天壌の姫 一幕「君が、いるから」
プロローグ いつか出逢えた奇跡(うんめい)に――
まだ幼かった頃、斑由貴(まだら ゆき)には好きな人がいた。
綺麗な人だった。
妖しい紫の髪に、青空のように澄んだ青の瞳。いつも優しく笑いかけてきて、公園の砂場で一緒に遊んでくれた。
たぶん、中学生くらいなのだろう、それぐらいの背丈をしていた。
由貴は、いつも公園で待っていた。
まだ小学生で、学校が終わるのも早かったから、一度家に帰って、三時四時くらいに砂場に行ってその人を待ち続ける。
その人は、私服の姿で公園に現れると、いつも決まって声をかけてきた。
「今日もここで遊んでるの? ゆうくん」
会う度に、そう尋ねられた。
その人は、毎日この公園に来ているわけではなかったから。それでもこの砂場に寄ってくれる回数は、とても多かった。
まさか、由貴が毎日待っているなんてことは知らないだろうけれど……。
由貴も決まって、こう答えた。
「うん。だから一緒に遊ぼ、ミカおねえちゃん」
何回も会って、まるで兄妹のように由貴は思っていた。だから、『おねえちゃん』と呼んでいた。
彼女は、由貴に頼まれたら、嫌な顔なんて見せず頷いてくれる。
「うん、いいよ」
そう言ってもらえるのが、由貴は好きだった。嬉しくて、たまらなかった。
そして、日が暮れるまで一緒に遊んでもらう。別れる時には、ちゃんと「ばいばい」と挨拶をして。
そんな日々は、由貴はずっと続くと思っていた。
『ミカおねえちゃん』が砂場で遊んでくれて、笑っていられて、それでいつか、お嫁さんになってもらって……。
だから、小学生だった時の由貴の夢は、『ミカおねえちゃんのお婿さんになること』だった。
幼いながらの夢だけれど、それぐらい、その人のことが好きだった。
けれど、ある時。
ある日、その『ミカおねえちゃん』が悲しそうな顔で、砂場に歩いてきた。
「ゆうくん、お願いが、あるの」
もちろん、由貴に断るなんてことはできなかった。
「いいよ! お願いって、何?」
頼られて、とても嬉しかった。
何としてでも、大好きな『ミカおねえちゃん』の役に立ってあげたかった。
「あのね、ゆうくんに、わたしの大切な人になってほしいの」
「たいせつな、ひと?」
「そう」
よく、その時の由貴には意味が分からなかった。
だから、深く考えないまま、答えてみせた。
「うん。いいよ!」
そう答えると、そっと顔を近づけられた。
「じゃあ、お姉ちゃんのこと好き?」
唐突だったけれど、迷いなんて一つもなかった。
「うん!」
「本当に?」
「うん!」
こくりこくりと、何度も頷いた。
心の底から『ミカおねえちゃん』が大好きだったから。
すると、もっと近く顔を近づけられて、由貴はドキリとした。
「じゃあ、お姉ちゃんと結婚してくれる?」
結婚、その言葉を、由貴は知っていた。
「およめさんに、なってくれるの?」
「お嫁さん……うん、そうだね、ゆうくんにお婿さんになってほしいな」
「ほん、とうに?」
今度は、由貴が聞く番だった。
「うん」
頷かれて、由貴は嬉しくなる。
何を言ったって、夢が叶ったのだから。たとえ幼い夢だとしても、夢が叶うことは心から嬉しい。
「じゃあ、誓いのキスしようか」
「きす……?」
「そう。あ、ちゅーって言えば分かるかな?」
「ちゅー!?」
由貴は驚いた。でも、すぐこくりと頷く。
好きな人同士がするのだから、間違ってなんかないはずだ。そう思って。
いやそれよりも、その行為を大好きな『ミカおねえちゃん』とすること自体が、由貴にとって嬉しかった。
「じゃあ、するね?」
「……うん」
彼女はしゃがんで、ゆっくりと唇を近づけてくれる。
由貴もドキドキしながら、目をつぶって、唇をちょっとだけ近づけた。
「ん……」
思わず、声が漏れた。女の人の唇は、とても、とても柔らかくて、温かかった。
けれど、それは最初のうちだけだった。
「んんっ――!」
唇が離れる。
とてつもない違和感が、体を襲った。
寒気を感じて、由貴は体を抱いた。何だか、気持ち悪い。
「ごめんね、ゆうくん」
「…………っ」
何で謝られるのか分からないし、そう聞く余裕もない。
青褪めた顔でへたりと座り込んだ時、由貴はそっとあごを上に向けられた。
「本当にごめんね……」
謝りながら、また、唇を近づけてくる。
「ずっと、好きだから……だから、忘れないで」
寒気は消えて、代わりに、再び柔らかい温かさを感じた。
体の内側から、心地がよくなってくる。
その気持ちよさに目を瞑って――不意に開けたときには、
「おねえ、ちゃん?」
大好きな『ミカおねえちゃん』の姿は、どこにもなかった。
「どこ行ったの? ねぇ、ミカおねえちゃん?」
立ち上がって、由貴は探し回った。
ジャングルジムにも登って、公園中を見回して、大好きな人の名前を呼んでみたりもした。
けれど、結局、見つからなかった。
ただ、冷たい夕暮れの風が吹いているばかり。
今日はもう遅いし、とりあえずまた明日、砂場で待ってみようと由貴は思う。
待っていれば、またいつものように、遊びに来てくれるかもしれない。
そう期待したけれど――
――結局、その日を境に、大好きな『ミカおねえちゃん』は二度と現れなかった。
第一話
四時間目の授業は屋上でサボるに限ると、斑由貴は思っていた。
ちょうど太陽が頂上付近に上がっている。少しばかり日差しが強いけれど、その気持ちよさは気だるい授業中の教室よりもずっとマシだ。
ただ一つ、問題点を挙げるとするならば、重大なものがあるけれど。
と、不意に校舎内からチャイムの音が鳴る。この音が鳴った時は、つまり授業の終わりだ。
フェンスにもたれかけて座った由貴は、出入り口の扉へ視線を遣る。
たぶん、いやきっと、今からあそこが開くはずだ。いつものことだから、由貴は確信していた。
すると、チャイムが鳴ってまだ五分と経っていないのに、その扉が乱暴に開かれる。
ずかずかと屋上に踏み入ってきた一人の少女は、由貴の前でふんぞり返り怒ったような顔で見下ろしてきた。
「何サボってんのよ! この馬鹿ゆう!」
怒鳴られる。
キンキンと耳に響く、甲高い声だった。
(やっぱ、こりゃ問題だよな……)
そう、今目の前に立っている彼女に見つかりやすいという点は重大な問題だ。この点がどうにか改善されれば、この場所はとても有意義に過ごせる格好の場所なのである。
「怒鳴るなよ、美菜。考えてもみろよ、この俺が、今日はもう三時間も授業を受けてるんだ。それでもういいじゃないか」
綾瀬美菜(あやせ みな)――由貴にとって中学からの親友だ。女子にしてはおしとやかとはあまり言えないが、健康面などに関しては人一倍気が強い。これは由貴が一年ほど前にようやく分かったことだが、どうやら料理は得意らしかった。
「怒鳴るわよそりゃあ! 三時間受けたぐらいで何言ってるのよ、そんなの当然でしょうが!」
「俺にとっては当然じゃない」
「あんただけよ!」
やれやれ、と由貴は首を振る。
彼にとって、一日受ける授業は多くて三時間、最も少なくてゼロだ。
不良にしてもほどがあると言うのに、彼は自分のことを不良だなんてこれっぽっちも思っていない。
「だって、そんなに授業を受けてたら飽きるだろう? おまえはよくそんなにつまらない話を聞いてられるな」
「それが当然なの!」
「毎日毎日、お疲れさまだ」
呆れたようにため息をついて、由貴は首を振ってみせた。
「まったく、もう……それより、お弁当食べるわよ」
両手に持っていた弁当のうち、右の方を差し出してくる。
だが、由貴は真顔で言った。
「嫌だ」
「はぁ? また?」
驚いたようだが、美菜の反応は慣れていたものだった。
由貴には、弁当を食べたくない日が意外と多くある。
気分的に、とかとはちょっと違う。端的に、腹が空かないのだ。昼だけに留まらず、朝も夜も同じような感じである。何となく、食べてみようかと思う日もあるけれど、なぜだか満腹感は得られない。
中学の頃は給食だったから、仕方なく食べていたけれど、高校に入ってからは毎日弁当にはほとんど手をつけていない。それを心配してくれて、こうして毎日、美菜は弁当を誘いに来てくれていた。
「食べないと、体悪くするよ?」
そう言いながら、美菜は由貴の隣に腰を落とす。
とりあえず由貴に弁当を渡してから、自分の弁当の包みを開いていた。
「腹が減ってないんだから、仕方ないだろう」
「それでも、せっかくゆうのお母さんが作ってくれたんだしさ、ちょっとは食べなよ」
ここでわざわざ朝から弁当を作ってくれている料理人のことを出されると、何も言い返せなくなる。
仕方なく、由貴は弁当の包みを開けるしかなかった。
「っていうかさ、何でお腹空かないわけ?」
箸を進めながら、美菜にそう聞かれた。
「知らないな、そんなこと」
「まったく、おかしな体してるわねぇ」
呆れたように言われて、由貴はため息をつきたくなった。
正直、彼自身、この体質に困っているのだ。明らかに普通ではないし、美菜の言うように、せっかく作ってもらったご飯すらまともに食べることができない。いや、食べることはできるけれど、食欲がぜんぜん湧かないのである。
「ほっといてくれ」
投げやりのように、由貴は返した。
「でも、やっぱどうにかしないといけないって、それ。病院行く?」
「嫌だ」
なぜだか病院の話を出されると、嫌な感じがしてならない。
たぶん、小さい頃に注射を打たれて、それがすごく痛かったことが原因なのだろうと由貴は思っているが、実際のところは分からない。
「仕方ないわね。ゆうは子供だもんね」
「違う、子供なんかじゃないぞ」
由貴の反論に、美菜は呆れた風に冷えた目で見てきた。
「子供じゃないなら、授業ぐらい出なさいよね。後、お弁当ぐらい自分で持ってきなさい」
「無茶なことを言うな」
「やっぱ子供じゃない」
由貴はもう反論はしなかった。
その代わりに、しばらくの沈黙の後、問いを投げかける。
「なあ、思わないか? 何でおれたち、こんなところにいるんだろうってな」
「思わないわよ」
即答だった。
何かしらの沈黙の後、ちょっとした面倒くさい問題を口にし出すのは、由貴の癖みたいなものである。
美菜だって中学からの付き合いがあるのだ、たぶんそれぐらいのことはもう分かっているだろう。何でもなかったように、弁当に箸を進めている。
「何でなんだろうな。ちょっと、不思議じゃないか」
けれど、由貴は止めなかった。
即答で切られるのは、毎度のことだから、もう慣れている。
だから続けるのだが――
「話すなら、もっと楽しい話題にしなさいよ。お弁当が不味くなっちゃうじゃない」
そう言われて、出しかけた言葉を詰まらせた。
それきり、何も言えなくなる。
「そういえば、今日は『マロン』の新刊が出るんだった。ゆう、どうせ暇でしょ? 一緒に来てくれない?」
『マロン』は、最近流行っているらしい少女マンガの月刊誌である。
不意に頼まれて、けれど由貴は首を振った。
「暇じゃない」
「暇なのね。それじゃ、今日の放課後よろしく」
「待ておい」
「そうね、授業終わったら校門で待っててくれる?」
強引に押し切られて、由貴は唖然とした。
いつもこんな感じではあるけれど、やはりあまりに無茶すぎる。
「嫌だ」
「よろしくね」
由貴の意見など、まったく意に介してくれなかった。
それから、また、美菜は弁当を食べ始める。
由貴はため息をつきたくなったけれど、それを押し留めるように空を仰いだ。
「高い、な……」
悠々と、雲が棚引いていた。
「待ったー? って、そんな待ってないわよね」
と、放課後になって十分ほどしてから現れた美菜に、由貴はちょっとだけムッとした。
「待ってないことないだろう。十分も待たされた」
「あんたがサボってるからじゃない」
由貴は帰りのSHR(ショートホームルーム)に出ていない。
だから、放課後になったその時間きっかりに校門で待っていた。
「うるさいな。行くなら行くぞ」
これ以上話していたら、きっとまた子供子供と言われて終わるだろう。
そんな火を見るよりも明らかなことになりたくないから、由貴はさっさと促した。
「うん。場所分かってる?」
「いつもの駅前の本屋だろう?」
その本屋が、美菜の行きつけだということを由貴は知っている。何度も連れて行かれれば、さすがに覚えるものだ。
「そっ。今月号すごいいいところだから、早く買っておきたいんだ」
「そうか。なら、急げ」
とにかく歩き出した由貴に、慌てて美菜がついていった。
「何? 今日、マジで何かあったの?」
由貴の急ぎようがおかしいと思ったのだろう、そう心配そうに聞いてきた。
「ああ。だから、悠長に歩いてはいられないな」
すると、美菜は申し訳なさそうに言ってきた。
「ごめん、それなら、そっちの用事の方に行っていいよ。大事な用なんでしょ?」
「……いや、大丈夫だ」
急いでいるのに、大丈夫だと言う。
訳が分からなかったのだろう、美菜は困惑顔を浮かべていた。
由貴には、確かにこの後、大事な用がある。けれど、それにはまだ、いくらか時間があった。ちょうどそう――本屋に行ってそれから向かえばぴったりいい具合の時間になるほどの。
別に一緒に行かなくなたっていいのだけれど、そこは親友という関係である。口にこそ言いはしないが、由貴にとっても本屋に行くことは、決して悪い時間ではない。
「ほんと? なら、いいんだけど」
納得してくれた美菜と肩を並べて、由貴は足早に歩いていく。
通学路からちょっと外れて進んでいったところに、駅があり、その前に小さめの本屋があった。
そこに入ると、多少埃っぽくはあるけれど、ちゃんと棚に本がずっしりと並べられてある。新刊コーナーに、美菜の目的の本はあった。けっこう分厚くて、表紙にアニメの女の子のイラストが大きく載せられていた。
「あったー! やった、これで今日帰ってから読めるよー。ありがと、ゆう」
ただ一緒に来ただけだから、礼を言われる覚えはないのだが――そう思うけれど、由貴はどこか嬉しかった。たぶん、美菜が笑いかけてきたからなのだろうけれど、あまりに照れくさいからそんなことは考えないようにする。
美菜は月刊誌『マロン』をレジに持っていって、購入してから、由貴のもとへ戻ってきた。
「じゃ、帰ろうか」
美菜はそう言ってから、思い出したように聞いてきた。
「あ、それとも、今から用事の方行く?」
由貴は、ちょっとだけ考える。
「いや、一度帰るよ」
思ったよりも、早く本屋には着いた。
だから、時間は案外余っている。一度、家に帰ってからあの場所に行っても問題はないだろう。
「そっ。んじゃ、行こっ」
「ああ」
促されるまま、由貴は本屋を出る。勝手に開いてくれる自動扉を抜け、表へ出た。
そして、外れた通学路の方に戻ろうと足を向けたのだが――
「なっ――!!」
あまりの衝撃に、足を止めて、声を漏らした。強張った表情は、駅の待合席を向いたまま固まっている。
その視線は、ただ一点を見つめていた。
短い、紫色の髪。そして、よくは見えないけれど、たぶん青い瞳。
いつかの人物の顔が、その人に重なった。
まだ幼かった頃、一緒に遊んでくれたあの人。
結婚を頼んできた、大好きだったあの人。
その人が、今――
「どうかしたの、ゆう?」
不意に横から声をかけられて、そちらを向いた。
それから、もう一度、待合席の方を見てみる。あの人は、本当に――と思ったけれど、さっきまでいたはずの女性の姿はどこにもなかった。
「いな、い……」
呆然とした。何かの、見間違いだったのだろうか。
(あの人が、消えた日だからか……?)
そんなことを考えるけれど、またも横から声をかけられて思考は途絶えた。
「ねぇ、ほんとにどうしたの、ゆう?」
「い、いや、何でもない」
「ほんとに?」
心配そうに疑ってくる美菜に、いくらか呼吸をして、落ち着いてから返す。
「ああ、本当に何でもない」
まだどこか納得し切れていないようだけれど、由貴が歩き始めると、美菜はそれについてくる。
けれど、どうにか表面上は取り繕えても、内面はそうはいかず、由貴の鼓動は早鐘を打っていた。
もし、さっきの女性が見間違いではなかったとしたら。
そうだとしたら、由貴はちゃんと知りたい。
あの人は、帰ってきているのか――と。
夜の風は肌に刺さるかのように、ひんやりとしていた。
空の薄闇の中には点々と小さな星たちが煌き、青白い欠けた月が浮いている。
昔からよく足を向けている公園の砂場で、由貴は佇んでいた。
彼にとって、この場所は一番の思い出の場所である。
友達を上手く作れなかった時期に、あの人に遊んでもらった。
あの人を待って、何分も、何十分も、この砂場で砂の山を作っていた。
「友達を作るのは、今も上手くないけどな……」
自分で言ってて、苦笑した。
小さい頃から、ぜんぜん変わってなんかいない。ただ体が成長して、勉強がちょっとだけできるようになっただけ。綾瀬美菜、という親友ができたりもしたけれど。
でも、美菜だって自分から作った友達ではない。美菜は、ずいぶんと積極的な性格をしている。初めて知り合った時も、向こうから接触してきた。やっぱり、自分から友達を作ることは、由貴は苦手だ。
それは本当に、今も昔も、一つも変わらず。
「おれの一番最初の友達は、ミカおねえちゃんだったのにな」
初めての友達は、歳の離れた相手だった。
心から、いつも彼女を待ち望んでいた。彼女と会える時間を、話せる時間を、幼いながらも切望していた。
「なのに、」
あの時のやるせない気持ちは、今でも胸に刻まれている。
初恋の人が突然いなくなったあの悲しさは、今でも、忘れられない――
「何で、なんだろうな」
一人、呟いた。
思い出すだけでも、胸がきゅっと締め付けられる。あの時、いったい何度悔やんだことだろう。いったい何日、何週間、悲しみに明け暮れたことだろう。
結婚の話まで、頼んできて――さらには、キスまでして。
普通に考えれば、とんでもなく非常識だ。小学生の年端もいかない男の子にキスなんて真似をするなんて。けれど、由貴はそんなことに怒ったりもしていないし、ましてそれが『いけなかった』とは思っていない。
彼は紛れもなく、彼女のことが好きだった。だから、キスをした。そこに怒ったりする理由も、戸惑う理由もいらないだろう。
ただ本当に、彼女が突然消えたことにはやるせなく思っている。
まるで、怒りにも似たものがせり上げて来るような。そんな感じにまで。
と、その時、由貴の脳裏に放課後の光景が過ぎった。
駅の待合席。そこに立っていた、紫色の髪の女性。
(あれは、本当に――)
そう考えようとした時、彼は声をかけられて、思考を断絶させた。
「ゆう、くん……?」
いつか、聞き覚えのある声だった。
優しくて、あの小さかった頃に、この場所で待ち続けた声。
(これは……これは、現実なのか?)
振り返った先に立っていた人物を見て、けれど、由貴は信じられなかった。
あの、少女がいる。
昔、この公園で――砂場で遊んでくれた少女。
妖しい髪に青い瞳を持った、綺麗な思い人。
その容姿は、昔最後に見たときから、何一つ変わっていなかった。あの時のまま、とても綺麗で、ひどく魅了される。彼の初恋の人は、突然消えて、また突然、現れた。
「ミカ、おねえちゃん」
ただ呆然とした。そうするぐらいしか、この驚きに答えられなかった。
すると、彼女は入り口の方から、勢いよく駆け出して、由貴に飛びついてきた。彼は抱きつかれた状態のまま、困惑して、何もできない。
「――今日もここで、遊んでるの? ゆうくん……」
涙ぐんだ声で、そう言ってきた。
それがあまりに懐かしくて、あまりに温かくて、由貴はつい、呆然としながら呟く。
「ミカおねえちゃん……」
もう彼女とは頭一つ分も背丈が違うのに、彼はまだ、そう腕の中の彼女のことを呼んだ。
彼女は一時、ぐしぐしと泣いていたけれど、しばらくしてから泣き止んで、由貴の体からゆっくりと離れた。
「ごめんね、ゆうくん」
謝られたけれど、その声は届いていない。
由貴の驚きは、まだ落ち着いていなかった。
「ゆうくん……?」
不意に、顔を覗き込まれる。
可愛らしい上目遣いの顔が近づけられ、由貴は驚きのあまり体を仰け反らせた。
そのおかげで、意識も我に返る。
「え、あ、ああ……」
思考が混乱している。
正直、彼自身、今の状況が分かっていなかった。なぜ彼女が今になってこの場所に現れたのか、まるで現状が掴めていない。
聞きたいことは、たくさんある。彼女がいなくなって、もう七年もの月日が流れているのだ。それなのに、姿形が変わっていないのはなぜだろうか。そして何より、なぜあの時、突然姿を消したのか。何も言ってくれずに、この公園に二度と来てくれなくなったのか。
けれど、今、何から聞いていいのかがまったく分からない。まず、今彼女が目の前にいることが夢ではないのかとすら疑ってしまう。
「……やっぱり驚いてる? ゆうくん」
そう聞かれて、由貴は何も答えなかった。
「そうだよね。わたし、あんなことしたのに、突然いなくなっちゃったんだもんね。そりゃ、ゆうくんだって怒るよね……」
悲しそうな顔で、彼女は言った。
その顔がひどく痛々しくて、なぜだか胸が引き裂かれそうな心地になったけれど、それよりも由貴は彼女の勘違いを正しておきたかった。
「……怒って、ない。むしろ、嬉しい――また、会えたから」
考えがまとまっていなくて、頭が混乱状態に陥っているから、完全な片言だ。
それこそ、まるで子供のような。
「本当に?」
恐る恐る、彼女は確認してきた。
「ああ」
まだ口調が固い。胸の中で、あの日のことを彼女に問い詰めたい気持ちと、再び会えたことの嬉しさを彼女に伝えたい気持ちがごちゃごちゃになっている。
だが、彼女に抱きつかれたことでその後者の方が強くなった。
「ミカおねえちゃん……!」
ぎゅっと強く、彼女の華奢な体を抱き締める。
彼女の、甘い匂いが。
彼女の体から伝わる、柔らかな温もりが。
とても懐かしくて、涙が溢れそうなほどに、心地がいい――
「まだ、お姉ちゃんって呼んでくれるんだね」
腕の中から、どこか嬉しげな、けれどちょっとだけ悲しそうな声でそう言われた。
でも、今は気にしていられない。彼女の温もりを、彼女の存在を、しっかりと感じていたかった。
それから、たぶん一〇分ほどは経ったかもしれない。ようやく二人は落ち着いて、久し振りに砂の山を一緒に作りながら、話を始めた。
「わたしね、ずっとある研究に関わっていたの。その研究対象が、このわたし」
話を聞いてほしいと言われたから、あえて由貴は口を挟まない。
「その研究はとても大事なものでね、小学生くらいだったかな? それくらいの時から、わたしは研究対象として育てられた。最初の数年、一五歳まではここに居たんだ。ゆうくんのいるこの町に、その時の研究所があったから」
ぺたぺたと、山の斜辺を彼女の手が軽く叩いた。
「それでね、夕方ぐらいになると、いつも外を歩いてきていいって言われてたの。研究所以外、わたしが行くところなんてなかったし、研究所で働いてたお母さんがそれぐらいはさせてほしいって頼んでくれて」
彼女に続いて、遅い作業で由貴は山の形を作っていく。
「そんな時に、ゆうくんに出会ったんだ。ここでいつも、一人で遊んでて、何回か見かける度に、声をかけたくなっちゃった。それで、ゆうくんと遊ぶようになって、夕方になると、時間が許す限り一緒に遊んだ。ゆうくんは初めての友達だったから、一緒に遊べてすごく楽しかった」
「初めて……?」
思わず、由貴は聞いてしまった。
彼女にとっての初めての友達が、自分だったと知って驚愕する。それは、由貴も同じだったから。由貴にとっての初めての友達も、彼女だったから。
「そう。わたしの初めての友達は、ゆうくんなんだよ。わたし、小学校にも行かせてもらえなかったから、まともに子供とお話したのはゆうくんが初めてだった。これでも意外と緊張してたんだよ? ゆうくんに話しかけるとき」
幼かったあの時、彼女がどんな思いで声をかけて来てくれていたのかを考えたことはなかった。いつも自分のことだけを考えて、いつも彼女が声をかけてくれることを待っていた。
そう、あの頃の由貴は、一度も自分から声をかけたことはなかった。たぶん、そう考えたことすら――
「だから、ゆうくんはわたしの一番のお友達。すごく大切な、お友達なの」
嬉しそうに言われると、どこか照れくさかった。
「それから、ゆうくんはわたしの大切な人でもあるの」
彼女の言葉に、あの七年前の光景が脳裏に蘇る。
結婚を頼まれて、キスをして――
その瞬間を思い出すと、顔面が熱くなるほど恥ずかしくなった。
「……でも、わたしはもう、ゆうくんのお嫁さんにはなれない。わたしはもう、ゆうくんと一緒にいるには、相応しくないから」
「どういうことだ? それは」
口調はずいぶんと柔らかくなった。
成長した言葉遣いは、昔とはぜんぜん違うけれど、それを彼女が気にする様子はなかった。
「きっとゆうくんも、すぐに変だと思ったんじゃないかな。わたしの体、もうこれ以上、成長しないんだ。だから、最後にゆうくんと会った時から、ぜんぜん成長してない」
そのおかしなことは、とっくに気が付いていた。どうしてか、までは分かっていなくても、一目見れば『成長していない』という風には何となく分かる。
「けど、何でそれが、一緒にいられない理由なんだ?」
率直に抱いた疑問だった。
成長が止まった。その理由も、理屈も、何一つ分からない。けれど今、簡単に分かることは、そんなものが理由で一緒にいられないなんてことがありえるはずがない、ということ。
そんなことで互いが傍にいられなくなるほど、二人の関係は軟いものではないと由貴は確信している。
「ゆうくん、本当にいいの? わたし、成長しないんだよ? おかしいんだよ?」
砂の山を作る手を止め、彼女が困ったように聞いてきた。
「いいさ、そんなこと。だって、ミカおねえちゃんはミカおねえちゃんのままなんだろ? だったら、おれは変わらないミカおねえちゃんがいい」
「……ほんとう、に?」
「ああ。本当だよ」
由貴の言葉に、偽りなど一つもない。
彼女がいなくなった後も、彼女のことを忘れられなかったのだ。彼女を思うことを、いつまでも止められなかったのだ。なのに今さらになって成長しないからという理由だけで、彼女がどこかにまた消えるなんてことは許さない。
「じゃあ、本当に傍にいていいの?」
「ああ」
由貴が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
それを見ていて、由貴まで嬉しくなってきて、何だかまた照れくさくなってくる。
「……でも、やっぱり、一緒にはいられない」
不意に、またそんなことを言われた。
悲しそうな顔で、目を伏せながら。
「何で?」
「だって、わたしは――」
と、突然、目を開けた彼女が慌てたように立ち上がった。
どうしたのだろうか、そう彼女に聞く前に。
ゴヅンッ! という音が耳に届いて、後頭部にとてつもない激痛が生じた。
そのまま、由貴の意識が薄れていく。体が前のめりになって、砂の上に頬が落ちた。
その最後、まだ未完成だった砂の山が誰かに踏まれる光景を見た。
目を覚ますと、頬に小さな粒のざらつきを感じた。
ひんやりとしていて、冷たさはまるで氷のようである。
「っ……!」
ガンガンと頭を思い切り揺らされているような鈍痛に苛まれながら、由貴は上半身を起こそうとした。
が、誰かに体を押さえつけられているようで、砂の感触に捕らわれたまま、身動きが取れない。
そこに、頭上から声が落ちてきた。
「こちらB-1(ビーワン)、対象と接触した少年の身柄を確保。気絶から復帰後、問題は見られない。回収を頼む」
由貴は眉を顰める。
頭痛のせいで上手く考えを巡らせられないが、この状況がどことなくとも非常に危険であることは分かる。
なら、とるべき行動は一つだけのはずなのだが、それはできそうにもないので、別の行動を考えることにした。手は後ろ手に取られているから、無理に動かせば危ないことになりかねない。
かと言って、地面に押し込まれたこの状態で体を動かすこともできない。
(どうすれば、逃げられる……)
と、すぐにそう思ったけれど、
(そういえば、ミカおねえちゃんはどこだ? どこにいる?)
不意に、どこにも彼女の姿がないことに気が付いた。
公園の入り口のところに、数人の黒ずくめの連中が立っている。恐らく、由貴を押さえ込んでいる人物もそんな格好をしているのだろう。
だが、由貴はそれよりも、男たちが持っているものに目を剥いた。
銃である。
ハンドガン、と言うのだろうか。
どこかで見たことのあるフォルムの銃を携えて、連中は見張るようにその場から動かず周囲を警戒している。これは、いったい何のドラマなのだろうか。そんな惚けた冗談が、頭の中に浮かぶ。
(まさか、ミカおねえちゃんは……)
彼女は、もしかしたらあの連中に連れて行かれたのかもしれない。
まだ頭は痛むけれど、緊張のせいで頭が動かなくなるよりはずいぶんとマシだ。
冷静になって、考えてみろ。そう彼は思考の中で念じる。
どうして、彼女は今になって現れた。
どうして、彼女はこの公園に来てくれた。
どうして、彼女は自分の前に姿を晒してくれた。
……分からない。何一つ、分からなかった。なぜ今か、なぜこの場所か、なぜ自分なのか。
何の見当もつかない。
と、そう失念しかけた時、彼女の言葉を思い出す
――わたしね、ずっとある研究に関わっていたの。その研究対象が、このわたし。
彼女は、確かに研究という単語を言った。
その対象が、彼女であると言うことも。
では、なぜ今も研究が続けられていない?
なぜ、彼女はこんなところにいる?
なぜ、そんな彼女が自分の前なんかに現れて。
なぜ、こんなにも怪しい連中がこんな場所に来て。
なぜ、その彼女が、今どこにもいない――?
(まさか、逃げてきた、のか?)
研究が嫌になって、それで自分の元に訪れたのではないか。そんなにも自分が頼られる力強い人間だとは彼は思っていないけれど、彼女は由貴が一番初めの友達だと教えてくれた。
なら、友達を頼るのは当たり前ではないか?
それも、その友達がたった一人の、一番目の友達だったというのなら。
(遅ぇよ……本当に遅いってんだよ、おれ)
どうして気付いてあげられなかったのか、そのことを先に聞いておかなかったのか、そんなことすら考えてあげられない自分に嫌気が差す。
いつも、彼女は声をかけてくれたのに。
なのに、何で自分は声をかけてあげられない?
(ふざけるな!)
自分自身に、怒りが込みあがった。
そんな自分で、いい訳がない。気付いてあげられなくて、声もかけてあげられなくて、そんな弱い、臆病な自分でいいはずがない。
だから、由貴は考える。
考えて、考えて、この状況を打破するための術を、彼女を助けてあげるための術を、死に物狂いで考える。
(何か、何かあるはずなんだ……ミカおねえちゃんを助けてあげられる方法が、何か!)
と、そう頭の中で試行錯誤している最中、彼は強烈な爆発音に複雑な思考の糸をすべて吹き飛ばされた。
「なっ、何だっ!」
慌てた声が、頭上から降ってくる。
由貴の手を拘束していた力が、その一瞬、ほとんどと言っていいほど弱まった。
その隙を逃すことなく、彼は立ち上がる。
やはり黒ずくめの服装をして、顔までもを隠した男(声で判別できる)が、彼の手を拘束していたようだった。
その男の手を、今度は由貴が後ろで絡め取る。持っていた銃は先に叩き落し、できるだけ手早くその作業を終えた。
「貴様っ!」
捕らわれた男が、声を上げる。
まだ頭痛はしているから、その声が頭に響いた。つい捕まえている手の力が弱まってしまいそうだけれど、何とか男の抵抗も凌ぎ切って、ちゃんと動けないよう拘束する。
「一つ、聞きたい。ここにおれといた少女は、どこに連れて行った?」
そう質問すると同時、ようやく爆発音の合間に仲間が逆に拘束されていることに気が付いた見張りの連中が、皆揃って銃口を向けてきた。
質問に答えてもらう前に、邪魔が入る。
「そこの少年、抵抗をやめて今すぐ我らに従いなさい」
一人が銃を構えながら、そう命令してきた。男の声だ。
けれど、そんなものに聞く耳を持つ必要はない。
「早く答えろ。どこだ?」
捕らえている男を急かす。由貴にとって、その情報こそが最優先事項である。
「誰が、貴様なんぞに答えるものか……」
そう言われて、由貴は手に一層と力を込めた。
「……っ!」
後ろ手に手を絡めとられているのだ、力を入れられて腕を引っ張られれば、相当な痛みが腕と肩を襲う。
「ひ、被検体01(ゼロワン)は、貴様ごときにやるわけにはいかん、のだ……」
「被検体、01?」
たぶん、研究における彼女の呼び名なのかもしれない。
(名前すら、呼んでもらえないのか?)
苛立ちが込み上げてきた。
彼女の名前すらろくに呼んであげないような人間たちが、いったいどんな研究をしているというのか。そのせいで、どれだけ彼女が傷ついて、我慢してきたというのか。
そう考えると、居ても立ってもいられない。
こんな連中に、二度と、彼女を渡してはいけないのだ――
と、不意にまたも向こうで銃を構えたあの男が、声をかけてきた。
「我々は発砲を許可されている。大人しく従わないのであれば、我々は実力行使に移るぞ」
ちっ、と由貴は舌打ちする。
さっきからずっと、この邪魔のせいでまともに聞き出せないのだ。
鬱陶しいことこの上ない。
それに、発砲を許可されているというのもハッタリに決まっている。
きっと、こちらを怖気させるための嘘(ブラフ)でしかないのだ。そうでなければ、こんなところで発砲できるなどと馬鹿なことは言わないだろう。第一、銃を持っているだけでも銃刀法違反ではないか。研究所というのはもしや犯罪組織なのか? いや、そんなはずはないし、何より、こんなところでもし発砲すれば――
パンッ――! と、乾いた音が響いた。
瞬間、由貴の頬に一筋の血が伝う。
「後、五秒だけ待つ。その間に、両手を挙げて膝をつけ」
信じられないことに、目で捉えられない速度で何かが頬を裂いた。
(ほん、とうに……撃ったのか?)
こんな場所で。おかしな音がすれば、すぐに人が集まるような、こんな公園で。
――本当に発砲するなんて、異常(イカ)れてやがる!
「五」
カウントを始めた男は、油断なく銃を構えている。
逃げることも、まして素人である由貴が上手く人質を有効活用できるはずもない。
「四」
いくら考えても、この状況をどうにかする術は見つからなかった。
それでも考えようとするけれど――
「三」
刻々と時間は短くなっていき、由貴の額にじっとりと嫌な汗が滲む。
もう、考えられはしなかった。
「二」
由貴は諦めて、拘束していた男を解放する。
これ以上、どうしようもなかった。
言われたとおりに両手を挙げ、砂の上に膝をついた。
「――一」
しかし、男がカウントを終えたその瞬間。
再び、あの音が鳴った。
銃口から火が吹き、弾丸が射出される。その認識すらできず、由貴は右の肩を撃ち抜かれた。
「ぅ、がぁ……」
声にもならない痛み。
血が体内から流れ出るのが分かる。痛みが、全身に駆け巡るのを感じる。
(ふざ、けんな……何だ、何なんだこれはっ!)
すべてが狂っていた。
人も。
場所も。
この、痛みも。
(何で誰も来ない……? これだけ銃声が鳴ってるなら、誰か見にきてもおかしくは……)
考えて、けれど途中で、止める。
ちゃんとこういう状況について知っていたなら、すぐ気付くはずだ。こんなことぐらい――すでに人払いがされていることぐらい、少し事前に知識を持っていれば誰だって簡単に分かる。ゲームでもマンガでも何でもいい、こういう場面(シチュエーション)は必ず、人なんかいつまで経っても現れない!
「おまえは、感染者としての被検体になってもらう貴重な資料(サンプル)だ。そこで、大人しくしていろ」
由貴の肩を撃った男が、近づいてきて、そう声を落とした。
痛みに蹲りながら、ただ悔しくて、涙を流す。
痛いから、涙が出た。
悲しくて、悔しいから、涙が出た。
(何で、何でおれは……)
心の嘆きが聞こえる。
心から、本当に、自分自身の弱さを嘆いていた。
(――おれは、こんなにも無力なんだ……!)
誇り(プライド)なんてものはいらない。
弱い自分なんて、いらないのだ。
力がほしい。
自分を捨ててでも、何をしてでも、力がほしい。
守ってあげられる力が。
助けてあげられる力が。
(ミカおねえちゃんを、絶対に、悲しませない力が――!)
そう思った、その瞬間。
由貴は腕をとられる。動かない右腕も容赦なく、持ち上げられる。
「運べ」
あの男が、そう由貴の腕を持ち上げた二人に命令した。
右肩が、痛くて痛くて堪らない。
けれどそれよりも、心が痛くてどうしようもない。
大事な人を守ってあげられなくて。
こんなにも無様に、彼女だけでも助けてあげられず、みすぼらしく敗北(ま)けて。
(ふざけるな……)
まだ、終わったわけではない。
これで終わらせるなんて、やり切れるはずがない。
(まだ、まだおれは、)
体を動かそうとする。二人に引き摺られる最中、右足を立てる。
(まだ、おれは、こんなところで、)
震える右足に続けて、
(まだ、終われない――!)
左足を立てようとした、その時。
強烈な閃光が、目の前を埋め尽くした。
一拍遅れて、低い、雷鳴が轟く。
急に体が軽くなって、由貴は地面に倒れた。腕を持っていた二人が、突然離したせいで、重心が前に傾いたのである。
「こ、これはっ! 全員、即座に構え直せ! 各自、発砲を許可する! 被検体03とその感染者を確認し次第、各自対応せよ!」
慌てた声が聞こえて、ほぼ同時に光が薄っすらと消えた。
少しだけ目が眩むけれど、何が起きたのか、それを確認するためにつぶったりなどしない。
すると、不意に上から声をかけられた。
「斑由貴、おまえはこんなところで死にたいと思うか?」
その声に、由貴は頭を上げる。
それでも足元しか見えなくて、どうにか立ち上がろうとしたけれど、右腕が使えなくて上手くいかない。
「死にたいと思うなら、死ねばいい。だが、守りたい女がいるなら、そいつのために命を賭けろ」
ハッと我に返る。
守りたい女。
由貴には、その女性(ひと)がいる。
守ってあげたい、大切な人がいる。
「後は、おまえ次第だ」
男の足が駆け出した。目の前から、その足が消える。
気付けば、由貴に助言してくれた男の声とは別の、彼が待ち望んでいた声が聞こえてきた。
「ゆうくん!」
彼女の声。
助けに行ってあげたかった、彼女の声が耳に届いた。
彼女は駆け足で近づいてきて、由貴の体を仰向けにしてくれる。
「ゆうくん! ゆうくん!」
上半身を起こしてもらって、何度も名前を呼ばれた。
「ミカ、おねえちゃん……」
疲労のせいか、肩の傷が痛むせいか、かすかにしか声が出ない。
そんな自分の情けなさを心のうちで悔しく思いながら、彼は彼女の無事を喜ぶ。
(よかった、ミカおねえちゃんに、何もなくて……)
けれど今は、そう安堵していられる場合ではない。
さっきの男の姿はどこにもなく、少し離れたところであの黒ずくめの連中がこちらに銃を向けている。
「ミカおねえちゃんは、逃げるんだ……早く逃げて、安全なところに隠れてくれ」
せめて彼女だけでも。
大事な人だけでも、生き残ってほしい。
でも、その『大事な人』は首を振った。
「わたし、ゆうくんを置いて逃げたくない。ゆうくんがいなくちゃ、意味がないの」
「けど、今は……」
そう、今はそんなことは言っていられない。
今――今だからこそ、彼女に逃げてもらわないと困るのだ。
「わたし、ゆうくんが好き」
突然、そう言われて、由貴は驚いた。
早く逃げてくれと口を開こうとするけれど、それよりも早く、
「だから、ゆうくんに死んでほしくない。わたしには、ゆうくんが必要なの……」
だから、と彼女は続ける。
「――だから、ごめんね、ゆうくん……」
唇が触れた。
柔らかくて、温かな。
由貴は、前にも一度、この感覚を知っている。
温かくて、心地よくて。
七年前の光景が、脳裏に蘇った。
あの時も、彼女は幼かった由貴に「ごめんね」と謝った。
今度も、彼女は謝りながら、キスしてくる。
けれど今度は、あの時のような違和感は生まれなかった。
これは違和感ではない。
胸の底から、心の底から、湧き上がってくる何か。
それは、由貴が渇望していたものだ。
無力な自分を捨てるための、彼の武器だ。
心臓が一際強く、ドクンと脈打つ。
唇を重ねながら見開かれた目は、溢れてくる力の強大さに視点を定めていない。
やがて、その目に赤い光が浮かび上がった。その光は、彼の瞳に六つの点を定め、線で結ぶ。
彼女との口付けが終わった時――
その時、すでに由貴の意識はなかった。
天壌の姫 一幕「君が、いるから」