天壌の姫 一幕「君が、いるから」 二

  第二話

 再び目を覚ますと、明るい照明の光が目に差し込んだ。
 あの砂の冷たさも、夜の肌を刺すような冷気も感じられない。
(ここは、どこだ……)
 視線を右に左に動かして、視界の中に映るものを確認する。
(公園じゃ、ない……)
 たぶん、部屋のようだ。いくらか家具が置いてあるのを見ると、きっと誰かが住まいとしている部屋なのだろう。
 背中のふかふかとした柔らかい感じから、ベッドに寝ていることが分かる。でも、そう分かると当然、疑問も湧いてくるのだが――
 それ以前に。
「ミカおねえちゃんっ!」
 慌てて、上半身を起き上がらせた。
 その瞬間、右肩に激痛を感じて顔を歪ませる。
 公園であの黒ずくめの男に肩を撃ち抜かれたのだ。当然、かなりの痛みが感じられるし、本当なら、血がべっとりと肩についていてもおかしくはない。
 けれど、肩には白い包帯が巻かれてあった。
(誰が……)
 と思うけれど、それこそ、今は自分のことなんかより優先すべきことがある。
 今、一番に考えるべきは彼女のことなのだ。
 彼女は無事か?
 あれから、意識を失ってからいったい何がどうなった?
 次から次に疑問が浮かんで、頭の中が混乱する。
(くそっ……あんなところで、気を失うなんて……)
 情けないにも、ほどがある。
 あんな危機的状況の中、ようやく彼女と会えたのに、すぐに気絶するなんて。
「ミカおねえちゃんは、ミカおねえちゃんはどこに――」
 と、急いでベッドから降りようとした時、突然、体の節々に軋むような痛みが走る。
「ぐ……ッ」
 上半身を起こした時には、こんな痛みはなかった。
 なら、なぜ今になって、肩の痛み以外にこんなものが……そう考えて、今使おうとした体のある部位を特定する。
「足……?」
 たぶん、体全身に痛みが生じたわけではない。
 足――脚から伝わった痛みが、あまりに強烈すぎて、体全身で感じられたのだ。もしかしたら、その痛みで他の部位の痛みが連鎖したのかもしれないけれど。
 だが、何だとしても、今こんなことで足を止めるなどできない。
「行かないと、早く、ミカおねえちゃんのところに……」
 肩の痛みも、脚の痛みも、すべて我慢する。
 早く、早く彼女のもとに行かないといけないのだ。
 そのために、震える足を、一歩、前に踏み出す。
 彼女の元へと、今すぐにでも、駆けつけて――
 と、そんな時に部屋の扉が開いて、現れた人物に由貴は唖然とした。
「み、ミカ、おねえ……」
 紫色の、綺麗な髪。空のように澄んだ、青い瞳。
 今、彼が求めていた彼女が、そこにいた。
「ゆ、ゆうくん!? だ、駄目よ! 今立ったりなんかしたら――」
 不意に脚から力が抜けた。
 ずっと痛みを我慢していたのだ、そのツケが、彼女を見られて緊張の糸が抜けた今に、勢いよく回ってくる。
 腰を抜かしたように、由貴はくずおれた。脚の痛みも、肩の痛みも、今まで以上に彼を襲う。
 これが、無理矢理、体を酷使しようとした見返りなら、相当悲惨なものである。
「大丈夫!? ゆうくん!」
 慌てて駆け寄ってくる彼女を見て、由貴は自分の痛みなどそっちのけで安堵した。
 何しろ、彼女が無事だったのだ。彼にとって、これ以上ない喜びである。
「よかった……」
 と呟いた時、彼女が怒ったように頬を膨らませる。
「よくない! 何で無茶するの、ゆうくん!」
 怒られた。威厳、というものこそ感じられないけれど、ずいぶんと怒っているみたいだ。
「肩撃たれるまで無茶して……もう体ぼろぼろなのに、立っちゃ駄目でしょ!」
 そう言いながら、体を起こすのを手伝ってくれる。ベッドに座らせてくれた後も、彼女は怒っていた。
 けれど、こうして会話できることに、由貴は微笑ましく思う。ずっと長い間、彼女に会うことすらできなかったのだ。こういう瞬間ですら、本当に嬉しい。
 ――だが、今はそれよりも知るべきことがある。
「ミカおねえちゃん、聞きたいことがある」
 不意に、由貴は切り出した。
 ちゃんと知らなければいけない。あの時のことを、そして、あの連中のことを。
「あれから、いったい何が――」
 と、質問しようとした時、
「美香(みか)ー! 何かあったのかー?」
 そんな声が、開かれた扉の奥から聞こえてきた。
 なぜだか、聞き覚えがある。よく思い出せないけれど、由貴はこの男の声をどこかで聞いているような気がした。
 階段を上る足音がして、一人の男が現れる。
「何だ、やっと起きたのかおまえ」
 白を基調にした、ジーンズとベルト、Tシャツという服装。
 男にしては艶やかな黒髪を肩以上に長く伸ばした男は、ポテトチップスの袋を片手にそう軽い口調で言ってきた。
「てっきり死んだかと思ってたな。これは残念残念」
 そんなことを言って、軽く笑う。それから眠そうにあくびをして、部屋の中に入ってきた。
「まあ、それは冗談として。起きるのが遅いぞ、おまえ」
 突然、真面目な顔で言われて驚いた。
「第一、あれぐらいで気絶するなよな。普段からもっと鍛えておけ、この馬鹿野郎。そんなんだから、守りたい女すらまともに守れないんだよ」
 はたと、由貴は思い出す。
 守りたい女。
 その言葉を、彼は聞いたことがあった。
 ――死にたいと思うなら、死ねばいい。だが、守りたい女がいるなら、そいつのために命を賭けろ。
 閃光とともに現れて、それだけを残して消えたあの男。
(こいつ、まさか……)
 にわかには確信できない。けれど、そうであるのかもしれない。
「どうした? 呆けてたら、何もできないだろう? それじゃあ、おまえは役立たずのままだ」
 嫌に癇に障る声だ。
 決して初めから優しいと言えるような声ではなかったが、今までよりも馬鹿にしているような声音。
 その男は近づいてきて、上手く体を動かせない由貴のあごを人差し指と親指で掴むと、くいと上向けた。
「ふん、まだガキだな」
 ピクン、と由貴の眉が跳ね上がる。
 目と鼻の先にある男の目を、強く睨み付けた。
「そうだそうだ、いい目になってきたじゃないか」
 そう言って、男は得意げな顔で見つめてくる。
「もっと粋がって見せろよ、ガキ。美香っていう、守りたい女がいるならな」
 由貴はさらに、不快げに眉を跳ね上げる。
 元々柔和な目つきなどではないから、相当な鋭い睨みが男に向けられた。
「どうした? 何か言ってみろよ?」
「……呼ぶな」
 ずっと黙り込んでいたけれど、これ以上我慢などできる訳もなく、敵意を向き出しにする。
 初めからずっと気にかけていたことを、荒い語気で口にした。
「ミカおねえちゃんを、名前で呼ぶな」
 一瞬、男の顔が呆けたものになった。
 それから、由貴のあごを離して、どこか神妙な顔をする。
 けれどすぐに――
「ぷっ……あっはっはっはっはっ」
 笑い出す。
 ポテトチップスの袋を持ったまま、腹を抱えて大声で笑う。
「本当に、ほんっとうに『おねえちゃん』って言ってるんだな! これはウケる! 本気でウケるぞ、美香!」
 また名前で呼んだ。
 また、彼女のことを、呼び捨てにした。
 本気で言ったことを笑われ、無視され、由貴は胸のうちにフツフツと湧く怒りを実感する。
(何なんだ、こいつは……!)
 今すぐにでも、こんなやつには目の前から消えてほしい。それか、こいつの目の前から早く消えたい。
 そう思いながらも、体のこともあるし、何より何も事情が分かっていないから、由貴はそうできない。馬鹿にされた気がして、奥歯を噛み締めながら、ただ男を睨んでいた。
 しかし――
「笑わないで、雅積(まさつみ)」
 そう、横から彼女が言ってくれた。
 まるで、由貴の代わりのように。
 彼女もまた、彼が笑ったことに、怒ってくれたように。
「ああ、悪かったよ、美香」
 完全に、とまではいかないにしても、男は笑うのを止める。
 堪える、という表現の方が正しいかもしれないが、こんな状況もすぐに打って変わった。
 階段を駆け上がる音が聞こえて、小さな少女が現れたからである。
「マサツミぃー!」
 間延びした声で、少女が男の名前を呼ぶ。
 たぶん、年の頃は一〇から一つ二つほどしか経っていないのではないだろうか。白い髪を頭の両脇で括ってツインテールにした小さな少女が、雅積を見つけるや、思いきり飛びついた。
「遅いよー、マサツミぃー」
 甘えん坊の子供のように、雅積に抱きついている。
 白のワンピースを着た少女の頭を、雅積は優しく撫でた。
「ああ、悪かった、ウサギ。もう、お菓子を食べ終わったのかい?」
「うん!」
 元気よく、ウサギと呼ばれた少女が頷く。
 急に甘すぎる口調になった雅積に、由貴は違和感を覚えたが、どうでもいいことなので無視する。
「あ、昨日のお兄ちゃんだ! もう起きたの?」
 ウサギの視線が向けられ、ドキリとした。興味ありげに、テトテトとこちらに近づいてくる。
「な、何だ?」
 間近で顔を覗き込まれて、由貴は動揺する。
 そんな中、ウサギの小さな顔をこんなにも近くで見て、一つの不思議な点に気がつく。
(目が、赤い……?)
 初めて、こんな瞳を目にした。
 ウサギの瞳(め)は赤くて、まるで紅玉のように綺麗である。
(だから、ウサギ、か?)
 似合っている名前だとは思う。と言うか、まさにそのままだ。
 けれど、この名前を我が子につけるには、問題ないと言えば問題ないだろうか。
「お兄ちゃん、どうしたの? ぼーってして」
「い、いや、何でも……」
 小さな少女が相手なのに、つい慌てた。
 もしかしたら、彼女の瞳に見惚れていたのかもしれない。
「ねぇねぇ、遊ぼ、お兄ちゃん!」
 そう言われて、由貴はどこか懐かしい気持ちに駆られる。
 遊ぼ、と由貴も誘って、頼んでいた頃があった。今はもう、七年も前の話になるけれど。
 何か答えなければいけないと思い、由貴は口を開こうとしたが、その瞬間、ウサギの体が誰かに持ち上げられる。
「駄目だよ、ウサギ。こんなやつに近づいたら、ウサギに危ないことをされてしまう」
 そう甘ったるい耳につく声で言ったのは、あの雅積だった。
「危ないこと? 危ないことって、何されるの?」
「危ないことは危ないことさ。そいつはケダモノだからね」
「ケダモノ?」
「いや、何教えてんだおまえ!」
 思わずツッコミざるを得なかった。
 こんな大声でこんなことを言うキャラではないと自分でも分かりつつも、雅積の思いがけない発言はあまりに見逃せない。
「何とは何だ、その通りだろこのエロガキ。おまえら思春期が一番危ないだろう」
 言い返そうと立ち上がろうとして、つい自分の体の状況を忘れていたことに気付く。
 痛みが走った。
 悶える声を漏らし、痛みを和らげようと軽く手を肩に添える。
「ゆうくん!」
 心配そうに声を上げて、彼女が近寄ってきた。
 目線を上げて、雅積が面倒くさそうな顔をしているのが分かると、ちょっと嫌な気持ちになる。
 こんなにも、自分が弱いなんて。
 この痛みに打ち勝つこともできず、嫌いな相手の前で、こんな情けない姿を見せるなんて。
 そんな自分が、心底、嫌になる。
「ゆうくん、もう無理しないで。傷が治るまで、ゆっくりして」
 優しく寝かされようとされたが、由貴はそれを断る。
 別に、腕が丸ごと一本なくなったとか言うわけではないのだ。
 痛みなら、痛みだけなら、どうにか我慢できる。
 と由貴が激痛と葛藤している最中、
「倒れてくれるなよ、ガキ」
 そんな声が聞こえて、由貴の思いは、我慢は、より強固なものになった。
(これぐらい、我慢してみせる……!)
 肩から手を離し、軋む痛みも我慢し、顔を上げる。
「大丈夫だから、ミカおねえちゃん……」
 強がりを言ってみせる。
 納得のいかない彼女を他所に、雅積が声をかけてきた。
「美香は優しいからな、オレが言っておく。その傷を治すほどの時間は、今のおまえにはない」
 ウサギにかけるときとは、やはりまったく声の質が違う。
 どこか威圧的、高圧的、上から目線といった口調だ。
「オレたちは追われてる身だ。だから、居場所は点々としないといけないし、病院に行くなんてことは無論、できるがはずがない。……そうだな、今置かれてる立場を明確に知っておけ。話についてきてもらわないと困る」
 言っていることの意味が一つも理解できない由貴に、雅積はテレビを見ろと拾ったリモコンで示してくる。
『……で起きた大量殺人事件、その被害者は地域の住民四名と駆けつけた警官八名です。凶器は不明。ただ現場の地形がおかしく変動しており――』
 ちょうど由貴の正面にあった台の上に乗せられた薄型の大きなテレビ、その画面に映った女性のアナウンサーが、何かを言っている。
『ですが、刺殺された痕もあり、犯人の凶器の一つに刃物があったと思われます。犯人に殺害された被害者の名前は、吉田美津子さん二六歳、鹿野聡里さん二三歳――』
 どうやら、どこかで殺人事件が起きたようだった。
 けれど、そういう事件はよく耳にすることが多い。そんなものを見せて何の意味があるのか、由貴には分からない。
 だが――
『……以上が殺害された被害者の名前です。今回の大量殺人事件、計一二名の方が亡くなられました。心より、お悔やみ申し上げます』
 と、アナウンサーが言うや、画面が切り替わった。
 地面が盛り上がったように隆起し、所々、土でできた『槍』みたいなものが地面から生えた場所。その『槍』は太いものもあれば、細いものもある。その周囲に敷かれた青いシートの周りで、恐らく鑑識だろう、道具を持ち青い服を着た人たちが作業をしている。
 由貴はその場所に、見覚えがあった。
 崩れたジャングルジムや滅茶苦茶になった砂場は、いつも見ていた光景とはぜんぜん違うけれど、確かにこの場所を知っている。
 忘れるはずも、間違えるはずもない。
 だって。
 だってこの場所は――この公園は、由貴の思い出の場所なのだから。
『目撃証言などを集めた結果、犯人と思しき人物の名前は――斑由貴。光明高校の二年生、斑由貴一七歳です』
「なっ……!」
 思わず、由貴は声を出した。
 信じられないことに、アナウンサーが、由貴が犯人だと伝えたのである。
 さらには、由貴の顔写真まで画面に貼り付けて。
(うそ、だろ……?)
 ありえない。こんなことがありえるはずがない、そう思いたかった。
 けれど、テレビで――公の場で、彼の名が報道されている。
 その事実は、紛れもなく、そこにあった。
「何で、だ……」
 自分がいつ、人を殺した。
 自分がいつ、そんなにも多くの人間を手にかけた。
 いつ、いつそんなことが――
 と、困惑する由貴に雅積が声をかけてくる。
「もう分かっただろう。普通の犯罪なら、おまえの名前なんか出るはずはない。が、今のおまえは、紛れもなく人殺しとして追われてる身だ。だったら、逃げるしかないって分かるな?」
 何も答えない。
 答えられるはずが、なかった。
「どうした? 分からないのか?」
「分かるはず、ないだろ……」
 掠れた声に、雅積が急にひどく冷たい視線をぶつけてくる。
「じゃあ、おまえは諦めるか?」
 ひどく、ひどく冷めた声だった。
 こんな声を、今までの人生で一度でも聞いたことがあっただろうか――そう思うほどに。
「おまえは諦めて、警察(サツ)に捕まって、研究所まで行きたいか? 美香も守れず、さっさと資料(サンプル)として死にたいってか?」
「研究所……?」
 どこかで、その言葉を聞いたことがあった。
 苦もなく、すぐに思い出せる。
 そう、あの時だ。あの時、彼女に彼女について話を聞いた時に、その単語を耳にした。
 資料という言葉も、聞き覚えがある。肩を撃ち抜かれたあの時――確かに、あの黒ずくめの男が言っていた。
「それは、嫌だ」
 大切な人を守れず、無力な自分を思い知るのは二度と御免だ。
 だから、由貴は答える。
 もう、あんなにも無様に、惨めな思いをして彼女を助けられないことを悔やみたくないから。
「そうか」
 それだけ言って、雅積は黙る。
 けれど、さほど間もおかず口を開いた。
「なら、一つだけ言っておく」
 雅積の放つ厳かな雰囲気に、由貴は慄いた。
 ごくり、と由貴の喉を生唾が落ちる。
「美香を守るってことは、世界を敵に回すってことだ。死ぬ気で、美香を守れ」
 睨むような視線を向けられて、由貴の体は強張る。
 言葉の意味は分からなかった。なぜ世界を敵に回すのか、その事情はまだ知らない。
 けれど、守らなければならないと思った。
 ――好きだから。
 だから、彼女を守りたい。
 だが同時に、不安を感じる。
 一抹どころではなく、彼のみでは抱えきれないほどの。
(おれは、守れるのか……?)
 世界から。
 雅積がこんなにも真剣に告げる、巨大な敵から。
 こんなにも弱い、たった一人の人間が、守り得るのか?
 そう思い悩んでいると、
『では、斑由貴の学校での知人にインタビューをしたいと思います』
 テレビから、さっきの女性とは違うアナウンサーの声が聞こえてきた。
 女性の声だが、どこか浮いた感じがある。場違いな声音だ。
『あ、そこの君、名前何て言うの?』
 声をかけられた女生徒が、カメラに向かって振り返る。
 その生徒の顔を見て、由貴の頭の中の考えがすべて吹き飛んだ。
『え? えと、綾瀬、美菜です』
『美菜ちゃん? じゃあインタビューしたいんだけど、いいかな?』
『えと、何の、ですか?』
『知らない? 今朝から報道してるんだけど、公園の大量殺人事件のニュース』
『すみません、今朝遅かったから、ニュース観てなくって……』
『そうなの? まあ、いいわ。それでね、この学校の斑由貴くんが犯人だって言われてるんだけど、美菜ちゃん、彼について何か知らないかな?』
『え!? ゆうが!?』
『あ、友達だったりする? じゃあさ、いつも彼がどんな感じだったか教えてくれないかな?』
『え、えと、それは……』
『普段どんな感じだったか、とか。よく口利くほうだったか、無口な方だったか、とか。何でもいいからさ』
『それは、その……すみません!』
『えっ? ちょ、ちょっと待って! あ……』
 一礼して校舎へ駆け出す美菜。その後姿をアナウンサーが引き止めようとするけれど、彼女は振り返ることなく校内に姿を消した。
 その映像を見て、由貴はどこかほっと安堵しつつ、表情を強張らせる。
 できれば、こんな状況にありながらも、美菜の誤解は解いておきたい。彼女には、どうか真実を知っておいてほしい。
 そう由貴は思うけれど、
「何だ、知り合いか?」
 雅積に聞かれて、かすかに動揺する。
「ああ」
「なら、会おうなどとは思うな?」
「っ……!」
 会う、ということが許されないことは、由貴にも分かっていた。
 研究所――美香を追い、今や彼さえも追っている敵は、公園に銃を持った連中を配置でき、さらには発砲までもできるほど常識を超えている。ならば、由貴の周囲に手を回すくらいは簡単にやってのけるだろう。
 だから、由貴はもう、今までの知り合いとこれ以上の接点をとってはいけない。
(けど、美菜は……)
 本当は、美菜だけではない。
 家に帰れば、家族だっている。
 けれど、美菜は彼にとっての親友だ。家族にはもちろん、彼女にだって真実を伝えたい。
「会えば居所が知れる。情報が知れる。それくらいおまえにも分かるな?」
「…………」
 言われるまでもなく分かっているからこそ、由貴は何も言えない。
 雅積は、呆れたように、けれどどこか厳かに言い放った。
「おまえが守りたいものは何だ? 守るべき女は誰だ? 誰かを守るってことは、生半可に決意していいことじゃあない」
 守りたいものがあるからこそ。
 誰かを守りたいと思うからこそ、捨てなければ――諦めなければいけないことがある。
 それは、子供のわがままのように勝手に取捨選択できるものではない。
「言っただろう、世界を敵に回すんだよ、おまえは。その覚悟があるって言うなら、親も、友達も、何もかも諦めろ。たった一人を、見てなきゃいけないんだからな」
 それは分かっている、と由貴は言い返したい。
 けれど、何も言い返せないのが現状である。
 それほどの覚悟を、本当に決意していたか?――そう自分自身に問うてみれば、彼の心は、何も答えてくれない。
「まあいいさ、どの道、おまえは覚悟を決めないといけないんだ――その理由(わけ)を、今からちゃんと教えてやる」
 雅積はリモコンを硝子机に置いて、部屋を出て行こうとする。
 その去り際に、彼は一つだけ残していった。
「だから、表に出ろ。直々に、体に叩き込んでやる」
 言葉の意味など何一つ理解できぬまま、やがて、由貴は立ち上がる。
 心配そうに見つめてくる彼女に、一つ大丈夫だからと言葉をかけ、背を向けた。
 肩の傷も、脚の痛みも、まだ痛む。
 今にも脚から力が抜け、階段を転げ落ちそうになるのをどうにか堪える。
 そして、玄関を出て開けた庭で雅積と対峙した彼は、ようやく知ることになる。
 この脚の痛みの原因と。
 ――それから、己が犯した、罪について。

 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、綾瀬美菜は弁当箱を持って屋上へ向かった。
 いつもなら、扉を開けると授業をサボってフェンスにもたれている彼の姿があるのだけれど、今日は見当たらない。
 それもそのはずだ、ニュースで報道され今や世間で騒がれている殺人犯が、こんなところにいるはずがない。
 美菜はいつもは彼がいるはずのところに座ると、弁当の包みを広げた。
 が、蓋を開けて、おかずとご飯が目の前にあるというのに、まったく食欲が湧いてこない。
 腹の虫もぜんぜん鳴ることなく、これではどうしようもないから、何となく空を見上げてみる。
「高い、か……」
 そういえば、いつも彼がそう言っていたような気がして、ふと呟いた。
 確かに、高い。いくらかの雲が棚引く先で、悠々と青空が広がっている。
「ま、当たり前だけど」
 空というものは、そもそういうものだ。
 美菜は殊更、そんなものを見て感慨に浸ったりはしない。
「にしても、あいつどこ行っちゃったんだか……」
 ついつい、考えが口に出てしまう。
 こういう独り言は、美菜の癖である。頭で考えるよりも、声にした方が考えがまとまりやすいので、いつもそういうスタイルをとっているのだが、いつからだったか無意識のうちにも呟くようになった。
「あいつが人殺すなんてありえないのになー……ニュースもみんなも、何の間違いだろ?」
 楽観、というわけではない。
 美菜と彼の関係は、中学校一年の頃からだ。決して長いとも短いとも言えない付き合いだけれど、彼女は確信している――彼が人を殺すはずがない、と。
「だってあいつ、馬鹿だし、臆病だし、弱虫だし……人なんて殺せるわけないじゃん」
 初めて知り合ったのは、五年くらい前の中学校の文化際の時だったと記憶している。
 いや、知り合った瞬間自体は入学式当初、あるいは同じクラスになって皆が自己紹介をしたその時。
 美菜が彼を知った初めの頃、彼はクラスに馴染めていなかった。
 授業後の短い休み時間も、昼休みも、放課後も、いつも一人で机に座っていた。いや、放課後になったら、真っ先に帰宅していた。
 そんな彼と話すようになったのが、あの文化祭の時。
 彼は準備の時だって、いつも一人だったけれど、誰とも話すことなく汗水垂らして作業をしていた。他の人たちが喋っている間も、ずっと一人でがんばっていた。
 その姿を見ていて、何でだろう? と美菜は不思議に思った。他の人がサボっているのだ、会話こそなくとも、自分だってサボってしまえばいい。そういう風に思って見続けていたら、いつしか彼のことが気になり始めていた。
 好意を寄せていたとか、そういうものではなく、ただ単に興味を引かれたのだ。
 そして、ある日、彼女は話しかけてみた。彼は無愛想で、上手く会話は進まなかったけれど、それでも会話すること自体に嫌がりはしなかった。だから、思いきって抱いていた疑問を聞いてみると、
「誰かがやらなきゃ、どうにもならないだろ。誰もやらないから、やらないといけないんだ」
 そう彼は答えて、そっぽを向いた。
 その時のことは、今でも鮮明に覚えている。何せ、あの時、美菜はつい噴き出してしまったのだ。別に、その理由を馬鹿にしたわけではなかった。返ってきた答えがあまりに真面目なものだったから、どこかおかしく思ったのだ。
 それから、美菜はいよいよ彼に興味を持ち始めて友達という関係になり、やがて親友という関係にまでなった。
 それで、ようやく互いに親友であると意識し始めた頃に、彼女は聞いてみた。
「何で、友達作るの苦手なわけ?」
 ――と。すると、彼は恥ずかしそうに答えた。
「……分からないんだ、どう話しかければいいのか。テレビとかも観ないから、あんまり話題がないしな。それに、どことなく、心苦しい」
「はぁ? 心苦しいって、何よそれ?」
「いや、何だ……無理矢理、友達を作るとか、何か嫌なんだ。作り笑いするのも、周りに無理に合わせるのも、何だか苦しくなる。友達っていうのは、ちゃんと前向いて話せるのじゃないといけないだろ?」
 そんなことを言う彼に、美菜はこう言った。
「あんた馬鹿? それとも真面目すぎなの?」
「いや、別にそういうわけじゃないんだが……まあ、何だ、それにあれだろ? おれって、みんなから嫌われてるからな、一人の方が、楽なんだ」
「それはあんたが、いつもしかめっ面でいるからでしょうが。その顔で何も言わないから、みんな怖がるのよ」
 彼は整った顔立ちの割りに、人から好かれなかった。
 いつも眉根を寄せて、不機嫌そうにしているからである。本当はそう見えているだけで本人が自覚していない、というだけの話なのだが、みんなも彼も、上手く分かり合えない。
 いつからか彼は不良とまで言われ、悪い風評ばかりが校内に流れていた。
 けれど、美菜は知っている。
 実は、彼は不良なんかではなくて、ただ人との付き合い方が分かっていない真面目すぎる人間だってことを。
 みんなが思っているほどに悪い人間ではなくて、ましてケンカとかにも強いわけではなくて、人としても十分に弱い人間であることを。
 だから、美菜は確信できる。
 彼が人を殺すはずがないのだと。
 彼に、人を殺すほどの度胸などないのだと。
「ほんと、どこ行ったのかなー……」
 心配はしている。
 けれど、朝インタビューで聞いたように彼が人を殺したということは、何かの間違いだと思っている。
 だから、美菜は考える――彼がまたこの屋上に帰ってきた時、このネタをおかずにして笑ってやろうと。
 だから、美菜は願う。
 ちゃんとまた、会えるようにと。
 彼とここで、また、他愛もない話ができるようにと。
 ――その日、高校生になって初めて、美菜は昼ご飯を抜いた。

「先に言っておく。おまえは間違いなく、人を殺している」
 庭で彼と対峙しあって数分、由貴は単刀直入にそう告げられた。
 沈黙する由貴に、彼――雅積は容赦なく淡々と続ける。
「だが、ニュースで取り沙汰された大量殺人事件の真犯人はおまえじゃない。おまえは確かに大量の人間を殺しているが、あの近隣の住民を殺してはいない」
「……どういう、ことだ?」
 言葉の意味が何一つ理解できなかった。
 テレビでは確かに、由貴が犯人だと報道されていた。その訳すら分からないのに、さらに頭の中が混乱する。
「昨日、おまえは会ったはずだ。銃を持った研究所のやつらとな」
 それは覚えている。
 何せ、あの連中の一人に肩を撃ち抜かれたのだ。忘れようにも、忘れられるはずがない。
 けれど、それがどう関係するのか、由貴はよく分からない。
「詳しいことは面倒くさいから省かせてもらう。端的に言って、あの時、あの研究所のやつらを殺したのはおまえで、住民を殺したのは研究所のやつらだ」
 あまりの衝撃に、由貴は顔を強張らせる。
(おれが、あいつらを殺した……?)
 とても、信じられる話ではない。
 第一、あの連中は銃まで所持していたのだ。武器の一つすら持っていなかった彼がそんな連中を相手に優勢に立てるはずもなく、まして殺害なんてことをできるはずがない。
 できるなら、それさえも何かの間違いだと思いたかった。
 だが――
「信じられないなら、信じられるようにしてやる。美香、おまえも構わないだろう?」
 気付けば、いつの間にか彼女が少し離れたところに立っていた。その隣に、小柄のウサギもいる。
「ウサギ、おいで」
 優しい口調で、雅積がワンピースの少女を呼んだ。
 ウサギが無邪気にすぐ近くに立つと、彼は片膝をついて、彼女と目線を合わせるようにしゃがむ。
「ウサギ……」
 その瞬間、由貴は目を見開いて驚いた。
 ありえない光景が、目の前で起きたのである。
(う、うそだろ……)
 外見も内心も、驚きを隠せない。
 何せ、あの雅積が、あのウサギと、キスを交わしたのである。
 どう見ても、年齢差は大きい。外見だけでも、まさに犯罪行為に見えるのだが……
 けれど、何事もないように唇を離した雅積は、おもむろに立ち上がって――
「さあ、始めるぞ」
 なんてことを、さも当然のように言ってくる。
 あの黒ずくめの連中も十分に異常(イカ)れていたが、こちらもこちらで異常れているように見えて仕方がない。
 今までに加え、さらに色々な意味で混乱していると、咎めるような声で呼びかけられた。
「何をしてる――おまえも早く、美香とキスをしろ」
「っ?!」
 どうしようもなく、動揺する。
 それも致し方ないことだけれど、どういう訳か雅積は催促してくる。
 ちらと後ろにいる彼女を振り返ると、どこか照れたように俯いていた。
「待ってくれ、一つだけ先に――」
 と事の次第を聞こうとしたのだけれど、
「つべこべ言うな。理由が分からないなら、今から見せてやる」
 そう言うや、雅積が右手を上げ天へと伸ばす。
 その瞬間――
 由貴は、不意に起きた異変に気が付いた。
 雅積の目が、赤くなっている。そう距離があるわけでもないが、この距離からでもはっきりと認識できるほどに。
 いや、もしかしたら急に辺りが暗くなり始めたから、そのせいであの『赤』がより際立って見えるのかもしれない。
 と、そう考えて一つのことを疑問に思う。
(何で、雲が……)
 つい今の今まで、空は立派な快晴だった。
 それなのに、今、空には雨雲のような薄暗い曇天が広がりつつある。
 まさか雅積の行動が関係しているのだろうか、そう考えるけれど、そんなことがありえるはずがないと由貴は首を振って否定する。
 だって、何をどう考えても、ありえるはずがないのだ。
 人が天候を、自在に操れるだなんて。
 そんなことは、このご時世、科学の力を使ったってできるはずがない。
 けれど、雅積の瞳が一層と強い『赤』を放ったその数瞬、由貴は信じられない光景を目撃した。
「来い……」
 その小さな呟きを合図に、空から一筋の閃光が落ちてくる。
 とても、目で捉えられる速度ではない。
 慌てて目を見開いた時には、すでに彼――雅積の体に直撃していた。
「……ッ!?」
 背筋が凍てつくほどに、戦慄する。
 どう見ても雷と言える光が落ち、轟音が響き――彼の体は、跡形もなく光に飲まれた。
 けれど、数秒もないその数瞬後。
 由貴の目の前に現れた彼の体は、落雷をまともに喰らったというのに、傷一つすら負っていなかった。
「おまえ……」
「どうだ、これがオレたち感染者の持つ力だ。おまえにも、あるんだよ、この力がな」
 得意げな顔で言ってくる。
 だが、由貴は何を言っているのかさっぱり理解できない。
「だから、美香とキスをしろと言っている。感染者は、力を解放するために『鍵』をもらわないといけない」
「か、ぎ?」
 その鍵というのが、キスだとでも言うのだろうか。
 いやそれよりも、そもそも感染者とは何だ? あの黒ずくめの男も言っていたけれど、由貴には何を言っているのか分からない。力も、その鍵も、感染者も。そして今や、雅積という異常な存在が理解できない。
 が、ふと一つだけ頭の中に入り込んでくるものがあった。
「おれにも、その……『力』、っていうのがある?」
 力、というのが何なのかは分からない。
 けれど、その言葉そのものに興味を引かれた。ちょっとやそっとではなく、心の奥底から。
「ああ。おまえにあるはずだ、力がな」
 あの時――肩を撃ち抜かれ、彼女を助けることもできず、由貴はただ、力を求めた。
 心の底から、誰にも負けない、彼女を悲しませない、強大な力を望んだ。
 いったいどれほどかは分からない、けれど、明らかに尋常ではない力が自分の胸のうちに眠っていることを知って、由貴は体を震えさせる。
 それは歓喜の震えだ。
 渇望していた力が、この手にあるのだということを、全身で喜んでいる。
 今目の前で見たような力を手に入れられたなら、使えたなら、
(おれは、ミカおねえちゃんを……)
 何者からも、守ってあげられる。
 ただそのことに、由貴はあまりの喜びを隠し切れなかった。
「だが、初めに言っておく。力を使いすぎたら、死ぬぞ」
 警告され、由貴は動揺した。
 死ぬ、という言葉に敏感に反応する。
「服を剥いで、左の胸を見てみろ。そこに、おまえの寿命が示されている」
 肩の痛みを堪えて、言われた通りシャツを左手で掴んで持ち上げる。
 すると、左の胸――ちょうど心臓部に、おかしな絵が記されていた。まるで刺青(タトゥー)のようだけれど、ちょっと違う。まるで生まれたときから書かれていたように、肌によく馴染んでいた。
 少し太めの、黒い三日月。
 やがては満月か、あるいは新月になるだろうそれは、どこか不気味に胸に刻まれている。
「それはやがて、半月になる。その時が、おまえの死ぬ時だ。力を使えば使うほど、どんどん進むからな。気をつけろよ」
「何で、半月になったら死ぬんだ……?」
 力を使いすぎれば死に至る、その理屈も、どうして半月であるのかも分からない。
 第一、どうして力を使って死ぬのだろうか。何一つ、由貴は分からず、ただ雅積の説明に集中した。
「力を使うほどに、力が強力になっていくからだ。研究所の実験じゃ、半月が限界だった。そこまでなると、もう死ぬしかない。力が暴走してな」
「力が暴走する? ずっと使い続けられるわけじゃないのか?」
「そうだ。いずれ、死ぬんだよ、オレたちは。周りのやつらより、ずいぶんと早くな」
 そう言ってから、雅積は皮肉げに、けれどどこか懐かしむような穏やかな表情で話した。
「被検体って呼ばれる女の子と契約(ファーストキス)を交わしたやつは、感染者って呼ばれ、力を手に入れる代わりに、その力を使って死んじまう。そんな運命(さだめ)なのさ、オレたち馬鹿な感染者はな」
 被検体と呼ばれる女の子、それはつまり、由貴の場合は今背後にいる彼女のことを指すのだと、彼はすぐに理解できる。
 被検体01、それが彼女の呼ばれていた名らしかった。
 黒ずくめの男がそう呼んでいたのを思い出して、ちょっとイラッとするけれど、今はとにかく置いておく。
 それよりも、今は情報を整理することが重要だ。
 被検体、感染者、鍵。
 雅積の話を聞いて、大体の意味は理解できた。被検体は単なる呼び名、感染者は彼女たち被検体と契約(ファーストキス)を交わして力を得た人間のこと、そして鍵は、彼女たちのキスのこと。
 今までの話からまとめれば、恐らくこんなところだろう。
 けれど、まだそれぞれの意味を明確に頭で理解できたわけではないから、由貴は確認を取ろうとする。
 が、雅積が不意に言葉を続けた。
「ちなみに、力を使いすぎるとってのは間違いかもしれない。きっと正確には、鍵をもらった回数――キスをした回数だ。どれだけ力を使ったかも、関係あるにはあるんだろうが。まあだから、ちゃんと注意しろよ、守りたい女のために死にたくないならな」
「……ああ」
 なぜだか、どこか釈然としない。
 肩の痛みが、意外と気になっているからかもしれない。
 だから、思考がいけない方に進むのかもしれない。
 だから、こんなにも、よくない考えが浮かんでくるのだろう。
 だって、そんなにも早く由貴が死ぬというのなら――
「もし、もしだ」
 これは、あくまで仮定の話でしかない。
 ふと思いついた、よくない考えだ。
 きっと、どこか矛盾を孕んだ、ありえない考えなのだ。
 そう思いながらも、由貴は口にする。
 違う、と否定してほしくて。
 そんなことはないのだと、はっきりと言ってほしくて。
「もしおれが死んだら、ミカおねえちゃんは、一人になるのか……?」
 由貴の不安を他所に、雅積が沈んだ表情で答える。
「そうだ、な。オレたち感染者は早く死ぬ。どうせ研究所にいても力は使わせられるし、そうでなくとも、外にいたら研究所に追い回される。どの道、力は使わないといけない。だから、」
 一度句切って、雅積はウサギの頭を優しく撫でた。
「だから、いつかはオレも、ウサギを置いていかないといけない。死ぬってのは、どうしようもないからな」
 どうしてそう割り切れるのか、由貴は分からなかった。
 由貴が雅積のことを知っているかと言えば、何せ今日まともに話したばかりなのだ、当然知っているはずがない。
 けれど、雅積がウサギのことを大事に思っているということは、今朝からでも十分に分かる。まず扱いが違うのだ、その時点で、彼はウサギのことを他の人間とは区別している。
 だから、どうして『いつかは』なんて言って大切な人を一人残すことを割り切れるのか、由貴は理解できない。
 別に、由貴は情熱的な人物というわけではない。彼自身、そのことは自覚している。
 だが、大切な人が関わってくれば、話は別だ。
 死に物狂いで守りたいと、心から思う。失いたくないと、切に願う。
 それに、由貴はすでに一度経験している。大切な人が、好きな人が突然、目の前からいなくなるその悲しさを。
 その――怒りにも似た、やるせなさを。
 それをずっと、今まで抱いてきたのだから、由貴は十分すぎるほどに痛感している。
 その痛みを抱えて、由貴はいつも待ち望んでいた。
 再び、彼女に会えることを。
 それも、七年間という月日をずっと、彼女のことを忘れることもなく。
 だからこそ、雅積のように割り切れたりはしない。
 割り切ることなど、できるはずがない。
(ようやく、会えたんだ。なのに、また……)
 もう、離れることになるのは嫌だ。
 また、彼女と別れることになるなんて、もう御免だ。
 由貴は、あのやるせなさを、二度と味わいたくない。
 まして、自分が死んで彼女の前から消えるなんて、想像もしたくない。
 痛切な悩みを頭の中で考えていると、雅積がウサギの頭から手を離し、こちらを向いて手の平を前に差し出してきた。
「オレの力は、ウサギを守るためにある。おまえも、美香を守るために力を手に入れたんじゃないのか?」
 言って、ぎゅっと強く、差し出した手で拳を作った。
「だったら、守りたい女を全力で守ればいい。今できることを全力でやって、全力で生きろ。どうせ短い命だ、果たしたいことは全力で果たしてから死に腐れよ」
「ぜんりょくで、生きる……」
 雅積の言っていることは理解できる。
 けれど、理解できるのと心のうちから『分かった』というのは、ぜんぜん意味が異なってくる。
 理解できても、それをよしとできないのだ。
 全力で生きることは、確かに大切だ。生きていく上で、まして他人よりも余命が短いのなら、なおのこと。
 だが、だからと言ってどうして踏ん切りをつけられるだろうか。たとえ全力で生き抜いたとしても、きっとやるせない気持ちには後悔するだろう。
 なのに、目の前の雅積は誇らしげにそう言ってくる。
 全力で生きることが、正しいと心から信じているように。
 葛藤の末、結局、由貴は結論を得ることはできなかった。
「細かいことはいい。とりあえず、おまえは自分の力について早く知れ。時間は、あまりないんだからな」
 言われなくとも、力については早く知りたいところだ。
 咄嗟にそう思うけれど、由貴は戸惑う。力を知ることに、ではなく、力を解放するための『鍵』に。
「美香、頼んだ」
 雅積がそう言うや、彼女が歩み寄ってくる。
 思わず、一歩足を退いた。軋むような痛みに苛まれるが、我慢できないほどではない。
 それより我慢できないのは、彼女が近寄ってくることだ。
 その恥ずかしそうに赤らんだ顔を見ているだけで、どこか心地が浮いてしまう。同時に、なぜだか危機が迫っているような緊張感も襲ってくるのだけれど。
「ミカおねえちゃん……」
「心配しないで、ゆうくん。ゆうくんのこと大好きだから、大丈夫だよ」
「そういう、ことじゃなく――」
 と、言葉を続けるよりも早く、彼女がそっと優しく、頬に手を添えてくる。
 そのまま、ゆっくりと顔を近づけてきて。
 小さく背伸びをした彼女の柔らかい唇が、音もなく、重なった。
 いったん呼吸が止まり、目を見開くけれど、すぐに気持ちよすぎて恍惚と目を細める。
 抗いようのない気持ちよさは、彼女の温かい温もりだ。
 その温もりを受け、由貴は、不意に違和を感じた。
 温もりに混じって感じる、胸の底から湧き上がってくる何か。
 徐々に膨れ上がっていくそれに、やがて唇を離した由貴は、両肩を抱きかかえる。
 この感覚は、公園で意識を失う寸前に感じたものと、よく似ていた。
 そう、あの時と――
「うっ……うっ、がぁ……うぁ……っかはっ」
 あまりの気持ち悪さに、呼吸が乱れ、吐き気を催す。
 くずおれて膝をつけば、体の芯から体温が急激に下がっていくのが分かった。
「拒絶反応か。まあじき慣れるだろう、我慢しろ」
 そう言われて、声の主の顔を見上げる。
 面白そうでもなく、つまらなそうでもなく、ほとんど無表情と言える顔で立っていた。
 すると、不意に目にひどい熱を感じた。まるで、瞳を炙られているような熱さ。
「ぐっ、うぁあああああ……ッ」
 声を上げ、顔を押さえて蹲る。
 心配そうに彼女が駆け寄ってきたが、その時にはもう、遅かった。
 一際強い熱が瞳を焼き、ついで、ドクンと心臓が波打つ。
 わずか数十秒の出来事、気付けば、つい今までの熱さはもう感じられなかった。
「呆けるな。さっさと立て」
 ただ呆然とした由貴に、容赦のない言葉がかけられる。
「これぐらいでギブアップされちゃあ、困る。今から、さらにきつくなるってんだからな」
「……ああ」
 悄然と、由貴は答えてみせた。
 あの時。
 公園の時みたいには、気を失ってはいない。なら、知るべきだ。己の持つ力が、いったい何なのかを――
 痛みを噛み堪え、ゆっくりと立ち上がると、雅積が指示をしてくる。
「それじゃ、まず頭の中で思い浮かべてみろ。おまえの力が、どんなものなのか。どんな力で、美香を守りたいのか。それがそのまま、おまえの力になる」
 言っていることは、理解できる。
 だから早速、由貴は頭の中で想像する。自分の力を、創造(イメージ)する。
 そして、一つの場面(シーン)が脳裏に蘇った。
 それは、あの思い出の場所。
 彼女と出会った、公園の砂場。
 それから、さっきテレビで観た公園の姿が浮かぶ。氷柱を逆さまにしたような、『槍』みたいに変形した地表。きっと、その『槍』を自在に扱えたなら、いつでも自由に作り出せたなら、それだけで心強い力になるだろう。
 と、そう考えた時、不意にズキリと頭痛がしてつぶっていた目を細く開ける。やがて耳鳴りまでも襲ってきて、気持ちが悪くなった。
「自分に勝て。痛みも、吐き気も、何でも堪えてみせろ。そうじゃないと、力は使えないぞ」
 分かっている、という一言すら返せない。
 今声を出せば、まるで栓が抜けたように全身の気持ち悪さを外に吐き出してしまう。
 だから、想像することに専念する。
 あの公園を。
 あの『槍』を。
 彼が望む力を、想像する。
 すると――
「……これが、おまえの力か」
 雅積の声がして、ゆっくりと、由貴は目を開く。
 すぐ目の前に地表から聳えた細長い物体を認めて、彼は驚いた。
(これが……これが、力なのか……?)
 思い描いていた、一本の『槍』。
 土色のそれは、雷のように強烈な印象はないけれど、頼もしい風格を醸している。 
「それじゃ、本番はここからだ」
 彼女を守ってみせるため。
 そのための力を知るべく、由貴は己の作り出した武器を強く掴み取る。
 覚束ないながらも、彼――斑由貴は、大切な人を守るために立ち上がった。 
 ただ一心に、純粋な思いだけを込めて。

 風音美香(かざね みか)は、目の前の少年をひたすら見つめていた。
 見守るように温かに、けれどそれは、あくまで外見だけそう見せかけて。
 心のうちは、本当は、とても複雑だ。
 何がどう、と言われれば、あまりに複雑すぎて上手く言い表せない。強いて言うなら、何十本もの糸を絡ませ、罪悪感という重りを上に乗せた感じだろうか。
 何にせよ、複雑な彼女の心を、罪悪感という殻が包み込んでいた。
 たった一人――今、目の前で力を使う練習をしている少年への罪悪感が。
 美香は、彼のことを心から好いている。今だって、美香のために荒療治の練習をしてくれている彼を、七年前からずっと、好きでい続けている。
 だからこそ、彼女には相応の罪悪感があった。
 彼女の願い、そのために、彼を利用することに――
 彼の力と、何より彼が好意を寄せてくれているという思いを利用することに、身を裂くほどのつらい思いがある。
 でも、美香の願いを遂げるためには彼が必要なのだ。
 願いを叶えさせてくれるのは、彼でないと意味がないのだ。
 七年前、公園で彼を見かけた時のことは、今でも鮮明に覚えている。あの時が、すべての始まりだったのだから。あの時、美香は、彼を巻き込んでしまったのだから。
 今思えば、あの時、彼に話しかけるべきではなかったのかもしれない。
 今さらになって、美香はそんなことを考えるようになっていた。彼を公園で見かけた時に、声をかけなければよかった――そう思うように。
 だって、そのせいで彼女は今、こんなにもつらいのである。
 彼とまた会えて、嬉しいという気持ちがあったのは、いや、あるというのは真実である。
 だが同時に、過去、会ってはいけなかったかもしれないと思うのも、また厳然とした真実なのだ。
 彼女自身が、嘆かないために。
 彼女が、やがて彼を悲しませないために。
(でも……)
 けれど、美香は彼を好きになってしまった。
 どうしようもない、過ちを、犯してしまった。
 本来なら関係のなかった彼を、感染者にし、こうして彼に願いを叶えてもらおうとしている。
 彼に願いを叶えてほしいと思うまでに、好きになってしまっている。
(ダメなのに……)
 つらい、けれど好きだからこそ、どうしようもない。
 本当なら、一人ぼっちだった彼を放っておくべきだったかもしれない。いくら実験が長く続いて、寂しくなっていたからと言っても、彼の傍にいるべきではなかったかもしれない。
 いくら彼が初めての友達で、あまりに無邪気で、あまりに優しくて、だからと言って、好意を寄せるべきではなかったかもしれない。
 けれど、結局、美香は彼を好きになってしまった。
 それは、互いに、一人ぼっちだったからかもしれない。
 彼は、本当の両親がいないと言っていた。砂場で一緒に山を作りながら、いつか、彼はそう教えてくれたのだ。交通事故だったのだと、美香は聞いている。車で事故に遭ったと言っていたから、きっと違いないだろう。
 両親を亡くしてから、彼は親戚の家に預けられることになったようだった。けれど馴染めなくて、公園で一人ぼっちで遊んでいた。
 彼は、一人を知っている。
 孤独というものを、知っている。
 だから、そういうところに、美香は惹きつけられたのかもしれない。
 孤独を知って、知っているがゆえに生まれる純粋な優しさ――きっと、彼のそういうところに惚れたのだろう。
 過ちを犯したことを、美香は後悔していると同時に、どうしても、嬉しさを感じてならない。
 そう思ってはいけないのが本当だろう、だが、彼になら願いを叶えてほしいと思うことができる。
 彼だから、願いを叶えてほしいのだ。
(ゆうくん……)
 小さい頃につけた彼の渾名を、忘れたことはない。
 彼のいるこの町の研究所を離れてからも、ずっと、彼のことを思い出していた。
 だから、願う。
(わたしを、)
 ずっと待ち続けていた願いが叶う日が、きっともう、近いから。
 彼は、美香の願いをきっと、叶えてくれるから。
 だから――
(わたしを、早く、殺して……)
 何も知らない彼を見つめて、もう何度目かも分からないけれど、美香は心中で切実に呟いた。

「い、っ……ッ」
 思っていたよりも激しい運動をしたせいで、肩の傷が余計に痛んだ。
 二階のベッドに戻った由貴は、またポテトチップスを食べ始めた雅積の視線の先、テレビへ目を遣った。
 何かのバラエティーだろうが、そもそもテレビを見ることがほとんどない由貴にとっては、番組のことなどどうでもいい。
 とりあえず、目下の問題はこの肩の傷である。
 とそう思ったけれど、
「雅積、一つ、聞いてもいいか?」
「何だ? 内容によるな。ま、とりあえず言ってみろ」
「足が痛むんだけど、何でだ? 心当たりがなくて……分からないんだけど」
 すると、雅積は振り返らないまま答えた。
「昨日、暴走したからだろ? たぶんな。暴走は体痛めるからな、特に脚がキツイったらないぜ。意識飛んでるから限界超えても立ちっぱなしって感じだからな。そりゃ、全身の負荷を集中して受けてんだから、脚だって悲鳴上げたくなるさ」
「暴走……?」
 いつ、由貴が暴走したというのだろうか。
 第一、暴走したら死んでしまうと庭で言ってはいなかったか?
 庭での会話を思い出し、由貴は訝しむ。
「ああ、おまえは覚えてないんだっけか?」
 まるでどうでもいい些細なことを言うように、彼は続ける。
「暴走には、二つあるんだよ。一つはα事象っていう暴走、もう一つは、Ω事象っていう暴走だ。感染者の力は、二回目の鍵をもらった時に覚醒するんだが、その時、力が暴走するんだ。で、Ω事象は最後の暴走。つまり、半月になった時に起きる、死ぬ寸前の暴走さ」
「あるふぁ……おめが……?」
「ああ。ま、研究所の連中が言ってたのを聞いただけだがな」
 だが、それではいくらか、不可解な点がある。
 同じ暴走なのに、どうしてα事象では感染者が死なないのだろうか。それに、二回目で暴走するのはなぜだ。なぜ、一番初めに暴走して、生きているのだろうか。
「オレたち感染者は、鍵をもらう度に力を得るんじゃない。一回目の鍵――契約によって、力のすべてを体に与えられるんだ。鍵は、その力を少しずつ解放していく。α事象が起きるのは、覚醒した時の力に耐えられないからだ。だから、少し体が馴染むまで、最初に力を吐き出さなければいけない」
 雅積が、不意に振り返る。
「そして、おまえは、α事象で研究所のやつらを殺したんだよ」
 由貴は衝撃を受ける。
 α事象によってあの時の研究所の連中を殺害した、それは記憶にこそなくて実感はよく感じられないけれど、あくまで人を殺したということに、罪という重みを感じ得ない。
 たとえ、殺した相手がどんな人間だったとしても。
「ま、そのことを気にするなとは言わない。だが、気にし過ぎてくれるなよ? 面倒だからな」
「……ああ」
 釈然としないけれど、頷いておく。
 不謹慎だけれど、まだ覚えていないのが、由貴にとっていくらか幸いだった。
「それより、少し確認しておきたいことがある」
 ポテトチップスの袋を置き、立ち上がり様に雅積が言ってきた。
「何を、確認するんだ?」
「何、簡単なことだ」
 そう言いながら、近寄ってくる。
「っ……!」
 不意に押し倒されて、肩の痛みが由貴を襲った。
 ベッドの上で押し倒され、上に雅積がいるのでは、まるで男女間の情事のようだ。
 けれど、由貴と雅積の関係でそんなことはありえない――もっとも、あくまで雅積にそういう趣味がなかったらの話ではあるけれど。
「おまえは、本当に、美香を愛しているか?」
 何を今さら、と思いもするが、雅積の表情があまりに真剣だったので、由貴はちょっとだけ戸惑う。
 が、答えは初めから決まっていた。
「ああ」
 たった一言。
 それに雅積が、怖いぐらいに眉根を寄せる。
「なぜ、そう答えられる。おまえは、愛がどういうものか分かっているか?」
 分かっている、とはすぐには答えられなかった。
 愛がどういうものなのか、具体的に、それを述べることはできない。 
 まだ若い由貴は、上手く説ける言葉を持ち合わせていなかった。
「今は、美香はいないから言わせてもらうぞ。おまえは、何があっても、本当に美香を好きでい続けられるか? 何があっても、愛していられるか?」
「……どうして、そんなことを聞く?」
「答えろ」
 雅積の圧倒的な凄みに、由貴は視線を逸らした。
 生半可な質問ではない。本当に、由貴の心情を問うているものだ。
 なぜ、こんなことを聞いてくるのかは分からない。
 なぜ、こんなにも真剣な剣幕で問うてくるのかは、分からない。
 けれど――
(答えないと、いけない)
 それだけは、分かる。
 それすらできなかったら、由貴はきっと悔やむだろうとなぜだか思えた。
 だから、雅積の瞳を見つめて、答える。
「ああ。好きで、いられる」
 すると、
「吐かせ、ガキが」
 なんてことを言われ、ムッとした。
(答えろって言ったのは、おまえだろ……)
 心中のみで毒づき、理不尽な物言いをする相手を見つめる。
 雅積は、小さく笑っていた。微笑んでいるようだけれど、由貴から離れるや、またポテトチップスの袋をとって話しかけてくる。
「美香は、もう何年も実験施設にいた。オレが施設に入れられた時には、もういたからな」
 唐突にそんなことを話し始め、とりあえず由貴は、体を起こして静かに聞くことにした。
「オレにとっては、美香は姉、みたいなものだ。だから、おまえに覚悟がないなら、任せてやれない。ただでさえ、おまえはヘタレで役立たずなんだ。不安で仕方がないさ」
 ひどい言われようだけれど、どこか嫌われている感じは今朝からも分かっていたので、とりあえず気にしないでおく。
 だが、結局のところ、雅積が何を言いたいのかが由貴は分からなかった。
 ただ、それを模索しながら聞き入る。
「ウサギや美香のような被検体は、心臓に『Dストーン』と呼ばれる石を埋め込まれている。被検体は、石を埋め込まれる適性者として研究所に連れて行かれるのさ。その実験の途中で生まれた感染者や、感染者の候補も研究所の実験施設に収容される」
 まるで懐かしむように、彼は続けた。
「施設自体は、別段、居心地が悪いわけじゃなかった。いい環境だったと思うさ。だがな、オレはあの研究所が許せなかった。いや、研究が、というべきか」
 ポテトチップスの袋が、握り潰される。
「『Dストーン』は、全部で一二個見つけられている。詳しいことは、まだ分かっていないらしいがな。最初に石を埋め込まれた被検体は、被検体00――研究所の所長が自ら被検体に決めた、所長の娘だ。彼女が石を埋め込まれた時には、まだ、他の被検体は石を埋め込まれていなかった」
 たぶん、一番初めの被検体で調査をしてから、他の被検体で実験していこうという考えだったのかもしれない。
 その思惑が簡単に想像できて、由貴は腹立たしく思う。
(どうして、そんなことができる……!)
 人体実験こそが、そもありえない話なのだ。
 それが現実に起きているということが、一番の問題に違いない。
「そして、被検体00は石を埋め込まれ、感染者を生み出し、過酷な実験に晒されるようになった。毎日毎日毎日、実験ばかりが続いていた。オレたちは、それを見ているしかできなかった」
 それから、雅積は一度句切って、深く息を吸った。
「その結果、ある日、被検体00の感染者が暴走した。さっき教えたΩ事象だよ。地下の核シェルターを残して、その時の研究所はすべて消えた」
「きえ、た?」
「そうだ。消えたんだよ、Ω事象によってな」
 そんなにも、暴走の威力は凄まじいものなのだろうか。
 そう考える間もなく、雅積が続けてくる。
「α事象よりも、Ω事象の方が威力も規模も断然大きい。α事象はあくまで体に力を馴染めるためのものだけに過ぎないからな。Ω事象は力をすべて、暴走させるんだよ」
 それはさて置き、と雅積は促す。
「被検体00の実験は、感染者が暴走した後も続いたんだよ。新たな感染者が作れないか、それが、感染者暴走後の実験目的だった」
 どこまでも卑劣な実験だと、由貴は話を聞いているだけでもつくづく思う。
 それを雅積は目の前で見てきたのだから、その心境は、由貴に計れるようなものでは決してないだろう。
「ある日、研究所の連中は、被検体00から『Dストーン』を取り出した。利用するだけ利用して、新たな感染者が作れないと分かると、彼女を用済みにしやがったんだ」
 心底憎らしげに、雅積は語気を荒げた。
「さらには、被検体00の石を、今度は美香に埋め込みやがった。石そのものの実験に移ってたから、被検体00のようにひどい実験はされなかったが、途中から感染者が作れないことが分かると、美香自身について実験を始めやがった」
「感染者が作れなかった……? ミカおねえちゃん自身を……?」
 感情が高ぶっているからか、説明が省かれすぎていて理解が追いつかない。
 雅積は、いくらか落ち着いてから、ちゃんと教えてくれた。
「美香が感染者を作れなかったのは、その時にはすでに感染者を作っていたからだ。もう分かるだろ? おまえだよ。おまえが研究所のやつらに知られず感染者になってたから、美香は研究所で感染者を作れなかったんだ」
「おれのせいで……?」
「よかったのか悪かったのか、正直、オレには分からない。美香が、決めたことだからな……」
 どこか寂しそうにそう言って、
「『Dストーン』は力の源だ。今までの実験で、適性者は二〇歳未満の女の子だと分かっている。そして、一度埋め込まれた被検体は、その時点から体の成長が止まるっていうことも、明らかになった」
 ふと、由貴は公園で彼女から話を聞いた時のことを思い出した。
 ――きっとゆうくんも、すぐに変だと思ったんじゃないかな。わたしの体、もうこれ以上、成長しないんだ。だから、最後にゆうくんと会った時から、ぜんぜん成長してない。
 彼女の寂しげな表情を思い出し、胸が痛くなる。
 彼女は、今までどれだけつらい思いをしてきたのだろう。
 どれだけ、その思いを我慢してきたのだろう。
 想像してみて、胸がはち切れそうになって、由貴は沈んだ気持ちになる。
「研究所は、まだ実験を続けるつもりだ。オレはそれが許せなくて、三年前、施設を脱走した。いつか、あの研究を止めてみせるために。何より、ウサギを守ってみせるために」
 力強い言葉の一つ一つから、雅積の決意が窺える。
 彼は、本当に実験を――研究を、恨んでいる。たぶん、心の底から、憎悪を纏っているだろう。
 それと同時に、きっとウサギへの優しい思いも持ち合わせているはずだ。
 そんな雅積を、由貴は、強い人間だと思う。何の遜色もなく、大事な人を思って、実行を起こすことができる彼を、心から尊敬できる人間だと感じる。ウサギにだけ多分に甘いのは、ちょっと考えものだけれど。
「おまえには、揺るがない覚悟があるか? オレたち感染者の力は、多くのやつらに狙われる。これからさらに情報が漏れれば、本当に文字通り、世界を敵に回すことになる」
 今朝からもう、いったい何度覚悟を試されただろうか。
 一度や二度では足りないというように、雅積は力強く問うてくる。
「おまえに、本当に――世界と戦う覚悟があるか?」
 まだ、考えるべきことはいくつもある。
 割り切れないことだって、十分にある。
 けれど、一つだけ。
 これだけは――この思いだけは、何があっても、貫き通せる。
「おれは、ミカおねえちゃんを守りたい。たとえ、世界を敵に回すとしても」
 この信念だけは、絶対に曲げたくない。
 大切な人だけは、絶対に、守り抜いてみせたい。
 雅積の満足げな微笑みを前に、由貴はその決意を固めた。
 七年前からの思い人を、悲しませないように。
 この思いに、嘘も、偽りも、つきたくないから。
 だから、この胸の思いにただ従ってみたい。
 人を好きになった純粋な思いを、見失いたくないから。

 ――二人の会話を扉越しに美香が聞いていたことは、この時の由貴は、気付いていなかった。

天壌の姫 一幕「君が、いるから」 二

天壌の姫 一幕「君が、いるから」 二

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted