結んだ、星の形。
だが、由貴の場合はその形が違った。
六つの点を結んだ――六芒星、それが、由貴の瞳には浮かぶのである。
どうして他と違うのか、その理由は、雅積は分からないと言った。そして、その形が出現することによって、どういう意味があって、どういうことが起きるのかも。
とりあえず一つのことを考え続けていても仕様がないので、話題に出ることはあまりなくなったが、由貴はやはり気になって仕方がない。
この瞳が――力が、どういう意味を持つのか。
(知りたい……)
この力について、すべて知っておきたい。
由貴には、この力しか、彼女を守ってあげられる術がないのだから。
この力を、使うしかないのだから。
ましてや、今は緊張状態にあるのだ。由貴が指名手配されて――美香と由貴が二人とも追われるようになって、すでに三日が過ぎた。
いつ、何が起きてもおかしくはない。
そんなひどく不安な時だからこそ、不安を助長する要素は取り除きたいところだ。
が、残念ながら、そのことばかりは、一向に分かる気配がなかった。
そして、夜が来る。
あの公園でα事象を起こしてから訪れる、四度目の夜。
その月夜に、由貴は、公園の前で佇んでいた。
荒れ果てた公園の痛々しさに、目を背けたくもなるけれど、ちゃんと真正面から見つめて。
ここで犯したという、自身の罪を真っ直ぐに受け入れて。
(覚えて、ないんだけどな……)
受け入れる、なんてことを言っても、所詮は何も覚えていない。
だから、罪の内容だけを頭に留めておくことしかできない。
無意識とはいえ、人殺しの罪を背負ったという事実を、理解することしかできない。
そう考えていると、
「ゆ、う……?」
小さな声が、横から聞こえた。
耳に届いた聞き覚えのある声と、この世で二人しか呼ばない渾名に、慌ててそちらを振り返る。
「ゆう――やっぱゆう!?」
言葉を失った。
見覚えのある少女が、決して見間違えるはずのない少女が、そこに立っていたのだ。
綾瀬美菜。
由貴にとって親友である彼女は、嬉しそうに近づいてきた。
「え、えと、色々と聞きたいことあるんだけど……い、今、時間ある!?」
慌てた調子で、美菜が詰め寄ってくる。
彼女からしたら、突然、親友が世間を騒がす大量殺人犯として追われることになったのだ、それはもう、聞きたいことは山ほどあるだろう。
それは由貴にも、当然分かっている。
だが分かっているからこそ、由貴は戸惑った。
(今、美菜と話しても、いいのか……?)
これ以上、知人と接点をとってはいけない――それは、雅積からも強く言い聞かされている。
何があるのか、誰にも分からないのだ。
もしかしたら、今、この瞬間を何者かが目撃しているかもしれない。地域住民だったら、たぶん、警察に連絡がいってしまうだろう。研究所の人間だったら、状況は最悪だ。美菜まで危険に晒すことになる。
「どしたの、ゆう? 顔、怖いけど……」
恐る恐る、美菜が聞いてきた。
状況が状況なのだから顔が険しくなるのも仕方がない、とは決して言えるわけがなく、由貴は考える。
親友に真実を伝えたい、という気持ちは確かにある。
けれど、この場から一刻も早く離れて二度と会うことがないように注意を払うべきだ、という考えもある。
気持ちと考えは、それぞれ相反していた。
(どうすれば、いいんだ……)
正直、答えが出せない。
素直な気持ちと、理解している考えが、見事に拮抗し合っているのだ。
決して、どちらかに揺らぐことがない。
と、思い悩んでいると、
「ちょっとだけなら、時間あるでしょ? 公園に入れば、たぶん誰も来ないし……いいわよね?」
なんてことを言われて、美菜に腕をとられる。
そのまま公園内に入り、砂場も使えないので、ちょっとした茂みのところに二人して座った。
(早く、早く帰るべきだ……)
頭では、そう考えられる。
だが、体は言うことを聞かない。由貴自身、この状況に甘えているところがあることは、理解していた。
だから、今度は頭と体が相反する。
何と不便なのだろう、人間というものは――そんなことを、感慨深く思ったりもした。
コンビニ袋を持っているところを見ると、美菜はたぶん、そのちょっとした買い物の帰りだったのかもしれない。そういえば、彼女の家からコンビニに行くにはこの公園前を通るのが近道だったことを思い出して、由貴は後悔する。
美菜が、不意に声をかけてきた。
「とりあえず、わたしは、由貴が人殺したなんて信じてない。みんなもニュースも、何かの間違いに決まってるわよ。そうでしょ?」
星空を見上げるように言って、不意に尋ねてきた。
ポニーテールの、まとめられた髪が揺れる。
覗き込むように聞かれ、由貴は戸惑った。
(殺した、なんて言えない)
美菜は、由貴のことを心底信じてくれている。
彼女の性格からにしても、今の言葉からにしても、そのことがはっきりと分かる。
だからこそ、真実を口にできない。
決して、由貴は人を殺してなんかいないと、言えないのだから。
彼女の信頼を、真っ直ぐに、受け止められないのだから。
「どしたの? 何か、言ってよ……」
美菜が、寂しそうに言ってきた。
どこか、彼女の瞳が震えている。
その瞳から、由貴は、すっと視線を逸らした。
「うそ……嘘、よね? 殺してるはず、ないわよね。あんたが、そんなことできるわけないって知ってるもの。ゆうは――ゆうは、人なんか、殺せるはずないもの……」
「……すまない」
たった一言、それだけで、美菜は何かを悟ったのかもしれない。
不意に、美菜が涙を流した。
「嘘よ……ありえない、そんなこと、あるはずないじゃん。間違いだって、何かの間違いだって、言ってよ……」
もしここで嘘をつけば――人を殺していないと言えば、美菜の気持ちを軽くできるかもしれない。
彼女の信頼を、裏切らずに済むかもしれない。
でも、親友だからこそ、それはできない。
大事な親友に、嘘なんかつきたくはない。
だから、もう一度、彼は謝った。
「すまない」
これ以上、美菜に何を言えるでもないと、由貴は思っていた。
誤魔化しも、嘘も、美菜にはつきたくない。
けれど、真実をすべて教えれば、彼女が巻き込まれてしまう。
なら、ここで、彼女からの信頼を裏切るのが、最善の策だろう。
それこそが、彼女を――親友である綾瀬美菜を守ってあげられる、最善の方法だ。
たとえ、この胸がどんなにつらく、苦しいとしても。
きっと、美菜はそれ以上につらいかもしれないから。
「ゆう……」
その潤んだ瞳が、彼に訴えかけてくる。
――どうして人を殺したのか、と。
(すまない……)
何も言えないことが、言ってはいけないことが、ひどく口惜しい。
本当なら、彼女にすべて真実を伝えたい。
人を殺したことに変わりはないけれど、伝えることで、彼女に分かってもらえることがあるかもしれない。
だが、それは、どうしても、今の由貴には許されなかった――
と、不意に携帯電話が着信を知らせてくる。
この雰囲気の中、気まずくはあるけれど、ポケットから携帯電話を取り出し、通話状態で耳に当てた。
砂嵐のような、ざらつく音が聞こえてくる。
『んン? あららァ、もォ繋がってンのかァ?』
聞き覚えのない声に、由貴は眉を顰めた。
「誰だ」
敬意なんてものはいらない、一声目でそれは直感で分かった。
『誰だァ? きゃはッ、いいねェその声……好きだぜィ、オレはよォ』
嫌に耳につく声。
その声を聞きながら、由貴は無性に苛立っていた。
この声自体が気持ち悪いから、でもある。
けれど同時に、どうしてこの番号から――雅積の携帯から、こんな声が聞こえてくるのか。
それが分からないからだ。
(胸騒ぎが、する……)
嫌な予感が、止まらなかった。
なぜだか、動悸が激しくなっていく。
こんなにも得体の知れない感覚に駆られるのは、今までに類を見ない、初めてのことだった。
『いいぜィ、答えてやろうじゃアねーかァ』
もったいぶったように切り出して、
次の瞬間、由貴は目を見開いた。
『オレは天童爾(てんどう みつる)ッつーモンだァ。被検体04の感染者、つったら分かンじゃねェーかー、ああン?』
電話の向こうから、高笑いが聞こえてくる。
キンキンと耳にうるさくて、携帯電話を耳から離した。
(感染者、だと……)
まさか、研究所が追っ手として感染者を送ってくるのは予想していなかった。
いや、予想はしていたのだ。もしかしたら、という程度で。
だが、刺客としては向けてこないだろうと踏んでいた。
何せ、雅積がこう言っていたのである。
――研究資料(サンプル)を放ったりはしないだろうよ。第一、逃げられたら困るし、下手な馬鹿に任せて情報が漏れるのもよろしくないだろうしな。
その言葉を信じて、感染者が来ることはないだろうと見越していたのだが、完全に裏を掻かれたようだ。
今、たぶん雅積は捕まってしまっている。きっと、家にいた雅積たちを襲撃したのはこの電話をかけてきた感染者だけではないはずだ。
本来なら由貴もその場に居合わせていたはずだが、幸いにも、由貴は人目を避けてこの公園に来ていた。雅積との話し合いに耽っていたので、その息抜きに自動販売機まで飲み物を買いに行くついでだったのだが、思いがけない幸運だった。
が、由貴はそんな――そんな自分のことよりも、
(まさか、ミカおねえちゃんも……っ!)
考えれば、当然のことである。
たぶん、雅積はこの電話の連中に捕まっているかもしれない。なら、その傍にいた彼女だって、同じ状況にあるはずだ。
驚愕していると、何やら電話から騒がしい音が聞こえてきて、咄嗟に耳に当て直した。
『……のッ、ッざけんじゃねェぞゴラァ!』
乱暴な声が聞こえてくる。
それと同じくして、ガラスの割れる音と騒がしい足音が聞こえた。
少ししてから、ひどく不機嫌そうな声で天童爾が言ってくる。
『ったく……まあいい、それよりてめェだよてめェ。あー、斑由貴っつったっけかァ?』
一言一句を聞き逃さないように、由貴は耳を澄ました。
『てめェの女が待ってっからよォ、光明高校ォつったっけ、まあ、そこの屋上に来てくんねェかァ? そんじゃアな――』
ぷつり、と通話が切れる。
短い断絶音を聞いて、由貴は動悸が激しくなっていくのを感じつつ、立ち上がろうとした。
けれどその時、隣から声をかけられる。
「今の電話、誰だったの……?」
今にも呼び出された場所へ向かおうとしていたから、美菜のことをすっかり忘れてしまっていた。
誰からの電話か答えられるわけもなく、まして今、自分が置かれている状況を話すわけにもいかない。
だが、今、時間があるわけでは決してないから、由貴は悩む。
今、由貴にとって守るべき彼女が捕まっているのだ。今この時でさえ、彼女がどういう扱いを受けているのか、心配でならない。
(急がないと――)
由貴は、美菜の肩を掴んで、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめる。
「ゆう……」
その湿った呟きと潤んだ美菜の瞳に、由貴は一瞬、気をとられそうになる。
こんなにも、目の前の親友を意識したことがあっただろうか。見つめてくる震えた瞳、赤らんだ頬、はっきりと聞こえる、彼女の艶かしい吐息。彼女の少女としての魅力を、こんな瞬間で、初めて目の当たりにした気がした。
だが――
「悪い、美菜。もう、時間がない」
ちゃんと話しあげられないことを悔やみつつ、由貴は続ける。
「守らないと、いけない人がいるんだ。だから、」
何を言っても、美菜を混乱させてしまうことは分かっている。
けれど、彼女に少しでも分かってもらえるように、言葉を搾り出す。
「だから、もう少しだけ、待っていてくれ。おまえには――おまえには必ず、話すから」
美菜を、巻き込むわけには絶対にいかない。
でも、彼女には、真実を話しておきたい。
たとえ、今話せないのだとしても、いつかは絶対に。
美菜は呆然としながらも、静かに答えてくれた。
「……分かった」
それから、どこか上目遣いに見つめてくる。
「でも、守らなきゃいけない人って、誰?」
一瞬、言葉を詰まらせたけれど、いつか美菜には話したことがあった。
由貴が七年間、待ち続けた人のことを。
「おれの、初恋の人だ。知ってる、よな?」
どこか照れくさくはあったけれど、恥ずかしがって言葉を濁すところでは決してない。
美菜は驚いたようにぽかんと口を開けたが、すぐに小さく笑い始めた。
「前言ってたミカおねえちゃんって人? ゆう、まだ諦めてなかったんだ」
おかしそうにそう言って、
「いいよ、分かった。でも、」
美菜が、彼女の肩に乗せた由貴の手に柔らかい、少し冷えた手を載せてくる。
「でも、わたしみたいな可愛い親友が心配してくれてるってことも、忘れないでよね」
どこか恥ずかしそうに、美菜がそう言って微笑(わら)いかけてきた。
何だか無性に照れくさく――いや、恥ずかしくなって、顔がにわかに熱くなるのを感じ取る。
「か、可愛いは、余計なんじゃないか……」
正直、今一瞬だけ、美菜のことを可愛いと思ってしまった自分がいた――それをなぜだか認めたくなくて、由貴はつい思ってもいないことを言い返してしまう。
「む、うるさいわね、ゆうのくせに」
カチンときたとばかりに言い出したが、美菜はすぐに止めた。
「ま、いいわよ。それより、早く行きなさいって。時間ないんでしょ?」
「……ああ」
不意に心配そうな声音で言われて、さっきの電話を思い出す。
――てめェの女が待ってっからよォ、光明高校ォつったっけ、まあ、そこの屋上に来てくんねェかァ?
呼び出されたのは行き慣れた高校の屋上、そこに行けば、電話をかけてきた天童爾と会える。
「悪いな、美菜」
一言謝って、彼女の肩から手を離す。
「いいわよ、気にしなくて。ゆうが決めたことでしょ?」
「ああ」
「なら、ちゃんと守ってあげなさいよ? ゆうは臆病だから、すぐ愛想つかれないようにがんばりなさい」
トン、と片手で肩を押される。
それを合図に、由貴は苦笑しつつ、立ち上がった。
以前、美菜に『ミカおねえちゃん』について話した時も、彼女は真剣に聞いてくれて、おかしそうに笑いもしたけれど、真面目に励ましもしてくれた。
そして今も、美菜は由貴のことを応援してくれている。
本当にいい親友を持ったことを感謝して、由貴は一言だけ残してその大事な親友に背を向けた。
「分かってる」
思い出の場所に親友の少女を残して、一人、初恋の少女のもとへ駆けつける。
もう二度と、大切な人を失わないために。
(ミカおねえちゃんを、守るために――)
頭の中にあるのは、大好きな彼女のことだけだった。
「ちょっと、寒いなぁ……」
悴んだ手に優しく息を吹きかけて、美菜は呟いた。
夏の夜の温度は、昼間と比べ、急激に冷える。
コンビ二までのちょっとした買い物のつもりだったから、この寒さを凌げるほどの服装はしていない。
(ゆうと会うなんて、思ってなかったからなぁ……)
まさか、こんな時間に、こんな場所で会えるとは一つも思っていなかった。
それに、この公園は彼の犯行現場として報道されたのである。
もう、彼は二度と、この場所に来ることはないだろうと考えていた。
それが外れていて、彼に会えたことは、結果的に嬉しいことではあったけれど。
(でも、もうちょっと話したかったかな)
今度、また話せるのかはいつとも知れない。
彼は、多くの人々に追われる身になったのだ。たとえその理由が、どんな不明確なものだったとしても――それでも、事実は変わらないのだから。
「それにしても、ミカおねえちゃん、か……」
いつか、その話は彼から聞いたことがあった。
七年前にいなくなった、初恋の人――その人のことを、彼は『ミカおねえちゃん』と呼んでいた、と。
毎日、砂場に行って、その人を待ち続けた、と。
小学生の頃、由貴には友達がいなかったらしい。両親が亡くなって沈んでいたこともあるし、両親の交通事故をきっかけに引っ越したから、新しい環境に馴染めていなかったこともある。
小学生としてはあまりに暗い日々が続けば、さほど日もないうちに他の友達から遠くなってしまうことは、誰にでも簡単に予想できるだろう。
そうなってしまえば、たぶん、彼が友達を作ることはきっと難しい。
友達からも離れ、孤立し――その結果、人と触れ合うことを忘れてしまうのだから。
いや、忘れるのではなく、きっと分からなくなってしまうのだろう。
人と、接するということが。積極的に、人と触れ合うということが。
そのことが分かるからこそ、美菜は確信できた。
その時の彼が、その『ミカおねえちゃん』という人物を好いてしまうのは、何の疑う余地もなく当然のことだったのだと――。
だって、彼はきっと寂しかったのだ。
彼はきっと、誰か傍にいてくれる人を、求めていたのだ。
両親を亡くして、友達からも離れて孤立して。
寂しい思いでいっぱいだったはずの彼に必要だったのは、慰めでも、暗黙でも、まして理解者でもない。
ただ純粋な、温もりだけが、彼に必要だったはずなのだ。
そして、それをくれたのは、その『ミカおねえちゃん』という人物。
彼を安心させてあげたのは、彼の初恋の人。
「勝ち目、まだ、あるのかな……」
澄んだ星空を見上げて、美菜は震える声で呟いた。
ともすれば、涙が出てしまいそうになる。
彼はさっき、守りたい人のもとへ駆け出していった。
その『ミカおねえちゃん』のもとへ、行ってしまった。
それはつまり、彼が再び、彼の初恋の人に出会えたということだ。
彼が七年前から思い続けていた人に、ようやく、思いを告げられるチャンスが来たということだ。
あるいは、彼はもう、思いを遂げているのかもしれない。
――彼に思いを寄せている人が、すぐ傍にいるとも知らずに。
「七年なんて、長すぎるのよ、馬鹿……」
彼がその初恋の人を思い続けて、七年の月日が流れた。
美菜と彼が出会って――親友になって、まだ四年ぐらいしか経っていない。
もちろん四年という月日も、十分と言えるほどに長いだろう。少なくとも、学生の間で考えたなら。
けれど、三年の差も、また大きい。
さらには、彼はずっと『ミカおねえちゃん』という人物ばかりを胸に留めていたのだ。
美菜と過ごしてきた四年間の間も、ずっと、彼女のことを忘れることなく。
そんな相手を恋敵にして、美菜にはどれほどの勝ち目があるだろうか。ましてどれだけアピールしようが、彼は今まで、美菜の好意には一つも気付いてくれなかった。
彼がただ鈍感であるせいだろうけれど、たぶん、それだけではない。
彼の気持ちは、いつも違う人物に向いていたから、美菜の思いに気付いてくれなかったのだ。
今まで、ただの一度も、美菜は彼の心の中にいる『ミカおねえちゃん』に勝てた試しがなかった。
そして、今も、美菜はまた負けたのだ。
彼は、やはり『ミカおねえちゃん』を選んだ。
『ミカおねえちゃん』を、守りたい人だと言った。
(でも、まだ……)
たとえ彼が今、美菜を選ばなかったのだとしても。
いつかは、きっと振り向かせてみせる。
それは、彼から初恋の人について聞いた時から、決意していたことだ。
(まだ、諦めたくない)
だって、彼が『ミカおねえちゃん』を初恋の人だと言うように。
美菜にとっても、彼は――初恋の人なのだから。
だから、美菜はこれからも思い続け、願い続ける。
彼を好きでい続け、いつか、彼が自分の思いに気付いてくれることを。
「でも、今は……」
つー、と一筋の涙が頬を伝った。
「今は、泣いてもいいよね……」
切なさも、悲しさも、すべて涙に変える。
全部を全部、外に追い出して、またがんばり続けるのだ。
これからも、彼を好きでい続けられるように。
また明日から、いつもの自分に戻れるように。
この胸を締め付ける思いは、すべて、この夜に置いていけばいい。
満面の星空の下――
かすかな嗚咽を漏らして、美菜は泣いた。
校門は閉まっていたが、飛び越えれば簡単に侵入できた。
玄関の扉には鍵が閉まっておらず、とりあえず注意深く階段を上っていく。
(この先に、あいつが……)
電話で聞いた声――天童爾を思い出しながら、由貴は急いで屋上へ向かう。
爾は言っていた。
彼女が――『ミカおねえちゃん』が、屋上で待っていると。
それはつまり、彼女が捕らわれ、屋上に連れてこられているという意味だ。
なら、多くを考える必要なんてないだろう。
もし爾が言ったことが嘘で、彼女が屋上にいなかったのだとしても、由貴には屋上に行く以外の道は残されていないのだから。
「はぁ、はぁ……」
最近の運動不足を祟りたくなる。
行き慣れた屋上への道のりも、階段を駆け上るとなると、相当にきつい。
「ミカ、おねえちゃん……」
やがて最上階へたどり着き、扉を開けた。
わずかな軋む音と同時に、いつもとは一風変わった屋上の風景が広がる。
その屋上の中央に、誰かが立っていた。
「よォ、意外と早かったじゃねェーか」
黒髪の所々に目立つ、鮮やかな金の髪。由貴と同じくらいの背丈の少年が、こちらに気付くや、そう声をかけてきた。
その声は、電話で聞いたものと同じもの。
つまり、目の前にいるこの少年こそが――彼女を攫った、天童爾ということである。
(こいつが……)
由貴は訝しみ、眉根を寄せる。
「ミカおねえちゃんは、どこだ?」
乱れた呼吸を落ち着けて、睨みつける。
「はッ、いねェよ、んなモン。分かってンだろ?」
まるで嘲笑うように、爾は続ける。
「わざわざ来やがるてめェもイカれてるよなァ、ああン?」
言いながら、笑い声を上げた。
甲高い、うるさい哄笑が夜空に響く。
(何なんだ、こいつは)
電話の時もそうだったが、爾の声は、やけに声音がおかしい。
所々甲高い、というか、やたらと感情的に聞こえるのだ。
まるで狂っているように、すべてを見下しているように。
「ってかよォ、てめェ、ホントに感染者なわけ? ぜんっぜん、見えねーんだけどなァ」
馬鹿にしたような口調。
彼女を攫っておきながら、そんなことはまるでどうでもいいような素振りだ。
「ッつーか、ただのガキだろうよ、てめェ。はッ、こんなヤツを感染者にするあの女の気が知れねーよ。こんなヤツに殺されたがるたァ、マジで馬鹿だぜ。何考えたらこんなガキなんかに、殺されたくなるってんだか」
呆れたように、爾が呟いた。
呟くと言っても、十分、由貴に聞こえるほどの声量だ。
だから――聞こえてしまったから、由貴は驚く。
(ミカおねえちゃんが、殺されたがってる……?)
まったく訳が分からない。
あの彼女が、由貴に殺されたがっているだなんて。
とても信じられない、荒唐無稽な話である。
「何を言ってる……」
ありえないことなのだから聞く必要なんてない、そう分かっていながらも、勝手に口が開いた。
嫌に胸がざわつく。
吹きつける夜風が、やけに冷たく感じられた。
「ああン? てめェ、まさか知らねーのかァ?」
そう言って、笑い混じりに言葉を継いだ。
「はッ、そうかそうか! てめェ、何も知らねーのかよ! こりゃア、おもしれェなァ……あア、おもしれェよ」
ついには顔を手で覆って、笑い始めた。
爾が笑っている理由も、自分が何を知らないのかも、由貴は分からない。
ただ一つだけ、考え得る可能性がある。
(おれだけ、知らないことなのか?)
被検体について、感染者について、たった一人、由貴だけが知らされていない何か。それはつまり、雅積や彼女が、由貴だけに教えてくれなかった何かということだ。
「まァ、こりゃア、アレだよなァ? てめェは知る必要がねェって判断されたわけだよなァ? はッ、つくづくおもしれェじゃねーかよ……てめェも笑っていいんだぜィ、斑由貴よォ」
嘲るような声に、由貴は腹が立ってくる。
何を言っているのかさっぱり分からないから。その上で馬鹿にされていることに、心底、悔しいと思うから。
(いったい、どういうことだ……)
彼女が、由貴に殺されようと考えている。
それがどういう訳なのか、何一つ分からない。
「嘘だ……」
気付けば、不意にその言葉が口を突いていた。
「そんなわけ、あるはずがない……」
彼女が、そんなことを考えているなんて。
何より、由貴が彼女を殺すことなんて。
決して、そんなことが起こり得るはずがないのだ。
けれど、目の前の敵は――由貴の知らないことを知っている感染者は、つまらなそうに由貴を否定した。
「馬鹿か、てめェ。ンなんだから、てめェは何も知れねェんだよ、アホ」
「――ッ!」
一瞬で、怒りが頭に上った。
自分がどんなだから、というのは理解できたわけではない。だが、分からないからこそ、余計に腹が立つ。敵にそんなことを言われたことが。彼女を攫ったやつに、まるで自分より彼女について知っているように言われたことが。
(おまえが、おまえが何を……)
彼女の優しさを。
彼女の温もりを。
彼女の、あのひどく優しい笑顔を。
(おまえが、何を知っている……!)
研究所に連れ戻そうとしているやつに、彼女のことが分かっているはずがない。
そんなやつが、彼女の温もりを知っているはずがない。
「なのに、何で……」
どうして、由貴は知らされていない。
彼女について、感染者について、すべてのことを。
そのことがひどく悔しくて、由貴は奥歯を噛み締める。
それから、目の前の敵――彼女を攫った天童爾を、強く睨み付けた。
が、その時。
「ぅ、がぁ……」
とてつもない衝撃と痛みが、後頭部を襲った。
いつかと同じようなそれに、由貴の視界がぐらりと揺れる。
「てめェはウゼェんだよ。半端に首突っ込んでんじゃねェよ、ガキが」
視界が閉じる最後に、そんな声が聞こえて、何か言い返してやりたかった。
けれど、意識は薄れて、体の感覚も遠ざかる。
「ミカ、おねえちゃ……」
また、いつかのように。
何も分からないまま、何も知らないまま、由貴は意識を失う。
その寸前、かすかな呟きを拾った。
「ミカを、死なせやしねェよ」
その言葉の意味を考える前に、完全に視界が暗くなる。
由貴の意識は、闇の中に沈んだ。
ぽちゃん。
水の音が聞こえた。小さな、雫の弾ける音。
その音に鼓膜を震わされ、同時にゆっくりと眠っていた意識が覚めてくる。
(ここは……)
ぼやけた視界が次第にはっきりとし始め、周囲の確認をした。
湿り気のある床や天井、薄暗い空間。特に物と言えるものはほとんど置かれていなくて、ひどく殺風景な光景をしていた。
「どこ、だ?」
見覚えのない、暗い室内。
不気味なこの場所に、どこか悪寒すら覚えていた。
「――ッ!」
不意に、激痛が走った。
右肩である。ついこの前、撃ち抜かれた肩の傷が痛みを発していた。
「何、だ。これは……」
その肩に視線を移して、ようやく今自分が置かれている状況を把握した。
手首と足首の左右に嵌められた、鉄の枷。鎖はさほど長くはなく、たぶん、後ろに壁があってそこから伸びているのだろう。足は地に着いてはいるけれど、自由に動かすことはできない。手は高いところで固定されていて、正直、ひどくきつい。
なぜか、着ていたシャツは脱がされていた。
「おれは……」
おぼろげな記憶を手繰り寄せて、自分がどうしてここにいるのかを思い出そうとする。
公園で美菜と会って、それから電話がかかってきて、急いで屋上へ向かって……そして、天童爾と出会った。
意識を失ったのは、確か爾と話をしていた時のはずだ。今でも後頭部が少し痛むほどだから、相当強く背後から打撃を喰らったのだろう。考えてみれば、爾以外に誰かがいても何ら不思議ではなかった。
「馬鹿、だな。おれは」
確かに屋上に行く以外に、手立てといえるものはなかった。
けれど、注意ぐらいならちゃんとできたはずだ。誰かが他に隠れていないかくらい、細心の注意を払っておくべきだったのだ。
「思えば初めからだ、おれが馬鹿なのは」
七年前に消えた彼女と再び会ったあの時も、由貴は気絶させられた。やはり、後頭部を強く打たれて。何の警戒心も持てていないことが、痛いほどに自覚できる。
何せ、由貴がいた本来の世界はそういうところだったのだ。
いきなり、誰かに後頭部を殴られるなんてことはありえない。
銃を持っている人間が、発砲したりもありえない。
そんな平穏で、退屈だけど危険もない、そんな日常に由貴は元々いたのである。
だが、彼女と再び出会って――彼女の感染者として目覚めて、由貴の日常は一転した。
常識では計り知れない非常識、それが、今のこの状況である。
「なのに、おれはまだ……」
雅積とも出会って、話を聞いて、それでなお、由貴は今までの常識を捨てることができていない。
彼女を守ると言いながら、世界を敵に回すと覚悟しながら、由貴は未だ非常識を受け入れられていないのだ。
そんな自分を馬鹿だと表す以外、由貴は例えようがなかった。
と、その時である。不意に、誰かに声をかけられた。
「よう、まだ、生きてたみたいだな」
投げるように生意気な、けれど疲れの滲んだその声に、項垂れていた首を上げる。
雅積だ。やつに――天童爾に捕まったはずの雅積が、そこにいた。
いつの間にかこの部屋に入ってきていた彼は、入り口の扉を開け放ったまま(扉は拘束された由貴の右斜め、やや離れた距離にあった)静かにこちらへ近づいてくる。
「悪いな、少し、遅くなっちまった」
呆然とする由貴を他所に、雅積が謝ってくる。
すると、何も反応を示さない由貴を不審に思ったのだろう、心配そうに尋ねてきた。
「どうした? 爾の野郎に、何かされたのか?」
気絶していたから何かされていても分からないが――今はそれより、雅積がどうしてここにいるのかが気になった。
「いや、何で、おまえがここにいるのか……」
頭が混乱していて、上手く言葉が繋がらない。
それでも、雅積は伝えたいことを察してくれて、答えてくれた。
「ああ……そういうこと、か。あいつらが押しかけてきて、どうにかオレとウサギは逃げ切ったんだが、美香は助けられなくてな……すまない、突然のことだったから、おまえに伝えられなかった」
心底悔しそうに、雅積が目を伏せる。
彼の言葉を聞きながら、由貴は公園での電話を思い出していた。
そういえば、一瞬だけ、爾が取り乱した時があった。その時に電話越しに聞こえた音は、ガラスの破砕音。
(あれは、雅積が逃げたから、だったのか)
そう考えれば、あの一瞬の出来事は納得がいく。
不意に雅積が口を開いた。
「ここは、以前使われていた旧研究所だ。美香は恐らく、第三隔離室にいる」
「だいさん、かくりしつ……?」
普段からではとうてい馴染みのない言葉に、由貴は眉を顰める。
「隔離室は防音や作りの強度に優れている、中でも第三隔離室は拘束具や拷問道具、そういうものばかりが集められていた。美香を第三隔離室に置く理由は、一番は恐らく、第一、第二よりも物資運搬口に近いからだろうが……」
その話を聞いて、由貴は驚かざるを得なかった。
彼女がその場所にいるかもしれない、そのこと自体は、見当がついているという朗報なのだから嬉しい情報だ。
だが、拘束具や拷問道具が集められていた、というのはいったいどういうことだろうか。さらには、そんなものが集められている上、防音などの強度も優れていると言うのだ。
なら、ここで一つの疑問が浮かぶのは至極当然だろう。
「その部屋は、何なんだ?」
ずいぶんと大雑把な疑問ではある。
だが、そうと言うべきがたぶん正しいだろう。
その部屋の用途が、目的が、何一つ見えないのだから。
雅積は、わずかに躊躇いつつも、答えてくれた。
「元々、隔離室自体が実験室の一つとして作られたものだった。防音にしてあるのは、部屋の中でどんな叫び声が上がろうが、外に漏れないようにするためだ。特に第三隔離室は、被検体を、感染者を、閉じ込めて、精神的、身体的苦痛を与えるためだけに作られた」
「何、のために……」
唖然とした由貴に、雅積は呆れるように、けれど嘲るような怒りを込めて答えた。
「何のため? 決まってるだろ。データを取るためさ。あいつらはデータを取るためだけに、オレたちを使って実験をしやがる。オレたちを人間としてみてないのが、あいつら研究所の連中なんだよ」
一言一句に憤りが込められていた。
雅積だって、その実験の対象にされた一人なのだ。忘れたくても忘れられず、思い出して怒るのも当然だろう。
彼らがこの研究所でどんな実験を受けていたのか、その実態は由貴には想像もつかない。由貴の知る苦しみなどといったものとは、きっとあまりにほど遠く、もっとずっと苦しいものに違いなかったろう。
そう思うと、腹の底から怒りが込み上げてくる。
その実験は、例に漏れることなどなく、彼女も受けていたはずなのだから。
彼女も、その計り知れない苦痛を与えられていたはずなのだから。
そして、その研究所の人間が、また彼女に実験を強いろうとしているのだ。
ようやく逃げ延びたというのに、その地獄へ、連れ戻そうとしているのだ。
(そんなこと、許せるか!)
再び彼女がそんな実験に晒されるようなことがあってはならない。
そんなことは、由貴が、絶対にさせない。
由貴は、もう決めているのだから。
たとえ世界を敵に回しても、彼女を守ってみせると。
不意に、由貴はあることに気付いた。
「ミカおねえちゃんは、ミカおねえちゃんは、今、無事なのか……?」
追っ手に捕まり、物騒な道具が揃えられているという第三隔離室に囚われていて、彼女の安否は今一番に気になる。
固唾を飲んで、やがて雅積が答えるのを待った。
「無事、だとは思う。恐らく、研究所は美香に危害を加えるようなことは命令していないはずだ。爾も、恐らく、美香には危害を加えないだろう」
はっきりとしない曖昧な表情。この状況だから仕方がないとはいえ、雅積のその表情は、何か深い意味を隠しているようにも見えた。
「それより、少し、話を聞け。もう、時間がない」
急かすように、雅積が促した。
時間がないだろうことは、由貴も分かっている。爾が何をするのかも、彼女がいつどこに連れて行かれるのかも、あるいはいつ研究所の増援がやってくるのかも、何一つはっきりしていないのだ。
なら、事を急ぐのも必然だろう。
「まず最初に言っておく」
一度句切って、はっきりと告げられた。
「オレは、美香のもとへは行ってやれない」
その理由を問う前に、雅積がシャツを捲って左の胸を晒す。
その肌に刻まれた月の形を見て、由貴は驚いた。
もうちょっとで、雅積の月は半月に届きそうなのである。つまり、Ω事象を引き起こすまで、もう後は短い時間の問題でしかない。
「分かるな? オレが行っても、ただの足手まといにしかならない」
もしΩ事象を起こせば――その最大の危険を免れるためにろくに力を使えないのであれば、この危機的状況において、雅積という存在は邪魔なものでしかなくなる。
だったら、初めから雅積はいなくなった方がいい。
由貴たちのためにも。
雅積自身のためにも。
その意味が理解できたからこそ、由貴は不安を感じざるを得なかった。
「おれ、一人で……」
できるだろうか、彼女を助けることが。
たった一人で、彼女を助けてあげられることが。
「おまえ、言ったよな。美香を守りたいって。世界を敵に回してもいいって」
怖いほどに真剣な声に、由貴は圧倒された。
けれど、彼がそれを言ってくれることで、きっと自信が持てる。
そう思えた。
「守りたい女がいるなら、そいつのために命を賭けろ。おまえが本当に美香を好きだというなら、おまえなら、できるはずだ」
彼の瞳が、真っ直ぐに見つめてくる。
その言葉は、心の迷いを打ち消してくれるほど、力強いものだった。
「……ああ、分かってる」
由貴は無愛想にそれだけを答え、
かすかな微笑を、口元に浮かべた。
美香の目の前には、よく見知った人物が椅子に座っていた。
黒の短髪に、所々見える金の髪。
同じ研究所にいた感染者の一人――天童爾。
両手足を拘束されて動けない美香を、爾は首だけ回して振り向くと、
「なあミカ、一つ、教えてくれやしねェーか」
淡々と聞いてきて、怖いほどの眼差しで見つめてくる。
美香の知る彼は、研究所でもいつもこんな目をしていた。誰も信用していない、何もかもに憤っている、そんな感じの。唯一、彼の契約した被検体04と呼ばれていた少女だけを除いては。
「どうして、あんなガキなんかと死にたがる?」
美香は、にわかに眉を動かした。
爾は気付いている。美香が考えていることを、そして、それがどういう意味を持っているのかを。
それがすぐに分かったから、美香は沈黙した。
「オレにとっちゃ、あんたは肉親みてェなもんだ。だから、気になんだよ。どうして、あいつなんだ」
「……好きだから」
小さな答えに、爾が問い質してくる。
「ンなこたァ、分かってンだよ。問題はそこじゃねェ。どうして、あんな馬鹿みてェなガキがいいんだよ?」
その言葉に、わずかにムッと機嫌が悪くなる。
好きだから、それ以外に答える言葉なんてないのだから。
「爾は、花音(かのん)ちゃんが好き、だよね?」
「ああ」
被検体04、そう呼ばれている彼女の名は花音と言う。
歯切れの悪い美香の問いに即答した爾が、次の言葉を催促するように眉根を寄せて見つめてくる。
「爾は、何で、花音ちゃんのこと好きなの? 契約したから? たぶん、違うと思うよ?」
少しの間を置いてから、爾が答えた。
「オレは、あいつに命を救われた。やっぱ好きとかそんなんじゃねェな。あいつの命を守るために、オレはあいつといる。それだけだ」
美香の知る限り、爾の言うように、彼は契約者(パートナー)である花音に、一度、命を救われていた。正しく言えば、命を自ら絶つことを、止められていた。それはもうずいぶんと前の話だけれど、彼は、その時の誓いを忘れていないのだろう。
だから、たとえ爾が何と言おうと、爾と花音を見てきた美香は、はっきりと言える。
「それが、好きってことなんだよ」
それがどんなものかを、美香は知っているから。
誰かを好きになるということがどういうことかを、もう、十分に分かっているから。
「爾は、花音ちゃんをすごく大事に思ってる。……わたしも一緒。わたしも、ゆうくんのことを、すごく大事に思ってる」
だからこそ、彼女は彼に望むのだ。
大事に思っているからこそ、彼女の思い描く結末を、この思いに求めている。
「爾と花音ちゃんは、二人で生きていくことを決めた。死なないって、そう誓った。でも、わたしとゆうくんは違うの。ううん、わたしは、違うの」
感染者は、いつか必ず、死ぬことが決まっている。普通よりも異常に早く。
そのせいで、被検体と感染者は、必ず早く別れることが決まっている。
それを納得できるものは、いったいどれほどいるだろう。少なくとも、美香は、それを受け入れることはできなかった。
けれど、美香にできることなんて、そう多くはない。
「だから、死ぬってェのか?」
結論は、実に単純だ。
ただ、単純だからこそ、それは複雑なもの。
本当は、二人で生きていきたい。ずっと一緒に、楽しく、幸せに、笑って生き続けていたい。それができたら、どんなに幸せだろう。けれど――
「そう。ゆうくんのことが、好きだから」
すべては、たったそれだけだ。
ただそれだけのために、美香は決意している。
それほど、彼――斑由貴を、心から愛しているから。
「だがよォ、あのガキは何も知らねーんだろが。それでいいのかよ?」
「……わたしは、それしか、思えない」
俯いた美香に、爾は確かに告げる。
「オレは、おまえを死なせやしねェよ、絶対ェにな」
それきり、二人の間に言葉はなかった。
(ゆうくん、早く……!)
美香は、切実に、彼が来ることを望む。
そうすることで、彼女の思いは、ようやく実を結ぶのだから――
(早く! 早く、ミカおねえちゃんのところに!)
由貴は、暗い廊下を必死に走っていた。
目的地――第三隔離室までの道のりは、もう知っている。それを教えてくれた雅積は、もう、この研究所から離れているだろうけれど。
(ここを右に……)
曲がり角、この地点を曲がれば、目的地までそう距離はない。
この研究所が由貴の町の地下にあったことは、彼自身、耳にした時はにわかには信じ難かったが、今となってはそんなことはどうでもいい。
今、由貴が考えるべきは、ただ彼女のことだけだ。
ただ彼女を助けることだけを、考えていればいい。
「今……今、行くからっ」
やがて視界に入った目的地の扉に手を掛け、
由貴は、勢いよく開く。
そこに一人の男を見つけて、
「よォ、意外と早かったじゃねェーか」
その声に、火照った体を強張らせた。
天壌の姫 一幕「君が、いるから」 三